EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

伊予松山城・重要文化財指定建造物散策 2

2014年02月27日 | 伊予松山歴史散策
前回は、本丸東広場と西広場に現存する重文建造物を辿ったが、これからは本壇に入る。本壇入口は、天守観覧切符売り場からが本壇で、最初に紫竹門東塀がある。これは前回画像に取り上げたのでここでは省略する。
本壇天守群は、初代藩主である加藤嘉明が築城した5層の偉観を誇った天守を第3代藩主、松平定行は、改築を幕府に願い出て、寛永16年(1639)7月13日許可を得て3年後の同19年(1672)3層の天守に改築完成した。改築その理由は、地点が山頂部にあり、かつ谷を埋め立てた所に当り、建造物の保存上の安全を期するためであったと考えられる。
落雷による天守群焼失
天明48年(1784)1月元旦真夜中に天守・大書院に落雷があり、そのため本丸を焼失、この時の藩主は、定国で、徳川御三卿の一つ、田安宗武の次男が養嗣子として伊予松山、松平第9代藩主として継承していた。定国は、落雷の事につき急使を江戸に送り、その旨幕府に報告、幕府から定国に対し参勤の時期を9月に延期するように伝えられた。そして6月29日に本丸城郭復興計画を幕府に請願しその許可を受けた。その後諸事情で天守復興はままならず、嘉永5年(1852)12月20日天守をはじめ本丸城郭全部が完成し翌々年の安政元年2月8日盛大に落成式が行われた。天明の落雷で焼失してから71年の歳月が経っていた。これから本壇に入るが、重文建造物は、この時に再建された建物であることを鑑み画像を見て下さい。
本壇には重文建造物が13棟現存し、現存12天守のうち一番多く存在する。

注1:松平定行は、徳川家康を生んである事情により徳川氏を去り、久松俊勝に再婚して、定勝が誕生した。定勝は家康の異父同母で、その子が定行である。祖母は、於大の方で、家康は祖父になる。家康の命により松平を名乗り三つ葉葵の紋を使うよう指示された。地方の城で唯一本壇天守群の瓦に三つ葉葵の紋が刻印されているのは松山城唯一つである。維新後旧姓・久松に還し家紋の梅鉢にした。・・久松家の祖先は菅原道真で家紋が梅鉢。

注2:松平定国は、第8代将軍徳川吉宗の次男、田安宗武の次男で、弟は、松平定信であって、陸奥白河藩主、後に江戸幕府老中となり寛政の大改革断行した政治家である。

注3:伊予松山藩には庭園が無い:伊予松山藩は初代、加藤嘉明(よしあき)が20万石、2代目、蒲生忠知(ただちか)24万石、3代目松平定行15万石で維新を迎える。3代目から親藩となる。15万石の城郭としては大き過ぎ城の管理に膨大な費用が掛かり庭園を造園する余裕がなかった。

先ずは一ノ門から


一ノ門、寄手側
本壇入口、本丸広場から本壇入口は、上り坂になっており、その路の左側は紫竹門東塀(現切符売り場)で右折すると正面は高さ5mの石垣上に筋鉄門東塀、右手には、一ノ門南櫓、左手には小天守があって堅固められている。
一ノ門は、高麗門で本壇入口最初の門である。主屋根は両妻をそれぞれ櫓下の石垣に託し、木割りも大きく豪放な構え、両開きの扉は上下とも格子となって見通しをよくしている。脇戸附高麗門、本瓦葺で、天守は安政元年の再建であるが、一ノ門は天守より早く嘉永年間の造り。


一ノ門、内側
門の形式は高麗形式で、文禄・慶長の役が行われた1592年から1598年の間に造られ始めた城門である。鏡柱と控柱を一つの大きな屋根に収める構造の薬医門を簡略化したもので、屋根を小ぶりにして守備側の死角を減らす工夫が施された。江戸時代以降には、城郭に限らず神社仏閣や町の出入り口を仕切る木戸門などとして多く築造された門の形式。


一ノ門南櫓
一ノ門南に接続し本丸広場から本壇に進入して来る敵に対し攻撃防御する櫓で突き上げ格子窓・狭間・石落しを備え他の武装建築同様に武器・弾薬・米塩の貯蔵を主たる目的としながら、本壇最後の防御手段としての合わせ持つ櫓として怠ることがなかったのである。・・これは、二ノ門南櫓・三ノ門南櫓とも同じ事が言える。造りは、1層櫓、本瓦葺、嘉永年間の造り。


一ノ門東塀
一ノ門東塀で、一ノ門南櫓と二ノ門南櫓を結ぶ続塀で本丸広場からの本壇に侵入する敵を攻撃するもの。
長さ10、14m、狭間10ヶ初、本瓦葺、嘉永年間の造り。


二ノ門、寄手側
二ノ門は、一ノ門内の枡形を過ぎて左折し、急な石段を上ると二ノ門がある。この門は城中に唯一つの薬医門形式の門である。
薬医門というのは、本柱が門の中心線から前方にずれていて本柱と控え柱を結ぶ梁の中間の上に束を乗せて切妻屋根を乗せた門。桃山時代にはじまり、元来は矢喰が語源、寺門に比較的多いと歴史事典にある。江戸時代になると武家や公家の屋敷に用いられ、また扉を無くして医者の門として用いられたのでこの名になった。・・とある。しかしその前の語源は、矢喰と呼ばれ、敵の矢を喰う門。脇戸附薬医門形式、本瓦葺、嘉永年間の造り。


二ノ門、内側
左が二ノ門東塀でその奥に二ノ門南櫓、右は三ノ門東塀である。


二ノ門東塀、寄手側
二ノ門東塀は城内で一番規模の小さな続塀で、二ノ門と二ノ門南櫓を繋ぐ続塀である。一ノ門枡形に進入した敵を狭間から攻撃する。長さ3、72m、狭間3ヶ初、本瓦葺、嘉永年間の造り。


二ノ門東塀、内側、この小さな建造物も重文である。


二ノ門南櫓
二ノ門南櫓は、二ノ門東塀に接続し本丸広場から本壇東にある艮門から進入して来る敵と、一ノ門内の枡形の敵を阻止する櫓で、狭間・石落しを備え、他の武装建築同様に武器・弾薬・米塩を貯蔵する一ノ門南櫓・三ノ門南櫓とも同じである。造りは、1層櫓、本瓦葺、嘉永年間の造り。左側に見える塀は一ノ門東塀である。


三ノ門、寄手側
三ノ門は、高麗形式の門で、屋根の一端は天守建物下部に接する。これを過ぎると正面に三ノ門南櫓があり、そこを右折すると天守南側石垣と筋鉄門東塀に仕切られた細長い進入路となり、その奥の本壇最後の守り筋鉄門に達する。
造りは、高麗形式、本瓦葺で、嘉永年間の造り。


三ノ門、内側で、左の石垣は天守台の切り込みはぎの石垣で、右は三ノ門東塀の一部である。


三ノ門東塀
三ノ門東塀で、左は三ノ門に繋がり、右は三ノ門南櫓と接続して途中で屈曲している。右側の塀(寄手)は、一ノ門枡形に進入した敵を狭間から攻撃し、奥の塀は、三ノ門と天神櫓前の枡形に侵入した敵を攻撃と防御をする。
長さ14、20m、狭間10ヶ初、本瓦葺、嘉永年間の造り。


三ノ門南櫓
三ノ門南櫓は、天守に至る曲折した進入路に沿って設けられ、一ノ門南櫓、二ノ門南櫓同様に突き上げ格子窓・狭間・石落しを備えていて、本壇最後の防御手段として備えてある。造りは、1層櫓、本瓦葺、嘉永年間の造り。
次回は、本壇最後の門、筋鉄門を通り、いよいよ日本三大連立式天守に
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伊予松山城・重要文化財指定建造物散策 1

2014年02月26日 | 伊予松山歴史散策
江戸幕府は、元和元年(1615年)に一国一城令が発せられ、多くの城郭が廃城となった。幕末には276藩となり、城持ち大名が135藩あった。
明治新政府は明治6年1月14日廃城令を公布し、これに対して伊予松山から大久保利通内務卿に対して民の憩いの場として保存嘆願が提出され、木戸孝允内務卿が許可した。その後18ヶ所から保存嘆願書が提出され政府は、19の城(天守)の保存を認めた。(松前・弘前・松本・犬山・丸岡・大垣・名古屋・和歌山・彦根・姫路・岡山・松江・備中松山・福山・広島・丸亀・高知・宇和島・伊予松山の各城)その内先の大戦戦災で、広島・福山・岡山・和歌山・大垣・名古屋・松前天守は不審火で焼失し現在は、弘前・松本・犬山・丸岡・彦根・姫路・松江・備中松山・丸亀・高知・宇和島・伊予松山の各城(天守)で、これを現存天守と言っている。
現存天守の中で国指定の重要文化財指定の建造物が一番多く現存するのは、国宝姫路城(国宝8棟・重文74棟)で次いで多く現存するのが伊予松山城である。
伊予松山城は、昭和10年5月13日、国宝に指定されたが、昭和25年5月制定された重要文化財保護法制定により重要文化財に指定された。指定された城郭建造物は、21棟である。内訳は、天守を含む櫓7棟、城門7棟、続き塀7棟である。
今回重文21棟を数回に分けて画像で辿ってみる。
ではロープウエイ山頂駅から攻めてみよう。


戸無門
ロープウエー山頂駅から登城すると眼前に本丸一の高石垣が現れ、待合番所跡に出る。ここは東雲口からと二ノ丸からの登城道の合流する地点であった。東は揚木戸門、西は大手門によって仕切られ、大手に入口筒井門に迫る重要地であった。それに沿って行き右旋回した道は、石塁と石垣の隘路となってその奥に戸無門が現れる。
門の形式は、高麗門で本瓦葺、慶長年間の創建である。全国の城郭でも非常に珍しい。戸が無いのは、ここまで進入した敵を一応通過させ次の筒井門・隠門の攻防戦において一挙に撃破する構えである。


戸無門、内側で筒井門に通じる枡形から。


隠門
次に筒井門の東側に隠門がある。大手で最も重要な筒井門・隠門の構えに遭遇する。石垣で隠され寄り手に秘匿された形で隠門が設けられている。
筒井門は昭和24年、狂人の放火により焼失。昭和45年復元された。隠門は、城内建造物のうち、乾櫓・野原櫓に次ぐ古い建築物で筒井門復元工事の時に戸無門と共に修理が行われた。門の形式は、櫓門形式で本瓦葺。


隠門続櫓
隠門の上に、隠門続櫓がある。一層櫓で本瓦葺。筒井門と接続しており、戸無門を通過し、筒井門に殺到した敵に予期せぬ側面急襲を加え一挙に撃退する構えで、櫓内部は、武器弾薬の保管となっていて壁は銃撃されても耐えられる分厚い土に固形物を混ぜ造り上げている。


紫竹門
脇戸附高麗門で本瓦葺。隠門を過ぎると、太鼓門、太鼓門西塀・太鼓櫓が現れるが、この建物は昭和20年7月26日の松山大空襲の戦火で焼失し戦後復元した城郭建造物なので重文指定外なので今回は省略する。
紫竹門は、乾門から東進すると左手に本檀石垣がそびえ、右手には乾門東続櫓からの屏風折れ石垣の屈曲した上に続塀があって、その奥に本丸広場の入口を防御する門、東西続塀ともに本丸広場を内側とし搦手乾門側を寄手側とした構えになっている。・・観光者はこの構えを不思議に感ずる方が多い。


紫竹門内側


紫竹門西塀
本丸を防御する最重要な紫竹門と共に西塀は本丸地形の影響を受け縄張りに最も苦心した場所である。この門に接する西塀は、馬具櫓から渡塀(今は復元されてない)と、搦手乾門続櫓からの屈曲した続塀に出会う本丸防御の重要諸点、ここを破られると本壇へと敵は侵入進撃して来る。
長さ14、47m、狭間10ヶ初、本瓦葺。


紫竹門西塀内側


紫竹門東塀
本丸を防御する最重要な紫竹門と共に東塀・西塀は本丸地形の影響を受け縄張りに最も苦心した場所である。この門に接する西塀は、馬具櫓から渡塀(今は復元されてない)と、搦手乾門続櫓からの屈曲した続塀に出会う。また東塀は、その内側が本壇入口通路、一ノ門にと繋がる。
長さ16、57m、狭間11ヶ初、本瓦葺。


野原櫓
紫竹門から外に出ると本丸西広場に出ると野原櫓が見えてくる。
野原櫓は、乾櫓の東に位置し本丸西北を防備するための櫓である。西は乾櫓方向、東は小筒櫓方向の石垣に対し横矢掛りの構えとなっている。この櫓は騎馬櫓とも称し、築城当時に新しく建築された本丸では一番古い建物で、2層一部1層の建物であるが、下層の大入母屋屋根の中ほど、一回り小型の2階を載せた形となっている。これは戦国時代豪族が、その居館の屋根上に望楼を乗せ見張り様に用いていた。その望楼が次第に拡張されて、犬山城に見られるわが国独自の天守建築に発展したとする、天守望楼起源説の一過程を示すものとして注目される貴重な櫓である。造りは、2層2階(一部1層)櫓、本瓦葺。
注1:野原櫓の名称は、古町にあった豪商、野原氏が寄進したので、野原櫓と言われたとの諸説がある。
注2:小筒櫓は、野原櫓の東側に位置し2層櫓で、本丸北側を防備するための櫓であったが今は復元されていない。


乾櫓
乾櫓は、本丸搦手を防備するための櫓で、乾門を過ぎて本丸西広場に出ると西方に乾櫓がある。2層一部矩折1層のこの櫓は三面を本丸石垣に托し、その北面は山麓に面し隣接する野原櫓に横矢掛りをみせ、西面は乾門の上にあり、南面は乾門前の枡形を射撃するという多くの任務を課せられた櫓である。この建物は、松前城時代のものを移築したもので城内一番古い建物である。本丸の西北隅すなわち乾の隅に立つのでこの名前がある。
2層2階(一部1層)隅櫓、本瓦葺。

次回は、本壇にと進入してみよう。


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坂の上の雲ミュージアム企画展示内覧会

2014年02月24日 | 伊予松山歴史散策
坂の上の雲ミュージアムは、平成19年4月28日に松山市中心部に位置する松山城の南山麓、萬翠荘下(愛媛地方裁判所東)に開館、松山市出身の秋山好古・眞之兄弟、正岡子規の3人が主人公となっている小説『坂の上の雲』ゆかりの博物館である。
坂の上の雲ミュージアムでは、「第8回企画展 近代国家制度の形成1 明治の教育 子規・眞之と小学校」が平成26年2月25日(火)から平成27年2月15日(日)の期間企画展示開催されるに当たり、本日(2月24日)展示内覧会が行われ秋山兄弟生誕地にも案内があり研究員一同参加した。
わが国の近代国家制度の形成には人材育成が必要で政府は欧米教育を参考に試行錯誤しながら教育改革に取り組んだ。松山から秋山眞之・清水則遠・正岡子規が東京大学を目指し上京、清水は東大入学を前にして病に倒れ、眞之は海軍兵学校へと進路変更、子規だけが東大進学した。眞之、子規は東京予備門時代夏目漱石と同級生であった。
今回の展示では、教育掛図・教育書類などの実物資料や明治時代松山の教育関係資料を展示し、眞之・子規が学んだ明治初期の初等教育の実像を展示の中心としていた。
内覧会には、東大阪市にある、司馬遼太郎記念館関係者や、企画展示資料提供者、マスコミ関係者が参列して内覧会が行われた。


平成19年4月28日、開館した「坂の上の雲ミュージアム」で坂の上の雲の主人公、秋山好古・秋山眞之・正岡子規を中心とした博物館で、設計は世界の建築設計者、安藤忠雄である。


「第8回企画展 近代国家制度の形成1 明治の教育 子規・眞之と小学校」内覧会会場案内板。


内覧会に先立ち式典があり、野志松山市長が挨拶。


続いて中村愛媛県知事が祝辞を述べた。開館当時は松山市長で、坂の上の雲ミュージアム建設立案した人が、中村時広知事であった。


第8回企画展 近代国家制度の形成1 明治の教育 子規・眞之と小学校展示会開催テープカット・・左から、坂の上の雲ミュージアム館長、東大阪市にある司馬遼太郎記念館副館長、中村愛媛県知事、野志松山市長。


第8回企画展 近代国家制度の形成1 明治の教育 子規・眞之と小学校展示会会場最初に開示してある説明標語板。


次に眼にするのがこの説明板。


そして資料を見ていく順路で先ずは、江戸末期の教育から近代化へと進む日本の教育過程が資料展示してある。


教室の一部も展示してある。・・長机に長椅子。


教育関係ばかりでは気持ちが疲れる・・気持ちを解す遊び心もある展示物が用意されていた。


秋山好古・眞之・子規の6面絵合わせパズルでリラックスして次の展示物を見よう。


好古は、福沢諭吉の学問のすすめを読み、これからの近代国家を構築していくには青少年の教育が必至と考え、大阪師範学校に入学し名古屋師範学校附属小学校の教師となる。
明治8年4月30日、文部省が募集した要項。好古は、明治8年1月、17歳で松山から旅立ち大阪で代用教員を務め同9年5月大阪師範学校に合格、第3期生として入学、成績優秀により翌明治10年7月卒業し名古屋師範学校附属小学校に赴任した。その後伊予松山の先輩、名古屋師範学教務官・和久正辰と名古屋鎮台の山本武官の強い勧めがあり陸軍士官学校に入学する。
画像は、京都府布令書で、好古も同様の大阪の布令書をみて出願した。


秋山眞之が詩経書として使ったもので、秋山淳五郎は、眞之の幼名、鹿太郎は、秋山家の長男である。


明治15年当時松山の城下町図で、主な小学校、私塾の位置図と秋山家、正岡家が記載されている。


坂の上の雲ミュージアムの壁面に資料掲示してある、主人公達。


昭和43年から昭和47年にかけ「『産経新聞』に連載された坂の上の雲」当時の連載小説が坂の上の雲ミュージアムの壁面に展示してある。


坂の上の雲ミュージアム3階から見た「萬翠荘」。
萬翠荘は、松山城山の南麓に建ち、大正11年に、旧松山藩主の子孫久松定謨(ひさまつ さだこと)伯爵が東京の別邸として建てたフランス・ルネッサンス風の洋館で、設計は後に愛媛県庁本館などを手がけた建築家木子七郎。建物を「萬翠荘」と命名したのは、定謨の子で次代当主となった久松定武である。建築面積428.78平方メートル、地下1階、地上2階建て、昭和20年11月松山に進駐軍が進駐した時、司令官の宿舎として接収された経緯がある。この山頂に松山城本丸がある。
萬翠荘が完成し最初に宿泊された方は、摂政宮殿下、後の昭和天皇である。建築中であった萬翠荘は、大正11年11月15日、松山の高浜沖で陸海軍の大演習が行われ観閲に来られる摂政宮殿下(皇太子)の宿舎とするため突貫工事で造り上げた建物である。
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日本100名城第81番伊予松山城 1

2014年02月23日 | 伊予松山歴史散策
日本100名城は、財団法人日本城郭協会が平成18年に定めた日本の名城100である。同協会が平成19年に迎える設立40周年の記念事業の一環として、平成17年に日本国内の名城と呼ばれる城郭を公募し、平成18年44月6日の「城の日」に認定した(発表は同年2月13日)。観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、復元の正確性などを基準にして、歴史や建築の専門家などが審査の上で都道府県1城は選ぶ事を下で選定したとされる。
平成19年6月2日からは、選定された全国の100城を巡る『「日本100名城」選定記念スタンプラリー』が開始され伊予松山城は第81番に指定選定された。
第81番伊予松山城は、現存12天守の一つで、標高132mの高い位置に本丸があり、本檀の天守は標高160mにある唯一の平山城。天守は日本三大連立天守・そして日本三大連立平山城として日本では最も新しい日本式城郭建築の天守の勇姿を持つ城で、城全体が国指定の史跡である。
日本100名城スタンプ設置場所は、松山城天守入口にある。

伊予松山城は5つの日本一がある・・・それは
第一番目に:藩政時代に創建された天守の内最後に建築された天守。
      今から160年前に建てられた現存する12天守の内一番新しい
第二番目に:築城に要した年月が26年を要した・・一番長い期間
第三番目に:本丸と二の丸の落差が90m・・・一番距離が長い
第四番目に:石垣が美しい・・特に本丸の石垣「屏風折れ」が美しい
第五番目に:藩政時代の城郭の中で三カ所しかない登り石垣が現存する、それも一番規模が大きい
特筆、「現存12天守」の中で、唯一、築城主として瓦には葵の御紋が付されている。


明治24年当時の本檀にある天守群、右から大天守、小天守、南隅櫓。


昭和8年7月9日放火により天守を以外の建造物は焼失した。


画像は、昭和43年5月焼失した建造物を復元し安政元年当時に復した松山城天守群。日本三大連立式天守。(伊予松山城・姫路城・和歌山城)日本三大平山城(伊予松山城・姫路城・津山城)
昭和8年放火により焼失した小天守以下櫓等々は、創建当時の設計図資料に基づき忠実に復元された。昭和10年5月13日、国宝に指定され、国宝指定作業における正確な図面や写真などが残されていたことから、昭和41年復元工事に着手、同43年5月末に竣工、本壇は本格的な木造による復元が行われ安政元年当時の天守群に復した。この復元部分は、焼失前は主として栂材であったが、今は檜材が用いられた。


伊予松山城鳥瞰図。図面の北登り石垣は、現在取り壊され一部しか現存しないが、南登り石垣が現存する。


松山城三の丸からの南面からの眺望。


伊予松山城三の丸からアップで撮った天守群。左から、南隅櫓、多聞櫓、小天守、後ろに大天守を望む。


日本最大を誇る登り石垣で、完全に築城当時のまま現存している。高さ5m、長さ233m。見学する石垣愛好者。


平成の大修理の時天守群の瓦を下ろした時の画像で、瓦に記されている徳川家の家紋「三つ葉葵」。地方の城に三つ葉葵の瓦が使われているのは伊予松山城のみである。これは第3代伊予松山藩主、松平定行が徳川家康の甥にあたり家康の指示によるものであった。維新以後は、本姓である、久松に改姓し家紋は梅鉢に還した。
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伊予松山城本丸の紅白梅開花 その2

2014年02月22日 | 伊予松山歴史散策
本日の松山の最低気温は、1,1度で久しぶりの温もりを感じる朝でした。
風もなく穏やかな一日の始まり、午後は松山城当番日で登城しました。
松山の本日の天気予報は、最低気温が1度、最高気温11度、降水率午後0%、南東の風、日中北西の風、乾燥注意予報とありました。何だか早春を感じる天気予報で午後から登城しました。本日は、何処からお越しになる観光の皆さんをご案内出来るのか楽しみにして行きました。
先ず最初にご案内した方は、三重県松阪市から来られたご夫婦で、松坂と言えば蒲生氏郷が築いた城下町、氏郷の話をしながら松山城の案内をいたし、蒲生氏郷も松阪から会津若松に国替え、伊予松山初代藩主の加藤嘉明も氏郷の後会津若松転封、共通点があり楽しい案内が出来ました。その後は、千葉県と京都市から来られた11名の方々をご案内して終了しました。
今日の松山城本丸は、快晴無風で絶好の観光日和、石鎚山も良く見えました。松山の最高気温は12、6度と春を感じさせる一日であった。
最近日本100名城スタンプラリーを楽しまれてお城巡りをされる方が多く中には、日本城郭検定(日本100名城編)を受験して自分の知識判定としている方もおられます。今年の検定開催が決定しており、平成26年6月1日(日)に開催決定で、開催地は、仙台・東京・犬山・大阪・姫路・熊本で行われ、検定級位は、4級・3級・2級・準1級である。私も一度受験してみたく100名城を歩き勉強しています。現在85城を巡り終えました。

画像は本日の松山城と石鎚山です。

松山城本丸大手門跡から望む太鼓櫓と奥に天守を望む松山城絶景の一で、俳優の榎木孝明さんが一番好きな場所です。


本丸の屏風折れの石垣と本檀の南隅櫓と小天守を望む松山城一番の絶景撮影場所。俳優、歌舞伎役者の坂東三津五郎が好きな所です。今日は天候がよく青空をバックにいい光景でした。松阪市から観光に来られた方からも絶賛を頂きました。


太鼓門続き塀から見た松山城天守。


松山城に一本だけ植栽されている「カワヅザクラ(河津桜)」で開花していたので撮りました。後ろの櫓は「巽櫓」です。


「カワヅザクラ(河津桜)」は大島桜と寒緋桜との自然交配で繁殖した桜で昭和30年に飯田勝美氏が静岡県賀茂郡河津町田中で原木を偶然発見したことが由来。
昭和49年に「カワヅザクラ(河津桜)」と命名され昭和43年頃からこの桜が増殖されるようになった。・・とある。


本丸の紅梅でほぼ満開状況でした。


白梅で、一番早く咲いた白梅は、散り始めてました。


松山城本丸からの石鎚山です。・・今日は少し霞が掛かってました。
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