EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

EEK紀行の回顧・初めての富士山移動 

2017年02月27日 | 伊予松山歴史散策

富士山須走5合目2000m地点で、後ろの山が富士山。

平成11年10月10日、富士山に初めて行った。しかし登山ではなく車で行ける2000mの須走までであった。

目的は、アマチュア無線の電波伝搬通信実験であった。・・この後二度富士山に移動することになる。

二度目は、平成12年10月10日、三度目は、平成13年10月10日であった。

アマチュア無線を運用するには、従事者免許と無線機を運用する無線局免許証が必要である。

富士山に移動し電波伝搬通信実験した周波数は、5600MHz・10GHz・47GHz帯で、出力1wである。

富士山の運用地点は、須走で実験交信局は茨城県と福島県の県境にある、八溝山、1021mの展望台、距離は、223kmである。松山市から220km台と言えば、神戸六甲山まであり、その間には四国山地の1000m級の山岳がありとてもではないが5GHzの電波は届かない。

富士山須走と八溝山間は何も障害物がなく通信感度59+で交信実験出来た。このために富士山移動したのである。

 平成11年10月9日、私は麹町のホテルに泊まり、10日、地下鉄麴町駅発の一番電車で有楽町に出て、JRに乗り換えJR川崎で下車、川崎駅には、マキ電機の社長、JH1UGFさんが車で迎えに来て頂いた。

いざ出発、東名高速御殿場ICで降り国道138号線で東富士五胡道路須走IC入り口から左折れして、ふじあざみラインで須走2000mに到着。途中小田原市の、JA1FSさんと合流した。

この日は絶好の好天気で、快晴無風、遠路松山から初めて来た富士山なので、最高の天候で迎えてくれた。

マキ電機の社長曰く、こんな好天気の富士山は滅多にないですよと言われた。富士山須走と八溝山の交信の後は、三浦市城ケ島に移動していた当時、ケンウッド開発室長のJ?1さんと5GHzで交信、その後富士山を下山し横浜市のランドマークタワー展望台でグランドアイボールする事となった。

JA1FS和田さんとJH1UGFマキ電機社長、槇岡さん。

滅多にない好天気の富士山、この日は快晴無風でした。

1200MHzから24GHz帯の交信をするANT群。

茨城県と福島県の県境にある、八溝山、1021mの展望台、距離は、223kmとの間を24GHzの電波で交信、慎重にパラボラアンテナを微調整するJA1FS局。

若いお二人さんから「富士山はどれですか?と聞かれた」後ろの頂きが富士山ですよと案内すると・・こんなに近くに見えるんですねと言葉が帰ってきた。」

近くに見えますが、登山所要時間は、登りが6時間50分、下りが3時間20分、往復距離は13kmあるそうです。

5600MHz帯のパラボラアンテナでこんな小さいANTで茨城県と福島県の県境にある、八溝山、1021mの展望台、距離は、223kmとの交信が出来た。

須走5合目2000mで、遅い朝食を取り下山、一路横浜市のランドマークタワーに向かい、展望台でグランドアイボール。画像前列右、JH1UGF、左がJG1QGF、後列JS1UVH大矢義昭さん、JG1QGF種村さんは東京文京区から駆けつけて頂きました。世田谷区の秋山好古揮毫石碑について、種村さんは世田谷区の石碑取材には大変お世話になった方です。この日初めてお会いいたしました。JS1UVH・大矢義昭さんは松山地区SHF研究会が設置した5600MHz帯のレピータ開局には多大なご支援を頂いた方でした。残念にご逝去されました。

東京都世田谷区池尻にある、私が秋山好古揮毫の石碑取材に当たり、お世話になった方がJG1QGF種村さんでした。世田谷区役所にも行った頂き詳細な調査をして頂きました。残念にご逝去されました。

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今治市波方町大角鼻にある「メートル立標」 

2017年02月23日 | 伊予松山歴史散策

愛媛県最北端(高縄半島)、今治市波止浜町大角鼻の北端の岩場にメートル立標がある。

愛媛県内では唯一の明治時代、要塞の付帯設備である。

日露戦争の時、最悪の場合帝国ロシア海軍太平洋第二、第三艦隊(通称、バルチック艦隊)が瀬戸内海にやって来た時を想定して、今治市来島小島に芸予要塞が築かれた。

今も煉瓦造りの遺跡が島内に数多く残されている。

旅順203高地を陥落させた時に使われた28センチ榴弾砲は、小島の芸予要塞から移設したものである。

さて、大角鼻の北端に画像のコンクリート柱が一本、ぽつんと立っている。

これは、メートル立標である。

何に使われたかと言うと、大角鼻から北東方向4kmに芸予要塞がある小島から瀬戸内海を通過する敵艦隊を迎え撃つ砲台が設置され、小島の砲台と敵艦隊との距離や方位を計るために建造されたものだそうです。

愛媛県の最北端(高縄半島)、今治市波止浜町大角鼻の北端の岩場にメートル立標。

海は、日本三大急潮の一つ来島海峡である。

メートル立標の説明版で、これを読み始めて建造物の意味が分かる。

今治市波止浜町大角鼻から4km東方向にある小島。

中世から近世初めに掛けて活躍した来島村上水軍の拠点だった。

ここに芸予要塞が造られた。

小島観光案内、今治市観光協会所属のボランティアガイドが案内してくれる。

小島砲台の歴史説明版。

小島要塞の28センチ榴弾砲の跡地。

その説明版。

司令塔跡から見た、しまなみ海道の来島海峡と来島大橋。

レンガ造りの要塞跡が綺麗に沢山残っている。

28センチ榴弾砲で、NHK坂の上の雲のロケに使われたもの。

ロケ終了後は、松山市に寄贈され松山城ロープウェイ山麓駅舎2階に展示してあったが、放映終了後本来の地である小島、今治市に松山市が寄贈した。

現在は、小島の港桟橋に設置され、小島を訪れる観光客を出迎えている。

「日露戦争では作戦参謀であった秋山眞之がバルチック艦隊攻略で考えた丁字戦法はこの海域を支配していた村上水軍の戦法を取り入れたとも言われている来島村上水軍の拠点が小島である。

帝国ロシア海軍太平洋第一艦隊(通称、旅順艦隊)を秋山眞之はバルチック艦隊が来るまでに撃破しておかねばならなかった。そのためには二〇三高地が必要であった。司令塔地として。秋山眞之は陸軍に二〇三高地の奪取を要請した。

陸軍は、旅順で苦戦を強いられているのを見かねた大本営は、難関の要塞二〇三高地を奪取する必要から、ここ小島の大砲(28センチ榴弾砲)2基を旅順に持ち込み、児玉源太郎の厳令で二〇三高地に1発218キロの砲弾を2300発打ち込み、わずか1時間20分で完全に占領したと言われています。」・・その大砲である。

この大砲は、NHKはロケに使用工作は、京都で造られたそうだ。

28センチ榴弾砲の説明版。

今治市小島に移転する前、松山城ロープウェイ山麓駅舎二階に展示してあった28センチ榴弾砲。

小島港に設置された、28cm榴弾砲で、NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の北海道で203高地砲撃ロケに使われた榴弾砲、撮影終了後NHKは松山市に寄贈したが、今治市の関係者は、もともと小島にあった28cm榴弾砲だから是非とも今治市小島に設置したいのでお譲りをお願いしたいと申し込まれた。松山市は協議検討した結果今治市に譲ったのである。当初は、もと有った砲台跡地に設置するのが本当の意味があるが、心無いものにより悪戯されてはならないとの思いで小島港に平成25年3月下旬に設置工事が終了した。

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲・203高地」の映像より。

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲・203高地」の映像より。

今治市波止浜町の大角鼻公園には、大きなスクリュウーが展示されている。

波止浜は造船の町なので新来島どっくが寄贈したそうだ。

大きなスクリュウーの説明版。

50万トンクラスの錨も展示されている。

その説明版。説明版には波方町と記載されているが、現在は、今治市である。

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瀬戸内海に沈む夕日・・だるま夕日になった

2017年02月19日 | 伊予松山歴史散策

平成25年12月12日撮影の画像を整理していたら、瀬戸内海、伊予灘に沈むだるま夕日が出てきた。

だるま夕日を撮影に数回一級河川「重信川」の河口に行ったが、一回だけだるま夕日を撮る事が出来た。だるま夕日が出来るのは毎年10月下旬から2月中旬頃にしか見る事が出来ない。 沖に島があり時期によると島影に落ちてだるまにならい。そして気象条件が必要で、西高東低の気圧配置で天候がよく風がある時、水温が高くなると水蒸気が邪魔をする。海面近くいい感じで夕日が沈みこんで来ると雲がやってきて邪魔をする。中々難しいものである。

撮影するには、先ず三脚は当然必要で、レンズは最低でも500mm、絞り優先でカメラのAEでは撮れない。

画像の夕日は偶然に色んな好条件が重なり撮影出来た。その後数回撮影に行ったがだるま夕日には出会えなかった。

 

いよいよ海面に落ちる夕日、小さな雲があるが大丈夫だろう・・どんな「だるま夕日」になるのか?

瀬戸内海・伊予灘の夕日、絶好の気象条件であった。

一級河川「重信川」の河口でからみる夕日、最高である。河口で「カイトサーフイン」を楽しむ若者が来ていた。

いよいよだるま夕日になった。時間は16時49分。

時間は午後4時50分過ぎ、今日は幸運に恵まれた。

人間横着なもので、願わくば夕日の左右何方かに大型船が航行していればいい写真夕日の写真が撮れたのに・・と思ったりした。時間は16時50分。

だるま夕日の現象は短い。

だるま夕日の撮影、もっと大きな夕日を撮りたいがこれが最大、600mmレンズ。1,000mmあれば迫力のある画像が撮れるのだが。時間は16時51分。

瀬戸内海・伊予灘の夕日が沈んで行く。

時季によると薄く見える島陰に沈みだるま夕日にならない。

瀬戸内海・伊予灘に落ちてゆく。

沖の波が盛り上がって見える。この日の松山市の日の入りは、午後5時01分と松山地方気象台から発表されていたが、どの時点が日の入り時間となるのだろうか?

時間は16時52分。僅か3分程の現象である。

この3分間の出来事を撮るために、好天の時は毎日撮影に通うカメラマン達がいる。

瀬戸内海・伊予灘に落ちてゆく。

沖の波が盛り上がって見える。この日の松山市の日の入りは、午後5時01分と松山地方気象台から発表されていたが、どの時点が日の入り時間となるのだろうか?

時期によると沖にある島の上に夕日が沈みだるま夕日が見えない時がある。

また海岸からは見えなかった雲が海に沈む前に夕日を遮断することがありがっかりする時がある。

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我が家付近から見た西日本最高峰「石鎚山・1982m」

2017年02月17日 | 伊予松山歴史散策

一昨日(15日)松山は、最低気温零下0,9度まで下がり今季三番目に低い気温でありました。西日本最高峰「石鎚山」はこの所姿を見る事が出来なかったですが、久しぶりに姿を現しました。神住む山、石鎚山、日本七霊山の一つその姿を見てみましょう。

画像は、我が家付近と、市内衣山町から見た西日本最高峰、石鎚山(1982m)です。

松山市内一ヶ所だけ松山城と背景に石鎚山を入れて撮影出来る場所があります。

平成29年2月15日、午後4時頃の石鎚山で今季一番綺麗に見えました。

手前にカラスが飛んできました。

近年は、地球温暖化現象のため積雪が少ないのですが、久しぶりに裾野まで冠雪した石鎚山を見ました。石鎚山(1982m)と二ノ森(1929m・右側)で愛媛県第二位の高峰である

石鎚山(1982m)をアップに撮りました。

石鎚山の地形は、北西から南東にのびる長さ約400mの細長い岩稜で、周囲は100m近い断崖絶壁となっている。

このうち最高峰の天狗岳「1982m」は岩稜の南部にあたり、その南に南尖峰があり、付近に大砲岩・矢筈岩等の奇岩がある。

山の中央部三角形の地点が弥山「1974m」と呼び石鎚神社頂上社と山小屋があり、北西端は北岳「1921m」である。

弥山と天狗岳、南尖峰、北岳を総して石鎚山と呼ぶ。

石鎚山を東側から見た姿。松山から見ると裏側になります。

松山市で一カ所だけ、松山城天守を手前に置き後方に石鎚山を見る事が出来る。

この場所を探すのに一苦労しました。

 

松山市で一カ所だけ、松山城天守を手前に置き後方に石鎚山を見る事が出来る。

場所は、松山市衣山町のミカン畑、1,000mm前後の望遠レンズが必要。

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第55回愛媛マラソン、和泉先生3時間30分切れたのか?

2017年02月15日 | 伊予松山歴史散策

第55回節目の愛媛マラソンは、招待選手の川内優輝選手(埼玉県職員)が52年ぶりに愛媛マラソン新記録を樹立、時間は2時間9分54秒で優勝、この記録は愛媛では当分破る選手は出てこないと思う。

今年愛媛マラソンには、10201人が疾走した。先ずは、完走を目的に、次は、指定された制限時間、6時間以内でゴールする事、次は、3時間30分以内で走る事を目標に市民ランナーは目標設定して練習し大会に臨んだと思う。

さて、私が現在通院している山田整形外科病院の理学療法士の先生方が参加されると聞き、力走する姿と、ゴールして完走賞を手にした雄姿を撮ろうと35km地点にて待っていたが、なにせ1万人の参加者、結局今年も探す事が出来なかった。

私がお世話になっている和泉先生の設定時間は、今年も3時間30分と聞いていたので、ゴールは1時30分頃である。急いで35km地点からバイクでゴール地点に移動する事にした。

ゴール地点の松山城公園(旧伊予松山城三之丸)にはゴールした大勢のランナーとその家族友人等々でごった返していた。和泉先生を探すのは大変、すると偶然今年もばったり会いました。早速記録を尋ねると残念ながら3時間37分41秒で、3時間30分を切れなかった。・・残念、また来年チャレンジしますとの由。

先生曰く、予定をしていた3時間30分を切るつもりで練習もしてきたが、30km付近で足に疲労感を感じ少しペースを落としたのが悪かったと。・・来年頑張って下さい。

ハイ・・来年は、3時間30分を切りますと気持ちは早くも次の大会参加に切り替えておられた。

3時間30分を切ると優先的に愛媛マラソンに参加出来るそうです。22日病院に行きますので詳しい話を聞く事にします。

画像を大きく伸ばして進呈します。

3時間30分以内でゴールしたランナー達この中から和泉先生を探すのは大変、見つからなかったら携帯で連絡する事にしておりました。

それが偶然に和泉先生と会うことが出来ました。

山田整形外科病院の和泉先生、時間3時間37分41秒の完走記録証を手によく頑張りました。学生時代はラグビーの選手であったそうで、持久力の体力はこの時に培われたのでしょう。

第55回愛媛マラソン男子の部、完走記録証。来年は、3時間29分台の記録を期待しております。

 

来年は、3時間30分00秒以内で完走を目指しますと言われた。

ゴールしたランナーに対してパネルを提供しての記念写真撮影。

山田整形外科病院のユニホームです。

山田医院長先生も参加申し込みをされたそうですが、残念抽選に漏れたそうです。

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