EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

えひめ国体平成29年9月30日から開催

2016年06月29日 | 伊予松山歴史散策


えひめ国体は、昭和28年に四国4県で共同開催して以来、64年ぶり、初の単独開催となるもので、愛媛県民総参加のもと、地域をあげて選手や観客をおもてなしするなど、全国から訪れる人々との交流を通した地域の活性化を期待して開催されます。
本県が昔から大切に受け継いできた、四国遍路88ヶ所巡礼文化によって培われた「お接待」の心で、来県される皆さまをおもてなしします。
会期は、平成29年9月30日(土)から10月10日(火)
スローガン:「君は風 いしづちを駆け 瀬戸に舞え」
参加するすべての人々が、愛媛を駆け抜ける風のように舞い輝く大会となることをイメージし、愛媛らしく俳句仕立てになっております。
えひめ国体マスコットはみきゃんです。
何にでも前向きで、スポーツが大好きなみきゃんが、えひめ国体を一緒に盛り上げます。
松山市には、松山観光コンベンション協会所属の「松山ボランティアガイドの会」と言う組織があり、松山城・道後温泉等観光地をボランティアでガイドをしております。ガイド全員が、第72回えひめ国体の広報の一環として画像のベストを着用してPR活動をしております。
是非えひめ国体松山にお越し下さい。




第72回国民体育大会愛媛大会マスコットバッチ。
大会愛称は「愛顔(えがお)つなぐえひめ国体」、スローガンは「君は風 いしづちを駆け 瀬戸に舞え」。大会マスコットはみきゃんです。
スローガンにある「いしづち」は西日本最高峰・石鎚山、1982mの事です。


松山観光コンベンション協会所属の「松山ボランティアガイドの会」のメンバーはベストを着用し広報活動の一環として寄与しております。
画像はベストの背中に絵画がれている絵文字です。

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日本100名城指定第80番「湯築城跡」に咲く蓮の花

2016年06月27日 | 伊予松山歴史散策


湯築城跡(道後公園)入口に表札で、天正15年(1587)、福島正則が湯築城最後の城主でありました。
国指定史跡は、平成14年9月20日、に指定され、平成18年4月6日、日本100名城(80番)に選定されました。


先日、地元TVニュースで、道後公園の内濠に蓮が綺麗な花を咲かせています。・・と報道され
今年もその写真を撮りに行ってみました。
此の所松山は、前線の停滞で雨天の日々が続いておりましたが、昨日久しぶりの晴天であったので行ってみました。
蓮の花は、湯築城跡の内濠に生息しており沢山の蓮の花が咲いていました。
内濠は、カワセミが良く来る所で超望遠レンズを固定して撮影しているカメラマンが数名居り、気を使いながらシャッターを押しました。
湯築城は、14世紀から16世紀後半「南北朝時代から安土桃山時代」にかけて、約250年間に渡り伊予の守護であった河野氏の居城として存続した城で、中世の城跡が市街地にあるものは、殆ど外堀は埋め立てられ、土塁は取り壊され宅地として開発されておりますが、この湯築城は戦国時代のタイムカプセルの様に現存している事が重要な史跡で日本でも此処だけでそのため国指定史跡いなっています。
発掘調査は昭和63年から平成10年に掛けて行われ、特に県立道後動物園があった所に限り学術的な発掘調査がされその成果に基づいて文化財を生かした整備を行い、平成14年4月12日に武家屋敷2棟・土塁・道路・排水等の立体復元や平面復元が完成し一般に公開開始しまた、平成14年9月に国指定史跡「湯築城跡」に指定されました。
広さは、外濠を含む南北350m・東西295m・面積8,6ha(8町6反)で東京ドーム1,7倍の広さがあり丘陵の高さは31mで、中世の城としては珍しい平山城です。
攻めるには攻めやすく、防御するには大変困難な城でありあす。
平成18年、日本100名城(80番)に選定されました。
愛媛県には、日本100名城指定の城が、、今治城(79番)・湯築城(80番)・松山城(81番)・大洲城(82番)・宇和島城(83番)・と五つの城が指定を受けており、全国でも愛媛県だけで不思議です。


奥に見えるビル街は、道後温泉ホテル街、手前が湯築城跡。
外濠は都市計画事業により、道路・路面電車の敷設により埋め立てられた規模が縮小されました。


日本100名城第80番指定の湯築城模型で、資料館にあります。


湯築城跡南面で、平成14年11月27日、マンション7Fに上げて頂き撮影しました。


湯築城跡の内濠で、沢山の蓮が自生しています。
カワセミがやって来る所で多くのカメラマンが撮影に来ます。


戦前画像にある東屋付近に秋山好古の騎馬像が建立されておりました。










湯築城跡(道後公園)は愛媛県が管理しており、年に数回、県職員や、各種団体が奉仕活動として清掃活動をしております。


先程の画像「東屋」付近に画像の様な格好で秋山好古の騎馬像が建立しており、秋山眞之の立像もありましたが、昭和18年大東亜戦争時に金属供出として潰されました。

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ジャカランダの花「松山市御幸町一丁目」満開

2016年06月18日 | 伊予松山歴史散策


松山市御幸一丁目の写経道場「天龍山・空無我堂」で青紫色の花が鮮やかに咲いている。本日(6月18日)撮影に行って来た。
写真を撮っていると天龍山・空無我堂の堂主・村上空山先生が道場から出て来られ暫しジャカランダを植栽された経緯をお伺いしました。
ジャカランダは、中南米原が原産で「熱帯のサクラ」と呼ばれているそうです。
堂主の村上空山先生によると、世界三大花木の一つで、平成15年にブラジルを訪れた際、散った花が紫のじゅうたんのように地面を覆った景色の美しさにひかれ、九州宮崎県の造園者にお願いして苗を取り寄せた。
熱帯性の植物だから日本で育てるには越冬が難しいので2年ほどビニールハウスで育苗しながら耐寒性を養い露地に出す様指導を受けたそうです。
3年目に現在の所に7本植栽して15年になり今年は今までで一番の開花ですと言われた。
植栽されている場所は、愛媛県護国神社前の道を西に約500m程の大川沿いに植えられています。村上空山先生は、7本のジャカランダを元に苗木を増やして松山の名所にしたいと思っていますと語られた。
青紫色の花が鮮やかジャカランダは今が満開で見頃です。


現地に行ってみると道行くご婦人が鑑賞していました。


手前の方が、天龍山・空(くう)無我堂(むがどう) 堂主、浄土宗少僧都・村上空山先生です。
写真撮影をしておりますと道場から出て来られ偶然お会いしお話を伺いました。


今日の松山は快晴で青空に紫の花が映えて綺麗でした。


ジャラカンダの花言葉は、名誉・栄光で、
日本では宮崎県日南市、熱海市がジャラカンダの名所として有名だそうです。
















大川を挟んで南側には市道があり、遍路道になっている。
88ヶ所第51番霊場石手寺から52番霊場太山寺に歩き遍路として巡礼される方にと村上空山先生はベンチを設けておられた。ジャカランダの花を見て疲れた身体を癒しここでお弁当を食べられるお遍路さんもおいでになるそうです。
ベンチは埃一つなく綺麗に清掃されていました。



ジャカランダの下を流れている川は「大川」で上流に一草庵があり、種田山頭火が詠んだ句があります。
濁れる水のながれつつ澄む・・この句は、昭和15年9月8日大川を見て作ったそうです。

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内田與作さんの血筋を受け継ぐ方が長野県松本市から秋山兄弟生誕地に来訪

2016年06月17日 | 伊予松山歴史散策


昨日(6月16日)内田與作さんの血筋を受け継ぐ方が長野県松本市から秋山兄弟生誕地にお越しになられました。
内田與作さんは、長野県安曇野市豊科で出生され日清戦争で秋山好古率いる騎兵第一連隊の隊員として従軍された方です。
馬術・銃鎗の技を修め戦地に赴き、斥候の任務に服し蓋平の戦いに於いて勇ましく戦い、二道溝栄口に敵を迎え撃つ激戦の末名誉な戦死をされた騎兵隊員さんです。
内田騎兵隊員さんの実父であられます茂市さんは息子さんの名誉な戦死をした事を内田家の後世に伝えるため秋山好古に揮毫を依頼し墓を建立されました。
揮毫したのは「内田與作墓」でした。
現在、好古揮毫の石碑は全国に52基発見されていますが、名誉な戦死をされた騎兵隊員に対して石塔に揮毫したのは初めてであり、3番目に古い石碑(石塔)です。
東京都世田谷区に秋山好古が建立した「日清戦争で戦死をした騎兵隊員の哀悼碑」の裏面に騎兵隊員15名の氏名を好古は自筆で刻印していますが内田與作さんはその内の一人であります。
その石塔は長野県安曇野市豊科にあり、私は5月31日、長野県安曇野市豊科に取材に行って来ました。その時ご案内して頂いた内田與作さんの血筋を受け継ぐ松本市在住の荻原さんが秋山兄弟生誕地にお越しになられました。


松山市歩行町にある秋山兄弟生誕地入り口にて。


ご先祖の内田與作さんの石塔の写真を入れて撮らせて頂きました。
秋山兄弟生誕地では全国に発見された好古が揮毫した石碑の写真展示をしております。


6月16日は松山雨天でした。秋山好古騎馬像前に立たれた。


秋山好古騎馬像の前で。




秋山両将遺邸の石碑に書かれている撰書を熱心に読まれておられました。


秋山兄弟生誕地にあるDVD映像を視聴されました。


宇都宮良治、秋山兄弟生誕地運営委員長の説明を真剣に聞かれておられました。
荻原さん、松山は初めてお越しになられこの後松山城を見学されました。
松本市には国宝松本城がありその天守には及びませんが坂東三津五郎さんがお好きだった松山城を是非見て帰りますと言われ私がご案内いたしました。
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松山市・浄瑠璃町の菖蒲園

2016年06月16日 | 伊予松山歴史散策


四国88ケ所開祖1200年を迎えた一昨年は、全国から多くの巡拝者が訪れました。今年は逆打ちで巡拝すると御利益が倍増するそうで大勢の方々が巡礼されています。
衛門三郎が『逆打ち』をした年が閏年であったことから、閏年に『逆打ち』をすると修行中の弘法大師に会えると今でも信じられています。
また、衛門三郎が『逆打ち』をし弘法大師に出会うことができたのが火の丙の申年と言われています。2016年は60年に一度の火の丙の申年です
第46番霊場「浄瑠璃寺」の南方約800mの山麓に花菖蒲園があり、久万高原町にある第45番札所海岸山・岩屋寺から国道33号線を下り、第46番札所医王山・浄瑠璃寺に巡礼する距離約35km、徒歩8時間弱掛かります。
国道33号線塩ヶ森(松山市浄瑠璃町)から46番札所の遍路道が整備されていて、歩き遍路さんにとっては三坂峠を越えて長い道のりを唯ひたすら46番札所を目指して歩く、塩ヶ森からは下りの遍路道、2km位歩くと綺麗な花菖蒲園が見えて来ます。
16年前に休耕田を地主から借り受けて町内会の行事の一環として40名が「花菖蒲を愛する会」を設立して約12,00株の花菖蒲園を育成管理しておられます。(一昨日行ってみると花菖蒲が少なくなっていました。如何してか年毎に少なくなっています。)
疲れた身体も花菖蒲を見ると癒されると思い管理する町内会の皆さんも、この事も考慮して花菖蒲園を造ったのだと感じました。休憩するテントと椅子も用意されており歩き遍路さんには打って付けの所であります。
一昨日(6月14日)写真撮影に行ってみたら市内から来た女性が花菖蒲をバックに写真を撮っていました。


松山市浄瑠璃町の休耕田を管理する関係者と地元住民たちが16年前に「花菖蒲園を愛する会」を設立して12、000株を管理育成しているその掲示板。


地元住民が管理育成する菖蒲、今が見頃。今日(14日)鑑賞に行って来ました。
松山市内からも鑑賞に来ていました。何故か年毎に菖蒲が少なくなっています。






此れからは花菖蒲を接写で撮ってみました。








休憩するテントと椅子も用意されており歩き遍路さんには打って付けの所であり身も心も一息つける所です。


近くには画像の様な表示板があります。


第46番霊場「浄瑠璃寺」です。
花菖蒲鑑賞の帰り、第46番霊場「浄瑠璃寺」をお参りして帰りました。


岡山県倉敷市から来られた方で本堂を参拝されておられました。


此方の皆さんは岐阜県郡上八幡から巡礼に来られた方々でした。


画像は平成26年6月5日撮影です。
福井県から歩き遍路として一人で巡拝されていた女性で、お顔を写さない条件で撮らせて頂きました。
女性曰く、疲れた身体に一休みをして英気を貰う所です。・・これもお接待の心でしょうねといわれ第46番霊場「浄瑠璃寺」に向かわれました。


何とも表現のしようのない後ろ姿です。・・お気を付けて巡礼して下さいとお声を掛けてお送りしました。
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