EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

久米地区の神社探訪その12・日尾八幡神社 終わり 夏越し祭

2015年07月31日 | 伊予松山歴史散策
愛媛の夏祭りは石鎚神社のお山開きから始まり、松山市の夏祭りの幕開けは、全国でも珍しい鐘馗さんをご本尊としている「鐘馗寺」の夏祭りで始まる。鐘馗さんは、毎年7月11、12日に開催され、この日を境に伊予松山の夏の衣替えが行われていたが最近これは無くなった。そして市内各神社では夏祭り(輪越し)が開催される。松山の最後の夏祭りが毎年8月23・24日、松山市駅前にある、善勝寺の大縁日、通称「日切地蔵まつり」で終わる。その間市内各神社で夏祭りが、寺院でお施餓鬼が行われる。
昨日(7月30日)夏越祭りに行って来た。
我が家の氏神様は、日尾八幡神社(松山市南久米町)で、夏越祭、松山では、輪越とも言うが7月30日、同神社で行われる。夏越祭は、前もって各町内の宮総代が氏子の各家庭に、紙で作った形代(かたしろ)を家族の人数分を配り、形代に息を吹きかけ身体の悪い所を擦り名前を書いて一晩床に敷き、夏越祭に行きお祓いをする。
夏越祭は、夏の恐ろしい伝染病や水の災難を防ぐ事が出来ると考えられ行われてきた年中行事の一つで、最近はこの様な考え(信仰)も薄らいで来た。
神社での輪のくぐり方は、まず、向かって左側の茅輪を中心より1回まわって、次は、向かって右側の茅輪を中心より1回まわります。そして、もう一回左側の茅輪を中心から1回まわったら神前にて二礼二拍手一礼します。紙にかかれた形代は、ここにある三方の上にお供えして終了。
最近は、先ず形代を神前に納め二礼二拍手一礼し左側に作られた茅輪を潜り左に一回りして神前に向かって一礼して終わりです。
12月を「年越し」と呼ぶのに対し、7月を「夏越し」と呼んだ。日尾八幡神社は、神官三輪田清敏の長男として生まれ、江戸末期から明治にかけての書家三輪田米山の生誕地として有名である。
これをもって、久米地区の神社探訪を終了します。


7月の初めに宮総代から配られて来た今年の日尾八幡神社「夏越し祭」の開催案内状と形代です。


形代(かたしろ)に息を吹きかけ身体の悪い所を擦り名前を書いて一晩床に敷き、夏越祭に行きお祓いをする。




日尾八幡神社「夏越し祭」の封筒でこの中に案内状と、ひな型(形代)が入れられ配布される。


昨日、夏越祭で頂いたお札。


日尾八幡神社の注連石と朱色の鳥居に夏祭り表す提灯が飾られる。


夏越し祭の準備には、各町の宮総代(氏子総代)が集まり提灯を飾ったり、神主の指示のもと特設の祭壇設営等々を行う。鳥居の真ん中に大きな馬鹿提灯が吊される。神社の前には夜店が出る。以前は参道に多くの夜店が出店したが車社会になってからは、車両通行の妨げになり神社駐車場のみに夜店が出る。


夏越し祭は午後4時から神事が行われ始まる。正午を過ぎると出店が営業開始する。


神社の神門(楼門)で、夏越し祭はここで祭神が行われる。昔から神門で行っていたのか?だ。初めは社殿で行っていたが何時の日か神殿に変更したのか定かではない。


神門には各町の宮総代が集合して、正午過ぎから夏越し祭の準備が始まる。神門中央に特設の祭壇が設けられ、輪越しも特別に設けられる。


7月30日、は神門を潜る事が出来ないので、社殿にお参りする者は、神門に特設された祭壇にお参りするか、本殿まで行き参拝する人は神殿の横を通り行かなければならない。


午後4時、いよいよ夏越し祭の神事が行われ祭りが始まる。神門前に居並ぶ神男たちは各町の宮総代たちである。


宮司が祝詞を挙げる。神門の裏に石段158段があり、その上に日尾八幡神社の本殿があり祭神
が祭られている。この祭神に対して祝詞を挙げる。
本殿は三神殿に分かれ、西玉殿・中玉殿・東玉殿と呼ばれ、さらに東・西玉殿にはそれぞれ側玉
殿があり、それぞれの神が祭られている。


神事が終わり、宮司が参列した宮総代に対して御払いの神事を行う。


無事神事が終わり、宮司が先達となり今年の夏も氏子達が無事過ごせることが出来るよう
願いを込めて輪を潜る。
今日の松山は気温33,3度の猛暑でお手伝いをする宮総代さんも汗だくでした。中学の同期生
も宮総代をしており忙しそうでした。お神酒を頂いて帰りました。


全ての神事が終わり、夕暮れが近づくと氏子達がやってくる。昔は、行水をしてサッパリと
し、身を清め夕食を早めに済ませて、浴衣を着て親から小遣いを貰い団扇(うちわ)をもってお
夏祭りに行ったものだが、お参りよりも夜店を友達と、のぞき見をする事が楽しみであったが、
最近は様子が変わった。


時が過ぎる毎に大勢の氏子達がお参りにやってくる。


午後7時50分の画像、神社の前は旧国道11号線があり、通行量も多く事故の無いようにと、
松山東署交通安全協会久米支部の役員が出て交通整理をしていた。
昔は歩いてお参りに行ったものだが、最近は車で来る。そのため今年は、近くの施設の駐車場を
借りて特別に臨時駐車場を設けたそうだ。
贅沢になったものだ。毎年祭りは午後9時30分まで続けられる。
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松山城光のおもてなし その2

2015年07月30日 | 伊予松山歴史散策
今年ご逝去されました、歌舞伎役者の坂東三津五郎さんがお気に入りの伊予松山城。
「光のおもてなしin松山城」その2です。
特記事項
一昨日(7月28日)、青森県弘前市の蛯名正樹副市長さんが松山市の野志市長を訪れ、現存12天守同盟を唱え松山市も締結しました。蛯名正樹副市長さんは陣羽織姿で署名用巻物を持って現れました。現存天守を有する12都市で、広域連携によるPRを目的に同盟を結び、現存12天守の価値と魅力度の向上を図るための活動を呼びかけての松山訪問でした。
締結署名した後、野志松山市長は、弘前市は染井吉野桜の管理実績がある、松山城の染井吉野桜の管理が連携出来れば幸いですと語った。
日本の城の天守のうち、江戸時代またはそれ以前に建設され、現代まで保存されている天守のことです。現存12天守は下記の通りです。
備中松山城(岡山県高梁市)・姫路城(兵庫県姫路市) [H27.5.14同盟締結]・犬山城(愛知県犬山市)・丸岡城(福井県坂井市) [H27.7.4同盟締結]・松本城(長野県松本市) [H27.5.22同盟締結]・宇和島城(愛媛県宇和島市)・高知城(高知県高知市) [H27.6.11同盟締結]・丸亀城(香川県丸亀市)・彦根市(滋賀県彦根市)・松山城(愛媛県松山市)[H27.7.28同盟締結]・松江城(島根県松江市) [H27.5.26同盟締結]・弘前城(青森県弘前市)
さて話が少し外れましたが「光のおもてなしin松山城」に帰ります。筒井門から、再び光の芸術を見ながら下りて行きましょう。


筒井門前まで下りて来ました。松山城で一番大きな城門です。戸無門と筒井門にある郭に仕掛けられた「鳳凰」が一際際立って待ち受けていました。


その鳳凰です。


戸無門を潜ると、高さ16mの石垣とその上にある太鼓櫓が幻想的に見えて来ます。そして石垣のたもとにLEDで造られた花が仕掛けられていました。


戸無門を潜り、180度左に折れると、隘路と呼ばれている道があります。四色のLEDにより創り出された虹の石垣と、待合番所跡に造られた光の仕掛けが目に入って来ます。


隘路を下側から見た景観で、石垣の奥に太鼓櫓、そしてその奥に天守が見えます。幻想的な光景でした。ここは、鹿児島県出身の俳優で水彩画家の、榎木孝明さんお勧めの松山城の風景です。松山に来られた時ここで絵を画かれました。


待合番所跡に造られた光の仕掛けです。場所は大手門跡前に在ります。


待合番所跡に造られた光の仕掛けで、此処は、大手門跡、二之丸に行く分岐点の所です。


待合番所跡を下ると、揚木戸門跡に辿り着きます。揚木戸門跡から見た待合番所跡の仕掛けです。右の石垣が、小説坂の上の雲に出て来る秋山眞之が幼少時代に上った石垣です。


揚木戸門跡を少し下った所から待合番所跡までの通路で、右の石垣の上に隠門続櫓がある所です。通路に紫色のLEDを配し幻想的な感覚で醸し出しています。


NO9の画像から反対方向の風景です。


ロープウェイ山頂駅舎広場(長者ヶ平・ちょうじゃがなる)から登城通路を上から見た光景で、次の画像は下方から見た光景です。


ロープウェイ山頂駅舎から登城の通路で、下方から見た画像です。


ロープウェイ山頂駅舎前広場(長者ヶ平・ちょうじゃがなる)に創られた光の仕掛け物です。






ロープウェイとリフトの下に東雲口の登城通路が有ります。通路両サイドに光の仕掛け、そしてリフトの防御ネットにも光の仕掛けがあり、中央に見える支柱はロープウェイの支柱です。此れにもライトアップしてありました。


東雲神社の鳥居にもライトアップされておりました。東雲神社は、文政6年(1823)伊予松山第11代藩主松平定通公が造営した神社で、伊予松平は、本来久松で定通は久松家の祖先は菅原道真公であるため、道真公と藩祖久松定勝公を祭神としての藩崇敬の神社です。


最後の光の仕掛けで、東雲口登城通路東雲神社の石段です。今回は本丸からっ下山しながら光の仕掛けを見て来ましたが、登城する場合はここが最初に見る「光のおもてなしin松山城」の入口になります。
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松山城光のおもてなし その1

2015年07月29日 | 伊予松山歴史散策


「松山まつり第50回開催」・「松山城ロープウェイ運行60年」を記念して、夏の夜にライトアップイベント「光のおもてなしin松山城」が開催されております。
松山城の登城道や石垣を光の散歩道として演出し、広島市の協力で、広島の冬を約40万球の光で彩る一大イベント「ひろしまドリミネーション」で使用するオブジェの一部「光のトンネル」や「花畑」などが展示してあります。
また、開催に伴い、ロープウェイの夜間運行等さまざまなイベントを実施しています。
ライトアップ日時 :平成27年7月18日(土)~8月9日(日)18:30~21:30で、場所は、松山城本丸広場ほか(東雲口登城道、ロープウェイ山頂駅前など)8月2日(日)7日(金)、は夜間ロープウェイ運行(料金無料)18:00~21:30です。なお、天守のライトアップは一年中行われております。松山城光のおもてなしの光のライトアップは今年初めての特別企画です。
なお、松山城は平成19年「古都保存法」施行40周年に当たり、「財団法人古都保存財団」などが主催者となり、国土交通省や文化庁などが後援し、学識経験者等による選定委員会の審査を経て決定されたのが「美しい日本の歴史的風土100選」で、これは、全国に残るすばらしい歴史的風土の保存・継承や観光立国への貢献などを目的に、次世代に継承すべき美しい日本の歴史的風土が良好に残されている地域(都市)を選定したもので、松山市は、「松山城」と「道後温泉」が情緒あるたたずまいが残されていると評価されました。美しい日本の歴史的風土100選(平成19年3月2日選定)に選定されました。
また昨年、行ってよかった!日本の城2014で第2位にランクされました。

2位になった「松山城」(愛媛県松山市)に来られた方々の感想として下記の事が寄せられています。
天守閣からの眺望や、リフトやロープウェイも人気で、「リフトで山頂まで絶景でした。松山城も素晴らしい建物で十分に見学を楽しめました。庭園の散策もたのしめ、おすすめスポットです。」「小高い山にそびえる広大なお城。お城にはロープウェイで楽に登れる。ロープウェイを降りて少し歩くと天守閣が望める広場にでる。ここではボランティアのひとにシャッターを押してもらった。ボランティアガイドさんの心のこもった説明案内等、コミュニケーションで気持ちのいい観光ができ、楽しい思い出の松山城になった。天守閣を見学して、帰りはリフトで街並みを楽しみながら帰ってきた」など、周囲の人との交流や、公園内も楽しんだという口コミも多く寄せられました。

7月18日から「光のおもてなしin松山城」と題してLED電飾で飾った光の饗宴が行われています。最終日は8月9日です。
昨晩(7月28日)カメラ持参で鑑賞に行って来ました。その画像です。



本丸広場に飾られた光のお花畑、伊予松山城築城以来初めての光の饗宴、初代城主で築城者「加藤嘉明」はさぞかしの驚きでありましょう。


今回の、「光のおもてなしin松山城」で飾られる電飾は広島市の「ひろしまドリミネーション」で使用するオブジェの一部「光のトンネル」や「花畑」などをお借りしての展示です。


午後6時30分に点灯され、日が暮れると132mにある本丸広場に飾られた光の饗宴を鑑賞する市民や観光客が登城して来ました。


本丸広場に創られた光のお花畑。




それでは、本丸広場に創られた光のお花畑も見ながら下山してみましょう。


太鼓門で、門の前にある染井吉野桜の電飾が飾られていました。


太鼓櫓と太鼓門を結ぶ「太鼓門西塀」下の広場に飾り付けられた光のトンネル。


沢山の光の芸術品があり、子供たちは大喜び。


熱気球を模った電飾飾りで、子供たちは熱気球に乗った気分で写真を撮っていました。


筒井門まで下りて来ました。
筒井門前から見た松山の夜景で、昨晩は、坊っちゃんスタジアムで、5年振りとなる読売巨人軍の試合がありました。巨人対DeNAで、11対3で巨人が勝ちました。観衆は2万2千516人でした。
筒井門からの画像は、松山城光のおもてなし その2でアップしますので是非ご覧ください。
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暑中お見舞い申し上げます

2015年07月24日 | 伊予松山歴史散策

暑中お見舞い申し上げます。
何時も拙いブログを見て頂き有り難うございます。
今日7月24日、四国も梅雨が明けました。
昨年よりも4日遅く、平年よりも6日、遅い梅雨明けです。
現在各地で、全国高校野球選手権大会の地区予選が行われていますが、皆さん方の地区は如何ですか。
愛媛県予選は、今日ベスト4が決まりました。
明日は、休養日で明後日、今治西高校対松山北高校 松山東高校対小松高校、全て公立高校が勝ち上がって来ました。
なお、松山北高校は、前身が北豫中学校で、大正13年から昭和5年まで、坂の上の雲の主人公の一人である秋山好古が校長を務めた学校です。
私の父も卒業生(好古校長の教え子)なで是非頑張って欲しいものです。
台風12号が襲来しております。台風一過猛暑到来となります。
御身ご自愛下さい。

此れからの画像は、一昨年8月4日、松山港祭り三津浜花火大会を松山空港滑走路を挟んで南側にある「空港南公園」から撮った写真をアップしました。昨年は所要で撮影に行けなかったが今年は行こうと計画しております。


空港南公園から松山空港駐機中の飛行機と、空港ターミナルで、花火は画像の中央に上がります。花火会場は画像の山が見えますが、山の向うにある松山港で行われます。


現地に午後5時40分頃行きました。なんと既にプロ・アマのカメラマンが、三脚を立てて場所取りしてました。!!


良い場所は既に無かったですが、何とか場所を確保、三脚を立てて場所取り完了。目指す花火の撮影打ち上げ時間まで暫しの休憩です。


皆さん方そろそろ三脚に自慢のカメラにレンズをセットして撮影準備。


皆さんカメラをセットして「シャッタースピード・露出、アングル」を慎重に構えます。


大型レンズを既に装着何時で撮影OKのカメラマンです。


羽田から787型機が松山空港に着陸しました。
787型機左後方に伊予松山城天守が見えます。
787型機に使用されている炭素繊維は松山空港に隣接する松前町にある東レ愛媛工場で生産されており、ボーイング社から視察によく来るそうです。


午後8時、いよいよ花火大会の幕開けです。








午後8時から始まった松山港祭り(三津浜花火大会)を松山空港南側から撮りました。午後7時過ぎ少雨があり一時期カメラを収納しましたが、花火が打ち上げられる時間には止みました。最後の15号大玉花火は迫力満点でした。撮影場所は、花火大会会場からは離れているため仕掛け花火は見る事が出来ません。昨年は所要があり撮影に行けなかったですが、今年は撮影に行こうと計画しています。規模は四国最大で打ち上げられる花火は1万発、目玉は日本煙芸術協会会員による10号玉作品そして、超特大15号玉(45センチ)のダイナミックな花火が真夏の夜空に打ち上がります。なお、松山港祭り(三津浜花火大会)が今年第65回、8月2日(日)午後8時から9時20分まで、雨天決行ですが、荒天の場合は8月23日に順延となりますと告知があります。

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久米地区の神社探訪その12・日尾八幡神社 3 境内石碑群

2015年07月22日 | 伊予松山歴史散策
旧県社格の日尾八幡神社の境内には、石碑が沢山あり、三輪田米山揮毫の石碑が数基ある。
此処で三輪田米山に就いてふれておこう。
米山は、文政4年(1821)1月10日、日尾八幡神社の神官、河内守清敏の長男として生まれた。幼名を秀雄といい国学者野之口隆正の松山来訪の時入門を許され常貞の名をもらった。号を米山と称した。
学問を好み、和漢書を読みあさり、松山の伊賀海士人、大洲の常盤井厳戈に就いて国学を学び、更に諸国を巡って研鑚を積んだ。
嘉永元年(1848)父清敏が亡くなり家に帰り神職を継いだ。其の後、王 羲之(おうぎし・中国の書家)の書を見て感嘆し書法を猛練習した。そして米山独自の書風を会得し、大いにその名を挙げる様になった。書道ばかりでなく、国学者であり、儒学者である米山は、幕末から明治初期にかけて、社務のかたわら鷹子の自宅に三輪田熟を開き近郷近在の子弟を教育した。福音寺の仙波太郎陸軍中将も三輪田熟の門下生であった。
慶応2年(1866)幕府の第二次長州征伐に際し、親藩である伊予松山藩は出兵を命ぜられ、藩主松平勝成自ら出陣した。この時藩命により戦勝祈願をするよう言い渡された。米山は、「松山藩は徳川幕府の親藩として、心ならずも朝敵と言う汚名を受けられたのでしょう。朝敵が勝つように祈るのは臣下のする事ではありません。神様もまたお受けなさるはずもありません。」ときっぱり戦勝祈願を断ったと言われている、度胸がすわった神官であったそうです。
また米山は、酒好きとして有名で、揮毫する時は好きな酒を飲んでから筆を執ったと言われている。但し酒を飲まないで書かれたこともあり、その時の揮毫も素晴らしい書体として残っている。
明治41年11月3日、88歳を以て生涯を閉じた。多岐に渡り活躍した神官であった。
日尾八幡神社の末社は15社あるが全ての神社ではないが社号碑の揮毫は米山の筆が多い。
また、境内には、灯篭・狛犬・玉垣・幟立石・等沢山の石碑がある。


三輪田米山が生まれた日尾八幡神社の社号碑で、側面に明治13年庚辰12月と彫られている。
高さ3,1m、正面幅53㎝、厚さ45㎝、西側面に氏子中とある。米山60歳の書である。この社号碑と傍に立つ注連石の書と共に世の人々の称賛を浴び、米山の名を高め、以後揮毫の依頼が増え、ことに社号碑の揮毫依頼がにわかに増えたそうだ。


日尾八幡神社正面大鳥居の前にある注連石で、向かって右に「鳥舞」左には「魚躍」と揮毫されている。社号碑と共に米山の名を高めた書である。明治13年10月15日建立で米山60歳の時である。


三輪田米山記念碑「米山碑」。
米山の古里に米山碑がないのは残念なことだ。と「鷹子ふるさと会」で話が出たことが契機となり記念碑の建立が計画され、地区内外多数の人の賛同を得て、三輪田米山記念碑が建立された。高さ3,4mの巨石に、書家浅海蘇山が揮毫「米山碑」の三文字が彫られている。米山が宮司であった日尾八幡神社神門下広場に平成元年2月28日、米山を偲ぶ300名が集まり米山より4代目の三輪田葉子らが紅白の綱を引き除幕された。石は米山の墓が伊予の青石に因んでこの米山碑も同じ伊予の青石を使っている。
なお墓所は、四国88ヶ所第49番霊場浄土寺の墓地にある。




番外米山の墓。
米山と言えば酒がすぐ連想される。自宅(日尾八幡神社の神官自宅)の前には、後藤酒造「久米の井」がありよく酒を飲みに行ったそうだ。後に面白可笑しく大分拡張だれ伝えられているが、酒がお好きであった事には間違いなく、酔われてから筆をとられた事も事実、飲まないで書かれた事も事実である。多くの名筆を残し明治41年11月3日、88歳の高齢で生涯を閉じた。
墓は、浄土寺にあり、墓碑銘の文字は、生前自ら書いたもので、表面に、米山三輪田先生墓、裏面に、教正自取筆、明治廿七年甲午冬十一月習書、明生中建之 明治四十一年十一月三日逝去 年八十八・・と書かれている。




三輪田元綱碑。三輪田米山記念碑「米山碑」の左にある。三輪田3兄弟の1人。
三輪田元綱は、文政11年(1828)、日尾八幡神社の神官、河内守三輪田清敏の3男として生まれた。米山の弟で元綱も学問を好み、阿沼美神社の神官田内董史について和漢の学を修めた。
安政6年(1859)4月、国学者近藤芳樹の来松に接して直接その教えを受けた。同年11月芳樹の長州へ赴くに際し元綱も同行して岩見・出雲の諸国を歴遊し、広く勤王の志士と交遊を深め翌年万延元年帰郷した。兄米山同様に大洲の常盤井厳戈・矢野玄道から国学を学び研鑚を積んだ。その後江戸に上がって平田鉄胤について益々学識を深め、桜田門外の変の情勢を見聞した。そして京都に移り、勤王の志士達と交遊を深めその結果、京都守護職松平容保の命を受けた新選組の浪士狩りにより同志らと共に捕らわれの身となった。元綱は、但馬豊岡の京極飛騨守家へお預け、押し込めの身となった。時に歳36歳であった。幽閉5年、明治維新と共に許され自由の身となり帰郷、その後新政府に召され神祇権少祐、更に大学丞となり更に累進して外務権大丞(外交官)に進み、明治2年(1869)従6位を授与された。しかし間もなく病にて官を辞した。
郷里へ帰り静養も空しく、明治12年(1879)1月14日、54歳で波乱の生涯を閉じた。


番外、三輪田元綱の墓。
墓所は、三輪田家の前にある墓地にある。墓石は東向きで、正面に「権小教正三輪田元綱墓」南面に「旹年五十四」北面に明治12年1月14日とある。兄米山はこの年59歳。明治維新の際、勤王に身を捧げた末弟の墓碑銘を米山はどんな思いで筆をとったのであろうか。
米山と元綱の間にもう一人兄弟がいた、三輪田清敏の2男、三輪田高房で、文政6年(1823)10月8日、高房も兄米山、弟元綱同様に学問を好み、江戸に出て昌平校に学び「伊予の田舎にもこんな男がいたのか。」と教授や同僚を驚かせたと言われた。松山に帰り万延2年(1861)伊予松山藩校明教館(現愛媛県立松山東高等学校)で藩士の子弟を教え、明治5年久松定謨(旧伊予松山藩松平(久松)家第16代当主)の守役となり、明治16年学習院の講師及び幹事になった。明治43年11月5日、88歳で逝去した。墓は東京の青山墓地にある。藩校明教館で秋山好古(幼名信三郎・坂の上の雲の主人公の一人。)も教えを得た一人である。


三輪田米山・三輪田元綱の石碑の前に「告朔之餼羊(こくさくのきよう)」と揮毫されている石碑がある。原点は論語の「八佾第三(はちいつ)」によるものだとか。昭和62年3月除幕されている。石碑は、高さ2,2m、幅1,3m、の御影石。
この碑は書道誌「書神」の前会長であった書家故、織田子鵬の業績を称え書神会松山支部によって建てられた。子鵬が生前今治から松山へ度々指導に来られたこと、また、久米地区に門弟が多いこと等から、書家米山縁のこの地を選び、一周忌を期して昭和62年3月8日に建てられた。碑の文字は、中国の故事から出た言葉で「古くからの習慣は、理由なく廃止せずに保存し、他日の用に立てるべきである。」と言う意味だそうだ。・・字体は何と言う字体か?凡人には、一字、一字の文字さえも分からない。
告朔之餼羊の石碑、左に「明治百年記念樹」の石碑があるが、記念樹として植栽したであろう、土を盛土して植栽した形跡は伺えるが記念樹は枯死したのか現存しない。


神門の東に社務所がある。社務所玄関の左に紀元2600年記念の碑がある。
紀元2600年記念とは、昭和15年(1940)に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った一連の行事。昭和15年に誕生した子供の名前には「紀」を使った名前が多い。紀子、秀紀、紀夫等。


日尾八幡神社の神門の西側に建立されている。
正面に「忠魂碑」と豪快な文字が刻まれている。裏面には、支那事変より大東亜戦争にかけて、国家鎮護の神となられた219柱の氏名と、「昭和35年10月嘉辰建之」と言う文字が刻まれている。碑の石材は花崗岩で、高さ3,5m、台座石の高さが2m、合わせて高さが5,5mもある巨大な碑である。この忠魂碑建立に就いては、元在郷軍人久米村分会長故石川元一らが、英霊に感謝し、その氏名を永久に残し祀るもので、揮毫は、鷹子の故、窪田久で名筆である。


神門を潜ると直ぐ左側に「手水石・(漱石)」がある。正面に米山揮毫である。何時頃揮毫したのかは不明で、米山らしい豪快な筆である。


神門から158段の長い石段を上り詰めると社殿があるが、その石段沿いに左右16基の灯篭が建立されている。石段沿い中腹に、境内末社:黒田霊社・奈良原神社・杉谷金毘羅社・の3社がある。


神門を潜ると158段の長い石段がある。その石段沿いに左右16基灯篭があり、石段を上り詰めると社殿があるがその前に、注連石が視野に入ってくる。揮毫は三輪田米山で左が「如水」右が「上善」昭和55年5月建立で新しい注連石である。「如水」・「上善」は米山生前に書き留めていたものを使用した。


息を弾ませて158段の石段を上り詰めると、日尾八幡神社の拝殿に辿り着く。拝殿の左側に百度石がある。高さ1,15m、正面に「百度石」と楷書で揮毫、正に米山らしい文字であり、如何に多くの人々が、如何に多くの願いをこめてこの百度石の前に立った事であろう。西側面に「明治23年12月」と書かれている。米山70歳の時である。
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