EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古揮毫石碑・取材ご協力頂いた方々 その4 千葉県習志野市の石碑

2020年12月24日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

日本陸軍騎兵第一旅団の発祥の地、千葉県習志野市大久保に秋山好古の顕彰碑が建立され除幕式が行われますと連絡が入った。平成21年4月18日のことであった。

連絡があったのは、習志野騎兵連隊史跡保存会代表・三橋 正文氏からで、建立場所は、千葉県習志野市大久保一丁目17番14号、真言宗豊山派薬師寺の入口で、除幕式は平成21年5月17日に挙行しますであった。

また、秋山好古のお孫さん秋山哲兒氏(秋山宗家第10代)からも千葉県習志野市大久保商店街に秋山好古の顕彰碑が建立され除幕式が行われますと連絡を頂いた。

画像は、除幕式の回顧である。

除幕式の後、日本城郭協会選定の日本100名城第20番である佐倉城跡を散策して帰路に着いた。

除幕された秋山好古顕彰碑。

秋山好古は日本陸軍騎兵の育ての親で、明治34年12月習志野に創設された騎兵第一旅団第2代目の騎兵旅団長である。

明治37年2月日露戦争が勃発すると同年4月9日同旅団長として習志野から出陣し習志野に凱旋した。

騎兵第一旅団は、日本最強の騎兵軍団で、騎兵第13連隊と第14連隊が所属していた。

除幕式に儀礼隊として参加された陸上自衛隊習志野駐屯地の隊員さん。

平成21年3月29日に執行された千葉県知事選挙に無所属として立候補し当選した森田千葉県知事が参列され挨拶をされた。
次期知事選には出馬せず勇退されるそうです。

若き日の森田千葉県知事。

謝辞を述べる秋山好古のお孫さん秋山哲兒氏(秋山宗家第10代)

残念に一昨年逝去されました。

祝辞を述べる陸上自衛隊習志野駐屯地の司令官。

除幕された秋山好古騎兵第一旅団長の顕彰碑。

顕彰碑「天地無私」は秋山宗家第10代秋山哲兒氏所蔵の扁額から転用された。

秋山好古騎兵第一旅団長の顕彰碑除幕式に当たり挨拶をされる、三橋 正文氏(習志野市大久保商店街理事長・習志野騎兵旅団史跡保存会会長)で挨拶の中に、平成21年から3年に渡りNHKが企画制作し放映される「スペシャルドラマ・坂の上の雲」放映を記念し習志野市大久保の活性化を図りそして秋山好古第一旅団長の功績を顕彰することを籠めて石碑を建立しましたと挨拶をされた。

顕彰碑横に設置された説明板。

除幕式には多くの市民が駆けつけた。

千葉県習志野市大久保商店街は毎日多くの学生が通学する街である。

習志野騎兵第一旅団配下であった、騎兵13連隊跡は「東邦大学薬学部」、騎兵14連隊跡には「日本大学生産工学部」、習志野騎兵第ニ旅団配下であった騎兵15連隊跡は「東邦大学付属中・高等学校」騎兵16連隊跡は更地となっている。
学生たちは、京成電鉄大久保駅で下車し商店街を通り通学している。

学生達が秋山好古顕彰碑を見て一層の勉学に励んでくれると期待している。・・と三橋 正文氏(習志野騎兵旅団史跡保存会会長)は語った。

秋山好古顕彰碑前にある習志野市大久保商店街展示資料館で秋山好古・秋山眞之兄弟に関する資料が展示してある。

資料館は自由に閲覧出来る。

習志野騎兵旅団史跡保存会の役員各位、この方達の努力で秋山好古騎兵第一旅団長の顕彰碑が建立された。

秋山好古騎兵第一旅団長の顕彰碑を見る人々・・昨日まではなかったのに何が出来たのでしょうか・・としげしげと見つめる人々。

何時も秋山好古についてご助言を頂く山岸良二先生です。

先生は、日本考古学協会全国理事・千葉県習志野市文化財審議会会長をされており、

現在は、昭和女子大学特任教授として活躍されておられます。

令和元年5月25日初版発行の書籍「秋山好古と習志野騎兵旅団」の発行に付いては大変お世話になりました。

これからの画像は日本100名城第20番の佐倉城跡です。

国民栄誉賞を受賞した長嶋茂雄さんで有名な、千葉県佐倉市にあった城、佐倉城跡です。

佐倉城址公園管理センターでここに(城郭風の建物)日本100名城第20番である佐倉城のスタンプが設置してある。

私が行った時はこんな立派な建物ではなかった。
史跡内には、立派な「国立歴史民俗博物館」があった。
また、正岡子規の句碑「「常盤木や冬されまさる城の跡」があるそうだが見つけることが出来なかった。

皇太子殿下御野立場所の記念碑。

明治44年5月21日に、皇太子殿下(後の大正天皇)が歩兵57連隊を視察された際に、練兵場にお出になって、設けられた御野立所で中隊対抗演習を観閲された。
その御野立場所跡に、大正5年5月21日に記念碑が建てられた。

また、一時期児玉源太郎は、歩兵第2連隊長として、明治13年〜明治18年までこの地に住んでいた。

佐倉兵営跡の碑で揮毫は、第17代連隊長を勤めた今村均陸軍大将で、明治6年1月、太政官布告で、東京鎮台に東京(歩兵第1聯隊)、佐倉(歩兵第2聯隊)、新潟(歩兵第3聯隊)の3聯隊が設置された。

歩兵第ニ聯隊佐倉兵営全図が史跡内に掲示されていた。

明治6年明治新政府は廃城令を公布しその跡地を陸軍が軍用地としてまた一部は学校用地となったものもあった。

しかし地元からの天守存続請願書が各地から届き、同政府は19の天守の存続許可を下した。

先の大戦で、広島城・福山城・岡山城・和歌山城・名古屋城・大垣城の各天守は戦災で消失、北海道の松前城天守は不審火で消失し現在は12の天守が現存している。

 

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秋山好古揮毫石碑・取材ご協力頂いた方々 その3 新潟県魚沼市の石碑

2020年12月14日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

平成16年10月23日発生の新潟県中越地震で倒壊前の記念碑。

新潟県柏崎市在住の柴野さんから送って頂いた秋山好古揮毫の石碑「戦役記念」の画像です。

書籍「秋山好古と新潟の人びと」神田勝郎さん(現、北方文化博物館館長)が執筆した原稿が出来上がり、印刷段階に取り掛かろうとしていた時に秋山兄弟生誕地事務局に書簡が届いた。平成23年5月5日の事であった。

その内容は、新潟県魚沼市堀之内竜光にある「天満天神社」境内に秋山好古揮毫の石碑があります。送り主は、新潟県柏崎市松波在住の、柴野亮氏からであった。

書籍「秋山好古と新潟の人びと」には、魚沼市堀之内竜光の秋山好古揮毫の石碑は組み込まれてなかった。(この時点では魚沼市の石碑情報は無かったのである。私は、神田氏から送られてきた原稿を読んでいたので把握していた。)

書簡が届いた時点で神田勝郎氏に印刷を一時停止出来ますかと尋ねた。出来ますとの由、その理由を説明した。

神田勝郎氏は、早速魚沼市役所を訪れ石碑のことを尋ねるも分からず、地元の郷土歴史研究家「下村信治氏」を尋ね緊急調査され「秋山好古と新潟の人びと」のページ53に新潟県で2基目の石碑発見と見出しを付けて魚沼市堀之内竜光の秋山好古揮毫石碑「戦役記念」を追加して印刷製本され刊行された。

書籍は、地元新潟県立図書館・新潟市立中央図書館はもとより、愛媛県立図書館・松山市立中央図書館に納本され、中村時広愛媛県知事・野志克仁松山市長には神田勝郎氏から贈呈された。国立国会図書館にも納本している。書籍は非売品なので貴重な資料である。

柴野氏から戦役記念碑の所在情報提供がなければ調査は出来ていません。大変感謝致しております。

平成23年5月5日、新潟県柏崎市松波在住の、柴野氏から常盤同郷会内、秋山兄弟生誕地事務局に送られてきた新潟県魚沼市堀之内竜光の「天満天神社」境内に秋山好古揮毫の石碑の詳細事項であった。

書簡に書かれている通り、柴野氏は神社仏閣を散策され記念碑等々を研究され視野を広げられて居られる歴史研究家のお一人とお見受けしました。

書籍「秋山好古と新潟の人びと」の刊行祝が平成23年6月8日北方文化博物館で行われる事が決定、これに合わせて魚沼市堀之内地区の戦役記念碑の取材日を決め三度目の新潟行となった。

北方文化博物館宿泊施設「大呂菴」で一泊して翌日新潟市内の観光を、現、北方文化博物館神田館長、佐藤副館長両氏が案内して頂き、平成23年6月10日、神田館長さんの自家用車で魚沼市堀之内に向かった。

現地に行ってみると魚沼市役所職員、魚沼ケーブルテレビ社員、新潟日報新聞記者、そして身元の方々大勢のお出迎えを受け驚いた。

画像は、向かって右から

北方文化博物館館長、神田勝郎氏。

地元郷土歴史家、下村信治氏

一時期、愛媛県松山市で勤務されていた地元の方、そしてその奥様で愛媛県松山市出身、松山の秋山兄弟生誕地から取材に来るとのことで来て頂いた。

松山の秋山兄弟生誕地から取材に来るとのことで集まっていただいた方と記念写真。

魚沼市堀之内区長、魚沼市役所職員、魚沼ケーブルテレビ、新潟日報記者の方々が取材に来て頂きました。

魚沼市堀之内区長さんから石碑について取材をする「新潟日報・鈴木記者」「北方文化博物館・神田館長」。

魚沼ケーブルテレビの取材に応じる、北方文化博物館・神田館長。

天満天神社境内に作業中であった周辺地元の方々が集って来てくれました。

秋山好古揮毫石碑取材でこんな大きな形で取材が出来たのは初めてのことで正直ビックリしました。

平成16年10月23日発生の新潟県中越地震、震度7を記録した長岡市と隣接する魚沼市堀之内は震度6弱を記録した激震地区、平成19年7月16日発生した新潟県中越沖地震では震度5弱の激震であった。

この時戦役記念碑は倒壊した。

復興は大変で、先ず住民の生活環境の復興が行われ最後に石碑等々の再建立が行われた。

画像は、再建立された秋山好古揮毫の石碑「戦役記念碑」である。

新潟中越地震で倒壊したが戦友たちの熱い気持ちがあってのことか石碑には大きな傷跡は無かった。

石碑裏面には、この地区から戦役に従軍された23名のお名前が刻まれている。

石碑建立は、大正3年8月有志建之と書かれている。

秋山好古はこの時期、新潟県高田市の第13師団長として赴任しており、有志たちは秋山好古師団長を伺い「戦役記念」の揮毫を頼んだと推察します。秋山好古は心優しい人物で、従軍された皆さんに対しよく元気で帰還されたご苦労さんでしたと言葉を掛けて「戦役記念」を揮毫されたと私は思います。温かいぬくもりのある石碑です。

中越地震で全国から支援を頂いたお礼の幟が魚沼市堀之内竜光の「天満天神」境内に上がっていた。

魚沼市堀之内竜光の「天満天神」境内には、平成20年8月建立された、中越地震 復興祈念塔「激 震」が建立されていた。

天満天神境内は、中越地震復興の資材置き場の一つとされ復興作業道路が建設された。

戦役記念の石碑は画像左あたりに建立されていたが道路建設のため場所を変えて再建立された。

天満天神の鳥居と拝殿で、取材終了後地元の方々が準備して頂いた美味しいお茶を拝殿内で御馳走になった。

帰りには、お土産として魚沼産コシヒカリを材料として作った「笹団子」を頂いた。

鳥居には、平成17年10月吉日 氏子中 中越大震災復興再建と書かれていた。

取材終了後、神田勝郎氏が車で上越新幹線「浦佐駅」まで送って頂き、その後私は、千葉県鎌ケ谷市の道野辺神社宮司を訪れ、神社に眠っている秋山好古揮毫の石碑再建立をお願いして帰路に着いた。

取材にあたり魚沼市職員は、こんなに深い由緒ある記念碑とは知らなかった。後日説明板を設置しますと言われた。その後、神田勝郎氏と柴野氏が訪れ写真を撮って送って頂いた。

取材後日に魚沼市役所が設置した説明板。

写真提供:柴野氏

天満天神社境内拝殿左に建立された「戦役記念」碑の説明板。

写真提供:神田勝郎氏。

取材後、新潟日報新聞、編集局報道部記者、鈴木 孝実氏から送られてきた平成23年6月22日付けの新潟日報新聞記事で、紙面の確保が中々つかず遅くなりましたと付記されていた。

平成16年10月23日発生の新潟県中越地震、平成19年7月16日発生した新潟県中越沖地震前に撮影した魚沼市堀之内の天満天神社。

写真提供:柴野氏

 

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秋山好古揮毫石碑・取材ご協力頂いた方々 その2 新潟市の石碑

2020年12月04日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

連絡を頂いた「習志野市大久保にある真言宗豊山派薬師寺、三橋秀紀住職」

平成21年11月6日、千葉県習志野市大久保にある真言宗豊山派薬師寺、三橋秀紀住職さんから秋山好古揮毫の石碑が発見されたと連絡があった。

千葉県ですかと問いかけると、なんと新潟市であった。

詳細は、新潟市の北方文化博物館の佐藤さんに照会されたしであった。

この時点で好古揮毫の石碑は、全国に48基発見されており全て取材を終え、秋山好古生誕150年祭記念として「秋山好古揮毫の石碑写真集」を発行していた。

まさか日本海側に好古揮毫の石碑が建立されているとは私は考えもつかなかったし秋山兄弟生誕地の役員各位も知る由もなかった。

そして新潟市の好古揮毫石碑「忠魂碑」の取材の旅が始まった。新潟市には四度行くことになったのである。

先ず、新潟市江南区沢海にある北方文化博物館統括室長(現、副館長)の佐藤学芸員さんに照会した。

回答は、秋山好古が揮毫した石碑に間違いないですとの返事であった。

それでも確信が持てず画像添付メールの配信をお願いした。

職務多忙の中でありながら直ぐ写真を撮りに行っていただき送って頂いた。

まさしく秋山好古揮毫の石碑で「忠魂碑」と揮毫され、揮毫者は、陸軍中将秋山好古と書かれていた。

この時点では、秋山好古が揮毫した2番目に古い石碑の発見で日本海側唯一の石碑であった。

NHK松山放送局も新潟市に取材に行き放映した。

画像を送って頂いた博物館の佐藤学芸員さん現在の役職は、北方文化博物館副館長としてご活躍で現在もご厚情を頂いております。

画像左の方が佐藤副館長さんです。
令和2年12月12日(土)午後7時から午後9時までBS-TBS番組「高島礼子が家宝捜索」が放映されます。今回は北方文化博物館です。

収録が11月17日に行われその記念写真を送って頂きました。

参考までに

北方文化博物館は、GHQ最高司令長官マッカーサー元帥が開設を許可した戦後初の私立博物館です。

佐藤副館長さんから送って頂きました画像です。

平成22年3月17日、春を待って現地新潟市に取材に行きました。

画像左の方が、その後お世話になる北方文化博物館・神田勝郎館長さんです。

秋山好古は、揮毫嫌いであった事は有名であった。揮毫嫌いであった秋山好古に誰が依頼したのか、忠魂碑建立の経緯、秋山好古と新潟の人々の書籍発行、秋山好古と新潟の人々についての各所での講演会、魚沼市の石碑の確認、新潟市民文化遺産認定等々尽力を頂いた。

そのことについては、新潟日報新聞に大きく取り上げられました。

平成22年9月5日開催された歴史講演会次第。

平成22年9月5日開催された歴史講演会の記事。

新潟日報新聞、平成22年9月10日付。

新潟の忠魂碑は新潟県中蒲原郡横越村(現、新潟市江南区沢海)から日露戦役に従軍し御国のために戦死された方々の石碑で毎年慰霊祭を実施されている。(大東亜戦争で戦死された方々も合同で)

平成22年9月6日慰霊祭が行われるに際し前日9月5日、北方文化博物館において歴史講座が開催された。

演題は「秋山好古と横越の人々」講師は、北方文化博物館評議員・神田勝郎氏(現、北方文化博物館館長)であった。

私はこの歴史講座に参加するため二度目の新潟行きを決めた。

この時は、自家用車で行きました。途方もなく遠かった。

そして翌日慰霊祭に参列させて頂きました。

歴史講座は、私が慰霊祭に参列出来るようの前日に公演を開催して頂いとことが後で判明した。

なお、帰路は日本100名城巡りをしながら帰りました。巡った城は、松代城・小諸城・高遠城・岩村城・岐阜城・岡崎城・長篠城・小谷城・安土城・観音寺城・竹田城・篠山城の12城を3泊4日をかけて巡った。

例年、慰霊祭は忠魂碑の前に祭壇をつくり行われるが、この年は猛暑で、祭壇は日枝神社拝殿につくられ行われた後忠魂碑に地区の遺族会関係者がお参りした。

私も慰霊祭に参列させて頂いた。

平成22年5月19日(水)新潟日報が報じた秋山好古揮毫の石碑に関する記事である。

秋山好古揮毫石碑、日本海唯一の石碑発見!!新潟日報新聞大きく報道

揮毫嫌いであった秋山好古に忠魂碑の揮毫を依頼したのは、伊澤多喜男新潟県知事であった。

伊澤新潟県知事の前任地は、愛媛県知事で当時愛媛県は住友別子銅山の精錬所から排出される亜硫酸ガスによる農作物被害が大問題となりこれを解決した有能な人物で好古とは旧知の仲であった。(秋山好古も愛媛県出身)

新潟県中蒲原郡横越村神田村長が伊澤新潟県知事に秋山好古に揮毫を頼んだのである。

伊澤新潟県知事はその後東京市長、警視総監に栄進され活躍された。

揮毫嫌いであった秋山好古が忠魂碑の揮毫をした経緯は、全て神田勝郎館長さんが調査し連絡頂いた。秋山好古は、新潟県高田にあった陸軍第13師団長として赴任していた。

注:伊澤多喜男は、信濃國高遠藩士の出生である。

資料:「秋山好古と新潟の人びと」より

北方文化博物館と秋山好古揮毫の石碑の位置関係。

博物館と石碑のある日枝神社は隣接しています。

北方文化博物館は、旧越後随一の豪農「伊藤家」である。

平成23年6月8日、神田勝郎館長が発行された「書籍・秋山好古と新潟の人びと」

新潟市は、平成26年新潟市民文化遺産制度を制定し「秋山好古揮毫石碑・忠魂碑」が認定された。

この認定についても神田勝郎館長の尽力多大なものであった。

参考までに

新潟市民文化遺産制度は、文化財保護制度とは異なり,市民の思い出や生活の 一風景などに関する地域の文化芸術活動を新潟市民文化遺産(以下「文化遺産」という。) として認定し,地域の文化的な遺産の認知度向上と後世へ継承する活動を支援すること により,地域の活性化を図ること・・と位置づけされている。

新潟市民文化遺産159件が平成26年3月13日認定され代表して写真入で「秋山好古揮毫石碑・忠魂碑」が新潟日報新聞に報道された。

佐藤副館長さんが送って頂いた積雪の忠魂碑。

 

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