EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

千葉県習志野市で「秋山好古資料展&記念講演会」開催

2013年02月28日 | 伊予松山歴史散策
NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」が平成23年12月で放映は終わった。
司馬遼太郎が10年の歳月を掛けて四国・松山で生まれた秋山好古・秋山眞之・正岡子規達を中心に書き上げた壮大な物語をNHKでは歴史に残る映像として取り上げ製作された。放映は平成21年11月29日第一部そして平成23年12月25日が第3部最終回で、全13回放映された。

秋山好古は、安政6年1月7日、現在の松山市歩行町二丁目3番地6に松山藩士徒歩目付けの三男として誕生、福沢諭吉の「学問のすすめ」を読み教師を志し大阪師範学校入学、卒業し名古屋師範学校付属小学校教師として赴任するも同校教務館・和久正辰の強い勧めにより陸軍士官学校に入学、卒業して日本の騎兵隊を創設した。・・中略・・騎兵隊は、千葉県習志野に移り好古は騎兵旅団長として着任し、日本の騎兵育成に尽力した。

習志野市、東邦大学(旧騎兵第14連隊)構内に旧騎兵連隊当時の兵舎が1棟ありこの建物を永久保存し後世に伝えて行く事が決定した。
この事を記念して、千葉県習志野市騎兵連隊史跡保存会がこれまでに収集した貴重な資料を下記の場所で3月8日まで開催されている。お近くの方は是非ご覧下さい。
なお、展示会では今回初公開の資料も展示してあるそうです。

また習志野市大久保と松山市の秋山兄弟生誕地は民間友好交流を行っていて今回同展示会場内に松山市物産展(松山銘菓)も行われている。

                             記

          日本騎兵の父 習志野騎兵旅団長 秋山好古展

1、展示期間   平成25年2月16日(土)~3月8日(金)
2、展示場所   千葉県習志野市大久保 習志野市民プラザ大久保
3、記念講演会  平成25年2月24日(日)既に終了
4、展示内容   習志野騎兵旅団・秋山好古の生涯・秋山好古が生きた時代
           軍郷習志野点描
5、主  催   社団法人あったか大久保ひろば
6、後  援   習志野商工会議所・学園大久保商店街・東邦大学
         東邦大学附属東邦中高高校「秋山好古と習志野」刊行会

日本騎兵の父 習志野騎兵旅団長 秋山好古展案内状、好古カラー肖像画は、白黒の写真を元にして丸山画伯が手描きで画いた傑作。


明治43年当時の旧騎兵連隊地形。




東邦大学にある旧騎兵隊兵舎で現在は東邦大学の空手&柔道道場として使用している。この建物を同大学は永久保存する事を決定。




2月24日(日)開催された記念講演、大勢の聴講者で盛況だったそうです。
画像提供:東邦大学附属中学・高等学校・山岸教諭。


習志野市騎兵連隊史跡保存会事務局から送られて来た2月24日の速報版。


平成24年3月25日に完成した旧騎兵旅団本部の模型。
習志野市市民プラザ大久保の玄関に常設展示している。
製作は、日本大学生産工学部の学生さん達。日本大学生産工学部は旧騎兵第15連隊跡に創設された。


平成21年5月17日習志野市大久保学園大久保商店街薬師寺入口に建立された秋習志野第一騎兵旅団長 秋山好古大将の顕彰碑。


習志野市大久保・学園大久保商店街を毎日、東邦大学・日本大学・東邦大学附属中高校生達6000人がこの商店街を通る。三橋正文学園大久保商店街理事長は、秋山好古大将の顕彰碑を見てもらい当時を振り返り日本歴史の勉強の一助になればと秋山好古顕彰碑を建立したと言う。また商店街には資料館の設備も完備している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊予路松山にも春の気配訪れる

2013年02月26日 | 伊予松山歴史散策
今年のJA全体は超厳寒で松山市でも最低気温が零下になる日が度々あった。
伊予路に春呼ぶ椿神社祭りも終、昨日から春の気配を感じるようになってきた。
私は毎日目標に8000歩を歩きます。何時もの散歩コース何時もの衣服(下着も)で歩いていましたが、昨日から背中に少し汗を掻くようになりました。それだけ気温が高くなったのでしょう。そして日が長くなりました。

昨日の松山の最低気温は2,3度、最高気温は、11,5度でした。
日入りは18時01分です。東北・北海道地方は、未だ降雪が激しく除雪作業が大変のようですがくれぐれも御身気をつけて除雪されて下さい。

画像は私の毎日の散歩コースです。


国道33号線天山橋東側に「伊丹十三記念館」がある。館長は奥さんの、宮本信子さんで時々おいでになる。昨年暮れに「宮本信子のジャズライブ」があった。
所在地:松山市東石井町


記念館入口に伊丹十三の愛車「ベントレー・コンにネンタル」が展示してある。


さて私の散歩道を画像で紹介する。画像は川付川(川幅12m)画像には映ってないが、右手に小野川(川幅22m)が流れていて天山町と東石井町境界の国道33号線天山橋で合流する。


右側の堤防は車の通行が多いが、左側の堤防は殆ど車の通行は無く散歩者にはいい歩道である。


左側に見える樹は、染井吉野桜で、開花すると花道になりいい景色となる。


元我が職場の同僚が小野川沿いに住んでおり、川の水浄化の一環として18年前に鯉を放流した。(自費で)その鯉が繁殖して、川付川にもやって来て今や沢山の鯉が遊泳し川の虫どもを食べて綺麗になり特に夏に発生する蚊の蛹、オニボウフラの発生が少なく大助かりである。
時々子供達が鯉を釣りに来る。時には大人が網で鯉を捕獲に来る。子供は楽しんでいるのだからよしとするが、大人にはこの鯉は理由があって放流している勝手に取らぬよう注意をしている。仲には食って掛かる愚か者も居るが・・ならぬことはならぬことだ。・・と言って帰ってもらう。


正面のビルの前を国道33号線(土佐街道)が走っていて天山橋がある。
400mの堤防に菜の花が植えてある。


散歩していると気が付かないが今日はカメラ持ってよく観察していたので野花が咲いているのに気付いた。


川の沿道には未だ収穫されてない甘夏間が沢山実を付けていた。


菜の花をアップで撮ってみた。


伊丹十三記念館にある花・・何の花だろうか??


川付川北側堤防は、愛媛県・松山市の許可を得て松山市天山町内会・同東石井町内会が河川の美化清掃活動の一環として堤防の草刈、菜の花の育成、アジサイを植栽して美化運動をしている。以前は犬を連れての散歩者が犬の落し物を処理しない者が多かったが、落し物は持ち帰りましょう運動で最近は道&堤防が綺麗だ。


小野川の堤防には松山市星岡町内会が水仙を植え、白梅・紅梅等々も植栽し河川の美化清掃推進活動をしている。


2月8日午前8時58分から急に鉛色の空になり、雪が降り出しあっという間に一面銀世界、この降りだとかなりの積雪になるなと思いきや直ぐに止み、暫くすると日が照りだし雪は解けた。なんだか夢を見ていた感じであった。
・・こんな松山の冬もあった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新伊予松山紀行 伊豫13佛霊場めぐり 第4番 円福寺

2013年02月25日 | 伊予松山歴史散策
1月31日結願寺、金比羅寺の巡礼を終え伊予13佛めぐり最後の霊場第4番円福寺に向かった。
国道494号線沿いにある金比羅寺から国道11号線に出て、松山市平井町から最近開通した県道か?市道か?松山市の横谷霊園横を経由して食場町に出て国道317号線で石手川ダム湖を通り藤野町の円福寺に着いた。
今回の霊場めぐりで一番長い移動距離で約20km位あった。

円福寺の近くには、両新田神社があり鳥居の社号碑「新田神社」を秋山好古が揮毫している。石手川ダムと円福寺の途中にある若宮八幡神社の社号碑も好古が揮毫している。
さて
永徳山 河野院 円福寺は、松山市藤野町甲87番地にあり、ご本尊は普賢菩薩である。
寺伝には、平安時代の貞観2年(860)第5代天台座主・安慧によって開かれた。南北朝時代、新田義宗(新田義貞の三男)とその従兄弟に当たる脇屋義治(脇屋義助の子)が当地に隠棲。応永12年(1405)夏、秋の両人没後二人の位牌を祀り、菩提寺となった。二人の所持した太刀、鎧、馬具等の遺品を伝え、創建当時には高福寺、薬師寺、弥勅寺等12の支院を持ち隆盛を極めた。

しかしながら円福寺を含む湯山地区一帯が南朝に加担した河野庶家・土居、徳能氏の領地であったことから、南朝滅亡後は大きく衰退し、その後河野家宗家の領地となった後の天文17年(1548)3月18日、河野通直が新田義宗、脇屋義治の二廟を建て「上新田」「下新田」と改めた。その後二廟は合祀され「両新田神社」と改めた。

宝永元年(1704)11月伊予松山藩主・第4代松平定直が両人の没後300年祭を両新田神社と円福寺で行った。
明治28年(1895)暮には松山で中学校教師を務めていた夏目漱石が来訪。彼らの遺品を観賞し、詠み残した句「山寺に太刀をいただく時雨哉」の句碑がある。


国道317号線沿いに参道がある円福寺。新田の大きな石碑がある。
車をお食事処の駐車場に置かして頂き歩いて境内に行く。


円福寺の寺号石碑。


先ずは、本堂にお参りをして境内内を撮らせて頂いた。


本堂に置いてあるお印の札。


本堂左手にある庫裏と鐘楼、石像菩薩。


境内右手には先の大戦で戦病死された慰霊碑と石像菩薩。


本堂横に夏目漱石の句碑がある。「山寺に太刀をいただく時雨哉」
漱石は明治28年に松山中学の英語教師として赴任、子規と52日間共同生活をする中で短詩系文学に身をゆだね
文豪夏目漱石が誕生したのである。


子規は明治28年松山に帰った時漱石の下宿先に居候として入り込んだ。
画像は、正岡子規と夏目漱石が52日間共同生活(子規が居候した庵)をした愚陀物庵で、二階に漱石が、
一階に子規がそして何時も一階で句会をしていた。ここで漱石が文学の道に入る。愚陀物とは漱石の俳号である。
子規・漱石・秋山眞之は東京大学予備門時代の同級生で、子規・漱石は東京大学に進み、眞之は海軍兵学校に入学。
なお、画像の愚陀物庵は平成22年7月12日記録的な豪雨で松山城に大規模な土砂崩れが発生し全壊した。
現在松山市は再建地を検討中。


円福寺境内からみた藤野町。このような山間にお寺がある。


円福寺から東方800m上に「両新田神社」がある。秋山好古は鳥居の社号碑の揮毫をしている。


秋山好古が揮毫した「両新田神社」社号碑。


円福寺と石手川ダムの中ほどに「八幡若宮神社」があり、この社号碑も秋山好古が揮毫している。


八幡若宮神社の社号碑は、刻印が浅く殆ど読むことが出来ず宮司さんの了解を得て墨を入れて撮影した。


松山市民の水瓶「石手川ダム」この日の貯水は88,2%と標示があった。(1月31日)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新伊予松山紀行 伊豫13佛霊場めぐり 結願 金比羅寺

2013年02月24日 | 伊予松山歴史散策
第7番香積寺の参拝を終え、結願寺、金比羅寺に向かった。車で18分程東方向、隻手薬師から約11kmにあり、松山平野の山間部入り口にある。
隣接して、惣河内神社があり、最近話題になった心無いものが神木の一つに薬剤を注入され枯死し被害のあった神社がある。また珍しい百日桜がある。
さて
松尾山 金比羅寺は、東温市(旧川内)河之内4874番地にあり、ご本尊は金比羅大権現である。

寺伝によると長寛年間の1163年頃の開山と伝わり、当初は称明寺とも馨明寺とも称されていた。
慶長14年(1609)当寺で夫人の安産祈願を行った伊予松山初代藩主・加藤嘉明の帰依を受け堂宇の改修、整備が行われ、合わせて寺名も「金比羅寺」と改称された。

「伊予温故録」によれば、慶長6年(1601)年3月28日鞍瀬新左衛門なる人物が河之内村名越に創営。慶長14年、加藤嘉明によって改修が行われ、明治2年(1869)に現地に移転したと伝わる。本堂は明治21年(1888)の再建である。

「松尾山宝持院金比羅寺、川之内、金比羅立給ふ近所に腰懸石と云あり、是は建長の比鎌倉の最明寺入道諸国修行の時、最明寺此所に来り暫く腰を懸け休給ふ也、向山の峠を根引峠と云也、最明寺への饗餉したる時、松を引てままとしたるより今に根引峠と云ふ」・・と記述あり。

当院本尊の金比羅大権現は、衆生全ての願いを極楽舟に乗せて仏様の下へ送り届けると伝えられている。金比羅とは、本来インドのガンジス川に棲む鰐を神格化した水神の名で梵語「クンビーラ」の漢訳語である。

最後に住職からの言葉、「杉木立の静寂の中、八百数十年の歴史を刻む寺」。 

私が中学校時代夏休みの宿題で、この地の奥にある白猪の滝に従兄弟と「植物採集」に行き、帰りこの寺の前で休んだ。隣の家から夏の高校野球甲子園大会決勝戦の実況放送が聞こえて来た。決勝戦は愛媛県の松山商業高対高知県の土佐高校、この時代は現在のように都道府県代表でなく、地区代表で、四国は、北四国代表、南四国代表として出場していた。

北四国代表松山商業は、四国大会では南四国代表の土佐高校には勝った事が無く、強豪で決勝戦でも9回まで負けており、追いつき延長戦で松山商業が勝ち優勝したと記憶がある。

こんな記憶を辿りながら隣接の惣河内神社の「百日桜」と「一畳庵」を見て、最後の伊予13仏めぐり第4番円福寺に向かった。・・13仏めぐりで一番長い移動距離であった。


結願寺「金比羅寺」付近の風景。


金比羅寺入口階段。


石段の上にある山門。


歴史ある山門が目に入る。


山門に掲示してある「伊予13佛結願の寺金比羅寺」の札がある。


金比羅寺は二つの石段があり、その奥に本殿がある。


最後の石段を上がると本堂が見えてくる。


本殿には、絵馬があった。・・なんの絵馬なんだろうか?


一つ目の石段と、二つ目の石段との間に大師堂がある。


勾配のある参道の左右には年輪のある大きな木々がある。


隣接する、惣河内神社にある「百日桜」冬桜の一種が花を咲かせていた。この桜は年に2回開花する珍しい冬桜の一種。秋より翌春まで咲き続き、12月中旬頃が一番の見頃と言われている。
この百日桜は、松根東洋城の名句「春秋冬 冬を百日 桜かな」から百日桜と命名したそうだ。


惣河内神社には県指定の「ウラジロガシ」の大木がある。


漱石門下松根東洋城の結庵「一畳庵」で昭和25年夏から同27年春まで再三来山し延べ15ヶ月間滞在した。松根東洋城はこの地の渋柿俳人達を指導し自らも百数の句を残している。


一畳庵前に句碑がある。「一畳庵 ひたきくるかと 便りかな」・・巨星塔
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新伊予松山紀行 伊豫13佛霊場めぐり 第7番 香積寺

2013年02月22日 | 伊予松山歴史散策
第9番道音寺の参拝を終え、次の7番霊場、通称隻手(かたて)薬師(やくし)・香積寺に向かった。車で5分程東方向にある。
隻手薬師の春季大縁日は、4月12日、小学校時代縁日を楽しみにして我が家の近くの駅から伊予鉄道横河原線の坊ちゃん列車に乗って田窪の親戚に行き、縁日と親戚の叔母が作ってくれるご馳走で持て成してくれた。
この時代の食生活は今のように裕福では無かったので嬉しかった。
こんな昔の思い出を抱きながら寺に来たがこの寺も様子が変わっていた。

隻手薬師として親しまれているこの寺は、檀家はもとより多くの隻手薬師様を愛する者達が春季大縁日は大勢の人々のお参りで賑わっているそうだ。

瑠璃山 香積寺(通称、隻手薬師)は、東温市(旧重信町)田窪1504番地にあり、ご本尊は薬師如来、開山・開創は空海弘法大師である。

寺伝によると大同4年(809)、空海によって開かれた。田窪の里の「井門」という人物がある日開墾作業中に柳の根元からお薬師様の金銅仏を掘り出し旅の僧(空海)に差し出した所、空海は自身の守り本尊である薬師如来の胎内にこの像を納め合わせた。

その後片手が不自由になった空海が一方の手で一心にお祈りしたところ、両手が合わさる様になった(片手で拝んでもご利益を預ける)というところから、隻手薬師と呼ばれるようになった。本尊の隻手薬師は秘仏で、今まで開帳された事は無い。現在の香積寺は、元禄年間に移転されたもので、旧跡は寺屋敷として地名が残っている。

昭和56年京都の東寺から勧請された張子大師(空海の母が空海に宛てた手紙と弟子達の写経によって造仏)が奥の院に祀られ、毎年2月の節分に開帳され参拝する事が出来る。
また、本尊「隻手薬師」を祀る前殿は、東温市で最も古い木造建造物である。


以前は確か参道両側には広場があったが、墓地になっていた。


境内右手に大きな隻手薬師の石碑が建っていた。
この石碑裏面には、寄贈 京都市東山区清水二丁目 七味本舗 福嶌家 平成19年6月吉日と記載してある。


山門に各霊場札とすごろく開運暦が掲示してあった。


山門を潜ると本堂がある。一階は鉄筋コンクリー造りでその上に本堂がある。
境内の敷地の関係でこんな格好になったのか??幼少時行った時の記憶にはもっと境内は広く感じたが。


本堂左手にある堂で、この堂が東温市で最も古い木造建造物なのか?


境内左手に大師堂がある。


本堂前に今年の干支の大きな「巳」絵馬が掲示してあった。


山門裏側に掲示板があり、画像の言葉と節分の案内がしてあった。


画像は、昭和28年12月1日の写真を、平成17年4月15日に撮ったもので、坊ちゃん列車、横河原線で立花駅
を久米駅に向かって発車するところ、田窪の親戚に行った時はまさにこの列車に乗って行った。左の線路は森松線で
現在は廃止されている。踏み切りはの道は、国道33号線である。現在は県道になっている。


画像は、昭和28年10月2日、松山市福音寺町にある「土亀山」から撮った坊ちゃん横河原線で、久米駅に向かっ
ている列車の写真を平成17年4月15日に撮った。客車は長いものと短い客車の混合、映っていないが後ろからも
機関車が押している。現在は電化され郊外電車が走っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする