EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山兄弟生誕地整備事業を回顧する その4・藤本隆宏さん来館

2022年06月15日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

「スペシャルドラマ・坂の上の雲」で広瀬武夫・中佐を演じられた「藤本隆宏さん」が秋山兄弟生誕地に来られた時の回顧録です。

画像は、秋山兄弟生誕地研究員との記念写真で、前列中央が「藤本隆宏さん」です。

皆さんご存知の通り、藤本隆宏さんは、元水泳個人メドレーオリンピック日本代表選手、200m・400mの個人メドレーで日本記録を樹立し、オリンピックに、2大会連続で出場(ソウルオリンピック・バルセロナオリンピック)平成4年、バルセロナオリンピック、400m個人メドレーで日本人初の決勝進出を果たされました。

そして競泳の、元日本記録保持者、オリンピック2大会連続出場の異色の経歴を持つ俳優さんです。
現在は、色んなドラマに出演され活動されている、福岡県北九州市出身の方です。

松山市役所から、広瀬武夫・中佐を演じられる藤本隆宏さんが来られるのでよろしくと連絡があり、急遽奉仕で活動している研究員に出動連絡があり、その内10名が、藤本さんを出迎えました。月日の経過は早いもので15年前のことです。

注:研究員は18名が奉仕で活動しています。

オイ・・秋山、広瀬だ、遅くなってすまなかった。やっと来たぞ!!

この度、広瀬武夫中佐を演じる「藤本隆宏です」よろしくお願いします。・・と心のなかで挨拶されたのではないでしょうか?

広瀬武夫は、海軍兵学校「第15期生」、秋山眞之は、「第17期生」で、広瀬武夫は海軍兵学校が東京築地から、江田島に移転した最初の卒業生である。

広瀬武夫と秋山眞之は、兵学校では、先輩・後輩の間柄ですが、歳は同い年です。
しかし当時兵学校では、後輩が先輩に対して気軽に声を掛けたり出来ない事であったが、二人は何故か先輩・後輩の垣根はなく気が合った。

藤本さんに、秋山兄弟生家の座敷に上がって頂きました。

広瀬武夫と秋山眞之は、ともに慶應4年(1868年)生まれであることから、 海軍兵学校在学中からとくに親しくなり、明治30年に広瀬武夫がロシアに、秋山眞之がアメリカに留学することが決まってから、 二人は同じ下宿に住まい同じ部署で研修し親交は更に深まったようです。

秋山兄弟生誕地の座敷に上がって頂きました。

少し大きい写真です。

広瀬武夫は、日露戦争で、帝国ロシア海軍太平洋第一艦隊(通称・旅順艦隊)旅順港閉塞作戦、第二次閉塞作戦で福井丸を指揮し戦死した。

広瀬は、敵弾飛び来る中で行方不明となった部下の海軍一等兵曹、杉野孫七を探して退避が遅れ、旅順艦隊の砲弾の直撃を受けて壮烈な戦死をした。

決死的任務を敢行し戦死後、軍神とされ、東京万世橋駅前には広瀬中佐と杉野曹長の銅像が建てられていた。・・しかし何故か昭和22年東京都によって撤去された。

広瀬の出身地である大分県竹田には、

明治37年3月27日、日露戦争の旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬中佐の人格と報国の精神を敬仰して「広瀬神社創建奉賛会」が結成され、昭和10年5月に広瀬神社が創建された。

広瀬武夫、慶応4年5月27日生まれ、秋山眞之生まれの同い年、慶応4年3月20日であるが、海軍兵学校では秋山眞之は2期後輩である。
それは

秋山眞之は当時、正岡子規と、清水則遠と共に、末は博士か大臣になろうと大きな志を抱き、旧制松山中学を中退し上京、東京大学を目指した。
そして、東京大学予備門時代に夏目漱石がいた。清水則遠は予備門時代病魔に侵され亡くなった。

秋山眞之は、東京大学進学を諦め、海軍兵学校17期生として入学した。それで広瀬武夫との2期の差がある。

秋山好古・眞之の母役を演じた「竹下景子さん」が坂の上の雲に出演される俳優さんとして最初に秋山兄弟生誕地にお越しになられ、その次にお越しになられてのが「本木雅弘さん」、そして、広瀬武夫を演じられた「藤本隆宏さん」がお越しになった。

私がお迎えに関わったのは、この3人の方だけであった。

その他、秋山兄弟生誕地に来られた俳優さんは、阿部寛さん・香川照之さん・石原さとみさん・真野響子さんが居られました。阿部寛さんは、松山城でロケの合間をみて軍服姿そのままでお越しになったそうです。

そして

平成25年6月29日、広瀬武夫の出身地である、大分県竹田市にある広瀬神社崇敬会と広瀬武夫顕彰会の会員10名が秋山兄弟生誕地を訪問されました。広瀬武夫と秋山眞之の友情は、109年後に再び、伊豫松山、秋山兄弟生誕地で再会されました。

二人は、坂本龍馬が京都で暗殺された(慶応3年11月15日)翌年に生まれた。

大分県竹田市から広瀬神社崇敬会と広瀬武夫顕彰会の会員のうち、10名が秋山兄弟生誕地を訪問され事項は、次のブログに掲載いたします。

研究員の説明を熱心に聞かれる藤本隆宏さん.

藤本隆宏さんが、熱心に見られ質問されたのは、この写真でした。

写真に名前を記載してみました。

この写真は、旧伊豫松山藩主、松平(久松)定昭「定謨の父」の法要で東京浜町にあった久松邸に集まった伊豫松山の著名人達で、もし正岡子規が存命であればこの席に参列していた。

写真の主人公(真ん中の人物)と秋山好古と仙波太郎を切り抜いてみました。

左から「秋山好古・近衛師団長」「久松定謨・近衛第1連隊長」「仙波太郎・第1師団長」

旧伊予松山藩主は15万石の大名であったので本来ならば侯爵の爵位を与えられるはずだが、朝敵とされた家柄だから侯爵でなく伯爵となった。
衛戍地である東京を、朝敵とされた旧伊予松山藩出身者の、秋山好古・仙波太郎・久松定謨の3名が守護したのも予測していなかった事か?・・それとも陸軍省人事局は、理解の上での辞令であったのか、それとも偶然か?実力があっての抜擢であったのか? ここで少し触れてみる。
先ず、
大正4年2月15日付、
秋山好古が近衛師団長として、天皇と宮城(皇居)を警備する師団で、一般の師団とは異なり、部隊は最新鋭、最古参の儀仗部隊で、秋山好古はそのトップに就いた。

大正4年2月15日付、
仙波太郎が第一師団長として、当時6師団中で近衛師団部隊に次いでの精鋭隊員の師団として首都東京を護った。

大正4年5月11日付、
久松定謨は、近衛兵第一連隊長として、天皇と宮城を護り抜いた。

伊予松山藩は朝敵とされ15万両の制裁金の上納、旧藩主、久松定謨の爵位は本来なれば侯爵であるはずが、朝敵であったがために伯爵止まり。しかし大正4年、摂政宮時代である東京を朝敵とされた伊予松山の、久松定謨・秋山好古・仙波太郎の3名が護ったのである。
この3名は、明治維新の時、朝敵の汚名を被ったがこれでようやく汚名を返上できたと喜んだそうだ。(こっそりと祝杯を揚げたかも?)
しかし、秋山好古・仙波太郎共に親藩、朝敵の出身者が故に身分の昇進が遅れていた。

注:旧伊豫松山藩主・久松家の祖先は菅原道真である。

さて、これから秋山兄弟生誕地の生家のご案内です。研究員女史が!!

思っていたよりも生家が、小ぢんまりとしていたと思われたかも?

しかし、この生家から陸軍大将と海軍中将が生まれたのだから!!

生家裏側にある「秋山両将遺邸之碑の説明を聞かれました。

説明を聞きながら質問もされていたようでした。

真剣に説明を聞かれ、質問もされた石碑です。

秋山両将遺邸之碑で、題額の揮毫は「南 次郎 陸軍大将」です。

撰文は、秋山両将遺邸保存会代表者の「井上 要」です。

建立は、昭和12年7月です。

北豫中学校長就任のお願いに東京に伺ったのも井上要です。

秋山両将遺邸之碑 

1.碑   文 : 別途説明(碑文の要約等参照)

         撰文、井上 要

2.所 在 地: 松山市歩行町二丁目3番地6、秋山兄弟生家裏

3.揮 毫 者: 題額、陸軍大将 南次郎

          撰文、井上 要

4.建 立 者: 記載無し

5.建立年月日:  昭和12年7月 秋山両将遺邸保存会 

6.碑石大きさ:  高さ2m70㎝ 横幅1m50㎝  厚さ30㎝

7.石碑の由来:  井上要他秋山兄弟と深い関わりのあった人たちが後世の人々にその功 績を伝えるために建立した。

  8.題額を南次郎に揮毫依頼した経緯は不明 

 注:石碑にひびが入っているのは、平成13年3月24碑芸予地震、松山市は震度5強の揺れで石碑にひびが入りました。                      

秋山両将遺邸之碑  陸軍大将 南 次郎

碑文
陸軍大将従二位勲一等功二級秋山好古君海軍中将従四位勲二等功二級秋山眞之君兄弟生誕ノ地タル松山城東中歩行町ノ邸宅ハ天保年間考久敬翁ノ構築ニ係リ環堵蕭然トシテ素朴ヲ極ム大将ノ晩年帰リテ北予中学校長ノ任ニ就クヤ旧屋中ニ起臥シ僅ニ墻壁ヲ修治セシノミ今ヤ両将既ニ館ヲ捐ツ遺邸ノ漸ク朽廃ニ帰セントスルヲ憂ヒ同志ノモノ其保存ヲ計ラントスルニ際シ久松伯爵及ヒ山下亀三郎新田長次郎氏等資ヲ投ジテ之ヲ助成シ旧邸ヲ購ヒ修補ヲ施シ且両将ノ遺品ヲ蒐集シテ永ク其徳風ヲ傳ヘントス而シテ其保護管理ハ挙テ松山同郷会ニ託シタリ同会ハ青年教養ノ為メ中将ノ創設セル所ニシテ大将モ亦曾テ舎長タリシヲ以テナリ是ニ於テ同会ハ更ニ其西隣ノ地ヲ求メテ会館ヲ移シ以テ旧邸管理ノ任ニ便スルコトヽセリ若シ夫レ両将ノ人格勲業ハ赫々トシテ人ノ耳目ニアリ復タ縷説ヲ要セザルナリ

 昭和十二年七月 秋山両将遺邸保存会 井上要撰幷書

秋山両将遺邸之碑の説明

秋山両将(あきやまりょうしょう)遺邸之碑(いていのひ)    陸軍(りくぐん)大将(たいしょう)南次郎書(みなみじろうしょ)

陸軍(りくぐん)大将(たいしょう) 秋山(あきやま)好古(よしふる)君(くん) 従(じゅう)二位(い)(官位十六階中、上から四番目)勲(くん)一等(とう)(国に尽くした功績の等級)功(こう)二級(きゅう)(軍人に対する勲章の等級)海軍(かいぐん)運中将(ちゅうじょう)秋山(あきやま)眞之(さねゆき)君(くん) 従(じゅう)四位(い)(官位十六階中、上から八番目)勲(くん)二等(とう)(国に尽くした功績の等級)功(こう)三級(きゅう)(軍人に対する勲章の等級)秋山(あきやま)真之(さねゆき)君(くん)兄弟(きょうだい)生誕(せいたん)ノ地(ち)タル松山(まつやま)城東(じょうとう)中(なか)歩行(かち)町(まち)ノ邸宅(ていたく)ハ天保(てんぽ)年間(ねんかん)考(こう)(亡父)久敬翁(ひさたかおう)ノ構築(こうちく)ニ係(かか)リ環堵(かんと)蕭然(しょうぜん)(狭い住居が貧しくてもの寂しいさま)トシテ素朴(そぼく)ヲ極(きわ)ム大将(たいしょう)ノ晩年(ばんねん)帰(かえ)リテ北豫(ほくよ)中学(ちゅうがく)(現松山北高等学校の前身)校長(こうちょう)ノ任(にん)ニ就(つ)クヤ旧屋(きゅうおく)(古家)中(ちゅう)ニ起臥(きが)(生活)シ僅(わずか)ニ墻壁(しょうへき)(囲いの壁)ヲ修(しゅう)治(じ)(修理)セシノミ今(いま)ヤ両将(りょうしょう)既(すで)ニ館(やかた)(立派な屋敷)ヲ捐(す)(すてる、)ツ遺邸(いてい)(のこる住宅)ノ漸(ようや)ク(だんだん)朽廃(きゅうはい)(荒廃)ニ帰(き)セントスルヲ憂(うれ)ヒ同志(どうし)ノモノ其(その)保存(ほぞん)ヲ計(はか)ラントスルニ際(さい)シ久松(ひさまつ)伯爵(はくしゃく)久松定謨(ひさまつさだこと)及(およ)ヒ山下亀三郎(やましたかめさぶろう)  新田長次郎氏(にったちょうじろうし)等(など) 資(し)(資金)ヲ投(とう)シテ之(これ)ヲ助成(じょせい)(シ)テ旧邸(きゅうてい)ヲ購(あがな)(買う)ヒ修補(しゅうほ)(つくろいおぎなう)ヲ施(ほどこ)シ且(かつ)両将(りょうしょう)ノ遺品(いひん)ヲ蒐集(しゅうしゅう)シテ永(なが)ク其(その)徳風(とくふう)(立派な心がけや功績)ヲ傅(つた)ヘントス而(しこう)シテ其(その)保(ほ)護(ご)管(かん)理(り)ハ挙(あげ)テ松山同郷會(まつやまどうきょうかい)(財団法人常盤同郷会の前身)ニ託(たく)シタリ同會(どうかい)(松山同郷会)ハ青年(せいねん)教養(きょうよう)ノ為(た)メ中将(ちゅうじょう)(秋山眞之)

ノ創設(そうせつ)セル所(ところ)ニシテ大将(たいしょう)(秋山好古)モ亦(また)曽(かつ)テ舎長(しゃちょう)(常盤舎の監督、東京都文京区本郷四―一〇―一)タリシヲ以(も)テナリ是(これ)ニ於(おい)(碑文の字は俗字)テ同會(どうかい)(松山同郷会)ハ更(さら)ニ其(その)西隣(にしどなり)ノ地(ち)ヲ求(もと)メテ會舘(かいかん)(松山同郷会の道場、建物)ヲ移(うつ)シ以(もっ)テ旧邸(きゅうてい)管理(かんり)ノ任(にん)ニ便(べん)スルコトトセリ若(も)シ夫(そ)レ両将(りょうしょう)ノ人格(じんかく)勲業(くんぎょう)(功績)ハ赫々(かっかく)(光り輝くさま)トシテ人(ひと)ノ耳目(じもく)ニアリ復(ま)タ縷説(るせつ)(こまごまと説明すること)ヲ要(よう)セザルナリ昭和十二年七月 秋山(あきやま)両将(りょうしょう)遺邸(いてい)保存會(ほぞんかい) 井上(いのうえ) 要(かなめ)撰(せん)(著)并(へい)書(しょ) 

碑文の要約

秋山好古、秋山眞之両将軍の旧邸は、天保年間、父久敬翁がこの地に建立したと伝えられる。
兄弟はこの質素な家に生まれ育ち、好古将軍は退役後ここに住み北豫中学校の校長として子弟の教育に尽した。
秋山兄弟はすでに亡くなられたので、兄弟とゆかりの深い伯爵久松定謨、山下亀三郎、新田長次郎らが資金を集め西隣土地(現・武道場)も購入し、その管理を常盤同郷会に委嘱した。
両将軍の功績は、あらためて記す必要のない程偉大であり、誰もが知るところである。
昭和12年7月 秋山両将遺邸保存会 井上 要

秋山兄弟生誕地の研修見学も無事終わり、最後に色紙にサンインをお願いしました。

楽しい一時でありましたがお別れの時間が来ました。

藤本隆宏さんは、スポーツ選手出身者なので気さくな、明るい方でした。

最後に女性研究員と記念の写真です。

いよいよお別れです。

藤本隆宏さんは、両手を合わせて「お世話になりました。」・・言葉が帰ってきた。

皆さんお元気でご活躍下さいと、ねぎらいの言葉を送り秋山兄弟生誕地を後にされた。

短時間でありましたが、秋山眞之の生家が少しは理解していただけたものと思いました。

生家入口で、研究員が整列してお見送りいたし、お身体に気を付けられて今後益々のご活躍をお祈りいたしますとお見送りしました。

その時の様子が先日のように思い出されました。

 

                         広瀬武夫                                           秋山眞之

                 慶応4年5月27日生                           慶応4年3月20日生

       海軍兵学校15期生                             海軍兵学校17期生

広瀬武夫

明治33年9月25日、少佐に昇任 

明治37年3月27日、戦死、26日付で中佐となる。享年35歳

秋山眞之

明治34年10月 1日、少佐に昇任

大正6年12月1日付けで中将となる。

大正7年 2月4日、腹膜炎で逝去 享年49歳

広瀬武夫・秋山眞之共に長寿であれば海軍大将、或いは元帥まで昇任していたのではないでしょうか!!

参考事項

秋山眞之の画像は、写真ではなく、カラー仕様の肖像画を撮影し白黒画像に反転したものです。

千葉県習志野市にある、習志野騎兵連隊史跡保存会・三橋正文会長が秋山好古生誕150周年を記念して、白黒の写真をもとに、東京芸大出身の丸山浩司画伯に依頼し、画伯がカラーで描かれました。同時に、習志野騎兵連隊史跡保存会・三橋秀紀顧問が秋山眞之のカラー肖像画の作成を依頼された。秋山眞之生誕142年祭のときでありました。

まるで写真のように正確喝詳細に描かれています。秋山兄弟肖像画は松山市の秋山兄弟生誕地に寄贈を受けました。

カラー肖像画は、秋山武道場に掲示しておりますのでお越しの説には是非御覧下さい。

広瀬武夫(海軍兵学校15期生)を演じる、藤本隆宏さんと秋山眞之(海軍兵学校17期生)を演じた本木雅弘さん。

秋山眞之は、海軍兵学校17期生を首席で卒業した。

生まれは共に、慶応4年、この当時は、階級は共に海軍少佐、兵学校は秋山眞之は2期後輩であるので、眞之は、広瀬さんと呼び、広瀬は、秋山と呼び捨てで呼んだ。

 

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四国電力・松山送電石井連絡線17号送電塔塗装工事を見る

2022年06月01日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

先月、四国電力グループ会社の一つである、四電工の社員さんが鉄塔塗装工事を5月14日~6月10日、午前8時30分から午後5時まで、塗装作業をいたしますのでご連絡に伺いましたと挨拶に来られた。

塗装する鉄塔は、17号基鉄塔である。

四国電力松山送電の川内変電所(東温市則之内)から松山変電所(松山市天山一丁目)までの間に鉄塔が20基ある、その内の17号鉄塔が我が家の南側にありその鉄塔の塗装工事である。

今回鉄塔が建設され何回目の塗装工事か分かりませんが、塗装は約30年に一度塗装をするそうです。

送電線には、総電力187KVが流れているそうで、高圧電力は、松山(石井)変電所に送られ、家庭用電力に変圧して配電され私達の電化生活を支えている。作業中は電力は流れていない。

鉄塔は、鋼鉄製で亜鉛メッキされている。

亜鉛メッキの特徴は、素材が錆びるのを遅らせるために行う作業で「錆びないめっきの王様」とまで言われているが、耐錆性は30年位なのでしょう?30年に一度塗装をすると言われましたので、これは現場監督さんの言葉です。

17号鉄塔塗装工事は、5月14日午前8時から作業開始された。この日は快晴であった。

地上で作業に必要な装備を身に着けて高さ50mでの作業開始である。

鉄塔塗装工事のお知らせの表示版が掲示された。

発 注 者:四国電力送配電

施工業者:株式会社四電工

株式会社四電工は、高松市に本社を置く四国電力グループの電気設備工事、電力関連工事、電気通信工事などを行う総合設備企業で、業務は四国電力エリアの香川県、愛媛県、徳島県、高知県を中心に行っている電力会社である。

参考までに

松山城に建設されている電波塔は10年に一度塗装をされている。国指定の史跡公園に建設されているので文化庁の指示で目立たない色で塗装することの司令で緑色の塗料で塗装されている。NHK松山放送局のアンテナも文化庁の指示で目立たない色(緑色)で塗装されている。(国指定の史跡公園内だから)
鉄塔塗装工事は、初めて見る光景なので、カメラを取り出し我が家の2階から作業を見せてもらった。
鉄塔の高さ50mあるそうで大変な作業、二点式の安全ベルトを装着して行っていた。
塗装作業は30年に一度行うそうで、その作業の一部を撮らせてもらった。

作業は、天気予報を確認しながら土日祝も実施、塗装した直ぐの雨天は塗料が落ちるから。

5月14日(土)作業開始、5月28日(土)午前中塗装作業総点検し午後作業終了した。実働11日間であった。

17号鉄塔最上部の50m地点、塗装前にウエス(布)で鉄塔に付着している汚れや、錆が出ている箇所は、ワイヤーブラシで落とし塗装をする。

鉄塔最上部にある電線(細く見える電線)には電力は流れてなく、これは雷・落雷を誘導する避雷器の役目の電線で、送電線を保護する仕組みのひとつである。(避雷針)専門用語では、架空地線と言っている。

鉄塔本体から、送電線を支える腕金具が左右各6本の計12本で電線を吊り下げている本体から左右に出っ張っている腕金の塗装が大変である。
この様な鉄塔の保守が行われの電化生活が営まれている。
しかし反面、化石燃料、天然ガスによる発電、日本は資源の無い国、此れからは電気料金が再三に渡り高騰するであろう。もうすでに電気料金は上がっている。

慎重に鉄塔の汚れを落として行く、この作業を丁寧に行わないと塗料が鉄塔の素材に塗ることが出来ない大切な作業である。左右の手にウエスとブラシを持っている。うっすらと錆が出ている箇所はブラシで念入りに落として行く。

画像のように高所で足場も良くない場所での作業、身につけている自分の身を守り確保する装備大変な作業である。

作業は、地上で監督をする管理者を入れて10名のクルーで、常に8名が鉄塔で作業していた。

これが鉄塔塗装の中でも困難を要する送電線を吊り下げている腕金具で先ずは汚れを拭き取る大切な作業をする。

汚れを拭き取り、錆落としが終わると塗装開始、17の数字は鉄塔番号である。

塗装が始まるとネットを張って作業をしていた。

自分の身を確保しながらの鉄塔清掃作業・・お疲れ様です。

丁寧に錆を落とす。特に鉄塔を繋いでいるボルトに薄く錆が出ているので丁寧に錆を落としていた。

持ち場を慎重に作業をする。精神的にも肉体的にも疲れる作業で、皆さん特殊技能の持ち主である。

作業は重労働、地上に降りて休憩はせず、高所で身の安全を確保して体を休める。

アー疲れた一休みだ!!

元気回復、サー作業開始だ。

下半身の筋肉はパンパンだろうな!!

鉄塔は駐車場の中にあり、塗装作業中は車の駐車は出来ない。

画像は、松山市天山一丁目(国道33号線沿いにある)石井変電所です。

川内変電所(東温市則之内)から松山変電所(石井変電所・松山市天山一丁目)まで鉄塔は20基で、高圧電力187KVが送られて来て、この変電所で家庭用電力に変圧され送信され、各家庭に送電される前に、住宅街近くの電柱にトランスが設置してあるが、これで変圧されて家庭に送電されている。

※ 参考まで:四国管内に変電所は、大小含めて200ヶ所あるそうです。

松山市天山一丁目(国道33号線沿いにある)にある四国電力送配電株式会社の社名盤。

塗装場所によっては数名が助け合いながら作業をする。日頃からの意思の疎通・心がけが大切であろう!!

静寂な夜間でも鉄塔は送電を支えている。

送電鉄塔の最上部50m部分に送電線とは異なる細い電線がある。

この線には電力は流れていなく、雷・落雷をこの電線に誘導する避雷器の役目の電線で、送電線を保護する仕組みのひとつある。(避雷針である。)専門用語では、架空地線と言っている。

15年程前に、17号鉄塔の中腹に落雷あり、誘電で我が家に被害が発生した。

電動式門の引き戸の基盤に被害が発生、そしてTVビデオデッキの基盤が損傷した。

四国電力さんは、落雷箇所の点検に来ていたので、我が家の被害の事を報告すると後日担当者をよこしますと告げて帰られた。

後日、担当者が来られたが、ものの言い方に怒りを感じた。

「お宅の被害は確認しましたが、電力の鉄塔があったからこれだけの少ない被害ですみましたが鉄塔がなければ、直接お宅に落雷し、被害は甚大なものとなっていたでしょう。」一様被害のあった基盤は預かり持ち帰り社に報告します。・・でしたがその後何の連絡まなかった。

※落雷は気まぐれ、必ず落雷誘導線(避雷針)に落ちるとは限らない。

塗料は腰に付けた小さいバケツに入れて作業する。

中腹まで塗装が完了した17号鉄塔。

17号鉄塔から見た16・15・14・13・12号の各鉄塔。

四国管内には、いくつの送電鉄塔があるのでしょうか??

設置場所は、住宅街・田園地帯・山岳地帯に設置されている。特に山岳地の作業は大変だと思います。現地に行く道中作業に必要な道具・塗料の運搬等々が。

17号鉄塔の塗装作業も地上から塗装できる範囲まで作業は終わった。

17号鉄塔の塗装作業最後の塗装箇所。

17号鉄塔の塗装作業全て事故もなく完了。

四電工の現場監督とその社員が50mの最上階に上がり全ての箇所の検査を行い

17号鉄塔の塗装作業全て事故もなく完了した。

青い作業着の方が現場監督さんで年配でしたが身軽に上がっていかれた、緑色の作業着の人は若い四電工の社員さん3名で点検をしながら降りて行かれ、全体の作業工程を検査された。実働11日間の作業であった。

参考までに:四国の電気は、明治28年1月9日、最初の電気が徳島市の徳島電灯によって灯され、四国の電気事業が幕を明けた。・・とある。

その後、明治36年1月17日、松山市の伊予水力電気によって愛媛県の電気事業が営業を開始し、これは、わが国で最初に電灯が灯されてから25年後の事で、初の電気事業。東京電灯の開業より17年の遅れで四国に電気の灯が灯った。・・とある。

我が家の近くを高圧電力187KVが流れており、電磁波が人の健康に与える影響が心配である。

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