EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

宝厳寺・一遍上人堂

2016年05月22日 | 伊予松山歴史散策
昨日(5月21日)、横浜から観光に来られた4名のご婦人をご案内して宝厳寺にお連れした。
宝厳寺さんにお願いして一遍上人堂内を拝観させて頂いた。
平成25年8月10日、午後2時過ぎに火災で本堂、庫裏が全焼し、国指定の重要文化財、「木造一遍上人立像」も焼失した。
時宗の開祖一遍上人の誕生の地、宝厳寺の本堂再建が完成し5月14日、落慶法要が行われた。
再建に際し、新たに一遍上人堂が創建された。
一遍上人堂には、富山県高岡市、竹中銅器で制作された高さ113㎝の復元された上人立像が安置されていた。
その他、4台の展示ケースが左右に置かれ、ここに精巧に模造された「一遍聖絵」の中の重要な場面が展示されている。
画像は、一遍上人堂内部である。


時宗の開祖一遍上人の誕生の地、宝厳寺の本堂再建が完成し5月14日、落慶法要が行われ再建に際し、新たに一遍上人堂が創建された。


新たに創建された一遍上人堂。


一遍上人堂扁額で、揮毫は書家、山本良秋氏、幅1m35cm・縦50cm・厚み3,6cmの欅で創られている。


一遍上人堂の奥に安置されている復元された一遍上人立像、制作は富山県高岡市、竹中銅器で高さ113㎝ある。


復元された一遍上人立像。


一遍上人立像の前に4台の展示ケースが置かれ、ここに精巧に模造された「一遍聖絵」の中の重要な場面が展示されている。


展示物の一部。


「一遍聖絵」の中の重要な場面が展示されている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宝厳寺落慶法要

2016年05月18日 | 伊予松山歴史散策

再建された宝厳寺本堂。

時宗の開祖一遍上人の誕生の地、宝厳寺の本堂再建が完成し5月14日、落慶法要が行われた。
平成25年8月10日、午後2時過ぎに火災で本堂、庫裏が全焼し、国指定の重要文化財、「木造一遍上人立像」も焼失した。
焼失した本堂などは平成25年12月から再建工事が進められ、総事業費約2億3千万円で本堂と庫裏が再建され、新たに一遍上人堂が建設された。
焼けた「木造一遍上人立像」もブロンズで復元された。 
再建された本堂は幅約16メートル、奥行き約12メートル、高さは約10メートル。
よろい姿の武者が座した姿を彷彿(ほうふつ)とさせるような作りで、県産の桧材を使った荘厳な土間が広がる。
本尊の阿弥陀如来3体は松山市内の仏師、南雲氏が製作した。
 一遍上人堂は幅・奥行き各約5・8メートル、高さ約6メートルで、愛媛銀行(松山市)が創業100周年記念として寄進した。
本堂内にブロンズの上人像を安置したほか、一遍上人の半生を描いた国宝「一遍上人絵伝」のレプリカや軌跡を記したパネルが展示されている。
画像は、完成した宝厳寺本堂、庫裏、新たに創建された一遍上人堂で、5月18日、撮影。


新たに創建された「一遍上人堂」

宝厳寺(ほうごんじ)は愛媛県松山市道後湯月町にある時宗の寺院で、時宗開祖一遍の生誕地。山号は豊国山。
寺号は詳しくは豊国山遍照院宝厳寺と称する。愛媛県指定史跡である。
寺伝では天智天皇4年(665年)、越智守興が誓願院として創建したという。
平安時代中期、天台宗寺院となる。往時は松ヶ枝町一帯に12の支院があったという。
正応5年(1292年)、寺は時宗の祖・一遍の弟にあたる仙阿によって再興され、時宗に改宗し、時宗十二派のうちの奥谷派本山となった。一遍は延応元年(1239年)、この寺の一角で誕生したとされている。一遍は、伊予の守護、河野通信の第3子で、河野通広として誕生、その生涯は国宝『一遍聖絵』(一遍上人絵伝)があますところなく伝えられている。
時宗の総本山は、神奈川県藤沢市の遊行寺(清浄光寺)である。
寺紋は、河野氏の家紋と同じ、折敷に三文字である。



宝厳寺境内で、右より「本堂・一遍上人堂・庫裏」焼失前は、庫裏の場所に本堂があり、本堂の所に庫裏があった。


本堂の右側に新たな石碑が建立された。


宝厳寺参道入り口にある寺号碑。


焼失前の本堂。


平成25年8月10日、午後2時43分に松山城天守最上階から撮影した。
火災発生、本堂、庫裏が全焼した。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする