EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

平成23年12月31日の西日本最高峰「石鎚山」

2011年12月31日 | 伊予松山歴史散策
平成23年も数時間で終24年を迎える。
今年一年私の拙いブログを見て頂きありがとうございます。
来年も是非見て頂きたくよろしくお願いいたします。

今日の松山市は、最低気温がー0,9度まで下がり天気は快晴でした。
早朝から石鎚山が綺麗に見えていた。大気の水蒸気も少なくクッキリと見えている。午後順光時も綺麗に見る事が出来たので伊予松山城を手前に取り入れ石鎚を撮りにいった。

石鎚山は、四国山地の中核をなす主峰西日本の最高峰で、西条市と上浮穴郡久万高原町の境界に位置し、行政区画では石鎚山頂は西条市に属する。
石鎚山が一番綺麗な姿が見えるのは松山市からの姿が一番であり、我が家からは素晴らしい石鎚山が見える。画像は一部我が家からの画像も掲載します。 

地形
山頂は、北西から南東にのびる長さ約400mの細長い岩稜で、周囲は100m近い断崖絶壁となっている。
このうち天狗岳「1982m」は岩稜の南部にあたり、付近に大砲岩・矢筈岩等の奇岩がある。
岩稜の中央部を弥山「1974m」と呼び石鎚神社頂上社と山小屋があり、北西端は北岳「1921m」である。

信仰の山
「石鎚」の名が文献に最初にみられるのは弘仁3年「西暦822年」に上撰された「日本霊異記・にほんりょういき」で、そのなかに祭神は「石鎚の神いますがための名なり」とある。
山名の由来は頂上の岩峰の形を石の鎚とみたてたものといわれるが、語源的には石之霊・いしづち・ツは「之」の意味、チは霊力をもつ神や物を意味する古代語)であるともいう。

日本七霊山
石鎚山は日本七霊山の一つとして知られる山岳信仰の山で、山自体が神として崇められてきた。
石鎚山の神は「石土毘古命・いわづちひこのみこと」と呼ばれ和銅5年(西暦712)にだされた「古事記」のなかの神々の生成の項に、石土毘古命、と記されている。
伝承によると白鳳14年(685)行者役小角が修験道の霊山として開いたという。
延暦10年(791)には青年弘法大師(空海)が大同3年(808)には僧光定が登ったと伝えられる。
天長5年(828)には当時瓶ヶ森の山頂に祀られていた石土蔵王権現を石鎚山に移したという。(伊予温故録)による。

お山市
石鎚山は長らく女人禁制であったが大正末期から女性による登山も盛んになり、7月1日から始まる夏の大祭をお山市、またはお山開きといい、7月1日から10日間行われます。
以前は、お山開きには女性の登山は出来なかったが、現在は女性もOKになった。

註:伊予松山城は、賤ヶ岳の戦いで武勲をあげた七本槍の一人加藤嘉明が関ヶ原の戦いで徳川家康の軍に属し戦功を認められ家康から伊予国20万石の大名に封じられた。慶長6(1601)年嘉明は家康に勝山築城の事情を具申しその許可を受け、慶長7(1602)年1月15日の吉日に勝山築城の工を起こした。慶長8(1603)年10月新城下に仮御殿が完成し松前城から住民と共に居を移し、この地を松山と称しここに松山という名称が公にされた。これが松山の誕生である。城も伊予松山城となる。

嘉明が築城した伊予松山城天守は、勝山の山頂132mに望楼型5層の天守であったが、寛永12(1635)年第3代将軍徳川家光の命により徳川家康を伯父にもつ、松平定行が伊予松山藩第3代目藩主として15万石で伊勢国桑名から封ぜられた。定行は、寛永19(1672)年5層の天守を三層の天守に改築する。この天守が落雷で焼失しそのご再建されたのが現存天守である。


平成23年12月31日午後3時40分撮影手前が伊予松山城天守で背景の山が石鎚山連峰である。


伊予松山天守は、天明4(1784)年1月元旦の真夜中に天守・大書院に落雷があり焼失し、以後70年間天守の再建はされなかった。
それは、藩の財政難で天守再建が出来なかった。
第12代伊予松山藩主松平勝善は、倹約の励行、家臣の家禄減給等々を行い財政の建て直しを計り城郭復興計画を推進し安政元年2月8日天守等々が再建された。現在見る伊予松山城天守である。
全国にある現存12天守で一番新しい天守である。
背景の山が石鎚山・1982m


レンズを引くと城下のビル郡がみえる。
城山の高さは132mありここに伊予松山城本丸がある。本丸に石垣を築き本壇を構築、天守台の上に三層の層等型天守がある。
天守最上階は約160mあり、天気のいい日は本州の山が一望できる。


今日は天候がよくもしかすると夕焼けの石鎚が撮れるかと思い待ってみたが残念夕日の反射は現れなかった。ほんの少し空が夕日を帯びたがだめだった。


これは我が家から見た石鎚山で撮影は12月28日で、この時は夕焼けの石鎚山が現れた。


これも我が家から12月28日に820mmで撮影した石鎚山で真ん中の三角形に見えるのが最高峰1982mの天狗岳
左の平らの部分に山頂山小屋と、石鎚神社山頂社がある弥山1974m、北端が北岳で1921mである。
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萬翠荘・国指定重要文化財に指定

2011年12月24日 | 伊予松山歴史散策
文部科学省告示第百六十号
愛媛県指定有形文化財の萬翠荘が平成23年11月29日付けで正式に国指定重要文化財に指定された。
以下は、答申により発表された内容。
1、区分   重要文化財(建造物)
2、名称   萬翠荘(旧久松家別邸) 2棟
        本   館(建築面積 397,79㎡・120,3坪)
         管理人舎(建築面積   43,91㎡・13,3坪)
3、所在地 愛媛県松山市一番丁3番地7
4、所有者 愛媛県
5、評価
萬翠荘は、本格的なフランス・ルネサンス様式による近代の住宅で、日本人建築家による意匠的に優秀な建築作品である。

また、県内で最初に導入された鉄筋コンクリート構造の建物であり、わが国における洋風住宅の受容と広がりを示すものとして重要である。
文化財保護法(昭和二十五年法律第二百十四号)第二十七条第一項の規定により、萬翠荘を重要文化財に指定する。
平成二十三年十一月二十九日 文部科学大臣 中川 正春


平成23年11月29日、国の重要文化財に指定された萬翠荘本館。
設計は後に愛媛県庁本館などを手がけた建築家木子七郎。
この建物は旧伊予松山藩主であった久松定謨が松山で住む別宅として大正11年11月完成した。
大正11年11月15日摂政宮殿下(昭和天皇が皇太子の時)が軍の大演習が高浜沖で行われ荒神山から観閲された。
摂政宮が滞在する為に建築中であった萬翠荘を突貫工事で完成を急いだ。


昭和20年11月米軍に接収され司令官が使用し、昭和22年から松山商工会議所として使用される。昭和54年に愛媛県立美術館分館と名称変更。昭和60年に愛媛県指定文化財に指定された。平成20年に改修工事が行われた。


萬翠荘管理人舎で今回本館と一緒に国の重要文化財に指定された。
場所は、萬翠荘入口横にある。


萬翠荘入口で門柱左に「萬翠荘」右手に「坂の上の雲ミュージアム」の表札が掲げられている。
左手の建物が「萬翠荘・管理舎」である。


萬翠荘入口を潜ると「坂の上の雲ミュージアム」の入口がありそこを左に折れると萬翠荘本館に通じる侵入路がある。画像の通り左右に植え込みがあり情緒のある路である。平成23年12月21日撮影。


この画像は萬翠荘が建築される前までにあった和風建築で平屋建てに接して二階建の建物があった。これが愛松亭で明治28年夏目漱石が松山中学に赴任し最初に下宿したのが「愛松亭」である。
撮影年は不明。
その後取壊され大正11に萬翠荘が出来る。


正岡子規と夏目漱石が52日間二人で生活した「愚陀佛庵」で、昭和57年に萬翠荘本館の裏手に復元されたが、平成22年7月12日未明からの大雨により、松山城東雲口登城道斜面において土砂崩れが発生し、愚陀佛庵は倒壊した。現在再建地を検討中。
画像は倒壊前の「愚陀佛庵」で平成19年10月8日撮影。


平成22年7月12日未明からの大雨により、松山城東雲口登城道斜面において土砂崩れが発生し、愚陀佛庵は倒壊した。現在は更地になっている。後方に一部見える建物は萬翠荘本館裏側である。撮影は、松山城東雲口登城道から。


参考1
画像は、東京都中央区久松町にある「久松小学校」である。
明治6年7月開校した久松小学校で校名の由来は旧伊予松山藩主久松定謨が巨額な寄附をしたものにより「久松小学校」と命名した。但し町名の久松は久松家とは関係がない。撮影:平成17年1月23日


参考2
NHK坂の上の雲に登場してくる人物が写っているので参考に掲示する。
この写真は、旧伊予松山藩主久松家の法要の時、東京久松邸で撮影されてものと言われている。画像中心に軍服姿が久松定謨で向かって左が、秋山好古(当時近衛師団長)、向かって右が仙波太郎(当時第一師団長)である。
後列向かって左から5番目が秋山眞之(当時海軍少将)。その右が加藤恒忠(正岡子規の叔父)中列左端が白川義則(当時陸軍少将)。


大正11年11月15日、昭和天皇が摂政宮の時、陸海軍の大演習が松山市高浜沖で行われ荒神山から観閲された。
その時の様子を報じた、大正11年11月17日付の海南新聞(現 愛媛新聞)
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四国は88ヶ所札所巡礼 松山市内霊場の旅 8

2011年12月20日 | 伊予松山歴史散策
第52番 太山寺「龍雲山 護持院 太山寺」真言宗智山派 本尊、十一面観世音菩薩

ご詠歌:太山に 登れや汗の 出でけれど 後の世思えば 何の苦もなし

松山市太山寺町の経が森の東中腹にある。四国霊場52番の札所、天平11年(739)聖武天皇の勅願により行基開基という。帝御自ら金光最勝経の写経を山の頂きに埋められたという伝えがあり今も経が森とよんでいる。

寺伝には、豊後国臼杵の真野の長者という者が難波に船で向かう途中、高浜の沖で嵐に遭遇した。長者が平素から信仰する観音に念じると山頂から光を見てその難をのがれたので本堂を再建したとある。以来2度ほど災害を受けたが嘉元3年(1305)伊予国守護河野氏によって本堂(現存)が再建され、近世には松山城主加藤氏の庇護を受けて栄えた。
昭和31年6月28日本堂が国宝に指定、県下最大の豪壮な建物で、鎌倉期の傑作。特に蟇股の工作が優れている。

境内に、子規の句がある。 「蒟蒻につつじの名あれ太山寺」


太山寺一ノ門を潜り少し進むと石段に上に扁額「太山寺」のある仁王門が見えてくる。
ここから本堂まで570mと書かれた石柱がある。


境内に上がるきつい石段の前にある広場には大日如来の石像を中心に右に弘法大師像、左には沢山の石仏が立ち並んでいる。


では石段を上り境内に入ろう。


石段を上り山門で一礼、県下一の木造建築「本堂」が目に飛び込む。「松山市内に国宝が三件あるその一つ」


ご本尊の許しをえて本堂内部を撮らせて頂いた。


鎌倉期に創建され本堂に造作された「蟇股」


私が参拝を兼ねて撮影に行ったのは土曜日であった。境内で毎週土曜日に巡礼に来られた方々に地元住民がお接待をしているそうだ。この日は特産の温州みかんとお茶でお持て成しをして巡礼者の疲れを癒していた。


団体の巡礼者で以前書きましたが四国88ヶ所めぐりの心得の一つ団体の心得「右側に二列に並び巡拝する」その通りされていた。


殆どの札所には仏足石がある。
仏足石は、お釈迦様のおみ足です。お釈迦様ご自身と思い礼拝し、心のよりどころ、こころの安らぎをもたらし、苦しみや悲しみ、そして悩みを解きほぐし喜びを与えて下さいます。
そして巡礼の御安行をお願いして礼拝しては如何ですか。
帰りに納経所で納経帳と掛け軸にお参りされたお経の印を頂き次の札所に旅立とう。
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四国は88ヶ所札所巡礼 松山市内霊場の旅 7

2011年12月15日 | 伊予松山歴史散策
第51番 石手寺「熊野山 石手寺」真言宗豊山派 本尊、薬師如来

 四国最大の観光地道後温泉・松山城を背景に松山観光に来られた方々がお参りする事で札所最大のお客で賑わい門前には名物の草餅を売る店が並び繁昌している。
仁王門までの廻廊は絵馬堂にもなって句や連歌、能役者などの名前を書いた額が納められている。

 縁起によれば、道後湯築城主河野息利の妻が男児を誕生、その子は生後三年たっても左の手がひらかず、安養寺の住職が祈祷したら手をひらき、「衛門三郎再来」の小石がころげ落ちた。

その子は息方と名づけられ十五歳で家督をついだが、この子こそ天長8年10月、12番焼山寺の山中で亡くなった衛門三郎の生まれかわりなのである。
やがて安養寺を石手寺に改め、この石は寺に納められた。

寺の草創は聖武天皇の神亀5年(728)伊予大守越智玉純が勅を奉して鎮護国家の道場として伽藍を建立し、安養寺と名づけたことにはじまる。ご本尊の薬師如来は天平元年(729)行基菩薩の開眼。現存の本堂、三重塔、仁王門、鐘楼堂などは鎌倉末期の再建。

仁王門は、鎌倉後期の文保2年(1318)創建、三間一戸楼門、屋根入母屋造り本瓦葺で全体の容姿はよく均斉がとれ、全国のこの種の楼門のうちでも屈指のものである。中でも蟇股(かえるまた)の手法は鎌倉時代の代表作といわれている。
昭和27年11月22日国宝に指定。

註:松山市内で国宝に指定されている建造物は、石手寺の仁王門と、第52番札所大山寺本堂、昭和31年6月28日指定、大宝寺本堂、昭和28年3月31日指定の3件である。


県道187号線沿いに位置し道後温泉から徒歩で15分程である。
最近石手寺の寺名標も新しく建立された。


歩いて霊場巡りをされているのか石手寺廻廊入口にある休憩所でお弁当を食べていた。ご夫婦であられご主人は撮影をされていた。


石手寺の仁王門に通じる廻廊で巡礼の用品を頒布している。


松山市に現存する国宝の建造物が三件あるその一つ「仁王門」で一番古い建造物で、昭和27年11月22日国宝に指定された。鎌倉後期の文保2年1318、時代建築の特色は中でも蟇股の手法である。


仁王門の建築手法蟇股(かえるまた)。
蟇股とは、二つの横材の間におく束(つか)の一種で,上方の荷重をささえるとともに装飾ともなる。カエルが脚を広げた姿に似ているところからこの名がある。厚板の左右に曲線の繰形を施した板蟇股は奈良時代からあるが,内部をくりぬいた形の本蟇股は平安末期に始まり,のち彫刻装飾が加わるようになり,桃山時代以降その装飾性はますます重視された。「歴史事典引用」


仁王門を潜ると画像のような風景画眼に入る。


三重塔に置かれている四国霊場88ヶ所お砂撫でがある。袋に各札所の砂があり之を撫でて回ると88ヶ書を巡礼したのと同じご利益がある。
現在松山市内にパワースポットが数ヶ所ある中の一つである。


境内には3,11東北大震災をはじめ世界各地で発生した災害で亡くなられた方々、そして早期復興を祈願した置物がある。


大師堂で、観光地の近くに在るだけにくの参拝者が空海に特別なお願いをする人が大勢居るそうだ。


石手寺はいろんな巡礼をする施設が造られている。その一つにマントラ洞窟がある。
画像はその洞窟の中で、非常に暗い。入口に「仏様を巡礼して回ることは私達の利己欲狭い心を一つ一つ改めより美しい仏の心を発見する事。」と書かれている。
この事を心に秘めてマントラ洞窟を巡礼するといいのでは。
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維新の故郷「高知県高岡郡梼原町」

2011年12月09日 | 伊予松山歴史散策
降雪の前にと思い、国道440号線の拡張工事が完成したのでドライブに高知県高岡郡梼原町に行ってみた。四国カルスト台地には行った事があるが、梼原町は初めてである。
国道440号線は、起点が愛媛県松山市で(松山市二番町・市役所前)終点は高知県高岡郡梼原町の国道197号線合流地点である。

「11月7日行った・・気温も高く梼原に着いてから日差しも出た。今日(9日)であれば降雪であったであろういい時に行った。」

国道は殆ど二車線化に拡張しているが、愛媛県久万高原町落出バイパスから、地芳トンネル入口の間に一部一車線の区間がある。高知県側は全て二車線化されていた。
松山から1時間50分梼原町で観光し帰りは197号線で大洲に出て松山自動車道で帰った。約6時間の車の旅をした。

梼原町は、
坂本龍馬が、勤王の志士たちが
         維新を夢見て駆けた維新の故郷、脱藩の道である。

 嘉永6年(1853)のペリー来航は日本の鎖国体制に穴をあけただけではなく、藩政体制崩壊の契機となりこの大きな時代のうねりは、梼原にも多大な影響を及ぼした。
坂本龍馬をはじめ、土佐勤王党、天誅組、忠勇隊に参画した梼原出身の志士、吉村虎太郎、那須信吾、那須俊平、掛橋和泉、中平龍之介、前田繁馬たちは、維新を夢見て決越し、大いなる使命感に燃えながら野越、神根越、化粧板、そして国境の九十九曲峠、韮ヶ峠への道を幾度となく往来したといわれている。

志士たちの多くは、志半ばにして不遇な最期を遂げているが、彼らの生きざまは、私たち現代人の心をとらえてやまない。
「維新の道」は、まさに日本の未来を切り拓く希望の道だった。

幕末の英雄・坂本龍馬は、同士澤村惣之丞とともに、文久2年(1862)3月24日、高知を出奔し、翌25日梼原に到着しその夜、梼原の勤王の志士である那須俊平、信吾父子の家に宿泊、26日、俊平・信吾父子の道案内により宮野々番所を抜け、四万川茶や谷の松ヶ峠番所を抜けて、予土県境の韮ヶ峠を越え伊予国(愛媛)に脱藩した。27日、龍馬は宿間村(五十崎町)に入り、28日には船で三田尻(山口県)に到着した。・・梼原町観光資料引用


新しく完成したトンネルを抜けると梼原町であった。何時の時代に建立したのか「梼原村道路元標」があった。


梼原町観光案内所の前に休憩所(西町関所)がある。藩政時代の関所跡に再現したのか??


梼原の町は統一された建物が建築され見た目も綺麗で素晴らしい通りであった。
6年前に国・県が推進する町創りに沿って店舗、住宅を建設時には補助金を受けられたそうだ。但し条件があり、外壁へ漆喰で、建築材木は地元梼原産を使用が条件だったそうです。通りには電柱がなく綺麗な町であった。


梼原町には伝統のある「津野山神楽」がある。昭和55年(1980)に国の重要無形民族文化財に指定・・そのためか町通りに神楽の鬼面の大蛮の展示物があった。


梼原町は何と言っても坂本龍馬が土佐藩を脱藩する時にたどった道、特に「掛橋和泉」邸では、同志が脱藩する際に家財を費やし援助をした。
石碑「維新の門」の後ろに龍馬や、亀山社中に加わって龍馬の片腕として活躍した澤村惣之丞、さらに那須信吾・俊平父子ら梼原町ゆかりの勤王の志士など8人を讃えた「維新の門群像」がある。維新の門の揮毫は、高知県知事・橋本大二郎。


中央が坂本龍馬で32歳、右が那須俊平、57歳 左が澤村惣之丞32歳


左から前田繁馬28歳 那須信吾34歳 中平龍之助22歳 吉村虎太郎26歳


銅像は、掛橋和泉で、坂本龍馬が土佐藩を脱藩する時に、特に「掛橋和泉」は同志が脱藩する際に家財を費やし旅費を援助した。和泉は国学を学び勤皇心が厚かった。養母に知られ同志の秘密が漏れるのをおそれ先祖の墓前で自殺した。27歳であった。


維新の門に献句がある。「倒幕の 命燃やした 八勇姿」


「維新の門」石碑裏面にある建立の経緯
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