平成23年も数時間で終24年を迎える。
今年一年私の拙いブログを見て頂きありがとうございます。
来年も是非見て頂きたくよろしくお願いいたします。
今日の松山市は、最低気温がー0,9度まで下がり天気は快晴でした。
早朝から石鎚山が綺麗に見えていた。大気の水蒸気も少なくクッキリと見えている。午後順光時も綺麗に見る事が出来たので伊予松山城を手前に取り入れ石鎚を撮りにいった。
石鎚山は、四国山地の中核をなす主峰西日本の最高峰で、西条市と上浮穴郡久万高原町の境界に位置し、行政区画では石鎚山頂は西条市に属する。
石鎚山が一番綺麗な姿が見えるのは松山市からの姿が一番であり、我が家からは素晴らしい石鎚山が見える。画像は一部我が家からの画像も掲載します。
地形
山頂は、北西から南東にのびる長さ約400mの細長い岩稜で、周囲は100m近い断崖絶壁となっている。
このうち天狗岳「1982m」は岩稜の南部にあたり、付近に大砲岩・矢筈岩等の奇岩がある。
岩稜の中央部を弥山「1974m」と呼び石鎚神社頂上社と山小屋があり、北西端は北岳「1921m」である。
信仰の山
「石鎚」の名が文献に最初にみられるのは弘仁3年「西暦822年」に上撰された「日本霊異記・にほんりょういき」で、そのなかに祭神は「石鎚の神いますがための名なり」とある。
山名の由来は頂上の岩峰の形を石の鎚とみたてたものといわれるが、語源的には石之霊・いしづち・ツは「之」の意味、チは霊力をもつ神や物を意味する古代語)であるともいう。
日本七霊山
石鎚山は日本七霊山の一つとして知られる山岳信仰の山で、山自体が神として崇められてきた。
石鎚山の神は「石土毘古命・いわづちひこのみこと」と呼ばれ和銅5年(西暦712)にだされた「古事記」のなかの神々の生成の項に、石土毘古命、と記されている。
伝承によると白鳳14年(685)行者役小角が修験道の霊山として開いたという。
延暦10年(791)には青年弘法大師(空海)が大同3年(808)には僧光定が登ったと伝えられる。
天長5年(828)には当時瓶ヶ森の山頂に祀られていた石土蔵王権現を石鎚山に移したという。(伊予温故録)による。
お山市
石鎚山は長らく女人禁制であったが大正末期から女性による登山も盛んになり、7月1日から始まる夏の大祭をお山市、またはお山開きといい、7月1日から10日間行われます。
以前は、お山開きには女性の登山は出来なかったが、現在は女性もOKになった。
註:伊予松山城は、賤ヶ岳の戦いで武勲をあげた七本槍の一人加藤嘉明が関ヶ原の戦いで徳川家康の軍に属し戦功を認められ家康から伊予国20万石の大名に封じられた。慶長6(1601)年嘉明は家康に勝山築城の事情を具申しその許可を受け、慶長7(1602)年1月15日の吉日に勝山築城の工を起こした。慶長8(1603)年10月新城下に仮御殿が完成し松前城から住民と共に居を移し、この地を松山と称しここに松山という名称が公にされた。これが松山の誕生である。城も伊予松山城となる。
嘉明が築城した伊予松山城天守は、勝山の山頂132mに望楼型5層の天守であったが、寛永12(1635)年第3代将軍徳川家光の命により徳川家康を伯父にもつ、松平定行が伊予松山藩第3代目藩主として15万石で伊勢国桑名から封ぜられた。定行は、寛永19(1672)年5層の天守を三層の天守に改築する。この天守が落雷で焼失しそのご再建されたのが現存天守である。
平成23年12月31日午後3時40分撮影手前が伊予松山城天守で背景の山が石鎚山連峰である。
伊予松山天守は、天明4(1784)年1月元旦の真夜中に天守・大書院に落雷があり焼失し、以後70年間天守の再建はされなかった。
それは、藩の財政難で天守再建が出来なかった。
第12代伊予松山藩主松平勝善は、倹約の励行、家臣の家禄減給等々を行い財政の建て直しを計り城郭復興計画を推進し安政元年2月8日天守等々が再建された。現在見る伊予松山城天守である。
全国にある現存12天守で一番新しい天守である。
背景の山が石鎚山・1982m
レンズを引くと城下のビル郡がみえる。
城山の高さは132mありここに伊予松山城本丸がある。本丸に石垣を築き本壇を構築、天守台の上に三層の層等型天守がある。
天守最上階は約160mあり、天気のいい日は本州の山が一望できる。
今日は天候がよくもしかすると夕焼けの石鎚が撮れるかと思い待ってみたが残念夕日の反射は現れなかった。ほんの少し空が夕日を帯びたがだめだった。
これは我が家から見た石鎚山で撮影は12月28日で、この時は夕焼けの石鎚山が現れた。
これも我が家から12月28日に820mmで撮影した石鎚山で真ん中の三角形に見えるのが最高峰1982mの天狗岳
左の平らの部分に山頂山小屋と、石鎚神社山頂社がある弥山1974m、北端が北岳で1921mである。
今年一年私の拙いブログを見て頂きありがとうございます。
来年も是非見て頂きたくよろしくお願いいたします。
今日の松山市は、最低気温がー0,9度まで下がり天気は快晴でした。
早朝から石鎚山が綺麗に見えていた。大気の水蒸気も少なくクッキリと見えている。午後順光時も綺麗に見る事が出来たので伊予松山城を手前に取り入れ石鎚を撮りにいった。
石鎚山は、四国山地の中核をなす主峰西日本の最高峰で、西条市と上浮穴郡久万高原町の境界に位置し、行政区画では石鎚山頂は西条市に属する。
石鎚山が一番綺麗な姿が見えるのは松山市からの姿が一番であり、我が家からは素晴らしい石鎚山が見える。画像は一部我が家からの画像も掲載します。
地形
山頂は、北西から南東にのびる長さ約400mの細長い岩稜で、周囲は100m近い断崖絶壁となっている。
このうち天狗岳「1982m」は岩稜の南部にあたり、付近に大砲岩・矢筈岩等の奇岩がある。
岩稜の中央部を弥山「1974m」と呼び石鎚神社頂上社と山小屋があり、北西端は北岳「1921m」である。
信仰の山
「石鎚」の名が文献に最初にみられるのは弘仁3年「西暦822年」に上撰された「日本霊異記・にほんりょういき」で、そのなかに祭神は「石鎚の神いますがための名なり」とある。
山名の由来は頂上の岩峰の形を石の鎚とみたてたものといわれるが、語源的には石之霊・いしづち・ツは「之」の意味、チは霊力をもつ神や物を意味する古代語)であるともいう。
日本七霊山
石鎚山は日本七霊山の一つとして知られる山岳信仰の山で、山自体が神として崇められてきた。
石鎚山の神は「石土毘古命・いわづちひこのみこと」と呼ばれ和銅5年(西暦712)にだされた「古事記」のなかの神々の生成の項に、石土毘古命、と記されている。
伝承によると白鳳14年(685)行者役小角が修験道の霊山として開いたという。
延暦10年(791)には青年弘法大師(空海)が大同3年(808)には僧光定が登ったと伝えられる。
天長5年(828)には当時瓶ヶ森の山頂に祀られていた石土蔵王権現を石鎚山に移したという。(伊予温故録)による。
お山市
石鎚山は長らく女人禁制であったが大正末期から女性による登山も盛んになり、7月1日から始まる夏の大祭をお山市、またはお山開きといい、7月1日から10日間行われます。
以前は、お山開きには女性の登山は出来なかったが、現在は女性もOKになった。
註:伊予松山城は、賤ヶ岳の戦いで武勲をあげた七本槍の一人加藤嘉明が関ヶ原の戦いで徳川家康の軍に属し戦功を認められ家康から伊予国20万石の大名に封じられた。慶長6(1601)年嘉明は家康に勝山築城の事情を具申しその許可を受け、慶長7(1602)年1月15日の吉日に勝山築城の工を起こした。慶長8(1603)年10月新城下に仮御殿が完成し松前城から住民と共に居を移し、この地を松山と称しここに松山という名称が公にされた。これが松山の誕生である。城も伊予松山城となる。
嘉明が築城した伊予松山城天守は、勝山の山頂132mに望楼型5層の天守であったが、寛永12(1635)年第3代将軍徳川家光の命により徳川家康を伯父にもつ、松平定行が伊予松山藩第3代目藩主として15万石で伊勢国桑名から封ぜられた。定行は、寛永19(1672)年5層の天守を三層の天守に改築する。この天守が落雷で焼失しそのご再建されたのが現存天守である。
平成23年12月31日午後3時40分撮影手前が伊予松山城天守で背景の山が石鎚山連峰である。
伊予松山天守は、天明4(1784)年1月元旦の真夜中に天守・大書院に落雷があり焼失し、以後70年間天守の再建はされなかった。
それは、藩の財政難で天守再建が出来なかった。
第12代伊予松山藩主松平勝善は、倹約の励行、家臣の家禄減給等々を行い財政の建て直しを計り城郭復興計画を推進し安政元年2月8日天守等々が再建された。現在見る伊予松山城天守である。
全国にある現存12天守で一番新しい天守である。
背景の山が石鎚山・1982m
レンズを引くと城下のビル郡がみえる。
城山の高さは132mありここに伊予松山城本丸がある。本丸に石垣を築き本壇を構築、天守台の上に三層の層等型天守がある。
天守最上階は約160mあり、天気のいい日は本州の山が一望できる。
今日は天候がよくもしかすると夕焼けの石鎚が撮れるかと思い待ってみたが残念夕日の反射は現れなかった。ほんの少し空が夕日を帯びたがだめだった。
これは我が家から見た石鎚山で撮影は12月28日で、この時は夕焼けの石鎚山が現れた。
これも我が家から12月28日に820mmで撮影した石鎚山で真ん中の三角形に見えるのが最高峰1982mの天狗岳
左の平らの部分に山頂山小屋と、石鎚神社山頂社がある弥山1974m、北端が北岳で1921mである。