平成19年10月11日、ロケ撮影が始まる一ヶ月ほど前の天候のいい日でありました。
秋山眞之を演じられた「本木雅弘さん」が秋山兄弟生誕地にお越しになり最初の言葉は!!
「此の度NHK坂の上雲で、秋山眞之さんの役を演じさせて頂きます本木です。本日は勉強に参りましたので、よろしくお願いいたします。」でした。
NHKスペシャルドラマ坂の上の雲の主演として出演され、俳優さんの中、一番早く秋山兄弟生誕地に来られた方が本木雅弘さんでした。
私が、秋山兄弟生誕地の当番の日にお越しになった俳優さんを回想として、再度ブログに掲載させて頂いております。
私が強く印象に残っている方は、秋山眞之役を演じられました、本木雅弘さんです。
礼儀正しく、言葉使いが丁寧で、物腰の低い、字が凄く上手で、芸能界一番の達筆者だと言われています。(書道7段だそうです。)
主要キャスト4人(本木さん、阿部さん、香川さん、菅野さん)と発表された。また当初冠にしていた「スペシャル大河ドラマ」は後に「大河」の文言を抜いて単に「スペシャルドラマ」という冠に変更された。
平成19年11月20日、撮影開始、ロケ地は日本各地、舞台となる諸外国でも、3年間に渡りロケは行われ、平成22年9月21日、愛媛県今治市沖の瀬戸内海で撮影は終了した。
本木雅弘さんで、平成19年10月11日、坂の上の雲ロケに入る前に秋山兄弟生誕地に来られました。礼儀正しく、言葉使いの丁寧な方でした。
本木さんは、秋山兄弟生誕地を見学される方々のために制作されたDVDを最初にご覧になられました。
「此の度NHK坂の上雲で、秋山眞之さんの役を演じさせて頂きます本木です。本日は勉強に参りました。よろしくお願いいたします。」・・その通り真剣に映像をご覧になられました。
本木さんと一緒に来られたのは、NHKの制作スタッフの方と、本木さん所属の女性の方3名でした。
映像をご覧になり、本木さんなりに秋山眞之像を気持ちの中に培われたのではないでしょうか。
映像をご覧になった後、秋山兄弟生誕地の女性研究員が生家の説明をしました。
一応、秋山兄弟生誕地の説明も終わりましたので、秋山兄弟生誕地の記念に保存をしておきたく、色紙に本木雅弘さんのサインをお願いしたいんですがと・・お付きの女性に申し出ますと、あなたが直接本木に頼んで下さい。・・ので、私は、本木さんにお願いしますと、快く承諾して頂きました。・・色紙にサインをされる本木雅弘さんです
本木さんが書かれたサインで、これでよろしいですかと手渡されました。
ありがとうございます。大切に秋山兄弟生誕地で保存いたしますとお礼を言って色紙を頂きました。
達筆な筆なので、お付きの女性に「本木さんは、書が達筆ですね!!と尋ねると・・ハイ本木は書道7段です。」と言われビックリしました。
本木さんが書かれた色紙は、秋山兄弟生誕地の玄関に展示していますので是非御覧下さい。
書道7段の本木さんが書かれた文字の達筆はもちろんですが、字の配列が素晴らしい。
本木さんの秋山兄弟生誕地の見学も終わり、最後に私事のお願いとして秋山眞之胸像で記念の写真を撮らせて頂きました。
私の一番好きな俳優さんです。
私は、「ウン」「ウーン」という返答の言葉が大嫌いですが、本木さんは、一切「ウン」は使われず帰ってくる言葉は「ハイ」でした。
本木さんは、埼玉県の江戸時代から続く由緒正しい家系で育ったそうで、幼児期にご両親から言葉の躾を受けて育てられたのでしょう。近々は言われなくなりましたが、人間は3歳までに、その人の人間形成が行われるので特に3歳時教育が大切とされた時期がありました。
ご両親からきちんとした躾を受けて成人されたのでしょう。
芸能界に入ってからは、義母である樹木希林さんに言葉遣いや言動に付いてはキッチリ指導を受けられたのでしょう素晴らしい人格者です。
秋山兄弟生誕地の概要を研究員から説明を聞かれ一段落した時、近所の女性二人は本木雅弘さんがお越しになっている事に気づき、本木さんに記念写真のおねだり・・本木さんは気持ちよくいいですよ・・の了解で写真撮影。二人は大喜び、座敷に飾って置くと言っていました。
私は、傍で本木さんの行動、言動を拝見拝聴させて頂きましたが、説明を受け返す言葉が丁寧で説明を真剣に聞き取り礼儀正しいお人でした。
これだけ有名人になると、横柄な仕草が知らず知らずの内に少し片鱗が見受けられるが、本木さんにはそれが一切無かったです。
秋山兄弟生誕地の後、広島県江田島市江田島町にある、旧海軍兵学校(現、海上自衛隊 第1術科学校)で一泊体験学習を受け退出時、宿泊時に使用した寝具、衣類をきちんと整理整頓し、使った洗面所も自分で丁寧に清掃をして退出された行為について、海上自衛隊第1術科学校の関係者はビックリされたそうです。
普通は同伴している事務所の関係者が、私がしておきますので本木さんは先に退出して下さい・・でしょうが、本木さんはそれでは気が済まない几帳面な性格の持ち主なのでしょうご自分が行ったそうです
・・TVで香川照之さん曰く「本木さんは、芸能界きっての真面目な人です。」と言われました。
私は、秋山兄弟生誕地で本木さんの姿を目前で拝見させて頂きましたが、まさに香川照之さんの言われる通りのお人だと感じました。字も芸能界きっての達筆者だそうです。
此れからも御身ご自愛されていいお仕事をされて下さい。
私の好きな坂の上の雲のある場面です。
坂の上の雲の、一場面で、母、貞が、眞之が帰ってくるのを待てず逝去する。
眞之は、千葉県津田沼駅に降り妻、季子が駅まで迎えに来る。
亡くなった母と対面する真之の言葉である。
「母さん生きとる内に帰ってこれんですみませんでした。」
父さんがあの世で待ってるぞな、よろしくのう!!
母さん、わしは、世の中のお役に少しは立てたんじゃろうか・・教えてくれんかのう・・母さん!!
幼少時代、母の教えとして躾けられた「大きくなったら、世のため・人のため・故郷のために尽くせる人になるように・が母の教えであった」それを母に問うた場面です。
ドラマ、坂の上の雲の場面「最終回」で秋山眞之参謀が、東郷平八郎日本海軍連合艦隊司令長官の解散の辞を書く、本木さんが演じる秋山参謀の場面です。
書道7段の腕前、朝飯前の技でしょう。
秋山眞之も達筆でしたが、文書力が素晴らしかったそうです。
東郷平八郎日本海軍連合艦隊司令長官の解散之辞、最後の言葉が「古人曰く 勝って兜の緒を締めよと・・で結んでいる。
東郷平八郎日本海軍連合艦隊司令長官の解散之辞、文面起草も秋山参謀である。
秋山眞之の胸像について
眞之が海軍大学校教官時代の教え子達が醵金を募り(約900円)「当時イタリア大使館に勤務していた教え子の一人の武官が」ローマ在住の彫刻家・マリォ・リナルディに依頼して制作しました。
出来上がった胸像の請求金額が、注文時の金額よりも1,5倍多く、武官は金額が高い理由はと質問すると、日本海海戦の連合艦隊専任参謀として大活躍した将校なので形のいい大きさに作り上げたらこの大きさ1,5倍になった、よってこの金額を請求する。・・・武官曰く追加金の調達準備をしないと予算が無いと説明・・困り果てた様子をした。
此れをみた彫刻家は、分かりました、予算通りの金額でよろしいと、この偉大なる将軍に敬意を表してと元の金額に落ち着いたとの逸話があります。
大正14年9月30日、銅像は、イタリアから送られ横浜に到着した。教え子達は横浜で眞之の未亡人(季子)に贈呈した。そして季子は、即日海軍大学へ寄贈した。
先の大戦連合軍による没収を恐れ、一時期秋山家で保管されていたが、昭和27年4月28日、対日平和条約発効後に、現在の海上自衛隊幹部学校(目黒区)に返納した。
現在は、海上自衛隊幹部学校4階フロアーに安置されている。同校や子孫の了解を得て製作復元しました。
製作地は、兄騎馬像と同じく、富山県高岡市で、重さ:80Kg、高さ:1,1m、のブロンズ像です。
室内用に創られたので台座は木製で、秋山兄弟生誕地の台座は、屋外仕様だから花崗岩です。
(複製する設計図は、トヨタ自動車の設計班がコンピューターを駆使して制作して頂きました。)
秋山兄弟生誕地にある秋山眞之胸像は、東京目黒にある海上自衛隊幹部学校に安置されている眞之銅像の複製です。
平成17年5月12日、海上自衛隊幹部学校の許可を得て撮影しました。
画像は
昭和6年、眞之の13回忌と日本海海戦25周年に当たるのを記念して郷里松山の人々に顕彰運動が起り、井上要、岩崎一高、新田長次郎、山下亀三郎、各位多くの有志が発起人となり寄付金を募り道後公園内に建立された。
眞之が連合艦隊先任参謀として、三笠艦上にあったときの軍装姿であった。
銅像の台座表には、東郷平八郎元帥の揮毫による「智謀如湧」の四文字の銅板がはめられていたが先の大戦中に金属供出で銅像は鋳つぶされた。
しかし「智謀如湧」の四文字の銅板は残し保存した。
現在は、梅津寺の銅像の台座に設置されている。
銅像は、昭和18年に大東亜戦争時による金属供出により潰された。
その後
秋山眞之の銅像は、昭和38年に石手寺に再建され、昭和43年9月に梅津寺へ移されました。画像は、金属供出される前の銅像です。
昭和6年、建立された銅像は、金属供出されたが、昭和38年に石手寺に再建され、昭和43年9月に梅津寺へ移された。画像は、梅津寺へ移された現在のものです。台座には、金属供出を免れた東郷平八郎の「知謀如湧」の揮毫が埋め込まれている。
令和元年12月9日移設された新しい場所に立つ秋山眞之銅像で、日本海対馬海峡を向いて建っている。
銅像の台座表には、東郷平八郎元帥の揮毫による「智謀如湧」の四文字の銅板がはめられていたが先の大戦中に金属供出で銅像は鋳つぶされたが、「智謀如湧」の四文字の銅板は残し保存していた。
元帥・東郷平八郎は、若くして逝去した秋山参謀に、連合艦隊司令長官・東郷平八郎は、秋山眞之を「智謀如湧」と称え揮毫した。これを銅像台座に付けた。
「智謀如湧」の上にあるものは「戦艦三笠」の標章である。これも金属供出しなかった。
長寿であった元帥・東郷平八郎は、副官たちに揮毫しているが、「智謀如湧」は特別に心を込めて揮毫した。
銅像の現況は
令和元年12月9日、梅津寺にある秋山好古の銅像と一緒に並ぶように移設された。
秋山好古の銅像がある梅津寺見晴山登山道の入口に移転移設され、秋山眞之の銅像は、帝国ロシア海軍太平洋第二艦隊・第三艦隊、通称「バルチック艦隊」と戦った「日本海海戦の地」対馬海峡を望むように移設されており、兄・秋山好古の銅像は、日露戦争の激戦地である「奉天」を望むように建立されている。
画像は、海軍兵学校跡の石碑
1.碑 名:海軍兵學寮跡・海軍軍醫學校跡
2.所在地:東京都中央区築地五丁目1番1号
国立ガンセンター内
画像は、平成17年9月12日、国立ガンセンター管財課の許可を得て撮影した。
明治19年10月30日、眞之は尊敬する兄、秋山好古の了解を得て東京築地にあった海軍兵学校に入学した。
兵学校の起源は、明治2年創設の海軍操練所で、翌年海軍兵学寮と改称、さらに明治9年に海軍兵学校と名前を改めた。
明治3年海軍兵学寮に入学した生徒から第一期生とした。
明治16年東京で初めての赤煉瓦造りの生徒館が落成、この建物は東洋一大きな2階建ての堂々たるもので、兵学校が江田島に移転した後は、海軍大学校の校舎となる。
明治21年8月13日兵学校は江田島に移転、眞之が、3年の時であった。
江田島に移転した海軍兵学校は未だ教室は完成しておらず、軍艦で授業を受けたとある。
秋山眞之、「第17期生・明治23年7月17日卒」海軍兵学校を首席で卒業し、海軍軍人となる。
兵学校が江田島への移転をしたその理由とするところは、
第一に、生徒の薄弱なる思想を振作せしめ海軍の志操を堅実ならしむるに在り。
第二は、生徒及び教官をして務めて世事の外聞を避け精神勉励の一途に赴かしむるに在り。
第三に、生徒の志操を堅確ならしむるため繁華輻輳の都会を避くるを良策とす。という趣旨であった。
参考までに
秋山眞之、「第17期生」で、広瀬武夫は江田島に移転した最初の卒業生で、「第15期生」・山本五十六は「第32期生」・源田実は「第52期生」・関行男は「第70期生」である。
これからの画像は
秋山兄弟生誕地研究員が県外研修として伺った旧海軍兵学校での研修画像です。
画像は、海上自衛隊第一術科学校・幹部候補生学校舎(旧海軍兵学校)
所在地は、広島県江田島市江田島町国有無番地にあります。
通称「赤レンガ」と呼ばれ有名な、幹部候補生学校校舎、明治26年に海軍兵学校生徒館としてその生活、教育のため建築された。
設計は、東京築地にあった兵学校も手がけたイギリス人建築家によるもので、屋根は建築当初は日本瓦葺であったが、明治38年の安芸灘地震後にスレート葺に葺き替えられた。
大切な生徒を親御さんから預かり、瓦が落ちて怪我をさせては大変だと言う事で葺き替えられた最大の理由だそうだ。
レンガは英国製で、一つ一つ紙に包み軍艦で輸送、現在の価格に換算すると一個が一万数千円に値するそうだ。
明治26年に建築され使われているレンガの色は当時と殆ど変わっていないと説明があった。・・一説には日本製のレンガも使われているとか?です。
これからの画像は、秋山兄弟生誕地で活動している研究員の県外研修をしました海上自衛隊第一術科学校・幹部候補生学校舎(旧海軍兵学校)ものです。
水交館
明治憲法公布の前年、明治21年に「集会所」として建築され、江田島地区で現存する最も古い建築物。以後、「文庫館」、「図書館」、「会議所」、「将校集会所」使用目的で名称変更しながら、終戦まで使用されたと説明があった。
終戦後、進駐軍接収時には、牧師等の宿泊所としても使用されたが、海上自衛隊に返還後は「水交館」と名称変更し国内外の来賓の接遇等に使用しているそうだ。
水交館の庭で、NHK坂の上の雲のロケにも使われた。
水交館には何故か沢山の灯篭が設置してあった。
海上自衛隊第一術科学校・幹部候補生学校舎(旧海軍兵学校)の全体図です。
江田島クラブにあるレストランで昼食をした時のご飯です。
大講堂での集合写真。
海上自衛隊第一術科学校広報担当官の説明を大講堂で聴講。
海上自衛隊第一術科学校には二度研修に行きました。
場所を変えて
海上自衛隊第一術科学校での研修後、呉市にある、海事歴史科学館(大和ミュージアム)を見学、画像後方は、戦艦大和10分の1の大きさで複製した戦艦大和。
10分の1の大きさで複製した戦艦大和正面。何故か正面は皇居の方角である。
秋山眞之の墓所は、昭和62年までは秋山宗家の墓所である青山霊園にあったが、同年鎌倉霊園に移された。
昭和62年青山霊園から移された秋山眞之一家の墓所、鎌倉霊園です。
秋山眞之一家の墓碑銘。
鎌倉霊園で、広大な中に秋山眞之一家の墓所がありますので、墓参りをする時は、霊園管理事務所で所在地を確認しないと墓所に行くことは出来ません。
霊園内には、循環バスが運行されています。・・広い霊園です。
秋山眞之の家族写真です。