EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

松山市・染井吉野桜満開

2013年03月31日 | 伊予松山歴史散策
今年の春3月は、上旬から中旬に掛けて異常に気温が上り市内の染井吉野桜の開花が早まり3月17日(日)に松山地方気象台は、松山市の染井吉野桜の開花を発表した。
開花は、昨年よりも13日早く、平成22年の14日に次ぐ2番目に早い開花となった。
その後気温は上らず、満開までに時間が掛かり、花持が長く昨日(土)本日31日(日)は花見客で伊予松山城本丸、道後公園、石手川緑地公園等々、大勢の花見客が弁当持参で、時より吹く風に乗って花吹雪になり花びらを一緒に食していた子供も居た。
例年は開花宣言されて満開までは8~9日で達するが今年は14日間かかった。そのてめ花見をする期間が長くなり、皆喜んでいた。

画像は、秋山兄弟生誕地の桜と松山城本丸、道後公園、石手川公園で花見をする人達です。


昨日(30日)撮りました秋山兄弟生誕地の染井吉野、市内住宅地では一番大きな桜です。


秋山兄弟生誕地の染井吉野を大きく撮ってみました。雀が沢山飛来して蜜をすってます。


今日(31日)道後公園にある「松山地方気象台の染井吉野桜標本木」の下で花見をする人達。


道後公園の花見。


伊予松山城「筒井門」前の桜。


伊予松山本丸「太鼓櫓と太鼓門を繋ぐ太鼓櫓続塀から、大勢の花見客で外国人も花見に来ていた。


伊予松山城侍に扮したおいでんか隊。記念写真を一緒にどうぞ!!


満開の桜の下で若者達も大はしゃぎ・・楽しそうであった。


松山城ロープウエイも新しく新調され3月23日から再運行、今日は大勢の花見客を載せてフル運転。


石手川公園の染井吉野で撮影は昨日であります。天候後よく青空を背景に綺麗な写真が撮れました。


これも石手川公園の染井吉野で撮影は昨日(30日)。


今日の(31日)石手川公園の花見風景、今日は曇天で青空を背景にとはいかなかった。


曇天の中での花見、しかし気温は高くも、低くもなくいい花見日和であった。


道後温泉街、某ホテルの庭で結婚記念前撮り風景に出くわした。一年の内一番いい季節の結婚式、何時もでも仲むつまじく、
お幸せな家庭を、そして子供さんをお育て下さい。少子高齢化解消に!!
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萬翠荘で宮城県石巻市「雄勝石瓦葺き」の公開実演会開催

2013年03月29日 | 伊予松山歴史散策
3月23日、松山市一番町三丁目にある重要文化財「萬翠荘」で石盤葺国選定保存技術保持者・佐々木信平氏(宮城県石巻市)の宮城県石巻市「雄勝石」原石から天然スレート瓦加工の実演を交えた解説会が開かれ公聴に行って来た。
萬翠荘の屋根瓦は、宮城県石巻市の天然石、雄勝石で葺かれていることを今回の実演会で初めて知った。

会場は、萬翠荘地階で午後2時から、佐々木信平氏の技と解説を交え、その都度質問を受け、それに対しての解説を交え公開実演が行われた。
参加者は佐々木信平氏の巧みな技に驚きを感じながら深く魅入いっていた。

先ず驚いたのは、思っていたよりも原石は柔らかく、そして全て手作業で、使う器具はシンプル、佐々木氏曰く、後継者が居ない事が心配、それは瓦が100年もの耐用年数があり仕事があまり無い事等々・・石巻市「雄勝石」は無限に近いほど有る、雄勝石のスレート瓦を大いに宣伝をして新築の家に使って欲しい。絶対に地震には強い、これは、東日本大震災、3,11で実証済みと言葉を強められた。後継者育成について質問には、今後地元の工業高校に伺い実演を兼ねた講習会を開催し後継者育成に努力したいと言われた。

萬翠荘は、平成20年、改修工事が行われ、佐々木氏は、この時雄勝石瓦で屋根を葺き替えた。以前使用していた釘は鉄製であったが、今はステンレス製で錆びないので100年は有に維持できる。勿論東京駅の屋根瓦も佐々木信平氏が葺いた。特に駅舎のドーム屋根の曲線を葺くのには大変であったと、銅版であれば簡単に曲線が出来るが、なんせ石ですからと、・・そこが石盤葺国選定保存技術保持者の技の見せ所ではないでしょうか!!

現在、石盤葺国選定保存技術保持者は宮城県石巻市雄勝石スレート瓦を葺く技術保持者は、佐々木信平さん一人である。
どんな達人もそうだが、佐々木は物腰の低い、言葉遣いが丁寧で、真面目な人格者であった。どんな質問にも実直に丁寧に答えておられた。超一流の達人は偉そうにしない。

偉そうな素振り、口調協調する御仁は、未だその域に達してない者達だろう。
実演は、佐々木さんが加工をして見せて、参加者にも加工の仕方を体験させてくれた。
佐々木さん、何時までもお元気で身体に気を付けて益々ご活躍され、早く素晴らしい後継者の育成を育てて下さい。・・と願った。

なお、松山市に雄勝石スレート瓦葺きの建築物は、萬翠荘、伊予鉄道道後温泉駅舎、愛媛銀行本店前の某歯科医の家屋3ヶ所である。


挨拶をされる佐々木新平氏、場所は萬翠荘地階。
初めて入る部屋である。


佐々木新平さんが今回加工実演に使用される道具類。


宮城県石巻市特産の「雄勝石」のスレート瓦、これから加工の一端を披露。


雄勝石を石の目に沿って手で割る妙技を実演。


実に簡単に割れた。全て手作業で一定の厚みで割るそうだ。唯出荷時には一定の大きさにして搬出するが、この時だけ機械で切断するそうです。・・


雄勝石の成分石の特長を説明。


萬翠荘の屋根を葺いた形に整える技の披露。


参加者も実際に形つくりを体験。


女性の参加者も体験、カッターの使い方、思ったよりも石は柔らかいと参加者は感じたと言った。柔らかいが100年は有に持つ、自然石だから・・佐々木さん。


真剣に佐々木さんの話を聞き入る参加者達。


実演&解説を終え1階に展示してある展示物を使っての特別説明をする佐々木さん。


雄勝石で造ったスレート瓦、葺いた屋根瓦・・萬翠荘はこの形で葺いている。
白く光って見えるのが瓦を留める釘(ステンレス製)。杉板に下地を施しスレート瓦を釘で留め瓦を葺いていく。・・100年は持つそうです。


画像は、復原された東京駅で左右のドームを佐々木さんが葺いたそうです。
東京駅の屋根瓦用に準備し発送をする矢先に3,11東日本大震災見舞われ、一部は津波で流されたが大分部は助かり、一枚一枚水洗いをして東京駅に運んだ。足りない分は、雄勝石以外の国産とスペイン産とが使われている。
撮影は、復原完成した東京駅、平成24年10月28日。


復原工事中の東京駅、撮影はホテルメトロポリタン丸の内から平成24年3月24日。
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新潟市の神田氏萬翠荘を見聞

2013年03月27日 | 伊予松山歴史散策
3月6日、松山市興居島由良町に建立された土木技師宮本武之輔さんの顕彰碑を見聞し、翌日7日、萬翠荘を見学した。
萬翠荘は、松山市一番町三丁目にあり、旧伊予松山藩主であった「久松定謨伯爵」が松山で住む別邸として大正11年、フランス・ルネッサンス風の洋館で、設計は後に愛媛県庁本館などを手がけた建築家木子七郎である。

この建物は、松山市で一番古い鉄筋コンクリート造りの建物で「萬翠荘」と命名した。命名は、定謨の子で次代当主となった久松定武氏である。建築面積428.78平方メートル(129,7坪)、地下1階、地上2階建て、屋根は寄棟造、宮城県石巻市雄勝石のスレート瓦葺と銅板葺き仕上げである。

一階東側は、表がサロン(謁見の間)、裏手が食堂(晩餐の間)となり、西側には執事室、配膳室など内向きの部屋を配する。2階は居間、寝室などの居住スペースとする。玄関ホールの柱は岡山産の万成石(通称紅桜)、正面階段の手すりは継ぎ目の無い南洋チーク材の一本木、各部屋には色の異なる大理石で造られたマントルピース(暖炉)、水晶のシャンデリア、大きなステンドグラス等、非常に質の高い第一級品造りとなっている。

特筆事項は、建築中大正11年11月15日に松山の高浜沖で日本陸軍の大演習が行われ、皇太子摂政宮(昭和天皇)が総監として行啓された。その時松山での宿舎として工事中であった萬翠荘を突貫工事で造り上げた。その後先の大戦終結後米軍に接収、昭和22年からは松山商工会議所としても使用され、平成9年から愛媛県立美術館分館郷土美術館となったが、平成21年閉館となり、平成23年11月29日国指定の重要文化財に指定され、以降各種展示会場として愛媛県の文化向上に貢献現在に至っている。

参考:建築設計家、木子七郎は全国に多くの設計した建造物があるが愛媛県庁舎と新潟県庁舎も設計している。新潟県庁舎は、愛媛県庁舎のドームを除くとよく似ている。
新潟県庁舎は、木子七郎の設計で、昭和7年建設されたが、昭和57年に老朽化に伴い解体、新光町に現新潟県庁舎は建設された。また木子七郎氏夫人は、新田長次郎氏の娘であった縁で愛媛県では愛媛県庁、鍵谷カナ頌功堂、石崎汽船本社など数多くの建物が残されています。


大正11年に完成した旧伊予松山藩主・久松定謨伯爵の松山での別宅として建築された萬翠荘。


地元高校生が造った萬翠荘の模型。


萬翠荘の屋根で、今まで知られてなかったスレート瓦は、宮城県石巻市特産の「雄勝石」で葺かれている。奥は銅版葺。


屋の裏を新潟市北方博物館理事神田氏の見聞との事で特別に見学させて頂いた。


同行した秋山兄弟生誕地研究委員各氏も始めて見る構造。


大正11年当時の鉄骨も何の老朽化もなく重い屋根を支えている。
板張りには、各名木店が納めた店名が書かれてあった。


昭和20年10月進駐してきた米軍に接収された時代の表示版が残してあった。


屋根には避雷針が7本設置されているが、一番大きな避雷針でなんと木造で造り外側を銅版で覆い避雷針としていた。


二階東側にある、久松定謨伯爵が使用していた寝室。


装飾など全てを第一級品で設えたその一つで、二階にあるステンドグラス。


オール水晶の大型シャンデリア。


新潟市北方博物館理事神田氏を囲んで、二階バルコニーで見学記念。


大正11年11月15日、昭和天皇が摂政宮の時、陸軍の大演習が松山市高浜沖で行われ荒神山から観閲された。その時の様子を報じた、大正11年11月17日付の海南新聞(現 愛媛新聞)。


この画像は萬翠荘が建築される前までにあった伊予松山藩家老屋敷の和風建築で平屋建てに接して2階建の建物があった。
夏目漱石は、明治28年4月英語教師として松山中学校に赴任、この建物に下宿した。
後年小説「坊ちゃん」の題材となった「愛松亭」がこれである。
その後取壊され大正11に萬翠荘が出来る。
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桜「陽光・ヨウコウ」開花

2013年03月23日 | 伊予松山歴史散策
今年の松山地方、染井吉野桜の開花は、3月17日午後3時松山地方気象台は7輪の開花を確認し開花を宣言した。
開花は、平成22年の14日に次ぐ2番目に早く、昨年よりも13日早い。

松山の桜は、一番早く咲くのは、十六日桜、続いて姥桜、そして陽光桜が咲き、染井吉野桜、薄墨桜が開花、最後に松山市三番町の街路樹として植えられている一葉、関山桜の285本が4月16日から20日頃に開花し松山の桜は終わる。

さて、陽光桜に帰る事にするが、世界の平和と親善を祈願して愛媛県東温市の高岡正明さんが開発した陽光桜の開花状態を先日21日に愛媛県砥部町の赤坂泉に確認に行って来た。開花状態は8分咲きで、昨年よりも11日早く咲いていた。

高岡さんは、陽光桜を、国内外へ無償で贈り続け、明治23年9月16日、和歌山県串本町にある、紀伊大島の樫野埼東方海上で折からの台風の強風にあおられ岩礁に激突座礁し遭難沈没したトルコ軍艦エルトゥールル号の遭難者を追悼してイスタンブールに贈られた陽光桜が外国に贈った最初である。現在立派に成長しているそうだ。

陽光桜は、最良の組み合わせで作出され”天地に恵みを与える日の光” という意味の 「陽光」と命名し、農林水産大臣から桜としては全国で初めて種苗登録147号として証明された。
この品種は 「天城吉野」に「台湾緋桜」を交配して作られた、実生苗の中から選び抜き育成されたもので樹勢は強く、テングス病に強く胴枯れもしない。

こんな立派な長所が出るのは5万回に1回ぐらいの確立で人間業では出来ない事、高岡さんの思いが神に通じたとしか考えられない。茨城県結城市にある「日本花の会」結城農場研究所の専門家の言葉が返って来て高岡さんは満足そうに家族に話した。・・とある。

 育成地 (愛媛県) における開花は 3月中旬から3月下旬。
 外国に贈り咲き誇る国々は、トルコ・イタリア・リトアニア・チュニジア・メキシコ・スリランカ・カンボジア・ベトナム・タイ・中国・台湾・韓国・等々で「平和の使者」として広くその使命を果たしている。

現在は、高岡正明さんご他界され、長男の高岡照海ご夫妻が陽光桜の苗木を贈り続けている。

高岡さんが陽光を選抜する時、花の色が日本的でなく派手すぎると指摘されたそうだが、世界の人々に愛されるには少し派手目が良いと考え、あえて華やかな紅色の固体を選び「陽光」と名付けたセンスのよさ・・と茨城県結城市にある「日本花の会」結城農場長、田中秀明さんは敬服されている。・・と記述がある。

参考事項
高岡正明さんは、明治42年生まれで太平洋戦争中、青年学校の教員をしていた。教え子達が戦場に行くのを見送り、無事帰還を願っていたが多くの教え子は帰還できず、教え子の鎮魂と世界平和を願い桜の品種改良を決意25年の歳月を掛け鮮やかなピンク色が特徴の大輪で丈夫で100年、200年の樹齢の新品種「陽光」を作り出し、平和の使者として世界平和の恒久平和を広める活動をされ、現在はご子息が意志を継がれ活動されている。

今年の開花は例年よりも少し早く咲いた。
今年は寒暖の差が激しく、松山地区の桜開花は10日程早く開花した。
後7日程すると赤坂泉の染井吉野が開花すると思う、すると陽光桜と染井吉野桜を同時に鑑賞で来る。

では、陽光桜の画像を見て下さい。「平成25年3月21日撮影」
この日は、黄砂もなく青空が綺麗で濃い桃色の陽光が冴えた。
場所は、愛媛県伊予郡砥部町重光 重信川の伏流水が豊富に湧き出ている赤坂泉。
堤防に、160本の桜が植えられ、その内90本が陽光桜である。


3月21日午後から松山は青空が綺麗で陽光桜を撮るには絶好の天候であった。
黄砂もPM2,5も無く、近くの花見客が弁当持参で花見観賞に、またカメラ持参で来ていた。
最近は花見弁当を家庭で作らずコンビ二の弁当。そして女性のアマカメラマンが多くなり一眼レフのいいカメラを持っている。


満開に近い陽光桜の下で弁当を広げて楽しげな会話をしていた。


赤坂泉で一級河川「重信川」の伏流水が湧き出て水は綺麗で豊富。
陽光と並列に植栽してある(陽光の下にある樹)染井吉野が開花すると二種類の桜を一度に鑑賞出来る素晴らしい企画。
あと5.6日で開花すると思う。それまで陽光が染井吉野の開花まで待ってくれれば!!昨年は両方が観賞出来た。


夫婦仲良く・・いい光景。・・何時までもお幸せに!


赤坂泉公園の両堤防には160本の桜が植栽されていて、その内90本が陽光桜である。


左の菜の花が育つ場所は、伊予松山普請奉行「足立重信」が改修した一級河川、重信川で、全国の一級河川で改修者の名前が命名されている河川はこの河川のみである。
改修される前は、「伊予川」と呼ばれていた。


陽光桜をアップで撮ってみた。全体で見ると濃いピンクに見えるが、アップで見るとそうでもない。


手前の石碑は、陽光桜を開発した高岡正明さん生誕100年を記念して日本さくら協会が建立した。女性が居た。
どのような桜の写真を撮ろうかと思案中。・・一眼レフのいいカメラを持っていた。


近くの老人施設の人達が施設の介護者に引率されて桜見に来ていた。
市内の某TV局が撮影に来ていて私達の画像もTV放送するらしい楽しみに見ようと大はしゃぎしていた。


これも陽光をアップに撮ってみた。
絞りを大にしてストロボを使って撮った。


陽光桜考案者「高岡正明」顕彰碑。生誕100年を記念して平成20年9月吉日建立。


陽光桜考案者「高岡正明」顕彰碑裏面に顕彰の文言が刻印されている。
建立者は、特定非営利活動法人日本さくら交流協会。
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秋山眞之生誕145年祭 開催された

2013年03月22日 | 伊予松山歴史散策
藩政時代徳川家光は、寛永12年(1635)伊予松山藩主に徳川家康の甥に当る松平定行を伊勢桑名藩から異封させた。家光は定行の弟伊勢長島7千石であった定房を兄、定行に従う形で伊予今治藩3万石(後に1万石増加され4万石となる)に配置した。

これは伊予松山定行を支援さす事が家光の狙い、兄弟で四国と瀬戸内海の外様大名の監視が主な目的であった。
秋山兄弟の祖先は、この時に伊予今治藩から伊予松山藩士として移り来て、現在地で代々徒歩目付役の身分で維新を迎えた。

秋山眞之は、秋山久敬の5男として慶応4年3月20日生まれ幼名は淳五郎で、兄好古の支援をえて東京大学を目指し、東京大学予備門に入学し、東京帝国大学を目指すが、尊敬する兄、好古に学費、生活費の負担を掛けることは偲びがたし、の思いを持ち兄を説得し了解を得て海軍兵学校に17期生として進学した。

終始首席で卒業し海軍大学校教官を経て、日露戦争勃発後には、日本海軍連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で作戦担当参謀となり、旗艦「三笠」乗艦、日本海海戦船では、ロシア海軍太平洋第二艦隊・第三艦隊を日本海で撃滅その作戦を全て秋山眞之が専任参謀として立案し勝利に貢献した。その後大佐となり、海軍少将と昇進、大正6年12月1日中将に昇進、大正7年2月4日、小田原の山下亀三郎(山下汽船創設者)の別宅で盲腸炎を患い腹膜炎を併発し亡くなった。享年49歳、海軍中将従四位勲二等旭日重光章。

墓所は東京青山霊園に兄好古と一緒であったが、昭和62年鎌倉霊園に改葬。
平成17年1月18日全国の秋山好古、眞之の支援者の醵金を得て生家が再建され以後毎年生誕祭が行われている。

今年は、山下亀三郎家、宗家第3代目山下眞一郎氏を筆頭にその孫たち8名が東京からお祝いに参列され、愛媛県知事、愛媛県議会議長、松山市長、多くの来賓参列の下盛大に開催され、式典後は、お茶会、お琴の演奏会で眞之を偲んだ。

画像は3月20日開催された秋山淳五郎眞之の生誕145年祭。


開場となった「秋山兄弟生誕地・武道場」


会場の秋山兄弟生誕地武道場の舞台。


秋山淳五郎眞之、生誕145年祭の式典開始を待つ参列者。


午前9時45分生誕145年祭、開催の挨拶を野述べる、財団法人常磐同郷会、平松昇理事長。
註:財団法人常磐同郷会は、秋山兄弟生誕地の管理運営母体。


来賓を代表して、愛媛県議会議長、竹田議長が祝辞の挨拶。


特別来賓として東京からお越しになった、山下亀三郎家、宗家第3代目山下眞一郎氏が挨拶、秋山眞之と山下亀三郎氏との生前の親友、交友の一場面を披露参加者は改めて親交の深さを再確認した。


式典を祝い正派邦楽会、大師範・琴・三弦前谷雅貴社中の皆さんが演奏した。


前谷雅貴社中の男の子が中々の巧い演奏し会場から大きな拍手が沸いた。・・お見事。


藤島常盤同郷会理事が眞之胸像に献茶。


参列された来賓者に対し、伊豫売茶流天山会がお手前を披露。


東京からお越しになった山下亀三郎家宗家の皆さん。・・秋山眞之胸像の前で記念に一枚。


秋山眞之お気に入りの「いり豆」を伊予絣で秋山兄弟生誕地研究員たちが手作りで作った袋にいり豆を入れてこの日限定の特別販売をした。


例年は、秋山兄弟桜(染井吉野)は開花していないが今年は気温が急上昇し例年よりも10日早く開花した。桜も花を付けて生誕145年祭に華を添えた。


秋山兄弟桜は18日午前中の8輪の花を咲かせ開花した。
松山市の開花は17日午後3時松山地方気象台職員が7輪の開花を確認し開花を発表した。

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