EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

松山市内の銅像巡り4 井上 要 像

2014年04月30日 | 伊予松山歴史散策
井上 要 像

井上要は、実業家、政治家として愛媛県政財界の中心人物で松山の発展に尽くした偉大なる人物である。
慶応元年伊予国喜田郡菅田村(現・大洲市)庄屋の有友平衛の長男に生まれ、同村士族井上家の養子となる。
明治39年伊予鉄道の社長となり、伊予水力電気,松山電気軌道などを合併して伊予鉄道の基盤をつくり、松山商工会議所会頭などを歴任し,四国初の松山高等商業学校(現松山大学)の創立にも尽力した。そして秋山好古陸軍大将を、北豫中学校長の就任を要請し実現した。官位従二位を持ち陸軍大将が田舎の中学校校長に就任、考えられぬ事で、当時日本の大きな話題になった出来事であった。
昭和8年に伊予鉄道電気会社会長と松山商工会議所会頭を辞職し、退職金を県立図書館建設資金に寄贈した。松山の発展に貢献した偉人三傑の一人と考えられる。
昭和18年3月18日逝去、79歳であった。


四国で初めての創立、松山高等商業学校(現・松山大学)開校、北豫中学創設・運営、愛媛県立図書館の開館等々教育に貢献した晩年の井上要。当時の指導者たちは私利私欲をすて郷土の発展のために心身財ともに献身的な働きをされた。


愛媛県立松山北高等学校(旧・北豫中学)に建立されている井上要像。
題額「井上要君像」の揮毫は不明であるが、像の彫刻家は、横江 嘉純の作で、昭和13年建立。秋山好古騎馬像も横江 嘉純の作である。


井上要君像台座裏面に、昭和13年11月、元社団法人北豫中學会建とある。


井上要君像の裏面から。


井上要君像の裏面左下に、彫刻家である「横江 嘉純」の銘が刻まれている。


彫刻家である「横江 嘉純」の銘。
横江嘉純は、富山県出身の彫刻家で明治20年5月3日生まれ、昭和37年2月14日逝去 74歳。東京美術学校(現東京芸大)卒、東京駅前にある「愛の像」が有名。秋山好古の騎馬像も横江嘉純の作である。


井上要翁頌徳碑
昭和8年に伊予鉄道電気会社会長と松山商工会議所会頭を辞職し、退職金を県立図書館建設資金に寄贈した。昭和17年12月19日県立図書館前に建立、除幕式が行われた。昭和50年図書館が堀之内(松山城三ノ丸)に新設移転時に梅津寺パーク入口に移転された。「井上要翁頌徳碑」の揮毫は、徳富蘇峰 で徳富蘆花の兄である。


井上要翁頌徳碑の裏面には井上要の功績が書かれている。

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松山市内の銅像巡り3 安倍能成 胸像

2014年04月26日 | 伊予松山歴史散策
安倍能成 胸像

道後公園にある「伊佐庭如矢翁徳碑」を揮毫した安倍能成の胸像であります。
安倍能成についても地元松山ではあまり知られていないので、私も部分的にしか知識がなく学習をしながらブログにしてみました。
名前は、安倍 能成(あべ よししげ)と言い、明治16年12月23日に生れ、昭和41年6月7日に逝去されました。
地元松山では、安倍 能成(あべ のうせい)と親しみをこめて呼んでいる。
略歴は、日本の哲学者、教育者、政治家、法政大学教授、京城帝国大学教授、第一高等学校校長、貴族院勅選議員、文部大
臣を歴任して、貴族院帝国憲法改正案特別委員会委員長、そして、学習院院長を務められました。

実家は、医師安倍義任の8男として松山の小唐人町(現在の松山市大街道)に生まれ、松山中学(現、愛媛県立松山東高等学校)から第一高等学校、東京帝国大学へと進学。在学中、夏目漱石や、高浜虚子の影響を受けた。・・と資料にあります。
特に学習院大学については、太平洋戦争の終わった翌々年の昭和22年からおよそ20年にわたり、安倍能成は学習院院長を務め、私立学校として新たに出発した学習院の中興の祖と称された。資料、記述にはないが、GHQは、学習院は、明治天皇のもと開校され、皇族が通う学校とする教育機関であるから閉校とする方針であったが、安倍能成が学習院院長に就任して存続に尽力したと伝えられています。
学習院の校歌の作詞は、 安倍能成であります。


安倍能成の胸像は、愛媛県立松山東高等学校正門を入ると直ぐ左に建立されている。県下一の進学校で、前身は、松山中学、秋山眞之、正岡子規も学んだ名門、明治28年には、夏目漱石が教師として赴任した。多くの偉人たちが卒業した中で、何故安倍能成の胸像が建立されたのか私には知る由もない。
戦後GHQ支配下の下、文部大臣として新しい教育基本法に従い日本の教育の再出発とその発展に尽くした功績を称えての建立なのか??


昭和41年12月建立された。


正面全体像。


北西方向後部から。


題額「安倍能成君」を、第4代日本国有鉄道総裁の十河信二(愛媛県西条市出身)の揮毫。
註:昭和39年10月1日、東京駅の東海道新幹線ホームで挙行された出発式には、国鉄は十河を招待しなかった。


胸像の台座裏面に安倍能成の事が書かれている。
撰文は、第19代学習院院長、麻生磯次(千葉県山武市)出身。


胸像の台座裏面に安倍能成の事が書かれている、撰文は第19代学習院院長、麻生磯次。題額を、第4代日本国有鉄道総裁の十河信二(愛媛県西条市出身)の揮毫。撰文者と題額者の氏名が連名で刻印されている。


前回のブログで紹介しました「伊佐庭如矢翁徳碑」が昭和27年9月に建立されましたが、その揮毫を安倍能成が認めています。・・参考までに。


昭和48年に東海道新幹線の東京駅18・19番ホーム先端に東京駅新幹線建設記念碑が建立されたが、その碑には功績を讃えて、十河のレリーフと座右の銘である「一花開天下春」の文字が刻まれている。ちなみに、そのレリーフの自分の肖像を見た河信二は一言、「似とらん」と言ったそうである。・・平成24年5月24日秋山好古揮毫石碑取材に神奈川県平塚市に行った時東京駅で撮影。
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松山市内の銅像巡り2 伊佐庭 如矢胸像

2014年04月24日 | 伊予松山歴史散策
伊佐庭 如矢胸像

松山市の観光資源である、松山城と道後温泉を残し創り上げた伊佐庭如矢の功績は多大である。・・この事は松山市民あまり知らない事である。
伊佐庭如矢は、松山城・道後温泉の存続に大きく貢献した人物である。
明治6年政府は全国の城の廃城令を公布した。松山城廃城方針に対して愛媛県は松山城の公園化を訴え、城の楼閣全ての無償払い下げを実現し天守の存続に尽力した。
※公園永久維持之儀 申上候書を愛媛県参事江木康直名で申上候書を起案したのが伊佐庭如矢で、それに対して、内務卿木戸孝允の指令が「書面の松山城は、再建後まだ日が浅く、人民の愛慕強く・・中略・・格別の配慮を持って楼閣・櫓の全てを無償で公園に指し下すと松山城の公園化を指令した。
※道後温泉の興隆化、明治20年代道後温泉を象徴する建物、100年後を見越した3階建ての本館建設に尽力し道後地区の発展に尽くした。


伊佐庭如矢さんとは、道
現・松山市の町医者・成川国雄の三男として生まれた。成川家は、祖父が土佐から松山にやってきて松山藩の医療に携わる医家で、成川國雄の子として一家を創立し、名は如矢、通称は斧右衛門、碧梧桐とも号した。初め伊予松山藩の老職菅良弼の家令となり、明治維新後は愛媛県庁、内務省の官僚、山田香川郡長、高松中学校長、琴平神社禰宣などを務め、晩年は、道後町長に迎えられ道後温泉の改造などを行った。現在の道後温泉本館は、伊佐庭如矢が建築したものである。


伊佐庭如矢の4代功績は、
1、松山城の公園化実現
2、道後温泉の興隆化
3、道後鉄道建設
4、道後公園の整備
※ もう一つの功績「湯ざらし団子の考案」
「坊ちゃん団子」は道後の名物として有名だが、これは夏目漱石の小説にちなんで生まれたとされている。これは道後温泉東方に「振鷺園」と称する休憩所「風詠館」を造り伊佐庭の発案「湯ざらし団子」を売り出した。これが「坊ちゃん団子」となり今日に至っている。


平成7年5月、道後温泉本館建設100周年を記念して伊佐庭如矢の胸像が建立された事項の石碑が胸像左側に設置されている。


伊佐庭如矢の胸像右側に伊佐庭如矢の略歴が書かれた石碑がある。


如矢の胸像は、道後温泉本館の北側(当時の正面玄関)から眺められる位置に建立されていて今年が本館建築120周年となる。建物も老朽化が目立ち改修の時期に来ているが、関係者は、目先の事柄だけに拘らず、長期を考えて改修しなさいと言っている様な気がする。


今年開催された道後温泉春祭りで本館にはお祝いの紅白の幕が張られた。


如矢の功績の一つに、道後公園の整備があるが、入浴客や観光客が憩いの場とし
て道後公園改修に尽力し、今日に繋がる公園整備を行った。その公園に「伊佐庭如矢翁徳碑」が昭和27年9月に建立された。揮毫は安倍能成である。


如矢は、道後地区の発展に尽くし、延いては、現在の松山の発展に尽力したその功績が伊佐庭如矢翁徳碑の裏面に書かれている。


道後公園の一番いい場所に「伊佐庭如矢翁徳碑」がある。
現在の松山市民は伊佐庭如矢と言う人物を余り知らな過ぎる。!!
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松山市内の銅像巡り1 加藤嘉明騎馬像

2014年04月22日 | 伊予松山歴史散策
加藤嘉明騎馬像

松山の礎を築いた豊臣秀吉恩顧の武将、賤ヶ岳七本槍の一人加藤嘉明。
嘉明は天正13年(1585)の四国攻め、天正15年(1587)の九州討伐、天正18年(1590)の小田原征伐などに水軍を率いて参加、それらの武功から、天正14年(1586)に淡路志智城1万5,000石を与えられ、初めて大名となる。
文禄元年(1592)文禄の役で瀬戸内水軍を統率して朝鮮出兵、その功績により、文禄4年(1595)に、伊予国正木城(松前城)6万石を与えられている。その後、慶長の役においては、朝鮮水軍を壊滅させ、蔚山城の戦いで明水軍の包囲攻撃を受け篭城し、食糧の欠乏に苦しんだ加藤清正を救援するため救援に赴き、嘉明はこれを打破、清正を救助しその戦功により10万石に加増された。
そして慶長4年(1600)9月15日、関が原の戦いに東軍の武将として参戦し、東軍勝利の武将として武勲をあげ、その功績を認められ伊予国半分20万石を家康から拝領、家康の許可を得て、慶長7年(1602)1月15日、新たな城を築城開始、同8年10月に嘉明は家臣および正木(松前)の住民とともに居を新城下に移し、ここに松山という名称が公にされた。これが現在の松山市の基礎である。


松山の開祖である加藤嘉明公の銅像が平成22年に松山中央ライオンズクラブが騎馬像を建立した。もっと早く松山の関係者は銅像を建立して嘉明公を顕彰すべきであったと思う。




建立場所は、大街道三丁目、ロープウエイ駅舎横にある。






騎馬像の台座に建立年と、彫刻家の銘が刻印されている。
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松山市の最後の観桜

2014年04月17日 | 伊予松山歴史散策
いま、松山では、全国でも街路樹としては珍しい八重桜が満開です。
場所は、松山市三番町、市内の通りで二番目に長い町筋で、松山市役所・日本銀行松山支店・中央郵便局・各銀行・旅行代理店・証券会社、等々のオフィス街であります。
以前、ここには街路樹として、プラタナスがありましたが、老木化が激しく、平成16年松山市が古くなった街路樹「プラタナス」に変えて市民の要望により、里桜の一種「一葉・イチヨウ」と「関山・カンザン」桜を310本植栽しましたと地元新聞に記事が掲載されました。
実際に私が確認してみました結果は、並木通りの南側歩道に151本 北側に134本 計285本でありました・・25本は何らかの関係で欠如したのでしょう。
今年の松山は、4月に入り寒暖の差の激しい日々が続いていましたが、やっと例年の気温となりました。一葉桜・関山桜も開花は例年通りの開花となり今満開であります。
この通りは、大型自動車はあまり通行しない通りでして、現在車はハイブッリト化されていますので排ガスの害も少なくなり長寿になるのでは??10年もすれば素晴らしい桜並木となり、松山市の新たな桜名所になると思います。
沿線の人達は、花が散り始めると、花吹雪になり花の絨緞になります。綺麗ですが後の清掃が大変だそうです。
来年も桜の開花を楽しみに一年間元気で過ごしたいものです。

註:植物には知識の疎いものだから資料を紐解いてみました。
「里桜」とは、山桜に対して人が里で交配により改造を行い変異により生まれた園芸品種の総称の事で、大島桜をもとにし改良した大島桜系のものが多い。代表品種が「一葉桜・関山桜」で、花と葉が同時期に開き、これが染井吉野桜との大きな違いである・・・・と説明がありました。

画像は、4月17日、松山市三番町通りにある「一葉桜」・「関山桜」です。


松山市内の通りで二番目に長い町筋「三番町通り」で、東西に長い通りです。
向かって右側が南、左が北方向です。この通りに、里桜の一種「一葉桜」と「関山桜」が街路樹として植栽されています。いま(4月17日)が満開で見頃であり、歩道を歩く人たちは写真を撮っていました。「一葉桜」の花は白い色だが、薄緑色、ピンクが薄く掛かったものもあります。


三番町通りの日本銀行松山支店前に植栽されている「一葉桜」です。花と葉が同時に出て来るので多くの人が桜とは気が付かず見過ごしてしまう人も稀にあります。写真を撮っていましたら、これは何の樹ですか?と尋ねて来る人がいました。


「一葉桜」です。


「一葉桜」をアップで撮ってみました。・・白い花と緑の葉っぱが混じりあい全体で見ると薄緑色の桜に見えます。


「一葉桜」をアップで撮ってみた・・白い花と緑の葉っぱが混じりあい全体で見ると薄緑色の桜に見えるものと、薄いピンク色も咲いておりました。


「関桜」で色は濃いピンク色、陽光桜の色とよく似ています。


「関桜」をアップで撮ってみました。・・葉っぱの色も一葉桜と違ってピンク系統です。


「関桜」をアップで撮ってみました。・・成木になり開花すると街全体がピンク色の街になるかもです。??


平成24年(2012)、三番町通りに、里桜(一葉桜と・関山桜)を街路樹として植栽した事に対して、松山市は、「松山市都市景観賞・きらめき奨励賞」を授与し、その名盤が通りの緑地帯に掲示してありました。気を付けてよく見ないと見過ごしてしまいます。

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