EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

愛媛マラソン回顧 1 大会を支える人々

2020年08月30日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

第1回愛媛マラソン大会で力走する 寺沢 徹選手。

寺沢選手は
元マラソン世界最高記録保持者(昭和38年2月17日、別府大分毎日マラソンで達成・2時間15分8秒)

それまでの記録は、アベベ・ビキラが持っていた世界最高記録を上回った。)

愛媛マラソン第1回、昭和38年1月15日開催、優勝者・寺沢 徹選手(倉レ本社)が時間は2時間20分25秒であった。
第3回大会、昭和40年1月15日開催に参加した宍戸英顕選手(群馬陸協)が優勝、時間は2時間16分49秒、日本歴代8位で、この記録が平成29年2月7日開催の第55回大会まで愛媛ラソン記録としてその後51年間破る選手はいなかった。

第55回・平成29年2月7日開催に公務員ランナー・川内優輝選手(埼玉県庁)が初参加、2時間9分54秒のとてつもない大新記録で優勝し記録が更新された。
それまでは、宍戸英顕さんが樹立した(昭和40年1月15日、第3回愛媛マラソン大会で2時間16分49秒で優勝)当時日本人歴代8位の大記録であったが52年ぶりに川内優輝選手が記録更新した。

この記録は当分更新する選手は出てこないと思う。

これからの画像は、平成21年2月8日開催の・第47回大会から私の記録として撮影を初めたダイレクト版の画像です。

平成28年2月7日開催、第54回大会から愛媛県警交通機動隊の自転車隊が支援開始を始めた。

日本陸連公認コースで開催されるマラソンは必ず開催県の県警機動部隊の白バイ隊が選手の安全を期して先導守護してくれる。開催前に隊長から指示を受ける女性白バイ隊員。

普段は一般市民と会話などする機会は少ないがスタート前の暫しの間、笑顔で会話をしている。

何か質問されたのでしょう。それに対して笑顔で応対・・気持ちがいいですね!

そろそろスタートの時間がやってきた。表情も引き締まってきた。

愛媛県警交通機動隊には、女性隊員5人が活動しており、愛称「ホワイト・ロビンズ」で皆さん美人揃いである。

全国女性白バイ隊競技大会で5位に入賞した腕前・・今年の先導も私に任せて下さいと・・白バイは800ccで重量300Kもあり、倒しても自力で起こさないとだめだそうです。・・大変・・これからも体に気を付けて活躍して下さい。

まもなくスタートの号砲が鳴る。第51回のスタート風景です。

上空からも愛媛県警のヘリコプターが警備してくれます。

優秀な記録保持者が参加してくれますが、時折解説者も大物有名人が出演してくれます。

第53回、平成27年2月8日開催でゲスト解説者として名解説をされた「早稲田大学競走部駅伝監督・現在は住友電気工業陸上競技部監督」この大会から現役の早稲田大学駅伝部の選手が参加されだした。

これからは、コースでいろんな形で支援する愛媛マラソン縁の下の支援者達です。

35km地点で給水の準備をする地元女子高生。

ランナーを励ます愛媛大学チアリーディング部員。

演技を披露しランナーを激励、ランナーも思わず見惚れる、貴女達ヤルナー!!俺も頑張るぞ!

ランナーを励ます愛媛大学チアリーディング部員。

地元の松山市立内宮中学吹奏楽部が演奏で応援。

ゴール手前の松山城三之丸公園で、水軍太鼓で応援。

松山市北条地区JAえひめ婦人部のみなさんが豚汁を作り支援。

記念写真撮影のシャッター押します。・・シャッターボランテア・・地元女子高生。

42,195kmを完走して疲れた足を道後温泉と同じ湯で足湯を設置して愛媛マラソンを支援している。

地元女子高生が、ランナーに給水を手渡すが、受け取るのは中々難しく、受け取る側も受け渡す側も四苦八苦である。練習なしの本番のみの動作であるから。

平成24年2月5日・第50回愛媛マラソン大会ゴール直前、2秒差の優勝争い。

優 勝・片岡 祐介(大塚製薬)2時間17分50秒 

第2位・緒方 剛 (中国電力)2時間17分52秒

招待選手のゼッケン1番の緒方選手(当時中国電力・現在、広島経済大学陸上競技部監督)と同招待選手ゼッケン2番の片岡選手(大塚製薬)が優勝した。

ゴール150m手前の激戦を応援する愛媛ラソン支援者達。

スタートして4時間10分42秒のゴール地点、この時間帯にゴールする選手が多く、疲労困憊でゴールする、そのため救護班が待機する。

トップ争いをする異色ランナー・城武 雅選手、ゼッケン2番。第49回・第51回大会で優勝。
城武 雅選手は、高知県香南市出身で愛媛県松山市の進学校、愛光学園卒業、東京大学理科Ⅰ類から航空工学へ進学。
大学時代は陸上部に所属していませんが大学院を出て四国電力に就職し、愛媛県の伊方原子力発電所に勤務するようになって本格的にマラソンの練習をはじめた。第49回(平成23年)2時間19分14秒で優勝、第51回(平成25年)2時間19分52秒で2回目の優勝した東大卒の異色ランナー、”走る”原子力技術者である。
城武 雅選手は、四国電力陸上部には所属せず、四国電力のクラブ活動にYONDENクラブがありそこに在籍していた。コーチの指導もなく自力での優勝であった。

 

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第59回愛媛マラソン 中止と決定

2020年08月20日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

毎年2月に開催されている愛媛マラソンは、今回第59回を迎える大会で、毎年参加申し込みが殺到、参加者を抽選で決定している全国でも人気の高いマラソン大会である。

令和3年2月14日(日)開催予定の第59回大会は、昨日(8月19日)開催された実行委員会で協議した結果、新型コロナが未だ蔓延している現状では開催は難しいと判断しその結果中止とした。

令和4年開催予定の第60回大会を記念大会とし盛大に開催する意向であると報じた。
次回開催までにコロナが収束しているかどうかは分からないが次回に向けて準備を進めていくと実行委員長は述べた。

これからの画像は、今までの愛媛マラソンで印象深いものをとりあげてみた。

第55回開催の愛媛マラソンを記念の大会にしようと実行委員会は、地方公務員ランナーとして有名な川内優輝選手(当時埼玉県職員)を招待した。
川内選手は、2時間9分54秒の52年ぶりの大会新記録を樹立した。川内優輝選手のお母さんに、僕も愛媛で走るからお母さん(川内美加さん)も走りましょうと優輝選手が申し込みをされ、自己記録の3時間50分台で完走された。

川内選手が愛媛マラソンで新記録を樹立、これは当分破る選手は出てこないだろう!!

35Km地点をダントツの速さで力走する川内優輝選手。

ゲスト解説をしていた土佐礼子さんは、「川内優輝選手」は手を抜かない走りをする。愛媛マラソンは全国で人気の高いマラソンだが地方の大会・・でも真剣に取り組み走るから素晴らしい選手と紹介した。

川内優輝選手のお母さんに、「僕も愛媛で走るからお母さん(川内美加さん)も走りましょう」と優輝選手が申し込みをされ、川内美加さんは自己記録の3時間50分台で完走された。

川内優輝選手の弟さんも疾走する予定であったが体調不良で参加せず、お母さん(川内美加さん)の支援をされた。TVの取材を受ける川内美加さん親子。

シドニーオリンピック金メダリスト、高橋尚子さんはここ数年前から毎年愛媛マラソンに参加し支援をして頂いている。
高橋さん曰く、全国に数あるマラソン大会に参加して来ましたが、愛媛マラソン大会は市民の応援、支援が素晴らしい大会と誉められた。私も好きな大会なので参加しお手伝いをさせて頂いていますと・・謙虚な言葉を発せられ、関係者もこの言葉を聞き感激した。・・と報道された。

毎年、高橋尚子さんゲストランナーとして参加され、ランナーを励ましている。

愛媛マラソンの規定時間は6時間です。ゴール直前の6時間を切ってゴール出来るようランナーを励ます高橋さん。

本日(8月20日)高橋尚子さんからランナーの皆さんにメッセージが届いたそうです。

「来年2月愛媛で皆さんとお目にかかることを楽しみにしていましたが、延期の決定しました事はとても残念な気持ちです。皆でこの困難を乗り切り、2022年には2年分の思いをこめて走れることを祈っています。」

以上のように報道された。

 

見るマラソン大会から、参加し楽しむマラソンに変身させた「愛媛マラソン」の仕掛け人「中村時広・愛媛県知事」松山市長時代に現在の参加し楽しむマラソンに変更させた。

中村知事は、毎年参加し規定された時間内に完走される。

公務で多忙な中、何時何処で練習されているのでしょうか?

自宅にルームランナーを置き練習されているのでしょうか?・・第60回記念大会も絶対参加されると思います。

愛媛県内の新型コロナ蔓延防止に頑張っておられます。・・ご苦労さまです。

愛媛マラソンは台湾からも参加されます。

松山市と台北市は親交がありそんな関係、画像の選手は、女性成績、第3位でゴールしました。

女子の部は成績上位6位までが表彰されるが、台湾台北市からの参加選手は第3位の成績で表彰された。

札幌市から参加されたランナーの方は、お応援支援も素晴らしいが、なんと言ってもトイレの表示がされておりランナーは安心して走ることが出来ると言われた。・・これは実際に走ってみないと分からないことである。

市民の応援、支援が素晴らしい大会、その結果完走が出来た。

そして、自己記録を更新することが出来た。

私の知人でお世話になった、理学療法士の先生、お若いのに優秀な先生で東京の整形外科病院にヘッドハンティングされた。東京に行っても愛媛マラソンには参加されている。

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建川美次の功績「命のビザ発給・ユダヤ難民に」

2020年08月10日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

新潟市江南区にある、北方文化博物館・神田館長から令和2年7月24日付の新潟日報の記事が送られてきた。

記事の内容は、第二次世界大戦当時ソビエト連邦大使であった建川美次がナチス・ドイツの迫害から逃れて来たユダヤ人難民に発給したビザで、命を救われたその遺族が令和2年7月22日、米国東部ニュージャージー州レークウッドで、在ニューヨーク総領事館の山野内勘二総領事を訪れ面会してお礼の言葉を述べた。その内容の記事である。

リスシェルさんの五男アーロンさん。

リスシェルさんは当時17歳だった女性(母親・平成27年逝去)で、リスシェルさんの五男アーロンさん(56)が令和2年7月22日、米国東部ニュージャージー州レークウッドで、在ニューヨーク総領事館の山野内勘二総領事に面会してお礼の言葉を述べた。

「母を救ってくれた日本に感謝したい」と述べた。山野内氏は「名誉に思う」と応じた。

アーロンさんと山野内勘二総領事。

アーロンさんは、母リスシェルさんが残したパスポートなどの渡航書類や生前の証言を引き合いに、大戦中に敦賀(福井県)、神戸、上海などに及んだ母の逃避行を書類で説明した。
「ビザがなければ生き延びることはできなかった」として、日本政府などがユダヤ難民に「命のビザ」を発給した建川美次の功績を認めるよう要請した。

建川美次が発給した最後の一枚と言われているビザ。

建川美次ソビエト連邦大使は、ユダヤ難民当時17歳だった女性リスシェル・コトラーさんに発給したビザで、ビザは日本の外務省が現地での発給を禁じた翌日に出され、ほぼ最後の1枚とみられる。
難民に同情的だったとされる建川の判断が影響したもようだ。・・と報じている。

今から80年前の出来事である。

ある資料によると

駐ソ大使、建川美次は、その惨状を昭和16年4月2日付の電信で、以下のように伝えている。

「彼ラ住ム家ナク歸ルニ所ナク進退キワマリ囘答ノ不信ヲ泣訴終日號泣シテ立去ラル者アリ」
(難民たちには家もなく、帰るところもなく、助けて下さいと訴え、一日中泣いて大使館から立ち去ろうとしません)

同じ現世に生を受けた者同士、上層部の考えで戦いを起こし下々の民の難事を救うのは人の道理である。・・と建川美次は考えビザを発給したのでしょう。・・勇気ある素晴らしい英断だと思います。

秋山好古の信条が晩年になっても建川美次の心に宿っていたのでしょう。

命のビザといえば、リトアニアの領事館にいた杉原千畝が発給したものが有名だが、命令に背いた行為に対し、日本国外務省は戦後も長く冷淡だった。
名誉回復は、杉原千畝の死後91年まで待たねばならなかった。
一介の外交官だった杉原と、大物軍人から大使となった建川とでは置かれた立場が違うのか。
武人だった建川には、発給に何か思惑があったと推測することもできようか?とはいえ、人道を重視せねばできないことだ。己の信条を貫いた結果といえる。

建川や杉原の行為からおよそ80年。信念に反して公文書の改ざんを強いられ、自殺に追い込まれた公務員がいるのが現代の役所である。・・とある新聞には書かれている。

建川美次について・・話は少しさかのぼるが!

建川美次は、秋山好古陸軍大将が信頼していた三人の副官の一人であった。
満州軍総司令官大山巌元帥は、ロシア軍の主力部隊が何処に集結し攻撃して来るのか確かな情報がなく不安を抱いていた。

大山総司令官は、秋山好古騎兵第一旅団長にロシア軍の動向情報収集をするため将校斥候隊を編成し情報収集するよう特命の指示を出した。

特命を受けた秋山騎兵旅団長は、建川美次中尉と山内保次少尉に将校斥候隊を編成、優秀な隊員を選任し重要な任務を背負って斥候に出立させた。

画像は、建川美次将校斥候隊で、後に書籍「敵中横断300」の主人公となる。

右より
神田上等兵・豊吉軍曹・建川中尉・野田上等兵・竹上等兵の各隊員。

建川美次は、新潟中学6期生、野球が好きで野球部を創設、明治32年11月3日、4日、に高田中学・長岡中学・新潟中学3校による対抗戦が計画された。しかしその日は雨天で試合は中止となった。この時長岡中学に高野五十六、後の山本五十六(連合艦隊司令長官)がいた。五十六は、美次より4歳下であった。

  建川美次の略歴

明治13年10月 3日、新潟県新潟市生まれ

明治34年 3月、   陸軍士官学校第13期生卒業

明治35年 6月、   陸軍騎兵少尉 騎兵第9連隊付

明治38年 1月 9日、将校斥候隊長として出発(敵中横断300里)

明治42年 3月、   陸軍大学校第21期生優等で卒業

大正12年 3月、   陸軍騎兵第5連隊長

昭和 7年、      陸軍中将

昭和15年、      駐ソ連大使

昭和16年 4月14日、日ソ中立条約(日ソ不可侵条約)調印

昭和20年 9月 9日、 逝去 享年65歳

画像は、書籍「残影 敵中横断三百里・建川斥候長の生涯」の表題紙で、平成10年9月16日、新潟日報事業社から出版された。

平成3年11月21日から同年5月30日まで、153回新潟日報夕刊に連載された「流星・建川斥候長の生涯」を改題した書籍である。

映画化されたのは、昭和32年公開された映画、大ベストセラー、敵中横断三百里で、山中峯太郎の「敵中横断三百里」が原作、「残影 敵中横断三百里・建川斥候長の生涯」とは異なる。

映画で主人公、建川美次斥候隊長を演じたのは菅原謙二さんであった。

「残影 敵中横断三百里・建川斥候長の生涯」著者、中島欣也さんのあとがきである。

文頭に「平成3年11月21日から同年5月30日まで、153回新潟日報夕刊に連載「流星・建川斥候長の生涯」を改題したものである。

本書では一部文章に手を入れ、字句や数字に若干の修正を施したが、大筋において連載時と内容は変わっていない。

この連載が一冊の本となるのは6年の時日を要した。それは特殊な内容で読者層が限られることから、中央の出版社がいずれも二の足を踏んだせいだった。

しかし今回はそれを新潟日報社が引き受けて下さって、本書は日の目を見る事になった。

本書の主人公建川美次は、昭和前期の大ベストセラー「敵中横断三百里」のヒーロー、ある時期の陸軍を動かした実力者、第二次世界大戦前「日ソ中立条約」を結んだ男・・・とその生涯は常に華やかだった。
筆者は、正統派の越後人「山本五十六」異端派越後人「田中角栄」と書き綴っている。

締めの言葉に「出版に当たってお世話になった新潟日報事業社の皆様方に深く感謝申し上げる次第である。」と括っている。

注:新潟日報事業社は、昭和24年新潟日報社の文化局が分離独立して発足した新潟日報グループの一つである。

私も平成23年6月10日、新潟県魚沼市にある、秋山好古揮毫の石碑調査に行った時、新潟日報編集局報道部記者・鈴木 孝実氏が、現地に取材に来ていただき大変お世話になった。大変親切な記者さんで、石碑調査を記事に書いて頂きました。

新潟日報は、日本海随一の政令都市新潟市にあって、越後にふさわしい新聞社である。

新潟日報編集局 報道部記者・鈴木 孝実氏が書いて頂いた記事で、平成23年6月10日、新潟県魚沼市堀之内竜光にある秋山好古揮毫石碑「戦役記念」の取材時の新潟日報記事です。

その説はお世話になりました。

新潟県魚沼市堀之内竜光「天満神社」境内に建立されている、秋山好古揮毫・石碑戦役記念碑で

記念碑は、魚沼市堀之内地区から日露戦争に23名の兵士が出征し、その中の有志が大正3年8月この碑を建立した。揮毫を依頼された秋山好古は、新潟県高田市の第13師団長として在任していた。陸軍中将であった。

この石碑は、平成16年10月23日発生した中越大地震で倒壊したが、全国から頂いた義援金の一部を流用して再建された。

この時、(平成23年6月10日)新潟日報編集局 報道部記者・鈴木 孝実氏の取材を受けた。

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