EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

私が見た富士山・「行った・見た・撮った」その2 山中城趾から

2021年11月25日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

平成24年3月25日(日)千葉県習志野市大久保四丁目に完成した「市民プラザ大久保」の落成式と記念講演が開催されました。

私はこの行事に参列し、「秋山好古揮毫石碑を訪ねて」と題してお話をさせて頂きその帰り3月27日(火)静岡県三島市にある日本100名城第40番「山中城」に行きました。この日は快晴で、素晴らしい富士山を眺める事が出来ました。

東京駅から新幹線で、JR三島駅に移動駅前からタクシーで山中城跡に行きました。

運転手さん曰く、「今日の富士山は最高に綺麗です。天候が良くこんな富士山は年に数回しかないその一日です。良いときに来られましたね。・・と言葉が帰ってきました。」

バスは1時間に一本の運行で不便です。時間を有効に使うためタクシーで移動しました。

帰りも、同じ運転手さんのタクシーで帰り、三島では美味しい「うな重」をいただき新大阪行の新幹線に乗車帰路につきました。

時間がなく、源頼朝が篤く崇敬された三島神社参拝が出来なかったのが心残りでした。

しかし快晴の富士山を見ることが出来最高の気分でした。

青空高く そびえたち

     からだに雪の 着物着て

     かすみのすそを 遠くひく

     富士は 日本一の山 

の唱歌の如く世界に誇る山「富士山」です。

360度、どこから見ても形の変わらない富士山綺麗美しい山です。

BSテレビ東京から連絡がありこの画像を使用させて欲しいと要請があり提供した画像です。放映は関東地区限定番組でしたので私は視聴することが出来なかったです。・・残念!!

山中城の障子堀を手前にして、背景に富士山いい風景です。障子堀の保存が良く綺麗に整備されていました。

山中城跡展望台にある説明板です。

山中城は、戦国時代末期の永禄年間(1560年代)に、小田原に本城をおいた後北条氏が築城したと記述があります。
その後天正17年豊臣秀吉と不仲となった北条氏政は、秀吉の小田原攻めに備え整備、増築を行なった城跡と資料にあります。

しかし翌天正18年(1590年)3月29日、増築が未完成のまま、4万の豊臣軍の総攻撃を受け、北条軍は4千で、必死の防戦もかいなく鉄砲と圧倒的兵力の前にわずか半日で落城したと伝えられています。

400年前の遺構がそのまま復元され、石を使わない土だけの山城は全国的にも非常に珍しいものです。

現在は、山中城跡公園として整備され日本100名城第40番に指定されています。

JR三島駅舎正面で、午前11時台の下り新幹線に乗車しました。

午前11時台の新幹線下りの窓から。

千葉県習志野市大久保商店街に建立された「秋山好古顕彰碑」で、NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」放映を記念して建立されました。

習志野市大久保は、秋山好古が育て上げた「日本の最強騎兵隊の地・騎兵第一旅団の拠点です。」

中でも、騎兵第13連隊が最強の騎兵隊でした。

千葉県習志野市大久保四丁目に完成した「市民プラザ大久保」の落成式で挨拶をされる習志野市長。

千葉県習志野市大久保四丁目に完成した「市民プラザ大久保」の落成式に参加された習志野市大久保の住民の方々。

千葉県習志野市大久保四丁目に完成した「市民プラザ大久保」の落成式次第。

習志野市は、日本最強の騎兵隊13・14・15・16連隊があった所で、秋山好古はこの騎兵連隊の第一騎兵旅団長として出征し凱旋した所である。

現在は、13連隊跡は東邦大学薬学部・14連隊跡が日本大学生産工学部・15連隊跡に東邦大学付属・中学校・高等学校・となり、16連隊跡は更地となり、隣接して陸上自衛隊習志野駐屯地があります。

千葉県習志野市大久保商店街で、京成電鉄大久保駅前から、東邦大学薬学部・日本大学生産工学部・東邦大学付属・中学校・高等学校えと続く商店街です。

通学の時間帯は大勢の学生で通りが学生一色です。戦前は、騎兵隊の街、戦後は学生街です。秋山好古の顕彰碑はこの通りの中ほどにある真言宗豊山派「薬師寺」の入り口に建立されています。

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私が見た富士山・「行った・見た・撮った」その1機上から

2021年11月15日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

松山から東京に行くには、JRで行くか、航空機で行くかである。

空路は、松山空港を離陸、瀬戸内海「伊予灘」上空で高度を確保して西日本最高峰、石鎚山(1982m)左側を飛行、鳴門海峡・紀伊半島を過ぎると、遠州灘上空にさしかかる。

大気の水蒸気が少なく、見通しがよければ「槍ヶ岳」を望むことが出来る。

そして、駿河湾上空に来ると「富士山」が見えてくる。

房総半島上空で左回旋し横断、羽田空港に着陸する。

わかりきった事ですが、天候が悪いと富士山は見えません。

私は必ず左側の窓際の座席を確保します。富士山を撮るために。時には主翼の真上窓際になる時があります。

画像は、客室乗務員の許可を得て撮影しました。

ボーイング787型機の主翼で、随分細く驚きました。

機体の素材が、炭素繊維ですので軽いからこの主翼で大丈夫なのでしょうか!!と感じた。

ボーイング787型機の主翼。

この時は、天候が悪く富士山は見えなかったです。

羽田空港着陸態勢に入ったボーイング787型機の主翼です。

羽田空港に無事着陸、天候は雨でした。

羽田空港から飛行し松山空港に着陸したボーイング787型機です。

松山空港には悲しい出来事がありました。

昭和41年11月13日、午後8時28分、戦後日本初の国産旅客機、「全日空・YS11機」大阪伊丹空港発、松山空港行きが着陸に失敗して、松山空港沖に墜落した。
乗客、乗員全員が死亡、県内最悪の事故がありました。

乗客45人、乗員5人の50人全員が犠牲となりました。

11月13日がその日で50年になります。

松山空港は、風の方向により陸側から着陸する時と、海側から着陸場合があります。

昭和41年11月13日、午後8時28分の機体は、陸側から着陸したが着陸に失敗、機体は海面激突時の衝撃で粉砕されていたそうです。

この事故の犠牲者を悼む慰霊碑が松山市の正宗寺に建立されている。

また

事故を契機に松山空港の滑走路の拡張・拡幅工事が進められることになり、松山空港は現在では海面を埋め立てるなどして滑走路が2,500mまで延長されている。この松山事故を受けた事故対策として、地方空港のジエット機による旅客便発着を可能とする効果をもたらすこととなったと言われている。

知人から送ってもらった「富士山の山頂所有権、事案に関する新聞記事」。

新聞社の社名も、発行月日もメモが無くなり不明です。

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