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EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古揮毫石碑を訪ねて 15、愛媛県松山市久保田町の石碑「履脱天満宮」

2019年04月22日 | 伊予松山歴史散策

松山市には菅原道真縁の神社が二つある。

一つは、松山市北久米町(松山城南高等学校正門左、星岡古戦場跡の一番北側の丘に社がある「辰岡天満宮」とこれから訪ねる「履脱天満宮」である。
道真は、4年間の讃岐(現、香川県)での国司の任期を終え京に戻り、宇多天皇の後ろ盾で右大臣となり、左大臣の藤原時平と肩を並べる政治の最高位まで上り詰めた。

時平は、これを妬み道真を大宰府に左遷した。
左遷の理由は、「醍醐天皇を引退させ、自分の娘を嫁がせた斉世親王を皇位につかせようとした」といういい加減な、言い掛かりが理由だった。
これから訪ねる履脱天満宮は、都から大宰府に向かう間の言い伝えがある神社である。
5月1から元号が改元され「令和」となり、令和の

令和の意味は、
春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人ひとりが明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたいとの願いを込め、決定した。
出典は万葉集の「梅花の歌」から。万葉集5巻に収録されています。
日経新聞(平成31年4月2日号)より引用

「初春の令月(れいげつ)にして、氣淑(きよ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香を薫す。」

日本の四季折々の文化を、次の世代に引き継ぐという思いが込められた「令和」。
これを機に、万葉集を読みたくなり万葉集5巻が売り切れになり大変な人気だそうです!!
そして太宰府政庁の長官だった大伴旅人の邸宅で開かれた梅花の宴、これを人形で再現している大宰府展示館が見学者で大混雑とか!今年のGWは大勢の人々が大宰府を訪れるのではないでしょうか。そして大宰府と言えば菅原道真公で、これから訪れる履脱天満宮は、菅原道真縁の神社である。

1.    文 履脱天満宮

2.所 在 地: 松山市久保田町58番地 

3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古

4.建 立 者: 久保田

5.建立年月日: 明治44年 6月 

6.碑石大きさ: 高さ・1m68㎝ 横幅・84㎝ 厚み・24cm

 

石碑の由来:菅原道真が901年大宰府に左遷される際、暴風のため遭難して愛媛県越智郡桜井

の浜に漂着、陸路当地に参着し御履を脱ぎ暫し休まれたので履脱天満宮という由緒ある神社であ

る。

居心地がよかったのかつい長居(3年間)をしてしまい、都から蔵人頭三位中将紀久朝が勅使と

して来られ、長居をした道真に早く九州に赴くように伝えに来た。

道真は、浜から船を出し大宰府に向かう折、見送る里の人達に「今でるよ」と声を掛けたので、

西垣生の浜を今出と呼ぶのだと言う。

 

秋山好古揮毫した石碑裏面には、「養水記念・一色義房君 明治四十四年六月 當中」と記載がある。

もう一つの履脱天満宮の社号碑。

石碑向かって左側面に揮毫者の名前が書かれている。

正二位 菅原勝成 謹書 と揮毫されている。

菅原勝成とは、伊予松山15万石藩主・松平(久松)勝成の事で、菅原道真を祖とする故敢えて菅原姓で揮毫した。(菅原勝成は、松平勝成の事で、伊予松山藩15万石、第14代城主である。)

伊予松山藩主松平(久松)家の祖先は菅原道真であり簡単にその関係を述べておく。

延喜元年(901)菅原道真は、大宰府に流され、その時一族は安古居(あごい)(愛知県知多郡阿久比町)に同じように流された。
道真の死後宇多上皇は、道真は無実であったとして許し、遺族を京都に戻した。
道真の長男、高規(たかのり)は喜んで京都に帰ったが、その子雅(まさ)規(のり)は、9歳の時から安古居に住み、良くなじんでいるからと言って父について帰らず住み付き、後に地頭守護職になった。
この雅規の幼名が「久松丸」であった。
雅規の後、14代目の定道が菅原姓を捨てて、久松姓を名乗りこれが久松姓の起こりである。

愛知県知多郡阿久比町には、「久松家発祥の地」の石碑が建立されている。
建立者は、松平勝(かつ)成(しげ)(伊予松山城主第14代・(久松定謨(さだこと)の祖父)である。履脱天満宮の社号碑を揮毫した菅原勝成の事である。 

次に、久松家と松平家について

三河国の松平(徳川)家康は、永禄9年(1566年)、朝廷から従五位下・三河守の叙任を受け、同時に許可を受け「徳川」に改姓した。
伊予松山三代目城主、松平定行の父は、久松定勝で母は伝通院(於大の方)、伝通院は、初め松平広忠に嫁ぎ松平家康を生んだ。
伝通院の実家は、尾張国刈屋城主、水野忠政の娘で、兄の水野信元は、松平広忠の反対派であった織田信長方につき、広忠は怒り伝通院を離縁させた。
17歳であった伝通院は、その後久松俊勝と再婚して久松定勝が誕生した。

定勝は、家康と異父同母弟で、定勝の次男・定行が伊予松山三代目城主、松平(久松)定行である。
定行は、徳川家康より、家門に准じて松平氏の称号と三つ葉葵を賜い明治維新まで松平姓を名乗った。明治新政府は、伊予松山の松平の姓を旧姓の久松氏に復するように指令し即日これを実施した。

現在、東京都港区の済海寺にある、伊予松山15万石藩主久松家東京の菩提寺から松山市の久松家の菩提寺大林寺に墓を移転する事で大きな話題となっている。(末尾に新聞記事掲載)

 

履脱天満宮の正面には画像の様に二つの履脱天満宮の社号碑が建立されている。

菅原道真公が亡くなって 1000年の記念事業として、明治36年に九州の太宰府になぞらえて拝殿前に一段と高いところに「一千年祭碑」が建立されている。
揮毫者は、大宰府 宮小路 康文・太宰府天満宮の神職家である。

松山市久保田町58番地にある履脱天満宮の長い参道で、菅原道真公が亡くなって 1000年の記念事業として、明治36年に九州の太宰府になぞらえて松並木や池が作られたそうだ。
この神社は、松山空港の東1.5km程の辺り、田園風景の中に住宅地も見えると言った辺りに鎮座している。

長い参道を歩くと境内に入る。

境内には松山市教育委員会設置の履脱天満宮の謂れが表記されている。

奥に進むと履脱天満宮の拝殿があり、その前には紅白の梅の花が開花していた。

履脱天満宮は長保元年(999年)に一条天皇が社殿を建立し、道真を祀って履脱天満宮と称したとされ、永正元年(1504年)には豪族・河野通篤が土地を寄進、江戸時代になって、松山藩主松平家が社殿を再建し、代々の藩主が参拝して祖先神として厚く敬ったとされている。


「履脱」の由来は、道真が今治を出て陸路で大宰府に向かう途中、歩き疲れて靴を脱ぎ、その場所でくつろいだことが名前の由来とされている。
結局、道真はこの場所が気に入り、その後3年間も留まることになり、都ではあまりにも逗留の長い道真に対して、大宰府に向かうように促したと言われている。
このように今治と松山の天満宮は道真伝説による深いご縁で繋がっていた。
さらに両宮を庇護した藩主(松平家、久松家)の祖先が菅原道真本人にたどりつくことも興味深い歴史である。

 

拝殿内部には、済美高等学校美術部の生徒が制作した大きな絵馬が奉納されている。

拝殿前から見た参道で、拝殿前には菅原道真が愛した梅の木が植えられ開花していた。

拝殿前に、勅使橋の人湯とされている大きな石が展示してある。

写真は勅使(ちょくし)橋で、道真がこの地に逗留し過ぎたことで都から「大宰府に赴任を促す目的で」勅使が派遣され、その勅使を迎えた橋がこの勅使橋で、元々この橋は現在地よりも西側にある洗地川に架かっていたものを昭和62年に天満宮に移設、保存されている。当時の洗地川は狭い小川であったことから、この石橋で十分な役目を果たしていたようです。

勅使橋の説明板が設置してある。

履脱天満宮の境内には、安楽寺も同居している。
安楽寺にある11面観音(一木造り立像)は文科省総合調査の際認められ平安朝の作として愛媛県指定の文化財となっている。
安楽寺は長保元年(999)創建といわれる。

安楽寺の本堂で、その奥が庫裏である。

境内には、菅原道真が滞在中「星占い」をしたという松山七不思議のひとつ「占い池」がある。

画像はその池である。

境内には寒桜と紅梅が満開状態であった。

今年の冬は温暖であったので開花が例年よりも早まったようだ。

北久米町の辰岡天満宮で、松山城南高等学校正門左に参道があり、星岡古戦場跡の一番北側の丘に社がある。
道真公は、今治市の桜井から陸路現在の松山市に移動、途中我が家の近くにある辰岡天満宮(松山市北久米町)で休息、その時の石が保存されている。

 

北久米町の辰岡天満宮に立ち寄られ一時の休息をされ、石に腰を掛けられて疲れた身体を癒されたと言う伝説の石「菅原公御腰掛石」の記念石碑が辰岡天満宮本殿横に建立されている。

菅原道真縁の今治市桜井にある綱敷天満宮。

社伝によると、菅原道真が大宰府へ左遷される途中、燧灘の桜井海岸沖で嵐に遭ったが、現宮司(菅氏)の祖先である広川修善と里人に助けられて志島ヶ浦に辿り着き、急なことで敷物が無く、漁網を敷いて敷物の代わりとしたことから「綱敷」の社名が付いたとされる。
鮮魚を里人に献上されるなどの厚意に感じた道真は梶柄に自像を刻み「私は菅原道真である。もし私が無事帰洛できたなら、この像を証拠として都を訪ねなさい。私が配地で没したと耳にしたなら、この像を素波神(そばがみ)と称し祀るように」と述べたとある。

綱敷天満宮境内・・奥が本殿。

嵐に遭遇し志島ヶ浦にたどり着き、濡れた衣服を乾かしたと言われる岩「衣干岩」。

東京都港区三田にある済海寺は、伊予松山藩15万石の藩主であった松平家(久松)第2代目から15代目の藩主と妻子の墓が49基あり、墓を発掘調査し松山市の久松家の菩提寺である、大林寺に改葬する作業をしている。
大林寺は、松山市味酒町一丁目にあり、松山藩第2代藩主、蒲生忠知が創設した寺で、見樹院と称していたが蒲生家断

絶のあと、第3代藩主松平定行が松平家(久松)の菩提寺として大林寺と改めその後松平家(久松)の菩提寺となった。
蒲生忠知の墓は松山市末広町の興聖寺に移された。興聖寺には、赤穂浪士の大高源吾と木村岡右衛門の介錯をした宮原久太夫が二人の供養のため宮原久太夫の菩提寺である同寺に二人の供養のため両士の墓を建立した。
毎年同寺で義士祭が行われている。
東京都港区三田にあった松山藩江戸屋敷は現在イタリア大使館で、赤穂浪士が吉良邸に討ち入り後大石主税以下9名が切腹したところである。

伊予松山歴代藩主江戸から松山にお国入り。

松山義士祭のポスター。

毎年12月14日松山義士祭が開催されている。

大高源吾、木村岡右衛門の切腹を介錯した松山藩士、宮原久太夫が両名の遺髪を藩主の許しを得て、松山市末広町にある宮原家の菩提寺、興聖寺(こうしょうじ)に二人の墓を建立し納め供養したのが事の始まりで、昭和39年、両名と宮原の供養と地元の発展を願って、興聖寺史跡顕彰会が発足し、同年12月14日第1回松山義士祭が挙行され現在では松山の師走の風物詩として継続されていている。

 

イタリア大使館の庭は、当時のままで、平成27年赤穂市の大石神社の宮司を招き浪士の慰霊祭が実施されたそうです。「忠臣蔵に思いを馳せる」人は日本人だけではない様です。

イタリア大使館の庭に建立されている記念碑。
江戸時代の伊予松山藩江戸中屋敷(現、イタリア大使館)、伊予松山藩主第4代松平定直の時代、大きな出来事があった。
記念碑には、大石主税以下浪士の名前と介錯人の名前まで刻まれている。
大石主税の介錯人は、羽賀清太夫で、禄は15石3人扶持、身分は、寄合大小姓とある。
ともあれ、石碑の建立は、流石にイタリア大使館、何時の時代の大使が建立したのか立派な事をされた。

 

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第57回愛媛マラソン写真コンテスト入賞・入選作品ロビー展始る

2019年04月13日 | 伊予松山歴史散策

愛媛マラソンは今年で第57回を迎え、地方のマラソンでは歴史のある大会であります。
その大会の様子をプロ・アマのカメラマンが撮影し作品を競う標記のコンテストが毎年開催されています。
私は、第50回大会の平成24年からコンテストに応募しています。その間入選が4回で未だ入賞はございません。
作品応募は一人2作品までです。

第57回愛媛マラソン写真コンテスト入賞・入選作品展示会場と展示期間は下記の通りです。

展示期間 伊予銀行本店ロビー 3月29日(金)~4月26日(金)

     伊予銀行今治支店  5月 7日(火)~5月31日(金)

     伊予銀行新居浜支店 6月   3日(月)~6月28日(金)

     伊予銀行宇和島支店 7月 1日(月)~7月26日(金)

     伊予銀行八幡浜支店  7月29日(月)~8月30日(金)

入賞・入選作品24点が展示されている。

伊予銀行本店ロビーで開催中の第57回愛媛マラソン写真コンテスト入賞・入選作品展示です。

第57回愛媛マラソン写真コンテスト、金賞受賞作品です。

第57回愛媛マラソン写真コンテスト、銀賞受賞作品です。

第57回愛媛マラソン写真コンテスト、銅賞受賞作品です。

私の入選作品です。・・残念ながら入賞できませんでした。
タイトルは「ゴールは直ぐそこよ・頑張って」で高橋尚子さんが疲れ切ったランナーに元気を与える所を撮りました。

私の入選作品です。・・残念ながら入賞できませんでした。
タイトルは「記録更新しました」で青空の松山城本丸をバックに、目指した自己記録を更新した喜びのランナーを撮りました。

第57回愛媛マラソン写真コンテスト作品応募要項です。

 

第57回愛媛マラソン写真コンテスト作品応募要項です。

 

 

第57回愛媛マラソン写真コンテスト事務局から私に届いた入選の連絡通知状。

 

 

第57回愛媛マラソン写真コンテスト入賞・入選作品展示会場の伊予銀行本店です。

 

 

伊予銀行本店界隈の風景です。
周辺には、愛媛県庁舎、松山市役所庁舎、日本銀行松山支店があります。
市電軌道には、最新の市電と夏目漱石が乗った坊ちゃん列車が走行しています。

 

 日本銀行松山支店前にある三番町の街並みで、街路樹の桜が満開でした。

市内で二番目に長い街並み、松山市役所・日本銀行松山支店・中央郵便局・各銀行・旅行代理店・証券会社、等々のオフィス街である。

ここには街路樹プラタナスがあったが、老朽化のため平成16年松山市が老木化したプラタナスに変えて市民の要望により、里桜の一種「一葉・イチヨウ」と「関山・カンザン」を310本植栽した。

 

伊予銀行本店北側には、国道を挟んで松山城外堀があります。
132mの勝山の山頂には現存12天守の一つ、松山城天守を見る事が出来る。

平成27年開催の第53回愛媛マラソン大会のポスターで、愛媛マラソン写真コンテストで入選した写真を取り混ぜて作成したポスターで、私の写真も採用して頂きました。

 

 

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松山城本丸とソメイヨシノ桜散策

2019年04月08日 | 伊予松山歴史散策

伊予松山城本丸ソメイヨシノ桜8分咲き

画像は、俳優で画家の榎木孝明さんが一番好きな伊予松山城の風景で、重厚な石垣の奥に天守、手前に太鼓櫓が迫ってきます。
これからの画像は、4月4日、伊予松山城本丸太鼓門前のソメイヨシノ桜が開花終了後伐採されると聞き、最後の雄姿を画像で記録しておこうと行ってきました。

その時に本丸の様子をカメラに収めその時の画像で、桜は7分咲きでした。
松山市のソメイヨシノ桜の開花予想は3月25日であったが、22日に開花したと松山地方気象台は開花宣言をしました。今年の冬は暖冬であったので開花が早まるのではないかと予想されていましたが、開花時期急に気温が下がり開花が遅れました。

松山城本丸は標高132mあり、街の桜とは少し開花・満開が遅くなります。
4月7日の松山の桜開花状況は、湯築城跡(道後公園)の桜は満開、松山城の桜は8分咲きと報じられました。

ロープウェイ山頂駅舎から登城すると、一番最初に見えてくる国指定重要文化財の戸無門です。

日本の城郭の中でも戸がない城門は珍しい造りです。

戸無門をくぐると本丸で一番大きな筒井門があり、その前にあるソメイヨシノ桜が出迎えてくれます。

筒井門を通して見た光景。

筒井門は松山城本丸で一番古い城門でしたが残念な事に昭和24年狂人の放火で焼失し、昭和45年復元に着手、同46年3月竣工しました復元された門です。

筒井門をくぐると、隠門続櫓前広場にでます。
ここの桜も綺麗に咲き誇ります。
画像左の建物が太鼓門でその右の建造物が巽櫓です。
両方の建物も松山大空襲で焼失し、太鼓門は昭和47年に、巽櫓は昭和61年に復元しました。

次にくぐる門が、太鼓門です。

この門の前にあるソメイヨシノ桜が開花が終わると伐採処分される問題の桜です。

太鼓門内から見た開花が終わると伐採処分されるソメイヨシノ桜です。

太鼓門をくぐるといよいよ伊予松山城本丸広場(標高132m)で、天守が見えてきます。

伊予松山城天守は、現存12天守の一つで藩政時代に創建された一番新しい天守です。

観光に来られたご夫婦、三脚にカメラをセットして最高のアングルで記念撮影。
奥さんはなかなかの腕前の様子、いいカメラを使っていました。

この日(4月4日)は、花見客はそんなに多くはなかったが、4月6日・7日、本丸広場は大変な人出となる事でしょう。天気予報は晴天、桜は満開予想が出ています。
7日は松お城まつり最終日です。

伊予松山城山公園の桜は、日本さくら名所100選の一つです。

日本さくら名所100選、平成2年4月7日に公益財団法人日本さくらの会の創立25周年記念として選定、建設省、運輸省、環境庁、林野庁、全国知事会、財団法人国際花と緑の博覧会の後援によって行われたもので、各都道府県から最低1か所を選ぶなど、9つの選定基準によって選ばれました。

中央に天守、左が小天守(昭和43年復元)右が一ノ門南櫓(国指定重要文化財)で現存12天守の内、唯一瓦に徳川家の葵の紋が付されています。

小天守は、昭和8年7月9日、放火により焼失、昭和43年松山城復元計画が企画され年次計画的に行われた。

昭和43年5月小天守が復元され竣工祭りが行われました。これが切っ掛けとなり、翌年から松山お城まつりとなり現在に至っています。

なお、伊予松山城本丸復元工事は、平成2年太鼓門西塀の復元をもって計画整備事業は終了しました。

国指定重要文化財、紫竹門をくぐると、小天守・多門櫓・南隅櫓の下にでます。

ここにも大きなソメイヨシノ桜があります。

南隅櫓の下には立派な算木済み石垣が綺麗に見える所で、そしてソメイヨシノ桜があります。

10代目 坂東 三津五郎さん日本の俳優、歌舞伎役者で、日本の城に精通しておられました。

「日本国内で行ったことのない城は、ひとつかふたつだけ」城好きが買われてBS朝日で日本の名城を案内する自身の番組を持っていました。
最後の放映となった城が伊予松山でした。

坂東三津五郎さんが一番好きであった風景が画像の所から見る伊予松山城でした。

場所は、乾門から出たところからみた風景、屏風折れの石垣とその上に建つ続塀、櫓と小天守の一部を見る事が出来ます。
撮影は午後の順光で撮るのがベスト。

再び乾門から本丸に入ると、本壇の相横矢掛かりの石垣とその上に建つ北隅櫓と十間廊下・南隅櫓が見えます。

隠門続櫓門の一部と石垣が見えます。

坂の上の雲の主人公の一人「秋山眞之」が幼少時代に登った石垣です。

伊予松山城本丸から見た南方(土佐・高知県方向)松山の城下町です。

松山市の人口は、平成31年3月1現在、人口:510,208人 1世帯平均:2,17人の街であります。

 

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伊予松山城本丸・太鼓門前のソメイヨシノ桜が撤去

2019年04月05日 | 伊予松山歴史散策

伐採される、伊予松山城本丸・太鼓門前のソメイヨシノ桜(平成31年3月24日撮影)

 誰が誰のためにおこしたのか大東亜戦争は、無条件降伏で昭和20年8月15日、終戦を迎えた。
国民はただ黙って歯を食いしばり荊の道を歩み復興に努力し、記念に全国各地にソメイヨシノ桜が植えられてきた。
そのソメイヨシノ桜が天寿を迎えようとしている。

この度、伊予松山城本丸にある太鼓門前のソメイヨシノ桜が伐採撤去されることになった。
撤去されるソメイヨシノ桜は、松山大空襲、昭和20年7月26日午後11時08分に始まり翌27日午前1時13分頃まで約2時間余りB29、120機の爆撃で投下された焼夷弾896トン(米軍資料による)で一夜にして松山の街は焼け野原と化した。

松山城は攻撃から外されていたそうだが誤って焼夷弾が投下された。
その一つの焼夷弾が、国宝であった太鼓門に投下され焼失した。
昭和47年創建当時の設計図に基づき復元され、その記念に太鼓門前にソメイヨシノ桜を植えた。
松山城本丸には沢山の桜があるが、筒井門・太鼓門・紫竹門各門の前にあるソメイヨシノ桜が松山城本丸3大桜である。

 松山城本丸の一翼を担ってきた太鼓門前のソメイヨシノ桜、平成時代最後の輝きを見せた。残念に令和の新時代を迎えることが出来なかった。

松山は、本日4月4日から松山お城まつりが始まった。

画像の様に除去の説明が掲示してある。

伐採の理由は、ソメイヨシノ桜の樹勢が弱り倒木のおそれがあり観光に来られた方々に怪我が出ることを恐れての撤去である。

樹木調査中とある。

樹の中はかなり厳しく腐食が進行している。
何らかの理由で枝を切り、切り口に腐朽菌防止剤を塗らなかったので腐れ込みが進行したのでは?これは管理不行き届きで短命となったのでは?です。

切り口には、墨汁を塗布するといいようです。
切り口から雨が入って雑菌などで腐るのを防止するためだと思います。
桜は特に腐朽菌によります枝条の腐れ込みが激しいのです・・とある。

倒木防止の支えぎが施されている。

倒木防止の支えぎが年毎増えた。

平成最後となる花芽は開花寸前であった(平成31年3月24日撮影)

太鼓門内側から見たソメイヨシノ桜で、太鼓門は昭和10年5月13日、国宝に指定されたが、昭和20年7月26日、サイパン・イスレイ飛行場の米軍第73爆撃団所属の空飛ぶ要塞、B-29、120機が飛来し焼夷弾が投下され松山の城下町は一夜にして焼け野原と化した。米軍の資料によると896トンの焼夷弾を投下とある。
但し、松山城は攻撃から外されていたそうだが誤って焼夷弾が投下され太鼓門は焼失した。

現在の太鼓門は、昭和47年創建当時の設計図に基き復元された。その時にソメイヨシノ桜を記念に植栽したのでは?そうであれば樹齢47年老木になるには早すぎる。手入れが行き届かず、病魔に侵されたのか??残念である。

 

3年前の太鼓門前のソメイヨシノ桜。沢山の花を開花させ観光客を出迎えた。

平成23年から松山城照明灯を水銀灯からLEDに変更工事を行い消費電力の削減を計画、同年4月からLEDに変更し松山城ライトアップイベント「光の城」ではLEDによる初めての4色のライトアップを可能にした。LEDでのライトアップは、愛媛県内で松山城が初めてであった。

毎年、8月13日・14日お盆で故郷に帰郷した方、県外から観光に来られた方々をお迎えするお持て成しの心を篭めて松山のシンボル「松山城」本丸にある天守をはじめ櫓・城門・石垣に照明をあてて光の城として松山城に観光に来られた皆さんに楽しんで頂く特別企画を本丸広場で行われている。
太鼓門前のソメイヨシノ桜にも電飾が取り付けられた。

平成24年4月6日撮影の太鼓門前のソメイヨシノ桜、何時ものように花を咲かせた。

平成31年3月30日撮影の太鼓門前のソメイヨシノ桜で満開には少し時間がかかる。
松山城は最近外国人の観光客が増えた。

昨日、平成31年4月4日、撮影の太鼓門前のソメイヨシノ桜で8分咲きであった。

昨日、平成31年4月4日、撮影の太鼓門前のソメイヨシノ桜。

3年前と比べると樹勢が弱り花の付きが少ない。
元号も改元され最後の輝きを見せる伊予松山城本丸・太鼓門前のソメイヨシノ桜。

今季花が散ると伐採される太鼓門前のソメイヨシノ桜、観光に来られた観光客、記念に写真を撮っていた。昨日、4月4日撮影。

今季花が散ると伐採される太鼓門前のソメイヨシノ桜アップで撮ってみました。

これからは青森県弘前市、弘前城のソメイヨシノ桜を紹介する。
平成20年5月9日伺い、弘前市観光協会所属の弘前城観光ガイドさんに紹介して頂いた。
右の方がガイドさんで、松山から来るとの事で一番詳しいガイドさんが付いて案内して頂いた。
この時既に天守は傾いていた。

弘前城のソメイヨシノ桜の説明板で、日本最古のソメイヨシノ桜、樹齢137年、私が伺った時は、平成20年5月9日だから樹齢127年の時撮影です。

弘前城には樹齢100年を超すソメイヨシノ桜が300本以上ありその一つに樹齢137年のソメイヨシノ桜が元気で育っている。

今年樹齢137年の弘前城のソメイヨシノ桜。
撮影は、平成20年5月9日で、桜祭りは大混雑するので祭りが終わってから伺いました。桜は葉桜でしたが弘前城のソメイヨシノ桜は元気でした。
弘前城のソメイヨシノ桜は樹木医が管理をしていていた。

東京では、寿命が短く病気に弱いソメイヨシノ桜に代わり、公益財団法人日本花の会では、平成21年からソメイヨシノの苗木の販売・頒布を中止し、替わって、てんぐ巣病に強く、開花時期が近く花がソメイヨシノに類似するジンダイアケボノへの植え替えを推奨しているそうです。

神代曙(ジンダイアケボノ)染井吉野(ソメイヨシノ)と同じ親のオオシマザクラとエドヒガンの交配種で、花は中輪、一重咲きで淡紅色。開花期は4月上旬。花弁に部分的に濃いピンク色がのこる姿が素敵です。

神代曙(ジンダイアケボノ)は、東京 調布市の神代植物公園で生まれ、西田尚道氏が東京都調布市(神代植物公園)にあった個体から発見した品種で、各部にエドヒガンの特徴が見られ染井吉野(ソメイヨシノ)の代わりに植えることを推奨されているのが、この”神代曙(ジンダイアケボノ)”です。・・とある。

東京国立劇場のジンダイアケボノ桜。

昭和8年、今上天皇が皇太子として御生誕されたことを祝し、そのころ「大学町」と呼ばれていた現在の大学通りの住民たちが「国立町会」という会を結束し、昭和9年から翌年にかけて大学通りの両側の緑地帯へ、当時の谷保村の青年団と一緒に桜の木々を植樹したのが始まり。

それから86年を経た今年、「平成」の時代がそろそろ終焉を迎えようとしていますが、くにたちの大学通りの桜は今年も美しい花々を咲かせているが、平成26年頃から183本に内33本をジンダイアケボノ桜に植え替えたとTVで放映された。

その内ソメイヨシノ桜に代わって、ジンダイアケボノ桜になっていくのでしょうか?
桜の植え替えは、苗木の植え替えでなく桜は連作が出来ないので、先ず土壌の入れ替えから行わなければならず大変な作業と費用がかかるとの事です。

平成最後の松山お城まつりは、4月4日(木曜日)~4月7日(日)まで開催される。

 

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