EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

復元された坊ちゃん列車 機関車手動で方向転換

2011年01月26日 | 往年の名車 メグロ
復元された坊ちゃん列車は市駅でのみ手動で方向転換作業をする。

明治20年伊予鉄道は、日本最古の軽便鉄道を創設した。
明治21年10月28日 松山―三津間の鉄道(坊ちゃん列車)の営業を始めた。営業開始時のレール幅は762mmだったが、昭和6年5月1日から現在のような電化になり電車が走るようになりレールの幅も1067mmと広くなった。
夏目漱石は、松山中学に赴任以前から時々来松しており軽便鉄道に乗ったので
有名・また日露戦争で捕虜となったロシア兵も松山22連隊の凱旋軍も乗った。

画像で紹介する坊ちゃん列車は、
1号機関車は、明治21年ドイツ国ミュンヘンのクラウ社製(甲1形)から伊予鉄道が最初に輸入、14号車は、明治41年ドイツ国クラウ社製最後に輸入した機関車である。

現在市駅・JR松山駅から道後温泉まで営業している市電は当時、道後鉄道といわれ、明治26年創設、28年に開業し営業区間は、一番町から道後温泉まで営業していた。主として道後温泉浴客の便を図っていた。
その後、明治33年5月1日に伊予鉄道会社と合併現在に至っている。

復活した坊っちゃん列車 

平成13年10月12日 市民の要望で復活した坊ちゃん列車が松山市内市電車の軌道を1号機関車と14号機関車が路面電車軌道を走っている。

繁華街を煤煙を吐いて走行は出来ず、いろいろと思案した結果、ディーゼル機関によるレプリカを市内線JR松山駅・古町⇔松山市駅前⇔ 道後温泉間で運行を開始し現在に至っている。(乗車料は¥300円)

乗務員は、伊予鉄道創業時の制服を着用した機関士と車掌が乗務していて松山市駅で坊ちゃん列車の機関車を油圧ジャッキで持ち上げ乗務員が機関車を手動で方向転換している。

参考事項:復活した坊っちゃん列車

夏目漱石の小説「坊つちやん」の中で、軽便鉄道時代の伊予鉄道が「マッチ箱のような汽車」として登場しており、四国・松山の中学校に赴任する主人公の坊っちゃんがこれに乗ったことから、坊っちゃん列車と呼ばれるようになった。
松山の観光のシンボルの復活として、坊っちゃん列車の復元構想は、過去、いくつか起こっては消えていた。特に、観光の目玉を増やしたい観光関係者、特に道後温泉関係者にとって関心事であった。

伊予鉄道が、平成13年にディーゼル方式を採用した坊っちゃん列車の復元を発表、運行開始した。列車は、往時の坊っちゃん列車をモデルにディーゼル動力方式を採用、汽笛は同社OBの協力を得、制服も当時のものを復元するなど、できるだけ本格的なものにしようとした。
蒸気機関車ならではのドラフト音は車外スピーカーによって鳴らす方式を採用し、煙突からは水蒸気を使用したダミーの煙を出す発煙装置を採用する等の工夫がなされている。

第1編成車両:ディーゼル機関車D1形 1 + 客車ハ1形 1・2
第2編成車両:ディーゼル機関車D2形 14 + ハ31形 31
製 作 所 :株式会社新潟鐵工所 (新潟市)
エンジン  :日野ディーゼルエンジン 6、014CC 搭載

客車の屋根には分岐点でポイント操作を行うトロリーコンタクターを作動させるため、ダミーのビューゲル(進路制御装置と呼んでいる)が取り付けられている。
道後温泉駅の専用の引込み線には2編成が夜間と、1日おきに時間調整のために留置されており、観光客がその前で記念写真を撮るなどされ、親しまれている。
なお現在、現存する最古の軽便機関車として、梅津寺公園内に展示しています。

では、その作業を画像で紹介しよう。
松山市にお越しの節は一度ご覧下さい。


1号機関車を油圧ジャッキで持ち上げ手動で方向転換する乗務員
夏季、梅雨時の大雨の日は大変だそうです。・・乗務員が若いから出来る作業


方向転換も無事終わり動輪を線路にセット


次の作業は、客車を手押しで機関車の場所まで移動・・ご苦労様
夏目漱石が乗ったのはこの形の客車で当時、定員12名であった


機関車に接続して、乗務員は乗客を待つ
現在1号車と14号車の2系統で営業運転しているが乗務員は15名が交代で乗務している。市電と平行して待機


これから方向転換開始、油圧ジャッキをこれから出し機関車を持ち上げ準備・・画像は14号機関車の方向転換


画像のように油圧ジャッキで持ち上げている状態


14号機関車無事方向転換完了


14号機関車が牽引する客車、1号車は小型客車2両を牽引 2号車用客車は大きいのを両牽引する・・これより長くなるとポイントの切り替えが出来なくなる
夏目漱石が乗った客車は1号機関車が牽引する小型の客車であった


14号機関車牽引客車、機関車と接続して所定の位置に着けるところ


14号機関車&客車、所定の位置に着け乗客を待つ


14号機関車を運転手する若い運転手さん、運転免許は全国でも初めて市電軌道を内燃機関(ディーゼルエンジン機関車)で走行するため特殊運転免許が必要との由、服装は明治時代創設当初の制服だそうです
1号機関車と14号機関車の造りは殆ど変わりはないが、画像で見ると、煙突上部の造りが異なる
当時のまま忠実に外観復元している


坊ちゃん列車機関車の運転内部、運転席(左側)に前方安全確認の為液晶モニターがついている


運転内部は画像の通りで前方安全確認の為、左右にカメラを取り付け運転席で安全確認出来る様に液晶デスプレイを着けている


1号車が松山市役所前で、市電と交差、上部に伊予松山城天守が見える


営業運転しない時は道後温泉駅に作られた引込み線で待機する
後方は道後温泉駅舎で、明治44年建築の駅舎であった明治洋風建築を平成21年8月外観復元された


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伊予松山城本丸の寒梅

2011年01月23日 | 往年の名車 メグロ
伊予松山城本丸の寒梅

今年になって初めて松山城ガイドの当番日で登城した。
松山市も今年の冬は第一級の寒波到来で連日最低気温は零下である。
昨日は、松山城に観光に来られたお客様は関東からの方が多く東京都・群馬県・茨城県の方をご案内いたしましたが何方も関東よりも暖かく凌ぎやすいと言っていた。
昨日ご案内した方で、香港出身で、現在東京在住の方がキャノンの最高級機種を持って松山城の写真が撮りたいので撮影ポイントを案内して欲しいとの要望で案内をした。

美人の女性が同伴していた。なぜ香港の方が観光に松山に来られたのか伺うと同伴の女性が松山出身で、叔母様のお見舞いに来たとの由
案内しながら会話をしてますとお二人はご夫婦である事が判明・・美人で素敵な奥様でした。受け答えの言葉も上品で、幼児期家庭での言葉使いの躾がされたのでしょう。・・ハィ・・案内しても気持ちがよかった。

では、昨日ご案内をしながら私も持参した何時も携帯してます小型デジカメで撮った画像を見て下さい。昨日は撮影には絶好の天候でした。
青空と雲とのバランスがよくいい天気でした。


松山城大手門を過ぎると「隘路・あいろ」と言う敵の進路を最大に防御する通路がある。正面の太鼓櫓、奥に天守を伺い石垣を取り入れる撮影ポイント、昨日は紺碧の空に「坂の上の雲に」出てくる一朶の雲が現れ絶好の撮影が出来、香港の観光者も喜んでいた。


ここが松山城一番の撮影ポイントで、坂東三津五郎も絶賛した場所
全国の城で本丸に屈曲した石垣(屏風折れの石垣)は非常に珍しくその上に続き塀を見て奥に本壇の南隅櫓と一番奥に小天守を切り撮ることが出来る。青空と白い雲を入れたポイント、香港の方も此れは凄いとレンズを取り替えて撮影していた。


ここも喜んでもらった撮影場所で紺碧の空と一朶の雲を取り込んだいい写真が撮れていた・・香港の方は広角レンズで撮っていたのでいいアングルの画像であった。
画像では見えないが、天守の瓦には「徳川家の間紋、三つ葉葵が刻まれている」・・地方の天守では伊予松山城だけである。第三代松山藩主松平定行は徳川家康の異父兄弟の関係で家康の指示である。


ここはNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」最初に出てくる画面
柵を取り払い、石垣に秋山眞之を演じる本木さんが座り、秋山好古役の阿部さんと正岡子規役の香川さん、この場所からの画像である。


今年の冬は大寒波襲来で松山市も連日零下の気温(最低)が続いているため寒梅の開花が遅れている。本丸の梅も二本の梅の木に3輪だけ開花していた


開花していたのは白梅で品種は、「冬至」である


開花していた紅梅で品種は、「八重寒紅」
開花は気温が10度以上にならないと満開にならない


画像は、昨年7月土砂崩れで倒壊した「愚陀佛庵」跡地で現在もご覧の通りで、最近各所で再建築について建築場所選定が検討されている。


昨日は、天候がよく西日本最高峰「石鎚山」も松山城本丸から画像のようによく見えた。



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愛媛県八幡浜市の「明治橋」

2011年01月14日 | 往年の名車 メグロ
八幡浜市の「明治橋」

今日(1月14日)久しぶり八幡浜市に行ってきた。
平成18年11月6日、秋山好古揮毫石碑の取材に行った時依頼である。
本日、八幡浜に行ったのは愛媛県で唯一現役の「下路式アーチ橋:明治橋」の写真を撮りに行った。
場所は、市内中心を流れる、新川(千丈川)に(大正町と古町)架かる鉄筋コンクート製の「下路式アーチ橋」で、現役の道路として使用されているものの中では全国で最も古い。
明治橋の完成は、昭和5年3月完成とある。

今年10月に土木学会の選奨土木遺産に認定された。
同橋はアーチの下に道路面が位置する構造で、アーチ上に道路面を作る上路式アーチ橋のほうが、施行コストが安いから、大正から昭和にかけて、下路橋は老朽化に伴いその姿を消して行った。
明治橋は昭和30年に新しい県道が出来るまでは、八幡浜市と西予市宇和町を結ぶ幹線道路の橋として賑わった。
橋のアーチを支える親柱はアールデコ様式で形作られており当時の職人気質を今も伝えている。

※是非設置を:今日見学に行ってみて「明治橋」の説明版がなくがっかりした。
全国で一番歴史のある、そして昨年土木学会の選奨土木遺産に認定された由緒ある建造物なのに早急に説明版の設置をしてほしい。・・八幡浜市役所職務怠慢
一般的にコンクリートの耐用年数は50年と言われている。
81歳の明治橋、これからも保守点検をしながら何時までも残してほしい、愛媛県の建造物遺産として。

参考:全国にある明治橋
岩手県の明治橋:盛岡市の北上川に架かる橋
奈良県の明治橋:奈良県生駒郡三郷町と北葛城郡王寺町にまたがる大和川に架かる橋
大阪府の明治橋:大阪市平野区の大和川に架かる橋
広島県の明治橋:広島県広島市の元安川に架かる橋
愛媛県の明治橋:愛媛県八幡浜市の千丈川に架かる橋 (土木学会選奨土木遺産)
大分県の明治橋:大分県臼杵市野津町にある橋(土木学会選奨土木遺産)
沖縄県の明治橋:沖縄県那覇市にある橋


明治橋の全景
行ってみると歴史のある下路式アーチ橋なのに説明版がなく、何の知識も無く唯漠然と見ると唯の橋・・説明版の設置があると橋の歴史がよく分かるのに、これも八幡浜市の大切な観光資源と思うが、何故説明版を設置しなのか!!


古町側からの明治橋


大正町側からの明治橋


 大正町側に完成年月の銘板が橋柱に埋め込まれている


古町側の 橋柱に埋め込まれている、明治橋と完成年月の銘板


古町側の 橋柱に埋め込まれている、千丈川の銘板


大正町側の橋の袂に「二宮忠八の記念碑」あった
二宮忠八:、慶応2年6月9日に伊予国宇和郡八幡浜浦矢野町(現 愛媛県八幡浜市矢野町)出身の航空機研究者。陸軍従軍中の明治22年「飛行器」を考案。翌年にゴム動力による「模型飛行器」を製作、軍用として「飛行器」の実用化へ繋げる申請を軍へ二度行うも理解されず、以後独自に人間が乗ることのできる実機の開発を目指したが完成には至らなかった。なお「飛行器」とは忠八本人の命名によるもの。


明治橋からみた八幡浜港


八幡浜港に接岸している九州行きのフエリー・・後方の山には愛媛県の特産品「温州みかん」の畑


愛媛県西部の海の玄関、愛媛県と九州大分県を海上で結ぶ八幡浜港で接岸しているフェリー「オレンジ九州」は大分県臼杵市行き


愛媛県西部の海の玄関、八幡浜港で接岸しているフェリー「えひめ」は大分県別府市行き 
また、八幡浜港はトロール漁船の基地として西日本最大の基地だった。最盛期には54隻のトロール漁船がいたが現在は10隻になっている。
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西日本最高峰「石鎚山・1982m」

2011年01月13日 | 往年の名車 メグロ
西日本最高峰「石鎚山・1982m」

今年になって初めて雲ひとつない石鎚山が姿を8日に見せた。
石鎚山は、四国山地の中核をなす主峰、西日本の最高峰で、西条市と上浮穴郡久万高原町の境界に位置し、行政区画では石鎚山頂は西条市に属する。
石鎚山が一番綺麗な姿が見えるのは松山市からが一番であり、我が家からも素晴らしい石鎚山が見える。
画像は一部を除いてすべて我が家からの画像である。 

地形
山頂は、北西から南東にのびる長さ約400mの細長い岩稜で、周囲は100m近い断崖絶壁となっている。
このうち天狗岳「1982m」は岩稜の南部にあたり、付近に大砲岩・矢筈岩等の奇岩がある。
岩稜の中央部を弥山「1974m」と呼び石鎚神社頂上社と山小屋があり、北西端は北岳「1921m」である。

信仰の山
「石鎚」の名が文献に最初にみられるのは弘仁3年「西暦822年」に上撰された「日本霊異記・にほんりょういき」で、そのなかに祭神は「石鎚の神いますがための名なり」とある。
山名の由来は頂上の岩峰の形を石の鎚とみたてたものといわれるが、語源的には石之霊・いしづち・ツは「之」の意味、チは霊力をもつ神や物を意味する古代語)であるともいう。

日本七霊山
石鎚山は日本七霊山の一つとして知られる山岳信仰の山で、山自体が神として崇められてきた。(富士山・立山・白山・大峰山・釈迦ヶ岳・大山・石鎚山)
石鎚山の神は「石土毘古命・いわづちひこのみこと」と呼ばれ和銅5年(西暦712)にだされた「古事記」のなかの神々の生成の項に、石土毘古命、と記されている。
伝承によると白鳳14年(685)行者役小角が修験道の霊山として開いたという。
延暦10年(791)には青年弘法大師(空海)が大同3年(808)には僧光定が登ったと伝えられる。
天長5年(828)には当時瓶ヶ森の山頂に祀られていた石土蔵王権現を石鎚山に移したという。(伊予温故録)による。

お山市
石鎚山は長らく女人禁制であったが大正末期から女性による登山も盛んになり、7月1日から始まる夏の大祭をお山市、またはお山開きといい、7月1日から10日間行われます。
以前は、お山開きには女性の登山は出来なかったが、現在は女性もOKになった。


我が家からの画像で今年初めて雲の無い姿を見る事が出来た・・1月8日に


今年1月8日に撮影、中央に三角形に見える所が最高峰の天狗岳1982mで全体を石鎚山と呼ぶ


これもは1月4日に撮った一部雲に覆われていた


これは昨年、年の瀬に640mmで撮った


これは、松山市南部森松町と伊予郡砥部町を流れる一級河川「重信川」に架かる森松橋から撮った石鎚山系


これは私の友人が撮った西日本最高峰の「天狗岳:1982m」撮影場所は、弥山「1974m・石鎚山頂神社前」から撮影・・こんなに気象条件のよい石鎚山の撮影は出来ない
頂上面積は非常に狭く大人3人程が滞在できるほどである
後方は高知県である



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秋山好古生誕152年祭

2011年01月10日 | 往年の名車 メグロ
秋山好古生誕152年祭

今日(1月10日)松山市歩行町にある秋山好古・眞之兄弟生誕地で、秋山好古生誕152年祭が盛大に挙行された。
好古は、安政6年(1859)伊予松山藩徒歩目付け家禄10石取りの秋山家3男として、現 秋山兄弟生誕地に誕生した。

福沢諭吉の「学問のすすめ」に共感し青少年の教育推進に教育者を目指し大阪師範学校に学び卒業後、名古屋師範学校付属小学校に赴任したが、郷土の先輩、和久氏と名古屋鎮台山本武官の強い勧めで陸軍士官学校に入学し日本の騎兵隊を創設し、日本騎兵の父と言われた。

その後大正12年元帥に推薦されるもこれを辞退、大元帥(明治天皇)は驚いた。未だかって元帥を辞退した者はいなかったからだ。大元帥は元帥を辞退した秋山大将に、特旨として官位従二位を与えた。

好古は、官位従二位を拝命し大正13年郷里の伊予松山からの要望に答え北豫中学校長として昭和5年3月まで本来の教育者として勤務し同年3月北豫中学校長を辞任し11月4日東京・陸軍軍医学校で永眠(享年72歳)現在東京青山霊園に眠っている。

今年生誕152年となり、中村愛媛県知事をはじめ、野志松山市長、松山市議会議長・秋山眞之の孫大石尚子氏(参議院議員・鎌倉市在住)地元選出の国会議員、柔道部・合気道部父兄の臨席の下盛大に行われた。

また秋山眞之が海軍兵学校在学時に提唱して設立された青少年文武両道の教育の大切さを現在も引き継ぎ行われている、柔道・合気道の稽古初めが武道場で行われた。
画像は、その様子である。


武道場の舞台に飾られた好古カラー肖像画(肖像画は、千葉県習志野市大久保商店街からの寄贈)


秋山生誕地武道場で開催された秋山好古生誕152年祭会場(柔道・合気道・一般来賓者)


秋山生誕地武道場で開催された秋山好古生誕152年祭で挨拶をする中村愛媛県知事


秋山生誕地武道場で開催された秋山好古生誕152年祭で挨拶をする野志松山市長


秋山兄弟生誕地武道場で稽古初めをする柔道部・合気道部


秋山好古生誕152年祭記念の餅つき、先陣を切って杵を持ち餅つきをする中村愛媛県知事


秋山好古生誕152年祭記念の餅つきを好古騎馬像の前で、第二陣を受け持って餅つきをする野志松山市長


秋山好古生誕152年祭記念の餅つき、第三陣を受け持って餅つきをする秋山眞之の孫、大石尚子参議院議員(鎌倉市在住)


秋山好古生誕152年祭記念の餅つきで搗きあがった餅を作る秋山生誕地女性研究員


秋山好古生誕152年祭記念の餅つきで賑あう生誕地


秋山好古生誕152年祭記念に駆けつけた松山の綺麗どころ


秋山好古騎馬像前で















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