EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

夜は名月、朝は朝焼け

2015年09月30日 | 伊予松山歴史散策
此の所、松山の朝は気温が下がり朝焼けを見る事が出来ます。夜は名月が鑑賞できる日々で、これは天候が安定している証拠である。
但し、台風21号が石垣島地方を襲い被害が出ているようですが大きな被害が無い事を祈っております。
数日前から台風の影響か、松山は気温が上がり、今秋は、残暑がなくいきなり秋が来たかと思いきや気温が上がり、やはり短い日々であったが、残暑らしき天候になった。残暑無くして秋は来ぬでした。
26日(土)秋山兄弟生誕に行って、秋山好古揮毫の石碑のお話をさせて頂きました。現在好古揮毫の石碑は全国に53基発見されており、つい先日新たな石碑が発見されました。
所在地は、長野県安曇野市豊科高家ですと紹介すると、えーそうですか、私は長野県安曇野市から来ました。・・偶然ですね・・来春私が調査に行く予定です。
安曇野のいい時候は何時ですかと伺うと、10月が最高ですと、10月は行く事は出来ませんが、5月に計画しますお話をした。安曇野市から来られた方は、中年の上品な女性で、秋山好古の生き様が大好きで一度伺いたく思いながら遅くなりましたが今日来ました。・・でした。女性曰く、松山は熱いですね、安曇野は日中でも半袖の衣服では寒くて長袖姿ですよと言われた。
昨日松山は29,3度ありました。今朝(30日)の最低17,5度、少し雲があります。
私のブログのタイトルは「鍾馗さんと名城巡り&好古揮毫石碑紀行」で、件名が長いのですが、秋山好古揮毫石碑が長野県安曇野市に発見されましたので、いずれブログに掲載します。来春になりますが・・
話が逸れました。
画像は一昨日、昨日、本日の松山市の朝焼けです。朝焼けは、西日本最高峰「石鎚山・1982m」の左側から朝焼けになり朝日が昇ります。


9月28日、午前6時2分松山の朝焼け。四国電力の送電線と鉄塔。


9月28日、午前6時4分、中央に小さく見える山は「西日本最高峰「石鎚山・1982m」、松山から見る形が一番綺麗に見える。我が家の玄関から。


9月28日、午前6時6分。西日本最高峰「石鎚山・1982m」上空が朝焼けになった。


9月29日、午前6時06分。


9月29日、午前6時18分。


9月30日午前6時27分、今朝は朝焼けにならなかった。


9月30日午前6時38分、朝日が昇って来た。
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中秋の名月&スーパームーン

2015年09月29日 | 伊予松山歴史散策
松山からの「中秋の名月&スーパームーン」
一昨晩(27日)、「中秋の名月」TV鑑賞に夢中になっていた午後9時過ぎ外を何気なく見ると何時になく明るいのに気が付き外に出てみると松山の空に大きな月が真上に昇っていた。慌ててカメラを取り出し三脚をセットし絞り、ISO,それに露出補正を、ホワイトバランスも変えて撮ってみた。
昨日は、28日地球と月の距離が近くなり、今年最大の満月「スーパームーン」となると国立天文台は発表した。
それは、地球に近づくため大きく見える満月「スーパームーン」が28日夜、雲の間から観測できそうだ。今年もっとも小さく見えた満月(3月6日)に比べ、直径は1・14倍となり、明るさも3割ほど増すという。27日は「中秋の名月」(旧暦の8月15日)で、2日続けて「お月見」が楽しめるかもしれないとも紹介されている。
幸いに松山は天候に恵まれ2日連続して満月を鑑賞出来ると思いカメラを三脚にセットして待機していたが雲が現れ月の軌道上に雲が湧き時々雲間から顔を出したが完全な「スーパームーン・夜の女王」を鑑賞する事が出来なかった。
画像は、27日の「中秋の名月」と28日の「スーパームーン・夜の女王」。


9月27日午後9時過ぎから撮影はじめました「中秋の名月」。


ホワイトバランスを変えて。


ホワイトバランスを変えて。


此れからは、9月28日「スーパームーン・夜の女王」を撮影するためカメラをセットし待機した。スーパームーンはビルの左側に現れる予定で。


予定通りスーパームーンは現れたが!!


暫くすると画像の様に雲が現れ「スーパームーン・夜の女王」は雲隠れした。
月の軌道上に長い雲がありこれでは綺麗なスーパームーン鑑賞は出来そうもない。


すると雲の切れ目からスーパームーンは顔を出すが直ぐ雲の覆われる。




見えたかと思うと薄い雲が現れる。


午後8時前この画像を撮って撮影を取りやめた。今朝、近所の奥さんから昨晩11時頃綺麗な新月が見え、早朝も月が沈む大きな新月が見えたと話を聞いた。鑑賞は諦めずに気長に待たないと美しい月は見えないものですね。!!
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東西南北から見た松山城天守 番外その4 鎌出し

2015年09月28日 | 伊予松山歴史散策
足立重信が考案した石手川に設置した「鎌出し・鎌投げ」


足立重信は、慶長5(1600)年に正木城(松前城)を勝山(現松山城)に移すにあたり、勝山近くを流れ伊予灘(瀬戸内海)に注いでいた湯山川(現石手川)の流れを南西に変え重信川に合流させ、慶長12(1607)年に竣工した。此れは勝山に城を築く工事と並行して行った大難工事であった。
 改修は勝山(現伊予松山城)近くを流れ、直接伊予灘に注いでいた湯山川(現石手川)を、岩堰と呼ばれる岩壁230mを掘り割り、新水路を南西に開通させ、重信川の出合に合流させた。堤防延長は約16kmにわたり、特に松山城を守る右岸堤防は強大にした。掘り割られた岩壁が、現在の河道として残っている。
 また、上流から一気に流れ下る水勢を弱めるため、両岸から千鳥に石を組み突出させ、流れを受け止める鎌出し(鎌投げ)水制工という工法を用いた。足立重信は、自分の屋敷内に川水を引き入れ、急に大水を加えてはこの方法で試して実用化したものと伝えられている。
足立重信が考案した「鎌出し(鎌投げ)」が現在唯一、一ヶ所しか現存しないと伝えられていたが、もう一ヶ所発見された。その検証に行って来た。
改修工事は、伊予松山城の外堀としての役目も果たした。
参考に、1級河川「重信川」は以前伊予川と呼ばれていた。この川もよく氾濫していた川で、足立重信が改修した。その名前を取って重信川と河川名を変更した。全国の1級河川名が改修者の名前が河川名になっているのは重信川だけである。


足立重信が考案した「鎌出し(鎌投げ)」が現在唯一、一ヶ所しか現存しないと伝えられていた所。
所在地は、松山市湯渡町12番8、湯渡橋直ぐ下の右岸にある。現在は草が茂り鎌出しは見えない。以前は草を取り綺麗にしていたが今はされてない。


足立重信が考案した「鎌出し(鎌投げ)」撮影は平成18年3月4日撮影。
「鎌出し(鎌投げ)」は改修された石手川は直線に改修したので早い水流を緩めるために画像の様に石を積み両岸から千鳥に水制工という工法を用いた。


現在は画像の様に草に覆われ鎌田出しを見る事が出来ない。平成27年9月25日撮影。


地元が設置した説明板。平成5年設置だがこの時はこれからご案内する二つ目の「鎌出し(鎌投げ)」は発見されてなかった。


これが二つ目の「鎌出し(鎌投げ)」、草が茂り覆いかぶさっているので鎌出しには見えない。・・この地点に行くには歩ける道が無いから行き難い。
そしてこの付近だけ護岸工事が未整備である。何故でしょうか?


これが二つ目の「鎌出し(鎌投げ)」。
所在は、松山市日の出町9番石手川緑地、左岸にある。
草を取り除き説明板を設置して広く市民に紹介しては如何でしょう・・松山市の市長さん。そして地元住民も。


松山市室町一丁目の末広橋からの石手川で、画像左が左岸(北方向)右が右岸(南方向)石手川の堤防は、特に松山城を守る右岸堤防は強大にした。
石手川は、伊予松山城外堀の役目を果たすためにも改修された。
堤防は三段構えで強固に護岸されている。水の勢いは恐ろしい。
末広橋付近は、昭和51年9月(1976) 台風17号による水害により護岸が欠損河川敷上の住宅12戸流出が流失した。私はこの時仕事の帰りに住宅が流出する現場を見たが水の勢いは恐ろしい。
その後画像の様な堤防に改修された。


石手川の左岸で一番外側の堤防は舗装され道路として利用されているが、画像の様に一車線である。


石手川の右岸で一番外側の堤防は舗装され道路として利用されているが、画像の様に左岸と違って二車線で堤防が広いのである。右岸側には城下町があり水害から護るために広く大きく造られた。


足立重信が改修した石手川は、市坪西町で重信川に合流して瀬戸内海に流れ出る。画像左が、重信川、傍示川(石手川の支流)、石手川、奥に見える橋が出会橋で橋の袂(松山市側)に正岡子規の有名な句碑がある。
そして画像より少し上流約500m右岸に秋山好古揮毫の石碑がある。
重信川も、加藤嘉明の命を受けて暴れ川であった「伊予川」を改修し、改修者の名を取りて「重信川」と改名した。全国の1級河川で工事者の名前が河川に付けられているのはこの河だけである。


上空から見た石手川が重信川に合流する出合で、右側が伊予郡松前町、左が松山市。


出合橋の松山市よりの袂にある正岡子規の句碑。
「若鮎の 二手になりて 流れけり」・・子規
子規が東京で遊学中、松山の名所重信川と石手川が合流する出合い付近を懐かしい思いを起こしながらその早春の風景を詠んだもの・・「正岡子規と秋山眞之が語らいながら、故郷松山を懐かしんだのでは??」
明治25年6月17日松山の河東碧梧桐に宛てた手紙に「出合」と題して
「若鮎の 二手になりて 流れけり」として送られたとある。・・名句である。


秋山好古揮毫石碑 碑 文 :追 遠 記 念 碑
場所、松山市和泉北三丁目2番3号泉永寺境内(石手川泉永寺橋右岸直ぐ下)
足立重信により石手川が改修され、和泉、朝生田の洪水被害は少なくなったが和泉村七十町歩の養水乏しく旱害に苦しんだ。慶長11年(1606)森宗勘が縦淵城跡ほとりに堰を設け和泉村用水路の普請が和泉村民総出ではじまった。難工事は石手川底を通水させる埋樋水門で、宗勘が苦心の末考案して宗勘樋が完工し和泉村七十町歩は良田と化した。森宗勘の不滅の功績をあらわすため明治25年3月泉永寺に彼の遠孫、森六次郎名をもって「小野川縦淵水門開祖之碑」が建てられた。昭和2年8月「追 遠 記 念 碑」が向かい合うように東側に建立された。裏面に、明治2年和泉村と朝生田村との水争いのことが記載されている。
註・縦淵城跡所在地:松山市東石井五丁目13番14号「城山神社」
小野川は中世「縦淵川」と言っていた。
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東西南北から見た松山城天守 番外その3・彼岸花とツルボ

2015年09月26日 | 伊予松山歴史散策
彼岸花とツルボ

伊予松山城本丸に毎年9月中頃から咲きだす「ツルボ・蔓穂」があります。
今年も写真を撮りに行って来ました。
余り目立たない花で、ひっそりと、控え目に、何気なく咲き品の有る花です。三年前にこのブログに掲載し、私は植物の知識がなくこの花の名前が分かりません。伊予松山城には打って付けの花だと思います。・・と書きましたら直ぐにブログを見て頂いたかたから、この花は「ツルボ・蔓穂」ですよと教えて下さいました。
それ以来忘れることなく毎年写真を撮りに行っております。
現在松山城は、本壇の下、東から北側は工事を行っておりまして一周出来ませんので東・北側の、「ツルボ・蔓穂」の花を見る事が出来ません。
その代わりに今年は、「彼岸花とツルボ」が一緒に咲いている所がありました。乾櫓の前です。また来年も撮りに行きます。


「ツルボ・蔓穂」で余り大きくなく、控え目で、気品のある花お城には打って付けの花だと思います。


乾櫓の前で、石垣の間から彼岸花と一緒にツルボが咲いていました。するとそこにアゲハチョウが飛んで来ました。石垣の下から撮りました。


野原櫓側から。


再度下から、乾門内側から


バックが白い雲、やはり青空が映えて映りがいい。


石垣の間から元気に花を付け、殺風景な風景に秋の季節の花が似合う。


ツルボは球根か、種子か何方で繁殖するのか知識がなく分かりませんが、水分の少ない肥沃でない所によく育つものだ。


筒井門の西側で撮りました。


大手門跡から隘路を通り太鼓櫓の下に咲いておりました。奥に天守、右側一部見えるのは馬具櫓。


9月中旬頃に伊予松山城にお越しになられる皆さん是非お城を見ながらツルボの花も鑑賞して下さい。ツルボは、別名サンダイガサ(参内傘)で、公家が宮中に参内する時に従者がさしかけた傘をたたんだ形に花穂を見立ててこの名が有る。・・と資料には説明されている。
東京新宿御苑では、最盛期の頃は、あたり一面が淡紫色に染まり、秋の訪れを知らせるツルボの花を是非ご覧下さい。・・とも紹介されている。

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東西南北から見た松山城天守 番外その2

2015年09月25日 | 伊予松山歴史散策
松山の街のシンボル松山城をいろんな方角から撮りためていた画像を取り出し見て頂きました。近年お城ブームでお城巡りをされている多くの方々が松山に来て頂いており有難く思います。
「行ってよかった日本の城2014」で第2番目に選んでもらいました。加藤嘉明も驚き喜んでいると思います。・・また是非お越しください。
と言う事で、慶長7年(1602)から26年の歳月を掛けて城を築城しその建築費用は、農工商の民から取り立てた年貢によるもので、特に農民は、年貢の取り立てが厳しく食べ物はろくなものを食べておらず、着るものに大変苦労したそうです。その苦労の結晶が現在の伊予松山城で、松山市の最大の観光資源・宝物です。
最近の女性は、いい一眼レフカメラを持参してお城散策をされる方が多く、先般も日本三代山城に行って来ました・・美濃岩村城(岐阜県岩村町)・大和高取城(奈良県高取町)・備中松山城(岡山県高梁市)と言われた。
岩村城・高取城・松山城に・・と言われ聞き取ったある人は、松山城を、伊予松山城と勘違いされた。伊予松山城も標高132mに本丸があり本壇は更に10m高く石垣を築き、本壇地盤から高さ4mの天守台を築き21mの天守があるので殆どの皆さんは山城と勘違いされる。伊予松山城は平山城であり、日本三代平山城(津山城・姫路城・伊予松山城)とされている。先ほど日本三代山城の一つ松山城に居て来たと言われた城は、備中松山城の事である。
余談でしたが、空撮の伊予松山城を見て下さい。


伊予松山城全体の空撮です。画像でよく見えるのは、三之丸で野球場と陸上競技場、陸上競技場に隣接してラグビー場があり、野球場と隣接して軟式庭球場(ソフトテニス)外堀右内側に小さく空色に見えるのが、市営プール、野球場の上側に国立病院四国がんセンター等々の施設があったが、この施設は現在他に移転し、現在は、城山公園となった。よってこの画像は見る事の出来ない貴重な写真である。そして城の形態がよく分かります。運動施設がある場所が三之丸で平地にあり、二之丸が山麓にあります。そして132mの山頂に本丸があります。もし三ノ丸も山中にあれば、山城ですが、三之丸が平地にあるから伊予松山城は、平山城です。
参考事項:三之丸⇒標高20、1m 二之丸⇒39,3m 本丸⇒132m


空中からの伊予松山城本丸で標高132mある。加藤嘉明は勝山(峰が三つあった)を切り開き屏風折れの石垣高さ13mを築き本丸を城築しました。大工事であり難工事であった。加藤嘉明の奥方も人夫たちの握り飯造りに一役買ったそうです。


南からの空撮で、手前の石垣を秋山眞之が幼少時代(淳五郎)に登った石垣で正岡子規(升・のぼる)は登れなかった。幼少時代二人は、淳(じゅん)さん、升(のぼ)さんと呼び合った仲で、そして末は博士か大臣かを目指し東京大学入学を志上京した。子規は予定通り東大に入学するが、眞之は海軍兵学校に入学した。なお東京予備門時代に夏目漱石と同期生である。


伊予松山城の中で国指定の重要文化財の建物が一番多くある所です。画像右から、ニノ門南櫓の屋根が一部、二ノ門東塀、二ノ門、三ノ門南櫓、筋鉄門東塀、一ノ門、一ノ門南櫓の一部が見える。伊予松山城本丸には国指定の重要文化財の建物が21棟現存する。現存12天守の中で2番目に多い建造物を有する。一番は姫路城で確か74棟ある。


先日、観光ガイドの当番日で質問を受けました「坂の上の雲の主人公の一人、秋山眞之が登った石垣は何処ですか?。
場所は画像の石垣で、隠門続櫓下の石垣です。ロープウェイ山頂駅舎から本丸に向けて登城すると最初に目に入る高石垣が見えて来ます。石垣は横矢掛かりに積まれていますが、その上に隠門続櫓がありますがその左の石垣です。秋山眞之(当時の名前は、淳五郎)は少年達を引き連れてガキ大将で城山によく遊びに行きました。正岡子規も、ある時「今日は近道をして行くぞ・・子供たちは、淳さん道は一本しか無いぞな・・どんなにしていくんぞな・・すると淳は、今日はこの石垣を登って近道をして行くぞな・・と言って皆に登らすも中ほどまで登るが恐ろしくなり下りて来る。淳さん、わしらだけに登らさづに、淳さん登ってみんさい。・・よーしわしが登るけんよーく見ておけと言って登り切った。」登り切ると筒井門と隠門の前に出る(枡形)。・・その石垣です。

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