EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

「この街で」恋し、結婚し、母になったこの街で、おばあちゃんになりたい5組が記念の人前結婚式開催

2014年06月30日 | 伊予松山歴史散策
6月28日12時から、ことばのちから実行委員会主催で、松山市コミュニティセンターのコミュニティプラザで「この街で」が誕生して今年が10年目を迎えこれを記念して、5組が人前(じんぜん)結婚式を行った。「この街で」は、松山市が展開している文化事業の一つである「ことばのちから事業」の入選作品「恋し、結婚し、母になったこの街で、おばあちゃんになりたい」の詩を作家・作詞・作曲家の肩書を持つ、新井満さんが作曲した。この曲に調和のとれた40組の応募があった23歳から75歳の夫婦で色々な事情で未だ結婚式を挙げてない5組を選び、人前(じんぜん)結婚式を挙げた。会場には400名の市民と、式を挙げる家族、友人達が参列して「この街で」の曲が流れる中を新郎・新婦が壇上に登場、挙式の中で指輪の交換をし、そして夫婦が言葉の交換をして、それを朗読、その内容に参加者は涙を流しながら聞き入っていた。5組の皆さん色々な苦労があった様です。
そして、新井満さんが結婚立会人として結婚認定宣言と祝辞を述べられ、最後は、松山市民混成合唱団による「この街で」を合唱し5組の新夫婦を祝い、参列者・開催関係者一同が風船を飛ばし結婚式を祝った。


参加者に配布された資料の封筒。


会場入り口に大きな案内掲示板が設置。


コミセン正面玄関扉にも工夫がしてあった。


コミセンプラザには5組の結婚式特設舞台が設けられた。


開催主催者、野志松山市長と「この街で」の作曲者、新井満さんも所定の位置に着席。


「この街で」が誕生して10年目を迎えた名曲が流れるの中を新郎新婦が入場。


5組が席に着き人前(じんぜん)結婚式が開始された。


開式に当たり主催者である野志松山市長が挨拶。


5組の夫婦が指輪交換その披露。新郎は中国人だそうです。言葉の交換では、たどたどしい日本語で喋られた。


5組の新郎新婦が「互いに言葉の交換」、その朗読を聞く参加者から思わず涙が流れた。色々な苦労の中での今日である。この夫婦が最年長者。


最年長者夫妻は、長年飲食店を営み、そこでアルバイトをした大学生、4年間の学費を稼ぎ現在は立派な社会人、学生時代にお世話になった夫婦に祝辞を述べるサプライズが用意してあった。


結婚式成立立会人の証言をする新井満さん。


式はクライマックス、舞台の左裾で待機していた松山市民混成合唱団が合唱する「この街で」で祝福を贈った。マスコミも松山市内TV5社+CATVが盛んにカメラを回していた。


「この街で」の曲も10歳を迎えた。もっと成長させないと、そして松山市商店街ではBGMとしてもっと流して有効な利用をして成人式を迎えさせてもらいたい・・と念ずる。松山市には色んないい素材があるにも関わらず使い方が下手である。


5組の夫婦を祝い参列者、開催関係者一同が風船を飛ばし結婚式を祝い式は全て終了した。いい5組の夫婦を選定したと思った。今までの苦労を乗り越えての結婚式であった。良い事を松山市の「ことばのちから実行委員会」はしてあげた。ブラボー!!


人前(じんぜん)結婚式会場のフロアー(赤い絨緞の下)には「この街で」の作者である新井満さん自筆の原稿用紙が、そのままモニュメントとして ロビーの床に埋め込まれています。 大きさは、画像の通り!巨大です!画像の人と比較してみて下さい。


巨大なモニュメントがお披露目されたのは、平成22年9月8日 松山市総合コミュニティセンター・市民プラザのロビーに 巨大なモニュメントが創られた。 作者である新井満さん自筆の原稿用紙が、そのままモニュメントとしてロビーの床に埋め込まれています。今回の人前(じんぜん)結婚式会場
は、「この街で」のモニュメントの上で行われた。
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正岡子規の俳句にメロディをつけたなら・新井満さんが新曲を発表

2014年06月29日 | 伊予松山歴史散策
市民の愛唱歌として親しまれている楽曲「この街で」が誕生して10年目を迎えることを記念して、昨日(6月28日)松山市コミュニティセンター文化ホールで「もし正岡子規の俳句にメロディをつけたなら」新井満さんが素晴らしい曲を発表し、1000人の観衆が歓喜した。
昨年9月のシンポジウムで「子規の俳句2万5千句の中から好きな作品を選句し、作曲した新曲を作ってくれませんか」子規記念博物館名誉館長であった天野祐吉氏から是非ともと依頼された新井満さんは、短歌に曲書いたことはあるが、俳句は初めて575の17文字に作曲するには大変難しいのでお断りするつもりでいたが、突如昨年10月20日天野さんが逝去され、断る人がいなくなり作曲する事にしたと言われた。
新井満さんは、曲を作る為に松山市の小学生にアンケートを取った。その中で一番多かったのが「春や昔十五万石の城下かな」」次に「松山や秋より高き天主閣」で、その他の俳句を春夏秋を捩り、曲の編成は、序章、第一楽章「ふるさとの春・春や昔」~第8楽章「旅立ち」になっていて、第一楽章「ふるさとの春・春や昔」の局が素晴らしい、リズムは、三拍子のワルツ調で、歌いやすく、親しみのある曲であった。先ずは、新井満さんが自分で歌って曲を披露、次に松山市内の小学生、正岡子規の母校である番町小学校を始め市内の小学生120人が舞台に上がり大合唱、続いて松山市民合唱団が披露、そして最後に愛媛県知事、松山市長、他関係者も舞台に上がり、観客席の皆さんも起立して大合唱の内「正岡子規の俳句にメロディをつけたなら」新井満さんの新曲発表の幕は終了した。・・約1000人の歓喜・称賛・喝采であった・・流石新井満さんである。


もし正岡子規の俳句にメロディをつけたなら・新井満さんが新曲を発表するポスター。


もし正岡子規の俳句にメロディをつけたなら・新井満さんが新曲を発表した帰りに配られた資料。


新曲発表会は開演午後3時で、その時を迎える会場舞台。この日の為に北海道からそして全国からお越しになった。人もいた。


新曲発表会に当たり主催者の挨拶をする、野志松山市長。


来賓を代表しての挨拶をする中村愛媛県知事。市民の愛唱歌として親しまれている楽曲「この街で」元は、中村愛媛県知事が松山市長時代に仕掛けて出来た。


昨年9月、子規記念博物館で開催された画像をバックにトークをする左から、野志市長、竹田子規記念博物館長、新井満さん。バック画像左から二人目が故天野祐吉さん。


いよいよ「もし正岡子規の俳句にメロディをつけたなら」の新曲発表、作曲経緯を語る新井満さん。


新井満さんが作曲した楽章で、序章「うれしきも」で始まり、第一楽章「ふるさとの春・(春や昔)」から第8楽章「旅立ち」からなる。特に第一楽章「ふるさとの春・(春や昔)」が素晴らしい。


「もし正岡子規の俳句にメロディをつけたなら」の楽章の中「第一楽章」を新井満さん自身が歌い紹介した。歌は上手いし、声がいい・・そして帽子をかぶると歌手になり、帽子をとると作家になるそうです。


続いて、正岡子規の母校である、番町小学校の生徒さんを始め松山市内の小学生100数名が舞台に上がり合唱、歌詞は暗記しての歌いである。・・歌詞は全て俳句で沢山俳句が出て来るので覚えるのは大変であったと思う。曲は文部省唱歌の様な曲で、小学生にぴったり、舞台で生き生きとして子供たちは歌っていた。歌詞は、子規が作った2万5千句の中から42句を選句している。小学生たちは42句を暗記しての合唱凄い。


次は、大人の松山市民女性合唱団、さすが歌詞は暗記とはいかない、楽譜を見ての合唱、歌は小学生の方が上手に聞こえた。


最後は、市長、県知事、関係者が舞台に上がり、観客席の観衆は全員起立して一緒に大合唱。曲は直ぐに脳裏に残り歌いやすく正岡子規を偲ぶには打って付けの名曲であると感じた。新井満さんは、此れからこの曲を皆さんで育てて下さいと言われた。・・会場の参加者はその言葉に大拍手で答えた。


大合唱が終わり、正岡子規の俳句にメロディをつけた「新井満さん」にお礼の感謝状を贈る野志松山市長。


1000人の大拍手の前で嬉しそうに新井満さん感謝状を受け取られ、感謝状を観衆に披露。
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宇佐八幡神宮参拝

2014年06月28日 | 伊予松山歴史散策
宇佐神宮参拝は20数年振りで、当時の事はあまり記憶になく初めての参拝同様である。表参道口あたりはすっかり様変わりしていた。さて宇佐神宮の事を少し資料で勉強して伺った。
宇佐神宮(うさじんぐう)は、大分県宇佐市にある神社で、式内社(名神大社3社)、豊前国一宮、勅祭社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国に約44,000社ある八幡宮の総本社で、石清水八幡宮・筥崎宮(または鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡宮の一つとされ、通称として宇佐八幡・宇佐八幡宮とも呼ばれる。・・とある。
また、日本三代八幡造りの社殿として、宇佐八幡、石清水八幡、伊佐爾波神社(松山市)が出て来る。八幡造りとは、本殿を横から見ると屋根がM字型に見える八幡造りという古い神社形式を今も伝える造りで、宇佐八幡の本殿は国宝指定、松山市の伊佐爾波神社の本殿は国指定の重要文化財である。
ある資料に下記の様な記述もあった。宇佐神宮は宇佐で最も有名な観光場所なので、今更紹介することもないだろうと思うが、地元の人でも案外知らないことが多いので、ここでは宇佐神宮の持つ謎をいくつか紹介しておく。
宇佐神宮が、全国4万あまりの八幡宮の総本山であり、伊勢神宮に次ぐ我が国第二の総廟であることは、広く知られている。地元の人には、その広大さが分かりづらいが、鎌倉の鶴岡八幡宮にしろ、明治神宮にしろ、宇佐神宮を見なれた目には案外小さなものに思える。
では、なぜこんな田舎に、これほどの規模のものがあるのか。また、全国八幡宮の総本山となった理由は何か。これは考えてみれば不思議なことであって、なぜこれほどの影響力を持ち得たのか、ということを説明したものには、未だお目にかかったことはない。・・と説いてある。


参拝は西参道から本殿に向かった。奥に見える大鳥居は表参道で、呉橋のある西参道は、旧表参道と書いてあった。画像は西参道と表参道が交差する地点で、日章旗が掲げられていたが、半旗であった。この日は、慰霊の日(いれいのひ)で、沖縄県が制定している記念日、日付は6月23日である。昭和20年6月23日に沖縄戦の組織的戦闘が終結したことにちなんで、琉球政府及び沖縄県が定めた記念日で、復帰前は、住民の祝祭日に関する立法(昭和36年立法第85号)に基づく公休日とされた。


参道を少し歩くと「皇族下車」の掲示板があった。高貴な方達はここまでは車で来れる。


皇族下車の階段を上がると夏越祭の茅の輪があった。宇佐神宮は早い時期から輪越しを創って参拝たちの健康を祈願してくれているのか。


茅の輪の左に、夏越祭の茅の輪潜りの作法が書かれた掲示板があった。


いよいよ上宮本殿に入る。


本殿唐破風の神門、左から入ることにした。


本殿前には、一之御殿、二之御殿、三之御殿がありその順に参拝。残念に本殿は修復工事で拝する事が出来なかった。
御祭神は、一之御殿に、八幡大神(応神天皇)、二之御殿は、比売大神、三之御殿は、神功皇后がお祀りされている。


拝殿前にある回廊から、宇佐神宮奥宮・大元神社を遥拝出来るようにしてある。


一之御殿左に拝礼の作法が書かれていた。


帰りは、来た参道とは違う道を通り下宮を遥拝して帰る。


此処が下宮で、一之御殿、二之御殿、三之御殿がある。
一之御殿は、八幡大神、二之御殿は、比売大神、三之御殿は、神功皇后がお祀りされている。下宮のお札、お守り授かり所に二人の若い巫女さんがいた。二人の巫女は談話に夢中で前を通ってもしゃべりっぱなし。遥拝に来られた方には軽く会釈するか、軽く一言言葉を掛ける心がけがあって然るべきだと感じた。宇佐神宮の禰宜さんたちは、巫女たちの接遇教育がなされていない。全国に約44,000社ある八幡宮の総本社に携わる者として、もっと凛とした態度をしないと恥ずかしいと思わないのか・・渇つだ。


無事参拝も終わり西参道に帰った。この橋が「呉橋」以前はこの橋を渡り本殿に拝礼に向かった旧表参道だそうです。現在呉橋は通行禁止で手前の橋を渡る。


この画像は、愛媛県松山市道後温泉近くにある、伊佐爾波神社の本殿、八幡造りで日本三代八幡造りの一つとされている。社の面積は宇佐八幡宮と比較すると比べものにならない小さいが由緒ある神社である。祭神は、仲哀天皇、応神天皇、神功皇后がお祀りされている。


愛媛県松山市道後温泉近くにある、伊佐爾波神社の本殿
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日本100名城番外編紀行・杵築城&町並み散策

2014年06月27日 | 伊予松山歴史散策
江戸時代の風情が今なお残る杵築、杵築城を中心に南北の高台武家屋敷群があり、その谷間に商人の町が挟まれている。この様な凸凹のあるサンドイッチ型の城下町は、杵築だけだと言われている。
町が丸ごと江戸村の杵築に以前から一度散策してみたいと思っていた。
特に時代劇やTVドラマのロケによく使われ、志保屋の坂と反対側の酢屋の坂との塩梅が絶景である。
日出城址を散策してから車で約35分走行して、法務局横にある無料駐車場に車を置き、先ずは杵築城天守を訪れた。
杵築城は、室町時代応永元年(1394年)に木付氏によって木村城として築城、そして、松平氏入城後に「杵築城」3万2千石となった。
八坂川の河口にある台山(だいやま)の上に築かれ、台山は、北は高山川、東は守江湾に囲まれた天然の要害で、連郭式の平山城で、台山を空堀により4区画に区切られていた。
当初は台山山城に主郭部が設けられたが、慶長元年(1596年)の震災と、慶長2年(1597年)の暴風雨によって城郭は損壊したため、台山北麓に居館が移され、天守は慶長13年(1608年)に落雷で焼失して以来再建されなかったが、現在本丸の天守台跡には3層の模擬天守が建てられ資料館として利用されている。
また、戦前戦後外務大臣を務め、昭和20年9月2日東京湾上に停泊の米国戦艦ミズーリ号甲板にて降伏文書に調印した重光葵、彼が学生時代暮らした屋敷がある。
そして全国初の「着物が似合う歴史的町並みに認定」された絶景の城下町で、軍師黒田官兵衛ゆかりの地でもある。


杵築の城下町絵地図が数ケ所に掲示してあり、散策中に今自分が何処にいるのかが直ぐ分るように配慮されている。私も絵地図を見ながら散策した。非常に利便性がある。


杵築と言えば、この画面である。
全国初の「着物が似合う歴史的町並みに認定」。南台武家屋敷、北台武家屋敷、商人の町周辺には電柱がなく(電線等々は地下に埋設)観光に配慮されている。


八坂川に掛かる錦江橋から見た杵築天守。


杵築城下町資料館南にある展望台からの杵築天守。


昭和45年建築された模擬天守で、内部は資料館となっている。


杵築城下町のメーインである、志保屋の坂。灯篭と石畳の坂道がとても風情を醸し出すいい所である。


志保屋の坂を上りつめて、ふと振り返ると向うに(南台武家屋敷)酢屋の坂が見える。良い景観である。


北台武家屋敷の通りで、この沿線に筆頭家老の大原邸や、能見邸がある。


北台武家屋敷にある杵築藩主、松平家の筆頭家老を務めた大原家、石高200石の屋敷門。


南台武家屋敷の「酢屋の坂」から見た筆頭家老の大原邸の裏で立派な土塀と大きな茅葺の母屋が良く見える。


筆頭家老の大原邸の隣にある、藩主の息子の能見邸宅で石高は300石、筆頭家老の大原は、200石だった。能見邸は、能見氏から建物を杵築市に寄贈され市は、7000万円を掛けて解体修復をした。


能見邸にある珍しい回転雨戸で、鹿児島県の知覧町にある武家屋敷にも回転雨戸があるが、仕組みが異なる。能見邸の回転雨戸の方が精巧である。


杵築城下を散策して感じたことは無料駐車場が沢山完備されていて車での観光者には大変ありがたい事である。私は市役所の駐車場を利用した。日曜日なのに利用できるよう配慮されていた。
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日本100名城番外編紀行・日出城址

2014年06月26日 | 伊予松山歴史散策
日出城址

石高3万石の日出城は、現在の大分県速見郡日出町にあった城で、江戸時代を通して、木下氏が居城した。
日出藩木下家の居城である日出城(暘谷城)は、慶長6年(1601)8月、初代城主木下延俊により築城され、縄張りは 細川忠興 が行い、財政的にも忠興の多くの援助があった。木下延俊は細川忠興の妹婿で、秀吉の正室・北政所の兄・木下家定の三男、さらに小早川秀秋の兄にあたる人物でもある。

本丸には天守をはじめ、各所に櫓が築かれ、本丸を中心に二の丸・三の丸・外郭と三重の構えを備え3万石の小藩の居城とは思えない。現在は、天守跡・城壁・堀跡などを残しているが、城跡には 学校(本丸跡に、日出小学校・二ノ丸跡に、日出中学校)が建設されている。正門横に「豊後の三賢」の一人である帆足萬里や、代々日出藩の要職を務めた瀧家出身の瀧廉太郎の銅像がある。日出城には珍しい櫓がある。

それは、城の北東「隅櫓」の1・2階壁面角を欠いて5角壁面にし、その下の石垣も角を欠いた。北東隅の水堀・石垣も折り曲げて控え鬼門除けをし
城の南西(裏鬼門)の石垣も角を欠き人柱を立てた。
木下延俊は、入藩当時25歳で、知らぬ土地で築城する事に対して非常に神経を使い、特に鬼門に「鬼門除け」を施した。

鬼門とは、陰陽道で鬼が出入する丑寅(北東)の方角の事であり、鬼除けとは、災難を除き避ける為に城の鬼門に当たる櫓・石垣・堀等を控えて造り、城外には神社や寺を配し、鬼の出入りを塞いで護る事である。
日出城の隅櫓は北東(鬼門)にあるので、別名「鬼門櫓」と呼ばれている。

現在地にある鬼門櫓は、元あった場所から移築された櫓で、全国でも城の建物としては、唯一の貴重な建造物である。
私が今まで見た鬼門に壁面角を欠いている建造物は、京都御所の築地塀と、旧本能寺の跡の塀しか見たことがない。
九州マイクロウエーブ・ミーテイング・大分大会の帰りに散策したその画像である。日出町観光会館に車を置き昼食をしたが、会館の職員さんが大変親切に接遇して頂き、これぞ正真正銘の「お持て成し」の精神を感じた。
今回のお土産は最後の訪問地、中津城で購入する予定であったが、日出町のお土産にした。


日出城址大手にある見取図。


日出城址大手にある説明版。


日出城址大手入口に石碑「暘谷城跡」。


日出城址大手門跡で、奥に見える注連石右側に日出小学校の掲示板がある。奥の建物は日出小学校。


外堀も綺麗に整備されている。


天守台で石垣も整備が行き届いている。
石垣は、細川忠興が、近江国穴太の石工、理右衛門を呼び「野面積み」の石垣を築がせた。
天守跡で、奥に見える建物は、日出中学校で旧二ノ丸跡。


本丸跡で、現在は日出小学校となっている。


裏鬼門にある人柱祠。


教育委員会が設置している人柱祠の説明版。


鬼門櫓で、全国の城郭建築としては唯一の貴重な建物。


鬼門櫓で、鬼門の方角の角を欠き5角壁面にしている。


鬼門櫓で、鬼門の方角の角を欠き5角壁面を正面から見る。日本100名城の内85城を巡ったが、鬼門の方角の角を欠き5角壁面を持つ櫓を初めて見た。


鬼門櫓内部で、鬼門の方角の角を欠き5角壁面を内部から見る。下には飾棚が造られここにお供えもお等々を置く。


参考に掲示しました。京都御所の「築地塀」で鬼門の角を欠き画像の様な造りになっている。外国から観光に来た女性たちは、何故此処だけが変わった造りになっているのか不思議そうに見ていた。そして入母屋破風造りの中には、烏帽子をかぶり右手にお幣を持った猿が置かれている。このお猿さんは滋賀県日吉山王社の神の使いとされ、御所の鬼門を警備している。このお猿さん夜になるとふらふら遊びに出掛けては悪さをしたことから金網を掛けられたそうです。難を去るから猿か??。・・この地を「猿ケ辻」と読んでいる。
撮影は平成21年4月11日。


参考に
画像は、旧本能寺の変跡で、塀は鬼門の角を欠き、「本能寺跡」の石碑が建立されている。現在は京都市本能特別養護老人ホーム・老人デイサービス・在宅介護支援センターとなっている。そして正面玄関には「鍾馗さん」を置いている。


旧本能寺跡鬼門の角を欠き石碑を建てている。


参考までに
旧本能寺跡は、京都市本能特別養護老人ホーム・老人デイサービス・在宅介護支援センターとなっていて正面玄関には「鍾馗さん」を置きセンターを魔よけの守護として施設を護っている。撮影は平成21年4月11日。
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