EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

河野通春&伊藤博文

2013年08月28日 | 伊予松山歴史散策
秋山眞之立像と大分県竹田市の広瀬神社から贈って頂いた護国の石の撮影の帰りに、松山市新浜町にある河野通春を祀るお堂と港山町にある河野通春の居城であった港山城跡を見て、そして梅津寺町に残る伊藤博文に纏わる松の木も見聞して来た。
先ず、河野通春について、通春は、伊予国河野氏・予州家(分家)の武将で、河野通之の孫、河野通元の子。河野氏宗家と予州家(分家)による家督をめぐる抗争は、河野通義が死没前にその弟・通之に家督を譲る際に「(通義の)妻が男児を出産したら、その子に家督を相続させるように」と遺言したことに始まる。やがて通義の妻は男児・河野通久を出産したため、通之は通久に河野氏惣領の地位を譲るが、これを不満とした通之の子・通元が通久に敵対した。この内紛は室町幕府が調停に介入したにも関わらず解決を見ぬまま次代に持ち越されることとなり、通春は嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱以来、河野氏の主導権をめぐって宗家の河野通直と対立した。そのため河野氏の衰退を招き、守護大名から戦国大名になれなかった。
時代は違うが、初代内閣総理大臣伊藤博文の祖先は河野氏であるといわれている。明治42年(1909)に松山道後温泉に来訪(一説には、体調を患い療養のため)宿泊は、道後ふなや旅館、東京に帰るとき送迎会の席で「私の祖先は伊予の河野であると演説、これから満州に行くが、来年再訪し、先祖の供養をしたい」と語ったと伝えられている。
けれど、その年の10月、満州外遊中にハルビン駅で暗殺、叶わぬ夢となった。叶わなかった先祖の供養は、その後広島県竹原市の長生寺で行われた。長生寺には、最後の伊予守護河野通直が眠っている。供養の際松山市から影浦勉氏を招いて講話会を模様したと住職から聞いた。(平成15年5月12日、長生寺訪問したとき)
註:天正15年(1587)豊臣秀吉の四国平定の命を受け伊予に侵攻した小早川軍に敗れて竹原にのがれていた伊予の河野通直が病没したのをいたみ、小早川隆景が建立し、寺領として二百石を寄進して開山した寺。


伊予鉄道高浜線、港山駅前(県道沿い)にある河野通春のお堂案内板。秋山眞之、秋山好古の銅像設置場所の近くにある。


河野通春のお堂で、地元民は通春の供養行っている。


お堂に掲示してある、河野通春の説明板。


河野通春の居城であった「港山城跡」、三津の渡し船から撮った。
この渡しは市道高浜2号線の一部として、松山港内港地区の三津と港山の間約80メートルを結ぶ市直営の渡船で、年中無休、無料で年間約5万人の利用者に親しまれている。
【運行時間】午前7時から午後7時 随時運航、年中無休(荒天などにより、運休する場合がある。)
【料金】 無料
【交通機関】伊予鉄港山駅から徒歩2分、伊予鉄三津駅から徒歩15分


三津の渡しのはじまりは港山地区側にある港山城の築城の頃にまで遡る。応仁元年(1467)当時、河野氏分家である河野予州家の河野通春が港山城に拠り、物資輸送と城兵が三津浜側にあった須崎の浜に毎朝食料を買い求めるために利用したのがはじまりという。


松山市教育委員会が設置している港山城跡の説明板。


明治42年に松山道後温泉に来訪した時の記念のお手植えの松と紹介された時期があったが、伊藤博文からのご喜捨の一部で松の種を購入して蒔き育てた松である。沢山あったが松食い虫被害で枯れ現存する松は少なくなった。所在地は、伊予鉄道高浜線梅津寺駅前にある。


松ノ木から東に100m程のところに伊藤博文来松記念として植えられた松の事が書かれている記念碑。・・この記念碑の真上に秋山好古の立像がある。


記念碑の横に説明板が設置してある。


平成15年5月12日、広島県竹原市長生寺を訪れたとき住職に案内され説明を受けた伊予守護河野通直の墓。


広島県竹原市観光協会が設置した河野通直の墓についての説明板。


長生寺本堂に安置されている位牌で、右が河野通直の位牌、左が、村上元吉の位牌。住職さんの許可を得て撮影した。
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藤原純友・駒立岩

2013年08月27日 | 伊予松山歴史散策
先日、梅津寺町にある、秋山眞之立像と大分県竹田市の広瀬神社(軍神第1号の海軍中佐、広瀬武夫を主祭神社)から贈って頂いた護国の石の撮影の帰りに、松山市古三津五丁目にある久枝神社に寄って来た。この境内に「藤原純友の駒立岩」がある。藤原純友伝説の一つで語り継がれている、純友が駒を立てて沖を見たと伝えられる岩である。純友は北九州より伊予に敗走しこの地に住んでいたと言われている。
天慶2年(939)伊予の掾であった藤原純友は任期が終了してもこの地に留まり海賊の首領となった。拠点を日振島に置き、瀬戸内海で略奪乱暴を働き、ついに朝廷では藤原純友討伐の追捕使として小野好古らを派遣した。好古は先ず純友の次将藤原恒利を味方に引き入れ討伐軍は優勢となった。窮地に陥った純友は、瀬戸内海を西に抜け博多湾を襲撃し、続いて内陸に侵入し大宰府に攻め入った。事態の重大さに驚いた朝廷は、参議藤原忠文を征西大将軍に任じ、小野好古と共に純友を討たせた。大宰府と博多湾で大激戦の末、純友は敗れ伊予に逃げ帰ったが、橘遠保の軍勢に捕らえられ、その子重太丸と共に斬られた。・・これが、藤原純友の乱である。同じ頃関東では、平将門が乱を起こし、併せて承平天慶の乱と呼ばれる。・・松山市教育委員会発行の「伊予路の文化」より一部引用。
また、この地は慶長5年(1600)9月14日、伊予の関ヶ原と言われた大合戦があった。御家再興を狙う河野氏の旧臣や瀬戸内の旧能島村上水軍が河野氏領地奪回に三津に上陸、関ヶ原に出陣中の加藤嘉明の留守隊との戦いがあった。


松山市古三津五丁目にある久枝神社境内口。


久枝神社にある、藤原純友の駒立岩・・駒を立てて沖を見たと伝えられる岩である。


境内には、画像の碑が建立されている。
熟田津(にきたつ)に、船(ふな)乗りせむと、月待てば、潮(しほ)もかなひぬ、今は漕(こ)ぎ出(い)でな


熟田津に、船乗りせむと、月待てば、潮もかなひぬ、今は漕ぎ出(い)でな
この歌は九州へ向かう途中、斉明7年(661)1月、熟田津(にきたつ・今の愛媛県松山市)に滞在し、次の航海のタイミングをはかっていたときの歌で、斉明天皇(さいめいてんのう)の歌とも言われている。所在はいろいろ諸説があるが、この久枝神社との説もあり、地元の土地改良区が記念碑を建立している。「熟田津は、愛媛道後温泉付近との説もある」
また、熟田津とは瀬戸内に面する水軍のふるさと、愛媛県松山の津のどこかであるともされている。


画像のような記念碑も建立してある。


久枝神社拝殿内部。


拝殿に掲示してある絵馬・・熟田津の図の絵馬。


拝殿には画像のような社号額が掲げてある。


宮前地区の文化遺跡を守る会が史跡を紹介する案内板が神社境内に設置してある。

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第16回全国高等学校俳句選手権大会 決勝戦

2013年08月26日 | 伊予松山歴史散策
8月24日(土))から始まった第16回全国高等学校俳句選手権大会(愛称:松山俳句甲子園)は、25日(日)会場を松山市総合コミュニティセンターの文化ホールに移し13人の審査委員の先生方を前にして敗者復活戦・準決勝、決勝戦が行われた。
俳句甲子園とは、17文字に秘められた言葉の熱闘、各チーム5人で構成し俳句を掲げ相手高校から質疑を受けそれに対して応答する言葉の激戦である。
言葉には、麗しさ、力、等々伝える事、伝わる事、覚える事、育てる事が多彩に含まれている。昨日の予選を勝ち進み、また敗者復活戦から勝ち進んだ高校生が頂点を目指して言葉での戦いをした。
俳句は17文字の裏側には、何百、何千もの言葉が閉じ込められている神秘な日本独特なもの、即興で特殊世界を作りその中で楽しむ芸事、世界最短の短詩系文学を素晴らしい表現力で戦った高校生は素晴らしいの一言に尽きる。
決勝戦は、東京都の開成高校Aと京都府の洛南高校Bが対戦し、開成高校Aが二年ぶり7度目の優勝をした。
今年も、東京の開成高校Aの生徒さん達は会場内での行動が非常に規律正しく舞台での表彰受賞での礼儀が参加個高校の中一際目立った気持ちのいい姿だ。優勝おめでとう。31年連続東京大学入学NO1の高校、勉学だけでなく日頃からの礼節もキチンと身に着けた素晴らしい高校だった。
第16回全国高等学校俳句選手権大会(愛称:松山俳句甲子園)個人最優秀句に選ばれた広島県立広島高等学校2年生、青本柚紀さんの「夕焼や 千年後には 鳥の国」が選ばれた。広島高等学校決勝トーナメント戦には出れなかったが、個人最優秀賞を勝ち取った。青本柚紀さんの句は、松山市居相町にある「伊予豆比古命神社・通称椿神社」の境内に記念として栄誉を永久に句碑玉垣として建立される。

最後に審査に当たった13名の先生一人ひとりから挨拶と励ましの言葉があった。ある審査員の先生から次のような言葉があった。私は、第1回目から審査委員として参加しております。惜しくも1回戦で敗退し悔し涙を流し落胆していたが、全国では予選会にも出場したくても参加する事が出来ない高校もある。本大会の俳句甲子園に来れた事の喜びを忘れずにして欲しい。もう一人の先生は、俳句甲子園で出会った人たちを大切にして人生を歩んで下さい。正岡子規と出会った高浜虚子、夏目漱石は俳人となり、文学者となったのです。出会いを大切にして下さい。
俳句甲子園は、一年毎に充実しており、来年も審査員として是非参加し若い高校生の皆さんから俳句の活力と感動を分かち合いたいと挨拶し言葉を贈った。最後に参加者一同からスタッフの皆さんに素晴らしい大会の運営ありがとうございましたとお礼の言葉があった。・・そして地元審査員の先生からは、来年も是非とも、松山俳句甲子園にお越し下さい・・と挨拶し大会は無事終了した。


第16回松山俳句甲子園開催要項&資料の表紙。


松山市総合コミュニティセンター正面玄関に掲示された大会標題。


第16回俳句甲子園全国大会 参加学校リスト。


第16回俳句甲子園全国大会の審査をする先生方の紹介。全国で活躍しているそうそうたる顔ぶれ、中でも高浜虚子を祖父に持つ、稲畑汀子さんが審査委員長を務めた。ホトトギス主宰者。


会場のロビーに掲示された大会表題と参加高等学校の俳句を天井から吊るし展示。


会場のロビーに掲示された参加高等学校の俳句を天井から吊るし展示。


会場ロビーに参加高校の紹介パネルを展示。


昨年開催された第15回の最優秀賞と優秀賞の句。・・ロビーに展示。


いよいよ決勝戦のはじまり、第16回俳句甲子園全国大会決勝戦は、東京都代表・開成高等学校A対京都府代表・洛南高等学校Bが対戦。


結果は、3対2で東京都代表・開成高等学校Aが二年ぶりに優勝、論戦が繰り広げられ満員の会場から大拍手が起こった。審査員判定の赤旗が多く上がった。


2年振り7度目の優勝して喜ぶ開成高校A、過去6回の優勝回数を誇る強豪高・・学校に文化部があり俳句クラブが有名で、参加高校は打倒開成を目指して来る。


第16回全国高等学校俳句選手権大会(愛称:松山俳句甲子園)で開成高校の5名、優勝旗を手にして主将、大塚雅也君、熱戦を振り返り余韻を伺う司会者。


残念ながら準優勝となったが、開成高校Aと互角に戦い悔いなし。言葉を求められ答える女性徒は未だ一年生これからが楽しみ。


個人入選賞20名が選句され壇上にあがり表彰された。・・まさか選ばれるとは思ってなく壇上に上がりながら嬉し涙を流していた。


個人戦優秀賞10名が選出され壇上にあがり表彰された。選句された女子高生は、嬉しさの余り壇上で号泣して喜びを表した。・・俳句をしてよかった!!と


夕焼や千年後には鳥の国
第16回全国高等学校俳句選手権大会、個人最優秀句には、広島県立広島高等学校2年生、青本柚紀さんの「夕焼や 千年後には 鳥の国」が選ばれた。
広島高等学校決勝トーナメント戦には出れなかったが、個人最優秀賞を勝ち取った。愛媛県下で一番多くの参拝者が訪れる「伊予豆比古命神社・通称・椿神社」の境内に記念としての栄誉を永久に句碑が建立されている 現在第1回目から第15回目までの個人最優秀句に選ばれた句が句碑玉垣として建立されている第16回個人最優秀の句碑が近々第15回句碑の左に建立される。・・是非見に来て下さい。


個人最優秀賞を勝ち取り最優秀の賞状を深々とした礼で受け取る広島県立広島高等学校2年生、青本柚紀さん。


個人最優秀賞を受賞され司会者に感想を聞かれるにも嬉しさの涙で言葉が出ず、観客席からも、審査の先生も、もらい泣きをして居た。


閉会式は、審査員13名の先生方が演壇に上がり、一人ひとりが挨拶をした。
今年初めて審査員となった方、16年連続で審査している方々・・素晴らしい16回大会であったと好評・・地元の審査員はここまで成長した俳句甲子園は裏方で一年かけて準備して来た事が大きいと言った。・・13名の審査員は、稲畑汀子・高野ムツオ・星野高士・小澤實・田中亜美・高柳克弘・中原道夫・阪西敦子・仁平勝・正木ゆう子・岸本尚毅・津川絵里子・夏井いつき・の方々。
近年ディベートが長すぎる、政治家が答弁するような形でなく、簡単明瞭なディベート心がけて下さい。ある先生は、この俳句甲子園大会の審査は大変です。命がけで来ております。予選会場の大街道商店街が暑い+参加高校生が暑いので・・しかし高校生の熱心な俳句の取り組む姿勢とそれを体全体で表現する姿を見て感動の連続、今年も来てよかったです。来年も呼んで下さい・・と挨拶されて先生も居た。


閉会後、参加記念にと壇上に上がり記念写真を撮って故郷に帰っていった。


愛媛県下で一番多くの参拝者が訪れる「伊予豆比古命神社・通称・椿神社」の境内に記念としての栄誉を永久に句碑が建立されている。 現在第1回目から第15回目までの個人最優秀句に選ばれた句が句碑玉垣として建立されている。
第16回個人最優秀の句、広島県立広島高等学校2年生、青本柚紀さんの「夕焼や千年後には鳥の国」句碑が近々建立される。・・是非見に来て下さい。




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第16回全国高等学校俳句選手権大会「愛称 俳句甲子園」

2013年08月24日 | 伊予松山歴史散策
第95回全国高等学校野球選手権大会が先日終了した。
四国管内で全国高等学校選手権大会と名の付く大会が3件ある。
それは、高知市で開催されている、全国高等学校漫画選手権大会「愛称・まんが甲子園」愛媛県四国中央市で開催されている、全国高等学校書道パフォーマンス選手権大会(愛称・書道パフォーマンス甲子園)それから、松山市で開催される、全国高校俳句選手権大会「愛称:俳句甲子園」がある。

全国高校俳句選手権大会は今年第16回を迎え全国の予選を勝ち抜いた代表高校が松山に相集い言葉の表現で競う予選会が松山市大街道商店街特設会場で行われた。大会は、高校生を対象とした俳句コンクールで、社団法人松山青年会議所、NPO法人俳句甲子園実行委員会が主催し正岡子規没後100年の第4回大会から松山市が後援となった。第8回大会から文部科学省より「学びんピック」に認定、昨年、実行委員会が第34回サントリー地域文化賞を受賞した。
また、松山市では「子規の郷、松山市は(ことばのちから)でまちづくりしています。」
その活動で生まれた曲が「新井満氏より自費でレコーディングされた(この街で)である。」

画像は、8月24日(土)大街道商店街特設会場で行われた俳句甲子園大会予選の模様。・・明日25日は会場を松山総合コミュニティセンター文化ホールで敗者復活戦・準決勝戦・決勝戦が行われる。


大街道商店街に掲示された俳句甲子園開催歓迎板。


伊予松山が生んだ近代俳句の父「正岡子規」も応援。・・今年も頑張ろうぞな!!


第16回松山俳句甲子園出場高校の案内板。
今年の参加高校は過去最高の125高校が参加し、地区予選を勝ち抜いた36高校が松山の本戦に参加し優勝を競う。


第16回松山俳句甲子園、組み合せ表。


大街道に設置された特設会場は12会場で、各会場に出場高校の紹介掲示板が設置してある。


特設会場は12会場各舞台には画像の表示板が設置してあった。


午前10時10分から試合は始まった。大街道商店街12会場で行われる試合は、先ず始めに特設舞台に選手入場(会場に参加した市民、応援に駆けつけた学校関係者達の拍手で)そしてお互いの検討を称えて挨拶をして、いざ決戦。


参加高校のなかで目に付いたのが、熊本信愛女学校の選手で、制服で参加・・清潔感と高校生らしさで凛々しさがあり好感が持てた。


両校の俳句言葉の戦い、観戦する市民、参加高校の関係者も熱心に聞き入っていた。


相手高校の俳句について鋭く言葉で切り込む女子高生。


俳句甲子園、両校対戦の結果は5人の審査の先生方が紅白の旗で勝敗を決める。


両校対戦の結果好評をする審査の先生。


開催主催スタッフのユニホーム。


京都府洛南高等学校のユニホーム。


高知県土佐高等学校のユニホーム。
皆さん優勝を目指して頑張って下さい。
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秋山眞之の立像と広瀬神社から贈られた記念の「護国の石」

2013年08月22日 | 伊予松山歴史散策
大分県竹田市に広瀬神社がある。同市出身で軍神第1号の海軍中佐、広瀬武夫命を主祭神とし祀られている。明治37年(1904)3月27日に日露戦争の旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬中佐の人格と報国の精神を敬仰する人々により「広瀬神社創建奉賛会」が結成され、昭和10年(1935)5月に社殿が落成、同月25日に鎮座祭が行われた。
海軍中佐、広瀬武夫は、秋山眞之と海軍兵学校の先輩、後輩の間柄で、武夫は、海軍兵学校第15期生、眞之は、第17期生である。
先日、竹田市から現在、広瀬武夫顕彰を計画立案中で、その計画資料の一つとして、松山に広瀬神社からお贈りした石を秋山眞之立像を背景にした画像があればお送り願いたいと秋山兄弟生誕地に照会があり、今日(8月22日)松山市梅津寺町にある秋山眞之と石の写真を撮りに行って来た。

眞之立像の横にある石は、広瀬神社から贈られた「旅順口閉塞作戦の船に積んだ石」(護国の石)である。
有名な言葉が残っている。第2回旅順口閉塞作戦に参加した福井丸指揮官広瀬武夫少佐と杉野孫七上等兵が居た。杉野は爆破装置操作のため艦首に向かったきりだった。広瀬は「杉野!杉野!」と叫びながら捜し回り、敵弾の砲煙の中で、ボートと船内を三度も往復した。そして広瀬と杉野は帰らぬ人となった。


梅津寺町にある秋山眞之の立像と広瀬神社から贈られてきた「護国の石」。
秋山眞之の立像は、遥か彼方旅順方向に向いて立っている。


秋山眞之の立像で台座には「智謀湧如」と揮毫されている。揮毫者は、東郷平八郎で、その上には、戦艦三笠が描かれている。


広瀬神社から贈られてきた「護国の石」と秋山眞之の立像。


広瀬神社から贈られてきた「護国の石」


広瀬神社から贈られてきた「護国の石」・・大きさは、63cm×31cm


秋山眞之の立像裏面には砥部焼きで仕上げた関係者の氏名が埋め込まれている。


秋山眞之の立像説明板。


秋山眞之の立像左横に石碑が建立してある。
石碑、北面には、「皇国の興廃この一戦にあり 各位一層奮励努力せよ」


石碑、西面には「敵艦見ユトノ警報二接シ、聯合艦隊ハ直二出動、之ヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレド浪高シ」


石碑、南面・・梅が香や おまえとあしの 子規・眞之
子規と眞之は松山中学、大学予備門まで共に過ごすが、眞之は東京大学には入学せず、明治19年(1886)10月30日:海軍兵学校に入学する。大学予備門では、夏目漱石も同級生であった。


石碑説明版。


眞之の立像の少し下に兄、秋山好古の立像がある。


秋山好古は、奉天の方向を見るように立っている。奥に見える海は瀬戸内海。
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