EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

大相撲協会に物申す!!私の呟き

2018年01月29日 | 伊予松山歴史散策

栃若時代から大相撲をラジオで聞き、聞きなれない決まり手に付いては自分ながらに想像しながら相撲を楽しんで来た。それからTVが各家庭に普及し映像として大相撲を楽しむ時代となった。当時は、蔵前国技館で場所を開催していたが、昭和58年11月現在の両国国技館が完成し、昭和60年1月場所から使用されだしたのが現在の国技館だそうです。

さて、歴史のある日本の国技とされている大相撲、昨年、日馬富士事件で各マスコミが大々的に取り上げ大騒ぎとなり毎日のように評論家がゲストに出て論争が繰り広げられた。視聴者は、どれが本当で?どれが虚偽か?腹立たしい思いをしながら視聴した。

その後も色んな事件が発覚し協会の脇の甘さが暴露されている。

私が大相撲協会に物申したいことは、

一つは、今回の日馬富士事件で、白鵬の行為が一番悪い、何故もっと早く暴力行為を止めなかったのか?そして暴力行為があった席に力士以外の人もいたそうだが、その人達の声が聞こえてこない。

二つ目は、白鵬の九州場所に起こった勝敗の抗議に対して、またその他の行為についての制裁が軽すぎる。

それから白鵬の相撲の取り口「かちあげ・張り手・駄目押し」これは40回も優勝した横綱が使う取り口ではない。もっと早く横綱審議委員会は注意をするべきであったのではないか。今の白鵬は何でもありで、只勝てば良し、横綱としては最低の力士、品格も人格も無い早く引退して欲しい、見たくない力士である。白鵬のかちあげは、顎をめがけて放つもので相手力士は軽い脳震盪を起こし相撲が取れない。相撲ではなく格闘技である。早くプロレスにでも転向しては如何かな。

三つ目、日本人力士の不甲斐なさ、何故あんなに弱くなったのか?稽古不足と気力のなさか?何故モンゴル力士は強いのか?気持ちの持ち方が違うのか?日本力士頑張れ!!

四つ目、現在の相撲協会は貴乃花対協会の対立と我々から見ると伺える。今回の日馬富士事件で貴乃花親方が警察に事件として捜査届を提出したが、協会にその報告がなかったと言う事で被害者の親方が悪者扱いにされた。確かに貴乃花親方が協会に報告しなかった事に付いては落ち度があるが、被害者側の扱いが酷すぎる。

五つ目、今の大相撲はモンゴル勢に「負んぶに抱っこ」日本人力士はもっと奮起して角界を背負って行って欲しい。

最後にもう一言、今の力士は怪我が多すぎる、土俵上に上がって来る力士の中でサポータを付けてない力士が少なくなった。怪我をしない身体を稽古で培い鍛えて大相撲の発展に頑張って欲しい。

今の様な事が続くと国技館から相撲フアンが遠のいてしまう。

古き良き相撲界の仕来りを保持しながら新しい角界になるように努力して行って欲しい。

日馬富士事件、行司事件、春日野部屋の暴行事件、場所前から場所中に掛けて明るみになり、平成時代最後の1月場所に水を差したが、その事を栃ノ心が吹っ飛ばしてくれた。

「栃ノ心関」幕内最高優勝おめでとうございます。あなたの今場所の相撲は美しい立派な相撲でした。重苦しい1月場所を素晴らしい相撲で飾ってくれました。来場所も横綱を目指して頑張って下さい。栃ノ心関は、品格・人格は一級品あとは、怪我をしない様に立派な横綱誕生を期待しています。

14勝1敗の好成績で幕内最高優勝八角理事長から優勝賜杯を受ける栃ノ心。

八角理事長、栃ノ心のような立派な力士が輩出出来る環境を作って下さい。

参考までに:大相撲における優勝賜杯(天皇杯)は、大正14、摂政宮(昭和天皇)の御下賜金によりつくられたもので、国の栄典とは無関係である。・・と資料にある。

膝の怪我を克服して頑張った甲斐がありましたね。おめでとうございます。

来日して12年、文化・言葉の壁、親方と衝突、膝の怪我等々苦節の12年間その努力の人。

心技一体を持ち合わせた日本人力士以上の品格の持ち主で、勝負に勝っても、負けた力士の事を考え表情を表面に出さない。・・何処かの国の力士の様に。

そして優勝旗授与、膝の怪我で一度はやめようと思ったそうですが怪我を克服して頑張り、優勝した。その時の事が思い出されたのでは?

林文部科学大臣から内閣総理大臣杯を受け取る・・いい表情だね!!

土俵下でNHKアナウンサーの優勝力士インタビューを受ける栃ノ心、気持ちのいい受け答え、此れから栃ノ心を応援する「相撲好き女子・スー女」が増える事でしょう。

インタビュー最後に「親方、おかみさん、春日野部屋の皆さん、後援会の皆さん、日本の皆さん、そして私の国の皆さん、本当に胸が一杯です。本当に応援ありがとうございました。」と言った言葉に対して満員の観客から大きな拍手が起こった。

栃ノ心の人柄が伺える言葉でそれに対する絶賛の拍手であった。解説者も思わず「栃ノ心の言葉に対して、此方まで嬉しくなりました・・何だか、ジーンと来るものがありました。と言われた。」私も目頭が熱くなりました。

平成30年1月場所、平幕の栃ノ心の優勝で大盛会、雲行きの怪しいかった場所を一新してくれました。

ご苦労様でした。

相撲界に入る前の栃ノ心。

 

相撲界に入門した当時の栃ノ心。

相撲界に入門した当時の栃ノ心。

入門してから12年になるそうですが、その間、色んな苦労を乗り越えて来た昨日の栃ノ心の表情。

心もいいが、身体もよく、鍛え抜かれた身体は筋肉質で、膝の怪我が無ければとっくに大関に昇進しており横綱になっていたのではないか。未だ遅くはないので精進して横綱を目指して頑張って下さい。栃ノ心の身体は「鎧の様な筋肉を付けた身体」とある相撲解説者は言っていた。

不祥事があっても連日満員御礼の垂れ幕が15日間かざされた。

全国の相撲愛好者を落胆させない様に角界は脇をしめてごたごたの無い組織づくりをして行って貰いたい。

 

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平成30年、私の散歩道にも春の気配

2018年01月19日 | 伊予松山歴史散策

今年の冬季は、寒暖の差が激しく1月16日、松山の最高気温は16,6度まで上がり3月下旬の気温、その後寒気団が南下し真冬に逆戻り、体調管理が難しい今日この頃です。

寒暖の差が激しい中を植物達は、時期が来れば春の訪れの準備をしています。私の散歩コースには、菜の花、水仙の花が咲き、道沿いにある染井吉野桜も蕾が膨らび活動期に入った感じがします。来月になると、伊予路に春を呼ぶと言われる、愛媛県最大の春祭り、椿神社の大祭が開催され、今年は、2月22日(木)23日(金)24日(土)で毎年旧暦の1月7日~9日に開催される。

画像は、今日の松山は気温も高く、カメラ持参で私の毎日の散歩コース歩いて来ました。

 国道33号線天山橋東側に「伊丹十三記念館」がある。館長は奥さんの、宮本信子さんで時々おいでになる。所在地:松山市東石井町、記念館入口に伊丹十三の愛車「ベントレー・コンにネンタル」が展示してある。

 

 

  私が散歩をする川附川(川幅12m)で、画像には映っていないが、右手に小野川(川幅22m)が流れていて天山町と東石井町境界の国道33号線天山橋で合流する地点に伊丹十三記念館がある。

 川附川は、伊丹十三記念館前で小野川と合流し、石手川、重信川に流れ瀬戸内海に流れ出る。

 

伊丹十三記念館の職員さんが植栽している花がある。

堤防には早くも菜の花が咲いていました。菜の花をアップしてみるとこんなに綺麗な花びらを付けていた。何だか春の気配を感じた。

水仙も満開、アップで撮ってみました。散歩する皆さんもスマホで撮影されておりました。

沿道の家の庭には山茶花が満開でした。

 散歩していると気が付かないが、今日はカメラを持ってよく観察していたので色んな野花が咲いているのに気付いた。

沿川の家の庭には、南天の実が付いていた。

伊丹十三記念館入口に「雪椿」が植栽してある。一輪開花していたので許可を得て撮らせて頂いた。ちょっとピンがあまい。

 

 沿道には未だ収穫されてない甘夏間が沢山実を付けていた。

 

 

散歩道にある染井吉野桜で、蕾が膨らんでいました。

お天気のいい日には、私の散歩道にはこんな素晴らしい石鎚山の景色も見ることが出来ます。

 

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平成30年、松山地方初雪化粧と松山城本丸の白梅

2018年01月14日 | 伊予松山歴史散策

一昨日から(1月11日)日本列島は、今季最大の寒波襲来、すっぽりと日本列島が冷凍状態、沖縄でも霰が降ったと報じられた。

また、新潟県三条市ではJRの列車が大雪で立ち往生多くの乗客が大変な思いをしたとTVで流れた。

松山地方は、昨日(1月13日)今季最低の気温を記録、昨晩から零下になり今朝の最低気温はー3,0まで下がった。

朝起きて窓を開けると一面銀世界、今季初めての積雪である。

午後、今年初の松山城登城、富山県砺波市から初めて松山観光にお越しになられた方をご案内した。

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」を視聴し是非とも秋山好古・秋山眞之・正岡子規の生誕地を訪れたいと考えていましたが遅くなりましたがやっと来ることが出来ました・・との事でしたので松山城でのロケを行った場所をドラマの場面を説明しながら案内させて頂きました。

現地を観るともう一度ドラマ「坂の上の雲」が観たくなりました。

秋山兄弟生誕地も見学して帰りますと言われました。

お気を付けていい旅をされて下さいとお送りしました。

松山地方は、松山城を中心に、城東・城西・城南・城北と愛称で呼ばれていますが、昨日の積雪は城西・城北には無く、城東・城南地区のみでした。

画像は、我が家周辺の積雪風景で、奥の山は、奈良県橿原市にある「天の香久山」と姉妹の山「天山」です。

昨日(1月13日)撮影した、伊予松山城本丸(132m)にある白梅です。

松山地方の梅の開花宣言は全国で一番早く開花宣言が1月6日にありあしたが、昨日伊予松山城本丸の梅の花を見てみると6輪開花していました。

昨日の伊予松山城本丸の白梅で、今月下旬には満開になると思います。

伊予松山城観光に来られた方々が白梅の花を盛んに撮影していました。

満開に開花した白梅の花をと、大天守・小天守を背景に撮ると絵になります。

昨日は未だ蕾の状態でした。

富山県砺波市から初めて松山城観光にお越しになられた方が行きたかった場所は、ここでした。

 

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平成30年・全国で一番早い梅の花が松山市で開花した

2018年01月06日 | 伊予松山歴史散策

松山市北持田町にある、松山地方気象台の「梅の標本木」が開花したと1月4日発表した。午前中に気象観測技官が、気象台の中にある「梅の標本木」に5輪から6輪の開花を確認し、松山の梅の花の開花を宣言した。
開花日は、昨年よりも2日早く、全国で一番早い開花となった。気象台の技官は、一足早い春の訪れ、梅花の様子を楽しんでほしいと呼びかけ、これを聞いた市民は、気象台に行き開花を鑑賞していた。
なお、4日の松山市の天候は、気温9,7度と低く、よく開花したと思う。

松山市の開花が早いのは?素人考えだが、梅の標本木の西側にはビルがあり、ビルの反射熱も加わり開花が早いのかも?です。
画像は、6日、松山地方気象台の許可を得て撮影した梅の標本木です。


松山から春一番の便りです。

 

1月4日、観測技官が5輪から6輪の開花を確認したそうですが、今日(6日)午前10時頃撮影に行って来た。

季節は未だ1月の厳寒であるが、梅の花をカメラのレンズを透視て見ると気持ちの温もりを感じた。

数日後には満開になるでしょうが、その時期に再度鑑賞に行ってみたい。

沢山の蕾の中に一輪開花。

開花する蕾の中此処にも一輪の花が咲いていた。もうすぐ周辺の蕾も開花するでしょう。

松山地方気象台の「梅の観測標本木」の表示板。

 

梅の観測標本木には画像の表示板が付けられていた。

撮影していると散歩をしている男性が鑑賞にやって来た。

画像の様に観測標本木周辺はビル群である。

松山地方気象台で、昭和60年代に建て替えの構想があったそうだが、地元民の存続運動で改装出来なかった。改装した時に中央にあった大時計が無くなった。

松山地方気象台の玄関左には、「登録有形文化財」の表示板がある。

「登録有形文化財」の表示板で、登録番号は「第38-0070号」と刻印されている。38は全国都道府県番号、愛媛県は38で70号とは、愛媛県で70番目に指定された登録有形文化財と言う事だろう。

大きな円形の所に大時計があった。

当時の大時計。

建物が黒っぽいのは、大東亜戦争、松山空襲での攻撃を避けるために外装を黒く塗ったためです。

松山地方気象台入り口に掲示してある説明版。

松山地方気象台の観測場所で、松山地方の各種気象状況を観測している。
但し風速の測定は、周囲にビルが建設されて本当の測定が出来なくなり、県立松山東高等学校内に測定機器を移して観測しているそうです。

 

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平成30年 初 詣

2018年01月03日 | 伊予松山歴史散策

昨日(1月2日)午後、我が家の氏神社である日尾八幡神社(松山市南久米町)に初詣に行って来た。

松山は年末から気温が低く寒い日が続いており昨日も最低気温はー0,2度であった。

私の正月の過ごし方は、毎年駅伝を見て過ごすのが恒例となっており、今年も元旦は、実業団駅伝、2日、3日は、関東大学箱根駅伝をTV観戦、今年の箱根は往路、復路に数名体調を崩し本来の走りが出来なかった選手がいたが何とか無事走り切った。青山学院大の素晴らしい走り、4連勝を飾った。

今年優勝候補の一校に上がっていた神奈川大学は5区の山登りで失速しシード校落ちとなり残念。

神奈川大学には、愛媛県立宇和島東高校出身で主将の「鈴木健吾選手」が居り、昨年2区を歴代8位の成績で区間賞の快挙で走り抜け今年も期待していたが、昨年の走りが出来なかったのが残念であった。

その他愛媛県出身者は、2区を走った城西大学・愛媛県立松山工業高校出身の「菅真太選手」6区を走った上武大学・愛媛県立今治北高校出身の「鴨川源太選手」が力走した。菅真太選手は4年生で最後の箱根だったが、鴨川源太選手は2年生なので今後の活躍を期待したい。日本体育大学の10区を走る予定でした愛媛県立松山工業高校出身の「重松尚志選手・4年生」は急遽エントリー変更して走れなかったのが残念でした。

さて、東京箱根間大学駅伝を見て、昨年のお礼を心にして初詣に出掛けた。多くの氏子達が家族ずれで氏神様である「日尾八幡神社に来ていた。

昨年愛媛県は、平成29年9月30日(土)~10月10日(火)まで第72回国民体育大会が64年ぶりに開催され県民挙げて歴史に残る成績を獲得し盛会の内に閉幕した。今年も家族一同元気で過ごせますようにとお祈りをし、そして南海地震が起こらない事をお願いして帰った。

 神社の所在は、松山市南久米町、旧国道11号線沿いに位置する。

神社入口に、注連石があり左に「魚躍」右が「鳥舞」で、書道家三輪田米山の揮毫である。米山は、日尾八幡神社神官三輪田清敏の長男である。

社号石 「県社日尾八幡大神」・注連石「鳥舞」「魚躍」は米山が揮毫したものである。

 

日尾八幡大神の神門。

日尾八幡大神の神門には三輪田米山の揮毫した社号額があり、米山は、この神社で生誕した。

 

注連石、鳥居を潜り神門左に大きな「忠魂碑」がある。

久米地区から出兵され、日清・日露・大東亜戦争(太平洋戦争)で戦死された御霊をお祀りしている。建立は、昭和35年10月である。忠魂碑、忠霊碑、招魂碑等々は戊辰戦争時官軍として忠義のために戦い戦死した兵士の霊魂を祀る石碑で江戸時代にはなかった。大東亜戦争で戦死された御霊を祀ることは、戦後許されるのは、昭和27年4月28日発効のサンフランシスコ講和条約以降である。この立派な忠魂碑、揮毫は誰がしたのか書かれていない。

忠魂碑裏面には、久米地区から出兵され、日清・日露・大東亜戦争で戦死された兵士の名前が刻印されている。

手水舎で手を清め拝殿に向かう。

神門を潜り石段、147段を登り社殿に向かう。年配の方は途中で休みながらの初詣である。

「あえぎつつ 登る石段 初詣」

石段の中程、左側に「黒田霊社」がある。

黒田霊社は、下記の事項にある「黒田九兵衛」を祭る祠である。

慶長5年(1600)9月15日伊予国の関ヶ原の戦いと言われる、刈屋畑の戦いがあった。

伊予史料叢書によると「佃次郎兵衛伊予国松前城を守る事」の項があってこの戦の展開振りを次の様に伝えている。「佃次郎兵衛十成は、加藤嘉明の先手の士の大将なり。関ヶ原の戦いの時、嘉明は伊予の松前を出て関東に打ち向かわれし、一成に堅固に守れと黒田九兵衛下知して松前に留守居たり。毛利輝元の命を受けた兵、村上掃部、能島内匠、曽根兵庫、宍戸善右衛門等、松前を取らんと支度しけり。能島村上は河野の一族なる故、招かざる人々従いなん。豫州を攻め取らん事・・とある。」刈屋畑の戦いは、激戦であり戦いは23日まで続き久米の如来院(現・松山市南久米町)まで及び佃一成はこの戦いで深手を負った。如来院には、平岡・村上連合軍が拠守した。嘉明の留守隊の隊将、は如来院を攻撃して陥れたが、九兵衛は壮烈な戦死を遂げた。村人達は九兵衛の死を哀れんで、その霊を祀るため黒田宮と称する小さな祠が日尾八幡神社の側に建てられてとあるが現在は見る事は出来ない。・・近年日尾八幡神社内に再建されたのが画像の祠である。

神門を潜り石段、147段を登り上がると社殿がる。

日尾八幡神社の拝殿、本殿で、祭神は天御中主大神、天照皇大神、月夜見大神の神々が祀られている。

日本で一番多い神社は何神社でしょうか? 調べてみると、「八幡神社」でした。神社の総元締めである神社本庁が行った調査「全国神社祭祀祭礼総合調査」によると、八幡神社は7817社とダントツでトップ(ちなみに、2位は伊勢神宮などの伊勢信仰の神社が4451社、3位は天神などの天神信仰の神社で3953社)でした。 そして神社の一番多い都道府県は、新潟県で、4786社、2番目が兵庫県の3859社、3番目は福岡県で3417社。愛媛県は、第46番目で116社でした。

拝殿内部で、家族が祈祷を受けていた。

普段は開門してない社も正月は開門して参拝が出来る。

この社は「天照大神」の社殿。

日尾八幡神社の本殿で普段は見る事が出来ない。「天照大神」の社殿、横から見た本殿。

本殿西側にある春日大社の社殿で、ここも普段は戸が閉まっているが、正月は開門してあり中には入る事を許され参詣が出来る。

拝殿左側、春日大社入口には、おみくじを頂く特設を設置、今年の正月は気温が高く好天で巫女さんも楽であっただろう!!

今年の運勢をおみくじで確認して、おみくじを結んでいた。

拝殿右側から四国88ヶ所第49番札所浄土寺があり「鷹子ふる里の道(米山の里めぐり)」の表示板がある。

明治時代の書家、三輪田米山は、この神社で生まれ、お墓は第49番札所浄土寺にある。

今年の初詣は、我が家の氏神様である、日尾八幡神社に参り、そして菩提寺である、浄土寺さんをお参りして来た。

日尾八幡神社から望む四国88ヶ所第49番札所浄土寺、徒歩5分の所にある。

 浄土寺の墓地に、三輪田米山のお墓がある。

四国88ヶ所第49番札所浄土寺の山門。多くの参拝者が来ていた。

山門を潜ると、本堂と大師がある。

弘法大師堂。

浄土寺の鐘楼で、最近都会では鐘の音がうるさいと苦情があり、気兼ねをしながら打たなければならないそうです。

弘法大師堂の前には、立派な「弘法大師・千百五拾年御遠忌供養塔」が建立されている。

供養塔の奥が納経所で庫裏がある。

境内の一角に、巡拝者が一休みをするための長椅子が用意されており、腰当の中央に、四国地図をくり抜いた造形がしてあった。

腰当にくり抜かれた、四国地図の形。

その長椅子には、画像の様に文字が刻まれていた。四国88ヶ所全部の札所に寄進したのでしょか?

お遍路さんにとっては誠に有り難い事です。

 

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