EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

俳句の街松山の句碑巡り 19 正岡子規の一番新しい句碑

2018年04月26日 | 伊予松山歴史散策

伊予松山を紹介する時「いで湯と城と文学の街」と紹介しておりましたが、最近は「坂の上の雲の街」が新たに付け加えられ「いで湯と城と文学の街と坂の上の雲の街」と紹介されるようになりました。

中村時広愛媛県知事が、松山市長時代に、司馬遼太郎さんが書かれた小説「坂の上の雲」を基調とした街づくりを推進、坂の上の雲ミュージアムを建設、これを中心に松山城、秋山兄弟生誕地、子規堂など、小説ゆかりの史跡・施設など、まち全体を屋根のない博物館として、来松された皆さんに観光して頂こうと言う構想です。

その一つとして俳句が盛んな土地柄、句碑は郵便ポストの数よりも沢山建立されています。

句碑を見て解句し、お城を訪ね、坂の上の雲縁の地を訪れ、疲れた身体をゆっくりと道後温泉で癒して下さい。

 さて、私は俳句の嗜みは全く無い者ですが、平成25年9月19日、子規の祥月命日に松山子規会主催の法要と記念講演会が子規の遺髪を埋葬した松山市正宗禅寺で開催されました。

講演は、子規会副会長和田克司先生が行い、正岡家の最新情報を織り込まれた素晴らしい内容でした。

和田先生の講話を聞き、松山ゆかりの代表的な俳人の句碑を巡って見たい気持ちに駆り立てられ、カメラ持参で数回に区切り独断と偏見で巡り歩く事にしました。

松山ゆかりの代表的な俳人は、正岡子規・高浜虚子・河東碧梧桐・夏目漱石・種田山頭火・野村朱燐洞・石田波郷・中村草田男・篠原梵・柳原極堂でありますがその他多くの俳人の句碑もあります。

句碑は、松山市内に約500基位建立されているそうで、子規の句碑だけでも55基あるそうですから・・全部巡るのは大変です。

先ず始めに、句碑と言えば何をさておいても、一番は、「春や昔十五万石の城下哉」JR松山駅前にある松山を代表する句であります。

この句の句碑は、松山市内4カ所に建立されております。

そして、私が松山の句碑巡りを始めたのが平成25年9月26日から、同年11月7日、村上霽月の句碑で終わっています。

この度、新しく正岡子規の句碑が建立されました。

平成30年4月13日現在松山市内で一番新しい句碑です。

除幕式の詳細は、4月17日付のブログ(伊豫松山、土亀山に正岡子規の句碑建立除幕式)に記載しています。

参考までにその1

坂の上の雲ミュージアムは、平成19年4月28日、松山のまち全体を屋根のない博物館とする『坂の上の雲』フィールドミュージアム構想の中核施設として開館しました。

小説『坂の上の雲』は、松山出身の秋山好古、秋山眞之兄弟と正岡子規の3人の生涯を描いた小説です。

NHKは、歴史に残るドラマとして「スペシャルドラマ・坂の上の雲」を企画した。

当時の海老沢会長は、原作者の許可を得て製作し、平成11年11月29日から平成23年12月25日の3年間かけて全13回で放映されました。

そして再放送が、平成26年10月5日から平成27年3月29日、BSプレミアムで26回に分けて放映されました。

 参考までにその2

「春や昔十五万石の城下哉」句碑4カ所画像で掲示しておきますのでご覧ください。

碑に揮毫されている句は

寒山落木巻1 明治25年(1892)終わりの冬 天文地理の中の一句。季語(凩 冬)にあります。

「凩に はひつくばるや 土亀山」 明治25年 冬の終わりに詠んだ句

「しくるるや 右は亀山 星が岡」 明治28年に詠んだ句

一つの石碑に二句が揮毫されている句碑は珍しいものです。

では、その二句を紹介します。

句の説明は、松山子規会が解句したものの引用です。

「凩に はひつくばるや 土亀山」

解句:「激しく吹きつける寒い凩に向かって、はいつくばっているよ、土亀山は、明治22年歩兵第22連隊が測量した「松山近傍図」によれば、当時土亀山のあたりは人家もまばらでひろびろと田畑が広がっていた。標高は約50mであるが、福音寺や土佐街道(国道33号線)から眺めるとまるで亀がはっているように愛らしく見えた。子規は明治25年の12月、東京八王子などを旅行し、紀行文を書いている。

そのおり、明治22年冬に帰省したとき、散策して見た土亀山の情景を思い出して、詠んだものか。

石手寺、興居島、内川などの句とともに記されている。またこの年に11月、子規は母と妹を呼びよせて、東京永住を決意している。望郷の念の一入強い中での作と言えよう。

この句には、故郷の風土に共感する子規の姿がうかがわれる。・・と松山子規会は解句している。

説明版に記載されている句の説明文。

そしてもう一句は

寒山落木巻4 明治28年(1895)冬の句

「しくるるや 右は亀山 星が岡」

句の説明:「しくるるや」は、しぐれる雨の事で、突然強く吹いたり、やんでは、また吹く雨風のことで、土亀山より星岡山に向かって吹く戌亥(北西の風)風雨のことであり、土亀山を東側から詠んだ句と言える。

石鎚山や東温アルプスに雪が積もると暖かい松山でも寒くなって来る。

子規さんが、土亀山を舞台に二句詠んでいることを考えると故郷を愛し「養痾雑記」に(世に故郷程こひしきはあらじ)と記している。

最後の帰省の際にも、石手、城北、城南、道後、今出を吟行して、「散策集」を書いている。

句碑の前に説明版が設置してある句の説明は、松山子規会にお願いして解句を書いて頂いた。

説明版に記載されている句の説明文。

句碑の裏面。

句碑表裏全体の説明版。

句碑裏面の説明。

参考までに「春や昔十五万石の城下哉」句碑4カ所画像で紹介します。

初代「春や昔十五万石の城下哉」句碑で、俳句の聖地「愛媛・松山」を象徴する句であり、正岡子規の代表句である。

昭和24年4月に小さな句碑が、戦後いち早く国鉄(JR)松山駅前に建立されたものの、昭和28年松山市駅前へ移設。昭和52年城山公園野球場前に移動、のち松山市立子規記念博物館横へと移され現在に至っている。

句碑の大きさは「高さ80cm、奥行43cm、前幅110cm」と小さい。

 

2基目の「春や昔十五万石の城下哉」の句碑。

松山のシンボルともなっている句ということで、昭和37年5月、巨大なこの句碑がJR松山駅前中央広場に建てられたが、昭和55年8月、駅前広場改造工事のため、西北隅に移動した経緯がある。

句碑は、松山市内に約500基位建立されていて子規の句碑だけでも55基あるそうですが、その中でも最大級の句碑です。

3番目の「春や昔十五万石の城下哉」の句碑。

建立場所は、松山市勝岡町の松山発電所記念公園にある。

この場所は、松山火力発電所として昭和33年に建設され、高度成長期の四国の電力安定供給に貢献した。発電所としての役目を終えた後、発電所の開発・運転に長年にわたりご支援・ご協力いただいた地域の皆さまに感謝の意を込めて、跡地の一部を芝生広場・スポーツ施設としてご利用いただくことといたしました。開園は、平成15年9月18日とある。

発電所記念公園に「春や昔十五万石の城下哉」の句碑を設置した理由を担当職員に伺ったが、分からないとの返答であった。

4基目の「春や昔十五万石の城下哉」の句碑。

句碑は、道後温泉のホテル宝荘玄関に造園した小さな子規庭園の中にあった。

子規が生誕した松山市に、子規の庭と題した小規模の庭が数カ所造園されている。そのうちの一つが、道後温泉街にある、ホテル宝荘の玄関を入ると正面に扁額があり、その左側に平成27年3月に造園された「子規の庭」がある。そしてその象徴として「春や昔十五万石の城下哉」の句碑が建立されていました。

なお、ホテル宝荘は、現在解体し新築工事中で平成30年5月25日、新装開館し名称が「道後(どうご)御湯(みゆ)」と改名するそうです。「春や昔十五万石の城下哉」の句碑は何処に再建立されるのでしょうか。

 

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松山市御幸町一丁目・ジャカランダの現況

2018年04月21日 | 伊予松山歴史散策

松山市御幸一丁目409番地 に植栽されている、ジャカランダの花木の現況です。

4月19日撮影。

先日、ブログにコメントが投稿されました。

コメント記事の内容は「御幸町のジャカランダの花、今現在の開花状況を知りたいです。」でした。

画像は、現在(4月19日)御幸町のジャカランダの様子で、やっと葉が芽吹きだしたところです。

開花は、例年通り6月10前後で、昨年は例年よりも花が少なかったので、今年の開花は沢山の花が咲くのではないでしょうか?開花が楽しみです。

・コメントが届いた記事のURL

https://blog.goo.ne.jp/jr5eek/e/c830082a56acf3058cad0abc608195ec

画像は、平成28年6月19日撮影した御幸町のジャカランダの花です。

天龍山・空無我堂の堂主・村上空山先生が、現在地に移植して17年目になるが、平成28年が一番沢山花が咲いたと話された。

画像の写真は、平成28年6月19日撮影したジャカランダの花で、昨年は花が少なかった。

今年の開花状態は昨年よりも沢山開花するか否か楽しみである。

ジャカランダの所在地は、松山市御幸一丁目409番地 写経道場「天龍山・空無我堂」の天龍ビルで、愛媛県護国神社前の道を、西に約500m程の大川沿いに7本植栽されています。

天龍山・空無我堂の堂主・村上空山先生が、平成15年にブラジルを訪れた際、散った花が紫のじゅうたんのように地面を覆った景色の美しさにひかれ、九州宮崎県の造園者にお願いして苗を取り寄せ育苗されたそうです。

ジャカランダは、熱帯性の植物だから日本で育てるには越冬が難しく、2年間程ビニールハウスで育苗しながら耐寒性を養い、露地に出す様指導を受けたそうです。

耐寒性を養い3年目に、現在の所に7本植栽して今年で17年になり、平成28年の開花が今までで一番沢山の花を咲かせたそうです。

ジャカランダは、世界三大花木の一つ、開花時期は、6月10日頃ですので鑑賞に行ってみて下さい。

参考に、伊予郡松前町にもジャカランダがありますので紹介します。

開花時期は、御幸町のジャカランダよりも遅い開花で6月20日頃です。

 伊予郡松前町のジャカランダの所在地です。

その1:伊予郡松前町中川原木下490番地3 沙羅庵・花楽庵・夢楽庵美容室 

その2:伊予郡松前町西古泉にある、「エンゼル幼稚園」

松前町西古泉の重松農園さんにあった愛媛県一番と言われた立派な大きなジャカランダがありましたが、道路拡張         工事のため伐採する事になりました。その事を聞いたエンゼル幼稚園さんは譲り受け移植したそうです。

その3: 伊予郡松前町伊予鉄道郡中線古泉駅北側の、Kさん宅。重松農園さんから譲り受けた苗木を育てた。

 

伊予郡松前町中川原木下490番地3 沙羅庵・花楽庵・夢楽庵美容室のジャカランダで昨年の開花状態は花が少なかったので今年の開花が楽しみです。

伊予郡松前町西古泉、重松農園にあった愛媛県一のジャカランダと言われた。

開花時期になると中・四国地方からジャカランダ愛好者が鑑賞に来ていたそうです。

しかし残念に、道路拡張工事のため伐採する事になりその事を聞いたエンゼル幼稚園さんは譲り受け申し出て園内に移植したそうです。

画像は、エンゼル幼稚園に移植前重松農園にあったジャカランダ。

写真は、重松農園さん提供。

重松農園さんにあったジャカランダで、現在移植され伊予郡松前町西古泉にある、「エンゼル幼稚園」の昨年の様子。

移植のため枝をかなり切り落とし、根切りも行い移植したので花が咲くには2~3年位先でしょうと、重松農園さんはおっしゃいました。

移植作業をした造園業者は、移植成功率は5%と言われたが、移植して今年4年目を迎えますが、元気に生育しておりますと、案内して頂いたエンゼル幼稚園の方の説明で、移植前のジャカランダ、移植作業、移植後の手入れ等々全て立ち会われたそうです。

なお、エンゼル幼稚園には、移植したジャカランダを含めて10本ありました。10本のジャカランダが成長し一斉に花を咲かせると壮大なジャカランダの花園になるでしょう。

移植に当たり、万全を期するために宮崎県まで研修に行かれたそうです。

偶然にも愛媛県農業試験場に在籍しておられた方がおられ、丁寧に教えを得ることが出来たそうです。

元気に育っていました。

画像は、昨年6月23日撮影で、伊予鉄道郡中線古泉駅北側の、Kさん宅の「ジャカランダの花」です。

この「ジャカランダ」は、19年前に重松農園さんから幼木を頂いた樹ですが、樹勢が高くなりすぎて、重松農園さんにあった様にもっと枝が下にもあると形がいいのですがと、奥様は言われました。

確かにエンゼル幼稚園に移植前のジャカランダは形のいい樹姿でしたが、でも立派な大きなジャカランダでちょうど満開でした。

奥さん曰く昨年よりも花の付きが少ないですと話されました。

 

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伊豫松山、土亀山に正岡子規の句碑建立 除幕式

2018年04月17日 | 伊予松山歴史散策

正岡子規の句

「凩に はひつくばるや 土亀山」 明治25年 冬の終わりに詠んだ句

「しくるるや 右は亀山 星が岡」明治28年に詠んだ句

 俳句の街、文学の街、坂の上の雲の街松山に子規の句碑が新しく建立誕生した。

場所は、松山市福音寺町753番地12にある土亀山(伊予三山の一つ)で、句は、正岡子

規が詠んだ「凩に這いつくばるや土亀山」・「しくるるや 右は亀山 星が岡」の二つの句が揮毫され、4月13日(大安)に松山市、松山子規会、福音寺町川付地区の自治会、町内会、福音寺町土地改良区の代表と地元住民が参列し、日尾八幡神社三輪田宮司の神事の下厳かに除幕式が行われた。

句碑建立は、正岡子規生誕150周年記念と松山市美しい街並み賑わい創出事業の一環として福音寺町川付自治会が建立した。

1、      句   碑:正岡子規生誕150周年記念

2、      碑   文:凩に はひつくばるや 土亀山  明治25年

              しくるるや 右は亀山 星が岡   明治28年

3、      建 立 者:松山市福音寺町川付自治会

4、      所 在 地:松山市福音寺町753番地12「土亀山」

5、      建立年月日:平成30年3月吉日

6、      碑の大きさは:高さ1m16cm 横幅1m20cm 厚さ27cm

7、      石   材:花崗岩

 この句碑は、明治25年、冬の終わりに正岡子規が詠んだ「凩に はひつくばるや 土亀山」句だが、この時子規は東京大学の学生で松山には居なかった。上京する前にこの地区を吟行した時を思い出して詠んだのではなかろうか?

「しくるるや 右は亀山 星が岡」この句は、明治28年に詠んだものである。

子規は明治25年10月東京大学を中退し、同年12月、新聞「日本」の記者となり、明治28年4月近衛師団所属の従軍記者として清国に渡り、帰国の船中で喀血した。須磨療養所で保養してその後松山に帰り、夏目漱石の下宿先である、愚陀仏庵で52間居候する。同年10月東京に帰るその途中古都奈良に立ち寄り詠んだ句が有名な「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」である。

「しくるるや 右は亀山 星が岡」この句は、明治28年に詠んだ句であるので、漱石と一緒に土亀山に来たのではないでしょうか?・・星が岡は古戦場があった所で、土亀山の直ぐ近く南に位置する標高75mの山である。

(伊予三山:天山・51m・土亀山・50m・星岡山・75m)。

子規は、34年11か月の生涯を終えるが、その間約2万4千の句を詠んだと言われている。

その中の一句が「凩に はひつくばるや 土亀山」である。

画像は、松山平野中心部に点在する山で土亀山は下記の通りである。

山  名:土亀山(どがめやま)

   種別等級:四等三角点

   所在地:松山市福音寺町753番地12

   緯度:33°49′24.6832

   経度:132°46′56.7406

   標高:50.47m

伊予三山と呼ばれる山は、石鎚山・瓶ヶ森・笹ヶ峰とは別に、天山・土亀山・星岡山も「伊予三山」と呼ばれている。

松山平野中心部に点在する四つの山を別名、伊予三山と呼び、三山に、天山・東山・星岡山と呼ぶ人と、天山・土亀山・星岡山と呼ぶ人がいる。

三角点は、土亀山・星岡山にあるが、天山・東山には存在しない。

上空から見た土亀山の位置。

此れからの画像は、4月13日(大安)午前11時から行われた、正岡子規生誕150周年記念句碑「凩に はひつくばるや 土亀山」明治25年 冬の終わりに詠んだ句と、「しくるるや 右は亀山 星が岡」明治28年に詠んだ句碑の除幕式の様子である。

句碑は、標高50.47mの土亀山の南面麓に建立され,画像で分かるように、土亀山の南面は福音寺町川付地区の墓所となっており、その一番下部に建立された。

この墓所には、陸軍中将仙波太郎の墓がある。

除幕式は、日尾八幡神社、三輪田宮司の祝詞から始まった。

三輪田宮司は厳かに且つ丁寧にお祓いをした。

参列者に対しても丁寧なお祓いがあった。

神事を繰り広げる三輪田宮司。

 無事神事も終わり除幕である。

 愛媛新聞、愛媛ケーブルテレビも取材に来ていた。

 愛媛新聞は4月17日付のページ8に掲載されている。

三輪田日尾八幡神社の宮司の神事が終わり、各関係の体表者によりいよいよ除幕である。

除幕された正岡子規生誕150周年記念句碑の全容が現れた。

 句碑は珍しく2つの句が揮毫されていた。

 殆どの句碑は、1句のみであるが、珍しい句碑である。

 正岡子規は、土亀山を2つ詠んでくれたので、2つとも1つの碑にした。

数日前の天気予報では雨天であったが、画像の様に雲一つない好天でいい除幕式が行われた。

正岡子規の句碑の裏面で

2句が揮毫してある。

「五月雨の中に天山星が岡」明治26年と「毒茸の下や誰が骨星が岡」明治25年である。 

そして、星岡懐古の様を漢詩で詠まれそれが揮毫されている。

1基の句碑に、4句と、10の漢詩が揮毫され欲張りな句碑である。

下部に「この句碑は、松山子規会・松山市美しい街並み賑わい創出事業補助金と福音寺町川付自治会の寄付金により、正岡子規生誕150周年を記念として、ここ土亀山に平成30年3月吉日に建立する。と揮毫されている。

 

除幕式が終わり参列した住民たちが句碑を見る。

明治25年・明治28年、正岡子規がこの地を訪れてくれたのか、今から123年前の事、その当時はどんな情景であったのか?思いを馳せていた。

正岡子規の句碑

「凩に はひつくばるや 土亀山」

「しくるるや 右は亀山 星が岡」

句碑の下に2枚の説明版が設置された。

説明版その1

陸軍中将仙波太郎の説明版は、句碑の右下に設置された。

仙波太郎に付いては、この後詳しく紹介する事にする。

土亀山の南面には、福音寺町川付地区の墓所がり、その一角に仙波太郎の墓と仙波家祖先の墓がある。

 

説明版その2

正岡子規が詠んだ句の背景や解説は松山子規会が協力した。

「凩に はひつくばるや 土亀山」明治25年 冬の終わりの句

「しくるるや 右は亀山 星が岡」明治28年に詠んだ句

についての説明版で、この中に星岡古戦場の事も記載されている。

正岡子規が詠んだ句に、「凩に はひつくばるや 土亀山」に付随して天山・星岡山が出て来る。

天山は、奈良県橿原市にある天の香久山との姉妹山として、また加藤嘉明が松山城築城時に一番候補地として徳川家康に具申したと言われている山で有名である。

星岡山は、鎌倉時代後期宮方と幕府方の戦いがあった古戦場の山である。

土亀山は、陸軍中将、仙波太郎の墓所があり、正岡子規、夏目漱石が吟行に来たのではないかと思われる山である。

そして伊予三山「天山・星岡山・土亀山」に出て来る山の一つである。

正岡子規生誕150周年記念句碑が建てられた少し上に仙波太郎の墓がある。

仙波太郎の墓と祖先の墓。

仙波太郎の墓所で、7基の先祖の墓石が並んでいる。

墓所の入口には、「福音寺庄旧里正 仙波家墓所」と揮毫された石碑が建立されている

仙波太郎、陸軍中将正三位勲一等功三級について。
写真は、昭和46年4月1日、私が福音寺公民館に掲示してあった写真を複写し、パネルに仕上げて、陸上自衛隊松山駐屯地に寄贈、駐屯地の資料館に展示してある写しである。

仙波太郎は安政2年(1855)4月21日に、久米郡福音寺(現・愛媛県松山市福音寺町)に生まれ、幼名を惣太郎といった。父は、旧和気郡馬木村の庄屋田所与惣右衛門の弟で、仙波家の養子となった。その資性は、世俗のわずらわしさを気にしないのびのびしており、まじめでおごそかで、どっしりしており、また書が達者であった。仙波家は、福音寺村の庄屋であったが、太郎の幼少時に家計の不如意から、家産は次第に減少したようである。(私の曽祖父、仙波友十郎と幼友達で、沢山の書簡が届いていた。それを大切に保存し、屏風に仕立てていた。)

少年時代から三津浜で魚類を買って、松山で行商したり、小野村の駄馬に行って、入会林で切り取った木の枝を刈り、これを町へ売り歩いたりしながら、僅かな賃金を得て家計を助けた。父が病床に臥せってから、母と二人で苦労を重ねたが、この間に処して母は貧しいなかにも太郎を激励し、その薫陶に全力を傾け激しい労働のかたわら、僅かな時間を惜しんで南久米の三輪田塾に学び、直接米山の教えを受け明治7年の秋(20歳)の時陸軍教導団に合格、病床にあった父は彼を激励、意を決し上京、叔父の松田通博の学友河東坤(碧梧桐の父)の援助を受けた。

その後陸軍士官学校に入学、明治11年12月卒業、同12年2月歩兵少尉、同16年に中尉となった。太郎は、故郷星岡山に土居通増・得能通綱らの奮闘の生涯を永遠に伝えるために松田通博・吉田格堂・鈴木安職らの有志と謀って土居・得能氏の古戦場に「星岡表忠之碑」を建立した。

同16年4月創設された陸軍大学第1期生として入学同期生に秋山好古がいた。

その後陸軍大学教官、ドイツ留学その時射撃術を習得帰国後、射撃術の優秀な部隊に名誉旗を授与するようになったのは、彼がドイツで行なわれていた制度をわが国に採用させた結果である・・中略

陸軍士官学校教官を経て大佐に昇進第三師団(名古屋)の参謀長、このころ、陸軍の三太郎「宇都宮太郎・桂太郎、後の内閣総理大臣・仙波太郎」のひとりと呼ばれた。その後福岡歩兵第24連隊長となり、第二旅団長を経て明治43年11月30日、陸軍中将・・中略・・かねてから永住の地を岐阜県加納町に決定していた。

退役後夫人、矢野タマの出身地である加納町に居住した。

大正9年5月衆議院議員に当選、わが国の社会教育に貢献、彼は質実剛健で正義の士あって真に軍人の典型的であり、しかも単なる軍人に終わった人でなく常に豊富な学識と社会的常識とを保持し、正確な判断と処理となし得た立派な社会人でもあった。・・秋山好古は、

仙波太郎中将は良く働いたとの談話がある。

仙波太郎と久米村との関係は、大正7年に御下賜金を受けた時、これを直ちに岐阜県教育委員会と久米村青年団とに匿名で寄贈した。また昭和2年(1927年)に生誕地福音寺の屋敷跡に村民のために「公正会堂」を建て寄付し、村の社会教育のために努力した。その跡地は現在集合住宅となっている。

 昭和4年2月19日、逝去 75歳。(文献:久米村誌)

参考1:陸軍大学校は明治16年参謀将校の育成と軍事研究等を主任務として創設され、第1期生は、選抜された19名が入学、その中に伊予松山から秋山好古と仙波太郎がいた。卒業できたのは10名で、主席で卒業したのは、東条英教(東条英機の父)で秋山好古は7番目、仙波太郎は3番目の優秀な成績で二人とも卒業出来た。教育期間は、歩兵・騎兵が3年、砲兵・工兵は2年であった。
参考2:陸軍士官学校の教育期間は、歩兵・騎兵が3年、砲兵・工兵は4年であった。

参考3:旧伊予松山藩主、久松定謨がフランス留学の時、同伴役として依頼を受けた太郎は「私は、藩主久松定謨様には世話になってない、庄屋として多くの年貢を献上してお世話をした方である。よって断わる。」と言った。それで秋山好古が行くことになった。

参考4:仙波太郎は、退役後、岐阜市から慕われて衆議議員に選ばれ社会教育の振興に寄与した。

 仙波太郎陸軍中将、大佐時代の仙波太郎(45歳)右は、少佐時代の仙波太郎(38歳)
田所氏所蔵。

久松定謨伯爵近衛歩兵第一連隊長を挟んで、右に、仙波太郎第一師団長、左に秋山好古近衛師団長が写っている。そして秋山眞之がいる。

大正時代の一時期、朝敵とされた伊予松山藩出身3名は、首都東京都と皇居を、秋山・仙波・久松が守護した。

写真は秋山兄弟生誕地所蔵。

註:久松定謨伯爵は、旧伊予松山藩15万石の藩主である久松家第16代当主で、妻、貞子は島津忠義公爵の娘である。

画像は、久松家の法要で伊予松山出身の名士が参列して行われた時の貴重な写真である。

画像は、左から、秋山好古(近衛師団長)・久松定謨(近衛第1連隊長)・仙波太郎(歩兵第1師団長)

久松定を支えた仙波太郎陸軍中将

「星岡表忠之碑」
揮毫は、二品伏見宮貞愛親王
石碑は、明治16年に中尉となった仙波太郎は、故郷の星岡山に土居通増・得能通綱らの奮闘の生涯を永遠に伝えるために松田通博・吉田格堂・鈴木安職らの有志と謀って土居・得能氏の古戦場に「星岡表忠之碑」を建立した。
参考:二品伏見宮貞愛親王・安政5年4月28日~大正12年2月4日は、日本の皇族、陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将大勲位功二級内大臣。

所在地:松山市星岡町薬師山乙240番地・薬師山(75m)山頂に建立されている。

松山市・松山市教育委員会が設置している「星岡古戦場」の説明版。

愛媛新聞、平成30年4月17日付で掲載、土亀山に正岡子規の句碑建立除幕式の記事。

 

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伊丹十三記念館・開館11周年 無料開館

2018年04月12日 | 伊予松山歴史散策

平成19年5月15日、伊丹十三記念館が開館して今年5月15日で11年になり、記念館では、4月1日(日)に1日無料開館を行った。

5月15日は、十三さんの誕生日である。

記念館の所在地は、松山市東石井1丁目6番10号にあり、火曜日が休館日、開館は、10時から18時まで、入場料は 大人=800円 高・大学生=500円 中学生以下=無料、館長は、十三さんの妻である宮本信子さんである。

記念館は、我が家の近くにあり散歩がてら見学に行って来た。

正面玄関を入ると、右側に受付があり、左側に売店が設置してある。

先ず常設展示室を見て、隣の部屋が企画展示室で、展示室を出ると右側に喫茶・カフェがる。

北側の棟が収蔵庫となっており、そして中庭があり、中庭を囲んで回廊となっていてベンチが置かれ一休みすることが出来る仕組みになっている。

企画展示室では、第6回企画展示「おじさんのススメ シェアの達人・伊丹十三から若い人たちへ」が展示してあった。

上から見た伊丹十三記念館その1。

上から見た伊丹十三記念館その2。

 

記念館の左側に、伊丹十三の愛車「ベントレー」の車庫がある。

伊丹十三が最後に乗っていた愛車「ベントレー」が展示されている。

入口を入ると中庭の風景が目に入る。

受付を済ませ、先ずは常設展示室の展示物を鑑賞。

十三の名前にちなむ13のコーナーが設けてあった。

常設展示室の入口左手の一角に、伊丹映画の特報映像が鑑賞出来るコーナーがある。

此れからは、現在展示開催中の企画展示の資料。

第6回、企画展示「おじさんのススメ シェアの達人・伊丹十三から若い人たちへ」が平成29年12月20日から平成31年12月まで開催中であった。

第6回 企画展示企画展示の案内書の一部。

回廊に画像の様な案内板がありました。

記念館の中庭。

映画鑑賞の案内。

喫茶室「カフェ・タンポポ」の案内書。

宮本信子館長が考案した十三饅頭。

記念館売店。

平成19年5月15日、開館した伊丹十三記念館の案内書。

 

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松山城本丸のソメイヨシノ桜と建造物を散策

2018年04月06日 | 伊予松山歴史散策

さくら活けた花屑の中から一枝拾ふ

「この句は、河東碧悟桐が52歳の時の句、句碑は松山市二番町四丁目、松山市役所前にある。」

 今年の冬は極寒と言う程寒く、温暖である伊予松山も、連日最低気温が零下まで下がる日々が続いた。積雪は一日だけであった。

3月14日、最低気温が9、3度まで上がりいきなり春到来となった。

3月17日、高知市は全国に先駆けて、ソメイヨシノ桜の開花宣言、3月16日宮崎市、17日鹿児島市、熊本市、長崎市、東京都、3月19日松山市のソメイヨシノ桜の開花宣言があり、平年より6日早く、昨年より11日早い開花であった。

資料を調べてみると

全国の地方気象台が管理する桜の観測用標本樹は53本あり、その内ソメイヨシノ桜は48本あると言われている。

また、自治体・公園などの協力機関からの観測標本樹が35地点あるそうで、更に平成28年から、日本三大桜の開花観測が行われることになったそうだ。

特例として沖縄では、ヒカンザクラが観測用標本樹で、ソメイヨシノ桜は花が咲かないそうだ。休眠打破が行われないから。

 註:日本三大桜は、

福島県三春町の「三春滝桜」(ベニシダレザクラ)、

山梨県北杜市の「山高神代桜」(エドヒガンザクラ)、

岐阜県本巣市の「根尾谷淡墨桜」(エドヒガンザクラ)でいずれの桜も、大正11年に国の天然記念物に指定されている。

伊予松山城は、国指定の重要文化財の建造物が21棟あり、姫路城に次いで多い城で、行ってよかった日本の城ランキング第3番目に人気のある城である。

では、第3番目に人気のある松山城を広島市の方と大阪市の方をご案内しました。

松山市のソメイヨシノ桜が開花宣言されてから、12日目(3月31日)広島市から松山城本丸を、それも桜を背景にした写真を撮りたいと言われるお城好きのアマチュアカメラマンを案内する事になり、私もコンデジで撮った画像22枚を掲載します。

途中から大阪か来られた中年のご婦人から、私も一緒に同行させて下さいと頼まれました。

ご婦人は大阪市のある写真クラブの一員で、カメラはソニーの一眼レフα7、いいカメラを持っておられました。クラブの例会に出す題材探しに松山城に来ましたと言っておられました。

広島の方は、キャノンEOS7Dでした。

それでは、広島・大阪の方をご案内した経路順に画像を掲載しました。

先ずは、隠門続櫓(重要文化財)から、櫓と石垣と控えめの桜を入れて、背景が青空、と言った構図です。

石垣は、NHKスペシャルドラマ坂の上の雲の主人公の一人、秋山眞之が少年時代登ったと言われる石垣です。

大手門跡の隘路から望む天守、この風景は俳優で画家の榎木孝明さんが一番お好きな松山城の風景です。

重厚な石垣の奥に天守、手前に太鼓櫓が迫ってきます。

今日は、最高ですと登城する観光者は言いながらカメラに被写体を収めておりました。

太鼓櫓と桜と青空、ここも最高ですと言いながらカメラに収めておりました。

待合番所跡にある、大きな桜が見えてきます。

観光に来られた皆さんは、先ず此処で写真を撮られます。

皆さんは!!あ綺麗と叫びながらシャッターを押されます。

隘路を進みと戸無門を潜ると、本丸一の大きな筒井門(櫓門)が見え、その前(桝形)に大きな桜があります。

筒井門を潜ると、眼前に大きな桜が見え皆さん、此処も綺麗と声が飛び交っていました。

此処も綺麗と声が飛び交っていた桜です。

筒井門と太鼓門の間にある「桝形」にある桜。

本丸広場に上がってきました。標高132mです。

天守のある本壇は、本丸から8.3mの高さがあり、本丸の標高が132mなので、天守の高は約161mあります。これは「現存12 天守」の平山城の中では最も高い所にある城です。

天守は、日本三大平山城の一つです。(姫路城・津山城・伊予松山城)

少し進むと、本丸の本壇になります。三層三階地下一階の伊予松山城の天守で形は、層塔型、本壇にある天守その他の建物の瓦には徳川家の葵の家紋が入っています。

画像は、天守を中心に左が、小天守で右が一ノ門南櫓(重要文化財指定)。

小天守は、昭和43年に復元しました。

現存12天守で徳川家の家紋が揚がっているのは伊予松山城だけです。

伊予松山城本壇にある建造物の鬼瓦全てに三つ葉葵の徳川家紋が配されています。

紫竹門を潜ると大きな桜が、一本見えて来ます。

見える櫓は、小天守で、松山城の復元工事は、昭和43年に小天守から始まり、年次計画的に実施され、小天守の復元工事が完成したお祝い事業として開催されたお祭りが現在のお城祭りの始まりです。

裏鬼門を守護する乾門から外に出て振り返ると素晴らしい景色が見えて来ます。

天守本丸に築かれている屏風折れの石垣と、その上に続塀、櫓、小天守等々が一望できる場所で、坂東三津五郎さんが一番好きであった場所です。残念ながら三津五郎さんはご逝去されました。

此処で写真を撮るには、午後がよく時期も今が一番です。午前中は逆光になり此れから季節が進むと、右側の樹に葉が芽吹きこれが邪魔になります。

この景色は地元民もあまり知られてなかったが、最近はウェーブで検索してこの風景をカメラに収めて帰る観光客が増えました。

この日は、外国人が来ていました。

乾櫓前から見た本壇建造物で、真ん中に三層の天守最上階のみが見える場所です。

この景色もあまり知られてない場所です。

表鬼門を守護する、丑寅門から見た天神櫓と天守です。

ここはNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」最初に出てくる画面で、柵を取り払い、石垣に秋山眞之を演じる本木さんが座り、秋山好古役の阿部さんと正岡子規役の香川さん、この場所からの画像です。此処での撮影は午前中がよく、午後は逆光となります。

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」最初に出てくる画面です。

広島市からと大阪のご婦人を、松山城それも桜を絡めた城郭の写真を撮りたいとの由、ご案内しましたが一部のソメイヨシノ桜は散り始めていましたが、満開で天候も良く絶好の写真撮影日和で喜んで頂きました。

今年の西日本は、開花してから降雨がなく、強風も吹かなく花が長持ちしていい花見が出来たと思います。お二人をご案内し良い写真が撮れました。

帰宅して画像を見るのが楽しみですと話された。

伊予松山城本丸には、約200本の桜が植栽されていますが、一部のソメイヨシノ桜には葉が芽吹いている桜がありました。

伊予松山城本丸の中で一分大きく樹勢の強いソメイヨシノ桜です。

桜の下で花見弁当を、写真を撮る人様々でした。

 

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