松山市には菅原道真縁の神社が二つある。
一つは、松山市北久米町(松山城南高等学校正門左、星岡古戦場跡の一番北側の丘に社がある「辰岡天満宮」とこれから訪ねる「履脱天満宮」である。
道真は、4年間の讃岐(現、香川県)での国司の任期を終え京に戻り、宇多天皇の後ろ盾で右大臣となり、左大臣の藤原時平と肩を並べる政治の最高位まで上り詰めた。
時平は、これを妬み道真を大宰府に左遷した。
左遷の理由は、「醍醐天皇を引退させ、自分の娘を嫁がせた斉世親王を皇位につかせようとした」といういい加減な、言い掛かりが理由だった。
これから訪ねる履脱天満宮は、都から大宰府に向かう間の言い伝えがある神社である。
5月1から元号が改元され「令和」となり、令和の
令和の意味は、
春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人ひとりが明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたいとの願いを込め、決定した。
出典は万葉集の「梅花の歌」から。万葉集5巻に収録されています。
日経新聞(平成31年4月2日号)より引用
「初春の令月(れいげつ)にして、氣淑(きよ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香を薫す。」
日本の四季折々の文化を、次の世代に引き継ぐという思いが込められた「令和」。
これを機に、万葉集を読みたくなり万葉集5巻が売り切れになり大変な人気だそうです!!
そして太宰府政庁の長官だった大伴旅人の邸宅で開かれた梅花の宴、これを人形で再現している大宰府展示館が見学者で大混雑とか!今年のGWは大勢の人々が大宰府を訪れるのではないでしょうか。そして大宰府と言えば菅原道真公で、これから訪れる履脱天満宮は、菅原道真縁の神社である。
1.碑 文: 履脱天満宮
2.所 在 地: 松山市久保田町58番地
3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者: 久保田
5.建立年月日: 明治44年 6月
6.碑石大きさ: 高さ・1m68㎝ 横幅・84㎝ 厚み・24cm
石碑の由来:菅原道真が901年大宰府に左遷される際、暴風のため遭難して愛媛県越智郡桜井
の浜に漂着、陸路当地に参着し御履を脱ぎ暫し休まれたので履脱天満宮という由緒ある神社であ
る。
居心地がよかったのかつい長居(3年間)をしてしまい、都から蔵人頭三位中将紀久朝が勅使と
して来られ、長居をした道真に早く九州に赴くように伝えに来た。
道真は、浜から船を出し大宰府に向かう折、見送る里の人達に「今でるよ」と声を掛けたので、
西垣生の浜を今出と呼ぶのだと言う。
秋山好古揮毫した石碑裏面には、「養水記念・一色義房君 明治四十四年六月 當中」と記載がある。
もう一つの履脱天満宮の社号碑。
石碑向かって左側面に揮毫者の名前が書かれている。
正二位 菅原勝成 謹書 と揮毫されている。
菅原勝成とは、伊予松山15万石藩主・松平(久松)勝成の事で、菅原道真を祖とする故敢えて菅原姓で揮毫した。(菅原勝成は、松平勝成の事で、伊予松山藩15万石、第14代城主である。)
伊予松山藩主松平(久松)家の祖先は菅原道真であり簡単にその関係を述べておく。
延喜元年(901)菅原道真は、大宰府に流され、その時一族は安古居(あごい)(愛知県知多郡阿久比町)に同じように流された。
道真の死後宇多上皇は、道真は無実であったとして許し、遺族を京都に戻した。
道真の長男、高規(たかのり)は喜んで京都に帰ったが、その子雅(まさ)規(のり)は、9歳の時から安古居に住み、良くなじんでいるからと言って父について帰らず住み付き、後に地頭守護職になった。
この雅規の幼名が「久松丸」であった。
雅規の後、14代目の定道が菅原姓を捨てて、久松姓を名乗りこれが久松姓の起こりである。
愛知県知多郡阿久比町には、「久松家発祥の地」の石碑が建立されている。
建立者は、松平勝(かつ)成(しげ)(伊予松山城主第14代・(久松定謨(さだこと)の祖父)である。履脱天満宮の社号碑を揮毫した菅原勝成の事である。
次に、久松家と松平家について
三河国の松平(徳川)家康は、永禄9年(1566年)、朝廷から従五位下・三河守の叙任を受け、同時に許可を受け「徳川」に改姓した。
伊予松山三代目城主、松平定行の父は、久松定勝で母は伝通院(於大の方)、伝通院は、初め松平広忠に嫁ぎ松平家康を生んだ。
伝通院の実家は、尾張国刈屋城主、水野忠政の娘で、兄の水野信元は、松平広忠の反対派であった織田信長方につき、広忠は怒り伝通院を離縁させた。
17歳であった伝通院は、その後久松俊勝と再婚して久松定勝が誕生した。
定勝は、家康と異父同母弟で、定勝の次男・定行が伊予松山三代目城主、松平(久松)定行である。
定行は、徳川家康より、家門に准じて松平氏の称号と三つ葉葵を賜い明治維新まで松平姓を名乗った。明治新政府は、伊予松山の松平の姓を旧姓の久松氏に復するように指令し即日これを実施した。
現在、東京都港区の済海寺にある、伊予松山15万石藩主久松家東京の菩提寺から松山市の久松家の菩提寺大林寺に墓を移転する事で大きな話題となっている。(末尾に新聞記事掲載)
履脱天満宮の正面には画像の様に二つの履脱天満宮の社号碑が建立されている。
菅原道真公が亡くなって 1000年の記念事業として、明治36年に九州の太宰府になぞらえて拝殿前に一段と高いところに「一千年祭碑」が建立されている。
揮毫者は、大宰府 宮小路 康文・太宰府天満宮の神職家である。
松山市久保田町58番地にある履脱天満宮の長い参道で、菅原道真公が亡くなって 1000年の記念事業として、明治36年に九州の太宰府になぞらえて松並木や池が作られたそうだ。
この神社は、松山空港の東1.5km程の辺り、田園風景の中に住宅地も見えると言った辺りに鎮座している。
長い参道を歩くと境内に入る。
境内には松山市教育委員会設置の履脱天満宮の謂れが表記されている。
奥に進むと履脱天満宮の拝殿があり、その前には紅白の梅の花が開花していた。
履脱天満宮は長保元年(999年)に一条天皇が社殿を建立し、道真を祀って履脱天満宮と称したとされ、永正元年(1504年)には豪族・河野通篤が土地を寄進、江戸時代になって、松山藩主松平家が社殿を再建し、代々の藩主が参拝して祖先神として厚く敬ったとされている。
「履脱」の由来は、道真が今治を出て陸路で大宰府に向かう途中、歩き疲れて靴を脱ぎ、その場所でくつろいだことが名前の由来とされている。
結局、道真はこの場所が気に入り、その後3年間も留まることになり、都ではあまりにも逗留の長い道真に対して、大宰府に向かうように促したと言われている。
このように今治と松山の天満宮は道真伝説による深いご縁で繋がっていた。
さらに両宮を庇護した藩主(松平家、久松家)の祖先が菅原道真本人にたどりつくことも興味深い歴史である。
拝殿内部には、済美高等学校美術部の生徒が制作した大きな絵馬が奉納されている。
拝殿前から見た参道で、拝殿前には菅原道真が愛した梅の木が植えられ開花していた。
拝殿前に、勅使橋の人湯とされている大きな石が展示してある。
写真は勅使(ちょくし)橋で、道真がこの地に逗留し過ぎたことで都から「大宰府に赴任を促す目的で」勅使が派遣され、その勅使を迎えた橋がこの勅使橋で、元々この橋は現在地よりも西側にある洗地川に架かっていたものを昭和62年に天満宮に移設、保存されている。当時の洗地川は狭い小川であったことから、この石橋で十分な役目を果たしていたようです。
勅使橋の説明板が設置してある。
履脱天満宮の境内には、安楽寺も同居している。
安楽寺にある11面観音(一木造り立像)は文科省総合調査の際認められ平安朝の作として愛媛県指定の文化財となっている。
安楽寺は長保元年(999)創建といわれる。
安楽寺の本堂で、その奥が庫裏である。
境内には、菅原道真が滞在中「星占い」をしたという松山七不思議のひとつ「占い池」がある。
画像はその池である。
境内には寒桜と紅梅が満開状態であった。
今年の冬は温暖であったので開花が例年よりも早まったようだ。
北久米町の辰岡天満宮で、松山城南高等学校正門左に参道があり、星岡古戦場跡の一番北側の丘に社がある。
道真公は、今治市の桜井から陸路現在の松山市に移動、途中我が家の近くにある辰岡天満宮(松山市北久米町)で休息、その時の石が保存されている。
北久米町の辰岡天満宮に立ち寄られ一時の休息をされ、石に腰を掛けられて疲れた身体を癒されたと言う伝説の石「菅原公御腰掛石」の記念石碑が辰岡天満宮本殿横に建立されている。
菅原道真縁の今治市桜井にある綱敷天満宮。
社伝によると、菅原道真が大宰府へ左遷される途中、燧灘の桜井海岸沖で嵐に遭ったが、現宮司(菅氏)の祖先である広川修善と里人に助けられて志島ヶ浦に辿り着き、急なことで敷物が無く、漁網を敷いて敷物の代わりとしたことから「綱敷」の社名が付いたとされる。
鮮魚を里人に献上されるなどの厚意に感じた道真は梶柄に自像を刻み「私は菅原道真である。もし私が無事帰洛できたなら、この像を証拠として都を訪ねなさい。私が配地で没したと耳にしたなら、この像を素波神(そばがみ)と称し祀るように」と述べたとある。
綱敷天満宮境内・・奥が本殿。
嵐に遭遇し志島ヶ浦にたどり着き、濡れた衣服を乾かしたと言われる岩「衣干岩」。
東京都港区三田にある済海寺は、伊予松山藩15万石の藩主であった松平家(久松)第2代目から15代目の藩主と妻子の墓が49基あり、墓を発掘調査し松山市の久松家の菩提寺である、大林寺に改葬する作業をしている。
大林寺は、松山市味酒町一丁目にあり、松山藩第2代藩主、蒲生忠知が創設した寺で、見樹院と称していたが蒲生家断
絶のあと、第3代藩主松平定行が松平家(久松)の菩提寺として大林寺と改めその後松平家(久松)の菩提寺となった。
蒲生忠知の墓は松山市末広町の興聖寺に移された。興聖寺には、赤穂浪士の大高源吾と木村岡右衛門の介錯をした宮原久太夫が二人の供養のため宮原久太夫の菩提寺である同寺に二人の供養のため両士の墓を建立した。
毎年同寺で義士祭が行われている。
東京都港区三田にあった松山藩江戸屋敷は現在イタリア大使館で、赤穂浪士が吉良邸に討ち入り後大石主税以下9名が切腹したところである。
伊予松山歴代藩主江戸から松山にお国入り。
松山義士祭のポスター。
毎年12月14日松山義士祭が開催されている。
大高源吾、木村岡右衛門の切腹を介錯した松山藩士、宮原久太夫が両名の遺髪を藩主の許しを得て、松山市末広町にある宮原家の菩提寺、興聖寺(こうしょうじ)に二人の墓を建立し納め供養したのが事の始まりで、昭和39年、両名と宮原の供養と地元の発展を願って、興聖寺史跡顕彰会が発足し、同年12月14日第1回松山義士祭が挙行され現在では松山の師走の風物詩として継続されていている。
イタリア大使館の庭は、当時のままで、平成27年赤穂市の大石神社の宮司を招き浪士の慰霊祭が実施されたそうです。「忠臣蔵に思いを馳せる」人は日本人だけではない様です。
イタリア大使館の庭に建立されている記念碑。
江戸時代の伊予松山藩江戸中屋敷(現、イタリア大使館)、伊予松山藩主第4代松平定直の時代、大きな出来事があった。
記念碑には、大石主税以下浪士の名前と介錯人の名前まで刻まれている。
大石主税の介錯人は、羽賀清太夫で、禄は15石3人扶持、身分は、寄合大小姓とある。
ともあれ、石碑の建立は、流石にイタリア大使館、何時の時代の大使が建立したのか立派な事をされた。