石手川散策その3(終)
昨日(10月27日快晴であったので)「岩堰」から上流の今治市との境「水ヶ峠トンネル」までをバイクで散策した。
岩堰橋から上流に約8km、昭和48年3月に竣工した松山市民の水瓶「石手川ダム」がある。
石手川ダム誕生の背景には、過去松山市では記録的な集中豪雨によって、石手川流域に大きな被害が発生した。このことがキッカケとなり、河川改修工事やダムによる洪水を調整する目的で、昭和48年3月に『石手川ダム』が誕生した。
石手川ダムによる役目は大きく分けて3つある。
1. 河川の氾濫をコントロール
2. 「水道水」として松山市に水の供給
3. 田畑を潤すための「かんがい用水」
松山市民515、996人(平成23年10月1日現在)の上水道の源を確保するには小さいダムです。
松山市の水源は、ダムの水と重信川水系の伏流水(地下水)によって賄われている。降水量が少なくなると水不足となり、平均すると年間に約100日間の節水制限が実施される。
ダム建設の目的は洪水調節・灌漑・上水道の確保で建設された。
ダムの規模:高さ:87m 提頂長:278m 総貯水容量:12,800,000 m³
有効貯水容量:10,600,000 m³
湖岸に沿って国道317号が走っており、公園には一般客向けの駐車場や伊予鉄道のバス停留所が併設されている。ダムの下流約2kmの場所には奥道後温泉が位置し、この付近は石手川随一の景勝地「湧が淵」がある。
では、画像で紹介しよう。
岩堰橋から約5km上流に石手川随一の奇岩突出の渓谷・景勝地「湧が淵」がある。湧が淵にはいろんな伝説があり、昔淵には大蛇がすみ、夜な夜な美女に化身して人に害をおよぼした。土地の豪族三好蔵人秀勝が鉄砲で仕留め、三好家に頭骨を伝えているという伝説がある。
蛇を斬った岩と聞けば淵寒し 漱石 の句がある。
奥道後温泉が建設した赤い手すりの遊歩道があり、西の金閣寺と呼ばれた「錦晴殿」があったが平成13年の豪雨で石手川が氾濫し流失してしまった。
この遊歩道の奥に「湧が淵」がある。
昭和48年3月に洪水調節・灌漑・上水道の確保で建設されたダム。
ダムの内側、湖面でこの状態で貯水率100%。
高さ:87m 提頂長:278m。
湖面で、別名「白鷺湖」と呼ばれている。ダムは石手川の源流が短く降雨が少なくなると直ぐに湖水がなくなり、平均すると年間に約100日間の節水制限が実施される。
このバイクで今日の散策をした。石手川ダムの提で。ここから対岸まで278mある。
ダムから1km上流、川に沿って国道317号が走っておりその直ぐ傍にある、八幡若宮神社の社号を秋山好古が揮毫した社号額が鳥居にある。松山市玉谷町
暫く上流を行くと所々護岸工事をし砂防ダムがある。左側を国道317号線が走っている。
松山市河中町にある両新田神社がある、ここも石手川の直ぐ傍で秋山好古が揮毫した「両新田神社」の社号額・・鳥居に揚がっている。
この神社は、南北朝時代(1336年~1392年)関東地方の武将、新田義貞の三男・新田義宗は各地を転戦したが応永10年(1403年)11月、当地山麓で死亡したと伝えられる。また、従弟の脇屋義治も同年8月、この地で戦死した。義宗と義治が戦死した場所には諸説がある。しかし後年、両将を弔うため、源氏系の伊予の武将河野道直は天文(1548年)3月18日、二廟を建立「上新田廟」「下新田廟」としたが、その後二廟は合祀され「両新田神社」と改めた。・・由緒ある神社である。
石手川もここまで来ると(松山市米野町)これから奥は獣道で峠の向こうは今治市で、この付近で降った雨半分は今治市に流れる。以前は車道が無かったが平成6年トンネルが出来国道317号線が今治に抜けた。
平成6年7月に完成した「水ヶ峠トンネル」長さ2,804mあり、トンネル入口の左に石手川がある。
工事中湧き水が沢山出てその半分は今治市側に流した。トンネルを抜けると今治市で、今治市の水瓶玉川ダムがある。
画像は、県道196号線沿いを流れる「福見川」東川町で石手川に流れ込む。
右の建物は川魚料亭。
帰りは、松山市東川町から県道196号で、山越えをして平井町に出て国道11号線で自宅に帰った。山越えの県道の峠付近は道幅が狭く、猪が出て来そうな道であった。
昨日(10月27日快晴であったので)「岩堰」から上流の今治市との境「水ヶ峠トンネル」までをバイクで散策した。
岩堰橋から上流に約8km、昭和48年3月に竣工した松山市民の水瓶「石手川ダム」がある。
石手川ダム誕生の背景には、過去松山市では記録的な集中豪雨によって、石手川流域に大きな被害が発生した。このことがキッカケとなり、河川改修工事やダムによる洪水を調整する目的で、昭和48年3月に『石手川ダム』が誕生した。
石手川ダムによる役目は大きく分けて3つある。
1. 河川の氾濫をコントロール
2. 「水道水」として松山市に水の供給
3. 田畑を潤すための「かんがい用水」
松山市民515、996人(平成23年10月1日現在)の上水道の源を確保するには小さいダムです。
松山市の水源は、ダムの水と重信川水系の伏流水(地下水)によって賄われている。降水量が少なくなると水不足となり、平均すると年間に約100日間の節水制限が実施される。
ダム建設の目的は洪水調節・灌漑・上水道の確保で建設された。
ダムの規模:高さ:87m 提頂長:278m 総貯水容量:12,800,000 m³
有効貯水容量:10,600,000 m³
湖岸に沿って国道317号が走っており、公園には一般客向けの駐車場や伊予鉄道のバス停留所が併設されている。ダムの下流約2kmの場所には奥道後温泉が位置し、この付近は石手川随一の景勝地「湧が淵」がある。
では、画像で紹介しよう。
岩堰橋から約5km上流に石手川随一の奇岩突出の渓谷・景勝地「湧が淵」がある。湧が淵にはいろんな伝説があり、昔淵には大蛇がすみ、夜な夜な美女に化身して人に害をおよぼした。土地の豪族三好蔵人秀勝が鉄砲で仕留め、三好家に頭骨を伝えているという伝説がある。
蛇を斬った岩と聞けば淵寒し 漱石 の句がある。
奥道後温泉が建設した赤い手すりの遊歩道があり、西の金閣寺と呼ばれた「錦晴殿」があったが平成13年の豪雨で石手川が氾濫し流失してしまった。
この遊歩道の奥に「湧が淵」がある。
昭和48年3月に洪水調節・灌漑・上水道の確保で建設されたダム。
ダムの内側、湖面でこの状態で貯水率100%。
高さ:87m 提頂長:278m。
湖面で、別名「白鷺湖」と呼ばれている。ダムは石手川の源流が短く降雨が少なくなると直ぐに湖水がなくなり、平均すると年間に約100日間の節水制限が実施される。
このバイクで今日の散策をした。石手川ダムの提で。ここから対岸まで278mある。
ダムから1km上流、川に沿って国道317号が走っておりその直ぐ傍にある、八幡若宮神社の社号を秋山好古が揮毫した社号額が鳥居にある。松山市玉谷町
暫く上流を行くと所々護岸工事をし砂防ダムがある。左側を国道317号線が走っている。
松山市河中町にある両新田神社がある、ここも石手川の直ぐ傍で秋山好古が揮毫した「両新田神社」の社号額・・鳥居に揚がっている。
この神社は、南北朝時代(1336年~1392年)関東地方の武将、新田義貞の三男・新田義宗は各地を転戦したが応永10年(1403年)11月、当地山麓で死亡したと伝えられる。また、従弟の脇屋義治も同年8月、この地で戦死した。義宗と義治が戦死した場所には諸説がある。しかし後年、両将を弔うため、源氏系の伊予の武将河野道直は天文(1548年)3月18日、二廟を建立「上新田廟」「下新田廟」としたが、その後二廟は合祀され「両新田神社」と改めた。・・由緒ある神社である。
石手川もここまで来ると(松山市米野町)これから奥は獣道で峠の向こうは今治市で、この付近で降った雨半分は今治市に流れる。以前は車道が無かったが平成6年トンネルが出来国道317号線が今治に抜けた。
平成6年7月に完成した「水ヶ峠トンネル」長さ2,804mあり、トンネル入口の左に石手川がある。
工事中湧き水が沢山出てその半分は今治市側に流した。トンネルを抜けると今治市で、今治市の水瓶玉川ダムがある。
画像は、県道196号線沿いを流れる「福見川」東川町で石手川に流れ込む。
右の建物は川魚料亭。
帰りは、松山市東川町から県道196号で、山越えをして平井町に出て国道11号線で自宅に帰った。山越えの県道の峠付近は道幅が狭く、猪が出て来そうな道であった。