EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

松山市城北地区歴史散策 5

2010年06月23日 | 往年の名車 メグロ
松山市城北地区歴史散策 5

画像は、来迎寺墓地にあるロシア兵の墓石とその献花である。

墓地は、篤志家の地元夫人、地元中学生達が清掃活動を行っており墓地には草等々は生えて無く365日献花が絶えない。

墓石は全部、兵士の故郷ロシアを向いて建立している。
墓石の文字も良く見えるように何時も墨をいれ手入れも行き届いている。

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松山市城北地区歴史散策 4

2010年06月23日 | 伊予松山歴史散策
松山市城北地区歴史散策 4

画像は、来迎寺墓地にあるロシア兵の墓地である。
青地林宗墓所のすぐ東に位置している。

明治37、38年日露戦争の捕虜の大部分が松山市に収容され、当時の城北練兵場(現在は愛媛大学その他学校施設が出来た)に大簡易式の病院が建てられて診療にあたった。

捕虜兵は近くの寺院が収容場所となった。市内上流婦人が看護を引き受け、時にはピクニック、道後温泉入浴等々厚く持て成したので捕虜になった兵たちは松山の収容所希望が多かったとある。

ある時神戸市のロシア領事館に松山収容所の食事が悪いと苦情があり、領事官が松山に来て調査したが何の不具合も無く、松山の食事は充分すぎる位いい、贅沢言うべからずと言って神戸に帰ったとある。

また兵と看護をする若き女性と恋の芽生えもあったとか言われている。

このような持て成しの心が世界に知られるところとなり、最近ではロシアからゆかりの人が訪れ日露友好の架け橋となっている。

墓地は、篤志家の地元夫人、地元中学生達が清掃活動を行っており墓地には草等々は生えて無く365日献花が絶えない。

墓石は全部、兵士の故郷ロシアを向いて建立している。


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松山市城北地区歴史散策 3

2010年06月23日 | 往年の名車 メグロ
松山市城北地区歴史散策 3

画像は、伊予松山藩医、青地林宗の墓である。
青地家は、代々松山藩医で父快庵は9代藩主定国に仕え、林宗は江戸の杉田玄白につき蘭学を修めその多くは西欧の物理学を説いて天下に知られた。
後年幕府天文台の翻訳方となり水戸に招かれたこともあるが天保4年(1822年)江戸で逝去した。

以前の墓は、足立重信の横にあったが、重信の墓の後ろの木を伐採して新たな墓地を造成しその一角に移転してあった。

重信の墓の前は伐採しても墓地造成にならないので木を切らないのか??
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松山市城北地区歴史散策 2

2010年06月23日 | 伊予松山歴史散策
松山市城北地区歴史散策 2

画像は、来迎寺に眠る伊予松山城築城担当の築城奉行足立重信の墓所の後ろから松山城および天守が方向の画像で木が茂り天守は見る事が出来ない。
住職さん木を切ってあげてください。後ろを切るのであれば、前などわけなく伐採できるはずである。・・その心が無いのか??

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松山市城北地区歴史散策 1

2010年06月23日 | 往年の名車 メグロ
松山市城北地区歴史散策 1

画像は、来迎寺に眠る伊予松山城築城担当の築城奉行足立重信(普請奉行・伊予川「現・重信川」湯山川「現・石手川」の改修をした)の墓所である。(県指定史跡)

 未完の城に心を残しつつ西堀端の邸で病没した。遺言に城の見える所に埋めてくれ、この言葉に従いここに葬った。ここからは松山城天守が良く見えた。
しかし今は、木々がうっ蒼と茂り松山城はまったく見えない。

墓の後ろも木々があったが先日行ってみると木々は伐採され新たな墓地が造成してあった。寺院も住職の代が替われば目先にとらわれ、営利が先行するのかなと寂しさを感じた。後ろの木も伐採するのであれば、前も伐採して松山城が見えるような環境に戻し足立重信に天守を見せてやってほしいものだ。


足立重信は、美濃国に生まれ若年で嘉明に仕え数多くの戦いで活躍した。
墓は五輪で献燈が左右にあり、重信の三百年祭忌に重信川の石で造ったという。
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