EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

BSフジ・ローカル単線でめぐる旬旅#12予讃線「伊予松山城でロケ」

2016年08月27日 | 伊予松山歴史散策

BSフジ・ロ―カル単線でめぐる旬旅#12予讃線の旅をされる、小林綾子さん。

今日「BSフジ・ロ―カル単線でめぐる旬旅#12予讃線」の番組製作の一部映像として松山城での撮影がありました。
番組内容は、その季節ならではの風景や幸等旬を求める「旬旅」で今回は香川県の高松から愛媛県宇和島までを結ぶ予讃線の旅、沿線の旬の料理や宿・観光スポット等を紹介。2時間まるごと予讃線の旅の魅力を放送するその一部として今日松山城での撮影がありました。
旅する人は、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』を演じられた小林綾子さんで、案内は松山観光コンベンション協会所属「松山観光ボランティアの会、鈴木さんが案内した。
放映は、平成28年9月11日(日)17時~18時55分、是非見て下さい。


案内をした、松山観光コンベンション協会所属「松山観光ボランティアの会」鈴木さん。


伊予松山城本丸本壇内での小林綾子さんと撮影隊。・・大天守から撮影。

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感動した2016・リオデジャネイロ5輪選手団帰国

2016年08月25日 | 伊予松山歴史散策

勢揃いしたメダリスト、座席は前列から金・銀・銅で着席。
此の後金メダリストから挨拶が行われた。


50km競歩銅メダル荒井選手、カナダの選手と接触し一時は失格扱いをされたその時の様子を説明。


日本が獲得した金・銀・銅メダル。


リオパラリンピック日本選手の活躍を祈念します。


リオ5輪、小池都知事がオリンピック旗を持ち帰り日本選手団も凱旋帰国した。
日本選手の活躍には大変感動し、各選手の競技を見て涙する場面も多くあり、ある時は結果を見るのが怖くTVを消して、録画にして後で結果を見たりした。いい結果であれば度々再生を繰り返し、肝心な場面はコマ送りで心行くまで見させて頂いた。
本当に感動を有り難う。また東京での大活躍を期待しております。
昨日、NHKが、金・銀・銅の各メダルを獲得した選手毎が挨拶をする様子を放映した。

その放映を見た私の感想を一言、呟いてみた。
競技者として世界1位・2位・3位であるが、挨拶の言葉には選手各位それぞれ得手不得手があるのは仕方がないが、せめて挨拶をする前には正しい礼をしてから挨拶をして欲しかった。数名の選手は礼をして挨拶をし、礼をして挨拶を終えた選手も居たが殆どの選手は正しい礼は出来ていなかったのが残念であった。
特に、柔道は礼に始まり礼に終わる ( 武道の基本)と言われ指導されているはずなのに・と思いながら映像を見ていた。・・それとも緊張のあまり礼が出来なかったのか??(一部の選手については出来ていたが)、世界で唯一人の金・銀・銅メダリスト選手として思いながら見た私の見方がいけないのか!!日本人は礼儀正しい国民と言われているのにと思いながら映像を見ていた。勝てばいいのか?結果良ければ全てよしか??
もう一つ、女子選手の長い髪あれは目障り、何とかしてほしい、日頃は良いとしても公式の場ではきっちりとした髪形で出て欲しいと感じた・・私は。


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感動した2016・リオデジャネイロ5輪

2016年08月23日 | 伊予松山歴史散策

女子バトミントン女子ダブルスで奇跡の逆転優勝した高松礼華選手と松友美佐紀選手の「高松ペア―」。おめでとう、感動しました。







リオ5輪は、あっという間に閉会した。
日本選手は大活躍、水泳・柔道・体操・卓球・陸上・レスリング・シンクロナイズド・カヌースラローム、その他の競技で活躍しその演技、競技を見て感動し、ある時には涙して見た。
今回の5輪の日本選手は特に精神力と体力(肉体)の進化で奇跡の逆転勝利が沢山あった。
その中で私が一番感動したのは、女子バトミントン女子ダブルスで驚異の逆転優勝した、高松礼華選手と松友美佐紀選手の「高松ペア―」で精神力がなければ逆転はなかったであろう。
相手のデンマーク組は、長身でそのうえ言動・行動が過激でTV観戦していて腹が立った。
一番嫌な行為を見たのは、デンマークの前衛の選手が、シャトルの交換の要求を主審に申し出た時、松友選手が主審に言葉を言おうとした、それを制した。その時の姿が「お黙り(うるさいぞ)」ときつい表現であった。
また主審に異議の申し立てをする姿も厳しい姿であった。そんなこんなで少し日本組は圧倒されたのか?しかし高松組は動揺せず、女子バドミントン史に残る奇跡の大逆転の金メダルを獲得した。
他のメダリストの選手、残念ながらメダルを取る事は出来なかった選手の皆さんご苦労様・お疲れ様でした。帰国されて暫く身体を癒しそして東京5輪に向けて御活躍下さい。

呟き1:TV観戦ではメダルを取れなかった選手に付いての紹介はないが、特に金メダルを獲得した選手の紹介が放映される。幼少時から両親が指導し、その後指導者の下厳しい練習に耐え抜き代表選手になり、その結果としてメダリストとなる。強い忍耐力と努力、指導者の努力、家族の支援がないと出来ない事。・・凄いなと何時も思う。

呟き2:女子陸上5000m予選で、アメリカの選手とニュージーランドの選手が走行中接触して転倒、アメリカの選手は足首を負傷倒れ込んだ。ニュージーランドの選手は走るのを止めてアメリカの選手を抱き起し、私たちは走りに来たのだから一緒に走りましょうと促し足を引きずりながらゴールした。ゴール後は車いすで退場した。
陸上競技委員会は、この行為を認め二人の選手を特別扱いとして決勝戦に出場を認めた。決勝にはアメリカの選手は怪我が酷く出場出来なく、ニュージーランドの選手がアメリカの選手の気持ちも抱き完走した。
アッパレ委員会・・これぞオリンピック精神・・素晴らしい気持ちのいい光景であった。










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秋山好古に送られて来た招待状

2016年08月01日 | 伊予松山歴史散策


秋山好古と多美さん(奥方)還暦祝い、大正8年。

伊予松山藩は関ヶ原の戦いで武勲を上げた加藤嘉明に対し徳川家康は、伊予国を二分し20万石を加藤嘉明に与え伊予松山藩が誕生、半分の20万石を藤堂高虎に与え、今治藩が誕生した。
その後伊予松山、二代目藩主は、蒲生忠知に24万石、三代目藩主には徳川家康の甥が伊勢国桑名藩から15万石で入藩し親藩となり明治維新を迎える。
親藩となった伊予松山藩は苦難の始まりとなる。
江戸後期幕府の命を受け長州征伐に侵攻したため明治新政府から朝敵とされ、制裁金15万両を課せられ伊予松山藩の民は苦悩の時代となる。
民達は、何処からも支援は無く自分の身は自分が努力して切り開いて行くしか方法は無かった。その一人に秋山信三郎がいた。
信三郎は、安政6年1月7日、伊予松山藩徒歩目付の家系に三男として生誕した。
信三郎は、16歳の時福沢諭吉の学問のすすめを読みこれからの近代国家を構築していくには青少年の教育が必置であると悟り、17歳の時に父親、久敬の許しをえて教師を目指して大坂高等師範学校に入学、この時に好古と改名する。
卒業後は、名古屋師範学校付属小学校の教師として赴任、赴任した学校には伊予松山藩の先輩の和久正辰教務官が在籍、そして名古屋鎮台に山本忠昭武官がいた。
山本武官も伊予松山の先輩であった。この二人の先輩の強い勧めで教師を断念し軍人の世界に身を投じる事となる。時は、明治10年西南戦争の年に陸軍士官学校に入学、寺内正毅の勧めで騎兵を専攻、卒業後は日本の騎兵の育成に努めた。軍人時代は親藩出身者であるが故に昇進が遅れた。好古は人を押しのけ、人を踏み台にして昇進しようなど考えもしない男であったが大将まで昇り、大正12年には元帥に推薦されるが此れを辞退、大元帥は好古が元帥を辞退した事に大変驚かれ、特旨として官位従二位を授与された。
大正13年3月、郷里の伊予松山から熱望されて北豫中学校の校長として昭和5年3月まで故郷の青少年の教育に尽力した。16歳の時、福沢諭吉の学問のすすめを読み教師を志したが最後も教師として人生を送った。座右の銘は「独立自尊」である。昭和5年11月4日、東京で72歳の人の生を閉じた。

画像は、好古自ら進んで入った組織では無かった軍人の世界であったが与えられた職を忠実に果たした。その勲を認められて宮内庁から贈られて来た招待状である。


明治25年10月20日、陸軍騎兵大尉時代の招待状。
招待状が一部焼失しているのは、昭和20年7月26日、松山大空襲の際B29大型爆撃機による焼夷弾が投下されその時秋山兄弟生誕地も焼失した。
サイパン、イスレイ飛行場所属の米陸軍第73爆撃団、(B-29は、スーパー・フォートレス、空飛ぶ要塞と呼ばれた)による松山攻撃は、5月4日に始まり、10日、14日、そして運命の26日にB-29、128機で松山を爆撃、一夜にして街は焼け野原となった。
招待状は運よく焼失を免れた。
現在招待状は愛媛県生涯学習センターに寄贈され所蔵されている。



明治27年2月21日付の招待状。
好古は、明治10年5月4日、陸軍士官学校に入学。明治25年11月1日、陸軍騎兵少佐に任官。


明治33年5月3日付の招待状。
明治30年10月11日付で陸軍騎兵大佐に任官。


明治36年12月23日付の招待状。
明治35年6月21日付で陸軍騎兵少将に任官、好古44歳の時。


明治44年12月22日付の招待状。
明治42年8月1日付で陸軍騎兵中将に任官、好古51歳の時。


大正5年4月13日付の招待状。
大正4年2月15日付で陸軍近衛師団長に任官、好古57歳の時。
同年11月16日陸軍騎兵大将に昇進、58歳の時。
大正13年4月陸軍大将の現役で北豫中学校校長就任。
大正14年4月1日付で後備役、昭和4年4月1日、退役、昭和5年3月、北豫中学校校長辞任して東京に帰る。
11月4日、陸軍軍医学校にて没 72歳であった。
大正3年4月から昭和5年3月まで、松山の自宅で一人で生活、奥さんと子供達は東京に残して単身赴任であった。そして北豫中学校校長時代は一日の休暇も取らず校長職を全うした凄い校長であった。軍人時代の生活は長かったが、中身は教育者、大坂高等師範学校で身に着け、幼少時代は伊予松山藩校「明教館」で養った武士の教育を身に付けた教育者であった。
北豫中学校校長時代よく教師達が軍人時代の話をして欲しいと要求があったが一切話さなかった。私は軍人ではなく今は教育者である。此れからも軍人時代の話をするつもりはない・・と言ったそうだ。


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