EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

令和元年・秋山兄弟生誕地、研究員館外研修 於愛媛県護國神社

2019年10月24日 | 伊予松山歴史散策

秋山兄弟生誕地で奉仕活動をしている、研究員は毎年館外研修を行い観光にお越しになった皆様をご案内いたすため研鑽しております。

今年度の研修地は、令和元年10月21日、(令和天皇即位の礼の前日)愛媛県護國神社で開催いたしました。

先ず研究員全員で、正(公)式参拝を行った。
宮司が祝詞を述べる中に「秋山兄弟生誕地の研究員一同」が参拝にこられたと述られ参拝が終わると巫女さんからお神酒を頂き引き出物を頂戴した。(画像参照)

 正式参拝とは、賽銭箱前で拝んだり、ご祈祷を受けたり等とは違い、拝殿に参列してお祓いを受け、祝詞を聴き玉串を捧げて拝礼する正式な参拝作法によって行われる神事のことです。
正式参拝後、護國神社境内に建立されている、秋山好古が揮毫した石碑「天壌無窮」を拝観、この石碑の建立経緯を私が説明した。

そして新しく終戦70年記念事業の一環として、本殿西側に建てられた「御幸殿」に移り、宮司から説明を受け、2階の会議室で研修会を行った。
GHQ司令で撤去対象となった秋山好古揮毫の石碑2基と扁額2面の説明を行い、今年12月までの行事と、令和2年の開館と休館日、秋山好古生誕祭・秋山眞之の生誕祭開催日時の確認を終え研修会を終えた。

 昼食を道後温泉の「山の手マリアジュガーデン」で行い食事の後、秋山好古の墓参をして散会した。
今回は護國神社での館外研修は有意義な研鑽が出来ました。

詳細は画像をご覧ください。

参集所から見た護國神社神門。

護國神社神門から見た拝殿で、この拝殿・本殿で正式参拝を行った。

 愛媛県護國神社の配神御祭神は

 社会公共のために尽くして公務に殉職、また産業文化に貢献の先賢諸士之神霊 49,728柱が祀られている。

本殿に掲げられている扁額「護國」で昭和28年10月、再建造営中に、高松宮宣仁殿下がご参拝にお越しになり、その時揮毫され護國神社の社の宝としている。・・と宮司さんから説明を受けた。

高松宮宣仁殿下はよっぽどのことがないと揮毫はされない殿下で、貴重な扁額だそうです。

正式参拝後、巫女さんからお神酒を頂き、そして引き出物を頂戴して参拝は終わった。

引き出物の中身で

※お神酒

※御神菓(金平糖)

※愛媛県護國神社の社報(令和元年10月10日付)

※愛媛県護國神社の栞

参考事項

愛媛県護国神社は、

明治32年   4月16日、温泉郡道後村持田(現松山東警察署付近)に招魂社として創建。

大正 2年10月 3日、愛媛県松山農学校設立のため新立町の多賀神社に移設。

昭和14年10月 9日、現在地(松山市御幸町一丁目476番地)に遷座社殿竣工。

昭和15年、勝山町(現在地に松山東警察署が新設のため松山農業学校は樽見町に移設。(現、愛媛大学農学部)

昭和20年 7月26日、松山大空襲により社殿焼失。

昭和30年10月 1日、現社殿竣工。

平成28年 9月20日、御幸殿完成。

護國神社境内、参集所右側に再建立された、秋山好古が揮毫した「天壌無窮」の石碑。

 この石碑は、昭和天皇の即位の礼(御大典記念)と松山市立清水小学校開校記念に昭和3年清水小学校校庭に建立された。

昭和20年8月30日、沖縄から5時間かけてマッカーサー元帥は厚木に降り立ち、そして五大改革を発令し、日本の戦後処理が始まった。

財閥解体・農地解放・労働者の民主化等・その内の一つとして連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による改革の一つに教育改革が行われ、教育施設内にある軍人が揮毫した石碑や扁額の撤去命令が発令されその対象となった秋山好古が揮毫した石碑が2基・扁額が2面あった。

その一つが、清水小学校校庭に建立されていた「天壌無窮」である。

昭和20年11月、GHQの命令により撤去された石碑は、平成7年まで同小学校の用具室に置き去りにされていた天壌無窮を、愛媛県護國神社波(は)爾(に) 荘(さかえ)宮司さんが見つけられて、平成7年10月、清水小学校の了解を得て護國神社境内に再建立をした。

いい方に見つけて頂き、護國神社境内の最高の場所に再建立して頂いた幸せな石碑です。

碑石が割れているのは、撤去作業時に破損したものである。

なお、醵金建立した先生方の名前が碑石裏面に刻印してあったが、風化し消えて見えない。
 

石碑「天壌無窮」を拝観する秋山兄弟生誕地研究員。

昭和16年3月、國民学校が公布され教育の目的は、「皇國ノ道ニ則りテ初等普通教育ヲ施し國民ノ基礎的練成ヲ為スヲ以テ目的トス」(第一条)とあって、「皇國ノ道」とは「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スル道」と意味づけされたと言う。・・天壤無窮の碑文碑が校庭にある事がGHQに注意され、司令長官命令で石碑が撤去されたという。

碑文解釈⇒天地とともに永遠に続くこと。天地は永遠に極まりなく続くこと。

石碑「天壌無窮」の拝観後記念の写真を撮る。

石碑裏面に奉祝昭和・・・御大典並開校記念の文字が見える。

醵金をした先生方の氏名は風化して判読出来ない。

昭和3年清水小学校開校記念に建立された当時の石碑「天壌無窮」の写真。

平成28年9月20日、終戦70年記念事業の一環として建てられた御幸殿で、本殿西側に建てられ、鉄筋コンクリート造2階建ての延べ床面積約700平方メートル。
社務所を兼ね備え、授乳室を設え、待合所や200人規模の会議が開ける部屋がある。

1階に戦没者の遺品などを展示し、平和の大切さを未来に伝えていこうと、愛媛県護國神社
の御幸殿に「祈念史料室みゆき」が開設され入場無料。

同神社の終戦70年記念事業の一つとして企画され、これまでに約2200人の遺影、約600通の戦地からの手紙をはじめ軍服などの遺品約2千点の寄贈を受けた。史料室では、このうち約200点を公開し、整理されたものから定期的に入れ替える。史料はアーカイブ方式で記録するため、映像でも閲覧が可能という。開館は午前9時~午後4時。12月25日~1月15日は休館。無料の駐車場がある。

同神社の終戦70年記念事業の一つとして企画され御幸殿について1階で宮司さんから説明があった。

終戦70年記念事業の一環として建てられた御幸殿「祈念史料室・みゆき」の入口。

「祈念史料室・みゆき」に展示してある貴重な資料を拝観した。

「祈念史料室・みゆき」に展示してある貴重な資料の一つ、昭和20年7月26日午後10時過ぎから始まった松山大空襲で投下された焼夷弾。

「祈念史料室・みゆき」に展示してある貴重な資料の一つ。

「祈念史料室・みゆき」会議室での研修の一部。

 GHQによる改革の一つに教育改革が行われ、教育施設内にある軍人が揮毫した石碑や扁額の撤去命令が発令されその対象となった秋山好古が揮毫した石碑が2基・扁額が2面あった。

その一つが、清水小学校校庭に建立されていた「天壌無窮」で、あとの一つが画像の「忠魂碑」である。
宇和島市立喜佐方小学校にあった「忠魂碑」でGHQの命令で撤去された。

その時安楽寺の住職奥山昭典さん曰く、「私が罪を被る命を掛けてでも我が寺に引き取り再建立して護って行く」と言われそれから安楽寺が護って来た。

この石碑は、一昨年県外研修時に拝観しました。

なお、奥山昭典住職は教育者で、宇和島市立簡野道明記念吉田図書館の初代の図書館長をされた。

 

GHQの司令で撤去された秋山好古揮毫の扁額「質実剛健」。

 大正14年、照宮成子(東久邇 成子)親王御誕生記念にと、愛媛県立松山農業学校(後の、愛媛大学農学部付属農業高等学校・現、愛媛大学付属高等学校)から揮毫依頼を受け秋山好古が揮毫した質実剛健の扁額。

この扁額は、職員室に掲示されていたが、昭和20年11月、GHQの命令で扁額は撤去されることになった。

撤去された扁額は、額から外され箱に入れられ保管されていたが、平成17年10月、私の知人である愛媛大学農学部付属高等学校の久山副校長から、秋山兄弟生誕地に寄贈しますが如何されますかと連絡があり、寄託の形で譲り受け、新たに額を新調し、現在秋山兄弟武道場に掲示し来館者に鑑賞してもらっている。

質実剛健は、絹の布地に揮毫されていて、和紙でなく布地に揮毫するのは大変であったと思われる。

扁額裏面に、大正14年照宮成子親王御誕生記念と記載されている。

愛媛県立伊予農業高校の扁額

 扁額の読みは=研精而不倦・けんせいしてうまず・・(心身ともに磨き、怠けず、精進努力をする)

途中でやめることなく、何処までも勉強し尽くす・・の意味の扁額で、愛媛県立伊予農業高等学校の職員室に掲示してある。

 この扁額も、昭和20年11月、GHQの命令で扁額は撤去されることになった。
平成25年3月20日、愛媛県立伊予農業高校の日山先生から秋山兄弟生誕地経由で私に連絡があった。


大洲市長浜の三島神社に秋山好古さん揮毫の石碑がありますがご存知ですかと、日山先生も個人的にいろいろな石碑の調査をされているようでした。

私としては、未調査の石碑であったので同年4月4日、現地に調査に行った。
そしてその後、伊予農業高等学校にお礼に行くと、職員室に秋山好古揮毫の扁額が掲示してあった。

同校の岩村校長先生(現、松山商業高等学校長)曰く、どの様な経緯で秋山好古さんに揮毫を依頼したのかは不明ですが、GHQの命令で撤去され、当時の校長先生が、自宅に持ち帰り保管され、戦後、もとあった学校に掲示し現在に至っていますと伺った。

いろんな方々が廃棄するのでなく、その時の関係者が心を籠めて揮毫し、建立し、掲示され大切に保存されていたものを、それを引き継ぎ、現在も存続しているこの気持ちが大切であり、これぞ日本人魂(大和魂)であると感じ入るものです。

肩書に陸軍大将がないと言う事は、

昭和4年4月1日退役した以降に揮毫したのかも??である。

 終戦後、日本を占領下したGHQの一番の目的は、日本人から愛國心を奪い、日本人の精神を弱体化させる事」 が重要な使命、任務でよくGHQの洗脳政策とも言われた。

昭和14年10月9日、多賀神社から現在地の松山市御幸町に遷座社殿。

この社殿は昭和20年7月26日、松山大空襲で焼失した。

現社殿は昭和30年造営された。

頂いた愛媛県護國神社の資料の一部。

護國神社境内に松山市立中央図書館が管理運営する移動図書館「つばき号」の巡回日程表が開示してあった。

全国の護國神社で移動図書館が巡回してきて図書の貸出返却業務を行う場所を提供しているのは愛媛県護國のみではないでしょうか??。

駐車場として許可したのは、波爾 荘宮司さんでした。

松山市立中央図書館は4台の移動図書館つばき号が松山市内を巡回し図書の貸出返却業務を行っている。

愛媛県護國神社での研修会を終わり、道後温泉の「山の手マリアジュガーデン」で昼食を頂いた。

昼食後、秋山好古の墓参をした。

鷺谷墓地の墓参路の案内石碑。

秋山好古の墓を清掃。

松山市鷺谷墓地にある秋山好古の墓は、秋山宗家の許可を得て東京の青山墓地にある遺骨を分骨して松山の有志が建立した。

なお、秋山家宗家の祖先の墓はここにある。

沼田研究員が般若心経を唱え研究員一同が墓参。

秋山好古の両親の墓参りをして令和元年の館外研修を無事終えた。

合掌。

 

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満州 その3終わり(終戦前後・私の追憶)

2019年10月10日 | 伊予松山歴史散策

関東軍精鋭部隊が満州を後に米軍の海兵隊に相当する部隊、海上機動兵団が編成され出征した。
残された家族たちは、昭和18年暮れに内地に引き上げた。私にとっては未知の地である。

私たち家族は、ハルピンから特急アジア号で大連に移動、大連港から門司港に客船で、前方と後方に駆逐艦が護衛して途中訓練があったそうですが門司港に入港し故郷に帰った。
私は4歳であったので何も覚てはいない。

上陸した家族たち、熊本県の稲葉さん、宮崎県の濱田さんとは門司港で別れ、私と母は母の実家である愛媛県温泉郡川上村北方(現、東温市北方)に帰り私が小学校に入学するまで暮らした。
その間記憶に残っている事を箇条書きに書いてみた。

1、      東温市北方の大宮神社境内で国防婦人会の皆さんが松山歩兵連隊から派遣されて来た兵士の指導で竹槍の防衛訓練が行われていた。(竹槍で戦うのかと思った。)

2、      米海軍艦上戦闘機、F6Fグラマンの飛来、海軍松山航空隊の源田実隊長率いる紫電改が飛び立ちこれを迎え撃ち一級河川重信川上空での空中戦を見た。

3、      昭和20年7月26日、松山大空襲、愛大医学あたりが燃えていた感じで非常に近くに感じた。

4、      母の実家である名越座で被災した松山市民の炊き出しをし、トラックで搬出していた。

5、      米軍機が飛来しチラシの投下(終戦の知らせか?)

6、      米軍兵士がジープでやって来て、ガムやチョコレートを子供たちに配っていた。

7、      父の戦死通知。

8、      小学校(温泉郡久米村立久米小学校、現、松山市立久米小学校)入学のため父の実家(温泉郡久米村大字福音寺)に転居。内地に引き上げた以降の写真は何もない・・撮影するカメラがないため。

靖国神社にて:平成7年4月5日。

斥侯隊員のお一人東京都西多摩郡在住であった野村元軍曹さんである。

野村元軍曹から親父の最期を詳しく話を聴き、父の親指の爪を切り取ったのは赤松伍長であったことも知らされた。

私が父親の遺骨収集に行くから案内して欲しいと頼まれても大密林の中で現場まで辿り着く事は出来ませんし地理的に不明です。
お父さんを置き去りにして申し訳なかったと誤りの言葉が返って来た。

紹介する観音菩薩は、下記によるものである。

観音菩薩は、海上機動兵団の隊員として西部ニューギニアで戦死された方々の英霊のご冥福をお祈りし、世界恒久平和と人類の幸福を祈念して昭和62年6月に西部ニューギニア(インドネシア)のソロン市バナナ台慰霊碑苑に建立したソロン観音菩薩像である。
平成15年8月、心無き現地民により、光背・両腕・両衣・を破壊され盗難の大被害の惨事にあい、以後ソロンに安置する事が出来ないと判断され、日本に持ち帰り修復し再入魂(地元住職により)、平成16年4月25日に愛媛県西宇和郡伊方町田部越に再建立されたソロン観音菩薩立像である。
眼下に宇和海を望み英霊が眠る西部ニューギニアを遠視し英霊を見守っている。

ソロン観音菩薩立像再建立された所在地は:
愛媛県西宇和郡瀬戸町田部、国道197号線沿い・伊予鉄バス田部越バス停横に建立されている。

 

平成15年8月、異教徒の暴挙により大損害を受けたため、在ソロン水産会社邦人の協力を得て、富山県高岡市に帰還修復後、洋上遥か南溟の地、ソロンに続く宇和海の景勝を望む佐田岬の高台に再建立、開眼法要前の観音菩薩像と開眼法要準備をする関係者。

観音菩薩像の台座に埋め込まれた説明版。

ソロン聖観音菩薩像の由来の説明石碑。

 

観音菩薩台座に刻印されている関係部隊名が揮毫されている。
建立場所は、国道197号線の直ぐ傍に建立されている(伊予鉄バス田部バス停の直ぐ近く)・・当初の建立は、瀬戸町にある「道の駅瀬戸農業公園」に建立をお願いした。しかし瀬戸町の許可が下りず困っていたところ、地元の有志家が建立地の提供申し出がありこの地に建立出来た・・御国の為に尽くし、命を捧げた方々の英霊をお祀りの意味を篭めて造り上げた観音菩薩、何故瀬戸町議会は反対したのでしょう??軍人を祀る事に抵抗があるの??心が無い!!

 

 

米軍の海兵隊に当たる部隊として、わが国で初めての4個の海上機動旅団が昭和19年3月31日に陸軍の作戦命令で、主力関東軍で編成された。

第二旅団は当初はシンガポール作戦に参戦するはずであったが命令変更により西部ニューギニア戦線に変更されソロンに上陸し3000名の兵士が戦死した。生存者は昭和21年5月25日に帰還復員された。
海上機動旅団第三大隊第一中隊(エフマン島で活動)で無事帰還復員された皆さん方はエフマン朋友会(代表 物江啓止氏)を結成し一昨年まで全国各地で戦死した戦友の慰霊を兼ねた会合をされていたが高齢のため中止された。

私も遺族として13年前から参加していた。私の父親は海上機動第三大隊第一中隊第一小隊長で昭和20年4月28日将校斥候途中米軍と遭遇し戦闘状態となり密林の中で戦死現在も西部ニューギニアの密林で眠っている。親父以外の斥候隊員は全員無事司令部に帰還され復員された。親父の戦死状況は、エフマン朋友会の斥候隊員の方から聞き始めて詳細が分かった。今から僅か13年前の事である。

海上機動旅団第2旅団機動第3大隊の活動した地図と記述の一部。

平成18年5月18日、エフマン朋友会(代表 物江啓止氏)開催を松山市で開催したいので私に幹事をして下さいと連絡を受け開催した。
松山開催の理由は、私の父の慰霊と墓参りが目的であった。

その時の慰霊の言葉である。

我が家で父の慰霊をして頂きその時に歌われた「南海よさらば」の歌詞である。

父親の位牌がある仏壇に向かって礼拝し般若心経を捧げる、東原 保氏。

若き日の、東原 保さんで、満州関東軍第225部隊、当時22歳の時。

旧関東軍部隊の方々・・親父の墓参をして頂きました・・皆さん当時は20過ぎの若者大事な青春をお国の為に捧げた・・お元気で長生きをして下さい、写真右二人は二世です。
親父の墓の右側に、秋山好古と陸軍大学校一期生同期の仙波太郎の墓所がある(陸軍の三太郎:宇都宮太郎・桂太郎のち内閣総理大臣・仙波太郎)

終戦は昭和20年8月15日だが西部ニューギニアから内地に復員出来た兵士の方々は、昭和21年5月6日であった。帰りの船はオランダの船で名古屋港に上陸した。この間は連合軍が準備した仮設の収容所で生活した。仮設収容所建設は連合軍の指示で日本兵が造り、あまりにも早く上手に造り上げたため驚いていたそうだ。

 

親父の墓参の後、皆さんを秋山兄弟生誕地にご案内、秋山好古騎馬像前で記念写真、秋山兄弟生誕地事務局が元関東軍の皆さんがご来館と言う事で日章旗を用意して頂きました。

エフマン朋友会代表の物江啓止氏は、ニューギニアから復員後、出身地である福島県耶麻郡高郷村の教育長をされた方で、秋山兄弟生誕地を見学後立派なご挨拶をされました。

 

親父の墓参の後、皆さんを秋山兄弟生誕地にご案内、秋山眞之胸像前で記念写真、秋山兄弟生誕地事務局が日章旗を用意して頂きました。

 

愛媛県西宇和郡瀬戸町田部、国道197号線沿い・伊予鉄バス田部越バス停横に建立されているソロン観音菩薩立像をお参りした。

 

 

 平成8年5月31日、斥侯隊員のお一人東京都西多摩郡在住であった野村元軍曹が慰霊に行かれた西部ニューギニアのソロン島。

 

 

平成8年5月31日、斥侯隊員のお一人東京都西多摩郡在住であった野村元軍曹が西部ニューギニアのソロン島に慰霊の旅に行かれた時の姿。

  

 

ソロン島にたてられた卒塔婆。

 

  

昭和20年7月26日、午後11時過ぎからB29約120機が飛来焼夷弾、爆弾を投下、一夜にして松山の街は焼け野原となった。左上に見えるのは松山城天守。山麓には愛媛県庁本庁舎がみえる。

松山城は攻撃から外されていたようだがそれでも間違って投下され城門櫓が焼失、天守下にも焼夷弾が落ちたが監守一人で防火用水で火を消し止め天守は残った。

昭和20年7月26日、午後11時過ぎからB29約120機が飛来焼夷弾、爆弾を投下、一夜にして松山の街は焼け野原となった。松山城山麓に愛媛県庁本庁舎がみえる。

画像は、立花橋から撮影とある。

松山に飛来して来た空飛ぶ要塞と言われたB29である。

B29は超低空で焼夷弾を投下、パイロットの顔が見えるくらいの低空であったそうです。

空飛ぶ要塞と言われたB29の大きさ比較。

米海軍艦載機のグラマンで私が見たグラマンは真っ黒であった。

私は母の郷である東温市北方から見た。外に出たとたんに機銃操作を受けた。

日本海軍の精鋭機、紫電改。

海軍松山航空隊の源田実隊長率いる紫電改が飛び立ち、グラマンを迎え撃った。

ブルーインパルス:武蔵村山市、小島郁生氏撮影

ブルーインパルスの育ての親は、源田 実で、源田さんと松山は縁の深い所である。
源田実司令が着任するのは、昭和19年12月、神奈川県横須賀海軍航空隊基地で第343海軍航空隊が新しく編成され、基地は、源田実のお気に入りの松山海軍航空基地となり、同年12月28日、第343海軍航空隊(剣部隊)源田司令が着任、終戦まで置かれた。

戦後、源田実は、防衛庁に入庁、初代航空総隊司令、昭和34年に第3代目の航空幕僚長就任、同年12月、米空軍サンダーバースの日本公演を見た源田、航空自衛隊によるブルーインパルスの構想を打ち出し結成した。
源田は、東京オリンピック開会式にブルーインパルスでカラー五輪フライトを提案し実現した。

昭和37年7月、自衛官を退官し参議院議員4期24年務めた。
現役当時操縦技術は非常に腕がよく、操縦もとてもうまかったが、荒いのでついて行くのが大変であったとある資料に記述がある。

晩年は、厚木市の自宅で過ごしたが体調を崩し、思いで深い松山の病院(南高井病院)で治療をしていたが、85歳の誕生日を迎える前日、第44回目の終戦記念日の平成元年8月15日松山市の病院で逝去された。

享年84歳。お生まれは、明治37年8月16日、広島県安芸太田町のご出身。なぜ松山が好きだったのか不明である。

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満州 その2(私の追憶・終戦前)

2019年10月03日 | 伊予松山歴史散策

満州のシンボルであった南満州鉄道の特急アジア号。

最高レベルの高速鉄道、なかでも20年の歳月を掛けて開発した特急アジア号は最高速度130キロ、平均時速82,5キロで、当時日本では最高時速であったのは特急つばめ号の最高時速95キロ、平均時速60キロだったので「アジア号」はまさに超特急であった。

私たちは昭和18年、このアジア号でハルピンから大連に移動して内地に引き上げた。

 

アジア号の蒸気機関車、人と比較するとその大きさがわかる。

特急アジア号の展望車。

特急アジア号の展望車内。

満鉄ハルピン中央駅。

明治34年頃の満州。

満州建国は、昭和7年3月1日東北行政委員会委員長の張景恵の建国宣言で始まった。
建国式典は同年3月9日長春市政公署で行われた。

満州の語源は諸説あり、仏名の「文殊」からきているという説が一般的で、紀元前の「満節・マンチェ」「満飾」「勿吉」「渤海」「満住」など表記はさまざまで、発音はいずれも「マンシュウ」に非常に似ている。
そしてやがて「満州」へと落ち着いたと言われている。

そして一時期満州に軍人・政府・満鉄・開拓民150万人の日本人がいた。
満州その1で大変な思いで終戦後内地に引き上げられた方々、実は、私も満州哈爾濱(ハルピン)生まれで、終戦前の昭和18年に内地に引き揚げた。

私は終戦前に引き上げたので苦労はなかったが(但し私は4歳であったので殆ど覚えてなく、これからの記述は母から聞いた事柄である。)

昭和4年3月、親父が卒業した北豫中学(現、愛媛県立松山北高等学校)で当時陸軍大将秋山好古が校長であった。(大正13年3月から昭和5年3月まで校長を務めた。)

秋山好古が校長時代に建築した体育館が現在も使われており第1体育館と呼んでいて、柔道と卓球部が使用している。

画像は、愛媛県立松山北高等学校で松山城天守最上階(標高160m)から撮影。

秋山好古は陸軍大将の肩書で、大正13年3月から昭和5年3月まで北豫中学の校長を務めた。

好古が校長に赴任してから校風ががらりと変わり、好古の教えを受けたいと言う生徒が多く優秀な生徒が入学して来た。
好古は、学業だけでなくスポーツも取り入れた文武両道の教育をした。

画像は、大正14年愛媛県中学校陸上競技大会で優勝した時の記念写真である。
同年10月1日、第1回明治神宮の競技大会が開催され中矢傳主将と藤野彪が出場した。

秋山好古校長は、大阪高等師範学校(現、大阪教育大学)を優秀な成績で卒業し名古屋師範学校付属小学校の教師を経て、明治10年陸軍士官学校に入学し軍人となった教育者で、陸軍大学校の一期生である。そして大正9年12月28日、教育総監兼軍事参議官に就任している。

好古は、教師として世に出て、軍事を経て最後も教育者として人生を全うした。北豫中学校長時代は子供と奥さんを東京に置いて、自分は一人で松山に帰り(現、秋山兄弟生誕地で)生活し故郷の青少年の教育に尽力した。

時には、学業熱心な生徒たちを自宅に招き会話をした。
しかし軍人時代の話は一切しなかったそうだ。
また職員会議の時には先生たちから軍人時代の話を要請されても一切話はしなかった。

全国中学校校長会議が東京で開催される時には何時も上京し謙虚な態度で、少しも陸軍大将だなどという顔をせず、他の校長と終始同僚として接したとある。

幼少時代に母の教えとして、大人になったら「世のため・人のため・故郷のために尽くせる人間になるようにと躾けられた」まさに母の教えの通り生き抜いた秋山好古であった。

北豫中学校の卒業證書、秋山好古校長の肩書が凄い。

特に官位従二位は、大正12年元帥に推薦されるもこれを辞退、驚いた大元帥(大正天皇)はビックリされ、特旨として官位従二位を与えた。

いまでかって大学の総長、学長、高校の校長も官位従二位を持った方々はいない。

秋山好古校長に憧れた私の父は関東軍の軍人となった。・・のではないかと私は思っている。

画像は、関東軍独立守備隊歩兵第30大隊第1中隊の集合写真で、親父は前列右から9人目(※印)。

画像は、関東軍独立守備隊歩兵第30大隊第1中隊第2小隊の集合写真で、親父は前列左から1人目(※印)。

関東軍第822部隊、准士官下士官団員一同、昭和19年3月16日撮影。

親父は、右から7人目。

この後、海上機動部隊第2旅団の一員として昭和19年4月12日大連から南太平洋に出動して行った。中には親父同様戦死して帰らぬ士官もいる。

 

結婚の為ハルピンから親父の実家(愛媛県温泉郡久米村大字福音寺、現、松山市福音寺町)

に帰り結婚、その時の結婚記念写真。
父親、29歳、母21歳の時。昭和13年7月27日撮影。

父親、30歳、母22歳の時。昭和14年1月、於ハルピンで撮影。

父は、5年後の昭和20年4月28日、35歳の時ニューギニア島北岸作戦の重要な任務を命じられ敵情報収集、斥侯隊長として活動中敵と遭遇し敵銃弾を腹部に受け戦死、一緒に同行した隊員5名は負傷したが無事本体に帰還し敵情報を基に作戦は成功したそうだ。

親父は未だにニューギニアの密林奥深い場所で眠っている。
親父の遺品は親指の爪のみが親父の実家に届けられた。

斥侯隊員は、中隊の中から強健精兵の、野条曹長・松村軍曹・赤松伍長・木田伍長・野村兵長・塩田上等兵と隊長親父(中尉)であった。
愛媛県保健福祉部にある父の陸軍履歴書には、下記の事柄が記載されている。

昭和19年3月15日、海上機動第二旅団第三大隊付

昭和19年4月12日、大連港発

昭和19年5月10日、ミンダナオ島ザンボアン上陸

昭和20年4月28日、中尉・ニューギニア島サラワテイにて戦斗中戦死とだけ記載されている。

私が2歳の時、ハルピンで撮影。

私の父は、秋山好古に憧れ軍人になったのではないかと私は思う。

父は、昭和4年3月北豫中学校卒業後、日本陸軍歩兵第80連隊に入隊、その後歩兵第38連隊付、独立守備隊歩兵第30大隊に転属した。・・いわゆる関東軍である。

それで私は満州ハルピンで生まれたのである。

画像は、私が3歳の時、軍用犬「ハル」と一緒に撮影。

この軍用犬の事は何故か覚えているが、他のハルピンの事は何も覚えていない。

軍用犬「ハル」は我が家と、隣の稲葉士官(熊本県出身)との二所帯の官舎を警護する為にいた。

軍用犬ハルが移動できるように8番線の大きな針金に鎖を繋ぎ移動できるように仕組まれていたそうだ。

私と母、2歳の時、於:哈爾濱(ハルピン)神社で、設立は昭和10年3月9日。

昭和17年7月関東軍の慰問に大相撲がやって来た。
満州皇軍慰問巡業で、力士はそうそうたるメンバーで、双葉山・羽黒山・照国など母親は私しに巡業を見せるために連れて行き私は見ているはずだが残念ながら全然覚えていない。

これから紹介する書籍は、日本陸軍が初めて編成した海上機動兵団の「続編・海上機動兵団第ニ旅団」の書籍表紙でページ619、装丁も布製の立派なクロス張り仕上げである。

この書籍は、昭和53年8月15日刊行された非売品で、発行編纂委員長、森田政吉氏も海上機動兵団、第2旅団の兵士であった。
執筆されている方々は無事生還された兵士の皆さんが記述され、母国の為名誉な戦死をされた兵士の思いも籠めて書かれている中身の濃い書籍である。
松山市立花町5丁目に在住されていた森田政吉氏が、巡部隊史編纂委員会を設立され発行され、委員会委員長森田氏の住まいが我が家と近くの関係で寄贈して頂いた貴重な書籍である。

愛媛県立図書館、松山市立中央図書館にも所蔵されていない。

「続編・海上機動兵団第ニ旅団」。

運命の海上機動兵団の目次の一部。

編集委員長、森田政吉さんが編集発行された「続編・海上機動兵団第ニ旅団、運命の海上機動兵団」の編集後記。

書籍「続編・海上機動兵団第ニ旅団、運命の海上機動兵団」の奥付。

 

この書籍は、「続編・海上機動兵団第ニ旅団、運命の海上機動兵団」の編纂委員長である、森田政吉氏の了解を得てそれを基にして書かれた書籍「南太平洋最前線」で、著者は「奥村明光」氏、昭和55年8月5日初版で、同年9月15日第2版が発売された。

叢文社発行、定価1500円であった。

書籍「南太平洋最前線」の一部で、親父が関わった「北岸作戦」の記事その1である。

書籍「南太平洋最前線」の一部で、親父が関わった「北岸作戦」の記事その2である。

海上機動兵団第ニ旅団が関わったニューギニア周辺の地図。

書籍「南太平洋最前線」の奥付。

この書籍も愛媛県立図書館、松山市立中央図書館にも所蔵されていない。

私は、昭和59年5月2日、紀伊國屋書店松山店で注文し入手した。

 

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