EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

素晴らしい発想の漂流郵便局

2019年03月29日 | 伊予松山歴史散策

瀬戸内国際芸術祭2013開催にともない久保田沙耶さんが企画して開かれた漂流郵便局。

郵便局長:中田勝久さん
郵便局員:久保田沙耶さん

 香川県三豊市宅間町粟島に旧粟島郵便局舎を利用した漂流郵便局がある。

瀬戸内国際芸術祭2013開催期間中、1ヵ月間限定で芸術家・久保田沙耶さんが制作した作品コンセプトであった。
一か月後には閉局予定であったが、旧粟島郵便局で実際に局長を務めていた中田勝久さんが私もお手伝いしますから漂流郵便局を継続しましょうと提案され、現在も継続されている。

漂流郵便局長に中田勝久さんが就任、久保田沙耶さんが局員として月二回開局されており全国から大勢の皆さんが来局、このことが世界に紹介され英国では、臨時英国漂流郵便局が開設され、台湾でも開設されると紹介された。
中田勝久郵便局長は、5年間で35000通の手紙が届けられ、局内の仕分けコーナーに保管し、局内には自由に入れ、漂流し届け先のない手紙やはがきは自由に読むことが出来るそうです。

私も大東亜戦争の時ニューギニア島で戦死し未だ帰ってこない親父の遺骨、その父に手紙を書き漂流郵便局に出します。

そして是非一度漂流郵便局に行ってみます。

手紙を出すには

〒769-1108
香川県三豊市詫間町粟島1317番地2
漂流郵便局留め
◯◯◯◯◯様

で届くそうです。

郵便局と称しているが、日本郵便株式会社と関係ないものですからお間違いないように。

漂流し届け先のない手紙やはがきをこの局で受け取り保管し誰でもが自由に読むことが出来る郵便局だそうです。
粟島へは、三豊市詫間町の須田港から定期船、1日8便、15分。粟島港からは徒歩10分で漂流郵便局だそうです。
平成26年5月10日NHKTV「ニュースおはよう日本」で紹介されたそうだが、私が知ったのは、平成31年3月24日(日)放映の「TVCOOL JAPAN~発掘!かっこいいニッポン」でした。

開局した芸術家、久保田沙耶さんの企画発想が凄い。

漂流郵便局は旧粟島郵便局舎で窓口表記はそのまま残してある。

漂流郵便局全体像で旧粟島郵便局舎である。

漂流郵便局留めで届いた漂流郵便物を綺麗に丁寧に保管されている。

漂流郵便局留めで届いた漂流郵便物を丁寧に大切に扱い保管作業をされる中田勝久郵便局長。

漂流郵便局の内部。
開局は、毎月第2土曜日・第4土曜日に開局している。

開局時間は:午後1時から午後4時まで

COOL JAPAN~発掘!かっこいいニッポンのメンバーの一人が漂流郵便局を訪れた。

全国から見学に来た人たちは自由に局内に入る事が出来、自由に手紙やはがきを読む事が出来る。

漂流郵便局留めに来た手紙。

最近、漂流郵便局が話題になり英国にも漂流郵便局が開局されたそうです。

また、台湾にも開局されると報じられた。

漂流郵便局留めで届いた郵便物は、丁寧に消印が押される。

 

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秋山眞之生誕151年祭が開催されました

2019年03月25日 | 伊予松山歴史散策

大政奉還・王政復古・戊辰戦争・廃藩置県・西南戦争と短期間の間に日本は一変しました。
そんな中、伊予松山に慶応4年3月20日、一人の男の子が秋山家に5男として誕生、坂本龍馬が京で暗殺された翌年の事でありました。
当時松山は朝敵として追討され、新政府から15万両の制裁金が課せられ資金調達に苦しんでいました。

元藩主、久松家の先祖は菅原道真で学問の神様、伊予松山の子供たちは学問を身に着け独立し世の中に出て行きました。
その一人が秋山淳五郎で、元服して眞之となり、国家存亡の危機を克服した明治の先人の一人あります。
眞之は、兄である秋山好古の支援をえて正岡子規とともに東京大学を目指し、東京大学予備門に入学、東京帝国大学を目指すが、尊敬する兄、好古に学費、生活費の負担を掛けることは偲びがたしの思いを持ち、兄を説得し了解を得て海軍兵学校17期生として進学した。(なお、東京大学予備門の同級生に夏目漱石がいた。) 

日本最大の危機、日露戦争勃発には日本海軍連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で、作戦担当参謀となり、旗艦「三笠」に乗艦、日本海海戦では、帝国ロシア海軍太平洋第二艦隊・第三艦隊(日本ではバルチック艦隊と呼んだ)を日本海で撃滅その作戦を全て秋山眞之が専任参謀として立案し勝利に導き世界を驚かせました。 

その後大佐となり、海軍少将と昇進、大正6年12月1日中将に昇進、大正7年2月4日、小田原の山下亀三郎(山下汽船創設者)の別宅で盲腸炎を患い腹膜炎を併発し亡くなりました。
享年49歳、最終階級は、海軍中将従四位勲二等旭日重光章であります。

墓所は、東京青山霊園に兄好古と一緒であったが、昭和62年鎌倉霊園に改葬しました。

画像は、平成31年3月21日、愛媛県知事・松山市長ご臨席の元秋山兄弟生誕地武道場で開催された秋山眞之生誕151年祭の様子であります。

 

会場の秋山兄弟生誕地武道場に訪れる関係者の皆さん。


 

明治時代国家存亡の危機を克服した明治の先人の一人であります秋山眞之生誕151年祭が、平成31年3月21日、愛媛県松山市歩行町の、秋山兄弟生誕地で、愛媛県知事、松山市長さん始め、関係来賓者参列の下盛大に秋山兄弟生誕地武道館で開催されました。

 

式典は、秋山兄弟生誕地を管理している、公益財団法人常盤同郷会、山崎薫理事長の挨拶で始まり、式典後はお茶会、お琴の演奏会で秋山眞之を暫しの間参加者の皆さんと偲びました。

秋山眞之は、伊予松山藩士・秋山久敬の5男として慶応4年3月20日、に生まれ幼名は淳五郎で、元服し名を眞之と改めました。(慶応4年9月8日、明治天皇の即位により、元号が明治と改元された。)

 

 

午前9時30分開式、生誕151年祭開催の挨拶を述べる、公益財団法人常盤同郷会、山崎薫理事長。

 

                  記

 1、日  時  平成31年3月21日(春文の日)  午前 9時30分 式典

                           午前10時00分 伊豫売茶流・天山会の茶会 

                           正派邦楽大師範箏・三絃「前谷雅貴社中」

                           小・中学生の琴演奏会

2、茶  会  生誕151年祭式典後お茶会開催    午後 3時 閉会

3、場  所  秋山兄弟生誕地 武道場「松山市歩行町二丁目3番地6」

4、来  賓  愛媛県知事代理・松山市長代理・山下亀三郎氏の孫、山下眞一郎氏(東京在住)・山下家本家、

        山下洋二 郎(宇和島市)秋山眞之の孫、青山芳之氏(東京在住)

5、参  考  秋山眞之誕生日  慶応4年3月20日

中村愛媛県知事は公務の為、知事代理者、スポーツ・文化部長、土居忠博氏が出席され、中村県知事の祝辞を代読されました。


 

野志松山市長も公務の為代理者、松山市立坂の上の雲ミュージアム事務所長、石丸耕一氏が野志市長の祝辞を代読されました。


 

松山市立子規記念博物館、竹田美喜館長が秋山眞之と正岡子規の友情の話を紹介されました。

 

 

東京在住の山下汽船創設者、山下亀三郎氏の孫、山下眞一郎氏の挨拶。(眞一郎氏の介護役として弟、洋二郎さんが眞一郎氏の挨拶を代読されました。

山下汽船は現在商船三井です。

挨拶の中で、眞之は小田原の山下亀三郎氏の別荘で亡くなったが、その様子を一部披露されました。

 

 

秋山眞之の孫、青山芳之氏が挨拶されました。

 

 

姓は青山だけど正真正銘の秋山眞之の孫であるとユウモアたっぷりで話されました。
秋山眞之の次男、固(かたし)が青山家、青山芳得の養子として入籍、その嫡男が青山芳之氏です。

 

画像は、小田原の山下亀三郎氏の別荘。

 

大正7年2月4日、当時山県有朋が小田原の別荘に居られました。
眞之は、これから近代的な日本の国造りは山形閣下が中心となり建国されていかれるお方です。
お願いは米国とだけは事を構えないようにお願いします。
物量、資源豊かな米国と事を構えると日本は駄目になってしまします。・・この様な事柄をお願いするために、山下亀三郎の別宅(山下汽船創設者・現商船三井)に居ましたが、盲腸炎を患い腹膜炎を併発して亡くなりました。

小田原には腹膜炎を治療出来る医者が居なかったそうです。

享年49歳。
最終階級は海軍中将、位勲等功級は、従四位勲二等功三級、旭日重光章、功三級金鵄勲章を授与された。
墓所は、東京青山霊園に兄好古と一緒であったが、昭和62年鎌倉霊園に改葬された。



 秋山眞之の胸像に献茶する、公益財団法人常盤同郷会・藤島理事。

 

 

式典は終わり琴の演奏を聴きながら、暫し眞之を偲びました。

 琴の演奏は、正派邦楽会、大師範・琴・三弦前谷雅貴社中の皆さんです。


 

正派邦楽会、大師範・琴・三弦前谷雅貴社中の皆さんが秋山眞之生誕151年祭を祝い琴の演奏が始まりました。

 

 

生誕151年祭式典が終わり素晴らしい琴の演奏を聞き入る参列者の方々。

 

 

生誕151年祭式典後、お茶会が始まり琴の演奏を聴きながら、参列した方々は古の時に帰り眞之の偉大さを暫し思い起こした。

 

 

茶席では、伊豫売茶流天山会、家元がお手前を披露。

 


 秋山兄弟生誕地では、平成22年の眞之生誕祭から、眞之の大好物であった「いり豆」を秋山兄弟生誕地・女性研究員が、日本三大絣の一つである伊予の名産「伊予絣」で袋を作り、その中に「いり豆」を入れて限定頒布を始めました。

 

 

 日本三大絣:伊予、久留米絣、備後をいます。

秋山兄弟生誕地・女性研究員が、日本三大絣の一つである伊予の名産「伊予絣」で袋を作り、その中に「いり豆」を入れました

伊予絣で、作った手作りの袋を品定めする来館者。

 

 

秋山兄弟生誕地のソメイヨシノ桜、3月21日現在の様子で開花まであと少し。

3月22日松山市のソメイヨシノ桜が開花したと松山地方気象台から宣言されました。

 

 

秋山真之生誕151年祭、煎茶でお接待をされた伊豫売茶流・天山会の皆さん。
ご苦労様でした。

 

 

秋山兄弟生誕地のソメイヨシノ桜が開花すると画像のような状態になります。

昭和20年7月26日、空飛ぶ要塞と言われたB29、120機が松山に飛来、焼夷弾を投下し

松山の城下町は一夜にして焼け野原となりました。

終戦後、戦災復興都市計画事業で現在の街割りが行われその時植栽されたソメイヨシノ桜であります。


 

 

旧市内に植栽されているソメイヨシノ桜の中では一番大きく形がよいので開花すると近所の皆さん方が花見観賞に来られます。

画像は上から見た秋山兄弟生誕地とソメイヨシノ桜で、奥の大きな建造物が秋山眞之が提唱して創設された松山同郷会の名残である武道場です。

 

 

松山同郷会は、秋山眞之が薩摩の郷中教育を参考にして創設された文武両道の青少年育英事業で、現在は公益財団法人常盤同郷会として引き継がれ活動しています。

その中で育った、ロンドンオリンピック73Kg以下級で銀メダルを獲得した中矢力選手の色紙が秋山兄弟生誕地武道場に掲示してあります。

 

 

秋山兄弟生誕地武道場で育った女子柔道、48Kg以下級、世界選手権等々で優勝した浅見八瑠奈選手の感謝の意を表した色紙が道場に掲示してあります。

 

 

 秋山真之生誕151年祭も無事終了し、伊豫売茶流・天山会の先生方が秋山眞之を偲びながらお茶を頂きました。

 

 

 

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平成31年・松山地方のソメイヨシノ桜の現況

2019年03月20日 | 伊予松山歴史散策

松山市のソメイヨシノ桜の観測標本樹は、道後湯築城跡にあり、本日午後カメラ持参で観測に行ってきた。
現地に行ってみると、松山地方気象台の観測予報官と、地元TVカメラが取材に来ていた。
開花予想は3日後の週末3月23・4日頃に開花するのではと言っていました。

観測は、午前中もされるのですかと伺うと、この時期は午後1回ですが、開花が間近かになると午前1回と午後1回観測し、観測は必ず二人で行い確認するそうです。
満開は、8分咲きになると満開と表現するそうです。 

今年の冬期は温暖で全国各地のソメイヨシノ桜の開花予想は例年よりも早く開花するそうで、福岡が3月19日、高知・名古屋が3月20日・東京は3月22日、大阪は3月25日と開花予想が出されていたが、今日(3月20日)長崎市のソメイヨシノ桜が全国で一番早く開花したと宣言された。

東京も今日の午後開花すると予報され靖国神社にある標本木を見に大勢の人々が訪れていたが午後観測に訪れた気象台職員が観測した結果、開花は4輪で本日の開花は見送られた。

松山市道後公園(中世の城・湯築城跡、日本100名城第80番)に管理してある、松山地方気象台・ソメイヨシノ観測用標本樹を観測する予報官。

松山地方気象台予報官はこの所気温が下がり開花は週末ではないかと観測した。

未だ開花宣言されてない松山地方気象台・ソメイヨシノ観測用標本樹。

現状を取材する地元TV局のカメラ。

松山市は、気温が下がり暫し開花は遅れそう松山市の現状のソメイヨシノ桜。

開花とは
標本木で5〜6輪以上の花が開いた状態、平成15年からこの規定で観測を始めた。

三分咲きとは
標本木の樹冠で約3割の花が開いた状態

五分咲きとは
標本木の樹冠で約半分の花が開いた状態

満開(八分咲き)とは
標本木で八割以上のつぼみが開いた状態

散り始めとは
花びらが落ち始めた状態

葉桜とは
桜の花が散り、若葉が出始めた頃~新緑で覆われた状態

 

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EEKの呟き・東日本大震災8年が経過

2019年03月12日 | 伊予松山歴史散策

今年もやって来た3・11、東京で開催された東日本大震災犠牲者8周年追悼式。
被災地の復興は計画通りには進んでいない。
復興計画には色々と問題があり地元民には不満があるそうだが、子孫のために安全に生活出来る基礎を造って下さい。・・部外者が活字で書くのは容易い事ですが。

平成23年3月23日、新潟県魚沼市堀之内天満宮神社境内にある、秋山好古揮毫石碑・戦役記念碑の現地取材の計画を立て、航空券、乗車券、宿泊先も予約をしていた。
すると、3月11日TVを見ていると画面に東北地方に大きな地震が発生と活字が出た。
何処の港か現況が写し出された。

すると段々と潮位が上がり岸壁を乗り越え始め、暫くすると黒い海水が怒涛の如く押し寄せ市街地にせり上がり、海上の船が、車は流され、家屋も流れ始めた。
初めて見る光景でこれが津波の恐ろしさを始めて感じ取った。

 3月23日、新潟県魚沼市の秋山好古揮毫石碑・戦役記念碑の現地取材の計画は中止し、その費用を僅かでしたが東北地方太平洋沖地震の義援金として送らせて頂きました。

記念碑の調査は、改めて平成23年6月10日に行きました。

家長が避難する際書いた言葉。自分の心にも書き留めたのでは?

津波の破壊力は凄まじく恐ろしい。

そして福島第一原子力発電所事故、平成23年3月11日の東北地方太平洋沖地震による津波の影響により、東京電力福島第一原子力発電所で発生したメルトダウン等の放射性物質拡散大事故であった。
TVに出演した原子力に知識あるコメンテーター達は、絶対メルトダウンは起こらない世界に誇る原子力対策がしてあるからと説明した。・・が最悪の状態となった。

平成は31年4月30日で終わり、新元号は5月1日から始まる、平成時代は大きな自然災害が多発し住民たちは大変苦労し未だ復興に苦慮している。
地震・台風・風水害の復興には多額な費用とそれに携わる専門職人とボランティアで活動される方々で再建されるが、しかし原発事故は別物で放射能という化け物が余分である。早く元の生活が出来るよう祈願します。

 

現状は、最悪で住民たちは未だ自宅に帰る事が出来ない。
放射性物質の放出、拡散と汚染、除染された廃棄物の量の多さ、これから最終的には何処に持って行くのか?

平成24年1月・福島県立双葉高等学校2年生秋山兄弟生誕地訪問

中村時広愛媛県知事は、東北高校受け入れ事業である被災地修学旅行支援を県教委を通して行っていた。
平成24年1月27日、愛媛県立松山北高校の生徒が福島県立双葉高校2年生を案内して、秋山兄弟生誕地を研修の地の一つとして訪れた。
震災当時、双葉高等学校200名の生徒はサテライト校に通っていてその春、いわき市の大学校舎で再スタートした。

双葉高等学校は、平成24年1月25日来県、3泊4日の日程で体験や松山観光を行い修学旅行の思い出を愛媛で行い、その一環として、秋山兄弟生誕地を訪問した。
生誕地では、研究委員が温かく出迎え、秋山好古・眞之兄弟が育った経緯と二人の生き様を紹介、あれから7年が経つ、当時高校2年生だった生徒さん達は立派な社会人となり福島県復興に活躍されている事でしょう。

画像は、平成24年1月27日、福島県立双葉高校2年生が秋山兄弟生誕地を訪問したその様子です。
註:愛媛県立松山北高校の前身は、秋山好古が校長を務めた松山北豫中学である。

福島県立双葉高校2年生が松山市歩行町二丁目3番地6にある、秋山兄弟生誕地を訪れ研修した。

秋山兄弟生誕地を見学する、福島県立双葉高校2年生。

研修後、福島県立双葉高校2年生を案内した愛媛県立松山北高校生と記念撮影し研修は終了し、そして8年が経過した。
皆さんの今後益々のご活躍を祈念しています。

 

東北地方太平洋沖地震による行方不明者が2,533人も居られる。

東北地方太平洋沖地震により避難生活をされている方が今も5万2千人も居られる。

帰還困難地区が未だこんなにある。
何時になったら解除されるのか?

四国でも、何時発生してもおかしくないと言われている南海地震、被害規模は東北地方太平洋沖地震よりも甚大となると予測されている。
南海地震は記録に残るものとして、6回発生している。
直近では、昭和21年12月21日、昭和南海地震(1946年)M8,0、被害は中部地方以西の日本各地にわたり、死者1,330名、家屋全壊11,591戸、半壊23,487戸、流失1,451戸、焼失2,598戸。津波が静岡県より九州にいたる海岸に来襲し、高知・三重・徳島沿岸で6m に達したとある。

この時、日本最古の温泉道後温泉の湯が出なくなった。
昭和南海地震の前は、嘉永7年11月5、安政南海地震(1854年)M8,4、紀伊・土佐で11mの津波で大被害と記録がある。

平成14年4月17日、北海道支笏湖にてアマチュア無線マイクロウエーブ北海道支笏湖大会に出席するため、名古屋港から太平洋フェリー「きたみ」13,694トンで苫小牧港まで乗船した。

その時、船上から福島第一原子力発電所を双眼鏡で見た。
海岸すれすれに原発が見えた時素人が感じた事は、こんな低い所に原発施設があって台風襲来時の波濤被害は大丈夫かと感じた。(津波の事は頭になかった)

 

私が乗船したフェリー・きたみと同型船・いしかりで、船体の後方に見える所が福島原発あたりである。

日を改めて、平成23年6月10日、新潟県魚沼市の秋山好古揮毫石碑取材に行った。
6月10日、松山空港上空は、雨雲に覆われ霧が発生し着陸が危ぶまれたが無事羽田から松山空港に着陸、予定時間10時35分発が10分遅れで離陸、雨雲を突きぬけ上空は画像の様な快晴で予定より遅れて羽田に着いた。
東京駅発:16時12分 新幹線Maxとき333号 新潟駅着 18時17分、北方文化博物館に着いた。

平成23年6月10日、東京モノレールの窓越しに撮った東京タワー、東北大地震で曲がったアンテナが目に入った。
アンテナは、修復したそうだが未だ曲がっていた。・・これ以上修復困難との事。
現在は新しいアンテナと交換してある。

平成23年6月10日、新潟市北方文化博物館で一泊して、翌11日神田勝郎・北方文化博物館長の案内で、魚沼市堀之内竜光にある天満宮神社境内の秋山好古揮毫石碑取材に行った。
魚沼市は、平成16年10月23日午後5時56分に、新潟中越地方を震源とした震度7の激震があった所である。

秋山好古揮毫石碑は倒壊し平成20年8月に全国から頂いた義援金の一部で再建立され保存されていた。
福島原発事故で避難勧告が出され避難先は新潟に来られて方が一番多く、魚沼市の方々も新潟中越大地震の時、大変な苦労を経験されているので受け入れ方が違い、優しい気持ちが嬉しいと言っておられた。

新潟以外に避難生活をされている方は、人間関係が上手くいかず精神的に苦労があると言われる。
愛媛県伊予市にも福島県の方が生活されているが、精神的な苦慮は大丈夫なのか心配である。

 画像は、秋山好古揮毫石碑取材に行った時地元の方が集まって頂いた皆さん。
この中には、魚沼市役所職員さん、魚沼市ケーブルテレビさん、新潟日報新聞記者さんも取材に来て頂いた。

魚沼市堀之内竜光にある天満宮神社境内の秋山好古揮毫石碑。
秋山好古揮毫石碑で新潟中越地方を震源とした震度7の激震で石碑は倒壊したが平成20年8月に全国から頂いた義援金の一部で再建立され保存されていた。

魚沼市堀之内竜光にある天満宮神社境内には幟の鉄柱に画像の銘板が取り付けてあった。

天満宮神社境内には、復興に感動 支援をありがとうの幟が掲げられていた。

境内の一角に画像の石柱が建立されていた。

 

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十六日桜「イザヨイサクラ」・ロシア兵墓地・足立重信の墓参り

2019年03月07日 | 伊予松山歴史散策

1、十六日桜「別命:イザヨイサクラ」

今年の冬期は温暖で全国各地の染井吉野桜の開花予想は例年よりも早く開花するそうで、福岡が3月19日、高知・名古屋が3月20日・東京は3月22日、大阪は3月25日と開花予想が出された。
さて、5年振りに(3月5日)吉平屋敷跡にある松山市の天然記念物に指定されている十六日桜「別命:イザヨイサクラ」の鑑賞に行ってきた。


イザヨイザクラは、小泉八雲が孝子桜として世界に紹介したことから有名になった。
桜花が見たいと願う病父のために孝子、吉平が桜に祈ったところ、寒中1月にもかかわらず、十六日に花が咲いたと言う伝説の桜である。

行ってみると桜はかなり老朽化が激しく、半分くらい枯れ、花も半分しか咲いてなかった。隣の方曰く、3年前から木が枯れ始めたと言っていた。

枯れ始め樹勢が衰え元気がなくなっていた。

 部分的に観ると画像の様に元気そうに観える。
品種は「ヤマザクラ」。

 

5年前の十六日桜「別命:イザヨイサクラ」でこの頃は樹勢も強く綺麗な元気な花を咲かせていた。

5年前の十六日桜「別命:イザヨイサクラ」がある、吉平屋敷跡の記念石碑。

松山市教育委員会が設置している十六日桜「別命:イザヨイサクラ」の説明板。

2、ロシア兵墓地

十六日桜「別命:イザヨイサクラ」の直ぐ近くにあるロシア兵墓地にも行ってきた。

画像は、ロシア兵墓地で平成28年3月25日開催された松山市主催で慰霊祭で毎年開催されている。

日露戦争の戦いで捕虜となり松山に収容され亡くなった98人のロシア兵の墓地が松山市御幸町にあり毎年松山市主催で慰霊祭が行われ、在大阪ロシア連邦総領事官も参列している。ここで素晴らしい奉仕活動が行われている。昭和61年に始まった松山市立勝山中学校生徒会は毎月第2土曜日にロシア兵墓地の清掃活動を行っており、今やロシアと日本の友好の懸け橋となっておりロシア大使もこの行為を称え感謝している。

清掃に参加する生徒は、家から持ってきたスポンジを使って墓石を磨いたり、草を引いたりして、綺麗にする。時にはPTA会長さんも参加するそうで清掃後は、一つ一つのお墓に花・線香を供え、黙祷を捧げ活動を終える。墓石は全て母国ロシアに向けて建っている。

画像は、平成28年3月25日開催された慰霊祭の様子で画像の様に墓所は草一つなく何時も綺麗に清掃されている。
それは地元、市立勝山中学校の生徒会が毎月第2土曜日に清掃をしているからだ。

この画像は、先日3月5日の撮影で、画像の様に98人のロシア兵の墓石には献花されており、草一つ、落ち葉も落ちてなく整然と清掃されていた。
昭和61年に始まった松山市立勝山中学校生徒会は毎月第2土曜日にロシア兵墓地の清掃活動を行い、今やロシアと日本の友好の懸け橋となっておりロシア大使もこの行為を称え感謝している。

捕虜となり松山に収容されたロシアの将校と日本人の看護婦の悲恋の実話に基づき、映画化される。映画「ソローキンの見た桜」である。舞台が松山市なので先行して松山で放映され、その後全国各地で放映される。

3、足立重信の墓参り

  

ロシア兵の墓地と隣接して足立重信の墓所がある。
足立重信(出生年不明~寛永2年・1625年)は松山城主加藤嘉明の家老で、美濃国に生まれ、若年で嘉明に仕え、文禄の役(1592年)にも従軍した。
嘉明がその功労によって正木(松前)城主6万石に封ぜられると、重信も伊予国に来住した。

その後慶長の役(1597年)が起ると、重信は嘉明らとともに出征し、水軍として活動した。加藤清正らが、蔚山城で苦戦しているのを救援した戦功により、嘉明は10万石に加増された。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに嘉明は出征し、留守をあずかる重信は、石田三成側に応じた毛利勢および旧伊予守護河野氏の兵が正木城に来襲し、領地奪回を撃退した。
(地元では伊予の関ヶ原の戦いと言っている)もしもこの戦いに敗れていれば関ヶ原の戦いで東軍に与し武勲を挙げた加藤嘉明が帰る地が無かったのである。正木城を護った足立重信功績は凄いものであった。

戦い後、20万石の大名となった嘉明は、徳川家康の許可を得て、勝山に築城移転して、城下町を松山と改めた。重信は普請奉行の要職に就き、湯山川(後の石手川)を南方に移して大改修し、広い用地と城下町の建築地を築いた。重信は、松山城の築城、城下町の建設に20数年間尽力したが、その完成をみないで寛永2年(1625年)に逝去した。本人の遺言によって、松山城を見る事ができる城北の来迎寺境内に墓がつくられた。墓碑は高さ224cmあまり、花崗岩の五輪塔である。大正8年(1919年)、正五位を追贈された。

 追記:伊豫川の改修

加藤嘉明が松山城築城以前(正木城主時代)度々洪水に見舞われていた「伊豫川」を改修し氾濫を防ぐため河川を改修した。その時河川名を改修者の足立重信の名をとり、伊豫川を重信川に改名、1級河川の名称に個人名が付けられるのは、日本では大変珍しい事であった。

 松山市教育委員会が設置している足立重信の墓所の説明板。

  

 生前、足立重信は逝去した時は松山城を見る事ができる所に埋蔵してほしいとの遺言により城北の来迎寺境内に墓がつくられた。現在は墓所の前の木々が大きくなり画像のような松山城を見る事が出来ない。
画像は、墓所から20m程東に松山城を見る事が出来る場所がありそこから撮影 
で、天守左の囲い物は、天神櫓の修復工事の足場と防御ネットである。

 墓所、2基の灯篭が献燈してあり画像は、右側の献燈で足立重信の300年忌記念に温泉郡三内村が大正14年4月に寄贈建立した。
右側の献燈の足に、内藤鳴雪の句「功や三百年の水も春」が刻まれている。

画像は、左側の献燈でその足に村上齊月が詠んだ「寶川伊豫川の秋の出水哉」とあり石は重信川の石で造ったと言われている。
この石も重信川から取り出された石で造ったと言われている。
足立重信の300年忌記念に温泉郡三内村が大正14年4月に寄贈建立した。


 足立重信の墓所には2基の灯篭が設置してあり、二人の俳人の句が揮毫してある。
その説明板。

墓所の右側献燈の足に「功や三百年の水も春」内藤鳴雪の句が刻まれていて
   左側の献燈の足に村上齊月が詠んだ「寶川伊豫川の秋の出水哉」の句が刻まれている。

 足立重信の墓所玉垣は、350回忌記念に足立重信顕彰会・松山市長、宇都宮孝平建立とある。

 加藤義明は、築城には多額の費用を必要とし年貢の取り立てが厳しかった。篤志家からも支援を受けた。現在の伊予鉄道古町駅一帯の大地主、野原家から支援を受け城郭した櫓、野原櫓があるが、その野原家の墓所が、普請奉行であった足立重信の墓所の直ぐ後ろにある。

 野原家先祖代々の墓石が現在の墓石の裏側に置かれている。

 そして野原家の墓所に隣接して伊予松山藩医の青地林宗の墓所がある。林宗は、江戸の杉田玄白の門下生として蘭学を修め、晩年は水戸藩主に招かれ、洋学の啓蒙にも努めた名医。

 松山市教育委員会が設置している青地林宗の墓所の説明板。

 青地林宗の墓所の一角に立派な顕彰碑が建立されている。
建立者は、伊豫鐡道電氣株式會社が昭和5年5月建立している。

 足立重信の墓所から見た十六日桜「別命:イザヨイサクラ」。
この地に来ると伊予松山の歴史が凝縮された場所に感じた。

 

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