EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

令和の新時代アフガニスタンに命を捧げた・中村哲医師 

2019年12月27日 | 伊予松山歴史散策

長年に渡り、アフガニスタンで医療活動を支援してきた、医師中村哲さんが、令和元年12月4日、暴漢に襲われ銃撃、お亡くなりになられました。

中村医師は、医療活動をしながら考えられた事案は、100個の診療所を造り医療活動で支援するよりも、1本の用水路を造り大干ばつで失われていく大地を緑化して、食料を生産し人々の命を救うほうがどれだけ多くの人々に役に立つか分からないと、中村哲医師は考え、白衣を脱いで、作業着に変え、ある時は背広姿で自ら建設機械を操縦して用水路を建設、大地を緑化して行き、65万人の人々の大切の命が救われた。

考えついても行動に起こす事は、並大抵な事ではない大構想を実行して来た中村医師を暴徒は、射殺した。・・何故なのか?アフガン情勢には分からぬ私には真相不明である。
中村哲さんは、言葉で表すのはたやすい事だが、実行する事が大切であると何時も言われていたそうです。

中村哲医師の持論:平和とは

・「先ず、一日3回ご飯を食べる事が出来る。」

・「自分の故郷で家族皆が一緒に生活が出来る。」これが平和の基盤なんだ・・と言われていた。
今後中村さんの様な凄い人は現れないでしょう。偉大な功績を残されたとても惜しい方を亡くした。・・アフガンの損失であるとともに、世界の大損失である。奥様と娘さんが、現地に行かれ、亡くなられた中村哲医師との対面がTVニュース画像が流れた時の姿が寂しかった。

 何時か起こるかもしれない悲劇に遭遇するであろう・・の出来事が起こった。その時の心構えが出来ていたのか毅然とした姿で対面されていた。・・その姿がおいたわしく見えた。そして娘さんがお母様を労わる姿が侘しかった。

 万が一このような事件が起こっても、その時の覚悟は出来ていたのでしょう、中村哲医師は古武士であり、そしてその武士の妻であり、息子であり、娘で、娘さんは気丈夫にお母さまを支えておられた。・・母、娘共に立派な振る舞いであった。・・と私はTVで伺い見て取った。中村一家は、強い絆で結ばれた立派な家庭であり家族であったのでしょう。

心からご冥福をお祈り申し上げます。日本国は、中村哲医師に、勲章「旭日小綬章」を授与する事を決定したが決定が遅い、生前に授与しないと。そして中村哲医師の功績に付いてマスコミ各社はもっと詳細な活動を報道して欲しい。ふと思い出しました。

  • 昭和30年代から40年代にかけて、愛媛県出身の医学博士、岩村昇博士が奥さんと共に、ネパールで医療活動をされた医師が居られたことを思い出しました。

白衣を脱ぎ、アフガニスタンのために「ひと肌脱ごうと」と強い決心をされた中村哲医師。

アフガニスタンは、日本からこんなに遠いところに位置する。

中村哲医師自ら建設機械を操作され、緑の無い大地に用水路建設に取り掛かられた。

枯れ果てた大地を緑化する大きな構想の始まり、大変な作業であった事でしょう。

ある時は、背広にネクタイ姿で重機を操作された。
多才な方だったんですね。
アフガンは大切なお人を亡くされた。

現場で指示をする中村哲医師、土木工事の知識は何処で身に付けられたのでしょう・・凄い方です。

用水路が出来ていく様子をご自分の目で確かめられる。
その顔には一つの曇りもない晴れ晴れとした笑顔。

不毛の地が

緑化された大地を確認される中村哲医師。

緑化された大地を確認される中村哲医師、「さーこれから大干ばつで失われていく大地を緑化して人々の命を救うと」その矢先の出来事、志半ばでご逝去された。大きな大和魂を持たれた偉人でした。

ゆっくりと安らかに休まれて下さい。
ご苦労様でした。
そして中村さんの意志を継いで安心して生活が営まれる国造りに取り組んで行く多くの人が出て来ることをお祈りします。

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松山市制130年記念・道後温之町物語・スタンプラリー開催中!!

2019年12月20日 | 伊予松山歴史散策

松山市は、令和元年12月15日、市制130年を迎えた。

明治22年12月15日(1889)明治政府が施行した「市町村制施行」により、松山市は愛媛県最初の市として誕生し、今年130年を迎え、

市制施行当時の町数は、100町で、戸数7,519戸、人口は32,916人であった。
 令和元年11月1現在、人口:509,163人、四国で一番の都市として発展し、中四国でも広島市・岡山市についで三番目の都市である。

松山市では、市制130年記念行事が開催されていて、その中でも人気の行事が「スタンプラリーをしながら、道後温泉の街を観光し7ヵ所に設置してあるスタンプを定められた台紙に重ねて押すとカラー絵が完成する。」

完成したスタンプ台紙を道後温泉観光会館(道後温泉駅舎前・カラクリ時計がある)に持参すると係員が確認し、道後温泉本館の図柄が入った限定オリジナル特製のタオルが貰える。
このタオルが素晴らしく、大変な人気となっている。
先日、観光にお越しになった埼玉県川越市の男性は、特製タオルを手にして「額に入れて部屋に掲示し大切に保存します。」いい記念になりましたと大変な喜びであった。

スタンプラリーには期限があり、令和2年3月1日迄開催されている。

伊佐庭 如矢は

道後の医家、成川國雄の子として一家を創立し名は如矢、通称は斧右衛門、碧梧桐とも号した。初め伊予松山藩の老職菅良弼の家令となり、明治維新後は愛媛県庁、内務省の官僚、山田香川郡長、高松中学校長、琴平神社禰宣などを務め、晩年は、道後町長に挙げられ道後温泉の改造などを行った。
現在の道後温泉本館は伊佐庭 如矢が建築したものである。
伊佐庭 如矢には土佐の血が流れている。

特筆事項は、「松山城天守存続に尽力した伊佐庭如矢」である。
明治6年2月政府は、廃城令を出して旧権力の象徴である城郭を取り壊すと共に、売却による維持経費の削減を図ろうとした。
伊予松山藩は、親藩がゆえに幕末朝敵とされ松山城の売却取り壊しは免れぬ状態であった。

存続を願い伊佐庭如矢は、内務卿大久保利通に城郭を公園化する事で、庶民の観覧のためにと上申した。
維持費は地元で負担する事を条件で、内務卿木戸孝允(桂小五郎)は公園化を条件で認め存続を許す事になった。その許可証が愛媛県立図書館に保管されている。

政府も各地の城の取り扱いに困っていたので、伊佐庭如矢の公園化計画は一つのヒントになり、その後各地の城は公園化が推進され存続され19の天守を存続を許可した。現在12天守が存続しているが、その基は伊佐庭如矢の働きであった。

伊佐庭如矢は、道後温泉建設に努力して完成させた功績は良く知られているが、松山城存続に努力した事はあまり知られてない。

道後湯之町物語スタンプラリーの台紙。
スタンプラリー台紙は、道後温泉観光会館と7ヵ所に設置してある。

7ヵ所に設置してあるスタンプを定められた台紙に重ねて押すと画像の様にカラー絵が完成する。

道後温泉本館の図柄が入った限定オリジナル特製のタオル。

完成したスタンプ台紙を道後温泉観光会館(道後温泉駅舎前にある)に持参すると係員が確認し、道後温泉本館の図柄が入った限定オリジナル特製のタオルが貰える。
限定オリジナル特製のタオルには、下記の文字が書かれている。

中央に:

宮大工・坂本又八郎が製図した本館正面、立面図。

左側に:

道後温泉三層楼図・道後温泉本館・シンボルの湯玉

右側に:

温泉浴室改築 明治廿七年 四月 

委員長 伊佐庭如矢 棟梁 坂本又八郎、と揮毫されている。

※ 限定オリジナル特製タオルは、額に入れるとよく映える。

道後湯之町物語・スタンプラリーの案内資料。

道後湯之町物語・スタンプラリーの案内資料。

スタンプ設置場所には道後温泉に関する貴重な資料が展示してある。

道後温泉本館:宮大工・坂本又八郎が製図した本館正面、立面図。

宮大工・坂本家は代々松山藩の松山城普請を務めた棟梁の家柄に生まれ、現在の松山城天守は坂本又八郎が築城した。(安政元年2月8日築である)

入浴の入口は左から「一の湯」「二の湯」「三の湯」と三カ所の入り口があった。

区分は:

一の湯は、元藩士・神社寺院関係者。

二の湯は、その他の男性。

三の湯は、女性と区分されていた。

明治28年松山中学の英語教師として赴任した夏目金之助(漱石)は東京と比べて何もいいものはないが、道後温泉は素晴らしいと大変なお気に入りで軽便鉄道(坊ちゃん列車)にのり入浴に通った。湯上りの帰りにさらしな団子(坊ちゃん団子)を食べて帰るのが楽しみであった。

道後温泉本館建設には莫大な費用が必要であった。
明治25年7月21日、臨時町議会が開かれ全面改築が議決された。
総工費は、13万5千円であった。
住民からも出資を願い、出資者には永代終身優待券が発行された。

道後温泉駅前にある右側の建物が道後温泉観光会館で、完成したスタンプ台紙を提出すると、係員が確認し特製タオルが頂ける。

道後温泉観光会館正面。

冠山から見た道後温泉本館、南面。

Kホテル屋上西方からみた道後温泉本館で、以前NHKの固定カメラがあった場所から撮影。

明治27年4月10日道後温泉本館竣工した当時の正面。
平成6年12月27日「道後温泉本館」の名称で国の重要文化財に指定された。
温泉の建物(湯屋)が国の重要文化財に指定されたのは全国で初めてである。

夜の道後温泉本館。

本館最上部に振鷺閣が設置してありその上にシンボルである白鷺が置かれている。

振鷺閣には、太鼓(刻太鼓)があり、朝6時の開館時、正午、午後6時に太鼓が鳴らされる。

平成8年環境庁の「残したい日本の音風景100選」に指定された。

なお太鼓は、朝6時に6回、正午に12回、午後6時に6回鳴らされる。

明治27年4月10日に竣工されてから、令和元年で125年の歳月が経ち、松山市は保存・補強工事を開始した。
完成予定は、令和6年とされ現在修理の真っ最中である。

保存・補強工事のため工事用の大屋根が付けられた。

道後温泉本館は、大正13年(1924)玄関棟・南棟が増築され玄関が変更となった。大正13年玄関棟が増築され、そこに道後温泉の扁額が掲げられた。

「道後温泉」と書かれた扁額は、新築当時からあったものではなく、昭和25年に道後温泉を舞台とした松竹映画「てんやわんや」が撮影された時に、道後温泉と一目で分かるように撮影スタッフが掲げたベニヤ板製のものがはじまりで現在に至っている。

揮毫は、松山出身の画家・村田英鳳による。

映画の主演は、佐野周二と淡島千景であった。

道後温泉シンボル、扁額と湯玉の瓦。

昭和25年に道後温泉を舞台とした松竹映画「てんやわんや」のロケ撮影があった時に、道後温泉と一目で分かるように撮影スタッフが掲げたベニヤ板製のものがはじまりで現在に至っており、初代の扁額は傷み、現在の扁額は二代目である。

揮毫は、松山出身の画家・村田英鳳による。

保存・補強工事のため工事用の大屋根が付けられた。

保存・補強工事のため工事用の大屋根が付けられた。

保存・補強工事のため工事用の大屋根が付けられた。

耐震補強工事が始まり平成31年1月15日から道後温泉本館入浴の入り口が変更になった。
明治27年改築竣工時代の入浴入口は左から「一の湯」「二の湯」「三の湯」と三カ所の入り口があった。

現在は、工事中のため「二の湯」入口から変更になった。

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徳島市から・山の歴史好きの方が天山に来られた

2019年12月10日 | 伊予松山歴史散策

伊予松山城本丸から見た伊予4山の山々。

上空から見た伊予4山の山々、「天山・星岡山・東山・土亀山。」

その中でも記紀に現れる歴史ある山が、天山で奈良県橿原市にある、天香具山と姉妹の山である。

天山山頂には、天山神社があり、次の画像の様に115段の石段がある。

私は、天気のいい日は足腰の筋肉維持のため、神社参拝を兼ねて115段の石段を登り下りしている。

先日、何時もの通り天山神社115段の石段を登っていると30代の男性と遭遇した。

この男性は、徳島市から来られた歴史の好きな吾人で、奈良県橿原市南浦町にある大和三山の一つ「天香具山」と深い関わりのある山が松山市天山町にある「天山」であることを知り伺いましたと言われた。・・私は歴史が好きなものですからと付け加えられた。

私の健康維持・天山神社参拝と115段の石段。

 平成30年7月5日から8日にかけて梅雨前線が西日本付近に停滞し、西日本特に岡山県南部(倉敷市)愛媛県中予、南予にかけて大雨が連日続き、記録的な大雨となり西日本に大きな水害が発生した「気象庁は西日本豪雨と命名した」。
松山市で一番大きな校区石井地区の天山町住民一部に避難勧告が発令された。
場所は、天山神社参道口周辺のがけ崩れ発生のおそれありで住民にだされた。

松山市は、平成30年12月から平成31年2月に掛けて崖の補強工事を施工した。
画像は、天山神社参道石段で115段ある。石段両サイドをコンクリート工事で護岸補強工事をした。私は、護岸補強工事の完成を機に健康維持と参拝を兼ねて天山神社、115段の石段を天気のいいに日毎日登り参拝をしている。

最初は、100段目になると息苦しくなっていたが、今はそれもなくなり体力が付いたようである。
115段の石段は、足腰を鍛えるには、今の私の体力維持にはベストな段数で、勾配もかなりある。・・画像参照下さい。

天山は標高50,4mあり山頂には天山神社がある。

 山の歴史好きの徳島市の30代の男性に私の知る限りの天山の案内をした後に、天山の南東方向にある、星岡古戦場の事を紹介すると是非行ってみたいと言われ案内した。・・天山から徒歩約25分の所にある。

先ずは、天山を紹介した。

そして、天山は慶長6年、加藤嘉明が、伊予松山城築城に際し、徳川家康に1番候補地として築城許可を願いをした山でもある。
 2番候補地が現在の松山城(勝山)で、3番候補地が御幸寺山であった事も紹介すると、天山が一層興味深い山になった様子であった。

天山神社拝殿前に掲示してある、社略縁起。

奈良県橿原市南浦町にある大和三山の一つ「天香具山」と深い関わりのある「天山」、愛媛県松山市天山町との交流が、昭和52年4月1日から始まり姉妹町交流20周年を記念して、平成9年7月、建立された石碑が天山山頂にある。

交流20周年を記念碑裏面。

裏面には、昭和52年4月交流開始

     古代より由緒と歴史をここに刻む

     平成9年7月吉日

     と書かれている。

愛媛県松山市天山二丁目にある「伊予の天山」全景。

奈良県橿原市南浦町にある「天香具山」の全景で山の形も天山と似ている。

画像は、日本100名城めぐりの途中撮影した。

昭和52年6月1日、「山の伝説が縁・珍しい姉妹町」の見出しで書かれた読売新聞、奈良版。

平成27年11月29日、「天から山風土記のご縁」の見出しで21年振り読売新聞に記事が出た。

伊予松山城築城一番候補地の天山から見た松山城。

天山山頂から望遠で撮った伊予松山城天守群。
江戸時代に創建された一番新しい天守で、現存12天守の一つ。

伊予松山城天守は、松山城築城一番候補地の天山から見る松山城が一番綺麗に見える。

松山市教育委員会が設置している「天山」の説明版。

これからは星岡古戦場で徳島市から来られた山の歴史好きの吾人を案内した。

星岡古戦場跡とは、

先ず、場所は松山市星岡一丁目1番8号「雲門寺」の周辺一帯の山(通称、五ヶ森。)

鎌倉時代の末期幕府の力が弱まってきたころ、後醍醐天皇はもう一度、天皇が政治を行なう為に実権を取りもどそうと討幕を計画し王政復古の戦いを起こした。

伊予国でも幕府方と宮方に分かれて激しい戦いが行なわれ、伊予守護である河野一族の土居(どい)通増(みちます)と得能(とくのう)通綱(みちつな)は、伊予の宮方の旗頭として幕府方と壮絶な戦いを行った。 
瀬戸内の宮方の取り締まりには、長府(山口県下関市)に鎌倉幕府、長門探題が置かれ長官職に、北条(ほうじょう)時直(ときなお)がいた。

元弘3年(1333)2月2日幕府方の北条時直は、現在の愛媛県今治市近見付近に上陸し伊予の幕府方の宇都宮氏とともに土居氏・得能氏と戦い共に敗退し1ヶ月後、北条時直は再び幕府軍を立て直して宮方の中心である石井(現在の愛媛県松山市星岡町)に攻め込んだ。 

 北条時直は、七千余の軍船を率いて第一軍を松山市今出に、第二軍を松山市三津浜に上陸し伊予の反幕府軍制圧に星岡城を占領し拠点とした。

 元弘3年(1333)3月12日壮烈な合戦が星岡山を中心に松山市石井・久米・小野地区といいた広範で戦いがあり、伊予の宮方軍が勝利した。(東温市下林の築島神社境内に古戦の塚がある。)

 此れが全国に波及して同年暮れに鎌倉幕府は滅亡した。
畿内では楠木正成、新田義貞が宮方軍として奮戦し、楠木正成は、湊川の戦で戦死、新田義貞は、越前金ヶ崎城の戦いで戦死、同行していた伊予の土居通増・得能通綱も新田義貞と共に戦死した。

松山市星岡町にある「星岡山頂」標高75,4mに土居氏・得能氏の功績をたたえて、明治17年5月、陸軍大学校一期生の仙波太郎(後の陸軍中将で、陸軍の三太郎と言われた。宇都宮太郎・桂太郎・仙波太郎である。)が中心となり「星岡表忠之碑」が建立された。

壮絶な戦いの中心地が星岡山で、ここを星岡古戦場跡と呼んでいる。

また愛媛県西条市丹原町得能にある常石山山頂には、秋山好古・陸軍大学校一期生(後の陸軍大将・北豫中学校長)が揮毫した得能通綱の忠魂碑がある。

 

松山市教育委員会が設置している「星岡古戦場」の説明版。

松山市星岡町にある「星岡山頂」標高75,4mに土居氏・得能氏の功績をたたえて、明治17年5月、陸軍大学校一期生の仙波太郎(後の陸軍中将で、陸軍の三太郎と言われた。宇都宮太郎・桂太郎・仙波太郎である。)が中心となり「星岡表忠之碑」が建立された。

令和時代か686年前の出来事であった。
 

昭和3年、昭和天皇即位の御大典記念として、愛媛県西条市丹原町常石山山頂に得能通綱の忠魂碑が建立された。

 得能通綱は、延元2年(1337)3月6日、越前の金ヵ崎城で足利尊氏軍との戦いで戦死碑石裏面に得能通綱の経緯が記載されている・・

揮毫は、秋山好古で、好古は、忠魂碑の除幕式に参列している。・・当時陸軍大将を退役し北豫中学校長(現、愛媛県立松山北高校)であった。

 以上の様なお話をしながら星岡古戦場跡をご案内した。

徳島市の歴史好きの吾人は「いい所を案内して頂き有難うございました。」・・と言葉を残して帰られここで別れた。

 参考までに

土居氏・得能氏の功績

土居通増・得能通網は、新田義貞の軍中にあって尊氏の大軍と戦ったが防戦出来ず、ともに戦った楠木正成は戦死した。・・これが湊川の大合戦である。

義貞は北国に赴く途中深雪寒風のなか尊氏の大軍と遭遇、後陣にいた土居通増は戦死、義貞は難を逃れ延元2年(1337)3月、金ヵ崎城で足利尊氏の大軍の猛攻をうけ得能通網も壮烈な戦死を遂げた。

河野通盛は、足利尊氏と行動をともにしていたが同年7月以降、伊予に在国し河野氏の発展に尽力した。

以後室町幕府が開かれるのである。

画像は、この戦いで戦死した土居通増・得能通網が後醍醐天皇に尽くした勤王の石碑であり(松山市土居町:土居遊園地)、秋山好古揮毫石碑写真集、P22記載の忠魂碑は、得能通綱の戦歴と御霊を祀りしの碑である。

 

土居・得能 勤王之碑。

建立場所は、松山市土居町1110番地、土居遊園地に建立されている。

 

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初冠雪の石鎚山(令和元年11月29日) 

2019年12月01日 | 伊予松山歴史散策

伊予松山にも冬将軍がやって来た。

日本七霊山の一つである、西日本最高峰、1982mの「石鎚山」に令和になって初めての冠雪である。

今年の初冠雪は、令和元年11月29日で、平年よりも遅い冠雪であった。

初冠雪のあった11月29日は、天候がよく我が家の近くからから冠雪した綺麗な石鎚山を見ることが出来た。 

昨日の松山地方の最低気温は5,5度まで下がり今季最も低い気温で最高気温も14,5度までしか上がらなかった。

伊予松山もいよいよ冬到来である。 

画像は、11月29日撮影の冠雪した西日本最高峰の「石鎚山・1982m」です。

昨日伊予松山城天守から撮影した石鎚山も掲載します。

石鎚山は、松山から見る姿が一番美しく見る事が出来ます。

初冠雪(11月29日)があった石鎚山(1982m)を見る事が出来た。

撮影場所は、松山市東石井町幸田橋から。

石鎚山の弥山を、デジタルズーム・1365mm相当で撮影、手振れを防ぐためにセルフタイマーで撮りました。

石鎚神社山頂社は、弥山、1974mにあり、隣接して石鎚山荘(山小屋)がある。

日本の山岳信仰、日本七霊山の一つである石鎚山。

日本七霊山は、

富士山:静岡県・山梨県

立 山:富山県

白 山:石川県・岐阜県

大峰山:奈良県

釈迦岳:奈良県

大 山:鳥取県

石鎚山:愛媛県

以前は、霊峰・石鎚山を見ると思わず手を合わす人々がいましたが、最近はその姿を見る事はなくなりました。

 

少しレンズを引くと。

伊予松山城天守から、昨日(令和元年11月30日)撮影した石鎚山。

これからの画像は、数年前に石鎚山を背景に、伊予松山城天守を望むことが出来る地点が一カ所しかない貴重な場所から撮影した画像です。

松山市衣山町から撮影。

場所は、松山市衣山町金毘羅神社から少し上がった山からです。

1月末から2月頃は画像の様な石鎚になります。

撮影は、午後がいいです。

 

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