EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

東雲女子大学・短期大学 クリスマス・ツリー 点灯式

2013年11月30日 | 伊予松山歴史散策
一昨日(11月28日)松山市桑原町にある東雲女子短期大学準教授から上記の点灯式が開催されると連絡を受け撮影に行ってきた。
この所松山は、寒気が厳しく一昨日(28日)松山市は初雪があり、11月での初雪観測は、昭和53年以来の35年振り、平年よりも23日、昨年より14日早かった。
さて、東雲女子大学の中庭にあるクリスマス・ツリーは大学中庭にある10メートルの大樹に、約7,000球のLEDイルミネーションが電飾された。
昨年は点灯式には全部の電飾に点灯できず不成功であったが、今年は完全点灯が出来た。

点灯式典は午後6時30分から聖歌隊による賛美歌斉唱で始まり、宗教主事の山本さんから招きの言葉があり、「未だ東北震災は復興の最中、被災された皆さんは厳しい師走を迎えられる、早期の復興をお祈りしましょう」そして主の道を備えるために・・のお話があり、再び賛美歌を斉唱の中、クリスマスツリーに点灯された。
大勢の市民が点灯式典に参加され大学から暖かい飲み物の振る舞いがあった。
今夜の松山は気温が低く12月下旬の夜であった。
参加した市民はツリーを楽しげに見学して三々五々帰っていった。
クリスマスツリーの点灯は、今日から4週間点灯されるそうです。

画像は、昨晩開催された松山東雲学園桑原キャンパスのクリスマスツリーの点灯で、松山市恒例の風物詩となっている。


東雲女子大学・短期大学 クリスマス・ツリー 点灯式にあたり山本宗教主事は・・式典中はストロボ撮影はしないようにと注意。
午後6時30分に聖歌隊が登場し聖歌を斉唱し、山本宗教主事が挨拶。
いよいよ点灯式典が始まった。


松山東雲学園桑原キャンパスでいよいよ「クリスマス・ツリー点灯式」開始、東雲女子大学の聖歌隊の賛美歌斉唱。


学園中庭に大勢の市民がクリスマス・ツリー点灯式を楽しみに集まって来た。
この夜は冷え込みが厳しかった。


午後6時30分過ぎにクリスマス・ツリー点灯、賛美歌233(高く戸を挙げよ)を参加者全員で合唱。聖歌斉唱の中、大学中庭にある10メートルの大樹に、約7,000球のイルミネーショのツリーに点灯、一斉に拍手が沸いた。


クリスマス・ツリー点灯式次第。


大きな木にLED7,000個が電飾され点灯。樹は、桑原キャンパス創設時に植えられた針葉樹の記念樹で、49年前にここに東雲女子短期大学が創設された時に植樹されたと知人の準教授から説明を受けた。


参加した市民たちが思い思いに記念の写真を撮っていた。


此方は参加した家族で記念写真。


今年はこんな電飾も飾られていた。


若い家族連れでクリスマス・ツリーを楽しんでいた。


クリスマス・ツリー点灯式に使われたローソクと、クリスマス・ツリーを楽しむ参加者達。


知人の助教授と会話しながらシャッターを押した。
東雲学園は、幼稚園から大学まで総合学園で、中学・高校(女子学園)のキャンパスは、秋山兄弟生誕地の直ぐ傍にあり、藩政時代伊予松山藩家老の屋敷跡である。明治19年四国で最初の女子校として創立。そのごプロテスタント系のミッションスクールとなり今年が創立127年になるそうです。なお、学園には小学校部門だけがなく、松山に東雲小学校があるが、市立の小学校である。


大学から振舞われた、ホットカルピスをベンチに座り飲みながら最後の撮影をして機材を片付け我輩も家路についた。

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石鎚山 再冠雪

2013年11月25日 | 伊予松山歴史散策
西日本最高峰の「石鎚山・1982m」に11月13日、昨年より11日遅い初冠雪があったが、翌日気温が上がり雪は解けた。15日寒冷前線の影響で下界は雨天であったが、石鎚山は降雪となり今期再び冠雪した。そのご石鎚山は雲が掛かり姿は見えなかったが23日久しぶりに全容が良く見えた。
画像は、11月23日再冠雪した「石鎚山」。
今日(11月25日)の松山は、午前8時の外気温15、9度で降雨、石鎚山の雪の状態は?積雪か?降雨か?であれば雪解けがあるかもです。


この日は(11月23日)は松山城ガイド当番日で、画像は我が家を出掛ける前に撮った。午後12時。


松山城筒井門東櫓から撮影。午後2時22分に、この日は石鎚山がくっきりと眺望、こんなに綺麗に見えるのはあまりないことで、松山城観光に来られた埼玉県のご夫妻を松山城本丸案内しながら石鎚山も案内した。あまり綺麗なのでシャッターをおした。画像は、石鎚連峰で、左が石鎚山標高1982、右は、二ノ森で標高1929m。


途中から神奈川県から来られた観光者から一緒に説明を聞きたいと言うことで6名の方をお連れして案内し天守最上階(約160m)に上がった。画像は天守最上階からの石鎚山。午後3時50分撮影。
石鎚山は、北西から南東にのびる長さ約400mの細長い岩稜で、周囲は100m近い断崖絶壁となっている。
このうち天狗岳「1982m」は岩稜の南部にあたり、付近に大砲岩・矢筈岩等の奇岩がある。岩稜の中央部を弥山「1974m」でここに石鎚神社山頂社がある。その南部に天狗岳、と南尖峰、がある。北西端が「北岳・1921m」で一連の峰の総体山を石鎚山と呼ぶ。
画像、左から、北岳・1921m・岩稜の中央部を弥山「1974m」、天狗岳「1982m」、南尖峰「1982m」。


松山城本丸天守で、山頂の落葉樹は紅葉していた。本丸は、標高132mある。


松山城天守最上階からみた松山平野。奥に見える山並みの方角が土佐(高知県)。


松山城天守最上階からみた松山平野で、平野のほぼ中央部にある四つの分離独立丘陵、伊予三山と呼ばれる星岡山、土亀山、天山です。 ここでは隣接する東山を合わせ、四山で紹介します。
画像、手前が、土亀山・標高50m、右が天山・標高50,4m、奥に連なる山が星岡山・標高75,4m、一番右側が、東山・標高48,5m。


松山城筒井門前からの瀬戸内海(伊予灘)午後4時17分の画像。


石鎚山・弥山(1974m)で左の建物は、山頂山小屋、左が石鎚神社山頂社。


山小屋・山頂神社と最高峰「天狗岳」。険しい峰である。


石鎚山最高峰「天狗岳・1982m、山頂」面積は極めて小さい。


石鎚山、弥山・1974mから見た天狗岳。画像は、カメラのキタムラ北条店・高岡氏提供。

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愛媛すごいもの博2013松山

2013年11月24日 | 伊予松山歴史散策


愛媛県内最大級の産業の祭典「愛媛すごいもの博2013松山」が11月22(金)・23(祝)・24(日)三日間、「松山市城山公園・やすらぎ広場・(旧伊予松山三の丸)」で、博・食・市が開催された。経済の沈滞打破を目指して地方が元気でないと!!産業の力で、愛媛を元気に、愛媛・松山産業まつり・!!が盛大に開催された。
三日間とも好天気に恵まれ特に24日は、暖かい一日であった。
会場には、博・食・市で
博は、愛媛の産業・展示&体験!愛媛の花き展・伝統工芸の実演・グリーン・ツーリズムの体験等!!
食は、産地直送旨いもの食堂!食欲の秋・愛媛県内の選りすぐりグルメが大集合!!
市は、愛媛と松山の特産・物産市!地産地消!旬の果実・野菜・農林水産加工品等の販売!!339の各展示場が設営し、すごいもの博に来た行楽客はお目当てのゾーンで食べ物を買い家族団らんの一時を楽しんでいた。

メインステージでは、22日前夜祭で、吉本のお笑いコンビ「阪神巨人」のライブがあり、23日は、松山水軍太鼓で開幕、24日は、愛媛県警音楽隊の奏会、中川翔子ライブステージ、MMJ&ひめキュンフルーツ缶ライブ、餅まき等々で賑わった。
ひめキュンのライブで観衆が大喝采、東京から九州から追っかけフアンが騒いでいた。友好都市から、宮城県東松島市・横須賀市よこすか海軍カレー・奈良県斑鳩町・熊本市・石川県小松空港協議会・千葉県成田空港周辺地域振興協議会・高知県梼原町市等々の県市からブースを出していた。

24日の様子の画像です。


愛媛すごいもの博2013ゲート、後方に伊予松山城天守。


好天気に恵まれて大勢の人で賑わった・・ゲートに飾られた「標語」。




友好都市参加、奈良県斑鳩町から来た職員が着ている法被に正岡子規の句が書かれている。また聖徳太子と道後温泉の関係もある。


友好都市参加、千葉県成田空港周辺地域振興協議会の関係者、今年松山空港と成田空港間に定期便が就航そのご縁で初参加。


宮城県東松島市には、松山市役所から職員が応援支援に派遣されている関係で参加。・・東北の復興は遅れている。


石川県小松空港協議会の観光大使「こまつ姫御前」、平成21年7月18日にグランドオープンした石川県加賀市の「日本元気劇場」に、原寸大の戦艦三笠が再現された。こちらの戦艦三笠は、NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」のロケセットとして正式に使用、横須賀の戦艦三笠を見事に再現している関係で、松山―羽田―小松空港のご縁で参加。


熊本市の展示場、くまもと観光親善大使、熊本市は、夏目漱石とのご縁で毎年参加。漱石は、明治29年松山中学から熊本五高等学校に転任漱石とのご縁で毎年参加。夏目漱石の代表作「坊っちゃん」・「草枕」の舞台としてゆかりがあることから「夏目漱石でつながるまち」として交流を開始している。


神奈川県横須賀市「よこすか海軍カレー」、横須賀市には、戦艦三笠が保存されていて、4年前戦艦三笠で秋山眞之・正岡子規特別展示会があった。松山市とは坂の上の雲で、特に秋山眞之とは深い関係のあるご縁で毎年参加。


食の市県内のグルメが大集合。


NHK松山放送局前も賑わっていた。


メインステージは、MMJ&ひめキュンフルーツ缶ライブで大勢の観衆が駆けつけ声援を送っていた。


松山の名産「伊予絣」の実演。


珍しい物を発見した。日本初の新種ダルマ鯛で品種名は「のぼり」松山で開発され、現在画像の一匹のみだそうです。・・値札が300万円と提示してありました。


伊予松山城二の丸からみた「愛媛すごいもの博2013松山」の会場。
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神奈川県平塚市 添田氏秋山兄弟生誕地に来館

2013年11月21日 | 伊予松山歴史散策

秋山好古揮毫の石碑が神奈川県平塚市広川に新しく発見され、その取材に伺ってから早一年数ヶ月が経過した。
昨日(11月20日)遠路平塚市から添田吉則氏が秋山兄弟生誕地にお越しになられた。
秋山好古揮毫した平塚市の石碑は、明治27年7月から同28年3月に掛けて行われた日本と清国との戦争に騎兵隊員として従軍し名誉な戦死をされた添田賢次郎騎兵一等卒のため、実父の添田保吉さんが上官である、秋山好古に揮毫を依頼した。
好古は、これに応じ名誉な戦死をした優秀な騎兵隊員であった添田賢次郎騎兵隊員に対して心から哀悼の意を最高の漢詩で撰文した。父親である保吉さんがそれを石碑として建立したものである。

現在、好古揮毫の石碑は全国に51基発見されているが、好古が漢詩で哀悼の意を書き送り石碑として建立されているのは、神奈川県平塚市と千葉県習志野市の織戸家にあった石碑のみであるが、織戸家にあった石碑は、現在ある事情で鎌ヶ谷市の道野辺八幡神社境内に三つに折れ眠っておる。よって現在建立されている石碑は、平塚市の石碑のみである。

昨日、添田吉則氏は秋山邸に来館され、石碑の写真と、石碑の拓本を軸物として表装し展示しているのを見られて、上官秋山好古生誕地にこんなに大切に展示して頂き感激ですと言われた。
また、秋山好古は、東京都世田谷区池尻に、自身が石を調達し、碑文も揮毫し日清戦役で戦死した騎兵隊員のために石碑を建立し、裏面に戦死した騎兵隊員の氏名を刻印して建立した。その中に添田賢次郎騎兵隊員の名前も書いてあることが石碑建立後116年たった昨年確認された。添田吉則夫妻は、世田谷の石碑にお参りに行かれた。なお、添田賢次郎は、添田吉則氏の大祖父である。

註1:秋山好古が、東京都世田谷区池尻に石碑として建立せず、文書として残しておれば、現在は、防衛省の資料館の片隅におかれ国民の知るところではなかったのではないだろうか?・・高が石碑、然れど石碑である。
註2:明治時代、東京都世田谷区池尻あたりは、陸軍騎兵隊があったところでその後千葉県習志野に移転する。現在の陸上自衛隊習志野駐屯地に騎兵学校があった。秋山好古は騎兵学校第二代目校長を歴任していた。


秋山兄弟生誕地で秋山好古騎馬像前にて右は、常盤同郷会常務理事(秋山兄弟生誕地運営委員長)宇都宮氏。


昨年(平成24年4月18日)添田吉則氏の奥様が石碑所在情報を画像奥に掲示している拓本持参で秋山邸に来られた。この拓本を表装して現在秋山邸に展示している。添田吉則氏(右)常盤同郷会常務理事 宇都宮氏。


拓本展示前で、添田吉則氏。


昨年4月18日、添田吉則氏の奥様が石碑の碑文を拓本にとりその拓本を秋山邸に持参された。・・現在秋山兄弟生誕地にて展示公開中。


秋山兄弟生誕地裏庭にある秋山両将の記念石碑前で。


秋山兄弟生誕地のオリジナル映像をご覧になる添田氏。


秋山好古の北豫中学校長時代の資料の説明を熱心に聞き入っていた。


秋山両将の記念石碑の説明を研究員から聞く。


お帰りになる前に宇都宮理事と秋山兄弟生誕地入口で・・秋山兄弟生誕地の文字は、秋山宗家第10代、秋山哲兒氏(東京在住)の直筆。


神奈川県平塚市広川にある秋山好古が揮毫した石碑。昨年(平成24年5月23日)現地取材時に撮影。拓本の石碑。


秋山好古が添田賢次郎騎兵隊員の名誉な戦死に対して漢詩で書き上げた撰文。


秋山好古が添田賢次郎騎兵隊員の名誉な戦死に対して漢詩で書き上げた撰文に送り仮名をつけた文書。・・作成は、添田吉則氏。


東京世田谷区池尻の石碑で、日清戦役戦で戦死した騎兵隊員の事を後世に伝え好古が直筆で名前を揮毫し、石碑の石も自分が調達し建立した。建立年月日は、明治29年6月30日で当時好古は、騎兵第一連隊長であった。
それから月日は流れ116年後に世田谷の石碑と平塚市の石碑の結びつきが判明し好古の思いは伝わった。
世田谷区池尻の碑文表面
征清之役戦死者哀悼碑建設工ヲ竣ル茲ニ其ノ姓名ヲ勤シ永久後世ニ傳フ
明治二十九年六月三十日
騎兵第一聯隊長秋山好古謹記


世田谷区池尻の石碑裏面の文字。
日清戦争戦騎兵隊の戦没者 世田谷区池尻の碑文裏面
陸軍騎兵少尉 山口毅夫
君資性謙譲ニシテ敏活頗ル支那語ニ通ス征清ノ役金州乃旅順ニ転戦シ常ニ勇徃奮進敵状地形ノ偵察ニ盡力シ我騎兵隊ノ活動ヲシテ極メテ容易ナラシメタリ旅順陥落ノ後普蘭店ニ派遣セラレ復洲方面ノ警戒ニ任ズルヤ疾病ヲ犯シ尚能ク激務ニ服シ遂ニ起ツ能ハサルニ及ビ帰朝シ明治二十八年二月十三日廣島陸軍豫備病院ニ於テ卒ス享年二十八歳

陸軍騎兵曹長     吉田四郎   明治二十八年二月八日於老爺廟
豫備陸軍騎兵一等軍曹 藤堂立    明治二十七年十一月十七日於龍口戦死
陸軍騎兵一等軍曹   渡邉武松   明治二十八年二月八日於二道河戦死
陸軍騎兵一等卒    西澤三十   明治二十八年二月二十四日太平山戦死
陸軍騎兵一等卒    根本由之助  明治二十八年二月八日於高刋戦死
陸軍騎兵一等卒    羽毛田安太郎 明治二十八年二月八日年於老爺廟戦死
陸軍騎兵一等卒    添田賢次郎  明治二十八年二月八日於二道河戦死
陸軍騎兵一等卒    内田與作   明治二十八年二月八日於二道河戦死
陸軍騎兵一等卒    新井斧三郎  明治二十七年十一月十九日於龍口戦
豫備陸軍騎兵一等卒  小野田勝三郎 明治二十七年十一月十九日於龍口戦
陸軍騎兵一等卒    飯尾金彌   明治二十七年十一月十八日於土城子
陸軍騎兵一等卒    芝章    明治二十八年二月二十二日聶家堡子戦死
豫備陸軍騎兵一等卒  加瀬音吉   明治二十七年十二月三十日於蘇家屯病死
陸軍騎兵一等卒 蕪木夘八 明治二十八年一月三十一日朱家旬子戦死
石碑裏面記載事項調査は、神奈川県平塚市の添田吉則氏である。
今年、添田さんご夫妻は、上記の遺族の方々二家族の所在が判明し交際を始めたとの由。


裏面、陸軍騎兵一等卒 添田賢次郎  明治二十八年二月八日於二道河戦死・・の文字のみ見えやすくカットしました。
世田谷区の石碑撮影は、平成18年10月6日、私が撮影。




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松山市平和通「銀杏」紅葉

2013年11月17日 | 伊予松山歴史散策
昨日、知人から平和通りの銀杏が紅葉して見頃である聞き、今朝カメラ持参で出掛けてみた。この通りは、松山市が管理する市道で一番幅員が広く大きな市道で、中央分離帯に画像の銀杏が植栽されている。両サイドには、歩道と自転車道が整備されており、俳句の街松山の象徴として句碑が沢山建立されている。中でも正岡子規の句碑が一番多く、夏目漱石・中村草田男・河東碧梧桐・内藤鳴雪等々の句碑がある。
平和通は、松山市の公称町名で、昭和39年6月11日、旧市内区画整理事業周辺の区域名称変更で、平和通一丁目から六丁目が生まれた。戦後松山市の都市計画は、昭和36年7月、から戦災復興都市計画が、本格的に始まり、平和通も出来上がった。平和通り、平和通(へいわどおり)は、日本の各地にある通りの名前の一つで、多くは第二次世界大戦直後に命名されたものと思われる。全国に平和通と称する町が、15ヶ所の市町に存在する。

さて、銀杏は、和名の由来については、葉の形をアヒルの足に見立てた 中国語: 鴨脚 (イアチァオ)の転訛であるとする通説がある。また日本語ではイチョウの実を指して「ぎんなん」と呼ぶが、これは「銀杏」の唐音読み「ぎん・あん」が、連声と呼ばれる現象によって転訛したものである。・・とある。
黄葉時の美しさと、剪定に強いという特性から、街路樹として利用される。平成19年の国土交通省の調査によれば、街路樹として57万本のイチョウが植えられており、樹種別では最多本数。東京の明治神宮外苑や、大阪御堂筋の街路樹などが、銀杏並木として知られている。秋期に落下した果実(銀杏)が異臭の原因となる場合があるので、街路樹への採用にあたっては、果実のならない雄株のみを選んで植樹される場合もある。
銀杏は日本全土で生産されているが、特に愛知県稲沢市は生産量日本一である。火に強い性質があるため、江戸時代の火除け地に多く植えられた。

イチョウは油分を含み水はけがよく、材料も均一で加工性に優れ、歪みが出にくい特質を持つので、カウンターの天板・構造材・造作材・建具・家具・水廻りなど広範に利用されており、碁盤や将棋盤にも適材とされるほか、特にイチョウ材のまな板は高級とされている。
また、長寿であり、成長すると巨木になる。日本の各地に幹周が10mを越えるようなイチョウの巨木も存在しており、環境省の調査における最も太い株は、青森県深浦町にある「北金ヶ沢のイチョウ」で、幹周は22mを越え、日本で有数の巨木に位置づけられている。
以上のような事が資料にある。


17日(日)天気が良かったので行ってみた。午前8時39分撮影。日曜日なので車が少ない時間帯にと思いながら現地に行ってみたがご覧の通り。午後は雨天となった。


片側二車線の松山市で一番広い市道。


銀杏並木は、完全に紅葉しているものと、未だ青みが残っている銀杏があった。


銀杏の実が落ち始めると拾いに来る者たちが車道を横切り中央分離帯に渡るので非常に危ない。


信号が赤になった時に車道に出て撮った。




写真を撮っていると後ろから「お早う」と言う声が聞こえた。振り返ると今流行の「ノルディックウォーキング」を楽しむグループがやってきた。お揃いのユニホームを着込んで楽しそう!!でした。この通りは電線が地中に埋め込まれてなく画像としては電線・電柱が邪魔である。




平和通一丁目から六丁目までの車道と歩道の境に画像の形、略同じ大きさの句碑が建立されている。句碑は、子規が圧倒的に多く、夏目漱石・中村草田男・河東碧梧桐・内藤鳴雪等々の句碑がある。裏面には、説明板が付いているのでよく理解して句碑散策が出来る。以前句碑を数えたがその記録が不明。またの機会に調べてみる。その時に銀杏の木が何本あるかも調べてみたい。


子規の句で、句碑裏面には、説明が書かれているので、句碑散策には参考になる。
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