EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

松山市 龍穏寺の「16日桜」

2013年01月31日 | 伊予松山歴史散策
松山市御幸一丁目の龍穏寺に16日桜「別命:イザヨイサクラ」がある。
昨日撮影にいってみた少しずつ開花しては散っていた。
16日桜「別命:イザヨイザクラ」は、小泉八雲が孝子桜として世界に紹介したことから有名になった。
息子、吉平は「桜花が見たいと願う病父のために孝子、吉平が桜に祈ったところ、旧正月16日に花が咲いた」と言う伝説の桜である。

開花は、1月10日頃から咲き出し、咲いては散りまた咲くといった状態で、染井吉野の様に一気に咲き散っていく華やかさはない。
以前の16日桜は、昭和20年7月26日の松山空襲で焼け現在の桜は、地元の庭師が龍穏寺から委託を受け全国探し廻り見出した桜である。

画像は、龍穏寺の16日桜「別命:イザヨイザクラ」と近くにはある日露戦争で捕虜となり松山収容所で亡くなった露軍兵士の「ロシア兵墓地」があります。近くの方は一度お出かけ下さい。


参道にある龍穏寺の16日桜「別命:イザヨイザクラ」の石碑。


龍穏寺の山門。


境内本堂前に2本の16日桜「イザヨイザクラ」の内の一つ。
離れて見ると開花しているのか?判明しぬくい、密やかに咲く。


染井吉野の様に華やかさはないが、


桜花が見たいと願う病父のために孝子、吉平が桜に祈ったところ、旧正月16日に花が咲いたと言う伝説の桜である。














龍穏寺の16日桜「イザヨイザクラ」を詠んだ俳人達の句が石碑になっている。


日露戦争で捕虜となり松山収容所で亡くなった兵士を手厚く埋葬した墓地が龍穏寺の前にある。先日標示板を松山市は変更した。変更の理由は、以前の標示は「ロシア人墓地」であったが、ロシヤ兵の中には、ポーランド人が多く居たのが判明したため「ロシヤ兵墓地」と変更した。


ロシヤ兵墓地は、地元松山市立勝山中学生が清掃し何時も草一つない綺麗で、献花が絶えたことがない。亡くなったロシヤ兵士の関係者が松山に来られ、感謝の念を何時も残される。・・日本とロシヤの一つの掛橋となっている。
管理は、松山市が行っている。
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新伊予松山紀行 伊豫13佛霊場めぐり 第12番 理正院

2013年01月30日 | 伊予松山歴史散策
伊予13佛霊場第1番霊場「大蓮寺」を巡拝、次の霊場第12番理正院に移動、向い風を真ともに受け、愛媛県総合運動公園(ニンジニアスタジアム)の中を横断し国道33号線に出て、理正院に、25日予定していた霊場めぐり最後の札所である。走行距離は、27,3kmであった。

理正院のご本尊は、大日如来で、伊予郡砥部町麻生393番地にある。寺社伝によると、大同2年(807)弘法大師空海が四国巡錫の時、国司であった河野大夫越智禰実勝に諮ってこの地に堂宇を建立、僧・行基の作と伝わる大日如来座像を案じて本尊と定めた。

文治3年(1187)に河野通信と得能通俊の父子がこの地に金比羅大権現を勧請、祈願所とした。楼門や本殿は伊予松山初代藩主・加藤嘉明によって再建されたもので389年の歴史を誇り、再建当時には7堂伽藍が立ち並び威風堂々としていたと伝わる。

本尊「大日如来」は、真言密教の教主であり、大日とは、サンスクリット語で「偉大な輝くもの」の意で、全ての命の源とされる。全てのものに等しく降り注ぐ太陽の恵み、その太陽の大きな力を更に上回る「大光明」を衆生に与え、更に人々を光の中に包み救おうとされその光明が世の中を遍く照らすところから「遍照」または「大日」と呼ばれている。

以上の事を念頭に置き境内に入り本堂で「南無大師遍照金剛」を唱えお参りをした。我が家も真言宗豊山派であるので。
画像は、伊予13佛霊場、第12番 理正院。


理正院入口には、回廊門があり、立派な寺号碑がある。真言宗智山派 東向山理正院と。愛車自転車を入れて。


廊下門左には、画像の言葉が掲示してあった。大事な言葉、心胸におき一礼して境内に入る。


理正院、廊下門。


廊下門を通ると、立派な楼門が見えてくる。大同2年(807)空海が四国を伝道した時、当寺の国司散位越智宿祢実勝と相談建立したとある。歴史ある楼門だが一度焼失し、寛永元年(1624)伊予松山城主加藤嘉明が再建した。


楼門を潜ると数段の石段がある。


本堂である。お参りを済ませて、見渡すと直ぐ隣に神社がある。


本堂の前にある「大師堂」ここもお参りをする。


本堂下に大きな「従軍記念碑」の石碑がある。何時の時代の従軍記念碑と石碑裏面等々を拝見するも不明? たぶん日露戦役の記念碑ではないかと自己判断。


本堂下に門があり、宗派名と寺号名があり奥が納経所である。


寺の駐車場からみた理正院。


河野通信と得能通俊の父子がこの地に建てた「金比羅大権現」である。
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新伊予松山紀行 伊豫13佛霊場めぐり 第1番 大蓮寺

2013年01月29日 | 伊予松山歴史散策
伊予13佛霊場発願寺「明星院」から第1番霊場「大蓮寺」を巡拝、この日は風が強く、自転車移動なので大変であった。30分程掛かった。
大蓮寺のご本尊は、不動明王で、松山市東方町甲902番地3にある。国指定重要文化財・渡部家住宅の前にある。

縁起は、1300年代、孝謙天皇の勅願寺として創建とある。その後寺盛は衰退したが、弘法大師空海が四国巡錫のおり、自らの強欲を恥じたこの地の富豪・衛門三郎が小村大師堂を創建、併せて大蓮寺も再興された。この際、法相宗から真言宗に改宗されたと・・資料にある。

また、信仰、文化活動、憩いの場として地域に根ざした衛門三郎縁の寺として、地域の人々から慕われている。

山門横に大きな石碑が建立してあった。
海軍中将、秋山眞之、正岡子規と友好があり、特に子規の俳句革新に参加し俳壇で活躍した後子規とは袂を分かち、新傾向俳句に転身活躍した。当時の俳諧結社「金平会」の俳夏行に参加したとの記録が有る。旅が好きで、自然に親しみ山川草木の事如くに「佛性」あるいは「佛となるべき因」を見出した碧梧桐を偲んで地元の有志が昭和53年9月に句碑を建立したとある。

註:河東碧梧桐
河東碧梧桐明治6年2月26日 -昭和12年2月1日は、日本の俳人・随筆家。本名は秉五郎(へいごろう)。
愛媛県温泉郡千船町(現・松山市千舟町)にて松山藩士で藩校・明教館の教授であった河東坤(号・静渓)の五男として生まれる。少年の頃は正岡子規の友人で後に海軍中将となる秋山眞之を「淳さん」と敬愛していた。
明治21年、伊予尋常中学。明治22年、帰郷した子規に野球を教わったことがきっかけで、同級生の高濱清(後の高浜虚子)を誘い子規より俳句を学ぶ。

明治26年、京都の第三高等学校入学。第二高等学校(現在の東北大学)に編入の後、中退。
明治35年に子規が没すると、新聞『日本』俳句欄の選者を子規より受け継ぐ。明治38年頃より従来の五七五調の形にとらわれない新傾向俳句に走り始め、明治39年より明治44年にかけて新傾向俳句の宣伝のため二度の全国俳句行脚を行う。
昭和8年3月25日、還暦祝賀会の席上で俳壇からの引退を表明した。昭和12年1月、腸チフスを患い、更に敗血症を併発し、2月1日に65歳にて永眠。墓所は父母が眠る松山市の宝塔寺及び東京都台東区の梅林寺に分骨されている。
書体は独特の字で、記憶に残りやすい字である。


発願寺、明星院から、第1番霊場大蓮寺に移動、この日は西風が強く移動方角は南西向かい風かなりきつかった。画像の自転車で移動。


大蓮寺正面、山門右に、河東碧梧桐の大きな句碑があった。


山門左には、寺号碑が「真言宗 豊山派 大蓮寺」


大蓮寺の本堂。


本堂から見た境内。


河東碧梧桐句碑
「山川草木悉有佛性・さんせんそうもくことごとくぶっしようあり」明治43年8月当寺に滞在、俳句結社「金平会」の俳夏行に参加した時の句といわれている。


河東碧梧桐句碑の裏面。


大蓮寺北隣にある、国指定重要文化財 渡部住宅がある。


重文、渡部住宅、門から見た画像。開館は土日のみであるが、この日は特別に空いていたので一枚撮らせて頂いた。渡部住宅は、江戸末期慶応2年に上棟された庄屋の家、江戸時代は、武家住宅は、瓦屋根が葺けたが、渡部家は庄屋と言っても百姓の家、屋根は殆ど瓦葺であるが、申し訳に一部藁葺きの屋根をあげている。

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新伊予松山紀行 伊豫13佛霊場めぐり 第6番 極楽寺

2013年01月28日 | 伊予松山歴史散策
伊豫13佛霊場発願寺2番霊場「浄土寺」を参拝し、第6番極楽寺に向かった。
浄土寺から3分程のところにある。
ご本尊は、弥勒菩薩で、鎌倉の作で「慈悲菩薩」とも呼ばれ、至上の慈と至上の愛、私達衆生を深く憐れんで苦を除き、楽を授けてくださると考えられている。

13佛は、人が亡くなると、その人の冥福を祈り来世徳楽を念願、遺族達は33回忌まで13の法要を行う。亡くなってから49日間には7日目毎に初七日、27日、37日、47日、57日、67日、77日と7回の忌日があり、この7回と100ヶ日、1周忌、3周忌、7回忌、13回忌、33回忌、の6回の年忌を合わせた13回の法要が行われる。

この13回の法要に、13の佛菩薩を割り当て配したものが13佛で、それぞれの佛菩薩が回忌を掌ると考えられている。亡くなった人の「追善供養」だけでなく、自身の死後の法事を生前に修する「逆修供養」にも13佛は信仰された。・・とある。

以上のような教えを念頭におきながら巡拝をし、次の霊場に向かった。


極楽寺山門に伊予13佛霊場の大きな案内板が設置してあった。


いよいよ山門に向かい伊境内に入る。この近くには、小学校、中学時代の同級生が居り、この寺にも遊びに来た。
当時から比べると随分と整備され綺麗になった。


山門に「伊豫13佛霊場第六番札所」と書かれている。


いざ山門を潜り本堂でお参りをしよう。境内も綺麗に整備されている。


本堂で、何時頃建て直したのか新しい。


鐘楼堂横から撮った。


左に少し見える建物に納経所があり、庫裏もある。


山門前に、大きな石碑がある。「お遍路や 極楽浄土 疑わず」の句碑で、旧温泉郡重信町牛渕出身(現、東温市)の元高野山真言宗管長、森寛紹(白象)大僧正の句である。
我が家にも、高野山真言宗管長現職時代、森管長さんに揮毫して頂いた色紙がある。


句碑裏面。
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新伊予松山紀行 伊豫13佛霊場めぐり 第2番 浄土寺

2013年01月27日 | 伊予松山歴史散策
伊予13佛霊場発願寺「明星院」巡礼の前に、2番霊場「浄土寺」に参拝した。浄土寺は、四国88ヶ所巡礼札所、第49番霊場で我が家の菩提寺である。
ご本尊は、釈迦如来、開創は天平勝年間、恵明上人により行基が彫造した本尊を祀って開かれた。

また、念仏を唱えて市中を巡り「市聖」「阿弥陀聖」と呼ばれ、民間浄土教の祖となった「空也上人」がこの地に3年間留まり布教を続けていた際、里人に求められ刻んだ自像が残されており、国指定の重要文化財として安置されている。

その像は、口から「南無阿弥陀仏」の文字が変化した6体の小さな仏様を出している姿である。現在も巡拝に訪れる人々に極楽浄土の教えを説き人々に安心を与えている。

13佛信仰は、民間信仰として始まり大衆化して全国にひろまったといわれる。全国各地で盛んに行われている。
四季折々の古刹をめぐり「信仰と癒しの小旅行」として楽しめるものでもある。春になると巡拝者が大勢訪れる。

画像は、伊予13佛霊場、第2番霊場 浄土寺(四国88ヶ所第49番札所)


所在は、松山市鷹子町1198番地にある。浄土寺前の市道から撮った山門。


山門左に「伊予13佛第2番 浄土寺」の札が掲げてある。(四国88ヶ所第49番霊場でもある。)


山門を潜ると本堂が見えてくる。


境内中央で、真ん中に本堂(室町時代建築、国指定重文)右に大師堂、左が阿弥陀堂、画像にはないが、左側に茶堂がある。そして手前に鐘楼がある。


大師堂で両サイドに大きな記念碑がある。


門の奥が納経所と庫裏がある。


本堂に、空也上人の立像がある。像高122・4cmの寄木造りで、南無阿弥陀仏と唱え遍歴する姿で口から六字の名号が仏となって現れる肖像彫刻である。
鎌倉時代の作で、昭和11年9月18日、国指定の重要文化財指定木造
空也上人は平安時代の僧で日本浄土教の先達である。
昭和42年、久米村史刊行時に、先代住職の許可を得て撮った。(久米村史より)


正岡子規の句碑がある。「霜月の 空也は骨に 生きにける」
この句は、明治29年12月3日雑誌「太陽」に載った冬の句で、3年間当寺の留まった空也上人「骨に生きる・とは、空也の肉体が白骨となっても人々の胸に念仏の教えが今も生きている」の意。そして揮毫は、前高野山管長、森寛紹大僧正(旧温泉郡重信町牛渕出身)の筆である。


境内の裏にある墓地一角に「三輪田米山」のお墓がある。
「文字は生前自分が揮毫したそうだ。」
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