松山市城北地区歴史散策 7
画像は、愛媛県護国神社境内にある、秋山好古揮毫の記念石碑「天壌無窮」である。
この石碑は、昭和3年11月3日松山市清水小学校が開校し同年昭和天皇即位の御大典を記念して20数名の先生方が醵金して建立した。
揮毫は当時北豫中学校校長であった秋山好古に揮毫依頼して校庭に建立した。
昭和20年11月、米英進駐軍が松山に駐留した。司令官は第24師団司令官、トーマスD,ドレーク陸軍大佐が、この石碑を見て極東軍最高司令長官マッカーサー元帥の命令で直ちに撤去せよとの命が下った。
マッカーサー元帥は、財閥解体、農地解放等々して来たがその中に、教育施設にある記念石碑で揮毫者が軍人の石碑の撤去があった。
清水小学校の石碑は此れに該当し撤去された。石碑が割れているのは撤去作業中に割れたものである。撤去された石碑は平成7年まで同校の用具室に保管してあったのを校長の許可を得て愛媛県護国神社・波爾荘宮司の努力で境内に再建立された。
天壌無窮の石碑は、揮毫者が陸軍大将と言うよりも、碑文「天壌無窮」にあったのではないかと思う。昭和16年3月国民学校令が公布され明治以来親しまれてきた「小学校」の名称が「国民学校」に改められ、教育の目的に「皇国ノ道ニ則りテ初等普通教育ヲ施し国民ノ基礎的練成ヲ為スヲ以って目的トス(第一条)とあって「皇国ノ道」とは「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スル道」と意味付けされていたという。・・これは国家主義的・軍事的色彩が強く示されている内容がある。
此れが強く感じ取られたのが原因だと思う。
愛媛県宇和島市にも此れに該当する碑があり、住職がわが命に変えても寺に引き取り護って行くといって再建立された石碑が境内にある。
先日行ってみて石碑裏面を見ると、昭和天皇御大典並清水学校開校記念と刻印あるが、よく判読出来ない・・神社に頼んで文字に墨入れをして撮影しておきたい。
この他、醵金をした先生方の名前が刻印されていたそうだか今は全く風化して見る事が出来ない。
秋山好古は大正13年以前まではよほどの依頼が無い限り揮毫はしてなかった(好古の揮毫嫌いは有名であった)大正13年元内閣総理大臣、清浦奎吾氏が新田長次郎氏の招きで松山に来られ、早朝から揮毫する姿を見て「長さんそんなに年寄りを責めたらいかんぞな・・と言うと、長さん曰く、信さんは今や日本の秋山好古、揮毫依頼をする人は家宝とするためにお願いするのであります。信さんも字を書いてあげて欲しいものですな」と諭してから揮毫を始めたのである。
此処にも長さんと、信さんの出合いの一齣が伺える。
画像は、愛媛県護国神社境内にある、秋山好古揮毫の記念石碑「天壌無窮」である。
この石碑は、昭和3年11月3日松山市清水小学校が開校し同年昭和天皇即位の御大典を記念して20数名の先生方が醵金して建立した。
揮毫は当時北豫中学校校長であった秋山好古に揮毫依頼して校庭に建立した。
昭和20年11月、米英進駐軍が松山に駐留した。司令官は第24師団司令官、トーマスD,ドレーク陸軍大佐が、この石碑を見て極東軍最高司令長官マッカーサー元帥の命令で直ちに撤去せよとの命が下った。
マッカーサー元帥は、財閥解体、農地解放等々して来たがその中に、教育施設にある記念石碑で揮毫者が軍人の石碑の撤去があった。
清水小学校の石碑は此れに該当し撤去された。石碑が割れているのは撤去作業中に割れたものである。撤去された石碑は平成7年まで同校の用具室に保管してあったのを校長の許可を得て愛媛県護国神社・波爾荘宮司の努力で境内に再建立された。
天壌無窮の石碑は、揮毫者が陸軍大将と言うよりも、碑文「天壌無窮」にあったのではないかと思う。昭和16年3月国民学校令が公布され明治以来親しまれてきた「小学校」の名称が「国民学校」に改められ、教育の目的に「皇国ノ道ニ則りテ初等普通教育ヲ施し国民ノ基礎的練成ヲ為スヲ以って目的トス(第一条)とあって「皇国ノ道」とは「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スル道」と意味付けされていたという。・・これは国家主義的・軍事的色彩が強く示されている内容がある。
此れが強く感じ取られたのが原因だと思う。
愛媛県宇和島市にも此れに該当する碑があり、住職がわが命に変えても寺に引き取り護って行くといって再建立された石碑が境内にある。
先日行ってみて石碑裏面を見ると、昭和天皇御大典並清水学校開校記念と刻印あるが、よく判読出来ない・・神社に頼んで文字に墨入れをして撮影しておきたい。
この他、醵金をした先生方の名前が刻印されていたそうだか今は全く風化して見る事が出来ない。
秋山好古は大正13年以前まではよほどの依頼が無い限り揮毫はしてなかった(好古の揮毫嫌いは有名であった)大正13年元内閣総理大臣、清浦奎吾氏が新田長次郎氏の招きで松山に来られ、早朝から揮毫する姿を見て「長さんそんなに年寄りを責めたらいかんぞな・・と言うと、長さん曰く、信さんは今や日本の秋山好古、揮毫依頼をする人は家宝とするためにお願いするのであります。信さんも字を書いてあげて欲しいものですな」と諭してから揮毫を始めたのである。
此処にも長さんと、信さんの出合いの一齣が伺える。