EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

書籍・「秋山好古と習志野騎兵旅団」刊行される

2019年05月22日 | 伊予松山歴史散策

この度、秋山好古と習志野騎兵旅団の書籍が刊行された。
発行所は、大正5年創業の日本の歴史、宗教、民族学、考古学などに関する書籍を出版している老舗の株式会社雄山閣である。


編著者は山岸良二氏で、千葉市在住で、元東邦大学付属中高校教諭、現・昭和女子大学講師、千葉県習志野市文化財審議会会長である。
この書籍は、18名が執筆しており、私も執筆依頼があり、第3章・秋山好古をめぐる人々と石碑の中で、秋山好古揮毫石碑を訪ねて P103~P135に執筆している。


編者である山岸良二氏は、平成29年10月18日、愛媛県松山市歩行町二丁目にある秋山兄弟生誕地の武道場で「習志野騎兵旅団と秋山好古」と題して講演会を開催し大勢の松山市民は習志野での秋山好古の知らざる一面を熱心に拝聴した。

今回刊行された書籍「秋山好古と習志野騎兵旅団」は、愛媛県立図書館・松山市立中央図書館に納本いたします。松山市近郊の方々是非ご一読下さい。

令和元年5月25日付で、書籍「秋山好古と習志野騎兵旅団」の表紙。

表紙の秋山好古のカラ―写真は、昭和11年11月1日、発行された伝記「秋山好古」の表題誌の次のページにある白黒の秋山好古の写真を基に、習志野騎兵旅団史跡保存会会長・三橋正文氏が画家、丸山画伯に依頼して手書きで書き上げた力作で、現物は、習志野市大久保商店街資料館に展示と松山市の秋山兄弟生誕地武道場に掲示してある貴重な2枚だけの肖像画である。

令和元年5月25日付で、書籍「秋山好古と習志野騎兵旅団」の裏面紙。

書籍「秋山好古と習志野騎兵旅団」の奥付。

編者の前書きの次のページに「刊行に寄せて」と題して画像の様に、東京ヤクルトスワローズ監督 小川淳司氏が他序として寄稿している。
小川監督は、習志野高校出身で高校時代、昭和50年・第57回全国高校野球選手権大会決勝戦で愛媛県代表の新浜商業高校と対戦し5対4で習志野高校が優勝した。
近年、東京ヤクルトスワローズは、秋季キャンプを松山市の「坊っちゃんスタジアム」で実施しており秋山好古依頼深いご縁がある。
秋山好古もご存知の通り愛媛県松山市出身である。

書籍「秋山好古と習志野騎兵旅団」の目次。

書籍「秋山好古と習志野騎兵旅団」の目次。

書籍「秋山好古と習志野騎兵旅団」の内、執筆依頼で私が書いた第3章・秋山好古をめぐる人々と石碑の中で、秋山好古揮毫石碑を訪ねて P103~P135である。

秋山好古揮毫石碑は現在全国に52基発見されているが、今回出版された書籍は全体の紙面に限りがあり、11基の石碑だけ紹介している。

書籍「秋山好古と習志野騎兵旅団」の内、執筆依頼で私が書いた第3章・秋山好古をめぐる人々と石碑の中で、秋山好古揮毫石碑を訪ねて P103~P135の最後のページである。

書籍「秋山好古と習志野騎兵旅団」P106~107に記載してある秋山好古揮毫石碑一覧である。

書籍「秋山好古と習志野騎兵旅団」の帯紙。

書籍「秋山好古と習志野騎兵旅団」の帯紙裏面に記載されている説明文。

 

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伊予松山城本丸本壇の復元建造物9棟が国指定有形登録文化財に答申された

2019年05月10日 | 伊予松山歴史散策

旅好きの口コミで選ぶ「2018・日本の城ランキング」で第3位に選ばれた松山城

幕末135城の天守があったが、明治6年1月14日、明治政府は廃城令を発布、地元から存続上申により政府は、19の天守を残す事を決定した。(松前・弘前・松本・丸岡・大垣・名古屋・犬山・彦根・姫路・松江・備中松山・岡山・和歌山・福山・広島・丸亀・高知・宇和島・伊予松山)そして戦火、不審火で焼失した天守が7天守(松前・大垣・名古屋・岡山・和歌山・福山・広島)が焼失し、現在12の天守が現存している。


昭和25年までは、12天守全て国宝に指定されており、松山城は昭和10年5月13日、国宝に指定されていた。しかし、昭和25年5月30日、文化財保護法が制定され、これにより松山城は重要文化財に指定変更され、国宝に指定されたのは、松本・犬山・彦根・姫路城で、平成27年7月8日、松江城天守が国宝に指定された。

この度、平成31年3月18日、松山城本壇復元建造物9棟を、文化庁文化審議会が文部科学大臣に登録するようにと答申した。その建造物は、「小天守・南隅櫓・北隅櫓・玄関・玄関多門櫓・十間廊下・多門櫓・筋鉄門上部渡櫓・内門上部渡櫓部分」の9棟である。
この9棟の建造物は、昭和8年7月9日、放火により焼失、昭和43年5月27日復元竣工した建物である。

参考までに:
昭和24年1月26日の法隆寺の火災により、法隆寺金堂壁画が焼損した。これをきっかけに、昭和25年5月30日、文化財の保護についての法律が制定された。現存12天守の内国宝が、松本・犬山・彦根・姫路の天守で、重要文化財に指定変更された天守は、弘前・丸岡・備中松山・松江・丸亀・高知・宇和島・伊予松山城天守であったが、平成27年7月8日、松江城天守が国宝に指定された。

伊予松山城本壇天守で、赤色で縁取られた個所が今回国指定有形登録文化財に答申された城郭建造物9棟である。

昭和25年5月30日、制定された文化財保護法のシンボルマーク

文化財愛護シンボルマークは,文化財愛護運動を全国に推し進めるための旗じるしとして,昭和41年5月に定められたもので、このシンボルマークは,ひろげた両手の手のひらのパターンによって,日本建築の重要な要素である斗栱(ときょう=組みもの)のイメージを表し,これを三つ重ねることにより,文化財という民族の遺産を過去,現在,未来にわたり永遠に伝承してゆくという愛護精神を象徴したものです。
文化庁からの説明引用。

昭和8年7月9日放火により焼失した伊予松山城本壇建造物9棟の跡。

画像は、昭和43年5月復元された伊予松山城本壇建造物で、連立式天守として甦った。
昭和41年、焼失した本壇9棟(筋鉄門上部渡櫓部分・小天守・多聞櫓・南隅櫓・十間廊下・北隅櫓・玄関多聞・玄関・内門上部渡櫓部分)の復元に着手し昭和43年5月末に竣工し連立式天守が復元された。
焼失した9棟の部材は主として栂材であったが、復元された9棟は桧材が用いられている。

伊予松山城本壇天守で、北側から撮影。

これからの画像は、平成31年3月18日、文化庁文化審議会が文部科学大臣に登録するようにと答申した建造物で、「小天守・南隅櫓・北隅櫓・玄関・玄関多門櫓・十間廊下・多門櫓・筋金門上部渡櫓部分・内門上部渡櫓部分」の9棟である。

日本三大連立式天守(姫路城天守・和歌山城天守・松山城天守)の一つ松山城本壇天守の中庭。

昭和42年10月15日松山城小天守の上棟式の棟札。

松山城小天守内部で、昭和42年10月15日松山城小天守の上棟式に使われた式材用具が展示してある。

西日本最高峰、1982m「石鎚山を背景にした伊予松山城」

現存12天守の内、本壇建造物の瓦に徳川家の紋葉「三つ葉葵」が上がっているのは松山城だけである。寛永12年(1635)第3代征夷代将軍・徳川家光の時伊勢国桑名藩主、松平定行が松山藩主として移封した。松平定行は徳川家康の甥になり桑名時代から徳川家康の指示により松平を名乗り三つ葉葵を使っており松山藩主となってもその通りとした。なお、伊予松山藩主松平の本姓は、久松である。

秋季に松山城本丸を散策すると画像の様な場面に出くわす事がある。

旅好きの口コミで選ぶ「2018・日本の城ランキング」で第3位に選ばれた松山城。
第1位:姫路城 第2位:二条城。

 

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ゆく平成、くる令和「回想・私の皇居一巡りの旅」

2019年05月01日 | 伊予松山歴史散策

昭和64年1月7日、午前6時33分皇居吹き上げ御所で昭和天皇が崩御され(87歳)昭和から平成に元号が改元され悲しみの中での改元でしたが、令和の改元はお祝いの中での改元です。

昭和64年1月7日、午後2時36分、小渕恵三官房長官により新元号は平成と発表され、皇太子明仁親王が皇位を継承され平成天皇となられ、同31年4月30日迄続いた。
新天皇の即位に伴い、5月1日午前0時から令和に切り替わる。天皇の退位に伴う改元は憲政史上初めてだそうです。
そして、令和元年5月1日は国民の祝日となり、これは新天皇陛下の御即位をお祝いする今年限定の「国民の祝日」だそうです。国旗を掲揚しお祝いをいたしましょう。

現在85歳の上皇は、高齢を理由に退位する意向を固め、息子の皇太子徳仁親王に譲位することとなった。平成天皇は歴代天皇で二番目の高齢で、昭和天皇が87歳で最高齢の天皇でした。
天皇の譲位は202年ぶりだそうで、年表を見てみると、第119代光格天皇(1779~1817)の時代で、第10代征夷大将軍・徳川家治から第11代征夷大将軍・徳川家斉の時である。
令和天皇は、第126代目の天皇です。

平成時代は悲惨な戦争はなかったが、地震、噴火、水害、津波、原発事故と苦難な事が多発したが、令和は穏やかな時代であってほしいものです。

平成を送り、令和を迎える希望に満ちたよき時代になりますように。これからの画像は、平成17年1月25日、カメラ持参で皇居を一周した時の回想画像です。
皇居では昨日(4月30日)から本日5月1日にかけて変遷する諸行事が皇居宮殿で行われる。

 

特記事項:天皇陛下(当時皇太子殿下)にお言葉を掛けて頂きました。

平成20年10月25日(土)第32回全国育樹祭が愛媛県松山市で開催された。
育樹祭に皇太子がお越しになり、前日皇太子殿下は松山市立坂の上の雲ミュージアムを観覧され、その際愛媛県から選ばれた松山の8団体が皇太子殿下を坂の上の雲ミュージアム玄関に整列してお出迎えした時「あなたは何をされている方ですか」とお声を掛けて頂きました。
返答は「秋山兄弟生誕地で秋山好古が揮毫した石碑を調査しております」と返答すると、ご苦労様ですね、引き続き活動されて下さい・・とお言葉を頂いた事を思い出しました。・・大変緊張しました。

 

第119代光格天皇(1779~1817)の時代で、第10代征夷大将軍・徳川家治から第11代征夷大将軍・徳川家斉の時である。

平成17年1月25日は好天候に恵まれ絶好の散策日和であった。
午前9時過ぎに宿舎である麹町会館を後に、地下鉄有楽町線麴町駅から乗車、JR有楽町駅で山手線に乗り換え東京駅に、行幸通りを歩き、皇居東御苑入口である大手門を潜った。

皇居一巡りの旅の始まりである・・時に午前10時07分であった。
大手門は、高麗形式の門で、中に入ると大きな桝形がありその奥に豪壮な渡櫓門があり東御苑の正面入口である。
平成天皇は日課である散策をされ、東御苑もよく散歩をされたご様子。退位後の仙洞御所の庭は狭く御所の外を散策されることもあるのでは?

大手門渡櫓門で、昭和20年4月東京大空襲で焼失、現在の門は昭和43年復元された。
東京駅から行幸通りは日本を代表するオフィス街丸の内で近代的な建物が建ち並び、大手門を潜ると江戸時代にタイムスリップ。

大手門渡櫓門の説明版。

百人番所・同心番所・大番所を通り本丸跡に出ると富士見櫓が見えてくる。
江戸城は明暦3年の大火(1657年)で焼失しその後天守は再建されず画像の富士見櫓が天守の代わりをしたとある。
明治6年1月14日、明治新政府は廃城令を発布し敷地は軍用地として運用された。
しかし江戸城の建造物は取り壊されず、江戸城無血開城され東京城と改称され、現在は天皇の居所となっている。

富士見櫓の説明版。
明治6年1月14日、明治新政府は廃城令を発布した。藩政時代幕末135城の天守があったが、政府は地元から各種の存続上申があり、19の城天守を残す事を決定した。(松前・弘前・松本・丸岡・大垣・名古屋・犬山・彦根・姫路・松江・備中松山・岡山・和歌山・福山・広島・丸亀・高知・宇和島・伊予松山)そして戦火、不審火で焼失した天守が7天守(松前・大垣・名古屋・岡山・和歌山・福山・広島)7天守が焼失した。)現在12天守が現存している。
江戸城は廃城の対象ではなかった。

本丸跡にある松之大廊下跡の石碑。

松之大廊下跡の説明版。

松之大廊下跡から見た江戸城天守台。

天守台と人との比較、如何に江戸城天守が大きかったか想像できる。
保科正之は、天守を再建するよりも、城下の復興を優先すべきであると提言。それ以来江戸城天守は再建されなかった。
本丸から二之丸を鑑賞し平川門から東御苑を出た。

参考までに:天守台の規模は、東西約41m、南北約45m、高さ11m。以前は伊豆石であったが御影石で造り替えたそうです。

平川門の渡櫓門でここには珍しい門がある。
それは、不浄門でこの門は普段は使わないが、城内で起こった死人、犯罪人を城外に出す時に使う門で、有名なのは、松之廊下で刃傷を起こした浅野内匠頭や、山村座の役者生島新五郎との情事が発覚した大奥女中絵島が、この門から城外に送り出された門である。

平川門に入口にある平川橋で、平川門は江戸時代三之丸の正門で、徳川御三卿、田安・一橋・清水家の登城口であった。そして大奥女中の通用門でもあった。

清水門で、徳川御三卿の徳川清水家があった。

武道館で、徳川御三卿の徳川田安家があったところである。

1、田安徳川家(田安家)⇒ 始祖は徳川宗武(第8代将軍徳川吉宗の次男)
2、一橋徳川家(一橋家)⇒ 始祖は徳川宗尹(第8代将軍徳川吉宗の四男)
3、清水徳川家(清水家)⇒ 始祖は徳川重好(第9代将軍徳川家重の次男)
伊予松山藩第9代藩主、松平定国は、田安徳川、徳川吉宗の次男、徳川宗武の6男である。
江戸幕府老中を務めた松平定信(白河藩第3第藩主)は伊予松山藩第9代藩主、松平定国の弟(徳川宗武の7男)である。

松平定国の時、天明4年(1784)元旦夜中に落雷により伊予松山城天守ほか本壇全ての建造物が焼失した。

田安徳川家の跡、武道館を後に千鳥ケ淵戦没者墓苑を参拝した。
昭和34年(1959年)国によって建設された千鳥ケ淵戦没者墓苑で、大東亜戦争で亡くなられた方々慰霊追悼のための聖苑です。

沢山の献花が捧げられてありました。

一時間ほど休憩し、皇居を一周の旅を再開。
画像は、半蔵門で千鳥ヶ淵濠から桜田濠の桜田門の間は石垣でなく土塁仕上げとなっている。何故石垣を積まなかったのでしょうか。

この半蔵門内は、今上天皇の住居、吹上御所があり、天皇や皇族の皇居への出入り口であるため警護が厳しく鉄のゲート手前には皇宮警察官が厳しい警護がしかれていた。撮影しようとするとこの柵から中には入らない様にと注意された。

平成31年4月30日、から令和元年5月1日、にかけて半蔵門の画像が度々拝見することが出来た。

半蔵門前から見た桜田濠で、奥に桜田門が見え、手前のビルは警視庁舎である。

桜田門。

桜田濠前から見た国会議事堂。

高麗形式の桜田門内から見た警視庁舎。

皇居を一周の旅も終わりが近づいた。皇居正門石橋で、よく二重橋と言い間違いをするが、二重橋は石橋の奥にある橋を言う。
奥に見える櫓は、伏見櫓。

二重橋で、正式には皇居正門鉄橋の呼称で、そもそも二重橋という名称は正式なものではなく、一般に用いられてきた俗称に過ぎない。昭和15年には官報宮廷録事にも記され、現在では通称とされているが、宮内庁や環境省等においては「二重橋」は正門鉄橋のことをさす。と記述されている。

しかしながらも、2つの橋の総称としても用いられるとの二つの説明をしている資料がある。
皇居外苑管理事務所の資料には、鉄橋はかつて、下乗橋と言われ、橋桁を支えるため、中途に台があって二重構造(江戸時代は木橋で、堀が深いため上下二重に橋桁 を組んだところからよばれたもの。

となっていたことから二重橋の呼び名がついた。現在の橋は、昭和39年6月に架け替えられたもので、これらの橋は、通常は使用されず、新年の一般参賀や外国賓客の皇居訪問等宮中の公式行事の際に利用されますもう一つの橋とある。

皇居正門石橋と皇居正門鉄橋(二重橋)

坂下門前で、宮内庁に入る車を皇宮護衛官が入念な検査をしていた。

午後2時55分、皇居を一周の旅も無事終わった。所要時間は4時間50分かかった。
今日から令和の新時代です。平和な時代でありますように祈るばかりです。
有難うございました平成。

令和元年5月1日の地方紙「愛媛新聞」一面です。
皇后陛下におかれましては、天皇陛下を支えられ、心労多いと思いますが、お身体にお気を付けて、お健やかにお過ごしください。
結実の時は必ず来ます。

 

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