EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

GHQの指示により撤去され再建立された秋山好古揮毫の石碑・扁額

2017年04月27日 | 伊予松山歴史散策

昨年の5月、長野県安曇野市に発見された秋山好古揮毫石碑、現在52基の石碑が発見され、全て現地に赴き、関りの方達とお会いして、経緯を伺い、秋山兄弟生誕地に「秋山好古揮毫石碑写真展」として展示公開しています。

平成17年5月5日、バカタレ事件がなければ好古揮毫の石碑調査はしていなかったです。

この事に付いては、平成21年7月31日号の週刊朝日、P119に掲載されています。

 さて、今回は、秋山好古が揮毫した石碑と扁額が、昭和20年8月14日、ポツダム宣言を受諾し、同年10月2日、連合国軍最高司令部が設置され、最高司令長官に、マッカーサーが就任、日本の戦後処理が始まった。連合国最高司令部を日本では、GHQと呼称した。

GHQは、色んな改革を行ったが、その中に教育改革が行われ、6・3・3・4の学校制度の導入、教育勅語の廃止、その他多くの改革が行われた。その一つに、教育施設内または、その周辺に軍人が揮毫した石碑・扁額等の撤去指示が発令された。

これから紹介する石碑3基、扁額2面が一度撤去されたが、戦後(昭和27年4月28日、サンフランシスコ講和条約発効、日本の主権が回復)再び元の場所に設置、または、場所を変え移設されたものであります。

先ず初めに、天壌無窮の石碑・・愛媛懸護國神社境内に再建立

この石碑は、松山市立清水小学校が昭和3年に開校され、奇しくも同年、昭和天皇即位の御大典が行われた。この事を記念して、同校の20数名の先生方が醵金をして校庭に建立した。昭和20年11月GHQの命令を受けた松山進駐軍第24師団司令官・トーマスD、ドレーク陸軍大佐から撤去指示が出され石碑は撤去されました。

撤去された石碑は、同校の用具室に保管されていました。平成7年10月、渡部校長の許可を得て愛媛懸護國神社・波(は)爾(に)荘(さかえ)宮司の努力で護國神社境内に再建立されました。石碑が割れているのは、撤去作業時に破損したものです。

秋山好古は当時、北豫中学校長在任中で、清水小学校の直ぐ近くにありました。醵金建立した先生方の名前は石碑裏面に刻印してあったが、風化が激しく殆ど読み取る事が出来ません。

天壌無窮石碑の裏面で、僅かに「奉祝 御大典」の文字が見える。

昭和3年清水小学校開校記念と御大典記念に建立された天壌無窮の石碑。

昭和16年3月、国民学校が公布され教育の目的は、「皇国(こうこく)ノ道ニ則(のっと)りテ初等普通教育ヲ施(ほどこ)し国民ノ基礎的練成ヲ為(な)スヲ以(もつ)テ目的トス」(第一条)とあって、「皇国(こうこく)ノ道」とは「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スル道」と意味づけされたと言う。教科書は、知育が軽視され神秘的な儀式教育が重視され国家主義的・軍事的色彩が強く示されていました。

天壤無窮の碑文碑が校庭にある事が進駐軍ににらまれ、司令長官命令で石碑が撤去された。陸軍大将と天壌無窮が重なってのことであったのでしょう。

次は、忠魂碑・・宇和島市吉田町河内、安楽寺再建立

 安楽寺に再建立された「忠魂碑」

  旧、愛媛県北宇和郡喜佐方村立喜佐方小学校(現、宇和島市立喜佐方小学校)に建立されていた石碑。

 日清・日露戦争で名誉な戦死をされた方々の忠魂碑です。昭和20年11月、GHQの命令で石碑が撤去されることになりました。安楽寺・奥山住職は、身の危険もかえりみず「私が罪を被るから、我が寺に引き取り保存する」と断言されそれ以来、安楽寺がこの石碑を守り現在に至っています。

 安楽寺は、吉田町出身で山下汽船(現・商船三井の創業者・山下亀三郎の本家とは、親戚同様の交際があるようです。

 山下亀三郎は、秋山眞之が「日本は中国との貿易を活発にしなければならない」と話すのを聞いて汽船会社を創業し、大成功しました。

 眞之は、小田原にいた山形有朋を訪ねるために、亀三郎の小田原の別荘に滞在していましたが、そこで持病の盲腸炎が悪化して腹膜炎を併発し、大正7年2月4日、亀三郎らに見守られながら49歳で逝去しました。

 その時に読んだ句が不生不滅明けて鴉の三羽かな」三羽とは、正岡子規と清水則遠、と秋山眞之の事で、この三人は、松山中学時代の同級生、末は博士か大臣かと大きな志を抱き東京大学を目指し上京した友人を指しています。三人とも若くして逝去し、眞之は鎌倉霊園に眠っています。

  安楽寺の奥様に聞きました。・・「好古にこの忠魂碑の揮毫依頼をしたのは、亀三郎さんですか」と、安楽寺奥山住職の奥様曰く、「そうでしょうね」と答え、さらに「現代の人々は、この時代のことなど関心がなくなりました。

 NHKで坂の上の雲が放映されるので、時代を振り返り、良いものはどしどし取り入れて立派な国づくりの一助になればいいですね」と述べられました。

昭和48年5月27日、喜佐方公民館傍に、日清・日露・大東亜戦争で戦死された英霊を祭る忠霊塔が建立され、関係者の一人が、安楽寺住職に、忠魂碑はもういらないのではないかと言葉を漏らすと、奥山住職は激怒されたそうです。忠霊塔と、この忠魂碑は訳が違うのだ、貴方は忠魂碑の意味が分かってないと言われたそうです。

奥山住職が再建立され大切に守られています。「忠魂碑」

次も、忠魂碑・・愛媛県西予市城川町高野子、高野井公園

 この忠魂碑の移設再建立の経緯の詳細は不明であるが、移転は、GHQの指示により撤去し、再建立したのではないかと思われます。 建立してあった場所は、学校ではなく、社会教育施設、集会所にあったのを敢えて撤去し、公園に再建立したものと推察されます。

 軍人が揮毫し建立された石碑は、全国に沢山有ったはずですが、GHQの指示により撤去され廃棄され消えていった石碑は数多くあった事でしょう。勇気を持って再建立し保存した関係者は凄い方々です。石碑がなくなると、当時の事は忘れられてしまうのが世の常、形があればその思いは語り継がれて行きます。

撤去前の忠魂碑。

この所、復興担当大臣の不適切な言葉で話題になっているますが、東北大震災の事すら忘れられてしまいそうですが、明治時代の事等眼中にない時代、!! 降る雪や明治は遠くなりにけり・・この心境です。

次は、扁額であります。

質実剛健、秋山兄弟生誕地、秋山兄弟武道場に掲示。

 大正14年、昭宮成子親王御誕生記念にと、愛媛県立松山農学校(後の、愛媛大学農学部付属農業高等学校・現、愛媛大学付属高等学校)から揮毫依頼を受け秋山好古が揮毫した質実剛健の扁額。

この扁額は、職員室に掲示されていたが、昭和20年11月、GHQの命令で扁額は撤去されることになった。

撤去された扁額は、額から外され箱に入れられ保管していましたが、平成17年10月、私の知人である愛媛大学農学部付属高等学校の久山副校長先生から、秋山兄弟生誕地に寄贈しますが如何されますかと連絡があり、寄託の形で譲り受け、新たに額を新調し、現在、秋山兄弟武道場に掲示し来館者に閲覧してもらっています。

質実剛健は、絹の布地に揮毫されている。和紙でなく布地に揮毫するのは大変であったと思われます。

次も扁額であります。

研精而不倦・・けんせいにしてうまず(心身ともに磨き、怠けず、精進努力をする)

 途中でやめることなく、何処までも勉強し尽くす・・の意味の扁額で、愛媛県立伊予農業高等学校の職員室に掲示してあります。 この扁額も、昭和20年11月、GHQの命令で扁額は撤去されることになりました。

平成25年3月20日、愛媛県立伊予農業高校の日山先生から、秋山兄弟生誕地経由で、私に連絡がありました。大洲市長浜の三島神社に秋山好古さん揮毫の石碑がありますがご存知ですかと、日山先生も個人的にいろいろな石碑の調査をされているようでした。私としては、未調査の石碑であったので同年4月4日、現地に行き、その後、伊予農業高等学校にお礼に行くと、職員室に秋山好古揮毫の扁額が掲示してありました。

 岩村校長先生(現、松山商業高等学校長)曰く、どの様な経緯で秋山好古さんに揮毫を依頼したのかは不明ですが、GHQの命令で撤去され、当時の校長先生が、自宅に持ち帰り保管され、戦後、もとあった学校に掲示し現在に至っていますと伺いました。

 いろんな方々が廃棄するのでなく、その時の関係者が心を籠めて、建立し、掲示され大切に保存されていたものを、それを引き継ぎ、現在も存続されているこの気持ちが大切であり、これぞ日本人魂であると感じ入るものです。

 終戦後、日本を占領下にしたGHQの一番の目的は、「日本人から愛国心を奪い、日本人の精神を弱体化させる事」 が重要な使命、任務で、よくGHQの洗脳政策とも言われました。

 

 

現在も愛媛県立伊予農業高校の職員室に掲示してある扁額。

 3基の石碑と、2面の扁額の現在を見て頂きました。撤去されたが、関係者の強い意志で再び建立された石碑・扁額、撤去され廃棄され、再び日の目を見なかった方が多いのではないかと私は思います。

高が石碑・扁額、然れども石碑・扁額であり、これからも秋山好古揮毫石碑の調査は継続して行く所存です。

秋山好古揮毫石碑の原点は、120年前に好古自身が建立した東京都世田谷区池尻の石碑です。これは、日清戦争で秋山騎兵連隊長所属の15名の隊員が戦死された。その隊員の哀悼の意を籠めて好古が建立した石碑であります。

 

 

 

 

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石手寺・伊佐爾波神社・葵苔・坊ちゃんカラクリ時計

2017年04月24日 | 伊予松山歴史散策

昨日(4月23日)、広島県福山市から松山市に観光に来られたご夫婦を石手寺にご案内した。

一昨日、瀬戸内しまなみ海道(西瀬戸自動車道)で松山入り、松山城と城下町を散策され、昨日は、四国88ヶ所第51番札所石手寺を案内希望された。初めての石手寺で是非お参りしたいとの事でした。

帰りに、日本三大八幡造りの伊佐爾波神社を案内し、奥様は、植物に興味を持っておられることを聞き、道後温泉老舗の旅館「ふなや」の庭園に珍しい苔があり、これを紹介し、最後は坊ちゃんカラクリ時計をご案内して終えました。

昨日は、快晴無風で、雲一つない天候で絶好の観光日和でした。

石手寺は、真言宗豊山派の古刹で、四国霊場51番札所。寺伝によれば聖武天皇の神亀5年(728)に勅宣によって、越智玉純が伽藍を創建したと言われている。

画像は、二王門で、昭和27年11月22日、指定の国宝である。松山市で一番古い建造物で鎌倉期の創建と言われている。

なお、二王門は、仁王門とも言われ、仏法の守護神である阿形と吽形の二王(金剛力士)像を左右に安置した門の事で、法隆寺では、仁王門と表記されているが、石手寺では二王門と呼んでいる。

本堂から見た境内の一部で、右が二王門、左は納経所。

石手寺の三重塔で、国宝・二王門をくぐった右手にそびえる。

高さ24,1mで、明治40年5月27日、国指定の重要文化財である。

石手寺の納経所で、本殿、大師堂を参拝し最後に納経所で、御朱印を頂き線香を焚き身を清め次の札所えと旅立つお遍路さん。

石手寺の裏山、山頂に立たれる空海、弘法大師さんの巨大立像。

高さ16m、弘法大師さんの身体は、所縁の地、中国西安を向き、お顔はインドの方向を向いて立たれている。

本堂裏手には、札所としては珍しい、「マントラ洞窟」があります。

マントラ洞窟は、金剛界と胎蔵界を表していることで、洞窟内は二手に分かれ道になっています。ここを通り抜けて山の裏側に出ることが出来ます。

「マントラ洞窟」を出ると石手寺の裏側に出ます。

一人白人系の外国人が散策されてました。

「マントラ洞窟」を出て左に行くと伊佐爾波神社に行きます。

石手寺の「マントラ洞窟」出て裏道で伊佐爾波神社をご案内した。

伊佐爾波神社の本殿は、日本三大八幡造りの社殿で、貴重な社、昭和31年6月28日、国指定の重要文化財です。

日本三大八幡造りは、宇佐八幡宮(大分県宇佐市)と石清水八幡宮(京都府八幡市)と松山市の伊佐爾波神社です。

当神社は、中世、湯築城伊豫守護の河野一族の鎮守として、藩政時代は八社八幡社の一番社として崇敬が厚かった。現社殿は、伊予松山藩第三代松平定長が江戸城における流鏑馬の成功を祈願し、その成就を感謝して建て替えたもので、寛文4年(1664)から3年の歳月を費やし竣工した。宮大工は、飛騨高山の名工が手掛けたといわれている。

祭神は、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后。

 

次に、道後温泉の老舗旅館「ふなや」の庭園にある「葵苔」を案内した。

奥さんは植物に興味があるとの由、葵苔をご覧になり喜ばれた。

昭和41年4月、昭和天皇が発見され「葵苔」と命名された苔です。

葵苔の説明版が掲示されております。

最後に、道後温泉駅前にあるカラクリ時計をご案内して終了としました。

道後温泉駅前にある「坊っちゃんカラクリ時計」は、平成6年、道後温泉本館百周年を記念して作られました。

午前8時から午後10時まで、1時間ごと(季節によっては30分ごと)に道後温泉らしい音楽とともにせり上がり、小説「坊っちゃん」の登場キャラクターがみなさまを歓迎します。お隣には、道後温泉の源泉を使った「足湯」もあり、人気のスポットになっています。

天候に恵まれいい松山の旅が出来ましたと喜んで頂きました。

 

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秋山兄弟生誕地・秋山両将遺邸之碑

2017年04月22日 | 伊予松山歴史散策

秋山両将遺邸之碑

松山市歩行町二丁目3番地6に、秋山兄弟生誕地があり、生家の裏に、秋山両将遺邸之碑があります。

平成17年1月18日、生家、秋山好古騎馬像、秋山眞之胸像の復元整備が完成し、18日、NHK総合TVニュース「おはよう日本」で生誕地からライブ放映され、全国に紹介されました。

整備事業に掛かった費用は、全国の秋山兄弟支援者からのご寄付で行われ、ご寄付頂いた皆様方のご署名簿は、大切に秋山眞之胸像の台座の中に保管保存いたしております。

生誕地の建造物は、昭和20年7月26日、松山大空襲により焼失されましたが、井戸と秋山両将遺邸之石碑が残りました。なお、松山に対する空襲は、昭和20年3月18日から15回に渡り攻撃されました。

 今回、その石碑をご紹介いたします。

石碑は、本来生家の表にありましたが、この度の整備事業で、秋山好古騎馬像、秋山眞之胸像を生家前に建立するため、石碑は裏側に移設しました。石碑に罅があるのは、平成13年3月24日、15時28分に発生した芸予地震、震度5強の揺れで倒壊し、その時に出来たもので、修復し再建立したものです。この石碑は、花崗岩で熱に弱く、松山大空襲の時周囲の火災の熱をかぶり、石の組織が弱くなっていて、芸予地震で倒壊した時に罅割れを起こしました。

秋山両将遺邸之碑 

1.碑   文 :別途説明(碑文の要約等参照)

2.所 在 地:松山市歩行町二丁目3番地6、秋山兄弟生家裏

3.揮 毫 者:題額、陸軍大将 南次郎

        撰文、井上 要

4.建 立 者:記載無し

5.建立年月日: 昭和12年7月 秋山両将遺邸保存会 

6.碑石大きさ:高さ2m70㎝ 横幅1m50㎝  厚さ30㎝

7.石碑の由来:井上要他秋山兄弟と深い関わりのあった人たちが後世の人々にその功績を伝えるために建立した。

8.題額を南次郎に揮毫依頼した経緯は不明

 

秋山両将遺邸之碑  陸軍大将 南 次郎

碑文
陸軍大将従二位勲一等功二級秋山好古君海軍中将従四位勲二等功二級秋山眞之君兄弟生誕ノ地タル松山城東中歩行町ノ邸宅ハ天保年間考久敬翁ノ構築ニ係リ環堵蕭然トシテ素朴ヲ極ム大将ノ晩年帰リテ北予中学校長ノ任ニ就クヤ旧屋中ニ起臥シ僅ニ墻壁ヲ修治セシノミ今ヤ両将既ニ館ヲ捐ツ遺邸ノ漸ク朽廃ニ帰セントスルヲ憂ヒ同志ノモノ其保存ヲ計ラントスルニ際シ久松伯爵及ヒ山下亀三郎新田長次郎氏等資ヲ投ジテ之ヲ助成シ旧邸ヲ購ヒ修補ヲ施シ且両将ノ遺品ヲ蒐集シテ永ク其徳風ヲ傳ヘントス而シテ其保護管理ハ挙テ松山同郷会ニ託シタリ同会ハ青年教養ノ為メ中将ノ創設セル所ニシテ大将モ亦曾テ舎長タリシヲ以テナリ是ニ於テ同会ハ更ニ其西隣ノ地ヲ求メテ会館ヲ移シ以テ旧邸管理ノ任ニ便スルコトヽセリ若シ夫レ両将ノ人格勲業ハ赫々トシテ人ノ耳目ニアリ復タ縷説ヲ要セザルナリ

 昭和十二年七月 秋山両将遺邸保存会 井上要撰幷書

秋山両将遺邸之碑 題額揮毫、陸軍大将 南次郎

       秋山両将遺邸之碑の説明

 秋山両将(あきやまりょうしょう)遺邸之碑(いていのひ)   

 陸軍(りくぐん)大将(たいしょう)南次郎書(みなみじろうしょ)

陸軍(りくぐん)大将(たいしょう) 秋山(あきやま)好古(よしふる)君(くん) 従(じゅう)二位(い)(官位十六階中、上から四番目)勲(くん)一等(とう)(国に尽くした功績の等級)功(こう)二級(きゅう)(軍人に対する勲章の等級)海軍(かいぐん)運中将(ちゅうじょう)秋山(あきやま)眞之(さねゆき)君(くん) 従(じゅう)四位(い)(官位十六階中、上から八番目)勲(くん)二等(とう)(国に尽くした功績の等級)功(こう)三級(きゅう)(軍人に対する勲章の等級)秋山(あきやま)真之(さねゆき)君(くん)兄弟(きょうだい)生誕(せいたん)ノ地(ち)タル松山(まつやま)城東(じょうとう)中(なか)歩行(かち)町(まち)ノ邸宅(ていたく)ハ天保(てんぽ)年間(ねんかん)考(こう)(亡父)久敬翁(ひさたかおう)ノ構築(こうちく)ニ係(かか)リ環堵(かんと)蕭然(しょうぜん)(狭い住居が貧しくてもの寂しいさま)トシテ素朴(そぼく)ヲ極(きわ)ム大将(たいしょう)ノ晩年(ばんねん)帰(かえ)リテ北豫(ほくよ)中学(ちゅうがく)(現松山北高等学校の前身)校長(こうちょう)ノ任(にん)ニ就(つ)クヤ旧屋(きゅうおく)(古家)中(ちゅう)ニ起臥(きが)(生活)シ僅(わずか)ニ墻壁(しょうへき)(囲いの壁)ヲ修(しゅう)治(じ)(修理)セシノミ今(いま)ヤ両将(りょうしょう)既(すで)ニ館(やかた)(立派な屋敷)ヲ捐(す)(すてる、)ツ遺邸(いてい)(のこる住宅)ノ漸(ようや)ク(だんだん)朽廃(きゅうはい)(荒廃)ニ帰(き)セントスルヲ憂(うれ)ヒ同志(どうし)ノモノ其(その)保存(ほぞん)ヲ計(はか)ラントスルニ際(さい)シ久松(ひさまつ)伯爵(はくしゃく)久松定謨(ひさまつさだこと)及(およ)ヒ山下亀三郎(やましたかめさぶろう) 新田長次郎氏(にったちょうじろうし)等(など)資(し)(資金)ヲ投(とう)シテ之(これ)ヲ助成(じょせい)(シ)テ旧邸(きゅうてい)ヲ購(あがな)(買う)ヒ修補(しゅうほ)(つくろいおぎなう)ヲ施(ほどこ)シ且(かつ)両将(りょうしょう)ノ遺品(いひん)ヲ蒐集(しゅうしゅう)シテ永(なが)ク其(その)徳風(とくふう)(立派な心がけや功績)ヲ傅(つた)ヘントス而(しこう)シテ其(その)保(ほ)護(ご)管(かん)理(り)ハ挙(あげ)テ松山同郷會(まつやまどうきょうかい)(財団法人常盤同郷会の前身)ニ託(たく)シタリ同會(どうかい)(松山同郷会)ハ青年(せいねん)教養(きょうよう)ノ為(た)メ中将(ちゅうじょう)(秋山眞之)ノ創設(そうせつ)セル所(ところ)ニシテ大将(たいしょう)(秋山好古)モ亦(また)曽(かつ)テ舎長(しゃちょう)(常盤舎の監督、東京都文京区本郷四―一〇―一)タリシヲ以(も)テナリ是(これ)ニ於(おい)(碑文の字は俗字)テ同會(どうかい)(松山同郷会)ハ更(さら)ニ其(その)西隣(にしどなり)ノ地(ち)ヲ求(もと)メテ會舘(かいかん)(松山同郷会の道場、建物)ヲ移(うつ)シ以(もっ)テ旧邸(きゅうてい)管理(かんり)ノ任(にん)ニ便(べん)スルコトトセリ若(も)シ夫(そ)レ両将(りょうしょう)ノ人格(じんかく)勲業(くんぎょう)(功績)ハ赫々(かっかく)(光り輝くさま)トシテ人(ひと)ノ耳目(じもく)ニアリ復(ま)タ縷説(るせつ)(こまごまと説明すること)ヲ要(よう)セザルナリ

 昭和十二年七月 秋山(あきやま)両将(りょうしょう)遺邸(いてい)保存會(ほぞんかい) 井上(いのうえ)要(かなめ)撰(せん)(著)并(へい)書(しょ) 

 碑文の要約

秋山好古、秋山眞之両将軍の旧邸は、天保年間、父久敬翁がこの地に建立したと伝えられる。
兄弟はこの質素な家に生まれ育ち、好古将軍は退役後ここに住み北豫中学校の校長として子弟の教育に尽した。
秋山兄弟はすでに亡くなられたので、兄弟とゆかりの深い伯爵久松定謨、山下亀三郎、新田長次郎らが資金を集め西隣地も購入し、その管理を常盤同郷会に委嘱した。
両将軍の功績は、あらためて記す必要のない程偉大であり、誰もが知るところである。
昭和12年7月 秋山両将遺邸保存会 井上 要

 

秋山両将遺邸之碑に記載してある人物紹介

 1.陸軍大将南次郎

(1874年8月10日~1955年12月5日、81才没、大分県豊後高田市生れ、陸相、朝鮮総督、貴族院議員、A級戦犯となる)

2.陸軍大将秋山好古

(1859年1月7日~1930年11月4日、71才没、松山藩士秋山久敬三男、北予中学校校長は1924年4月~1930年7月、墓所は青山霊園(松山市鷺谷共同墓地は分骨)

3. 海軍中将秋山眞之

(1868年3月20~1918年2月4日、49才没、松山藩士秋山久敬五男、1887年松山同郷会を結成、1890年海軍兵学校を首席で卒業、1905年連合艦隊首席参謀)墓所は鎌倉霊園

4.久松伯爵(定謨(さだこと))

(1867年9月9日~1943年2月19日、75才没、松山藩最後の藩主(定昭)の嗣子(しし=あとつぎ)、 陸軍少将、 東京に学生寮「常盤舎」を設立、1921年松山城の麓に萬翠荘を建築、模範農園を設置)

伊予松山城存続に尽力 久松家第17代当主

5.山下亀三郎

(1867年4月9日~1944年12月13日、77才没、元宇和郡河内村出身、1882年上京し明治法律学校に学ぶ、実業家、山下汽船創設者、参議、山下実科高等女学校(現吉田高校)、第二山下実科高等女学校(現三瓶高校)を設立)

6.新田長次郎

(1857年5月29日~1936年7月17日、79才没、元温泉郡山西村出身、実業家、1885年製革業を創業、1902年緑綬褒章を受章、1911年大阪市難波に私立有隣尋常小学校(現、大阪市立栄小学校)を設立、1923三年私立松山高等商業学校(現、松山大学)を設立、温山と号す)

7.井上要

(1865年5月5日~1943年3月18日、77才没、元喜多郡菅田村出身、実業家、有友兵衛の長男として生る、1883年井上コンの養嗣子となる、1885年独学して代言人試験に合格、1888年東京専門学校(現早稲田大学)に留学、1906年元伊予鉄道社長、1890年県会議員、同年12月同議長1902年衆議院議員、1903年11月愛媛進歩党を結成、1913年伊予水力電気会社社長を兼務して1916年伊予鉄道会社と合併、1927年松山商工会議所会頭、1933年69才で伊予鉄道電気会社会長と松山商工会議所会頭を辞職、退職金を県立図書館建設資金に寄贈、伊予教育義会会長、北予中学校理事、松山高等商業学校理事、道後グランドを造成、伊予史談会を援助、高浜不去庵で悠々自適の生活、徳富蘇峰の撰になる頌(しょう)徳(とく)碑(ひ)は梅津寺公園にある)秋山好古を北豫中学校校長に就任以来した

   以  上

平成17年1月18日、再建事業が完成した秋山兄弟生家入口。

秋山兄弟生誕地の全体。

秋山兄弟生誕地の生家と好古の騎馬像、生家の裏庭に秋山両将遺邸之石碑ある。

井上要さん、陸軍大将秋山好古に北豫中学校校長に就任依頼、好古は、元帥を辞退し、田舎の中学校校長に就任する馬鹿な男よと言われた。大元帥(大正天皇)は、好古が元帥を辞退したことに大変驚かれ、特旨として従二位を授与した。この官位従二位拝命し北豫中学校校長に就任する。

前陸軍参事官・陸軍大将・従二位勲一等功二級という肩書を持つ国家的重鎮が、郷里とはいえ、地方都市の私立中学校校長に就任するという、当時としてはほとんど椿事(ちんじ)のような話は、井上要からの中学校校長に就任要請について、たった10分間で決まったという。
「適当な後任が見つかるまで当分の間」であったはずのものが、大正13年2月から昭和5年4月まで、好古の校長在任は、6年2ヶ月の長きにわたることとなった。
しかも、「時々学校へ来て生徒と遊ぶ」どころか、6年2ヶ月の在任中、公務出張以外は全くの無遅刻無欠勤。見事なる皆勤賞であった。
校長就任の時点で65歳。退任時には実に71歳。
文字通り老骨に鞭打って、校長職を大真面目で務め、退任後、7ヶ月で亡くなった。・・好古・眞之を育て上げた母の教えが凄い、「大人になったら、自分を犠牲にしてでも、世のため、人のため、お国のために尽くす事が出来る人間になるようにと、そしてもう一つは、故郷のために尽くす事も忘れずに・・と母は育てた。

元帥を辞退し、なんのためらうこともなく単身で北豫中学校長として故郷のためにとの思いで帰った好古は、凄いの一言に尽きる。

眞之は、そんな兄好古の姿を見て成人していった。

兄、秋山好古騎馬像と目線を合わすように、眞之胸像を建立してある。

【秋山家の人々】

父・秋山(あきやま)久(ひさ)敬(たか)
旧松山藩時代は徒行目付として信望が厚かった。
明治維新後は県の学務課に勤める。
「親が偉くなりすぎると、子供が偉くならない」が口癖。

伊予松山藩きっての温厚で無口であった。
母・秋山 貞(さだ)
松山藩士の娘で、秋山久敬に嫁ぐ。
眞之が幼少の頃、ご法度の花火遊びをして警察に検挙された時、自分も死ぬからと、短刀を突きつけて叱った。子供の躾には厳しい母、大きくなったら「世のため、人のため、故郷のために尽くせる人になるように」が教えであった。
長女・種(たね)
早世。
長男・則久(のりひさ)
漢学の造詣が深かったが、壮年時代に病を得て廃嫡となる。家督を好古に譲り隠居する。
次男・正矣(まさなり)
岡家に養子に入る。
日本鉄道会社勤務などを経て、朝鮮京(けい)城(じょう)電気株式会社の重役となった。
三男・好古(よしふる)
好古の妻・多美(たみ)
好古が少尉時代に離れを借りていた旧旗本・佐久間家の娘。
非婚主義者の好古だが、母の懇願に負けて結婚。
(好古35歳、多美24歳)
四男・道一(みちかず)
西原家に養子に入る。
実業家を志し、横浜で貿易商を営むが、日露戦争の前年、事業が大成することなく没した。
五男・眞之(さねゆき)
眞の妻・季子(すえこ)
宮内省御用掛ごようがかり、稲生真履いのうまふみの三女。
眞之が海軍兵学校の教官時代、海軍大佐・八代六郎の仲介で結婚。
(眞之36歳、季子21歳)

 

鎌倉市から、南次郎さんの子孫の方が生誕地にお越しになり、まさか南次郎が書いた石碑があるとは知らずに来てビックリしましたと言われ、来てよかったです。そして千葉県習志野市にある、東邦大学にも立派な南次郎さんが揮毫した石碑がある事をお話ししますと、この事も南さんのご親族は知らなかったのでご案内すると、是非伺いますと言われた。・・この度秋山さんの生家を訪れてよかった。・・と言われ暫く石碑の前で佇んでおられた。

開館当時暫くは、松山観光協会から派遣された、マドンナが来て案内に協力していました。

千葉県習志野市、東邦大学習志野キャンパスにある、南 次郎が揮毫した石碑。

南 次郎が揮毫した立派な石碑で、千葉県船橋市、東邦大学習志野キャンパスにある。この地は、騎兵第13連隊の跡地で、日露戦争の時南次郎は、13連隊長として習志野から出兵した。13連隊は、騎兵隊の中で一番の精鋭部隊であった。

南 次郎の墓所

南 次郎は、第2次世界大戦後、A級戦犯として東京裁判にかけられ,終身禁錮の判決を受けた。東京巣鴨拘置所獄中、大病を患い特別に出所が許可され、自宅療養が許され鎌倉の自宅で逝去、81歳であった。

お墓は、大分県速見郡日出町の神田団地傍にあり、日出町では、南次郎の顕彰は行っていない(それはA級戦犯として東京裁判にかけられ,終身禁錮の判決を受けたためでは?と私は思う)墓参に訪ねて来られた人にはご案内をしている程度に留めているようだ。南次郎の墓と書いた表示板が掲げられていた。

大分県速見郡日出町の神田団地の傍にある南次郎のお墓。

自ら進んでA級戦犯になるような事をしたのではないでしょうが、上層部からの指示で行動したと思います。お墓の花が枯れていました。時々清掃をしてあげて下さい!!

 

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伊豫国 港山城跡散策

2017年04月19日 | 伊予松山歴史散策

港山城跡は、伊予鉄道港山駅の南西方向にあり、市道を挟んで東西に分かれ、東は東港山、西は西港山と呼び、西側に江戸時代伊予松山藩の出丸があった。山の山麓に湊三島神社がある。この城は、河野通春の城跡で、応仁の乱では山名方についた河野教通(通直)と細川方となった通春が戦う事になる。両将とも、はじめは京都に出兵していたが、11年後に双方とも帰国し、伊予一円で戦い続け、文明14年(1482)港山の激戦で通春は戦死した。港山城跡の標高は、54、5mある。

港山城は、湊山城とも表記され、築城したのは応仁元年(1467)に河野予州家の河野通春が築城したとする説と、延元3年(1338)の頃、河野通盛が風早郡河野郷(現在の松山市北条付近)から湯築城(現在の道後公園、日本100名城第80番)を築城し居住した際に海の守りとして築城したとの説がある。また、文治2年(1186)に河野通信が築城したとの説もある。複雑な城である。

江戸時代、松平氏になると、伊予松山藩の船奉行が置かれ、三津町と称され小さな漁村から藩の外港へと発展し、参勤交代の実施により三津の港には、160隻程の船が有り、藩主や重臣専用船や藩士の使う船、大坂へ米を運ぶ船が有った。参勤交代の時は、藩船「豊寿丸」とお供の船83隻という規模だったという。

港山城跡の登山口で、港山公民館前にある。

松山市港山町の港山城跡に登って景観を楽しんでもらおうと、地元住民らでつくる「松山西部地域開発協議会」が整備した山頂広場とそこへ続く農道の落成式が平成28年3月26日、同広場であり、関係者約30人が完成を祝った。
 整備は市の助成金を活用し、1月から開始。広場は笹や竹に覆われ歩くのが困難だったが、伐採ですっきりし、中島や興居島、山口県の周防大島などが浮かぶ青い海を望めるようになった。島々の名称を示した案内板を設けたほか、農道も階段を付けるなど歩きやすく整備した。
一人でも多くの人にこの素晴らしい景色を味わってほしい」とあります。愛媛新聞で報道された。

一度行ってみたいと思いながら月日が経過、今年になってから再度、登城道路の整備工事を行い、このほど完成したので今日(4月17日)高浜校区のガイドをしておられる、川内元子さんの案内で、秋山兄弟生誕地の研究員3名とで散策に行って来ました。天候は、生憎の雨天でしたがいい散策が出来ました。帰りには、港山城跡の麓にある、湊三島神社を訪れ、渡部宮司さんからいろいろなお話を伺い散策の締めとしました。

案内板が建てられています。

登城口にある、松山市教育員会が設置してある港山城跡の説明版。

側壁も建設しその上に事故防止のための柵が造られている。

暫く上ると小さな郭跡に辿り着く。そこから振り返ると松山城が見える。

この日は、雨天であったので霞んでいました。

郭跡に木製の句碑が建てられていた。

句は、名は桜物の見事に散る事よ (原句 名は桜偖も見事に散る事よ)

明治28年に漱石が詠んだ句で、「名は桜偖も見事に散る事よ」の句が、子規の添削により「名は桜物の見事に散る事よ」となった。

夏目漱石は、明治28年4月、松山中学の英語教師として赴任、正岡子規が帰松して時漱石の下宿先、愚陀仏庵に52日間居候した。その時開かれていた句会に参加し、短詩系文学に興味を持ち、その後文豪夏目漱石の誕生となる。

港山城跡にも来たのでしょうか?漱石は、松山には僅か1年しか居なかったが、いろんな所を散策し句を残している。

  

登城道路は綺麗に再整備され雨天でも歩きやすく造られていた。

道路の両サイドは、竹林で気持ちのいい道である。

曲がりくねった竹林道を抜けると視野が開けて来た。此処が本丸跡?瀬戸内海が一望出来、晴天時は、遠く長州(山口県)大島が見えるそうです。

この島は、伊予小富士、興居島で、今日は霧がかかり、墨絵の様に幻想的な島となりいい感じに見えた。

三津の渡しで、渡しの始まりは港山城築城後の食料、物資輸送のために始まったのが起源で、三津と港山の間の80m、正式には、松山市道高浜2号線を無料で行き来出来る渡し船。通学や通勤等に利用する市民の足です。今ではTVで放映され全国的に有名となり観光客が訪れております。

松山市道高浜2号線80mの間を行き来する「三津の渡し」松山市が管理運営している。運行時間は、午前7時から午後7時まで、年中無休。渡しは、利用者があると直ぐに動かせてくれる、運行時間なし。

港山城跡を下りて、南側山麓にある湊三島神社を尋ねた。

鳥居には「湊三島神社」とあり。

湊三島神社の渡部定詔宮司さんの特別な計らいで拝殿に上げて頂きお話を伺い、一緒に写真を撮りました。

湊三島神社の社号も「港、湊」を使い分けていた。鳥居の社号碑は「湊三島神社」で拝殿の社号額は「港三島神社」と揮毫されていた。宮司さんに聞くと「港三島神社」が本当ではないかと言われた。この時代になれば、一つにまとめればいいのではないでしょうか。「港三島神社」に。

拝殿には「港三島神社」とある。

拝殿に奉納されている日清戦争の時の絵馬で、最近は、賽銭泥棒が悪さをするが、絵馬も盗難にあるので、監視が大変との事でした。

境内には大きな社号碑があり、昭和天皇の御大典記念に建立されたそうです。

港山城跡の北側に、城主の河野通春の祠があり、此処をお参りして最後にした。

河野通春の説明版。

城主、河野通春の祠で毎年町内の年中行事の一つとして細やかなお祭りを開催しているそうです。

河野通春は、室町時代後期から戦国時代にかけての守護大名、伊予守護。

居城は、港山城で河野氏宗家と対抗した分家の予州家当主。

通春と教通(通直)の抗争は河野氏の衰退を招き、河野氏が守護大名からから戦国大名へ大きくなれなかった一因を成した。

 

愛媛新聞記事(平成28年3月27日付)その内容。

松山市港山町の港山城跡に登って景観を楽しんでもらおうと、地元住民らでつくる「松山西部地域開発協議会」が整備した山頂広場とそこへ続く農道の落成式が平成28年3月26日、同広場であり、関係者約30人が完成を祝った。
 整備は市の助成金を活用し、1月から開始。広場は笹や竹に覆われ歩くのが困難だったが、伐採ですっきりし、中島や興居島、山口県の周防大島などが浮かぶ青い海を望めるようになった。島々の名称を示した案内板を設けたほか、農道も階段を付けるなど歩きやすく整備した。
一人でも多くの人にこの素晴らしい景色を味わってほしい」とあります。

 

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フランスの柔道指導者が来日 秋山兄弟武道場で錬成

2017年04月16日 | 伊予松山歴史散策

フランス南部のオクシタニー地方柔道連盟のガドー・イヴ副長以下、フランスの柔道指導者ら40名が松山市を表敬訪問、日本柔道の稽古や指導法を視察、これに対し野志松山市長は、秋山好古がフランスの陸軍士官学校に留学していた歴史を紹介し歓迎された。

4月12日、フランスとのつながりがある秋山兄弟生誕地の柔道場で、常盤同郷会柔道部の子ども達、愛光学園高等部の柔道部員、愛媛大学柔道部員と合同で稽古を行った。

秋山好古は、明治20年7月20日、フランス・パリのサンシール陸軍士官学校に留学。(旧伊予松山藩主、久松定謨の随行として)日本の騎兵の用兵は、この時からフランス騎兵用兵を取り入れる事となった。好古の騎馬像の姿は、フランス式である。フランスの柔道家の皆さん秋山好古に一目。好古も、よくお越しになられましたと無言の歓迎の意を表されたのでは・・そんな思いでシャッターを押しました。

好古の騎馬像をバックに記念写真。

フランス柔道連盟のガドー・イヴ副長に、常盤同郷会平松理事長から歓迎の花束贈呈。

贈呈した花束は、フランス国旗に合わせて三色の花で造り贈られた。

フランス柔道連盟の女性柔道家たちにも歓迎の花束贈呈。

女性たちに贈った花束も三色で構成された花束です。

フランス柔道連盟のガドー・イヴ副長から、常盤同郷会平松理事長にフランスからのお土産「フランスワイン」の贈呈。そのお返しに日本酒が贈られた。

秋山兄弟生誕地の庭で暫し日仏の交流が行われた。

さて、道場で歓迎の式典が行われる前に玄関で記念撮影。

フランスオクシタニー地方柔道連盟の松山市訪日の支援をされた、鹿屋体育大学、浜田初幸教授(宇和島市出身)画像左。

道場内での記念写真。

道場に飾られた生け花は、フランスの国旗に合わせて三色の花を活けて歓迎の意を表した。これを見たフランスの柔道家の皆さんは、細部についての歓迎のお持て成しに感動された様でした。

ネッツトヨタ瀬戸内の社員さんが伊予水軍太鼓で歓迎のお持て成し。

フランス柔道家から盛大な拍手、リクエストで一曲追加披露した。

公益財団法人常盤同郷会理事長、平松昇さんが歓迎の挨拶。

歓迎のお礼の挨拶をされる、フランス柔道連盟のガドー・イヴ副長さん。

愛光学園高等部柔道部の清水君がフランス語で歓迎の言葉でお迎えをした。

愛好学園高等部柔道部の清水君の上手なフランス語での歓迎の言葉に対して素晴らしいと拍手がおこった。

素晴らしいフランス語での挨拶ありがとうと・・の言葉が返った。

いよいよ本来の柔道の錬成に入った。先ずはお互いの礼から始まった。・・お願いします。

フランス柔道連盟の皆さん方、サー此れから錬成頑張ろう。

準備体操を行い。

フランス側からの要望で、寝技の指導を授授かる、指導は松山大学柔道OB会、柔実会長の二宮さん。

実際に技を行い詳細な指導を受ける。

女性柔道家も熱心に技の習得をする。

その後は、内股の指導等々を受けて、本来の目的である技の習得をされた。フランスに帰り習得した技の普及に努め、東京オリンピック大会に優秀なフランス代表の選手育成に尽力されるそうです。

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