EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山兄弟生誕地整備事業を回顧する その6 子規と秋山兄弟の青春「坂の上の雲」の世界・第1回 秋山兄弟の生誕地

2022年07月16日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

(写真:小林 修氏)

平成21年7月31日号の週間朝日、P116からP121に渡り掲載された「子規と秋山兄弟の青春(坂の上の雲)」の世界!!

この取材に、

平成21年6月18日、東京都中央区築地の朝日新聞東京本社週刊朝日編集部、編集委員の村井重 俊氏と記者の守田 直樹氏、写真部カメラマンの小林 修氏が秋山兄弟生誕地に来られた。
カメラマンの小林 修氏は、朝日新聞東京本社には、多くのカメラマンが居られるが、技量豊かなカメラマンが5名いるそうです。その中のお一人だそうです。

小林さんの写真は、コントラストが強調され、シャープで、はっきりとした写真を撮られるカメラマンです。この後、小林カメラマン撮影の写真5枚を掲載します。

取材は、平成21年6月18日、秋山兄弟生誕地に来られ、案内は秋山兄弟生誕地を運営する常盤同郷会常務理事、宇都宮 良治氏が行った。

記事は、週間朝日 平成21年7月31日号P116からP121に渡り掲載された。

表題は、「子規と秋山兄弟の青春(坂の上の雲)」の世界!!

第1回 秋山兄弟の生誕地

(写真:小林氏・文:村井氏・守田氏)

※ 常盤同郷会常務理事(秋山兄弟生誕地運営委員会委員長)宇都宮 良治氏は、令和3年4月6日逝去された。享年87歳。(第18代~20代松山市長・宇都宮 孝平氏の次男)

(写真:小林氏・記事:村井氏、守田氏)

 

 

内容は、次の通り(中略しています。)

「子規と秋山兄弟の青春・坂の上の雲の世界」と題して。
1968(昭和43)年4月から産経新聞夕刊で4年3カ月にわたって連載された。司馬さんは静かに書き出している。

〈まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている〉

 明治維新を迎えたばかりの、四国の伊予松山(愛媛県松山市)が舞台となった。

〈この物語の主人公は、あるいはこの時代の小さな日本ということになるかもしれないが、ともかくもわれわれは三人の人物のあとを追わねばならない〉

 3人はいずれも松山に生まれた。・・・中略

秋山兄弟生誕地を運営管理にあたる「常盤同郷会」常務理事の宇都宮良治さんが案内してくれた。

「敷地は105坪です。家の間取りも江戸時代のものとほぼ同じ、それほど広い家ではありません」

 8畳と6畳が2間ずつの4間で、土間に台所はある。・・と記事に書かれている。

座敷と居間。

(写真:小林氏・記事:村井氏、守田氏)

 庭には、騎馬にまたがった軍服姿の好古の銅像と、真之の胸像が向かい合うようにたたずんでいる。

 ところで生誕地の一角に、小さな〝写真展〟が開催中だった。秋山好古が主として愛媛県内に残した揮毫(きごう)を調査、撮影したものだという。

 撮影したのは、研究員(ボランティアガイド)の仙波満夫さん。松山市教育委員会に30年以上勤め、定年後にガイドに誘われた。秋山兄弟を詳しく知らないからと最初は辞退したが、

「みんなそうだから、勉強しながらやりましょう」 といわれた。

 いまから(当時・平成21年)4年前のこと、ゴールデンウイークに〝思いがけない出来事〟が起きる。大阪から来た好古ファンという人が、隣町の神社にあるという好古揮毫の額について聞いた。仙波さんはもちろん、ほかのメンバーに聞いてもわからない。かなりマニアックな質問だが、松山の人なら当然わかるだろうと思ったようだ。その大阪の人は短気のようでもあった。

 仙波さんがいう。

「そんなことも知らんのか、バカタレが、という感じで罵倒されてしまいまして……。最初は腹が立ったけど、それならよーし、調べてやろうと思いましてね。それからカメラをもって好古さんの揮毫を追い求めています」

 調べ始めると、揮毫はどんどん出てきた。松山市、西条市、伊予市、今治市などと愛媛県内が多いが、東京、静岡、千葉、神奈川、新潟にもある。

「撮った写真を生誕地に貼り出していくと、あそこにもあるよと情報が集まって来るんです。神社が多く、『愛馬追悼碑』などもあります。真之のほうが字は上手ではありますが、好古にも味があります。だんだん上手になっていますね」

 こうして集めた42点を、平成21年1月7日に『秋山好古揮毫の石碑写真集』として常盤同郷会から出版した。(平成21年1月7日が秋山好古生誕150年でその記念に)

 調査のこぼれ話も載っている。

 松山市の両新田神社に記念碑があると聞いて訪ねたが、碑はない。あきらめて帰ろうとして、ふと振り返り上を見ると、鳥居の社号が好古の揮毫だった。

「仙波君、私が揮毫したのは社号でここにあるよ。振り返ってみなさい」と好古の声が聞こえたようであった〉

 仙波さんはさらにいった。

「これも調べていくうちにわかったことですが、私の親父は、秋山好古校長の教え子だったんですよ。昭和5年に卒業していますから、お目にかかっていたはずです。縁があったんですねえ」

 秋山兄弟は古くて新しい。仙波さんに限らず、松山の人々の秋山兄弟を知る旅は、ようやく始まったばかりなのかもしれない。

以上一部です。

私の取材は、同年6月19日、自宅に訪ねて来れての事でした。

記事の一部

「庭には、騎馬にまたがった軍服姿の好古の銅像と、真之の胸像が向かい合うようにたたずんでいる。

ところで生誕地の一角に、小さな〝写真展〟が開催中だった。」

注1:秋山好古揮毫の石碑写真を展示しようと提案されたのが、常盤同郷会理事・常盤学舎運営管理担当理事(秋山兄弟生誕地運営員)の鷹尾 清文氏であった。

注2:常盤学舎は、江戸時代、伊予松山藩主 久松定謨が創設した。正岡子規、勝田主計、桜井忠温など多くの人材を輩出した。一時期、秋山好古が常盤学舎の舎監を努めた。

所在地は、東京都東久留米市中央町一丁目18番17号、設立当時は、東京都真砂町にあった。

そんなことも知らんのか、バカタレが、という感じで罵倒された。

最初は腹が立ったけど、それならよーし、調べてやろうと思いましてね。それからカメラをもって好古さんの揮毫を追い求めています。一番新しい石碑(53番目)は、令和2年10月1日、京都市右京区京北井門町に発見されています。

取材は、コロナの関係で行っておりません。

お願い事項の表示版。

平成21年1月7日、秋山好古生誕150年記念に出版された「秋山好古揮毫の石碑写真集」

平成23年12月1日、秋山好古生誕153年記念 第2版出版。

注:写真集は、国立国会図書館・新潟市立中央図書館・習志野市立図書館・愛媛県立図書館・松山市立図書館に納本していますので御覧下さい。

令和 2年10月1日現在の、秋山好古揮毫の石碑所在一覧。

53番目の京都市の石碑の取材は、コロナの関係でまだ取材は行われていません。

大阪の人に罵倒されてしまい、秋山好古揮毫の石碑調査のきっかけとなった「東温市下林甲2616番地・築島神社」の社号額。

大阪の人は短気のようであった。

「そんなことも知らんのか、バカタレが、という感じで罵倒されてしまいまして……。最初は腹が立ったけど、それならよーし、調べてやろうと思いましてね。それからカメラをもって好古さんの揮毫を追い求めています」・・現在も調査しております。

このことがなかったら秋山好古揮毫の石碑調査はしてなかったでしょう。

築島神社拝殿には、日露戦争激戦の地「遼陽会戦・に於ける司令官戦況展望」の絵馬も社号額の右側に掲示してあった。そして忠臣蔵の絵馬もありました。拝殿には多くの絵馬が奉納されていました。

松山城

ここから

週間朝日 平成21年7月31日号

P161~167に、朝日新聞本社カメラマン・小林 修氏撮影の写真に、週間朝日本社編集部記者・村井 重俊氏が説明記事を書いている写真5枚を掲載します。

写真:小林 修氏

松山城石垣

小林さんの写真は、コントラストが強調され、シャープで、はっきりとした写真を撮られるカメラマンです。

勿論構図がすばらしいです。

写真:小林 修氏

三津浜(松山市)

この浜から「坂の上の雲」の主人公たちは大阪、東京へと旅立つ。病に倒れた子規が帰ってきたのも三津浜だった。

写真:小林 修氏

道後温泉「坊っちゃんの間」

道後温泉本館最上階3階に坊ちゃんの間がある。

この部屋は、明治28年10月に夏目漱石、正岡子規が遊んだこよなく愛しよく使われた特別な部屋で一般公開している(無料)が、現在は、保存修復工事中で見学は出来ない。建物は、国指定の重要文化財で温泉の建物としては、日本国内で唯一道後温泉本館だけである。

写真:小林 修氏

道後温泉本館最上階3階に坊ちゃんの間がある。

愚陀仏庵(松山市)

愚陀仏庵は、松山市二番町三丁目7番地に現存したが昭和20年7月26日松山空襲で焼失した。
昭和57年に松山市一番町三丁目にある萬翠荘の裏に復元された。

平成22年7月12日未明からの大雨で、松山城東雲口登山道斜面の土砂崩れが発生し、城山山麓に建築されていた愚陀仏庵が倒壊した。現在は倒壊した建造物は取り除かれ画像のように更地になっている。

写真:小林 修氏

倒壊前の愚陀仏庵。
夏目漱石が愛媛県松山市の松山中学に赴任していた時の下宿先で、名称は夏目漱石の俳号・「愚陀佛」に由来するものである。

正岡子規は、日清戦争時に日本新聞社の従軍記者として戦地に赴き帰りの船で喀血し帰国後療養、元気になり松山に帰った。松山には子規の家は無く、漱石の下宿先に居候となり、漱石と52日間共同生活をした。これが愚陀仏庵で二階に漱石、一階に子規が寝泊りした。子規はよく句会を開き、漱石も時々参加、短詩系文学に興味いた。これがきっかけとなり文豪夏目漱石の誕生したのである。

愚陀仏庵(ぐだぶつあん、)は、夏目漱石が愛媛県松山市の松山中学に赴任していた時の下宿先で、名称は夏目漱石の俳号・「愚陀佛」に由来するものである。

明治28年、新聞日本の社長・陸羯南の猛反対を押し切り従軍記者として清国に渡り、帰国の船中で喀血、神戸須磨で療養し、その後松山に帰郷した。松山で親友の夏目金之助(漱石)の下宿(愚陀仏庵)で52日間居候生活をし、漱石より10円を借り、東京に帰る途中何故か同年10月26日〜29日の4日間奈良に行っている。
奈良に滞在し、「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の句が詠まれたのである。この時背中に激痛が走り、その後脊椎カリエスとなり病床にふくすことになる。

萬翠荘

大正11年旧伊豫松山藩主の子孫 久松定謨が松山の別宅として建設された「萬翠荘」・・愛媛県初のフランス風建物・平成23年1129日に本館と管理人舎の2棟が国の重要文化財に指定された。愚陀佛はこの萬翠荘の裏にあった。

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秋山兄弟生誕地整備事業を回顧する その5・広瀬武夫顕彰会員・秋山兄弟生誕地を表敬訪問

2022年07月01日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

平成25年6月29日、広瀬武夫の出身地である、大分県竹田市から広瀬神社崇敬会と広瀬武夫顕彰会の会員のうち、10名が秋山兄弟生誕地を訪問されました。広瀬武夫と秋山眞之の友情が109年後に再び、伊豫松山の秋山邸で再会されたのです。

画像は、広瀬武夫顕彰会会員各位に挨拶をする、故、宇都宮良治常務理事(於:秋山兄弟武道館)です。

広瀬武夫顕彰会設立は、平成21年1月24日に設立されたそうです。

早速、秋山兄弟生誕地を、女性研究員がご案内しました。まず、最初に秋山眞之の胸像について説明です。

秋山眞之胸像前で訪問記念撮影されました。

秋山眞之が尊敬していた兄、秋山好古騎馬像の前でも!!

秋山兄弟生誕地のスタッフと一緒に。

そして、南 次郎陸軍大将が揮毫した「秋山両将之碑」の前で記念撮影されました。

南 次郎陸軍大将も大分県出身の方で、大東亜戦争の時、満州事変の総責任者としてA級戦犯になり、東京拘置所に収監されましたが大病を患い、マッカーサー元帥の特別な計らいで、拘置所外で(自宅)治療され一命を取り留めた強運の強い人でした。

秋山好古・眞之の銅像が、松山市梅津寺駅(伊予鉄道高浜線)近くにある公園の一角に建立されており、広瀬武夫顕彰会御一行は、研修の場所を変えられました。

秋山眞之の立像の前には、旅順港閉塞作戦に使用された福井丸に積まれていた石「護国の石」が展示されており、その石を確認にするために行かれた時の一連の画像です。

昭和6年、秋山眞之の13回忌と日本海海戦25周年に当たるのを記念して郷里松山の人々に顕彰運動が起り、井上要、岩崎一高、新田長次郎、山下亀三郎、各位多くの有志が発起人となり寄付金を募り道後公園内に建立されましたが、昭和18年に銅像は大東亜戦争の時、金属供出され潰されました。

その後、昭和38年、四国八十八ヶ所第51番札所石手寺境内に再建立されましたが、石手寺の都合で、昭和43年9月伊予鉄梅津寺公園の一角に移設建立されたのが現在の銅像であります。

画像手前の石が、広瀬神社から贈られてきた 旅順港閉塞作戦に使用され福井丸に積まれていた石(護国の石)であります。

画像手前の石が、広瀬神社から贈られてきた 旅順港閉塞作戦に使用され福井丸に積まれていた石(護国の石)であります。

旅順港閉塞作戦に使用され福井丸に積まれていた石(護国の石)を神妙に確認される広瀬武夫顕彰会御一行。

秋山眞之銅像の前に展示されている広瀬神社から贈られてきた 旅順港閉塞作戦に使用された福井丸に積まれていた石(護国の石)で、広瀬神社崇敬会と広瀬武夫顕彰会の会員各位はその時の情景を脳裏に描きながら手を置き広瀬武夫を偲んでおられた。

広瀬神社から贈られてきた 旅順港閉塞作戦に使用された福井丸に積まれていた石(護国の石)です。

秋山眞之は、広瀬武夫が第2回目に出陣する直前の、明治37年3月24日、「福井丸」に広瀬武夫を訪ね無事帰還を願ったが、最後の別れとなった。
日露戦争後、自沈させた福井丸はその後引き上げられ、バラストとして積まれていた石が広瀬中佐の故郷である竹田に運ばれ、現在の広瀬神社の戦没者慰霊碑の礎石として使われている。

そのうちの一つが松山市に贈られ秋山眞之の像の前に置かれている。画像はその石(護国の石)です。                                     

広瀬武夫顕彰会各位は、広瀬武夫・秋山眞之との友情の証として贈られてきた「護国の石」の確認も終え秋山眞之銅像の前で。

秋山眞之銅像と護国の石の配置関係。

”つぶやき”

激変する社会情勢の中で車社会となり、歩き遍路から車での遍路とった。
第51番札所石手寺は、駐車場を整備することになり、秋山眞之の銅像が邪魔になり移設をすることになった。

ある観光関係のウエーブサイトに書かれている言葉に「石手寺から銅像を移設する際、一部の人から「軍人の銅像など要らぬ、潰してしまえと言う声があった。」と書かれている。
移設先きがなく、困惑しているとき、伊予鉄道が所有している梅津寺公園の見晴山山麓に移設を引き受けたのである。・・松山は文学の街俳句の街ですから・・でしょうね・言ってはいけないことを言ってしまった。!!

石手寺の銅像を移設する際、受け入れ先がなく、困っていた時に伊予鉄道が管理する見晴山に移設したのではないでしょうか。??・・伊予鉄道さんアッパレであります。

松山市梅津寺町見晴山山麓にあった秋山眞之の銅像は、平成 30 年7月の西日本豪雨で秋山眞之銅像付近が崩壊したため、観光に来られた方々が秋山眞之銅像の場所に行けないので令和元年12月9日場所を変更移設しました。

変更場所は、見晴山入口の小高い丘にある秋山好古銅像の傍に移設され、好古・眞之兄弟が並んで建つことになりました。

兄弟の銅像が並んで建っているのは全国でも非常に珍しいことだと思います。

※ 令和元年12月9日、秋山眞之の銅像は場所を変更移設されましたが、広瀬武夫神社から贈られてきた「護国の石」が移設されてないので、是非移設展示して下さい。

大切な、深い意義のある「石」ですから。

昭和6年、秋山眞之の13回忌と日本海海戦25周年に当たるのを記念して銅像が建立された。その時、東郷平八郎元帥から贈られてきた「智謀如湧」が台座に付けられました。

昭和18年に道後公園に建立された立像は大東亜戦争の時、金属供出され潰されましたが、「智謀如湧」の銘板は保管されていました。

昭和38年、四国八十八ヶ所第51番札所石手寺境内に再建立された時、台座に付けられ再び日の目をみたのであります。

画像は、現場所に移されたもので、台座には、金属供出を免れた東郷平八郎の「知謀如湧」の揮毫が埋め込まれている。

  • 東郷平八郎は、88歳の昭和9年5月30日まで長生きして居られたので、頼まれずいぶん多くの揮毫を書いている。

・島村元帥には、「智信仁勇厳」

・加藤友三郎元帥には「終始一誠意」

・秋山眞之中将には「智謀如湧」で、最高の揮毫です。それだけ東郷平八郎は、秋山眞之を信頼と、これからも出てこない日本最初で最後の武士魂を持った知将海軍軍人と思っていたのではないでしょうか。

もう少し長生きしてほしかった。

・昭和の海軍は、秋山眞之の軍事学を正しく受け継いでなかったため国は敗れることになったと・・ある書籍に記載があります。・・・その通りだと思います。

令和元年12月9日移設された新しい場所に立つ秋山眞之銅像は、日本海対馬海峡で帝国ロシア海軍・太平洋第二艦隊・第三艦隊(通称・バルチック艦隊)を撃滅した対馬海峡を望むように建っています。

秋山好古の銅像は、激戦奉天の戦いのあった方向を望むように建立されています。

日露戦争に負けていれば、日本国は、ロシアの支配下になっていたでしょう!!

秋山眞之の説明板です。

秋山眞之銅像台座裏面に埋め込まれている資料一覧です。

これからは、大分県竹田市の広瀬神社の画像です。

平成20年9月25日、広瀬神社に伺った。
神社一之鳥居左側に「広瀬武夫中佐」の胸像が建立されていた。

現在は、立像に変更されているようです。

「広瀬武夫中佐」の胸像の説明板・・現在もそのままなのでしょうか?

神社一之鳥居右側に「懸社廣瀬神社」の立派な社号碑が建立されていた。

神社一之鳥居から急登な石段を上り振り向くと竹田の城下町が見えた。

昭和10年5月25日に広瀬神社が創建されたそうです。

境内には、日露戦争に関する記念建造物が多くあり、広瀬記念館の下には戦艦朝日のカッターが展示されていた。

広瀬神社境内の一角に、広瀬武夫記念館がある。

広瀬武夫記念館。

広瀬武夫記念館入り口に「海軍中佐 広瀬武夫」の説明板があった。

広瀬神社社記も掲示してあった。

広瀬武夫海軍中佐略年譜。

これからが本題です。

境内の一角に、「戦没者名碑」が建立されており、この碑の台座に旅順港閉塞作戦で使われた石が台座に使われているそうです。

合祀者名簿の碑は、昭和33年建立されたそうです。
台座に閉塞船「福井丸」に積まれていた石が使われている。

台座に閉塞船「福井丸」に積まれていた石が使われている。・その説明板。

説明版によると福井丸に搭載されていた石で日露戦後引き上げられ、広瀬神社に奉納されたとのこと。
昭和33年にこちらの合祀者名碑が建立された際に8つが台座に埋め込まれたそうです。
昭和38年、松山の梅津寺公園に秋山眞之像が移設建立された際、広瀬と秋山の友情の証にということで松山市の関係者から所望されひとつを贈ったと・・記載されている。

ここからは、東京青山霊園に眠る広瀬武夫海軍中佐の墓所です。

平成20年12月7日、墓参に行った時の画像です。

広瀬武夫海軍中佐の墓は、兄・廣瀬勝比古海軍少将が建立した。

そして、廣瀬勝比古海軍少将の墓は、家族が広瀬武夫海軍中佐の墓と同じ大きさの墓石で兄弟仲良く建立されている。

二人の墓石の間に見える建造物は、六本木ヒルズ森タワーです。

広瀬武夫海軍中佐の墓で、軍神に相応しい立派なお墓でした。

青山霊園から望む「六本木ヒルズ森タワー」です。

平成30年3月、廣瀬武夫生誕150年祭事業(明治150年記念)の一環として、「廣瀬武夫からの絵はがき」P161が刊行されました。

日露戦争で戦死し、「軍神」として祀られた広瀬武夫が古里・竹田市の肉親に送った絵はがき「70通」を紹介した「広瀬武夫からの絵はがき」が刊行された。生誕150年祭の記念出版書籍です。

この書籍は、広瀬武夫顕彰会会員の方から贈って頂き私が大切に所蔵しております。

平成30年3月、廣瀬武夫生誕150年祭事業(明治150年記念)の一環として、「廣瀬武夫からの絵はがき」P161が刊行され、その一項に、廣瀬武夫顕彰会名誉会長 作家 元東京都知事 石原慎太郎氏が投稿されている。・・石原慎太郎さんはご逝去されました。ご冥福をお祈りします。

石原慎太郎氏のお父さんは、山下亀三郎が創設した「山下汽船」の社員で、愛媛県出身である。

 

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