EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

伊予松山城本丸の寒梅

2012年02月27日 | 伊予松山歴史散策
昨日(2月26日)JRジバング倶楽部会報に松山城の特集を掲載するので案内をして下さいと大阪市の出版社から、松山コンベンション協会に依頼があり私が案内した。
待ち合わせ時間より早く登城して伊予松山城標高132mにある本丸の寒梅を撮ってみました。
昨日見てみると3分咲きで、今年の冬は例年になく寒さが厳しく開花が遅れていたがこのところの気温上昇で開花が進んでいた。
2月12日時点、開花は白梅のみであったが昨日(2月26日)は紅梅も開花していた。

昨日撮った本丸の白梅と紅梅です。


昨日の松山市は真冬に逆戻りしたかのような気温で空は鉛色の雲が立ち込めていた
取材に来られ会報に掲載する画像を撮るには不向きの天候であった











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伊予松山城天守保存・平成の大修理 2

2012年02月26日 | 伊予松山歴史散策
5層の天守を第3代松平定行は、寛永16年(1639)7月13日幕府の許可を得て3層の天守に改築に取り掛かり、同19年(1672)に完成した。
天明4年(1784)1月元旦落雷で消失。

本丸焼失のため参勤の時期を9月に延期、天明4年6月29日本丸復興の許可を幕府から受けたが復興には諸事情でいたらず、やっと安政元年(1854)に現在の天守が再建された。
伊予松山藩には70年間天守は存在しなかった。

その後、幾多の修復をして来た国指定重要文化財「松山城天守」は度重なる地震・台風等々で破損が酷く昭和の戦後三度目になる文化庁の指示に従い平成の大修理を行い平成18年11月大修理は無事完成した。
画像で平成の大修理完成までを追ってみた。


古い瓦を降ろし新しい瓦に葺き替え


葺き替えた瓦に漆喰で固める


天守の新しい瓦には全て観光に来られた方々の記念にと氏名が記載されている


今回天守の大修理に使われた和釘・・製作者は、地元松山市の白鷹さんで、奈良の法隆寺、薬師寺西の塔復元にも白鷹さんが造った和釘が使われている・・日本一の和釘製作者


平成の大修理で完成した松山城天守


天守最上の屋根には新しく製作された「鯱」と三つ葉葵の鬼瓦があがった
鯱の製作者は、奈良市の小林さんで、小林さんは文化庁の文化財選定保存保持者で鬼瓦職人の第一人者、鯱には「雄の鯱」と「雌の鯱」があり、画像は雄の鯱・・松山城天守の鯱の愛称を募集した結果「雄鯱を・天丸」「雌の鯱を・まつ姫」と決めた


平成の大修理で完成した天守南面


平成の大修理完成式典、伊予水軍太鼓を合図に式典が開始された


完成式に馳せ参じた東雲神社の神輿と担ぎ手達


夜は光の宴を開催し一日祝いで賑わった
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伊予松山城天守保存・平成の大修理 1

2012年02月24日 | 伊予松山歴史散策
慶長7年(1602)1月15日加藤嘉明は勝山の峰を切りならし山頂地盤を造り標高132mの地に現在の天守を中心とする本丸を築いた。次に南西麓に二ノ丸を、西山麓に三ノ丸を設け平山城を築き上げたが完成1年前に40万石で会津藩に幕府の命により転封。
寛永4年(1627)2月第2代松山藩主には出羽国の上ノ山城主から蒲生忠知が24万石で異封して松山城を完成する。26年の月日を要した。

本丸の天守は5層であったが、第3代松山城主松平定行は寛永13年(1636)3層の天守に改築した。
この天守は、天明4年(1784)1月元旦落雷で消失、以後安政元年(1854)に現在の天守が再建されるまで伊予松山藩には70年間天守は存在しなかった。
その後、幾多の修復をして来た国指定重要文化財「松山城天守」は度重なる地震・台風等々で破損が酷く昭和の戦後三度目になる文化庁の指示に従い平成の大修理はを行った。

その様子を画像で紹介しよう。松山城観光ガイドとして今年で10年になりますがガイドをしながら画像におさめてきました。


日本三大連立式天守の一つ「伊予松山城本丸と本壇に建つ大天守・小天守と各櫓、廊下で結ばれている様が上空からよく分かる貴重な画像」伊予松山藩の石高は初代藩主加藤嘉明:20万石、二代藩主蒲生忠知が24万石、三代藩主松平定行が15万石、以後松平時代で維新を迎える。
初代藩主:加藤 嘉明「カトウ ヨシアキ」・・外様・20万石
二代藩主:蒲生 忠知「ガモウ タダチカ」・・外様・24万石・・滋賀県蒲生・日野に飛び地として4万石
三代藩主:松平 定行「マツダイラ サダユキ」親藩・15万石・以降、大政奉還まで親藩
     久松松平家は、初代松平定行から第15代松平勝成まで・第16代目から旧制久松に帰る(慶応4年7月6日新政府の指令を受け)


文化庁の指示に従い平成の大修理は、平成16年10月から修理開始天守は工事用の用足場を組み防御用ネットを張る。平成18年11月修理完成






大天守の瓦も下ろし新しい瓦に吹き替え



天守の垂木もシロアリで傷んでいる


天守軒桁の中はこんな状態


天守軒桁の漆喰の中もこんな状態、今回の大修理は漆喰壁も剥し新たにやり変え


大天守修理作業


天守の瓦の葵の紋は、松山藩三代目から徳川親藩になります
三代目藩主が、徳川家康の父親違いの弟の長男松平定行が伊勢国、桑名藩から入府しますので葵の紋になっております
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瀬戸風峠からの伊予松山城下町の夜景 2

2012年02月21日 | 伊予松山歴史散策
昨日(2月20日)今年2回目の瀬戸風峠に行ってみた。・・それは天候もよく瀬戸内海上に雲がなく綺麗な夕日が撮れるのではないかと思い!!
ところが残念瀬戸の海に沈む前に雲に遮られて、遠くに存在する雲は天候がよければいいほど見えなく海面近くになってから夕日で反射して雲の存在が分かる。・・これからは大分県の気象状況も把握していく事にしよう。
現在の松山の日の入りは午後5時58分である。日増しに日照時間が長くなり長かった冬季も松山では春近しの感。
瀬戸風峠の海抜は212mある。ここからの伊予松山の夜景は素晴らしい。


夕日の下の雲が無ければ瀬戸内海に沈む夕日が綺麗に見えたのに残念


綺麗夕日を見る事が出来なく残念に思っていた時、松山空港から飛び立った旅客機を思わずレンズで追った・・レンズは620mm・・残念短い1000mmあればビッグな機影が撮れたのに
17時47分撮影


伊予松山15万石の城下町にも夜の帳が
春や昔十五万石の城下哉  子規
註:十五万石とは石高のことで、一石は当時の大人1人が1年間に食べる米の量のこと。、約150kgと言われており、土地の生産力(収益性)を表す単位。「文化年間(1810年頃)の米の物価を現代に当てはめた場合、一石は約4万5千円である」という説によれば、当時、松山藩は年間に67億5千万円の収益性を持っていたことになります(実際には天候等自然条件に大きく左右されました)。
18時20分撮影




雲が無く綺麗夕日が瀬戸に沈んでいたならば松山城天守の上に綺麗な夕焼けが出来ていたのに
伊予松山城本丸の標高は132mで天守最上階は約160mある
18時40分撮影
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龍穏寺の16日桜

2012年02月18日 | 伊予松山歴史散策
今日(18日)の松山市は、時折雪が舞い散る寒い一日、散髪に行ってきた。
毎年忘れるのが16日桜の開花時期である。松山市御幸一丁目にある龍穏寺に行ってきた。(松山大学御幸校舎の前にある)・・時より小雪が舞っていた。
画像で紹介する桜は非常に珍しい桜である。

小泉八雲が孝子桜として世界に紹介したことから有名になった。病父が桜を見ずに死ぬのは心残りだと言うので、子の吉平が祈願したところ旧正月16日に花が咲き、老父が長寿を得たという。桜の木は枯れたが孝子吉平の話として長く伝えられ、龍穏寺裏山の桜谷、吉平邸跡といわれるところにある早咲きの桜と天徳寺にある桜がこの名で呼ばれている。


龍穏寺の十六日桜にかかわる句
人の気を花に乗せゆく桜かな     松尾 芭蕉
又たくひ世は梅さかり此の桜     小林 一茶
うそのやうな十六日桜咲きにけり   正岡 子規
一枝に一輪十六日桜かな      河東碧梧桐
花に来て寺の田楽よばれけり     柳原 極堂
咲いて一輪ほんに一輪        種田山頭火

上記に記載した吉平邸跡と天徳寺にある桜の開花は3月中旬で、龍穏寺にある桜は旧暦1月16日頃に開花する。
吉平邸跡の16日桜は、松山市指定天然記念物

画像の桜は、龍穏寺の16日桜で、今日行ってみたが早く咲いた花は散っていた。
この桜は市指定天然記念物に指定されてない。がこの桜が本当の16日桜だと私は思う。

註:十六日桜の古いものは戦前山越の龍穏寺にあったが、戦災で焼け枯死した。
現在、前記2ヵ所のものは、龍穏寺からの株分けが元であるといわれているが、花期も遅く、十六日桜の形質を保ったものではなく、実生による変異品種のようである。・・松山市はこれを天然記念物に指定している・・変である。


龍穏寺本堂前にある「16日桜」・・16日桜の石碑と句碑がある


向かって左の桜の基に画像の石碑がある


龍穏寺の16日桜・・
この桜は華やかさは無く、吉平が病床のお父さんに是非桜を見せてやりたいと無理に念じその願いを叶えて厳寒の時期に咲いた桜そのものだ・・何か寂しさを感じる






龍穏寺山門前にある紅梅


向かって左の桜の後ろに16日桜を詠む句が建っている
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