EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

俳句の街松山の句碑巡り 3 野村朱燐洞

2013年09月30日 | 伊予松山歴史散策

野村 朱鱗洞、明治26年11月26日 生まれ、大正7年10月31日逝去、享年26歳。愛媛県温泉郡素鵞村(現・愛媛県松山市)出身の俳人である。本名は守隣(もりちか)である。前号は柏葉、朱燐洞である。
父・徳貴、母・キヌの次男で、三姉一兄がいた。松山高等小学校卒業し温泉郡郡役所給仕になり、その頃から、短歌を上司の和田汪洋に学び「柏葉」と号した。明治42年より俳句に心を傾け、同年5月、17歳の時、「四国文学」創刊号に、初めて「柏葉」の名前で俳句が一句載った。河東碧梧桐とは、翌明治43年秋、松山で相識る。明治44年3月15日から俳号を「朱燐洞」と改め、同年4月井泉水の「層雲」の創刊号よりこれに参加し、5月には松山で「十六夜吟社」を結成する。明治45年2月から「海南新聞」俳句欄選者となり、森田雷死久に師事する。大正4年10月「層雲」松山支部を創立、翌5年には、「層雲」選者となり、広く活躍し、十六夜吟社を率いて松山に自由律俳句運動を展開するなど少壮の俳人として期待されていたが、大正7年の世界的な流感がもとで、その鬼才を惜しまれながら夭折した。その時、朱燐洞は、温泉郡郡役所書記、月俸17円であった。つつましく、口数少なく「純真で質素な生活の中にあって自分を深く生かす事を怠らず、求道者の勇猛心をもち、鋭い神経を集めた細い肉体と、深く土に喰い込んで行く強い意力の根を持っている」人であったと、井泉水は、自ら編んだ朱燐洞の遺稿集「礼讃」の序で述べている。
種田山頭火が、昭和14年10月に松山を訪ねて来て、ついにこの地松山で終えたのは、朱燐洞を慕って来たものであり、朱燐洞死後22年目のことであった。野村家は昭和8年絶家した。・・とある。


喜与町三宝寺にある句「風ひそひそ柿の葉落としゆく月夜」
自由律の俳人野村朱燐洞の句で、昭和52年11月26日(彼の誕生日)に除幕式が行われた。建立者は門下の高木和雷。彼は7歳年下で、この年満78歳であった。句碑石材は、和雷の友人、松山市高井町波賀部神社宮司、武智圭邑(号、不申)より譲られたものである。この句は、大正4年11月6日、朱燐洞の句友金本時雨傘(本名岩太郎・彩泡とも号した。元上浮穴高校校長金本林造の父君)の自宅(松山市河原町)で朱燐洞の主宰する十六夜吟社例会があった時の作品である。朱燐洞大正時代の家は、この三宝寺の西隣にあり彼の葬儀はこの寺で行われた。菩提寺は市内小坂町多聞院(現在は枝松町・拓南中学前に移転)である。墓地は、菩提寺多聞院管理の小坂町一丁目にある阿扶志墓地にある。

松山市内に句碑は、喜与町の三宝寺と枝松町の多聞院、松山城南高校正門、高浜一丁目にある。


多聞院にある句碑「倉のひまより見ゆ春の山夕月が」
この句は、多聞院山門を入ると直ぐ左に建立されている。寺は真言宗豊山派で、近くの阿扶志墓地に朱燐洞の墓がある。


市内小坂町にあった多聞院は、最近枝松町の拓南中学校前に移転した。
左に見える石碑が、朱燐洞の「倉のひまより見ゆ春の山夕月が」があり、奥に本堂がある。昭和2年4月の句。62回忌の昭和54年10月31日建立。朱燐洞の自筆。


小坂町一丁目にある阿扶志墓地の朱燐洞の墓。種田山頭火は、高橋一洵らの案内で、昭和14年10月5日夜9時すぎ、雨の中この墓地を訪ね当て、宿願を果たした。山頭火が松山に来たのは、朱燐洞の墓参をすることが最大の目的であった。長生きしていれば凄い俳人になっていただろうに!!残念。
墓は、13回忌に次姉「ノブ」が先祖代々の墓として建てたもの。
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俳句の街松山の句碑巡り 2

2013年09月28日 | 伊予松山歴史散策
松山の俳句が盛んなのは、伊予松山藩3代目藩主、松平定行に随行して来た御用商人、泰一景が松山の城下に俳諧を広めたのが始まりで、その後、庚申庵で有名な栗田樗堂が現れ、全国で初めてとなる俳誌「俳諧花の曙」を刊行した。そして奥平鴬居が全国で三番目に古い「真砂の志良辺」を出した大原基戎らが松山の地に俳諧を根付かせた。その後、俳聖、子規が「写生」を基本とする新境地の俳句を提唱し、高浜虚子、河東碧梧桐らの門人が子規の遺志を受け継ぎ松山から多くの有名俳人を輩出した。松山出身ではない種田山頭火も全国を吟行した中で、伊予松山が一番よかったと最期の地を松山と定めた。
保守的で規律に従う傾向に強い伊予松山人、五七五と言う俳句に適していたのかもしれない。一方、学生時代まで親友であった高浜虚子と河東碧梧桐は、子規に俳句以外に、野球を教わり益々親交を深めていったが、或る事が切っ掛けとなり決別をする。碧梧桐は、従来の五七五調の形にとらわれない新傾向俳句に走り始め、明治39年より明治44年にかけて新傾向俳句の宣伝のため二度の全国俳句行脚を行う。
今回の句碑めぐりは、虚子と碧梧桐とその関係の句碑である。


若き日の高浜虚子。
虚子(明治7年2月22日~昭和34年4月8日)は、愛媛県温泉郡長町新町(現・松山市湊町)に旧松山藩士・池内政忠の5男として生まれた。9歳の時に祖母の実家、高濱家を継ぐ。明治・昭和期の俳人・小説家。本名・高濱 清。河東碧梧桐と共に子規門下の双璧とされ、俳句結社「ホトトギス」を柳原極堂から引継ぎ多くの弟子を育て自身も多彩な句を残した。俳句の理念として「客観写生」「花鳥諷詠」を掲げ、伝統俳句を子規から受け継ぎ子規俳句の後継者として活躍、ホトトギスの理念となる「客観写生」「花鳥諷詠」を提唱したことでも知られる。


この句碑は、松山市丸之内にある東雲神社境内にある。
句は「遠山に 日の当りたる 枯野哉」で明治38年の作。虚子の代表句と言われている。この句について虚子は「松山の御宝町の家を出て、道後温泉の方を眺めると、道後の後ろの温泉山にぽっかりと冬の日が当たっている所に何か頼りになるものがあった」と解説している。


東雲神社本殿で、虚子の句碑は石段下の神門右にある。
神社は、文政6年(1823)、松山藩11代藩主松平定通が、藩祖である松平定勝の神霊を祀るため、京都の吉田家に神号授与を要請し、息長福玉命の神号を得て、松山城山揚木戸に仮宮を造営し仮勧請した。天保8年(1837)、12代藩主松平勝善は、松平定勝の神号授与を再度依頼し、東雲大明神の神号が授与され、松山城内の御社へ正式に勧請した。(この年より、松山城山長者が丘に社殿の造営が開始された。昭和20年7月26日、松山大空襲により、社殿を焼失しました。昭和48年、東雲神社の旧社殿があった場所に、神明造の社殿を復興した。


高浜年尾の句碑で、松山市一番町三丁目の萬翠荘への途中にある。
年尾は、高浜虚子の長男として東京神田で明治33年12月16日生まれた。本名の年尾は子規が名付けた最初は「としを」を俳号としていたが、昭和13年以後「年尾」と改める。昭和26年、虚子にかわり『ホトトギス』雑詠選をなし主宰した。
句は、「なつかしき 父の故郷 月もよし」


柳原極堂の句碑で、松山市一番町三丁目の萬翠荘への途中にある、高浜年尾の句碑の横に建立されている。
句は、「城山や 筍のびし 垣の上」で、極堂は正岡子規の新俳句普及のため、俳誌「ほととぎす」を発刊、松山俳句界の興隆につとめ、晩年は子規顕彰につくした。
柳原 極堂、伊予国温泉郡北京町(現在の松山市二番町)に父・柳原権之助、母・トシの長男として慶応3年2月11日出生。明治29年(1896)には正岡に勧められ号を「極堂」に変え、明治30年(1897)に月刊俳誌「ほとゝぎす」を創刊。秋山眞之、正岡子規は松山中学の同級生である。


俳誌「ほとゝぎす」創刊の地にある記念碑。
明治30年1月、子規の革新俳句運動を後援するため、極堂は俳誌「ほとゝぎす」を創刊した。部数300、1部6銭だった。20号まで発行し、高浜虚子が東京で跡を継いだ。建立場所、松山市北立花町8番地。


在りし日の河東碧梧桐。
碧梧桐は、明治6年2月26日生まれ、昭和12年2月1日逝去は、日本の俳人・随筆家。本名は秉五郎(へいごろう)。愛媛県温泉郡千船町(現・松山市千舟町)にて松山藩士で藩校・明教館の教授であった河東坤(号・静渓)の五男として生まれる。少年の頃は正岡子規の友人で後に海軍中将となる秋山眞之を「淳さん」と敬愛していた。
明治21年、松山中学(現在の愛媛県立松山東高校)に入学。明治22年、帰郷した子規に野球を教わったことがきっかけで、同級生の高濱清(後の高浜虚子)を誘い子規より俳句を学ぶ。
子規は、碧梧桐と虚子について、「虚子は熱き事火の如し、碧梧桐は冷やかなる事氷の如し」と評した。


松山市役所前にある句碑で、碧梧桐最初の句碑。昭和6年松山刑務所(現 県立中央病院)内に、情操教育のため、虚子の句碑とともに建立されたが、昭和28年8月、17回忌にこの地に移された。
句は「さくら活けた 花屑の中から 一枝拾う」
句碑の文字は、見えにくい・・文字に墨を入れ見えやすくして欲しい。


松山市荏原町の大蓮寺山門の句碑で「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくことごとくぶっしょうもあり)」の碑が建っている。
河東碧梧桐が滞在したことがある大蓮寺に昭和53年9月、山門脇に建立された。
碧梧桐は、新傾向俳句から更に進んだ定型や季題にとらわれず生活感情を自由に詠い込む自由律俳句誌『層雲』を主宰する荻原井泉水と行動を共にした。引退については俳句創作への情熱の衰えと、虚子への抗議の意味が込められていたようだ。・・とある。
碧梧桐の字は誰が見ても直ぐ分かる字体である。


大蓮寺山門の句碑裏面の記載事項。
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俳句の街松山の句碑巡り 1

2013年09月26日 | 伊予松山歴史散策
正岡子規は東京・根岸の自宅で明治35年9月19日午前1時、自宅で亡くなり享年36歳でした。子規の祥月命日の9月19日、松山子規会(会長:井手康夫)主催の法要と記念講演会が 子規の遺髪を埋葬した松山市正宗禅寺で開催され記念講演もありました。講演は、子規会副会長和田克司氏が行い、正岡家の最新情報を織り込まれた素晴らしい内容でありました。
私は俳句の嗜みは全く無い者ですが、和田先生の講話を聞き市内に建立してある句碑を巡って見たい気持ちに駆り立てられ、カメラ持参で数回に区切り独断と偏見で巡り歩く事にしました。松山ゆかりの代表的な俳人は、正岡子規・高浜虚子・河東碧梧桐・夏目漱石・種田山頭火・野村朱燐洞・石田波郷・中村草田男・篠原梵・柳原極堂であるがその他多くの俳人ゆかりの句碑があります。先ずはその第一弾です。松山市内に句碑が500基位建立されているのでは??子規の句碑だけでも55基あるそうですから・・全部巡るのは大変です。


先ず始めに、句碑と言えば何をさておいても、一番は、「春や昔十五万石の城下哉」JR松山駅前にある松山を代表する俳句である。
子規は新聞「日本」の記者でしたが、明治27年に勃発した日清戦争に従軍記者として参加することを志願し、周囲の反対を押し切って明治28年、中国へと旅立ち、この句は、従軍の前に松山へ帰郷した三月中旬に詠まれたと言われいている。伊予松山藩は、江戸幕府の親藩であることを子規は、誇りに思っていた。十五万石の城下町も今は昔となってしまった。故郷松山を慈しみ、目に焼きつけようとするかのような句である。 現在、JR松山駅前の広場に句碑が建てられ、松山を訪れる人々を出迎えています。松山には、「春や昔十五万石の城下哉」の句碑が三ヶ所に建っている。一つがJR松山駅前、二つ目が子規記念博物館の横で、三つ目は、松山市勝岡町の松山発電所記念公園にある。


句碑は、JR松山駅前の松山東警察署JR松山駅前交番の前に建立してある。


「春や昔十五万石の城下哉」の句碑裏面で、昭和37年5月建立・・松山市長 黒田政一、寄贈 創立50周年記念 松山信用金庫理事長 そして施工者、石工サン達の名前が刻印されている。


二つ目の「春や昔十五万石の城下哉」の句碑で、この句碑は、3回移転されている。最初に建立されたのは、昭和24年4月4日で、場所は、国鉄松山駅前(現JR松山駅前)次に、昭和28年松山市駅前ロータリー東端、そして昭和52年城山公園野球場前に移転され、平成11年3月現在地(子規博)横に移転され現在に至っている。句碑石は、正宗禅寺(子規堂)にあった自然石(伊予青石)である。句碑裏面には、昭和24年4月4日  松山市観光協会 後援 井関邦三郎、越智日新、明比森行と刻印されている。
以上、写真と資料は、松山コンベンション協会所属・松山観光ボランティアガイドの会、元役員 増山正則氏提供。


子規記念博物館正面で、「春や昔十五万石の城下哉」の句碑は右手に再建立されている。


三つ目の「春や昔十五万石の城下哉」の句碑で、場所は、松山市勝岡町の松山発電所記念公園にある。この句碑は昭和48年に造られて、平成15年9月18日、開園記念として四国電力が移転建立。揮毫者は不明。
公園の面積は、松山坊っちゃんスタジアム3個分程度と広々としている。この地は、元四国電力松山火力発電所の跡地である。


松山市勝岡町の松山発電所記念公園・松山太陽光発電所の表示板。
松山発電所記念公園は、正面玄関管理事務所に申し出ると利用出来る。(公園利用規則に基づいて)


松山太陽光発電所の発電パネル。


現役当時の、四国電力松山火力発電所で、昭和33年9月1号機が稼動、出力6万6千KW、2号機が昭和35年8月稼動、出力7万5千KW、で稼動していたが、平成13年3月その使命を終えた。・・この画像は松山発電所記念公園に設置してある。
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秋の交通安全週間

2013年09月24日 | 伊予松山歴史散策
昨日松山の大街道商店街に行ってみると、愛媛県警松山東警察署主催で
交通安全推進の行事を行っていた。パトカー・白バイ・二輪車の安全確認仕様車・消防自動車タンク車も応援に来ていたので思わずシャッターを切った画像である。




















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窪寺跡の彼岸花群生

2013年09月21日 | 伊予松山歴史散策
松山市窪野町北谷地区に「彼岸花」の群生地がある。地元住民たちが大切に管理育成している。
この地区には、四国88ヶ所第46番札所「浄瑠璃寺」があり、四十五番札所・岩屋寺(上浮穴郡久万高原町)から巡礼する遍路道である。
 お遍路さんと地元住民の見ず知らずの人同士が出会い、言葉を交わし、心を通わせ「(お・も・て・な・し)、お持て成し」の心でお接待をしている姿をみると心が和む。・・いい光景である。
「彼岸花」の群生地の上に一遍上人が修行をした窪寺跡の石碑がある。
昨年は、撮影時期を逸し、気が付くと開花が過ぎていた。今年は遅れることなく現地に行ってみると彼岸花群生地区は満開であった。
地元農家の方が彼岸花群生地区を、こまめに手入れをし気持ちよく鑑賞出きる様配慮しているのは、やはり、お・も・て・な・し、の心意気で、・・有り難いものです。
撮影に県外からも来ておられた。
近くに由緒ある  正八幡神社があり 秋山好古が揮毫した 注連石がある。
画像は、昨日「9月20日」撮った彼岸花群生地区(松山市窪野町北谷)。


一遍は鎌倉時代中期の僧侶で時宗の開祖。
延応元年(1239年)伊予国の豪族、河野通広の第2子として生まれる。幼名は松寿丸。生まれたのは愛媛県松山市道後温泉の奥にある宝厳寺の一角といわれ、元弘4年(1334)に同族得能通綱によって「一遍上人御誕生舊跡」の石碑が建てられている。本家の河野氏は、承久3年(1221)の承久の乱で京方について祖父の河野通信が陸奥国に配流されるなどして没落し、一遍が生まれた頃にはかつての勢いを失っていた。河野一族の極楽往生を願い全国遊行を行っていたが、父の死をきっかけに還俗して伊予に帰る。しかし一族の所領争いなどが原因で、文永8年(1271)32歳で再び出家、信濃の善光寺や伊予国の窪寺、同国の岩屋寺で修行する。窪寺は、一遍上人成道の地として極めて重要な所である。
一遍上人生誕750年・没後700年を記念事業として記念碑が建立してある。
先日、一遍上人御誕生の宝厳寺(松山市道後湯月町)が火災で全焼し、本堂の重要文化財「一遍上人立像」が焼失した。


彼岸花の分布は、北海道から琉球列島まで見られる。自生ではなく、日本には中国から帰化したものと考えられる。その経緯については、稲作の伝来時に土と共に鱗茎が混入してきて広まったといわれているが、土に穴を掘る小動物を避けるために有毒な鱗茎をあえて持ち込み、あぜや土手に植えたとも考えられる。また鱗茎は薬になり、救荒食でもある。そのような有用植物としての働きを熟知しての運搬の可能性も無視できない。
日本に存在するヒガンバナは全て遺伝的に同一であり、三倍体である。故に、雄株、雌株の区別が無く種子で増えることができない(遺伝子的には雌株である)。中国から伝わった1株の球根から日本各地に株分けの形で広まったと考えられる。


松山市窪野町北谷地区にある「彼岸花」の群生地、今が見頃。


彼岸花は、別名「曼珠沙華」とも呼び異名が多く、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨子花(すてごばな)、はっかけばばあと呼んで、日本では不吉であると忌み嫌われることもあったが最近は趣が変わり活花として観賞するようになった。・・世も変わったものである・・・
季語・花言葉
秋の季語。
花言葉は「情熱」「独立」「再会」「あきらめ」
「悲しい思い出」[4]「想うはあなた一人」「また会う日を楽しみに」。
迷信
花の形が燃え盛る炎のように見えることから、家に持って帰ると火事になると言われている。


多くの人がカメラ持参で自分の好みのアングルで撮っていた。撮る人を撮りそれをまた撮る私。




彼岸花は、全草有毒な多年生の球根性植物。散形花序で6枚の花弁が放射状につく。
道端などに群生し、9月中旬に赤い花をつけるが、稀に白いものもある。その姿は独特で、夏の終わりから秋の初めにかけて、高さ30 ~ 50cmの枝も葉も節もない花茎が地上に突出し、その先端に包に包まれた花序が一つだけ付く。包が破れると5~ 7個前後の花が顔を出す。花は短い柄があって横を向いて開き、全体としてはすべての花が輪生状に外向きに並ぶ。花弁は長さ40mm、幅約5mmと細長く、大きく反り返る。


若い二人連れ、こんな群生初めて見たわ!!凄いねと、言葉を交わしながら鑑賞していた。
管理保護している人達の苦労も忘れないで下さいね。


群生地区には雑草も綺麗に除去され、鑑賞する小さな遊歩道も作ってある。


親子連れで鑑賞。・・花を傷めないようにとお母さんは子供に言い聞かせていた。これも道徳教育の一環、子供の躾。・・いい光景であった。


松山のTV局も取材に来ていた。私にも撮影している所を撮らせて下さいと頼まれた。


一遍上人生誕750年・没後700年を記念事業として記念碑が建立されている付近にも彼岸花が咲いていた。


8月10日、一遍上人生誕地である宝厳寺本堂と庫裏が火災で全焼した。そして国指定の重要文化財「一遍上人立像」が焼失した。
松山城天守最上階160mから撮影。780mm相当レンズで


群生地区近くに由緒ある正八幡神社があり、陸軍大将 秋山好古が揮毫した 注連石がある。「碑文:作善降之百祥」・左に「不善降之百殃」がある。
作善降之百祥は、「よいことをすれば百の嬉しいことがあり」」
不善降之百殃は、「悪いことをすれば百の災いがある」
画像は、右側の注連石、作善降之百祥。
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