EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

江戸時代から縁がある越後国新潟(沢海)と伊予国松山

2020年05月22日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

              

秋山好古が前任地、愛媛県知事から新潟県知事として転任、旧知の仲と新潟県民に紹介した伊澤多喜男新潟県知事。(秋山好古と新潟の人びとより引用)

伊予松山と越後新潟とは江戸時代から不思議なご縁がある。
江戸時代沢海藩主が伊予松山藩初代藩主、加藤嘉明の4代目である明英(あきひで)の弟政親(まさちか)が沢海藩4代藩主として溝口家に養子入りしている。

そして秋山好古が大正2年第13師団長として新潟県高田に駐屯、そしてこの時期に愛媛県知事、伊澤多喜男氏が新潟県知事に転任、好古は伊澤知事を愛媛県での実績を重く評価して新潟県民に紹介している。・・

その後、宮本武之輔技官・ 作家、敷村良子さん。

最近では松山市の歌「この街で」の作曲家、新井満さんも新潟市の方である。

前項のブログでは、「秋山好古と三人の副官・全て新潟県出身者、豊邉新作・建川美次・山内保次」を取り上げたが、この項では、伊予国松山と越後新潟(沢海)について探ってみた。

伊予松山初代藩主加藤嘉明は、関ヶ原の戦いで東軍の武将として参戦、武勲を認められ徳川家康から伊予国松山20万石を拝領し、松山と言う地名は加藤嘉明が命名した。
加藤嘉明は、伊予松山城完成1年前に会津若松藩40万石で転封を命じられたが嫌々会津に行った。
嘉明の死後家督は嫡男の明成が継いだが、家老職の堀主水と折り合いが悪く、堀主水は一党を引き連れ城を出て行った。その時本丸に銃を向け発砲した。

激怒した明成は、堀主水を討伐する事件が起こり、江戸幕府が介入する大事件となり、加藤明成40万石は改易された。

加藤嘉明は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の家臣で有名な賤ヶ岳の戦い「賤ヶ岳の七本槍」の一人、加藤清正・福島正則・片桐且元・糟屋武則・平野長泰・脇坂安治・加藤義明で語り継がれる勇士である。

その後、加藤家再興については祖父嘉明の功績を江戸幕府は高く評価し明友(加藤嘉明の孫)に、岩見国吉永藩1万石を与え、お家再興が叶った。その後近江水口藩2万石で転封となった。

さてここから越後新潟(沢海藩)と伊予松山の関係となる。

         

              沢海城跡の説明版、現在は阿賀野川の河川敷となっている

 

           

                    現在の沢海城跡、阿賀野川の河川敷である。

           

                  新潟市江南区横越の「ふる里めぐり」の案内板。

           

                      伊予松山藩初代藩主「加藤嘉明の騎馬像」

その1 加藤家と溝口家

沢海藩の藩祖は新発田藩祖、溝口秀勝の次男で溝口善勝、1万4000石の大名であったその地、沢海に大正2年7月秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」が建立された。
秋山好古揮毫の石碑が日本海側に初めて発見され、NHK松山放送局は現地に取材に行き放映した。

が、51歳で死去、その後長男正勝が家督を継ぐも若くして逝去、息子政武がいたが早世のため、甥の政親「加藤嘉明の孫(伊予松山初代藩主・加藤嘉明⇒明成⇒明友の次男)」を養嗣子に迎えて跡を継がせた。

ところが政親は養父と較べて無能で、百姓に対しては過酷な重税、おまけに昼間から酒に溺れては狂乱に陥る振舞いがあったため、貞享4年8月、所領を没収されて兄の加藤明英の江戸藩邸にて謹慎を命じられ沢海藩は改易取り潰し廃藩となり領地は天領となった。

新発田藩、越後国蒲原郡新発田(現在の新潟県新発田市)の支藩、沢海藩が越後国蒲原郡沢海(現、新潟市江南区横越)に存在した。

           

               徳川家康の築城許可を受け創建した勝山山頂132mにある松山城天守。
               現、天守は安政元年再建された天守で現存天守12のうち一番新しい天守である。

その2 伊澤多喜男、新潟知事

明治 2年11月24日、 信濃国高遠生まれ

明治  7年、       愛知師範学校付属小学校に入学。

明治25年、       東京帝国大学法科に入学

明治30年、       内務省に入省、和歌山県知事

明治42年 7月、    愛媛県知事

大正 元年12月、    新潟県知事

大正 3年 4月、     警視総監

大正15年 7月、    台湾総督を辞任し、東京市長

昭和24年 8月、13日、東京第一国立病院にて逝去 享年79歳

 

          

                          別子銅山四阪島精錬所。


別子銅山四阪島精錬所の亜硫酸ガス事件の解決をしたのが愛媛県知事伊澤多喜男であった。明治26年愛媛県新居浜市に開設された洋式銅製錬所は近隣に大規模な農作物に煙害を起こし農民と別子銅山精錬所との間で紛争が勃発した。

明治38年170万円の巨費をかけて、精練所を四阪島に移転したが煙害は移転前よりもその範囲が拡大、愛媛県東予4郡(宇摩郡・新居郡・・周桑郡・越智郡)対岸の農作物に大きな煙害を引き起こした。その後亜硫酸ガス中和工場が完成し煙害問題は解決した。

明治43年、愛媛県知事伊澤多喜男により調停案が出され煙害問題の解決の切っ掛けを作ったのが伊澤多喜男知事である。

注1:
大正元年12月愛媛県知事から新潟県知事となる。
秋山好古は、大正2年1月28日、陸軍第13師団長として新潟県高田に着任、伊澤多喜男新潟県知事は、高田にいる秋山好古師団長を表敬訪問した。
その席で秋山師団長は、この度前任地愛媛県知事であった伊澤多喜男知事が新潟に来たが、僕の郷里は伊予松山、そこで伊澤君は別子銅山四阪島精錬所亜硫酸ガス事件の解決をした有能な知事で、新潟でもいい仕事をするよと新潟県民に紹介した。

          

               新潟市江南区沢海日枝神社境内にある秋山好古揮毫の「忠魂碑」

注2:

その時、新潟県中蒲原郡横越村長、神田又一が伊澤知事に揮毫嫌いであった秋山師団長に「忠魂碑」の揮毫をお願いした。
これが大正2年7月新潟市江南区沢海に建立された「忠魂碑」である。

平成19年11月、NHKがスペシャルドラマ坂の上の雲がクランクインし、放映収録の最中であった。この時は未だ好古が揮毫した新潟市の石碑は発見されてなかった。

平成21年11月、北方文化博物館神田館長から新潟市江南区沢海に好古揮毫の石碑(忠魂碑)の建立ありと吉報が秋山兄弟生誕地に届き、平成22年3月17日、現地に写真取材に伺った。

                

             新潟県魚沼市堀之内天満天神宮にある秋山好古揮毫の「戦役記念碑」石碑。

この事が新潟日報に報道され、記事を読んだ新潟県柏崎市在住の柴野亮氏から魚沼市堀之内にも秋山好古揮毫の石碑(戦役記念碑)があると平成23年5月5日、松山市の秋山兄弟生誕地事務局に書簡が届いた。しかし平成16年10月23日の中越大地震で倒壊したかもしれないので調べて下さいと付記されていた。

北方文化博物館神田館長は書籍「秋山好古と新潟の人々」が印刷段階に入っており、印刷中止をお願いし魚沼市の石碑現況調査依頼をした結果地震で倒壊したが再建立されていることが判明、書籍「秋山好古と新潟の人々」にも魚沼市の石碑を付け加え刊行された。

魚沼市の石碑取材には、魚沼市役所・魚沼市ケーブルテレビ・新潟日報新聞・地元住民の方々が現地に来て頂き感動した。 

 

                

魚沼市の石碑取材には、魚沼市役所・魚沼市ケーブルテレビ・新潟日報新聞・地元住民の方々が現地に来て頂き感動した。
取材記事が平成23年6月22日付の新潟日報新聞に大きな記事がでた。

              

             私の地元愛媛新聞にも新潟市と愛媛松山の縁を取り上げた記事がでた。

           

                      画像左から、秋山好古 清浦圭吾 新田長次郎

揮毫嫌いであった好古が揮毫を始めたのは、大正14年元内閣総理大臣、清浦圭吾伯が松山に来てからであった。

注3:

揮毫嫌いであった好古が揮毫を始めたのは、大正14年元内閣総理大臣、清浦圭吾伯が新田長次郎の招きで松山に来た時、早朝宿舎である道後温泉の鮒屋旅館を訪れた。すると一生懸命に揮毫をする清浦圭吾の姿を見た。新田長次郎は、好古に対して「信さんは頼まれても揮毫はしないそうだが、清浦圭吾伯は早朝4時に起床して多くの人に頼まれ揮毫をしている。
好古は新田氏に「余り年寄を責めるなよ」と言ふと、同氏は「清浦伯は最早一個の清浦伯でなく、日本の清浦伯である。だから揮毫を請ふ者があれば今朝などは4時から起きて厭な顔もせず書いて居る。貴方も今は日本の秋山大将です。人は一代、名は末代と云ひますから、家宝とするため揮毫を依頼する人格者には、書いてやって貰ひたいものですなア」伯の揮毫を見てゐた将軍秋山は、「なる程熱心がなければ斯うは書けない。之から俺も書くよ」と言った。(伝記 秋山好古から引用)

好古は、この事が切っ掛けで揮毫をするようになった。好古の揮毫は、大正14年以降の揮毫が多く、大正14年以前の揮毫した石碑や扁額は非常に少なく、新潟市・魚沼市の石碑も伊澤知事の願いがあったので揮毫したのである。

             

                   正装姿の「新田長次郎」新田長次郎 

好古とは幼馴染で好古の勧めで大阪に革ベルト製造会社を創設(現、株式会社ニッタの創業者)で大阪市浪速警察副所長から小学校開設依頼を受け、有隣小学校を創立(現、大阪市立栄小学校)故郷松山に、四国初の高等商業学校(現、松山大学)を創設した人物である。

           

その3 宮本武之輔

                        民衆を愛した土木技師、宮本武之輔

            平成25年3月6日北方文化博物館・神田館長が宮本武之輔の顕彰碑と銅像を見聞。
            所在地は、松山市由良町、松山市役所興居島支所の隣にある。

 

             

             地元愛媛県松山市では無名だが、新潟県では恩人として愛されている。
   平成25年1月1日、愛媛新聞が「民衆を愛した土木技師」として大々的に3日間続けて大きな記事が出た。

            

            民衆を愛した土木技師「宮本武之輔」の顕彰銘板が顕彰碑と銅像の前に設置されている。

地元愛媛県松山市では無名だが、新潟県では恩人として愛されている。
平成25年1月1日、愛媛新聞が「民衆を愛した土木技師」として大々的に3日間続けて大きな記事が出た。
その記事を、新潟市江南区にある北方文化博物館、副館長佐藤さんに送った。すると、佐藤副館長さんは新潟の人は知らない人は居ませんよ、・・とメールが届いた。平成25年3月6日北方文化博物館の神田館長さんが是非宮本武之輔の顕彰碑と銅像を見聞したいと連絡があり案内した。

事の起こりは

信濃川大河津分水可動堰工事終盤、昭和5年8月2日豪雨により信濃川上流の危険が迫り、一報を聞いた宮本技官は、「信濃川と工事現場を仕切っていた仮締め切り堤防を独断で破壊し分水路に川水を放流。堤防を切れば工事に大きな支障を来たし宮本にとっては重大な責任問題。宮本は堤防を切らねば人々を困窮のどん底に突き落とすばかりか人命に関係する、これを優先し住民を救った。そして工事も遅れることなく予定通り完成したとある。

宮本武之輔氏とは
明治25年~昭和16年49歳の若さで亡くなった。
愛媛県松山市興居島出身の土木技師で、15歳の時宮田兵吉の援助で上京し、勉学に励み東京帝国大学工学部を主席で卒業。土木技師として内務省に就職。新潟県信濃川大河津分水可動堰修復工事でその才能を発揮、銅像が顕彰碑の隣に建立された。銅像建立には、新潟からも多くの寄附が寄せられ、大河津分水を愛する資料館友の会からメッセージが寄せられた。・・「民衆のために生きた宮本の功績を新潟と愛媛で何時までも伝えて行きましょう」とあった。

                

             敷村良子さんが愛媛新聞・道標に執筆した「新潟でも讃えられ」の記事。

その4 敷村良子

敷村良子さんは、愛媛県松山市出身の作家で、松山市主催の第4回坊っちゃん文学賞を受賞。受賞作品は「がんばっていきまっしょい」で映画化、テレビドラマ化された。

坊っちゃん文学賞(ぼっちゃんぶんがくしょう)は、愛媛県松山市が平成元年の市政100周年を記念して創設した文学賞で松山市出身の俳人・正岡子規と、子規の親友である夏目漱石が平成29年、生誕150年となることを記念して併せて設けられた文学賞である。

敷村良子さんは平成24年12月30日、愛媛新聞の「大型コラム・道標 ふるさとの伝言」に執筆、その中に次の様に書かれている。
(一部抜粋)
新潟市立図書館で偶然手にした、神田勝郎編『秋山好古と新潟の人びと』によると、好古は沢海日枝神社の境内にある日露戦争の忠魂碑の文字を揮毫している。建立された大正2年は陸軍中将。
サインめいたことを嫌い、また高田13師団長として多忙だったのに、頼んだ人がよほど押しが強かったのか、徴兵された青年が命を落とし、職業軍人の自分が生き残って申し訳ないという気持ちからか。戦死者のひとり大町助作歩兵一等卒は203高地の鉄条網を徹夜で切断した後に突撃し、敵に撃たれて絶命したと戦友が伝えているが、沢海の人は秋山好古を恨んでいない。・・中略・・

軍人の秋山好古も、土木技師の宮本武之輔もいわば仕事で新潟に来たわけだが、そんな愛媛からの旅の人びとを、新潟の人は現在も出身地以上に好意を持って讃えてくれる。同郷というだけで好感を持ってもらえるのも、立派な先人のおかげである。・・と締めくくってある。

敷村良子さんは、現在新潟市にお住まいで出身校は、愛媛県立松山東高校、秋山眞之・正岡子規、そして夏目漱石が教鞭をとった旧制松山中学(現、愛媛県立松山東高校)で、秋山眞之・正岡子規は大先輩である。
夫君は、新潟国際大学教授で故郷は愛媛県松山市である。

 

               

 その5 新井満

                 もしも正岡子規の俳句にメロディをつけたなら」のポスター

最近では松山市の歌「この街で」の作曲者、新井満氏(新潟明訓高校・上智大学)も新潟市の方である。

「この街で」

平成17年3月3日、松山市で開催された日本ペンクラブ主催の「平和の日・松山の集い」にゲストで招かれた新井満さんは、本番前日に表敬訪問した松山市役所で「恋し、結婚し、母になったこの街で、おばあちゃんになりたい!」というコピーを見つけた。
松山市の「だから、ことば大募集」で市長賞を受賞した桂綾子さんの作品だった。

「シンプルだけど心の深いところまで届いてくると感動して、そんな想いを話したら、市長さんから、このコピーをふくらませて、明日の“平和の日・松山の集い”でぜひ発表して下さいと頼まれた」

本番まで1日もないので徹夜で頑張ったが、曲が完成しないまま本番をむかえてしまう。結局、即興的に「この街で」は生まれた。その後、再演を求める声が市民から殺到し1000枚限定で松山市で発売されることになったが、反応は高まるばかりだった。

そこで新井盤が平成18年5月にリリースされた。さらに平成20年になると城之内早苗がそして布施明、フォー・セインツ、仲本工事と三代純歌など、平成22年になるとトワ・エ・モワなどがカバー盤を相継いで出す。カバーされるということは“いい曲”だという証拠。そして満を持して平成26年6月4日、ブラザーズ5(杉田二郎、堀内孝雄、ばんばひろふみ、高山厳、因幡晃による新しいスーパーユニット)が“本命盤”をリリースした。

               

                           楽譜入りの

                「もしも正岡子規の俳句にメロディをつけたなら」のポスター

 

           

平成22年9月8日 松山市総合コミュニティセンター・市民プラザのロビーに 巨大なモニュメントが創られた。 作者である新井満さん自筆の原稿用紙が、そのままモニュメントとしてロビーの床に埋め込まれている。巨大モニュメント大きさを人と比較してみて下さい。

「この街で」

作詞:新井満、作曲:新井満&三宮麻由子、オリジナルCD歌唱:新井満。
平成12年、「ことばのちから」事業として行われた「だから、ことば大募集」で「恋し、結婚し、母になったこの街で、おばあちゃんになりたい」が市長賞を受賞。平成17年3月、この「ことば」に感動した新井さんが作品と同じコンセプトで歌を作り、(社)日本ペンクラブ主催「平和の日松山の集い」で即興で「この街で」を披露。その後CD化され、多くのアーティストがカバー作を発表。市民の愛唱歌として親しまれています。

           

       「もしも正岡子規の俳句にメロディをつけたなら」の発表会会場での、新井満さんと野志松山市長。

           

「もしも正岡子規の俳句にメロディをつけたなら」の発表会壇上で、野志松山市長から授与された感謝状を会場の皆さんに披露する新井満さん。

画像左、頭を下げる野志松山市長、満面の笑みで感謝状を披露する新井満さん、左は中村愛媛県知事。

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秋山好古と三人の副官・全て新潟県出身者 3 山内保次

2020年05月12日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

若き日の、山内 保次  (やまのうち やすじ)

 NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の場面でも描かれたが、満州軍総司令部は騎兵隊の情報をあまり重要視してなかった。
しかし建川美次中尉・山内保次少尉の将校斥候がもたらした貴重な敵情報が後の奉天の戦いで大きな役目を果たすことになる。
山内、建川斥候隊の情報は、ロシア兵の動向、北方から列車で鉄嶺に来た兵士達は、そこで下車することなくそのまま南下していく。
北上してくる列車はほとんど空席など、ロシア軍が鉄嶺への撤退戦術をとるのではなく奉天での決戦に備えていることをうかがわせる重要な情報をもたらした。

総司令部に報告に行き、満州軍総参謀長・児玉源太郎からよくやったとねぎらいの言葉を受けた。

山内保次少尉の功績を称えて、明治38年2月10日、満州軍総司令第2軍司令官 男爵 奥 保鞏 から感謝状が送られた。
秋山騎兵旅団長は、将校斥候隊を建川美次中尉と、山内保次少尉に対し斥候隊編成を命じた。

斥候隊長は、少尉か中尉の将校が任についていた。大尉以上となると気力は充実していても体力が伴わない。体力・気力・俊敏さが整っている時期が少尉か中尉である。

山内保次少尉率いる将校斥候隊は、5騎で建川美次斥候隊よりも5日早い、明治38年1月4日、沈旦堡を出発して1月14日に霧に紛れて鉄嶺市街に接近し、ロシア騎兵とすれ違ったり、敵歩兵の後ろに従ったりしながら敵陣地を偵察して、1月21日に軍馬も隊員もやつれはてて宿営地に帰還した。

行程は約1000kmで、報告内容は建川美次隊とほぼ同じ内容で、奉天会戦に大きく貢献した。

山内斥候隊は、予定通りの日程で重要な情報を持って帰還し、激戦地となった黒溝台会戦で、ロシア軍の猛攻を秋山騎兵団が守り抜き日本軍の壊滅の危機を救った。

そして奉天大会戦でも秋山騎兵旅団が大きく迂回し敵後方を撹乱、ロシア軍の撤退を誘発し、日本軍を優位に立つ事が出来、日露講和条約締結に繋がる事になったのは、元を正せば、建川斥侯隊、山内斥侯隊の情報を基にした作戦が立てられた事であった。

日露戦争で敗戦していたら、日本はロシアの植民地となっていた。

明治38年9月4日、日露講和条約講和条約の調停をつとめ頂いた第26代アメリカ合衆国大統領・セオドア・ルーズベルトであった。

ルーズベルト大統領は、条約締結には最低奉天までを占領していることが条件であった。
奉天陥落に大きな貢献をしたのが、建川斥侯隊、山内斥侯隊の情報を基にした作戦が立てられた。

昭和11年1月11日松山市道後公園(湯築城跡)に建立された秋山好古騎馬像制作にあたり山内保次がモデルになった。

彫刻家の横江嘉純は、一旦引き受けてからには最高の作品に仕上げるため、好古の副官であった山内少将を度々乗馬モデルとして見立てて好古のイメージを描き制作した。

秋山兄弟生誕地に復元された秋山好古騎馬像をみる彫刻家たちは、秋山好古像も素晴らしいが、軍馬の描写が素晴らしいと絶賛する。

山内保次の経歴

明治14年 7月16日、新潟県新潟市生まれ

明治35年 3月、   陸軍士官学校第14期生卒業 同期に児玉源太郎の3男、児玉  友雄がいる

明治37年 4月、   陸軍騎兵第14連隊少尉 小隊長

明治38年 1月 4日、将校斥候隊長として出発

昭和 2年12月、   陸軍騎兵第4連隊長

昭和 3年 3月、   陸軍騎兵大佐

昭和 4年12月、   第12代目・騎兵第13連隊長(騎兵隊最強の部隊)

昭和 7年 8月 8日、陸軍騎兵少将

昭和20年 6月、   新潟地区司令官、現在の北方文化博物館新潟分館に居住

昭和50年11月10日、逝去 享年94歳

注:山内保次の息子の山内保武は、太平洋戦争激戦地、栗林中将率いる第109師団後方参謀となり、硫黄島で戦死した。陸軍少佐(陸士47期生)

(秋山好古と新潟の人びとより引用)

昭和11年1月11日道後公園に建立された好古騎馬像である。

しかし先の大戦(大東亜戦争)昭和18年8月12日勅令の金属類回収令により好古騎馬像は供出された。

東京にある、楠正成・西郷隆盛・大村益次郎の銅像は金属類回されなかった。何故か?

好古の信条は「簡単・明瞭・質素・倹約」生前から「家はいらぬ・仰々しい墓を建てるな」銅像建立するなどの如きは最も好まず、陸軍大将になっても借家住まいで馬を飼っていた。

西郷隆盛の事を「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり」。との逸話があるが、好古も西郷の何万分の一か同じ気持ちを持っていたのではないだろうか?

将軍を北豫中学校長に迎え入れた井上要氏は将軍の死後、生前の高徳を慕い同志とはかり自ら建立委員長となり銅像制作を東京の彫刻家、横江嘉純に依頼設計共々一任した。

彫刻家、横江嘉純は好古の乗馬姿を見たことがないので制作は出来ないと断って来た。
しかし井上要の強い要望で制作を引き受けることにした。
その時、好古の乗馬姿のモデルとなったのが山内保次少将であった。

像は最初立像の予定であったが、「騎兵の秋山か」「秋山の騎兵か」と言われた将軍の銅像を馬から下ろす事は、好古の真面目と真骨頂とを失うものとの意見多く遂に騎馬像に改められた。
横江氏は、深く好古の人格と偉勲に感銘し物資の報酬を超越し芸術的良心を将軍の性格行跡を極め特に馬に関しては専門家に就いて熱心に研究、好古の副官であった山内少将を度々乗馬モデルとしてその努力は驚くものであり、風貌姿勢等は好古の近親者の詳細綿密な注意と指導等により度々改更修整を経て一つ一つ実物とほぼ同じ銅像が出来たのである。

昭和11年1月11日近親者をはじめ、北豫中学校職員生徒600名、松山歩兵連隊員500名、地方官民有力者多数参列、銅像建設委員長式辞・陸軍大臣・第11師団長、県知事・市長の祝辞、遺族代表秋山信好氏の答辞、銅像の台座には、同郷の後輩、陸軍大将川島義之の筆による頌功分が金属に刻まれ台座に埋め込まれた。
(伝記 秋山好古から引用)

陸軍大将川島義之の筆による頌功銘板は、現在松山市梅津寺に建立されている秋山好古立像の台座に埋め込まれている。

川島義之は、愛媛県松山市出身で昭和11年2月26日、起こった二・二六事件当時の陸軍大臣である。

平成17年1月18日、秋山兄弟生誕地に復元された秋山好古騎馬像。

昭和11年1月、道後公園「中世の城郭跡・湯築城」内に騎馬像が建立されたが、先の大戦中に金属供出でつぶされた。
幸いそのレプリカの一つが愛媛県立松山北高等学校に保存されていたので其れを参考に原作者、横江嘉純の子孫の監修も受けて当時と同じ大きさに復元した。

設計図は、トヨタ自動車設計部の技師がコンピューターを駆使して制作設計図を作成し、制作地は、富山県高岡市、重さ:800Kg、高さ:3m、台座巾:2,5mのブロンズ像である。

好古の乗馬姿は、ヨーロッパ諸国を視察の際フランスに立ち寄った、山形有朋元帥に直訴し、その後日本の騎馬隊の原型となった、フランス式の乗馬姿勢である。(ドイツ式は、見た目には綺麗な姿勢だが、長時間乗馬すると非常に疲れるし日本人の体形には合わない事が秋山好古はフランスに行って判明した。)好古の強い要望で騎兵だけはフランスの用兵を取り入れ日本式騎兵用兵が構築された。

全国に数体しかない秋山好古騎馬像のレプリカ。

机の上にある秋山好古の騎馬像レプリカ

全国に数体しかない秋山好古騎馬像で、その一つが千葉県習志野市大久保商店街にある「秋山好古と習志野騎兵旅団保存会が管理する資料館」に展示されている。

これから習志野騎兵第13連隊・第14連隊跡を画像で紹介します。

東邦大学習志野キャンパス(薬学部・理学部)でこの地に騎兵第13連隊があり、山内保次は、昭和4年12月に騎兵第13連隊長を歴任している。
この時期秋山好古は、元帥を辞退し郷里伊予松山の北豫中学校の校長を務めていた。

騎兵第13連隊発祥之地の記念碑。

日露戦争から日本を守った大きな一因となった騎兵第13連隊の栄誉と、祖国を守り今日の我が国の繁栄に寄与した騎兵第13連隊諸霊を永く後世に伝えるための記念碑が建立され今日まで受け継がれておりその碑が東邦大学習志野キャンパス(薬学部・理学部)にある。

習志野にあった騎兵第13・第14連隊は平時には近衛師団に属し、有事となると騎兵第一旅団に編成され秋山好古騎兵団の配下となる。
騎兵第13・第14連隊は、精鋭最強の部隊であった。

同じく習志野にあった騎兵第15・第16連隊は平時には第一師団に属し、有事となると騎兵第二旅団の配下となっていた。

騎兵第13連隊発祥之地の記念碑裏面に埋め込まれている「騎兵第13連隊史」

第12代目・騎兵13連隊長 山内保次の氏名が刻まれている。

東邦大学習志野キャンパス(薬学部・理学部)にある、騎兵第13連隊発祥之地の記念碑と隣接して司馬遼太郎の文学碑がある。
騎兵第13連隊発祥之地の記念碑の揮毫を司馬遼太郎に依頼をしたが、「自分は戦車隊員であったので不適当と思う」との手紙が届いた。

司馬は「かって存在しものは、時代の価値観をこえて保存し記念すべきものである。」

との一節を手紙に記された。

この一節を同記念碑建立の眞精神を適切に現す名分と判断し後世に伝え子孫に残す価値がありと判断し、騎兵第13連隊会有志一同が建立した。

(秋山好古と習志野から引用)

司馬遼太郎記念碑の裏面。

司馬遼太郎:

大正12年(1923)8月 7日生

平成 8年(1996)2月12日没

作家 文明評論家 

平成5年 文化勲章受章

我が国騎兵の父と仰がれ騎兵第13連隊等を指揮した騎兵旅団長秋山好古は、司馬遼太郎最高傑作の一つ「坂の上の雲」の主人公である。

冀くば在天の魂魄にこの故郷に訪れ給はむことを。
平成8年10月4日

騎兵第13連隊会 有志一同 建之

と記されている。

(秋山好古と習志野から引用)

これからの画像は、騎兵第14連隊跡地((現、日本大学生産工学部習志野キャンパス)に建立されている記念碑である。

画像は、騎兵第14連隊跡、日本大学生産工学部校内に建立された記念碑である。

秋山好古騎兵旅団長に将校斥候を命じられた山内保次も騎兵第14連隊の小隊長であった。

説明されている方は「秋山好古と習志野騎兵旅団保存会顧問、三橋 秀紀さん(真言宗豊山派・薬師寺住職)」である。
画像、左側の石碑の上部が欠けている碑は、昭和43年日本大学生産工学部習志野キャンパス14号館前の道路拡張現場から発見された石碑である。

騎兵第14連隊発祥之地の記念碑。

騎兵隊最強部隊と称された騎兵第13・14連隊で、斥候隊長であった山内保次は、騎兵第14連隊の小隊長(少尉)であった。

昭和62年10月建立された金属製の記念碑。

明治天皇御製の碑

人ならば ほまれのしるし 授けまし 軍のにはに たちし荒駒

明治天皇御製」とは、明治天皇が詠まれた「和歌」のことで、 明治天皇は、6歳ころから父である孝明天皇直々に和歌の手ほどきを受け、生涯およそ10万首の和歌を詠まれたそうですが、その中の一首で、この歌碑が騎兵第14連隊跡(現、日本大学生産工学部習志野キャンパス)に建立されている。

日本大学生産工学部習志野キャンパスにある騎兵第14連隊に関係する記念碑群。

騎兵第1旅団司令部があった跡地で、現在は公園となっている。

第1旅団司令部跡は現在、習志野市市民プラザ大久保となり社会教育の拠点となっている。

市民プラザ大久保の玄関には、日本大学生産工学部学生が制作した「習志野騎兵旅団司令部」のジオラマが設置されている。

市民プラザ大久保の玄関設置されている、日本大学生産工学部学生が制作した「習志野騎兵旅団司令部」のジオラマ。

秋山好古と習志野騎兵旅団保存会が管理する資料館にある「騎兵の故郷・習志野」についての資料の一つ。

明治36年6月、秋山好古騎兵第1旅団長として習志野大久保にある司令部に着任。

宿舎は、千葉県習志野薬円台にあった。

画像は現在のもので、同地に官舎があった。

同官舎で、明治38年6月19日、好古の母、貞逝去秋山眞之も亡くなった母、貞に会うため薬円台の官舎に来ている。

これからの画像は山内保次少将が晩年暮らした新潟市の画像である。

山内保次少将は、昭和20年6月に新潟連隊区司令官に任され、暫く現在の北方文化博物館新潟分館の離れに暫く暮らした。

現在の北方文化博物館新潟分館の離れで、この建物で山内保次は暮らした。

秋山兄弟生誕地研究員が平成26年10月に見学に行った時の様子である。

晩年、山内保次が暮らした北方文化博物館新潟分館の離れの部屋から見た庭園。

騎兵隊の隊員は軍馬を自分の身体の一部として、いやそれ以上に大切にした。

軍馬あっての騎兵隊員であることは言うまでもない事実である。

静岡市の三浦金蔵隊員も、郷里に「愛馬追悼碑」を建立し亡くなった軍馬を追悼した。

東京の秋山好古も自宅で馬を飼い可愛いがっていたが、東京の中心部で自宅で馬を飼う事が出来ない条例が公布され、自宅で馬を飼ってもいい所を探し転居してまで馬を可愛がった。
大正13年3月郷里松山の北豫中学校長に赴任した際、松山の自宅で馬を飼うのではないかと心配し、好古に内緒で東京から内緒で馬蹄さんが来たそうだが、松山では馬は飼わなかった。馬蹄さんは東京に帰ったそうだ。

山内保次は、絵が非常に上手く、沢山の馬の絵を描き、号を「天涯」と称した。

画像は、その内の2枚で北方文化博物館の所蔵品である。

呟き:

秋山好古が最も信頼した副官3人を追ってきたが、3人ともに豪雪地帯越後の出身者、越後の人は、耐寒性があり、忍耐力があり、不平不満を言わず優れた人たちである。

NHKの番組で昭和時代放映された富田勲さんが作曲したBGMが流れ哀愁の番組「新日本紀行」と言う番組があった。その一つの番組が新潟の様子を紹介する画像で、高齢者の女性が映し出された。アナウンサーは、これから冬の季節になりますがどうされて過ごされますかと伺うと。越冬するために必要な食材・燃料・を蓄え雪の解けるのをひたすら待ち過ごします。・・と言われた言葉が私の脳裏の片隅に残っている。

好古が最も信頼した副官3人も極寒育ち特に建川美次・山内保次は超極寒の中で斥候活動が出来た。温暖の地で育った者には出来ぬことである。勿論隊員もである。

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秋山好古と三人の副官・ 全て新潟県出身者 2 建川美次

2020年05月01日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

秋山好古と三人の副官、その二人目は建川美次でやはり越後の人であった。
満州軍総司令官大山巌元帥は、ロシア軍の主力部隊が何処に集結し攻撃して来るのか確かな情報がなく不安を抱いていた。

大山総司令官は、秋山騎兵旅団長にロシア軍の動向情報収集をするため将校斥候隊を編成し情報収集するよう特命の指示を出した。

特命を受けた秋山騎兵旅団長は、建川美次中尉と山内保次少尉に将校斥候隊を編成、優秀な隊員を選任、重要な任務を背負って斥候に出立させた。

画像は、建川美次将校斥候隊で、

右より

神田上等兵・豊吉軍曹・建川中尉・野田上等兵・竹上等兵の各隊員。

建川美次は、新潟中学6期生で野球が好きで野球部を創設、明治32年11月3日、4日、に高田中学・長岡中学・新潟中学3校による対抗戦が計画された。しかしその日は雨天で試合は中止となった。この時長岡中学に高野五十六、後の山本五十六((連合艦隊司令長官)がいた。五十六は、美次より4歳下であった。

画像は、書籍「残影 敵中横断三百里・建川斥候長の生涯」の表題紙で、平成10年9月16日、新潟日報事業社から出版された。

平成3年11月21日から同年5月30日まで、153回新潟日報夕刊に連載された「流星・建川斥候長の生涯」を改題した書籍である。

映画化されたのは、昭和32年公開された映画、大ベストセラー、敵中横断三百里で、山中峯太郎の「敵中横断三百里」が原作、「残影 敵中横断三百里・建川斥候長の生涯」とは異なる。

映画で主人公、建川美次斥候隊長を演じたのは菅原謙さんであった。

「残影 敵中横断三百里・建川斥候長の生涯」著者、中島欣也のあとがきである。

文頭に「平成3年11月21日から同年5月30日まで、153回新潟日報夕刊に連載「流星・建川斥候長の生涯」を改題したものである。

本書では一部文章に手を入れ、字句や数字に若干の修正を施したが、大筋において連載時と内容は変わっていない。

この連載が一冊のほんとなるのは6年の時日を要した。それは特殊な内容で読者層が限られることから、中央出版社がいずれも二の足を踏んだせいだった。
しかし今回はそれを新潟日報社が引き受けて下さって、本書は日の目を見る事になった。

本書の主人公建川美次は、昭和前期の大ベストセラー「敵中横断三百里」のヒーロー、ある時期の陸軍を動かした実力者、第二次世界大戦前「日ソ中立条約」を結んだ男・・・とその生涯は常に華やかだった。
その彼の一生を貫いたのは何だったのか。私はそこに一人の“越後人”をみていた。豪胆、陽性、果断、親分肌・・・

中略、
私は正統派の越後人「山本五十六」異端派越後人「田中角栄」と書き綴っている。

締めの言葉に「出版に当たってお世話になった新潟日報事業社の皆様方に深く感謝申し上げる次第である。」と括っている。

注:新潟日報事業社は、昭和24年新潟日報社の文化局が分離独立して発足した新潟日報グループの一つである。

私も新潟県魚沼市にある、秋山好古揮毫の石碑調査に行った時、新潟日報編集局 報道部記者 鈴木 孝実氏が、現地に取材に来ていただき大変お世話になった。
新潟日報は、日本海随一の政令都市新潟市にあって、越後にふさわしい親切な新聞社である。

建川美次は:

秋山好古は、明治38年1月4日、騎兵第14連隊の山内保次少尉以下5騎を、同年1月9日に、騎兵第9連隊の建川美次中尉以下6騎を鉄嶺へ向けて派遣した。

建川・山内両斥候隊は、敵軍の後方に深く侵入して敵の作戦意図を探るよう命令が下り、秋山騎兵団の配下として任務をした。

建川美次は、明治37年暮れに日露両軍が対峙した今の中国東北部の沙河にあって、秋山第1旅団長の命令を受け、ロシア軍の動静、陣地の構築状況を調査する挺身斥侯隊を編成し、ロシア軍の敵中突破を図りながら、敵の背後を回って敵情報を詳しく探り、偵察を報告している将校斥侯隊長で階級は中尉であった。

明治38年1月9日から2月1日までの23日間、1200kmの斥侯活動で、建川中尉を隊長とする斥侯隊6騎は、帰還予定日を過ぎても帰らず、秋山旅団長は、建川斥侯隊は全滅したと思っていた矢先、人も馬もやつれはてた騎兵6騎が凄い情報を持って全員帰還した。

その後、建川美次は日本の運命が大きく暗転していく針路決定に関わって行き大東亜戦争開戦時、駐ソ連大使として昭和16年4月13日、松岡洋右とともに、スターリンやモロトフとの間「日ソ中立条約」に調印している。

建川美次の経歴

明治13年10月3日、新潟県新潟市生まれ

明治34年 3月、  陸軍士官学校第13期生卒業

明治35年 6月、  陸軍騎兵少尉 騎兵第9連隊付

明治42年 3月、  陸軍大学校第21期生優等で卒業

大正12年 3月、  陸軍騎兵第5連隊長

昭和 7年、     陸軍中将

昭和15年、     駐ソ連大使

昭和20年9月9日、 逝去

斥候隊員は

極寒の時期の斥侯は、大変厳しい任務で、温暖な地方で育った者は到底務まらない任務、よくぞ23日間耐え抜いた斥侯長と隊員である。
斥侯隊長を任命するのは、秋山騎兵旅団長が任命するが、隊員を選任するのは、斥侯隊長が選出し旅団長が許可する。

斥侯隊員は、日頃から斥侯隊長と気質や考え方気心の知れた上に、体力堅固で

1、記憶録が優秀

2、俊敏さがあり

3、協調性必要

4、忍耐力旺盛

5、ロシア語が話せ理解できる勿論志那語も

6、基本的に偵察であるが、時には攻撃、追跡の大きな任務がる・・小心者には務まらない過酷な任務である。

新潟県魚沼市にある秋山好古揮毫の石碑調査に行った時、新潟日報編集局 報道部記者、鈴木 孝実氏が現地に取材に来ていただき報道して頂いた記事で大変お世話になった。

新潟県魚沼市にある秋山好古揮毫の石碑「戦役記念」。

戦役記念碑は、魚沼市竜光地区から出征し無事生還した隊員が建立した。

戦役記念碑は、大正3年8月建立で、秋山好古が揮毫、この時秋山好古は第13師団長として大正2年1月15日新潟県高田に着任していた。

 

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