EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

東雲女子大学・短期大学 クリスマスツリー 点灯式

2016年11月26日 | 伊予松山歴史散策


11月25日・金曜日、松山市桑原町にある東雲女子短期大学準教授から、恒例の東雲女子大学・東雲女子短期大学 クリスマスツリー点灯式が開催されると今年も連絡を受け撮影に行って来た。
昨年は暖冬であったが、今年は、気温は低く寒さを感じる点灯式でしたが多くの市民が集まり盛大に挙行された。
さて、東雲女子大学の中庭にあるクリスマスツリーは高さ10メートルの大樹に、約7,000球のLEDイルミネーションが電飾され昨年よりも豪華に観えた。
2年前の点灯式には全部の電飾に点灯できず不成功でありましたが、今年は完全点灯出来、昨年以上にツリーの地面にもLEDイルミネーションが電飾され豪華であった。
点灯式典は、午後6時30分から聖歌隊による賛美歌斉唱で始まり、昨年から宗教主事さんが変わられ新しい宗教主事、水島祥子さんの招きの言葉があり、点灯式は始まった。
一昨年までは無かったオカリナ演奏が今年も奏でられ一層優美な雰囲気の中賛美歌を斉唱し、クリスマスツリーに点灯された。
豪華なクリスマスツリーに点灯されると大勢の市民から声援が起こった。その後大学から暖かい飲み物の振る舞いがあり冷えた体が温もった。
クリスマスツリーの点灯は、今日から4週間点灯されるそうです。

画像は、昨晩(11月25日、金曜日)開催された松山東女子大学・女子短期大学東雲学園桑原キャンパスのクリスマスツリーの点灯式で、松山市恒例の風物詩となっている。
今年もクリスマスツリの時期になった一年の経過が凄く早い。


参加者全員に配布されたクリスマス・ツリー点灯式プログラム。






点灯式には大勢の市民が集まり厳かに行われ、宗教主事、水島さんの導きで集まった市民一人一人にローソクが配られその明かりで賛美歌を合唱した。


東雲女子大学・東雲女子短期大学生聖歌隊の賛美歌斉唱で「クリスマスツリー点灯式」は始まった。


予告なしの点灯に暗闇が一瞬にして明るくなり参加者から驚きの声が起こった。


点灯式に集まった市民。
一昨年は、宗教主事から式典中は写真撮影のストロボはたかないように厳重注意があったので今年はISO感度を上げてストロボ無しで撮影をしていた。










大学の中庭にある大きな樹と傍にある小さな三つの木にも電飾が飾られ脇役に
徹した演出。


今年もあと少しで師走、JA全土でいろんな災害が発生、来年はいい年でありますように祈願し家路についた。

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スーパームーン:十六夜の月

2016年11月17日 | 伊予松山歴史散策
月が地球に近付き、満月が普段よりも大きく見える「スーパームーン」が11月14日起こった。
しかし日本列島は曇天&雨天で鑑賞出来たのは、沖縄と北海道のみであった。
翌日、15日松山で雲の間隙を縫って夜空の雲の合間から十六夜スーパームーンが姿を見せた。

月は、地球の周りを楕円形軌道で回っており、地球との平均距離は、約38万4000Kmで、この日(14日)の最短距離は 35万6511 kmまで近づいた! 平成26年、平成27年よりもさらに近く、昭和23年以来68年振りとなる距離まで地球に近づき、今年最も小さかった満月よりも14%直径が大きく、面積は30%程大きくなったので明るく見え、硬貨で比較すると1円硬貨と100円硬貨くらいの差があると言われる。距離も2万7000Km近くなったそうです。

画像は、雲の合間から見えた「スーパームーン」でレンズは、60倍ズーム、1440mm相当で撮影。
撮影開始は、15日午後6時58分からから時間の経過で月の表面の文様が変わってくる。
松山市の月の出は午後6時02分でした。外気温は16、1度暖かい夜でした。


11月15日、午後6時02分が松山の月の出で我が家から撮った68年振りのスーパームーン。
雲が多く雲の合間から見える月をISOと露出補正を調整しながらの撮影。
望遠で撮ると月の移動が速く月をカメラの中心に修めるのが忙しい。
昨日は曇天で、本番のスーパームーンを観ることが出来なかったが、十六夜スーパームーンとなった。


多くの雲の間を駆け抜け色んな十六夜スーパームーンが観察出来た。


雲の間を駆け抜け色んな違った十六夜スーパームーンが観えた。


時々薄曇の影響で霧がかかった表情をする十六夜スーパームーン。


1440mm相当で撮った。厚い雲が少なくなくなると月の表側がよく見える。


十六夜スーパームーンの上部、沢山のクレーターが観える。
此れは地球に最接近のためか?


十六夜スーパームーンの下部で月の表側の下にある「ティコ」の位置がよく観える。
ティコ (Tycho) は、月面の南部に位置するクレーターで、非常に大きく(直径85キロ)、目立つので、双眼鏡程度でも見ることが出来る。
デンマークの天文学者・ティコ・ブラーエにちなんで命名されたそうです。
地球の直径は1万2,756km、月の直径は3,474km。


今年最も離れていて小さく見えた満月の日が4月22日と比べてみると、距離でいうと、約5万キロ近い約35万6500キロに縮まったそうです。
見かけの大きさは、11月14日の満月は、直径で約14%、面積で約30%も大きくなったそうです。
次にスーパームーンが楽しめるのは、平成30年(2018)で距離は356,570km。
そしてこの年のスーパームーンは、なんと1月1日!なんとお目出たい~!
ちなみに、次に今回と近い大きさのスーパームーンになるのは18年後の2034年で、今世紀最も近づくのは2052年だそうです。
2052年のスーパームーンは12月6日で、距離は356,421 km と予想され、月までの距離が 356,400 km以下になるのはとてもめずらしく、前回は1930年1月14日(356,397 km)、次回は2257年1月1日(356,371 km)なんだそうです。


今夜(11月17日)撮った月で、右上が少し欠けていた。
送電線の鉄塔は、四国電力の鉄塔。
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NHK大河ドラマ「真田丸」に関する城を辿る・「備中松山城」

2016年11月15日 | 伊予松山歴史散策

大河ドラマ「真田丸」のオープニングに登場する備中松山城。

オープニングに登場する真田丸では、備中松山城の天守を含めて4カ所が映し出される。
TVに映し出された画像。

先日、長野県上田市で、「真田丸スペシャルin信州」が放映され、出演した、草刈正雄さんは、30年前に、真田太平記では、真田幸村をお演じ、まさか、真田丸では、真田昌幸の役を頂けるとは思いもよらず誠に光栄で人生最高の役柄です。また片岡愛之助さんは、以前から大谷吉継を演じたかったのですが、その役柄を頂き大変光栄です。お二人は、もう逝去し画面に出ることはないですが、回顧録として再度登場したいと言われると会場から大きな拍手が起こった。お二人とも最高の役を頂きましたのでいい演技をしようと頑張りましたとのコメントがあった。


大河ドラマ「真田丸」のオープニングに登場する画像と同じ場所からの画像。
画像は平成21年9月26日撮影。
大河ドラマ「真田丸」は大坂夏の陣が始まりいよいよドラマも佳境、どの様な内容で終了するのか?であるが楽しみである。近年の大河ドラマの中では一番評判がいいようだ。
オープニングに登場した備中松山城、さぞ多くの方々が見学に来られたのではないでしょうか。


平成6年から本丸の復元整備が行われ、平成15年に天守修復工事がされ往時の姿に復元された。
所在地は、岡山県高梁市内山下1。
備中松山城は、日本三大山城の一つで、美濃岩村城(岐阜県岩村町)と、大和高取城(奈良県高取町)、そして備中
松山城(岡山県高梁市)である。


標高430mの「臥牛山」山頂にあり二層二階の山城、日本で一番高いとこにあり現存12天守の中唯一の山城である。
天守1階には籠城戦を意識した長囲炉裏がある。・・天守に囲炉裏があるのはここだけではないでしょうか。
また、大手門跡から見る高石垣は自然石を巧みに取り入れた凄い造りである。
明治2年伊予松山藩との混同をさけるため高梁藩と改称された。


平成15年に天守修復工事がされ往時の姿に復元され、平成18年4月6日、日本100名城第68番に選定された。
藩政時代、松山と名の付く藩が5藩存在した。
松   山   藩
1、 出羽松山藩・・山形県飽海郡松山町に存した藩:2万石
2、 武蔵松山藩・・埼玉県比企郡吉見町に存した藩:3万石
3、 宇陀松山藩・・奈良県宇陀郡大宇町に存した藩 : 5万石
4、 備中松山藩・・岡山県高梁市に存した藩 : 5万石 
5、 伊予松山藩・・愛媛県松山市に存した藩   :15万石 
注:現在は、市町村合併で自治体の名称が変更している。


日本100名城を巡っているが天守に囲炉裏が設置してあるのは備中松山城だけである。


平成6年から本丸の復元整備が行われ、城門、櫓も立派になった。
天守最上階から観た本丸広場。


備中松山城の石垣。登城坂の周囲は、高さ10m以上の巨大で切り立った岩壁がそびえる。
近年周囲の木々の根が石の隙間に入り込み岩盤が不安定になり、岩盤斜面監視システムを設置し、調査・観測する機器が設置してあった。


自然石を取り込んで構築した石垣、人と比較して観て下さい。


ふいご峠から歩くと自然石を利用した凄い石垣が見えてくる。他の城では観ることの出来ない景観である。
平成15年11月6日撮影。


現存12天守唯一の山城それも標高430m、ふいご峠から徒歩約20分、急勾配の道程。


櫓下に仕掛けられた誘電鉄線。


櫓、城門等建造物の周囲には誘電鉄線が張り巡らされている・・猿が悪戯をするのでその防御策だそうだ。
日中は、観光客に危害があてはいけないので電源を切っており、閉館後通電するそうです。
城に従事する職員は、男性のみで女性は勤務に就かせないそうです。身の安全のために。


城見橋公園駐車場からふいご峠駐車場まで車で行くことが出来るが、今年は真田丸の関係で自家用車ではいけないそうです。城見橋公園からシャトルバスか、徒歩で行くかです。
画像は、ふいご峠駐車場。


備中松山城には、平成15年11月6日と平成21年9月26日の2回伺った。
『日本100名城』とは、財団法人日本城郭協会が全国各地の名城探訪の手がかりとして平成18年に定めた日本の名城100選のこと。同協会が平成19年に迎える設立40周年の記念事業の一環として、平成17年に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募し、平成18年4月6日の「城の日」に認定した。100の名城は、観光地としての知名度、文化財や歴史上の重要性、復元の正確性などをもとに、城郭愛好家や専門家などの審査により選定され、そして平成19年6月から、100名城のスタンプラリーが開始された。選定基準の一項に各都道府県から1城以上5城以内と内規がある。
備中松山城は、平成18年4月6日、日本100名城第68番に選定された。

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NHK大河ドラマ「真田丸」に関する城を辿る・宇喜多秀家の居城「岡山城」その2 石垣 

2016年11月13日 | 伊予松山歴史散策

岡山城の天守台.

岡山城の天守台は、5角形で全国唯一のものであり、4角形以外の天守台は、岡山城の他には織田信長が築いた安土城(8角形)以外には見られない貴重な石垣、それも石積みは野面積である。
天守台は、安土桃山時代、関ケ原の合戦以前に積まれた石垣で、既に416年以上経過しておりその間自然災害等で、孕み出しが起これば修復が行われ維持されて来た。一番の敵は地震である。

築城工事は、普請と作事に二分され今風に言えば、土木工事と建築工事である。
石垣・土塁・堀といった普請は、築城工事の7~8割を占める大事な仕事で、普請が終わると作事が始まり、その中心は天守である。有事になり籠城時には物見として、また司令塔の役割を果たす最重要な建物、日本初の本格的な5層天守であった織田信長が築いた安土城天主(信長が造った天守は「天主」と表記した)が颯爽と出現し以後各地に天守を持つ城が出来たが天守台は殆ど四角形で、岡山城の天守台は、5角形で非常に珍しいものである。

城造りの名人と言われた、加藤清正、藤堂高虎も四角形以外の天守台は造っていない。
岡山城の天守台は変則の5角形であるが、高さも優れており15,5mある。
名古屋城天守台は、19,5m、小倉城天守台が18,8mで、その次の高さを誇る。
昨今、お城巡りをされる方が激増しており殆どの方が城郭建築物を観て楽しんでおられるが、是非石垣にも視線を向け見学して下さい。城を支えているのは石垣です。

加藤清正の熊本城の石垣、名古屋城の天守台は加藤清正が積み上げた。
そして藤堂高虎が積んだ、伊賀上野城の高石垣、高さ30mあり反りのない一直線に立ち上がる石垣、今治城の石垣も高虎造、清正は反りがあり、高虎は反りがない。・・また積み方も「野面積・打込接・切込接・亀甲積・算木積」があり刻印もあるので、行かれた城の石垣の積み方、刻印も観ると楽しみが倍増します。・・そして使われた石の出産地も考えてみては如何でしょう。
訪れて観て知る先人たちの技の凄さを。


城内に宇喜多秀家時代の石垣が展示してある。その指示板。


城内に宇喜多秀家時代の石垣。


野面積で積まれた天守台石垣。




天守台の隅の部位で算木積、雑に積まれ一見崩れやすく見えるが耐久性の高い積み方。


関ヶ原の戦い以前に積まれた石垣。


宇喜多秀家が慶長2年(1597)築いた石垣の説明板。





岡山の地名が生まれた・・との説明板も城内にある。


画像は、加藤清正が築いた名古屋城の天守台で反りがある。


藤堂高虎が積んだ、伊賀上野城の天守台は反りのない一直線に立ち上がる。

家康の指示で大坂方との決戦に備えて、もし大坂決戦に失敗した時の家康を迎え入れる城として築城の名人藤堂高虎が築城し、北、西、南、三面に高さ日本一と言われる30mを越える高石垣を築いたこの石垣も反りのない一直線に立ち上がっている。・・
伊賀上野城は平成21年11月8日訪れたが、その時の画像が保存先不明で画像を掲載する事が出来ません。


名古屋城天守台には沢山の刻印がある。・・他のお城にも刻印がありますので観て下さい。


日本100名城第70番指定、平成21年9月26日に行った時に押印した。

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NHK大河ドラマ「真田丸」に関する城を辿る・宇喜多秀家の居城「岡山城」その1

2016年11月11日 | 伊予松山歴史散策

現在岡山城跡は「烏城公園」になっており・・その入口(正面)。


大河ドラマ「真田丸」「花燃ゆ」「黒田官兵衛」の舞台となった岡山城、慶長2年(1597)に、豊臣五大老の一人、高橋和也さんが演ずる・宇喜多秀家、旭川の三角州である大洲原の丘陵に築城、秀吉から寵愛され秀吉の一字、秀を貰い57万4,000石を拝領し大大名となった。
岡山城は「別名・烏(う)城(じょう)、金(きん)烏(う)城(じょう)」の名の如く、金箔瓦と漆黒の下見板の3層6階建ての天守が、川面に映える美しい姿を誇る城である。
現天守は、昭和41年(1966)外観復元で再建され、内部には書院造りの城主の間も復元してある。
現存する城郭建造物は「月見櫓」と「西の丸西手櫓」で、共に国の重要文化財指定である。
天守の北側には岡山藩2代城主池田綱政が憩いの場として作らせた「岡山後楽園」があり、旭川に架かる月見橋を渡ってすぐの所にある。
岡山城は、明治6年に公布された廃城令を地元からの存続要請により免れたが、昭和20年 6月29日の岡山空襲で焼失した。
その後、昭和41年 天守を鉄筋コンクリートにて外観復元され、築城400年記念事業として、創建当時の天守には金の鯱が載っており金烏城と呼ばれていたとの伝承から鯱に金箔を施した。

岡山城には二度伺った。その時の画像で一度目は、平成15年11月7日、二度目は、平成21年9月26日であった。


岡山城天守正面(南面)で黒漆を塗った下見板張りが一際目立つ。
天守は信長が築城した、安土城を模したと言われ5角形の変則で典型的な望楼型天守、城主が生活した「城主の間」があるのが珍しい。


後楽園側から観た天守で5角形の天守台に造られているので天守も変則型である。
観る角度によるとまるで違った天守に観える。


岡山城は、別名・金烏城と呼ばれ、その為に平成8年、築城400年記念事業として、創建当時の天守には金の鯱が載っており金烏城と呼ばれていたとの伝承から鯱に金箔を施した。


昭和20年 6月29日の岡山空襲で焼失する前の天守。
岡山城主は、宇喜多、小早川、池田と続き、31万5千石で明治維新を迎えた。


昭和20年 6月29日の岡山空襲で焼失を免れ、現存する月見櫓、国指定重要文化財である。


天守本壇に上る正門で普段は特定の藩士しか入ることが出来ず門は閉ざされていたので「不明門・あかずのもん」の名がある。
入口左の大きな石に「岡山中学の址」と揮毫されている。
不明門は、昭和41年鉄筋コンクリートで復元された。
明治29年11月21日、この地に岡山中学校の校舎が誕生したが、昭和20年6月29日、岡山空襲で城と共に焼失した。
岡山中学校は、現在岡山県立岡山朝日高等学校と改称された。


岡山開府四百年記念 開祖宇喜多氏顕彰碑記念碑。


5角形の天守台の一部で4角形の天守台は、算木積の個所が直角だが、岡山城の天守台は直角ではない。


5角形の天守台の一部で画像真ん中部分が孕んでいる。


天守北側に名勝、後楽園がある。・・後楽園正面入り口。


日本三名園のひとつの後楽園で、岡山城主、第6代池田綱政によって造営された、国の特別名勝に指定されている。
優れた景勝を持つ三つの日本名園で、「金沢市の兼六園、岡山市の後楽園、水戸市の偕楽園」の総称で国指定の特別名勝になっている。


造園は、城主池田綱政が貞享3年(1686)から15年の歳月を掛けて造った庭園で歴代城主の屋敷としても利用された。
総面積は133,000平方メートルあり、東京ドームの約3倍である。


烏城公園入口にある「岡山市観光ボランティア案内所」。
ガイドさんにお願いすると詳しく城内を案内してくれます。


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