EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古と三人の副官・全て新潟県出身者 その1 豊邉新作

2020年04月23日 | 伊予松山歴史散策

令和元年5月に雄山閣から出版された書籍「秋山好古と習志野騎兵旅団」が静かに注目されている。

書籍は、252ページで18名の皆さんが執筆されている。その内個別タイトル「秋山好古と新潟の人びと」が注視されている。
秋山好古には優秀な副官が居り、中でも最も信頼した副官3名が居た。
豊邉新作・建川美次・山内保次で越後新潟の人達である。
中でも最も信頼した副官が豊邉新作で、新潟県長岡の出身、騎兵第14連隊初代連隊長である。

豊邉新作の軍歴  

騎兵第14連隊初代連隊長(明治34年6月20日~明治39年2月23日)

文久3年(1863年)越後 長岡藩(新潟県・長岡市)・5月生まれ。

明治13年、     陸軍士官学校入学

明治15年、     陸軍士官学校卒業・騎兵少尉となる

明治16年1月、   東京鎮台騎兵第1大隊付

明治18年、     騎兵中尉、東京鎮台司令

明治19年5月、   教導団騎兵中隊小隊長

明治23年10月、  騎兵大尉 第1大隊付

明治27年      日清戦争従軍

明治37年      初代騎兵第14連隊として日露戦争従軍

明治41年4月、   少将・騎兵実施学校長 騎兵第4旅団長

明治43年、     欧州派遣・中将に昇進

昭和2年2月19日、逝去 享年66歳

騎兵最強の連隊は、騎兵第13連隊・14連隊・15連隊・16連隊で、現在の千葉県習志野にあった。

この連隊平時は、近衛師団に所属するが、有事となると騎兵第1旅団(騎兵第13連隊・14連隊)、第2旅団(騎兵第15連隊・16連隊)に編成され戦場に向かう事になっていた。

現在、騎兵第13連隊跡は、東邦大学習志野キャンパス、騎兵第14連隊跡は、日本大学生産工学部である。
15連隊跡は東邦大学付属東邦中・高等学校で、16連隊跡は更地である。

日露戦争当時豊邉新作は、秋山好古率いる騎兵第1旅団で、騎兵第14連隊長・豊邉支隊長(大佐)として激戦地である黒溝台合戦で、ロシアの主目標だった沈旦保を、最も信頼する豊邉新作に死守させ猛攻をしのいだ勇者である。

豊邉新作の父と、長岡藩上席家老で最後のサムライと言われた「河井継之助秋義」は従弟同士で、豊邉新作は越後人特有の頑固で粘り強い性格であった。

明治41年4月少将・第五代目、騎兵実施学校長に就任している。なお秋山好古は第二代目騎兵実施学校長である。
豊邉新作は、日清戦争終結後、予備役になるのではと思っていたところ、日露戦争が勃発、秋山騎兵第1旅団長から、重要な任務を与えられその職務を全うした。
豊邉は人を押しのけ、踏み台にしてまで昇進しようとは思わない人柄で、秋山旅団長はそんな控えめな人柄と真面目で実直な豊邉新作を最も信頼していた。

秋山好古も人を押しのけ昇進しようなどとは一切行わない性格である。

その証拠に大正12年元帥に推薦されるもこれを辞退、大正天皇は驚かれ特旨として官位・従二位を与えた。・・これは辞退するなと言われたそうだ。

大正13年4月、故郷伊予松山から北豫中学(現・愛媛県立松山北高等学校)の校長就任依頼があり、これを快く受諾し単身で松山に帰り昭和5年3月まで務めた。
松山での生活の場所は、現在の秋山兄弟生誕地である。

この時、東京の人達は「秋山は馬鹿な男よ、元帥を辞退しそれも田舎の中学校の校長になるそうだ」と、馬鹿呼ばわりされたそうだ。

官位従二位を持つ教師は秋山好古只一人で誰も居なかったし、現在も居ない。

現役の陸軍大将が中学校の校長に就任するのも前代未聞初めての出来事であった。

秋山好古は、軍人になる前は教師をしていた。大坂師範学校を卒業生して名古屋師範学校付属小学校の教師であった。

母の教え(躾)で、大きくなったら「世のため・人のため・故郷のためになれる人間になるようにと厳しく躾育てられ母の教えの通り人生を送った。」

さて、少し横道に外れたので本題に帰る。

静岡市に秋山好古と豊邉新作、二人が揮毫した石碑がある。この項の後半に紹介する。

陸上自衛隊習志野駐屯地にある「空挺館」に開示してある歴代の騎兵実施学校長の写真で、豊邉新作は明治41年4月少将・第五代目、騎兵実施学校長に就任している。なお秋山好古は第二代目騎兵実施学校長である。

令和元年5月25日付で刊行された書籍「秋山好古と習志野騎兵旅団」の表紙。

表紙、秋山好古のカラ―仕上げは、昭和11年11月1日、発行された伝記「秋山好古」の表題紙の次のページにある白黒の秋山好古の写真を基に、習志野騎兵旅団史跡保存会会長・三橋正文氏が画家、丸山画伯に依頼して手書きで書き上げた力作で現物は、習志野市大久保商店街資料館に展示と松山市の秋山兄弟生誕地武道場に掲示してある貴重な2枚だけのカラー仕上げの肖像画である。

 

書籍「秋山好古と習志野騎兵旅団」の目次。

平成24年10月31日、秋山兄弟生誕地研究員が研修に行った陸上自衛隊習志野駐屯地・陸上自衛隊第一空挺団に保存されている空挺館(旧 御馬見所)

後列左から三人目は、秋山好古の孫「秋山家宗家第10第、秋山哲兒さん」残念ながら昨年死去された。

明治天皇が観閲された「旧、御馬見所 現、空挺館」二階にある部屋。

空挺館(旧 御馬見所)に掲示されている、西 中尉の雄姿」で

ロスアンゼルスオリンピック馬術で金メダル獲得。

空挺館(旧 御馬見所)の説明版。

陸上自衛隊習志野駐屯地・空挺館前に建立されている、秋山好古揮毫の「軍馬慰霊之碑」がある。秋山好古が北豫中学校長を昭和5年3月辞任し家族が待つ東京に帰り同年11月4日逝去した。享年72歳であった。

軍馬慰霊之碑は、同年10月5日、好古の揮毫でこれが絶筆となる。建立は昭和5年11月である。

 

豊邊新作は、大正6年5月15日付けで騎兵監となる。(騎兵監は、教育総監の隷下にあり騎兵に関する人事・調査・研究を担う役職で豊邊新作は、好古の後任である。)

画像は、秋山好古と新潟の人びとより引用。

秋山好古と豊邉新作、二人で揮毫した石碑で、秋山好古が揮毫して建立されている石碑は、全国に52基あるが、二人が揮毫し建立されている石碑は、静岡市葵区羽鳥、洞慶院にある非常に貴重な珍しい石碑である。

揮毫は、題書「愛馬追悼碑」を豊邉新作が、題額「忠魂」を秋山好古が揮毫

 陸軍大将正三位勲一等功二級  秋山 好古 「忠魂」篆書

    陸軍中将従三位勲二等功三級  豊邊 新作 「愛馬追悼碑」題書

建立年月日: 大正 8年 4月 3日

石碑大きさ: 高さ 1m 65㎝ 横幅 82㎝  厚み 13㎝

 

秋山好古 篆書・豊邊 新作 題書とあるが、篆書(てんしょ)とは、 石碑

などの上部に篆書体で書かれた題字の事である。

秋山好古が篆書体で「忠魂」と揮毫して、豊邊新作が題書として「愛馬追悼碑」

を揮毫しておる。

石碑建立の由来:

これからは、私の独断と偏見事項である。

建立者、三浦金蔵は静岡市の出身で愛馬が死去し、愛馬追悼碑を建立するに当たり、揮毫を直属の上司であった豊邉新作に願い出た。豊邉は、私などが揮毫するのは恐れ多い事、私が秋山好古大将にお願いしてみようと、揮毫を依頼した。

好古は、豊邉君が揮毫してやればと辞退したが、揮毫をするしないの押し問答、それでは二人で揮毫しようとなり、題額「忠魂」を秋山好古が・題書「愛馬追悼碑」を豊邉新作が揮毫したのではないかと私の勝手な推察である。

洞慶院住職の談話:
建立者・三浦金蔵は、静岡市の出身で実家は薬局を営んでいた。
記念碑建立の由来は、住職の代が変わっており不明いとの由、裏面に建立の経緯が刻印してあるが風化激しく判読困難である。

もし判明したら後日連絡しますと約束して頂いた。

 陸軍大将正三位勲一等功二級 秋山 好古が揮毫した「忠魂」

愛馬追悼碑裏面には、石碑建立の経緯が刻印されているが、風化が激しく文字の判読が困難で、洞慶院住職も前住職時代の事で詳細は不明です。後日調べて分かりましたら連絡しますと言って頂いた。

私が、静岡市葵区羽鳥、洞慶院に取材に伺ったのが平成19年5月16日、同年11月に静岡市教育委員会から石碑裏面に書かれている文面が送られて来た。

それが、漢文で書かれた画像の文面である。

 

静岡市教育委員会から石碑裏面に書かれている解釈文面である。

註:画像の解釈文は、新潟市江南区沢海にある北方文化博物館佐藤副館長に翻訳してもらった。

石碑の所在地は、静岡県静岡市葵区鳥羽にある洞慶院の参道に建立されている。

 

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道後公園(湯築城跡)のソメイヨシノ桜(観測標本樹)が満開

2020年04月12日 | 伊予松山歴史散策

                    

道後公園(中世の城跡・湯築城、日本100名城・第80番)にある松山地方気象台が管理する松山地方のソメイヨシノ桜観測標本樹が満開である。

 

今年は、3月25日に松山地方のソメイヨシノ桜が満開したと松山地方気象台から宣言された。

それから16日目、(令和2年4月10日)、に満開となったと報道されたので鑑賞に行って来た。

例年ならば桜の下にシートを敷き弁当持参で大勢の花見客で賑わうのですが今年は、新型コロナウイルスが発生し松山市でも感染が続いており、黄色の立ち入り禁止のテープが張り巡らされ花見禁止であった。

                   

                   

例年ならば、松山地方のソメイヨシノ桜の開花状態を観測に使う標本樹周辺で家族・友人達が花見をする姿がみられるが今年は禁止された。

ただ桜は、何時もの様に綺麗な花を咲かせた。

                   

                              新型コロナウイルスが蔓延してなければ画像の様に花見客で賑やかになる。

                              一昨年の道後公園の風景。

                   

                    華麗に満開となった松山地方気象台が管理する松山地方のソメイヨシノ桜観測標本樹。

                   

松山地方気象台が管理する松山地方のソメイヨシノ桜観測標本樹の直ぐ傍に、中世の城跡「湯築城の内堀」があり、内堀に「カワセミ」が飛来して来る。

そのカワセミを撮るカメラマンたちが超望遠レンズで構えていた。

                   

                                         カワセミを撮るカメラマンたち見る何処かの新入社員。

                   

                                                    カワセミを撮るカメラマンたち。

                   

                                                超望遠レンズでカワセミを撮るカメラマン。

                   

                           思わぬところに飛来したカワセミ、私も思わずシャッターを切った。

                          私のレンズは広角であったのでアップで撮れなかった。残念!!

                   

                     湯築城跡、東グランド、ここも立ち入り禁止のテープが張りめぐり花見禁止であった。

                  

私が幼少時、代母が「巻き寿司・羊羹・りんまん(松山地方の郷土菓子)」を四角の重箱につめてくれて友達と花見に行った。・・遠い昔の事でその母も今はいない。

散る桜 昭和は遠く なりにけり・・

                   

                  日本には各地に色んな品種の桜が開花しこの時期が満開となる一番いい季節である。

                  しかし、ソメイヨシノ桜の樹勢がこの所だんだんと弱ってきているのが心配である。

                  松山地方気象台が管理する松山地方のソメイヨシノ桜観測標本樹元気がなくなってきている。

                        

日本の桜は、染井吉野桜が代表的で圧倒的に多く植栽されているが、原点は、山桜・江戸彼岸桜・大島桜で、この桜から自然受精したり、人工的に造られた。

桜は、日本の「国花」である。

                   

例年であれば画像の様に、各種団体が色んな行事を行い花見客を楽しませるが今年は静かであった。・・と言うより寂しさを感じた。

                   

例年であれば桜の下でお弁当を広げ、花を愛でるが今年はそれが出来なかった。・・花は例年も元気よく咲く事間違いない。

 

それよりも早く新型コロナウイルス終息を願う・・。

 

                   

道後公園東グランドには即席舞台が設営され音楽演奏や演舞が行われ、花見客を楽しませるが、今年は新型コロナウイルスが蔓延全て中止である。

愛媛県も少しずつ陽性患者が発生している。

感染防止に一人一人が気を付けて、感染しない様に、そして自分が感染源にならぬように三密となる場所に行かぬよう心掛け、感染すると医療関係者に大迷惑を掛けるので!!

 

                    

                      湯築城跡山頂広場に画像の大きな記念碑が建立されている。

                     皇太子殿下駐駕所と揮毫されている。

                     明治36年10月16日、大正天皇が皇太子時代に道後温泉に行幸された記念碑である。

                     揮毫者は、正三位 勲一等 男爵 波多野敬直である。

 

                   

                                                          湯築城跡正面にある標示版。

                   

                                                       湯築城跡正面にある標示版。

 

                   

                                                          国史跡・湯築城跡入口。

                                 日本100名城・第80番のスタンプは資料館にある。

                   

                                                   湯築城跡(道後公園)の平面詳細図。

                                                   赤字番号で示している場所は、下記の通り。

      1、松山地方気象台が管理する松山地方のソメイヨシノ桜観測標本樹

      2、カワセミを撮るカメラマン

     3、東グランド

     4、皇太子殿下駐駕所の石碑

     5、国史跡・湯築城跡入口

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第58回愛媛マラソン写真コンテスト入賞・入選作品展はじまる

2020年04月08日 | 伊予松山歴史散策

愛媛マラソンは今年で第58回を迎え、地方のマラソンでは歴史のある大会である。
その大会の様子をプロ・アマのカメラマンが撮影し作品を競う標記のコンテストが毎年開催されている。
私は、第50回大会の平成24年からコンテストに応募し、その間入選が5回で未だ入賞には至らず。
写真を撮るには、シャター・露出・感度・の設定はもとより、被写体の構図で被写体を何処に配置するか、そして使用するレンズ等々を配慮する。入賞作品(金・銀・銅)を撮るのは難しい。

第58回愛媛マラソン写真コンテスト入賞・入選作品展示会場と展示期間は下記の通りである。

展示期間 伊予銀行本店ロビー 3月27日(金)~4月24日(金)

     伊予銀行今治支店  5月 7日(木)~6月 5日(金)

     伊予銀行新居浜支店 6月   8日(月)~7月 3日(金)

     伊予銀行八幡浜支店 7月 6日(月)~7月31日(金)

     伊予銀行宇和島支店 8月 3日(月)~8月28日(金)

入賞・入選作品24点が展示されている。

画像は、4月2日入賞・入選作品を鑑賞に行った時のものである。

伊予銀行本店ロビーで開催中の第58回愛媛マラソン写真コンテスト入賞・入選作品展示です。

伊予銀行本店での展示会は、4月24日(金曜)までで、その後今治支店、5月7日(木曜)~6月5日(金曜)、新居浜支店・八幡浜支店・宇和島支店と巡回展示が行われる。

伊予銀行本店ロビーで開催中の第58回愛媛マラソン写真コンテスト入賞・入選の24作品展示。

第58回愛媛マラソン写真コンテスト、金賞受賞作品。

第58回愛媛マラソン写真コンテスト、銀賞受賞作品。

第58回愛媛マラソン写真コンテスト、銅賞受賞作品。

入賞できなかった私の作品。

昨年末に郵送して頂いた第58回愛媛マラソン写真コンテスト応募要項。

昨年末に頂いた第58回愛媛マラソン写真コンテスト応募要項、裏面。

3月の初め第58回愛媛マラソン写真コンテスト事務局から私に届いた入選の連絡通知状。

伊予銀行本店界隈の風景。

伊予銀行本店ロビーで開催中の第58回愛媛マラソン写真コンテスト入賞・入選の24作品の鑑賞を終えた後、天候が良かったので展示会場付近を散策してみた。
展示会場(伊予銀行本店)前は、松山市役所で、日本銀行松山支店・愛媛県警察本部・家庭裁判所・JA愛媛本部・NTT四国本部・愛媛県庁がありそして伊予松山城三之丸がある。

散策していると松山市役所前で、NHK松山放送局のカメラマンが取材中に出くわした。

第58回愛媛マラソン写真コンテスト入賞・入選作品展示会場の伊予銀行本店。

第58回愛媛マラソン写真コンテスト入賞・入選作品展示会場の伊予銀行本店前を走行する路面電車、新型もあり色んな種類の電車が走っており、坊ちゃん列車も走行している。

伊予銀行本店から見た松山市役所本庁舎。

坂の上の雲博物館で開催中の企画展示の案内板が上がっていた。

夏目漱石が乗った坊ちゃん列車が走行している。

伊予銀行本店前を走行する「坊ちゃん列車14号車」。

帰りに石手川堤防に行ってみると画像の様に満開に近いソメイヨシノ桜が咲き誇っていた。

呟き:
令和元年11月17日、中国河北省出身の男性が新型コロナウイルスに発症、これが最初で、WHOは新型コロナウイルスが発症したが直ぐ収まると告知した。

日本で最初の発症は、令和2年1月16日でこの時点では国内大型行事の自粛は無く、第58回愛媛マラソンも予定通り2月9日(日)に開催され参加者は、大会史上最高の、1万408人が全国各地から参加し、それぞれの思いを描きながら走破した。

その後新型コロナウイルスが蔓延し、市民マラソン形式は取りやめ競技マラソンとして実施、オリンピックも1年延期までとなり今や世界中に広がり大変な事態である。

令和2年4月6日現在、愛媛県の新型コロナウイルス感染者は23人で、死亡者1人、松山市は6人で、愛媛県も徐々に感染が拡散している。

ワクチンはおろか治療薬が無いから感染すると大変な事になるし、PCR検査を希望してもなかなか受けられず、医者も何処に行けばいいのか分からない。TELで問い合わせば、自分で探せと言われ電話が切れる。一生懸命自分で探しやっと受診出来たとTVニュースで報道された。

安倍首相はマスクを配布とか、もっとやるべき大事な事があるだろう。日本国民の命も守れない安倍政権、なにやっているんだと!!と叫びたい。

志村けんさんは、新型コロナウイルスに罹り東京で一番という病院で治療しても回復に至らず逝去された恐ろしい病魔ウイルスである。

世界各国のPCR検査の数値は圧倒的に日本は少ない。

アメリカは、PCR検査をしてもらえない日本在住のアメリカ人の帰国命令が出るそうだ。日本に居ると重症になるまで放置され命の保証がないから!!

日本国は、G5・G7に先進国として列挙されているが、今回の新型コロナウイルス対策に付いては、まるで後進国の医療の様で寂し思いである。

先進国とは、経済発展が大きく進んだ国のことである。・・と表記してあり、先進国の条件として一人当たりのGDPをあげる人もいるが経済弱者をどれだけ救えるかにあると思う。教育面、医療面福祉面、経済面、基本的人権を守る面など。おそらく部分的に日本を抜いている国もあると思うが総合的には日本がダントツなのではないか。これこそが先進国の基本条件だと思う。・・と記述している専門家もいるが、今回の新型コロナウイルスの対処は、医療面福祉面はゼロに近い有様でどれを見ても先進国とは思えない。

情けなくなる。

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松山市の染井吉野桜が開花、昨年より3日遅く開花した

2020年03月27日 | 伊予松山歴史散策

新型コロナウイルスが蔓延している中松山も春本番、今年は温暖で染井吉野桜の開花が例年よりも早く宣言されるのではないかと地元TV局(南海放送)の新人女子アナが毎日現況報告を特番で報じた。

一昨日(3月25日)松山地方気象台の職員二人が5輪開花している状況を確認した。

例年であれば道後公園にある「植物季節観測標本樹(桜)ソメイヨシノ」の前で報道関係者と、市民に対して口頭で開花宣言をするが、今年は新型コロナウイルスが蔓延している関係で、松山地方気象台が準備した文字表現で開花宣言をした。

この行為は初めての事である。

開花は、昨年よりも3日遅く、平年の25日開花である。

此れから7日か10日で満開になると言う。

松山は明日から雨天の予報である。

  • 呟き:染井吉野桜は、天狗巣病になりやすくこの病気に罹り枯れ、また樹齢も短く全国の染井吉野桜の寿命が近づき倒木危険防止のためにも伐採が始まった。染井吉野桜に変わって天狗巣病に強い桜として「神代曙桜」が植え変えられている。
  • 平成17年度から染井吉野桜の配布を中止し、平成21年度からは苗木の販売を中止、神代曙(ジンダイアケボノ)への植え替えを推奨している。
  • 伊予松山城太鼓門前の染井吉野桜も昨年(令和元年)6月11日伐採された。
  • 気象台の「植物季節観測標本樹(桜)」は現在、染井吉野桜であるが、次世代の植物季節観測標本樹(桜)は、神代曙桜に変わるのでしょうか?

     

国指定・史跡「湯築城跡」に松山地方気象台が観測用として管理している「植物季節観測標本樹(桜)ソメイヨシノ」がる。

観測用染井吉野桜には、画像の表示板が設置されている。

国指定・史跡「湯築城跡」に松山地方気象台が観測用として管理している「植物季節観測標本樹(桜)ソメイヨシノ」で、開花が近づくと松山地方気象台の季節観測官二人が、午前中1回、午後1回確認に来る。

一昨日(3月25日)松山地方の染井吉野桜が開花したと宣言された。

画像は、3月26日午後2時過ぎに撮影した観測用の染井吉野桜である。

昨年よりも3日遅く開花した。

此れから7日か10日で満開になると言う。

史跡・湯築城跡には「伊佐庭如矢」の記念碑がある。(揮毫は、安倍能成)

伊佐庭如矢の特筆事項は、
現在の道後温泉本館は伊佐庭如矢が計画し建築したもので、日本で初めて温泉施設が国指定の重要文化財として指定された。

また

「松山城天守存続に尽力した」

明治6年2月政府は、廃城令を出して旧権力の象徴である城郭を取り壊すと共に、売却による維持経費の削減を図ろうとした。

伊予松山藩は、親藩がゆえに幕末朝敵とされ松山城の売却取り壊しは免れぬ状態であった。

存続を願い伊佐庭如矢は、大蔵卿大久保利通に城郭を公園化する事で、庶民の観覧のためにと存続上申した。

維持費は地元で負担する事を条件で、内務卿木戸孝允は公園化を条件で認め存続を許す事になった。(全国に19の天守を政府は残した。その内大東亜戦争の戦火で7天守が焼失し12の天守が残った・・これが現存12天守である。

政府も各地の城の取り扱いに困っていたので、伊佐庭如矢の公園化計画は一つのヒントになり、その後各地の城は公園化が推進され存続した。

揮毫者、安倍能成の略歴

松山市出身の哲学者、教育者、政治家で法政大学教授・京城帝国大学教授・第一高等学校校長・貴族院勅選議員・文部大臣を歴任して、貴族院帝国憲法改正案特別委員会委員長・そして学習院大学長を務められた。学習院の校歌の作詞は、安倍能成である。

位階は、正三位である。

伊佐庭如矢が、愛媛県の吏員時代に愛媛県参事名(起案をしたのは伊佐庭如矢)で伊予松山城の存続の儀 内務卿大久保利通に送った申上候書。

 

伊予松山城の存続の儀 申上候書

伊予松山城の存続の指令書は愛媛県県立図書館に保管されている。

史跡・湯築城跡には「伊佐庭如矢」の記念碑がある。(揮毫は、安倍能成)

その説明。

現在の松山市の発展に尽くした最大の功労者「伊佐庭 如矢」。

伊佐庭 如矢の四大功績。

湯築城は、室町時代から安土桃山時代にかけて約250年間に渡り伊予国の守護であった河野氏の居城として存続した城跡である。
最後の城主は福島正則で、その後江戸時代となり、政治の中心は加藤嘉明が築城した松山城に移り、湯築城は廃城となる。

日本100名城第80番に指定されている。

国指定、史跡「湯築城跡」の模型で印の所に松山地方気象台が管理する染井吉野桜の標本樹がある。

国指定・史跡「湯築城跡」には沢山の種類の桜が植栽されており画像の様に満開の桜もある。

国指定・史跡「湯築城跡」の内堀に鷺がやって来た。

鷺も桜を鑑賞に来たのか!!

令和2年3月25日、松山地方気象台植物季節観測官二人が、染井吉野桜5輪開花したことを確認した。
(南海放送TV画像引用)

新型コロナウイルスが蔓延のため、松山地方気象台観測以来初めてとなる「文字表示」で松山地方の染井吉野桜の開花宣言をした。

 

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私が感じたパワースポット・新潟市江南区 北方文化博物館

2020年03月19日 | 伊予松山歴史散策

先日、午後11時05分から「NHKラジオ深夜便」で二夜に渡ってノンフィクション作家・高橋秀実さんの「パワースポットと日本人」と題した対談があった。
有名なパワースポットである明治神宮ですが、パワースポットは本殿ではなく、境内にある「清正井戸」であり、奈良の大神神社も御神体ではなく、参道の脇にある岩で「そこではなく・ここです」と話された。

パワースポットは、感じるものでなく、力・御蔭・御利益をお受けするものですとも話された。
受け取ったパワーを自力と会い合わせて自分にない力に変える事により活力となるのかなと私は感じながら話に聞き入った。

高橋秀実さん曰く「パワーがもらえるからパワースポットでなく・パワースポットだからパワーがもらえる」と語った。
さて

私がパワーをもらい受けた場所がある。

それは、新潟県新潟市江南区沢海にある「北方文化博物館の庭にある石」である。

私は数年前に味覚障害に陥り、愛媛大学医学部付属病院耳鼻咽喉科を受診した。
そして味覚障害担当医の診療を受け検査をして治療をした。

それから暫く治療をしたが担当医曰く、いろいろ治療をしたが完治に至らずこれ以上治療の方法がないので本日をもって治療を打ち切りますと通告された。

治療は、最初にMRIで脳の検査をしたが脳には異常なし、その後数種類の薬物投与治療をしたが容態は良くならなかった。

私は秋山好古が揮毫した石碑の調査を行っており、平成22年3月17日、新潟市江南区沢海日枝神社にある秋山好古揮毫の「忠魂碑」の写真取材で行った時、北方文化博物館・佐藤隆男副館長が博物館を隈無く案内をして頂いた。

案内の中、博物館の中庭にある大きな石があるが、「この石が何かわからないが計り知れない力が出ている。」と・・その道の研究をされている方から言われたそうです。

佐藤副館長は長らく博物館に勤務しているが、この石お陰か風邪も引いたことがなく元気で勤務しているし、博物館の学芸員達も元気ですと言われた事を思い出した。

平成22年9月5日、北方博物館で講演会が開催され、私も参加した「演題は:秋山好古と横越の人々」講師は北方博物館神田館長で、この時の新潟市移動は、愛媛県松山市の自宅から自家用車で行った。・・新潟県に入っていくら走っても新潟県なので嫌になった。

この時、佐藤副館長からの博物館中庭にある「計り知れないパワーの石」の事を思い出し石の前でしばらく座禅を組み「石のパワーの氣」を受けた。

その後、新潟県魚沼市堀之内竜光の天満神社に秋山好古が揮毫した石碑「戦役記念」が発見され、平成23年6月10日、写真取材に行き再び新潟市の北方文化博物館を訪れ、博物館の宿泊施設に泊まり「計り知れないパワーの石」氣を受けた。

その後再び、平成24年10月30日、秋山兄弟生誕地で奉仕活動でガイドをしている研究員7名を引率し北方文化博物館に研修として伺った。
この時も博物館に宿泊し「計り知れないパワーの石」の氣を受けた。
トータルで3回、「計り知れないパワーの石」の氣を受けたのである。

それから不思議に味覚障害が少しずつ回復の兆候が出て来た。
現在は、完全に回復に至っていないが7割り位回復したと自分で感じている。
人の身体は時々病魔に侵され自己治癒力で治すことが出来るが、時には医学の助けを得て手術や投薬をして治す必要がある。

また他力(パワー)を受け治癒力を高める事も必要ではないのか?、病は気からと言う言葉がある。気は、必ず治る・もう大丈夫というような安心感を自分に言い聞かせ、治癒力を高め、病を克服する力(パワー)を与えてくれる。
7割り位障害が回復した兆候があるが、それは北方文化博物館の「計り知れないパワーの石」の御蔭であると私は思っている。

北方文化博物館に感謝しています。

病は気からであるが健康も気からである。

佐藤副館長に、北方文化博物館の「計り知れないパワーの石」周辺には小さな石が沢山ある、この石にもパワーがあるとの由、出来れば一つ石をお借受けして、就寝時身体の近くに置き常時パワーを受け味覚障害回復に役立てたいとお願いしたが、そのお気持ちはよくわかりますが、博物館の貴重な聖なるものなので館外に持ち出すことは出来ないと言われた。

画像は、北方文化博物館と「計り知れないパワーの石」である。

松山にも数カ所パワースポットがあるから折を見て行ってみたい。

北方文化博物館正面入口。

参考までに
昭和20年8月15日、終戦を迎え日本はGHQ指導で戦後処理が始まった。

新潟県にもGHQが侵攻してきて北方文化博物館(当時は、越後一番の豪農伊藤家であった。)

をGHQの新潟県司令本部の施設として使用する予定で伊藤家を担当司令部長が訪れ、この事を伊藤文吉当主に通訳を介し英語で説明した。

すると、伊藤文吉当主から素晴らしい綺麗な発音の英語で返答が返って来た。

GHQ担当官は、ライト中尉でまさか英語で返答があるとは思わず、ライト中尉は、ミスター伊藤、貴方は発音の綺麗な英語であるが何処で習得したのかを聞きただすと「私は、米国ペンシルバニア大学の卒業生で、この大学で学びましたと言った。」

すると、ライト中尉はビックリしたそうです・・何ですか貴方もペンシルバニア大学の卒業生ですか? 私も(ライト中尉)ペンシルバニア大学の卒業生だと言った。

ライト中尉は、教育者で日本の教育制度改革担当司令官として新潟県に来たそうです。ライト中尉の肩書は、新潟軍政部民間情報教育部長であった。

ライト中尉は、伊藤文吉がペンシルバニア大学の先輩となる事が判明、先輩の建物を接収する事は出来ないと判断し、この建物を何らかの形で存続させようと考え(流石教育者である)

ライト中尉は、文化財として残すことを提案し、新潟県知事からGHQ最高司令官マッカーサー元帥にたいして伊藤家を文化財として残すよう上申書提出させた。
マッカーサー元帥は、博物館として存続する事を了承した。

これが我が国、戦後初めてとなる博物館として設立されたのである。
それもマッカーサー元帥の指示で私立としてであった。(公立としての運用はそれどれ枠組みがり活動に制約があるので私立であれば自由な活動が出来るからとのマッカーサー元帥の粋な計らいであった。

なお、ライト中尉の最初の赴任先は、青森県であったがこれを辞退、次は埼玉県これも辞退、次が新潟県を打診され何故か新潟県を了承したのである。もしも新潟県以外に赴任していたならば、現在の北方文化博物館は設立しておらず、GHQ新潟司令本部として建物内部は洋風に改造されていただろう。

ライト中尉と伊藤文吉と出会が何かの力が働いたのである。それが「計り知れないパワーの石」にあるのかもしれない。

由緒ある北方文化博物館の中庭には、ライト中尉の記念碑が建立されている。

マッカーサー元帥とライト中尉の息のかかった博物館そこにある「計り知れないパワーの石」威力があると私は思った。

北方文化博物館の玄関。

平成24年10月30日、秋山兄弟生誕地で奉仕活動としてガイドをしている研究員7名を引率し北方文化博物館に研修として伺った時。

新潟県新潟市江南区沢海、北方文化博物館の中庭にある私がパワーをもらい受けた不思議な石。

「この石が何かわからないが計り知れない力が出ている。」とい言われるパワーの石である。

 

パワースポットの定義や役割については、千葉市立図書館参考業務資料として下記のような記載があった。

「霊的な力が満ちているとされる場所」『大辞泉 下巻 第2版』
「心身を癒してくれる自然のエネルギーに満ちた場所」『現代用語の基礎知識2016』
「魂に啓蒙の光をもたらしてくれるパワーの源」『聖なる土地の力』
「その土地、その場所が持つエネルギーを、その場所に行くことによって吸収して、運を上げる場所」『パワースポットめぐり』
「まるで大地からの気功治療を受けているかのように、心と身体と魂が何らかの変化やメリットを受けることができる場所」『日本全国このパワースポットがすごい!』
いつ頃から使われるようになったのか、については、下記のような記載があった。
「平成2年代ごろからのオカルトや超自然主義の流行に伴って使われだした。」『大辞泉 下巻 第2版』
「スピリチュアルカウンセラーの江原啓之さん、手相占い芸人の島田秀平さんらが火付け役とされる。」(朝日新聞掲載「キーワード」の解説)

 

北方文化博物館の主屋で中庭にパワーの石がある。

北方文化博物館の大広間。

この博物館には、著名な方々が来られており、中でもイギリスの陶芸家バーナードリーチ、日本民藝館の創設者・柳宗悦、陶芸家人間国宝・浜田庄司、作家・司馬遼太郎、ライシャワー駐日米国大使、特に、司馬遼太郎は所蔵の美術品が素晴らしく博物館でなく美術館だと称した。

建造物全体が、登録有形文化財に登録されている。

北方文化博物館の宿泊施設「豪農の宿・大路菴」で私は二度宿泊した。

ラルフ・ライト・ピーターソン夫妻歓迎会が昭和60年6月23日(日曜日)午後5時から北方文化博物館で開催された時の写真。

GHQ新潟軍務時代の若きライトさんと7代目伊藤文吉館長、36年振りに再開したライトさんと8代目伊藤文吉館長。

北方文化博物館の庭にある、ラルフ・ライト 7代伊藤文吉との記念碑が建立されている。

ラルフ・ライトさんを偲ぶ記念碑。

8代伊藤文吉北方文化博物館長の念願が叶った日米友好の記念碑が建立された。

8代伊藤文吉館長の念願叶った「日米友情の記念碑」を建立。

念願叶ったと言うことは、北方文化博物館に多大な尽力と支援をされたライトさんは、昭和24年8月アメリカに帰国した。

帰国に際し、七代伊藤文吉館長は送別会を開催しお送りしたいと計画したが、行為は有難くお受けしますが送別会は行わないでくださいと断り帰国した。

8代伊藤文吉館長、一度お会いしてお礼を言いたいと思うもライトさんの消息は分からず、アメリカは戸籍法がなく個人情報が厳しく探すのは困難であった。

昭和59年、フレンドシップフォース新潟支部で会合が開催され会場が北方文化博物館であった。8代伊藤文吉館長と同席になった、ビル・パリッシュと北方文化博物館設立に付いて話をし、お世話になったラルフ・E・ライトさんに会いお礼を言いたいのだが消息が分からず困っていることを話すと「出来る限り手を尽くしお探ししますと」言ってくれた。

それから半年後、ビル・パリッシュからライトさんの消息が判明したと連絡があった。

ライトさんは帰国後ペンシルバニア大学大学院に入り博士号をとり現在はミネソタ州ロチェスター高校の校長をしていました。

8代伊藤文吉はライトさんと連絡を取り合い、昭和60年6月23日北方文化博物館で再開したのである。

ライトさんが軍務で初めて伊藤家を訪れた時、7代伊藤文吉と英語で会話をしていた時、8代伊藤文吉館長は中学生だったそうです。

伊藤家は、代々当主は文吉を名乗って来たそうです。

北方文化博物館初代館長が、7代伊藤文吉で2代目館長が8代伊藤文吉、平成28年10月25日逝去享年89歳、8代目に子供が無かったため、文吉という名は8代目で途絶える事となった。

3代目館長は、神田勝郎氏が就任し現在に至っている。

昭和24年5月、今から70年前の越後一番の豪農伊藤家資料の一部。

アメリカ国立公文書館所蔵。

当時の住所は

新潟県中蒲原郡横越村大字澤海六九七0番地

現在は

新潟県新潟市江南区沢海二丁目15番25号

平成22年9月5日、北方博物館で講演会が開催された。

演題は「秋山好古と横越の人びと」

講師は、現3代目北方文化博物館、館長神田勝郎氏であった。

講演会会場に掲示された講演案内の見出し。

講演会 次第。

予定していた聴講者を大きく上回り盛大に行われた。

平成24年10月30日、秋山兄弟生誕地で奉仕活動としてガイドをしている研究員7名を引率し北方文化博物館に研修として伺った時の様子。

北方文化博物館に隣接する日枝神社境内にある「秋山好古揮毫の石碑・忠魂碑」につて説明する神田館長。

神田館長の尽力で「秋山好古揮毫の石碑・忠魂碑」が新潟市民文化遺産に認定登録された。

NHK松山放送局が取材に行き放映した。日本海側に初めて発見された秋山好古揮毫の石碑と言う事案で。

 

平成23年6月10日、新潟県魚沼市にも秋山好古揮毫の石碑発見と連絡を受け神田館長の案内で取材に行った時の新潟日報の記事。

 

新潟県魚沼市堀之内竜光の天満神社に秋山好古が揮毫した石碑「戦役記念」が建立されている。

最近の北方文化博物館情報。

北方文化博物館シンボル「フジの花」から採取した酵母による日本酒醸造に成功した。
その新聞記事。

ライトアップされた北方文化博物館のシンボル「フジの花」。

北方文化博物館は、越後の大地主・伊藤家七代の歴史と地方文化を当時の姿のままに伝える豪農の館です。8,800坪の敷地に、65の部屋を設けた1,200坪の母屋。敷地のまわりは土塁や塀、濠で囲まれ、土蔵づくりの門、総欅づくり唐破風の大玄関など、現存する新潟の豪農の屋敷の中でも最大規模を誇ります。
この北方文化博物館の中庭には、樹齢150年、幹まわり1m60cm以上、一本の木から広がる大藤があります。開花は5月初旬から中旬、甘い香りを放って藤色の花を房状に咲かせます。開花に合わせ、この大藤のライトアップを実施します。

北方文化博物館資料より引用

 

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