EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

道後温泉本館前のマンホールが変わりました

2020年10月30日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

最近マンホールの蓋を趣味で写真を撮られる観光者が居られ先般も温泉マークがデザインされたマンホールの場所を尋ねられました。

私は場所が分からず、先日(10月20日)場所の確認に行ってきました。

5種類のマンホールは確認できました。

ただ一つのマンホールは確認できませんでした。現在道後温泉事務局にメールで紹介していますが未だ回答がありません。

では、道後温泉界隈の温泉または温泉マークの入ったマンホールの蓋をご紹介します。

道後温泉界隈には、いろんなマンホールがありますから散策してみて下さい。

松山市で一番新しいマンホールの蓋です。

令和2年7月19日、道後温泉本館前のマンホールの蓋が変更されました。

道後REBORNプロジェクトとコラボレーションし、令和2年7月19日(日曜日)に、道後温泉本館南西にあるマンホールへ「火の鳥」デザインマンホールを設置されました。
本館全体がきれいに撮影できるフォトスポットです。
営業しながら保存修理工事を行っている松山市の観光のシンボル「道後温泉本館」と「火の鳥」をデザインしたマンホールを全国に発信し、多くの方が道後温泉を訪れるきっかけにします。と松山市は広報しています。

「火の鳥」デザインマンホール

設 置 日⇒令和2年7月19日(日曜日)
設置場所⇒道後温泉本館南西

デザイン⇒「本館保存修理工事という歴史を伝え、『火の鳥』が工事完了後も道後を見守り

続ける」という事を込めてだそうです。
周辺景観と調和させるため、松山アーバンデザインセンターがデザインを監修しております。

記述は、松山市「広報まつやま」より引用。

これから道後温泉界隈のマンホールをご案内いたします。
現在私が確認したマンホールは5種類のマンホールです。

番外のマンホールもご紹介します。

耐震補強修復工事中の道後温泉本館。

大正12年に増築工事が行われ玄関は現在の入り口に変更されましたが耐震補強工事のため封鎖されています。

全国でも珍しいマンホールに温泉の文字と温泉マークが付けられたマンホールの蓋があります。

道後温泉本館界隈にありますから散策してみて下さい。

松山市の市章と、温泉の文字。

松山市の市章は

松と山を図案化して「松山」を表現したもので、松山市出身の画家、下村為山の考案。

明治44年4月7日に制定されました。

道後温泉本館と子規記念博物館に行く通りの歩道にあります。

温泉の文字の左にある丸い跡は、松山市の市章があった跡です。

現在1ヵ所しか判明していない貴重なマンホールの蓋で、場所は子規記念博物館東入口の歩道にある四角のマンホールです。

1号源泉のあった位置で、本館神の湯(男)東浴室の石張りの床に、井戸があった位置を印しています。

1号源泉のあった位置で、本館神の湯(男)東浴室の石張りの床に、井戸があった位置を印しています。

普段は浴室内の写真撮影は不可能ですが、道後温泉は年に一度年末に大掃除があり、この時を利用して見学会が開催されます。その時に撮影しました。

これからは、道後温泉第4分湯場にある源泉のマンホールです。

この地の源泉は、昭和30年3月から8月にかけてボーリングを行い竣工した源泉です。

道後温泉源泉⇒第6号源泉マンホール。

道後温泉では、これまでに29本の源泉を開発していますが、現在は18本が源泉として愛媛県に登録されています。
源泉は開発順に番号を振り分けており、現在は1号源泉から29号源泉がありこれら源泉は温度も、湯出量もすべて異なり、最も温度の低い源泉は20℃程度、最も温度の高い源泉は55℃程度です。
各源泉から汲み上げた温泉は、地中に埋設した送湯管で4か所の分湯場という温泉の配湯施設へ集められており道後温泉第4分湯場には、5ヵ所の源泉があります。

マンホール上に源泉番号と深さ、温度が掲示されています。

1号源泉は、現在汲み上げていませんが、本館神の湯(男)東浴室の石張りの床に、井戸があった位置を印しています。
男性の方は、入浴の際にご覧いただけます。

道後温泉源泉⇒第8号源泉マンホール。

マンホール左上には源泉番号と深さ・温度が掲示されています。

道後温泉源泉⇒第9号源泉マンホール。

道後温泉源泉⇒第25号源泉マンホール。

道後温泉駅近くにある「道後温泉第4分湯場」。

平成29年11月に、道後温泉駅北西にある道後温泉第4分湯場を改築しました。
見学できるスペースや、源泉を触れる手湯を設置しています。

道後温泉は、現在18ヵ所の源泉から汲み上げ冠山にある道後温泉分湯場で、道後温泉本館・飛鳥乃湯・椿の湯の湯船の温度が42度になるよう調整して配湯しています。

所在地は:松山市道後湯之町7番28号 

道後温泉第4分湯場内部で、5ヵ所の源泉からポンプで汲み上げる様子が見学できます。

道後温泉第4分湯場にある5ヵ所の源泉から組み上げられる温度計が設置されています。

道後温泉本館で明治27年4月10日、全面改築された当時の正面に変更されています。

大正12年に工事が行われ玄関は現在の入り口に変更されたが封鎖され、平成31年1月15日から保存修理をしながら入浴は出来、現在入り口は明治時代の二之湯の入口からとなっています。

明治時代入浴する者は区分されていました。

一乃湯は、旧藩士・寺神社関係者

二之湯は、旧藩士・寺神社関係者以外の男性

三乃湯は、女性

上記の様に分けられていました。

明治28年松山中学英語教師として赴任した夏目漱石は、二之湯入り口から入っていました。

現在保存修理が平成31年1月15日から始まり大きな工事用の屋根が造られています。

保存修理工事の完成は、令和9年の予定です。

冠山にある道後温泉第2分湯場の裏に足湯が設けられました。

冠山にある道後温泉第2分湯場。

各源泉から汲み上げた温泉は、分湯場という配湯施設に集められ、道後温泉本館や椿の湯、飛鳥乃湯をはじめ、周辺のホテル・旅館へ配湯しています。

入浴人数や季節、時間帯に応じて、温度の高い温泉と低い温泉を混ぜ合わせることで、加温も加水もせず、調整しています。

道後温泉空の散歩道入り口。

道後温泉空の散歩道に造られた足湯。

散策で疲れましたらここで癒やして下さい。

足湯に浸かりながら道後温泉本館保存耐震補強工事が眺められます。

道後温泉駅前には運行しない時間帯は坊っちゃん列車が駐機しています。

夏目漱石が乗車した当時の形式に復元し、動力はディーゼルエンジンです。

道後温泉駅前広場で、左に見えるのはカラクリ時計、奥に見える朱色の建物は日本三大八幡造の本殿を持つ伊佐爾波神社です。

参考までに

※  カラクリ時計は、平成6年、道後温泉本館建設100年周年記念事業の一環として作られました。

※  伊佐爾波神社本殿は、造りが八幡造りとなっており、日本に三カ所しかない神社です。日本三大八幡造りは、京都の石清水八幡宮・大分県宇佐市の宇佐八幡宮・松山市の伊佐爾波神社です。社殿は、石清水八幡宮を模して造営されています。

道後温泉商店街(ハイカラ通り)に設置されているマンホールでカラー仕上げとなっています。

模様は、松山市の市花「やぶ椿」を模しています。

松山市内にある松山市が管理するマンホールの紋様は「やぶ椿」で、変更されたのは、昭和50年5月2日松山市長に就任した中村時雄氏からです。

中村時雄氏は、現、愛媛県知事・中村時広氏の父上です。

これは私が撮った画像ではありません。

撮影された方も何処にあったのか所在を忘れたそうです。

先日、道後温泉界隈をくまなく探しましたが不明でした。

道後温泉事務所で聞くも不明です。

幻のマンホールです。

 

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日本最大の登り石垣が現存する!伊予松山城

2020年10月20日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

新型コロナ禍の中、各地の観光地は観光者が激変し閑散としていたが、10月から「GoToトラベルキャンペーン」が、そして地域共通クーポンもスタートし、松山城・道後温泉にも観光客が戻って来た。

前項で記しました通り、

ウエーブサイト「トリップ・アドバイザー」が発表した旅好きが選ぶ!日本人に人気の日本の城ランキング・ 2020版で伊予松山城が第3位に選ばれましたので、これから全国のお城好きの皆さんが改めて鑑賞に来られると思います。

一昨日松山城に行ってみましたが多くのお城好きの皆さんが来られていました。
東京都福生市からお越しになったご夫婦をご案内いたしました。一昨日18日(日)は絶好の好天気で青空をバックに松山城天守が映えました。

松山城にお越しの皆さん。

その時は、是非日本最大の登り石垣をご覧になって下さい。この項では全国一を誇る登り石垣を中心にご案内いたします。
その前に、伊予松山城には5つの日本一がありまして、それは下記のとおりです。

 第1番目:近世(安土桃山時代から江戸時代)に創建された天守のうち最後に建築された天守です。
                 今から   1 66年前(安政元年・1854年)に建てられた。現存する12天守の内・・一番新しい

第2番目:築城に要した年月日が27年を要した・・一番長い期間

第3番目:本丸と二之丸の落差が90m・・一番距離が長い

第4番目:石垣が美しい・・本丸と本段の石垣「屏風折れの石垣」が綺麗

第5番目:藩政時代の城郭の中で3ヶ所しかない登り石垣が現存する、それも・・一番規模が大きい

      登り石垣を有する城は、洲本城・彦根城・伊予松山城である。洲本城には今は、現存しない。

加藤嘉明は、築城を開始した際、国内最大級の登り石垣を南面と北面に築きました。
朝鮮出兵で倭城(安骨浦城)を築城した嘉明はこの時の技を松山城築城に生かしています。

日本最大の登り石垣について画像を交えてご紹介いたします。

画像は、加藤嘉明が築いた5層天守時代の鳥瞰復元図です。

ご案内する日本最大の登り石垣は、南登り石垣です。残念ながら北登リ石垣は崩壊しておりまして二之丸の取次と本丸の取次(接続)部分は現存しております。

註:二之丸御殿は海抜39mにあります。

登リ石垣は、二之丸を防御するためのものです。

文久4年(1864)第13代藩主、松平勝成時代の伊予松山城、城郭図です。

三之丸から見た現在の様子です。

南面の登り石垣は完全な状態で保存されていて規模は、長さ233m、高さ5mあります。

二之丸に接続する南の登リ石垣で高さも一番高い部分で高さ10m位あります。

画像中程に見える広場は、三之丸です。

二之丸に接続する南の登リ石垣で高さも一番高い部分です。

平成13年3月24日、15時28分頃におきました芸予地震、松山市で震度5強の揺れで石垣が少し孕み修復をしております。

南面の登り石垣は完全な状態で保存されていて規模は、長さ233m、高さ5mあります。しかし近年石垣に隣接している樹木の根の侵食で石垣が外側に押し出され孕んできていました。

これを防ぐ為に樹木を伐採して石垣の保護をしました。(松山城の樹木は昭和63年に愛媛県が天然記念物に指定し勝手に伐採出来ない。)松山市は、愛媛県と伐採の理由を説明し、国、県から現状変更の許可を得伐採作業を行いました。

その結果、南面の登り石垣から2m以内の樹木を伐採、石垣の上に生えた直径70cm樹齢100年のアベマキもありました。根は約50年掛けて腐食し、その間に石が元の位置に戻ると考えています。

画像は、平成19年3月4日に登り石垣現地説明会が開催され、参加した松山市民その時の画像です。
講師は愛媛大学の内田教授で、前日、韓国の倭城の説明会が開催され、講師は、大韓民国の釜山東三洞貝塚展示館館長・釜山博物館学芸研究士の、羅東旭 氏を迎えて行われ、現地説明会にも参加して盛大に行われました。

説明会には現地で、愛媛大学生が登り石垣の実測も行いました。
指示を出す方が愛媛大学内田教授です。・・このあたりに刻印が見られ、説明会の為特別に見やすくする為に白墨を入れました。

南面登リ石垣の内側上部で二之丸の一部、往時にはこの部分に外側からの侵入者を防ぐための渡塀と所々に小さな櫓がありました。

石垣から2m以内の樹木は石垣保全のため県の許可を得て伐採しました。
画像は、石垣上部「内側」で、石垣の上に生えた直径70cm樹齢100年のアベマキもありました。根は約50年掛けて腐食しその間に石が元の位置に戻ると考えています。

松山城にも本丸・二之丸の石垣に刻印がありますが、登リ石垣にも刻印があります。

本丸の石垣に接続する部分で、普段は行けない場所ですが松山城フォーラムでは特別開場されました。

画像上部の石垣は、本丸の石垣で待合番所跡の部分に接続します。

この画像は、北登リ石垣で本丸の石垣と接続する部分です。上に見える櫓は乾櫓で、接続部分の上が、故・坂東三津五郎さんおすすめの松山城の風景を眺められる場所です。

画像は、本丸に積まれた屏風折れの石垣の一部で普段は行けない場所です。場所は馬具櫓の下です。

石垣は、城の防御や建物の土台の役目を果たし、より高く積み、急勾配であるほど防御能力は強大になります。

近世の城(安土桃山時代以降)は近代的な石垣が構築され、本格的に普及を始めたのは、織田信長の安土城です。

このとき信長に招集された石工集団・穴太衆は、豊臣秀吉の時代から江戸初期にかけて多くの城の石垣造りに携わってきた。野面積み・切込み接ぎ・打込み接ぎ・算木済みと言った積み方がある。

滋賀県大津市坂本に、穴太積み(野面積み)を継承する石垣積み専門の石工建設会社がある。

鳥瞰復元図に赤色の矢印のところの石垣に刻印が多くあるところです。

松山城は平山城です。呼び方は平山(ひらやま)城(じろ)と平(ひら)山城(さんじょう)と言う呼び方をします。

平山(ひらやま)城(じろ)と平(ひら)山城(さんじょう)のちがいは。

平山城(ひらやまじろ)とは、
戦闘を目的としてけわしい山地を利用した山城と、権勢の象徴として要衝の平地に建つ平城との、その中間にあって、両者の性格を併せ持つ城をいう。主として建築学的分類に用いられる。

平山城(ひらさんじょう)とは、小高い岡の頂きをならして造られた城をいう。

主として地形学的呼称に用いられる。・・と記述があります。

この刻印は、ロープウェー山頂駅舎から登城すると最初に見えてくる高石垣上部に書かれた刻印です。

幾多の地震にも耐えて来たが、昭和21年12月21日午前4時19分に発生した昭和の南海地震で石垣が孕み、昭和22年修復時の関係者の氏名が刻印されている石垣です。・・「算木積石垣」上部にあります。

昭和22年石垣修復工事:刻印は下記の事項が書かれています。

工事関係者

市  長  安井 雅一

監  督  田内 亀太郎

施 工 者  栗林 朝美

石   工  管能 寅吉

人 夫 頭  石丸 長次

参考事項:

宝永4年10月4日・宝永の南海地震・道後温泉、温泉止まる(11月23日富士山大噴火)
安 政 元年11月 5日、安政の南海地震で道後温泉、温泉止まる。
昭和21年12月21日、午前4時20分・昭和の南海地震・道後温泉、温泉止まる。
平成13年 3月24日、午後3時27分・芸予地震・道後温泉、温泉濁る。

五芒星の刻印

本丸隠門続櫓の下にある五芒星(桔梗紋・清明桔梗)の刻印で、魔除けとして使われ、特に明治33年、陸軍大将から兵卒まで陸軍の軍帽子上部に五芒星が刺繍され、敵の弾除けの意味をかついで採用されていました。

松山城も敵の攻撃から護る・・魔除けの意味をもって刻印されました。ここに一つしかない刻印です。全国でも珍しい刻印です。

昭和22年石垣修復工事がされました高石垣で、刻印のある石垣上部が積替えされました。

五芒星(桔梗紋・清明桔梗)魔除けの意味をもって刻印もこの一面左側にあります。ここに一つしかない刻印の場所です。

櫓は、隠門続櫓です。

萬字紋(鉤十字)で、説明会に特別見やすくするため白墨を入れました。

場所は二之丸御殿跡の四足門前にあります。全国でも珍しい刻印です。

愛媛県庁舎裏側あたりの登り石垣の一部です。

本丸の屏風折れの石垣で、普段は入れない場所です。

櫓は、本壇にある南隅櫓で、続塀は乾門東続櫓東折曲塀です。

本丸の屏風折れの石垣で、下部の石垣の積み方は野面積みで松山城の石垣では少ない野面積みです。殆どの石垣は打込み接の積み方です。

画像の櫓は、馬具櫓です。

平成19年3月4日、開催された「登り石垣のルーツをめぐって」の案内パンフです。

平成18年1月9日、愛媛新聞記事「登り石垣保存に苦慮」です。

伊予松山藩主第2代、蒲生忠知24万石時代の伊予松山城鳥瞰図です。

二之丸と二之丸にある城主の御殿、二之丸を防御する南北の登り石垣、そして本丸の屏風折れの石垣がよく描写されています。

本丸広場は標高132mあり、二之丸御殿は標高39mにあります。

画像は、鈴木 陸夫氏提供。

伊予松山城二之丸御殿跡です。現在松山城二之丸史跡庭園と呼んでおります。

画像右下の門は「四足門」です。

海抜39mにある二之丸御殿を防御するため南北に日本最大の登り石垣を構築しました。

 

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伊豫松山城・第3位にランクされた⇒城巡り旅人が選ぶ日本の名城に!!

2020年10月10日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

世界最大の旅行・ウエーブサイト「トリップ・アドアイザー」が発表した旅好きが選ぶ!日本人に人気の日本の城ランキング・ 2020版が、令和2年8月13日に公表され、伊予松山城が第3位に選ばれた。松山市にとっては大変名誉で嬉しいことである。

なお
第一位は、国宝・姫路城
第二位は、国宝・松本城である。

トリップ・アドアイザー日本法人は、日本の観光立国の実現に向けて、魅力ある観光地の国際観光の振興とその他の観光に、平成20年10月1日に設置され、日本政府観光局とタイアップして日本国内の観光振興活性化に寄与している。

また
日本城郭協会が財団法人となって40周年を記念する事業として日本100城が平成18年2月に発表され、松山城は第81番に指定された。

100名城選定については、必ず都道府県1城は指定し5城以内とすることとなり、平成19年6月2日から日本100名城選定記念スタンプラリーが開始され、「甦る日本の城」でスタンプ帳を持参して城を旅する城巡り旅行好きが多くなった。

最近では、御朱印帳を持った城好き「歴女」が増えた。
平成29年4月100名城選考から漏れた城郭から続100名城が定められた。

伊予松山城天守は、層塔型三層三階地下一階で豪快さはないが、大天守・筋鉄門・小天守・多聞櫓・南隅櫓・十間櫓・北隅櫓・玄関多聞・玄関・内門・で繋がれ整然と整った真四角の連立式天守が魅力で、江戸時代最後の完全な城郭建築の城である。

そして日本最大の登り石垣(高さ5m、長さ250m)が現存する。

大天守をはじめ21棟の国指定の重要文化財をもつ四国最大の城で、全国でも姫路城についで二番目に多い重要文化財指定の城郭建造物がある。

天守の一階・二階・三階の床面積は、全国の三層天守の中で一番広い床面積を持つ。

画像は、城北方面からの本壇空撮である。

現存12天守の中で、唯一城主である松平家の家紋「徳川家葵の御紋」が天守・各櫓の瓦に付されている。

伊予松山城天守は、度々災難に遭遇しその都度苦難を乗り越えてきた。

天明4年(1784)元旦落雷で天守が焼失、現在の天守は安政元年(1854)復興した我が国最後の天守である。松山城は、70年間天守がない城郭であった。

その後、昭和8年7月9日、放火により火災が発生したが、天守の焼失は避けられた。
昭和20年7月26日には、松山大空襲でB29が飛来し、焼夷弾一発が本壇中庭に投下され飛び火し、天守1階の西南隅が燃えつつあったが、住田看守長が命がけの消火で消し止め焼失を免れた。(焼夷弾は完全爆発しなかった。)

住田看守長には、田中耕太郎文部大臣から感謝状が送られた。
当時、松山城天守は国宝に指定されていた。(現存12天守は全て国宝であった。)昭和25年8月29日重要文化財保護法が制定施行され、現存12天守は4つの国宝と8つの重要文化財に指定替えされ松山城は重要文化財に指定替えされた。

松山城本壇の城郭建造物の復元は、昭和41年から開始され当初の図面設計図に基づき忠実に復元され、同43年5月に完成し焼失前の旧状に蘇った。

画像は、蘇った松山城本壇の城郭で、この時お祝いの式典が行われ、それがもととなり毎年お城まつりとして行事が行われることとなり現在に至っている。

昭和21年9月9日付で、田中耕太郎文部大臣から長い文章の感謝状が住田監守長に送られている、その一部である。

昭和20年7月27日、松山空襲で焼夷弾が中庭に投下され飛び火して天守一部が煙硝、住田監守長が命懸けで消し止めた。

住田監守長の消火が無かったら国宝天守は焼失していた。

松山城本丸警備のため数名の職員が配備されていたが、B29飛来し松山空襲は察知していたので住田看守長は、身の確保のため職員全員下山させ、住田看守長一人が残り警備にあたっていた。

田中耕太郎文部大臣からの感謝状が送られた。

内容を要約すると、国宝松山城天守が昭和20年7月27日の空襲により焼失しようとしていた時、身の危険を省みず命がけの消火活動で天守が残ったのは貴殿のお陰であります。

ここに心を籠めて御礼を申し上げます。

昭和20年9月9日

文部大臣 田中耕太郎

住田 晋 殿

です。

伊予松山城天守他建造物は、明治6年に伊佐庭如矢が、大蔵卿・大隈重信に城郭を公園化する事で、庶民の観覧のためにと上申し存続が決定し、大正12年7月久松定謨は、政府から松山城の払い下げを受け、維持費の一部にと寄付金を付けて松山市に寄贈した。

昭和20年7月26日松山空襲で城山に焼夷弾が投下され事務所、太鼓櫓、乾門、天神櫓等々城郭の建造物が次々に焼失、敵機が去ったのち焼煙が薄らぎ天守が浮かび上がった時、(27日未明)天守1階の西南隅が燃えつつあったのを住田監守長は一人でバケツ1個だけ持って走り本壇水槽の防火水で消し止めた。

上記3名の苦労があり現存天守は残ったのである。

この事は地元市民もあまり知られてない。

注:久松定謨⇒旧伊予松山藩主である久松家の第16代当主で、陸軍中将、位階勲等は正二位・勲一等・伯爵である。

松山市は、昭和20年7月26日、サイパン・イスレイ飛行場の米軍第73爆撃団所属の空飛ぶ要塞、B-29、350機が大牟田・松山・徳山の三都市を攻撃のため飛び立った。
その内128機が松山を爆撃、編隊は右旋回して松山城を中心に、その周辺から市の中心部に焼夷弾を投下した。午後11時08分に始まり27日午前1時13分頃まで約2時間余り爆撃は継続、一瞬にして焼け野原となった。

投下した焼夷弾は896トンと米軍の資料にある。
松山の市街地は火の海となりB29は西南方向の海上に飛び去った。
松山城は攻撃から外されていたそうだが誤って焼夷弾が投下されその一つが松山城天守の中庭に落ちた。

伊予松山城は、故・坂東三津五郎さんが絶賛したお城である。

故・坂東三津五郎さんお勧めの松山城

 伊予の松山城について「一番美しいと思うのは」と、歌舞伎俳優の故・坂東三津五郎さんが、自著「三津五郎城めぐり」で明かしている。

「乾門をくぐり、坂を下ったひとつ目の角で振り返って見上げる城の姿です」本丸を守る櫓と石垣の上に天高く小天守が…と書かれている。

平成27年2月15日放映された「城案内人・坂東三津五郎」さんのTVを見られてから、全国のお城愛好者の皆さん方が松山城の見学に来られる観光者が増えました。

坂東三津五郎さんは、TV放映後同年2月21日逝去されました。59歳の若さで非常に残念です。三津五郎さんの趣味は、日本の城巡りで同年2月15日放映された「城案内人・坂東三津五郎」のトップ画像の背景の天守が松山城でした。

三津五郎さんは中学生時代から城巡りされており、自分なりの特徴をノートに書き留めており、TV放映「城案内人・坂東三津五郎」にも使われていたそうです。

全国各地から、三津五郎さんの放映を見て来ました。三津五郎さんお勧めの所を案内してほしいとの事で当時はよくご案内しました。

坂東三津五郎さん一番お気に入りの松山城の風景で

「乾門をくぐり、坂を下ったひとつ目の角で振り返って見上げる城の姿です」本丸を守る櫓と石垣の上に天高く小天守が…と書かれている場所です。

故、坂東三津五郎さん一番オススメの松山城の風景で、ガイドがご案内しないと分かりにくい場所です。

観光に来られた皆さんはこの風景を見ないでお帰りになる方が殆どです。松山城にお越しになった節は是非御覧ください。ガイドまたは係員にお尋ね下さい。

次は

俳優・榎木孝明さんが一番お好きな松山城の風景です。

場所は、本丸大手門跡にある待合番所跡から見た風景で、画像の通路を「隘路」と言います。

隘路からみた風景は、俳優の榎木孝明さんが一番お好きな松山城の風景で、手前の石垣を見て、そして太鼓櫓を配しその奥に天守を眺める風景が一押しの場所で、榎木孝明さんはこんな素晴らしい風景を何時でも見られる松山の人たちは幸せであると表現された。

この場所は本丸に通ずる路なので必ずここを通りますので御覧ください。

殆どの方がここは素晴らしいと言われ写真を撮られます。

俳優・榎木孝明さんが一番お好きな松山城の風景を書かれた絵です。

松山城麓にある某百貨店で「榎木孝明絵画展が開催された」絵画は全て松山城でした。

絵画展で開催されたトークショーで

大手門跡からみた風景は、私(榎木孝明さん)が一番好きな松山城の風景で、手前の石垣を見て、そして太鼓櫓を配しその奥に天守を眺める風景が好きです。
こんな素晴らしい風景を何時でも見られる松山の皆さんは幸せであると表現された。

松山城天守は三層で豪華さはないが、天守を取り巻く櫓や城門建造物が支えている光景が美しい。

画像は、本壇入口を眺める若いお二人。

春には、本丸広場にさくらが咲き誇り多くの花見客が訪れる。
日本のさくら名所100選に選ばれている。

 

 

 

本丸広場からの本壇に建つ大天守と、小天守。

広場には、松山城のマスコットキャラクター「よしあきくん」(初代藩主・加藤嘉明にちなんで命名された)がお出迎えします。

 

 

松山城城郭で唯一造りが異なる櫓があります。

それは、天神櫓です。

本壇鬼門の方角にあたることから、その忌をさける意味で4代藩主松平定直のとき、松平(久松)の遠祖にあたる菅原道真公を祭ったもので、建物正面は全て祭祀のための蔀戸(しとみど)となっており(神社造り)残り三面は他の櫓と同様武装建築となっている。

天神櫓の内部で、松平(久松)の遠祖にあたる菅原道真公を祭った祭壇がある。

これからの画像は空から松山城本壇の姿を見て下さい。

南面からの大天守・小天守配している本壇城郭建造物です。

 

 

 

南東方面からの本壇城郭建造物です。

 

 

 

城東方向からの本壇城郭建造物です。

 

 

 

城南方向から見た本丸城郭で、手前の大きな城門は「筒井門」です。

 

 

 

南東方向上空からの松山城郭。

広がる市街地は松山市の中心部で、令和2年10月1日現在の松山市の人口は、509,753人です。

 

 

三之丸から見た二之丸の石垣と多門櫓と本丸大天守と小天守。

 

 

三之丸からの二之丸の櫓と本丸大天守と小天守。

 

 

三之丸からの二之丸の石垣と多聞櫓、本丸右端に見える櫓は「太鼓櫓」です。

 

 

三之丸から望む本壇の小天守(右)と多門櫓(中)南隅(左)です。

 

 

松山市役所前の外堀から望む松山城で、山麓の建物は愛媛県本庁舎の一部です。

 

松山城の観光案内ガイドは、10月1日から再開しています。

天守に入るには、マスクをして検温をし、手指を消毒液で消毒し、氏名・住所・連絡先を記載して本壇に入ります。

 

手指消毒・検温・必要事項を記載します。

 

 

松山城各所に画像のお願い事項を掲示し、協力をお願いし新型コロナ蔓延対策をしています。

 

 

 

ガイド希望の方々は、画像のガイド申込書に必要事項を記載して頂いた上松山城をご案内しています。

受付場所は、ロープウェー山頂駅舎前です。

愛媛県は新型コロナ蔓延者が少ないので安心して観光に来ましたと言われます。

 

 

明治24年代の松山城天守で、正岡子規が大切に保存していた写真です。

写真の裏面に

松山や 秋より高き 天主閣・・と記載されているそうです。

明治24年の作で、建立地は松山城に向かうロープウェイ・リフトの山頂駅舎降り口に建立されています。
句碑は、めずらしい自然石型銅製で中が空洞になっており、「松山市観光俳句ポスト」になっています。

 

 

松山や 秋より高き 天主閣の句碑で、

句碑は、めずらしい自然石型銅製で中が空洞になっており、「松山市観光俳句ポスト」になっています。

建立地は松山城に向かうロープウェイ・リフトの山頂駅舎降り口に建立されています。
昭和41年に、子規・漱石・極堂生誕百年祭記念行事の一つとして、昭和43年5月に松山市観光俳句ポスト第1番目に設置された俳句ポストです。現在90ヵ所以上の観光俳句ポストが設置されています。

 

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