EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古生誕163年・秋山眞之生誕154年合同生誕祭 開催される(一部追記しました)

2022年03月21日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

画像は3月20日、松山市歩行町二丁目3番地6・秋山兄弟生誕地(公益財団)常盤同郷会 武道場で開催された 秋山信三郎好古生誕163年・秋山淳五郎眞之生誕154年、合同生誕祭の様子である。

秋山好古生誕163年・秋山眞之生誕154年祭合同生誕祭 開催 次第

                  記

1、開催日時  令和 4年3月20日(春文の日)

        午前 9時30分 式典

2、場  所  松山市歩行町二丁目3番地6

        秋山兄弟生誕地 (公益財団)常盤同郷会 武道場

3、開催内容

        秋山好古163年祭(安政6年1月 7日生)

        秋山眞之154年祭(慶応4年3月21日生)

        秋山兄弟合同生誕祭式典

        ・来賓祝辞

        ・献茶(秋山好古・眞之の肖像画と銅像へ)

        ・常盤同郷会賞 令和元年度受賞者記念スピーチ

        ・正派邦楽大師範箏「佐川雅貴社中」小・中学生の琴演奏

                             ・奉納稽古 

                                       柔道・合気道・形並びに演武 

4、閉 会    午前11時00分

秋山好古生誕163年・秋山眞之生誕154年祭合同生誕祭 開催に先立ち国歌君が代を、令和元年度松山盲学校を卒業され新成人になられた 二宮慶太郎さんの独唱で生誕祭は始まった。(参列者は声を発生せず心のなかで歌唱した)

画像は、君が代を熱唱される、二宮慶太郎さん、心配そうに側で付添されるお母様。

生誕祭開式に当たり、主催者である、公益財団法人 常盤同郷会理事長 山崎 薫理事長が挨拶された。

令和4年、秋山好古生誕163年祭は、新型コロナが蔓延であったため中止とした。

秋山眞之生誕154年祭は、コロナが蔓延の中、最大の注意を祓いながら、中村時広愛媛県知事代理、野志克人松山市長代理をお迎えして秋山好古生誕163年生誕祭を合同で開催された。
秋山好古、安政6年1月7日生まれの生誕祭は、毎年1月の第2日曜日に開催していますが、今年はコロナ蔓延のため開催を中止しました。

そのため秋山眞之、慶応4年3月20日生まれ生誕154年祭と合同で開催さしましたと挨拶の中で説明された。

山崎理事長の横に飾ってある秋山好古・眞之のカラー肖像画は、千葉県習志野市、習志野騎兵連隊史跡保存会会長、三橋正文さん、習志野騎兵連隊史跡保存会顧問、三橋秀紀さんから寄贈していただいた全国に二つしかない貴重な肖像画を舞台に掲示し式典を開催した。その一つは、千葉県習志野市、習志野騎兵連隊史跡保存会にある。

※ なお、肖像画制作については、このあとの項で説明します。

続いて

公務で参列出来ない中村時広愛媛県知事代理出席の、愛媛県スポーツ文化部文化局長・山中美幸さんが中村知事の祝辞を代読され挨拶された。

続いて

野志克人松山市長代理、松山市立 坂の上の雲ミユージアム館長 石丸耕一館長さんがご自分の挨拶と、野志克人松山市長の祝辞を代読披露された。

続いて

秋山好古・眞之兄弟に対して献茶した。

献茶をするのは、常盤同郷会理事・藤島寛昌さんと、伊豫売茶流天山会 家元 岩田天山さんです。

続いて

献奏・琴曲演奏

演奏者は、正派邦楽会 佐川雅貴社中 東雲高等学校1年生 松田一花さん。

演奏曲は、「六段の調べ」

続いても

献奏・琴曲演奏

演奏者は、正派邦楽会 大師範 佐川雅貴さんで演奏に合わせて、常盤同郷会理事・藤島寛昌さんが「秋山兄弟の和歌」を朗唱した。

正派邦楽会 大師範 佐川雅貴さんが演奏に合わせて、常盤同郷会理事・藤島寛昌さんが「秋山兄弟の和歌」を朗唱した。その和歌。

続いて

令和元年常盤同郷会賞を受賞された(当時は、愛媛県立松山北高等学校3年生)新成人となられ現在愛媛大学生で学業に励んでいる、二神弘樹さんのスピーチです。

参考事項:常盤同郷会賞(戦前から久松賞を継承)は、愛媛県中予地区の各高等学校の卒業式に際し、社会貢献活動と学業に熱心に取り組んだ優秀な生徒へ、校長推薦に基づいて贈られます。毎年29高校の31人に表彰状と秋山兄弟の言葉を刻んだ盾が贈呈されている。

久松賞とは、旧伊豫松山15万石の藩主・久松家である。

続いて

再び松山盲学校を卒業され新成人になられた 二宮慶太郎さん登場で、NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の主題歌「スタンド・アローン」を独唱された。

素晴らしい歌唱力で参列者の各位は聞き惚れ大きな拍手が湧いた。

 

スタンド・アローンの歌詞

ちいさな光が 歩んだ道を照らす

希望のつぼみが 遠くを見つめていた

迷い悩むほど 人は強さを掴むから 夢を見る

凛として旅立つ 一朶(いちだ)の雲を目指し

 あなたと歩んだ あの日の道を探す

ひとりの祈りが 心をつないでゆく

空に 手を広げ ふりそそぐ光あつめて

友に 届けと放てば 夢叶う

はてなき想いを 明日の風に乗せて

 わたしは信じる 新たな時がめぐる

凛として旅立つ 一朶の雲を目指し

会場の武道場来賓者の席の後ろの戸は、コロナ蔓延防止の為開け放され換気を十分にした。

会場の戸はコロナ蔓延防止の為開け放され換気を十分にした。

参列者の中に、愛媛県立松山東高等学校校長・愛媛県立松山北高等学校長の両校長も参列されました。

松山東高等学校は、文化2年伊豫松山藩15万石藩主・松平定則が藩校として創設(明教館)その後松山中学・松山東高校となり県下屈指の進学校で、秋山好古は明教館時代の卒業生、秋山眞之は松山中学時代の卒業生。

松山北高等学校は、好古が北豫中学校長を大正14年~昭和5年まで務めた秋山好古との関係である。

続いて

奉納稽古

秋山兄弟生誕地にある常盤同郷会武道場では、青少年の育成と心身の鍛錬を目指しておりその一環として、柔道と合気道が行われている。

生誕祭では、濱田初幸柔道総師範の解説で「柔道の固の形」が解説付きで演武された。

演武者は、(取・藤田三段 受・廣盛三段)

奉納稽古には、松山市立桑原小学校11名が参加した。

秋山兄弟生誕地にある常盤同郷会武道場では、青少年の育成と心身の鍛錬を目指しておりその一環として、合気道も行われている。

合気道の演武

橘荘二合気道場長、松山市立東雲小学校11名が参加して奉納稽古が行われた。

最後に参列者一同正面に一礼して

秋山好古生誕163年・秋山眞之生誕154年祭合同生誕祭は予定の行事は全て終了した。

秋山兄弟生誕地の秋山好古騎馬像には、好きなお酒が献酒された。

秋山兄弟生誕地の秋山眞之胸像には、献茶と桜が献花された。

秋山好古生誕163年・秋山眞之生誕154年祭合同生誕祭の司会進行役を務められた

常盤同郷会理事・藤島寛昌さん。

左に着席され進行を確認される公益財団法人常磐同郷会、山崎 薫理事長さん。

秋山兄弟生誕地に植栽されている「染井吉野桜」は例年よりも開花が早く沢山の桜が開花していた。昨日私の私感では1分咲きであった。

カメラの絞りとEV補正をマイナス一杯にし、IS感度を最低にしてスロロボ発光で撮影しました。

本日(令和4年3月21日)松山地方のソメイヨシノ桜が開花したと松山地方気象台から開花宣言がありました。

秋山兄弟生誕地のソメイヨシノ桜が満開に開花すると画像のようになります。

秋山生誕地のソメイヨシノ桜は、旧市内(旧城下町)にあるソメイヨシノ桜としては一番大きく樹勢が強い桜です。

        秋山好古生誕163年・秋山眞之生誕154年祭合同生誕祭開催次第。

では、秋山好古・秋山眞之兄弟のカラー肖像画制作について簡単にご説明いたします。

カラー仕立ての肖像画を制作されたのは、千葉県習志野市大久保にある、習志野騎兵連隊史跡保存会、会長・三橋正文氏が秋山好古生誕150年(平成22年1月7日)を記念して白黒写真を基にして、東京芸術大学を卒業された丸山浩司画伯に依頼し画伯がカラーで描かれた肖像画です。

そして弟の秋山眞之の肖像画もカラーで同時に制作されました。
その複製で、本物は千葉県習志野市大久保商店街資料館に展示されています。

千葉県習志野には、騎兵13・14・15・16連隊があり秋山好古は騎兵旅団長として習志野に駐屯していました。

騎兵第一旅団は、騎兵第13連隊と騎兵14連隊によって構成されており、平時は近衛師団の配下にあり、有事となると騎兵第一旅団に属して活動していた。

なお、騎兵連隊の中で、騎兵13連隊が最強の騎兵隊といわれた。

日露戦争の時は、秋山好古第一旅団長の指揮下で、秋山支隊の基幹部隊となり、ロシア軍隊のコサック騎兵部隊を撃破したのは有名である。

平成22年11月25日、千葉県習志野騎兵連隊史跡保存会、顧問・三橋秀紀氏(左)が秋山兄弟生誕地にお越しになり、秋山好古・眞之肖像画の贈呈式が、故・常盤同郷会専務理事、宇都宮良二氏に寄贈された秋山好古カラー肖像画です。

同時に秋山眞之のカラー肖像画も制作し贈って頂きました。

この時、贈呈式には地元新聞社が取材に来て新聞に掲載されました。

日本には、習志野市大久保商店街展示資料館と松山市の秋山兄弟生誕地にしかない貴重なカラー肖像画です。

肖像画は、何時も武道場に掲示していますので是非ご覧下さい。

贈呈式に各社新聞社が取材に来て掲載されました。

平成22年7月吉日に、白黒の写真を基にして、丸山浩司画伯が描かれたカラー仕上げの肖像画です。

丸山浩司画伯は、昭和60年、東京藝術大学美術学部絵画科油画を卒業され、現在肖像画を描かれる第一人者で、秋山好古・眞之兄弟の肖像画もまるで、写真のようにカラーで仕上げられています。

秋山好古生誕150年を記念して、千葉県習志野市にある、習志野騎兵連隊史跡保存会からの依頼で描かれた力作です。その時弟、秋山眞之描かれ制作された。

秋山信三郎好古について

 好古は、安政6年(1859)1月7日、伊予松山藩徒歩目付け家禄10石取りの秋山家3男として、現 秋山兄弟生誕地に誕生、幼名信三郎と称し元服して好古と改名した。

好古は、福沢諭吉の「学問のすすめ」に共感し青少年の教育推進に教育者を目指し、大阪師範学校(現大阪教育大学)に学び卒業後、名古屋師範学校(現 愛知教育大学)付属小学校に赴任したが、郷土の先輩である同校の教頭、和久正辰と、やはり伊予松山出身、名古屋鎮台の山本武官の強い勧めで教員を退職し、明治10年陸軍士官学校に入学した。

専攻科を決めかねていた好古をみていた、寺内 正毅(後の内閣総理大臣)から騎兵科を勧められ専攻科目を決めた。卒業後、日本の騎兵隊を創設し、日本騎兵の父と言われた。

その後大正12年元帥に推薦されるもこれを辞退、大元帥(大正天皇)は驚いた。未だかって元帥を辞退した者はいなかったからだ。大元帥は元帥を辞退した秋山大将に、特旨として官位従二位を与えた。

好古は、官位従二位を拝命し大正13年郷里の伊予松山から強い要望に答え北豫中学校長として昭和5年3月まで本来の教育者として勤務し同年3月北豫中学校長を辞任、11月4日東京・陸軍軍医学校で永眠(享年72歳)現在東京青山霊園に眠っている。

元帥を辞退した事をご存知であったのであろう、永平寺、北野元峰 貫首は、藩政時代であれば大名クラスの戒名を秋山好古に授けた。

戒名授與証は、秋山宗家第10代、秋山哲兒さんから写しを頂きました。

平成22年7月吉日に、丸山浩司画伯が描かれたカラー仕上げの肖像画です。

秋山淳五郎眞之について

眞之は、秋山久敬の5男として慶応4年3月20日生まれ、幼名は淳五郎で、元服し眞之に改名した。

兄好古の支援をえて東京大学を目指し、正岡子規・清水則遠らと共に東京大学予備門に入学し、東京帝国大学を目指すが、尊敬する兄、好古に学費、生活費の負担を掛けることは偲びがたしの思いを持ち、兄を説得し了解を得て海軍兵学校に17期生として進学した。

終始首席で卒業し海軍大学校教官を経て、日露戦争勃発後には、日本海軍連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で作戦担当参謀となり、旗艦「三笠」乗艦、日本海海戦船では、帝国ロシア海軍太平洋第二艦隊・第三艦隊(別名、バルチック艦隊)を日本海で撃滅その作戦を全て秋山眞之が専任参謀として立案し勝利に貢献した。
その後大佐となり、海軍少将と昇進、大正6年12月1日中将に昇進、大正7年2月4日、小田原の山下亀三郎(山下汽船創設者)の別宅で盲腸炎を患い腹膜炎を併発し亡くなった。享年49歳、海軍中将従四位勲二等旭日重光章。

墓所は東京青山霊園に兄好古と一緒であったが、昭和62年鎌倉霊園に改葬。

平成17年1月18日全国の秋山好古、眞之の支援者の醵金を得て生家が再建され、以後毎年生誕祭が行われている。

母の教え

秋山好古・眞之兄弟は、幼少期に母からの教えとして

「大きくなったら、自己を犠牲にしてでも、世の為、人の為、故郷の為に尽くせる人になるようにと」教えられ、二人は母の教えの通り人生を全うした。

秋山家の社がある、 愛媛県今治市町谷502-乙7にある「三嶋神社」。

社名に付いては、資料には、「三嶋神社」と記載され、神社注連石左にある社号碑は「三島神社」と揮毫されている。・・何故か?

三嶋神社の拝殿で、一番右側にある小さな社が、秋山家祖先の「秋山明神社」である。

秋山家祖先の「秋山明神社」。

平成25年2月8日、お参りに行ってきた。

この地区には秋山姓が多く、一族は毎年、秋山家祖先の「秋山明神社」で供養祭を行っているそうです。

平成25年2月8日、お参りに行ってきた。

「秋山明神社」の左に、「社修復」記念の石碑が建立してあった。

「秋山の祖先は」
伊予の豪族河野氏の出で、今治にあり、始め上野氏と称し何時の頃か讃岐の国に移り秋山を姓とし同地に秋山の城跡があると伝えられている。

子孫達は、伊予に帰り越智の武智郷の小谷に住し、右衛門宗清と称する者、寛永年間伊予今治藩主藤堂高吉に仕え30人扶持を給され、藤堂高吉が伊賀名張に転封の時伊賀に移った。

その後、助太夫久信の時今治に帰りそして伊予松山藩に移り、久信は伊予松山藩主松平隠岐守(久松定行)に仕えその家臣となった。

秋山家の家系は、宗清を以て始祖とし、久信を以て初代と称している。

言い伝えによると、久信は久松家(松平)に仕えるにあたり、頭の字の付く役職でないと受けずと言い、中間小頭を以て出仕したと言われている。その後代々徒士の家格を以て相継ぎ、第6代久敬は、徒歩目付に若くして抜擢された。久敬は、漢学に長じ、文章を能くし廃藩置県後は県の学務係り、小学校の教師等を勤めた。」・・・
以上昭和11年刊行 伝記 秋山好古から抜粋

現、秋山宗家は、第11代で東京に在住している。墓所は、東京青山霊園にある。

 

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EEKの呟き・返す言葉は「ウン」じゃなく「ハイ」でしょう

2022年03月11日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

東日本大震災から11年が過ぎ去った!!

少しずつ私達の心から被災のことが忘れられて行こうとしている昨今である。

未だ行方不明者の方たがいらっしゃるのでしょうか、ご冥福をお祈りにみえられ、深々とお辞儀をされていいた。

大切な人を思う人・前に向かって進もうとする人・思い出したくないと言う人。

人それぞれ、しかし前進あるのみ・・お元気でお過ごし下さい。

帰らぬ人となった御霊に祈りを捧げる僧侶。

平成24年1月27日、福島県立双葉高等学校の皆さんが研修で松山市にある、秋山兄弟生誕地を訪れて時の写真です。

秋山兄弟生誕地に来られてから10年が経過、皆さん方は卒業され立派な社会人として活躍されていると思います。

皆さんの今後益々のご健勝とご活躍を祈念致しております。

後ろの建物が秋山好古・眞之が生誕した生家(復元) です。

 

 

3月8日(火曜日)のラジオ深夜便を聞いておりましたら、3・11、東日本大震災の時、ランドセルを作り贈られた会津若松にあるランドセル製造会社の女性社長、安東さんの話が流れていた。

放送は途中から聞いたので全体の話内容は把握しておりません。

「購入したランドセルが津波で流されてしまった」。安東さんは、平成23年3月11日、の東北大震災直後、こんな相談が被災地から寄せられたのを覚えていたそうです。
入学式まで時間がない。急いで同じ商品を作り直し、避難所の子どもたちに送り届けた。

4月の入学式に間に合った。

その内の一人から使われたランドセルが送られてきたそうです。

それは、

ランドセルは私のお気に入りのものと同じでした。
ありがとうございました。6年間大切に使わせていただき無事卒業できました。

贈られたランドセルを背負って入学し6年間大切に使った子供からであった。

無事卒業できましたありがとうございましたと・・大切に使われたランドセルが箱に入れられてお礼の手紙を添えて会津若松の会社に届いたそうです。これを見た安東社長は、涙が溢れ涙が止まらなかったそうです。
社員全員に此の事を伝えると社員も感激し涙したそうです。

いま会社では、大切に保管保存しそして展示しているそうです。

ランドセルは私のお気に入りのものと同じでありがとうございました。6年間大事に使わせて頂きました。会津若松に新工場を建設した時の第一号のランドセルだったそうです。

会社では今も大切に保管展示されているそうです。

震災で職を失い、東京電力福島第一原発の事故で風評被害に苦しむ人がいることも知った。「何か役に立てれば」とすぐに福島県に連絡し、紹介されたのが会津若松の工業団地だった。

会津若松に新工場を建設した理由は、福島県庁の方が親切に勧めて頂いたことと、歴史のある町で観光地であった。

会津若松の方は、親切で人と人とのつながりを大切に、年下の者は先輩を敬い年上の者は後輩を労る精神が素晴らしいこんな事項も考慮に入れて会津若松に新工場造ったそうです。

此の精神は、松平容保の信条が今も受け継がれているのでは??

社員たちは、自分たちで会社の規則をルールブックとして作り毎朝始業前に読み上げ仕事に付くそうです。
内容を3つ挙げますと
「先輩の言葉は真剣に聞きましょう」
「常に言葉は、ハイ」を使いましょう」
「人が嫌がることは率先して行いましょう」等々が紹介された。

会津若松のランドセル製造会社の社員さんたちはウンを使わず返す言葉はハイだそうです。

その拠点となる福島へ、いずれは本社を移すつもりの安東さん。「多くの人に助けられ、ここに定着できた。子どもたちが笑顔になれるランドセルを作り、福島に恩返ししていきたい」という。そして返す言葉は・・ハイです。

安東社長さんの言葉の中に、会津は歴史のある町でここに工場を設立する予定はなかったが、福島県庁の職員さんの親切な勧めと、被災地福島県の雇用促進になればと思い福島県会津若松に建設したそうです。会津若松の人は、人情が深く教育熱心で責任感の強い人達だなと肌で感じ会津に来ました。

社員は若く製品開発にも積極的で、社員が率先して社内規則ハンドブックを作成しそれを忠実に守り日々の操業に励んでいます。

特に、社内規則の中でも、返事は「ハイ」を使いましょうが徹底しているそうです。

毎日操業前には全員が、社訓を読み上げ仕事場に着くそうです。

藩政時代から会津若松には「会津家訓15ヵ条」がありましたがそれを習っての社内規則ハンドブックなのでしょうか?

ラジオ深夜便で話された安東社長さんも、うなずく言葉には一切「ウン」は使われず、すべて「ハイ」の言葉でした。

ウンを使わない言葉は聞いていても気持ちが清々しく聞くことが出来た。

今年も、3・11、東日本大震災の日が来た。

平成23年3月11日14時46分に発生した。

東日本大震災と呼ばれる日本における福島原子力発電所を巻き込んだ戦後最悪の自然災害で震度7とされている。

阪神・淡路大震災は、平成7年1月17日5時46分に震度7の大都会で発生した激震であった。

新潟県中越地震、平成16年10月23日17時56分発生した当時観測史上二番目の震度最大7を記録した大地震であった。

新潟県魚沼市堀之内、天満神社にある復興支援をして頂いたお礼の幟。

平成23年6月10日、私が現地で撮影しました。

新潟県魚沼市堀之内、天満神社にある「激震」中越地震 復興記念塔、

平成23年6月10日、私が現地で撮影しました。

平成23年3月11日14時46分に発生し亡くなられた方たちへの黙祷。

被災地の祈りの灯り・・亡き人を偲んで。

熊本地震は、平成28年4月14日21時26分、熊本県と大分県で相次いで発生した地震で、最も大きい震度7を観測する地震が4月14日夜(前記時刻)および4月16日未明に発生したほか、最大震度が6強の地震が2回、6弱の地震が3回発生している。日本国内の震度7が2回観測された激震ちであった。

平成30年7月豪雨災害は、岡山県倉敷市にとって未曾有の大災害となった

次に巨大地震が発生するだろうと言われている南海地震の想定震源地域。

さてここからが私の今回の呟きです。

”三宅民夫さん“返す言葉は「ウン」じゃなく「ハイ」でしょう。

月曜日から金曜日、NHK朝のラジオ情報番組、第2部(6時40分 ~ 8時28分)が「三宅民夫のマイあさ!」が流れます。

ゲストに色んな分野で活躍している方々がコメンテーターとして参考になるいい内容の言葉が流れます。

それに引きかえ、三宅民夫は返す言葉が殆ど「ウン」でひどいときは「ダブルで・ウンウン」です。

聞いていて不愉快になりラジオの電源は切ります。

三宅民夫さんは元NHKのアナウンサーで言葉遣いの専門家、「ウン」は「はい・ええ」よりも丁寧さの低い言葉であるにもかかわらず平気で「ウン」を使う。

ラジオの電源を入れると、元NHKのアナウンサー、三宅民夫さんの番組が始まり、大切な時間に貴重な話題を聞くことはありがたい気持ちですが、三宅さんの「ウン」の二文字使うのはあまり気分のいいものではないので、「ウン」を使うのは改めて頂けませんかとお願いのお手紙を差し上げましたが改善の余地は全くなく今も平気で「ウン」の連発です。

「ウン」を使わず素晴らしい会話をされる方がおられます。

気持ちよく聞ける方々は、女優の市毛良枝さん・俳優の宇梶剛士さん・歌手の薬師丸ひろ子さん・スポーツ評論家の小林信也さん、NHKアナウンサーの内山俊哉さん・・皆さん絶対に「ウン」は使いません・・聞いていて気持ちがよく清々しい。

特に、市毛良枝さんは、お若い時、ある先輩から「これからあなたも色んなところに出ていき会話をする機会が多くなると思いますが、返事は必ず「ハイ」を使い「ウン」は使わないようにしなさいと言葉遣いの指導を受けてそうです。

今朝(11日午前6時過ぎ)「三宅民夫のマイあさ!」を聞いていました。震災当時8歳であった少女は現在19歳に成長され大学生になられ、教師を目指し学業に励んでいるそうです。教師になったら遭遇した当時の事柄を体験した事実を教育に生かして行きたいと綺麗な言葉で語られたが、その会話の中で、三宅民夫の返す言葉は、相変わらず「ウン」を平気で使うその気持ちが理解できない。

これは、三宅さんの家庭で両親が言葉の躾をしなかったのか?NHKのアナウンサーとして入社当時言葉遣いの研修が行われなかったのでしょうか??

三宅民夫さんに「喝」です。

ラジオの向こうには、何千万人の皆さんが視聴していることを心して放送して下さい。

アナウンサーは言葉の表現者のプロ、言葉を大切にして下さい。

ちなみに広辞苑で「ウン」を検索してみると「はい・ええ」よりぞんざいな言い方とあります。

アナウンサーは言葉遣いの専門家気を付けて発言して下さい。

平成15年3月26日(水)・デイリースポーツP7「マイクからの風景・フリーアナウンサー島村俊治さんが次のようなことを書いていました。

「選抜高校野球開会式で入場行進の司会者:我妻 雄紀君のアナに感銘・ 発音や発声
が不明確でタレント化した現役アナウンサー。

 声の出し方、心の伝え方其れがプロの技だろうNHKには切磋琢磨が欠けている。」

 また、あるアナウンサー曰く、「うん」と「えー」・「あのー」は発音せず、飲み込む事、此れを心掛けて放送すると聞き手については凄く聞きやすい・・・と言っていますがその通りです。

私は、難しい要求はしない、せめて「うん」やめて欲しい。

 アナウンサー同士の言葉のやり取り・アナウンサーとゲストの方との言葉のやり取りの中で「うん」を良く使うまったくうんざりです。

 NHKには、アナウンサーを指導・監督・注意をする指導者はいないのでしょうか?

 聞く所によると、NHKでは職員同士で朝の挨拶も出来ない方がいると聞きましたが情けないものですね。

「放送審議会」等で、アナンサーの言葉使いに付いての審議はないのでしょうか?

私も「ウン」は大嫌いです。小さい時、祖母から返事はウンじゃなくハイでしょとよく叱られました。

 

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