EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

白河の関を越えた全国高校野球選手権大会 深紅の大優勝旗

2022年08月30日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

新型コロナ蔓延の中、3年振りに行動制限解除となった第104回 全国高等学校野球選手権大会は、願いが結願され、陸路白河の関を宮城県代表校、仙台育英高等学校が、深紅の大優勝旗を東北新幹線で越えた。

白河の関を深紅の大優勝旗を乗せた新幹線は、秋田新幹線・東北新幹線が連結されたまさに東北連合であった。

第104回 全国高等学校野球選手権大会は、開会式当日少雨があったが、天候に恵まれ予定通りの日程で行われた。

甲子園球場の外野の芝生、特にレフト・センター・ライトで守備をする付近の芝は綺麗に育っていたが、試合が進むにつれ芝生が薄くなった。それだけ激戦であった証拠である。

深紅の大優勝旗を目指して悔いのないいい戦いをしようと甲子園に腰を降ろし、指揮官(監督)の指示を聞き入る仙台育英高等学校の選手たち。

今大会は3年ぶりに一般客が入場した。昨年は悪天候の影響で順延は、過去最多7度にのぼったが、今年は第100回大会(平成30年)以来4年ぶりに順延がなく、予定の14日間(休養日除く)で全日程を終了した。

東北勢代表、11回目の決勝戦の幕は開かれた。

春夏通算100校目の初優勝で、甲子園の優勝旗が白河の関を越えた。仙台育英(宮城)が下関国際(山口)に快勝。東北勢が阻まれ続けた決勝の壁を「13度目の正直」で乗り越えた。同校OBの須江航監督(39)が18年前の就任から掲げるスローガン「日本一からの招待」の下、東北を中心に集結したナインが躍動。大正4年第1回大会の秋田中(現秋田高)の準優勝から108年目の夏に、歓喜の瞬間が訪れ白河の関を越えた。

優勝の瞬間、ピッチャーマウンドに駆け寄る仙台育英高校の選手。

白河神社には、深紅の大優勝旗が白河の関を越えますように!!と祈願の絵馬が掲げられた。そしてその願いは成就した。

宮城の仙台育英高校の優勝は、104回を数える夏の全国高校野球の歴史の中で、東北勢としても悲願の初優勝となりました。

おめでとうございます。

第104回全国高校野球選手権大会は22日、兵庫県西宮市の甲子園球場に3万1200人を集めて決勝が行われ、仙台育英(宮城)が下関国際(山口)に8―1で勝って初優勝した。東北勢が甲子園大会で頂点に立つのは春の選抜大会を含めて史上初。春夏合わせて13度目の決勝挑戦で悲願を果たした。東日本大震災の被災地からも喜びの声が上がった。

第104回全国高校野球選手権大会の閉会式は厳かに行われた。

優勝校・準優勝校の選手には、一人ひとりに優勝メダル・準優勝メダルが授与された。

選手、役員、観覧席の皆さん、全員起立脱帽してセンタポールに掲揚されている、国旗・大会旗の注目しながら降ろされた。

大会旗降納時に流れる「栄冠は君に輝く」の曲は名曲である。

古関裕而が作曲、加賀大介作詞・・何時聞いても晴れ晴れする曲である。

昭和28年に発表された。

甲子園のスコアーボードには、決勝戦の最低限の情報が開示されていた。

「栄冠は君に輝く」の名曲が流れる中大会旗は降ろされた。

優勝校・準優勝校が恒例の場内一周。以前は外野スタンド沿いに行進したが最近は短くなった。

試合後の仙台育英高校の須江航監督のインタビューに波紋が広がった。
コロナ禍で野球に取り組んできた選手たちについて「青春はすごく“密”なのにそういうことはだめだと言われ、どこかでストップがかかるなか諦めないでやってくれました。全国の高校生に拍手してください」と涙ながらにコメント。
これに対し、SNS上では「テレビで見ていて涙が出た」「監督の言葉良かった」「全国の高校球児感動をありがとう」と大きな反響を集めた。

私もこの言葉を聞いていて素晴らしいコメントであったと感動した。

監督自身は、控えの選手として過ごした経験を生かし指導者として大成され、野球部員隅々まで指導方針が浸透し、選手自身が頑張り背番号を勝ち得たのでしょう!!

須江航監督ご立派、そしておめでとうございました。

秋田新幹線「こまち」と東北新幹線「はやぶさ」が併結して、まさに東北連合で深紅の大優勝旗は白河の関越えた。

白河関の所在地は、福島県白河市旗宿に比定されており、白川神社が祀られ、国の史跡に指定されている。当地は下野国(現・栃木県)と陸奥国(現・福島県)との国境であり、関東地方と東北地方との境界となっている

東北新幹線の列車内で、仙台育英高校の選手が白河神社の御札を持って嬉しさを表した。

ご当地、白河神社の社務所には手作りの優勝扁額が飾られた。

白河神社の所在地は、福島県白河市旗宿関ノ森にある。

母校に凱旋し大勢の出迎えの中優勝報告会が行われた。

大越さんもTVに出ていた。

仙台育英が昭和63年の夏の全国高校野球で初めて決勝に進出した時のエースで、東東京の帝京高校と対戦した決勝は0対2で敗れて準優勝でした。

私もこのことは、はっきりと記憶に残っている。

そして、昭和44年、青森県代表の三沢高校対愛媛県代表の松山商業高校の延長18回引き分け、翌日再試合、一昨晩(令和4年8月28日)NHKのラジオ深夜便の中で、当時の太田投手の事が話題になっていた。

第104回全国高校野球選手権大会は8月22日、兵庫県西宮市の甲子園球場に3万1200人を集めて決勝が行われ、仙台育英(宮城)が下関国際(山口)に8―1で勝って初優勝した。

この決勝戦を解説された、大矢正成さんは素晴らしい解説をされました。

大矢正成さんは、東邦高等学校出身 で、 第59回全国高等学校野球選手権大会 に出場、準優勝を経験した方です。

 NHK の高校野球中継の解説者としても活動されたが、この大会を最後に解説者としては引退されることになりました。

私は、解説者や、アナウンサーが放送の中で、平気で「ウン」を使う解説者や、アナウンサーがおります。

10年ほど前から高校野球が始まる一月前から、NHK大阪放送局長宛に「平気で(ウン)を使う解説者や、アナウンサーの起用はしないようにお願いの書状を毎年送り続けました。

そのためか最近殆どウンを使う開設者や、アナウンサーは少なくなりました。

それでも、今大会ウンを使う開設者や、アナウンサーがいました。ウンを平気で使う放送は、ウンザリします。TVの音声を消して画像のみ見て音声は、ラジオで聞きました。

大矢正成さん長い間解説者として活動ご苦労様でした。

参考までに

内山俊哉アナンサーは絶対ウンは使いませんし、解説者とのやり取りの言葉も必要以外には言葉を発しません。放送を聞いていて清々しい思いで聞くことが出来ます。

 

第1回大会は、秋田中学が準優勝していたんですね!!

知らなかったです。

これからも東北勢頑張れ!!応援しています。

最後に私のお願い事項です。

開会式・閉会式のプラカードを持つのは、女子高生、試合の中で記録係はほとんどの高校は女子高生、今年の県大会では女子高生がノックをした高校もあったとか!!

閉会式には、記録係りとして活動した女子高生も整列の中に参列させてあげては如何でしょうか。

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秋山好古揮毫の石碑現地調査は 新聞記事に後押しされ進められた その1 新潟日報新聞

2022年08月20日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

新潟市江南区沢海の秋山好古揮毫石碑・魚沼市堀之内竜光の石碑の現地取材には大変お世話なりました、北方文化博物館、神田勝郎館長さん、北方文化博物館、佐藤隆夫副館長さん、それから、新潟日報社、編集局 報道部記者 鈴木 孝実さんお世話になりましたお礼申し上げます。

秋山好古揮毫の石碑が新潟市に発見された。

平成22年5月19日、新潟市江南区沢海の石碑 日本海側唯一と判明と新潟日報は報じた。

平成21年11月新潟市から、秋山兄弟生誕地事務局に電話連絡があった。

北方文化博物館・神田勝郎館長からであった。

秋山好古揮毫の石碑調査をされているようですが、新潟市の忠魂碑は調査済みでしょうか?・・であった。

当時、秋山好古揮毫の石碑は、全国に42基が発見されていた。
愛媛県以外の調査済みの石碑は、東京都世田谷区・千葉県船橋市・静岡県静岡市の3基が発見されており現地調査済みであった。

平成21年1月7日、秋山好古生誕150年記念として、秋山好古揮毫の石碑写真集を刊行したあとのことであった。

まさか、日本海側に秋山好古揮毫の石碑が建立されているとは思いもよらなかった。

北方文化博物館・神田勝郎館長に来春必ず取材に伺いますのでよろしくお願いいたします・・と伝え電話を切った。

神田勝郎館長は、「秋山好古と新潟の人びと」の書籍刊行の執筆中であった。

私は、春到来を待ち望み、予定通り、平成22年3月17日、新潟市江南区にある「秋山好古揮毫の石碑・忠魂碑」の取材に行った。

新潟の忠魂碑は、53基のうち、4番目に古い石碑で、大正2年7月に建立されていた。

この頃の、秋山好古は揮毫嫌いとして知られていた。よほどの方からの依頼がないと揮毫をしなかった。

好古の揮毫と石碑建立の経緯は、北方文化博物館・神田勝郎氏が詳細な調査をして頂いていた。

そして、この石碑は、平成26年3月13日付で、新潟市民文化遺産に認定されますが、その影には、神田館長さんの努力があっての認定であった。

平成22年5月19日、新潟市江南区沢海にある、秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」が、新潟日報の新聞に記事が掲載された。

この新聞記事を読まれた新潟県柏崎市在住の、柴野 亮氏から書簡が届いた。

新潟県魚沼市にある秋山好古揮毫の石碑「戦役記念」がありあすが調査されていますかであった。

お礼の書簡を、柴野 亮氏に送り、直ぐ神田勝郎館長に連絡、書籍「秋山好古と新潟の人びと」の出版状態を伺うと、これから印刷にかかる現状であった。

新潟県魚沼市にある秋山好古揮毫の石碑が発見されたので書籍の中に追加として入れるようお願いをした。・・間に合った。

平成22年3月27日付けの愛媛新聞に投稿した。

揮毫嫌いであった、秋山好古に「忠魂碑」の揮毫依頼を、新潟県知事、伊澤多喜男氏に託した。

石碑建立地の地名は、当時新潟県中蒲原郡横越村大字沢海であった。(現在は、新潟県新潟市江南区沢海)横越村の、神田又一村長は、新潟県知事、伊澤多喜男氏が、新潟県高田にある、陸軍歩兵第13師団長として着任した、秋山好古中将を、表敬訪問することを知り得た。

神田又一村長は、この機を逃さなかった。伊澤多喜男県知事に、忠魂碑の揮毫を秋山好古師団長に揮毫していただきたく託したのである。そして忠魂碑の石碑建立が叶い、今や新潟市民文化遺産に認定されたのである。

注1:伊澤多喜男新潟県知事の前任地は、愛媛県であった。

 秋山好古第13師団長は、伊澤多喜男知事のことを、伊澤知事とは旧知の仲で、前任地愛媛県では、愛媛県の発展に尽力をされた立派な知事である。特に、愛媛県新居浜にある別子銅山の精錬所から出る、亜硫酸ガスによる農作物の被害が発生大問題となりこれを解決した知事であります。

新潟県でもいい仕事をされると思います。・・と新潟県民に伊澤知事を紹介した。そして「忠魂碑」を揮毫した。

注2:伊澤多喜男知事は、その後、警視総監・東京市長を歴任された。

注3:伊澤多喜男は、信州高遠藩出身で、高遠藩は、第3大将軍徳川家光の異母弟、保科正之を預かり養育した。(会津松平家初代藩主・初代会津中将)

注4:東京の新宿御苑は、信州高遠藩の江戸下屋敷跡である。

伊澤多喜男の出身地は、保科正之が幼少時代養育を授かった地である。

長野県伊那市にある「高遠城跡」には、保科正之と生母、お静の方(浄光院)の石像が建てられている。

画像、右が保科正之、左がお静の方(浄光院)

北方文化博物館で「秋山好古と横越の人びと」と題して、神田勝郎館長が講演会をし、私も出席した。その帰りに高遠城跡を伺い撮影した。

  

平成22年9月5日、神田館長は、北方文化博物館で「秋山好古と横越の人びと」と題して講演会を開催した。その時の新潟日報の記事である。

2日前の、平成22年9月3日には、新潟県立図書館主催の講演会が開催されていた。演題は、「秋山好古と新潟の人びと」であった。

注:「秋山好古と横越の人びと」の横越は、以前新潟県中蒲原郡に属した町で、平成17年3月21日の新潟市への編入合併によって消滅し、現在は新潟市江南区となっている。新潟市は日本海側唯一の政令指定都市である。秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」の所在地が、旧新潟県中蒲原郡横越村である。

「秋山好古と横越の人びと」講演会次第である。

私は、講演会に参加させて頂き、ご挨拶をした。

この時は、車で新潟市に行ったが遠かった。

平成22年9月3日、神田さんが講師で、新潟県立図書館主催の講演会が開催された。演題は、「秋山好古と新潟の人びと」であった。

この記事を書かれたのも、新潟日報・鈴木記者である。

参考:平成22年9月、NHK松山放送局は、新潟市江南区沢海にある秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」の取材に行き放映した。・・放映は四国管内であったが!!

平成23年6月8日、発行の書籍「秋山好古と新潟の人びと」である。

この書籍の中に、新潟県魚沼市の石碑「戦役記念」の事項も無事編纂出来た。

平成23年6月8日、書籍「秋山好古と新潟の人びと」の刊行お祝いの会が、関係者のみで北方文化博物館の宿泊施設「大呂菴」で開催され、私も参加した。6月9日・10日は、神田館長さんと、佐藤副館長さんの案内で新潟市内観光をして、6月11日、神田館長さんの案内で、魚沼市の「戦役記念」の石碑調査に行った。

平成23年6月22日、秋山好古揮毫の碑 魚沼にもあった

この記事を書いて頂いた記者は「新潟日報社、編集局 報道部記者 鈴木 孝実氏である。

魚沼市に平成23年6月11日取材に行った時、新潟日報・鈴木記者が現地取材に来てくれた。

画像、真ん中の方が、新潟日報・鈴木記者である。左が、北方文化博物館・神田館長で、左の方は、地元郷土史家の下村さんである。

地元郷土歴史研究家の下村さんが魚沼市役所に、愛媛県松山市の秋山兄弟生誕地から取材に来ることを事前に連絡して頂いたのだろう??私と神田さんの取材のために、魚沼市役所市長公室秘書広報の瀧澤哲也さん、同情報システム室魚沼ケーブルテレビの瀧澤美紀子さん、

財団法人魚沼市地域づくり振興公社の渡邉明さん、新潟日報編集局報道部記者の鈴木孝実さんの方々が迎えて頂きそして取材を受けた。

また、地元自治会長さん、老人倶楽部会長さん、ご婦人達も来て頂き神社本殿でお茶のお接待を頂、大歓迎の出迎えを受けた。

皆さんの要望で神田さんと私とで秋山好古に関するミニ講演会を開いた。

最後に私から魚沼市役所の吏員さんにお願いをした・・石碑はこれからも大切に保存管理して下さいとお願いをしましたら、石碑建立の由来等々説明版を設置して後世に伝えていきますと嬉しい言葉を頂いた。

戦役記念碑の前で、魚沼市堀之内竜光地区の方々と記念写真、後列左端の女性は、愛媛県松山市出身の方で、松山市から取材に来られると聞き伺いましたと歓迎していただいた。

今まで好古揮毫石碑取材をして来たが、こんなに盛大な歓迎を受けたのは初めてであり感激した。・・好古さんも喜んでいると思う。

魚沼市役所総務課・情報システム室の魚沼ケーブルテレビ、瀧澤美紀子さんの取材を受ける神田館長。

私から魚沼市役所の吏員さんにお願いをした・・石碑はこれからも大切に保存して下さいとお願いをしましたら、石碑建立の由来等々説明版を設置して後世に伝えていきますと嬉しい言葉を頂いた。

その説明板が、画像のものです。・・ちょっと簡単すぎるが!!

画像撮影は、新潟県柏崎市在住の柴野さんからです。(石碑情報提供者)

新潟県で2番目に発見された魚沼市の石碑「戦役記念」で、初めての書である。

石碑裏面に戦役従軍23名のお名前が刻まれている。

1.碑   文 :  戦役記念

2.所 在 地:  新潟県魚沼市堀之内竜光三ノ和田1896番地  天満天神社

3.揮 毫 者:  陸軍中将 秋山好古

4.建 立 者:  日露戦役従軍者の有志

5.建立年月日: 大正3年8月 

6.碑石大きさ:  高さ 1m55cm  横幅 70cm  厚さ 48cm 

7.石碑の由来: 日露戦争に、魚沼市竜光地区から23人の兵士が出征したが、その中の有志が大正3年8月、この「戦役記念」碑を建立した。揮毫は当時、新潟県高田市の第13師団長であった陸軍中将・秋山好古である。

この地区から日露戦争に出兵従軍された方は26名で、残念に3名の方が戦死され、23名の皆さんは無事生還された。23名の皆さん達が記念に「碑文・戦役記念」を建立、揮毫を秋山好古に依頼した。

好古は、揮毫しながら「よくぞ元気で生還された・・わしはうれしいぞな」と熱いものが胸に湧いてきながら「戦役記念」を書き上げたと思う。

石碑裏面に23名の名前が刻印されていて、石碑横側に大正3年8月有志建之と刻まれていた。

この時、秋山好古は、新潟市高田の陸軍歩兵第13師団長として2ケ月間いた。第13師団はその後、満州に移転し秋山好古も、満州に移動するのである。

この2ヶ月間に、新潟市の「忠魂碑」・魚沼市の「戦役記念」を揮毫して満州へと旅立つのである。

注:明治43年、蒋介石が、野戦砲兵として陸軍歩兵第13師団(新潟県高田)に一時期、在籍していた・・とある。

平成26年3月13日、新潟市文化遺産に認定された、秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」で、認定の経緯が新潟日報は報じた。記事を書いたのは、新潟日報・鈴木記者である。

新潟市文化遺産制度とは

趣旨:文化財保護制度(指定・登録)とは異なり,市民の思い出や生活の 一風景などに関する地域の文化芸術活動を新潟市民文化遺産(以下「文化遺産」という。) として認定し,地域の文化的な遺産の認知度向上と後世へ継承する活動を支援すること により,地域の活性化を図ることを目的とする。

平成26年当時、市文化遺産制度を実施している自治体は、遠野市・京都市・新潟市の3市のみであった。

平成26年10月30日、秋山兄弟生誕地の研究員7名を引率して、新潟市民文化遺産に認定された秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」と、戦後日本で始めてGHQ(連合国軍最高司令官総司令長官マッカーサー元帥)から私立博物館として開設を許可された「北方文化博物館」見学研修に行ったときの愛媛新聞の記事。

 

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秋山兄弟生誕地整備事業を回顧する その7 子規と秋山兄弟の青春「坂の上の雲」の世界 第2回 秋山好古

2022年08月02日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

2009年(平成21年)8月7日号の週間朝日、P100からP103に「子規と秋山兄弟の青春(坂の上の雲)」の世界!!

第2回 好古の遺伝子・・が掲載された。

写真は、朝日新聞本社、小林 修氏が撮影。・・コントラストの効いた小林さん独特の写真である。

「子規と秋山兄弟の青春(坂の上の雲)」の世界!!

第2回 好古の遺伝子・・が掲載されている。

(2009年(平成21年)8月7日号の週間朝日、P100からP103)

春や昔15万石の城下哉・・子規

松山藩15万石の松山城本丸を、小林 修氏が上空から撮影。

第2回 好古の遺伝子は、・・週間朝日・平成21年8月7日号のページ100からはじまる。

書き出しは「松山市の上空から見ると、夏の瀬戸内海が見に飛び込んでくる。

市の中心は松山城、深い緑に囲まれた小山にあり、ここから放射状に町が広がっている。市域はずいぶん広く、人口52万人は四国最大の都市だ。

城の観光客が、登城する松山藩士に見えた。標高132メートルの松山城について、司馬さんは書いている。・・である。

朝日新聞東京本社週刊朝日編集部、編集委員の村井重 俊氏は、秋山好古(信三郎)の職歴は軍人がはじめではない。まずは小学校の先生になっている。お父さんの平五郎がいう。「信や、貧乏がいやなら、勉強をおし」

伊予松山藩は佐幕藩であり、子弟は学問をするほかに立身出世の可能性はない。

ある日大街道で「池内のオイサン」に会った。

池内のオイサンの一言は好古の人生を変えた。

大阪に師範学校というものが出来たぞなもし。これは無料(ただ)の学校ぞな。

師範学校の入学は19歳からで、この時好古はまだ17歳。

※ 記事は、朝日新聞東京本社週刊朝日編集部、編集委員の村井重 俊氏と太田 サトル氏、写真は、本社カメラマン、小林 修氏です。

注:池内のオイサンは、この人の四男が高浜虚子である。

注:なもしとは、伊豫松山の方言で「~ではないですか」のように主に謙遜して使う方言言葉である。

日露戦争で「日本の騎兵がロシアのコサック騎兵をやぶれるはずがない。おそらく西洋人」の顧問がいるのだろう」と疑う人が多く、陸軍騎兵学校に来て好古を見た。

好古の顔を見て「やはり、西洋人がいた」と、彼らはしきりにうなずきあい、好古が日本人であることを容易に信じなかったという」

平成21年7月、朝日新聞東京本社週刊朝日編集部、編集委員の村井重 俊氏と太田 サトル氏、本社カメラマン、小林 修氏は、第10代秋山家宗家、秋山 哲兒氏の自宅に取材に行った。

週間朝日8月7日号のページ101にその記事はある。

職歴を教員からスタートさせた好古だったが、陸軍大将で退役してからも、郷里に帰って北豫中学(現松山北高校)の校長になっている。「軍人ですが、生涯教育者だった人だと思いますね」と言われたのは、秋山哲兒さんで、秋山好古の孫である。

都内にある、哲兒さんの自宅で話を聞いた。

「祖父は福沢諭吉先生にたいへん傾倒し、子どもたちは兵隊になる必要は毛頭ない、福沢先生に学べと。それで親父も私も私の兄も皆、慶応で、私の息子とたちも慶応ですね」

自宅には、好古の晩年の写真が飾られていた。

日露戦争で「日本の騎兵がロシアのコサック騎兵をやぶれるはずがない。おそらく西洋人の顧問がいるのだろう」と疑う人が多く、陸軍騎兵学校に来て好古を見た。

好古の顔を見て「やはり、西洋人がいた」と、彼らはしきりにうなずきあい、好古が日本人であることを容易に信じなかったという」

哲兒さん、「そんなに西洋人のように見えるかなあ?

好古さんは、お酒が大好物で、戦地で猛攻に耐えつつ、飯代わりにブランデー、コーリアン酒など飲んでいたが、哲兒さん、お父さんも酒は飲みませんでした。哲兒さんは下戸である。

好古の遺伝子はどこに行ったのか。・・と書かれている。

秋山家宗家・第10代 秋山 哲兒氏、自宅のリビングには、「天地無私」と書かれた好古の書が飾られている。

好古には7人の子どもがいて、40歳のときに生まれた長男の信好さんが哲兒さんの父親。

私は、海軍にあこがれ、眞之さんのほうが三笠の上でノートを取ったりして、カッコよく思えたな、海城中学から海軍に進むことを夢見ていたが、終戦を迎えた。「その後は、時代が時代ですから、好古の孫だとか大叔父が眞之だとか、話したこともありませんでした」

1968(昭和43年)に産経新聞で「坂の上の雲」の連載が始まり、周辺がにわかに騒がしくなった。「お前が秋山将軍の孫か」哲兒さんも父、信好さんと同じ道を歩き、三菱銀行に努めていた。上司に同じように陸軍大将を父にもつ人がいて、ある日、哲兒さんのデスクにやってきた。「秋山君、今日の坂の上の雲読んだか?

部課長クラスが熱狂していました。・・中略、

哲兒さんには、ふんわりとした雰囲気が、やはり好古さんを感じさせた。

注:秋山家宗家・第10代 秋山 哲兒氏は、令和元年(2019年)10月2日、逝去されました。享年87歳でした。

注:秋山哲兒さんの後ろに掲げてある、秋山好古さん揮毫の扁額「天地無私」は、平成21年5月17日、に千葉県習志野市大久保商店街に建立された秋山好古顕彰碑に使われた書が、「天地無私」を模したもので、提供は、哲兒氏がした。

秋山家の家系図。

秋山宗家は、長兄には「久」の字が付けられていたが、第7代・則久で絶えた。

則久には、嫡男がいなく、次男は他家に養子に行き、3男の好古が第8代秋山家を相続した。

平成21年5月17日に建立された「秋山好古顕彰碑」

※ 石碑の下部に、秋山哲兒さんが提供した「天地無私」が使われている。

習志野騎兵連隊史跡保存会会長、三橋正文氏から顕彰碑の建立経緯を伺ったその一つに、石碑に秋山好古の功績を称え、現代的に写真を織り込むことにしました。

私は、写真は金属に焼き付けて埋め込んであるものと思って観察すると、なんと直接石碑に彫刻してあった。現在は特殊な技法があることに驚いた。・・あっぱれである。

※天地無私の意味は:天地に「私」すなはち、不公平は無い。人は皆平等だから努力をすれば善い人生がおくれる。好古の好きな言葉である。

 

秋山好古顕彰碑

 1.碑     文: 天地無私(天地に「私」、すなはち、不公平は無い。人は皆平等だから)

努力をすれば善い人生がおくれる)

2.所  在  地: 千葉県習志野市大久保一丁目17番14号

   学園大久保商店街 薬師寺前(三橋秀紀住職)

3.揮    毫: 秋山好古

4.書の出所  : 好古嫡孫・秋山哲兒氏

5.建  立  者: 習志野市大久保 学園大久保商店街(三橋正文理事長)

         習志野騎兵連隊史跡保存会代表(三橋正文)

 

6.建立年月日:平成21年5月17日

7.石碑大きさ: 高さ1m20cm  横幅1m20cm 厚さ12cm 

8.好古と習志野について:

騎兵第1旅団は明治34年12月、習志野に創設された。

好古は明治36年4月2日、陸軍少将(44歳)で第2代騎兵第1旅団長に就任。

同年6月、母・貞や家族とともに習志野の官舎に移転した。

明治37年2月、日露戦争が勃発すると好古は、同年4月9日、同旅団長として習志野から出陣。満州(現在の中国東北部)各地で敵の情報収集や後方撹乱など騎兵の近代的戦法を駆使して戦った。

とくに、黒溝台では、当時世界最強といわれたロシア・コサック騎兵団が、数十倍の兵力で日本軍の好古騎兵団を襲撃。

これに対し、好古は騎兵同士の戦いは不利と判断し、陣地を急造して機関砲を用いて応戦。

この意外な反撃にコサック騎兵は戦死者を多数出して退却した。

この好古の柔軟な発想と、不利な条件の下で全滅を覚悟しながら戦線を持ちこたえた騎兵軍団の勇敢な戦いぶりが、日本軍の大きな危機を救った。

「日本騎兵に秋山あり」と世界的に名をとどろかせ、また「騎兵の町、習志野」も有名になる発端になった。

しかし、好古は戦後、この時の武勇談をせがまれても「機関砲があったからよ」とポツン答えるだけで質問者を困らせた。

戦争で多くの部下を失ったことに、もっとも心を痛めていた好古にとって、武勇談などは頭の片隅にもなかったのだろう。

明治38年9月、日露講和条約が締結されると翌39年2月、好古は歴戦の痕跡を残す連隊旗と共に習志野大久保に凱旋したのである。

しかし母は、前年の6月19日に亡くなっていた。

戦地で「母死す」の知らせを受けた好古は、めったに入らぬ風呂で身体を清め「母上は 散りにけり山桜」と詠んだ。

松山の知人には、「母上は、眞之の活躍を伝える電報を持って父上に会いに行かれた。

この面白さを知るのはあなた様くらいです。」と手紙を書いた。

令和の今、習志野大久保商店街の方々の熱意で好古の石碑が建てられ、毎日多くの大学生や地元の人が石碑の前を通っている。

この石碑を見て当時の歴史に触れ、より良い世の中を築いてくれればいいと思う。

石碑は、軍馬の形で赤色の花崗岩に秋山好古の写真を彫り込まれ、下部に好古揮毫の「天地無私」が彫られている。

好古揮毫「天地無私」の出所は、秋山宗家第10代秋山哲兒氏からである。

平成21年5月17日、習志野市大久保商店街・除幕式時に現地取材をした。

           森田千葉県知事を迎えて除幕式

平成21年5月17日、千葉県習志野市大久保商店街の一角に(真言宗豊山派、薬師寺入口)秋山好古顕彰碑が建立された。

秋山好古と縁が深い、千葉県習志野市大久保には、習志野騎兵連隊史跡保存会があり保存会代表の三橋正文氏は、秋山好古騎兵第1旅団長が在籍したこの地に、NHK大河ドラマとは別枠で「21世紀スペシャル大河ドラマ」として平成18年に放送する予定が発表されたのをきに、大久保商店街に秋山好古顕彰碑を平成21年5月17日に建立し除幕式が行われた。

除幕式で祝辞を述べる森田千葉県知事

平成21年4月、第18代千葉県知事に就任、秋山好古顕彰碑除幕式に来賓として参列し、祝辞を述べた。

千葉県知事初当選した時であった。

秋山好古顕彰碑除幕式で挨拶をする秋山宗家第10代秋山哲兒氏。

陸上自衛隊習志野駐屯地所属の「儀礼隊」も参加して盛大に除幕式が行われた。

※平成21年5月17日、千葉県習志野市大久保に(真言宗豊山派、薬師寺入口)秋山好古顕彰碑が建立された除幕式の写真は、私が撮影しました。

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