EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

第72回国民体育大会・えひめ国体、開幕2日前の様子

2017年09月29日 | 伊予松山歴史散策

国体は、広く国民の間にスポーツを普及し、スポーツ精神を高揚して国民の健康増進と体力の向上を図り、併せて地域のスポーツの振興と、スポーツ施設の充実、文化の発展に寄与するとともに、国民生活を明るく豊かにしようとするものです。・・と国民体育大会の趣旨がある。

昭和28年、愛媛県単独開催に名乗りを挙げたが、四国四県共同開催となり、それから64年が経過、第72回国民体育大会・えひめ国体が単独開催で、天皇皇后両陛下のご臨席の下開催される。

開催に際し、愛媛県民総参加、地域をあげて選手や観客をお持て成しで、全国から訪れる人々との交流を通し地域の活性化を期待して開催されます。

本県が昔から大切に受け継いで来た、四国遍路88ヶ所巡礼文化によって培われた「お接待」の心で、来県される皆さまをお持て成しします。

昨日、(9月28日)開会式、閉会式と各種陸上競技種目が行われる、愛媛県総合運動公園陸上競技場と松山市総合運動公園に行ってみました。各所担当係の職員は最後の点検に追われていた。

開会式の行われる9月30日の天気予報は、快晴と予報されている。

開会式・閉会式・陸上競技が行われる愛媛県総合運動公園陸上競技場入口ゲート。

会場入口のメインゲートも飾り付けが完備されていた。

会期は、平成29年9月30日(土)から10月10日(火)・スローガン:「君は風 石鎚を駆け 瀬戸に舞え」。

ゲートに「ニンジニア・スタジアム」と記載されているが、これは呼称で、正式名は「愛媛県総合運動公園陸上競技場」である。

愛媛県伊予市に本社を置くニンジニアネットワークが命名権を取得しており、平成20年3月から「ニンジニアスタジアム」(略称「ニンスタ」)の呼称を用いている。愛媛FCのホームグランドでもある。

愛媛県総合運動公園陸上競技場は、昭和55年に開かれた全国高等学校総合体育大会(インターハイ)のメイン会場として整備された施設である。

会場では、最後の点検が綿密に行われていた。

この会場で、天皇皇后陛下をお迎えして9月30日、えひめ国体の開会式が行われる。

天皇皇后両陛下のご臨席は特に入念に検収をしていた。

天皇皇后両陛下の御来県行幸は24年振りで、9月29日・金曜日から10月1日・日曜日まで行幸になられます。

電光掲示板もテスト。

TVカメラもアングルを確かめながら機器の点検をしていた。

聖火台も新調されていた。(仮設の聖火台で大会終了後は撤去される。)

観覧席に上がる階段には画像の様な愛媛をイメージしたカラフルなあしらいがしてあった。

競技場周辺の案内図。

第72回国民体育大会・えひめ国体を支援する企業の一覧が掲示してあった。

次に、高校野球・剣道・柔道・テニスが行われる松山市総合運動公園に行ってみた。

画像は、高校野球(硬式)が行われる松山中央公園野球場(愛称・坊っちゃんスタジアム)。

国際規格で建設された坊っちゃんスタジアム。

収容能力:30,000人(内野:約20,000席、外野:約10,000席)内野スタンドは2階建。

球場規模:グランド面積・14,300平方メートル。

両翼:99.1 m・中堅:122 m。フェンスの高さ4,9m、

愛媛マンダリンパイレーツは、この坊っちゃんスタジアムを本拠地として使用している。

坊っちゃんスタジアムには画像の掲示板が掲げてあった。

坊っちゃんスタジアムの一角に、平成27年、東京ヤクルトスワローズセントラルリーグ優勝記念の石碑が建立してあった。・・毎年、坊っちゃんスタジアムで秋季キャンプを行い、東京ヤクルトの準フランチャイズ球場的になっている。

正岡子規の記念碑と近藤兵太郎の顕彰碑が建立してある。

正岡子規が明治29年に詠んだ句で「草茂み ベースボールの 道白し」

そして近藤兵太郎は、松山商業の初代監督を務め、台湾野球の基盤をつくり、嘉義農林学校野球部監督に就任、第17回全国大会に出場して準優勝、春夏5回甲子園に出場「天下の嘉農」と称された。その後新田高等学校野球部初代監督を務めたその顕彰碑が建立してある。

平成14年7月13日、四国で初めてのプロ野球オールスター戦が、松山市の坊っちゃんスタジアムで開催された。

第2戦、5回終了後に特別な行事が行われた。

正岡子規の野球殿堂入りの式典である。試合開始前なら理解できるが、試合途中である。子規はそれだけ大きな功績を果たした結果の証であった。

この年は、松山城築城400年・正岡子規没後100年・四国で初めてのプロ野球オールスター戦、色んな特別な行事が行われた年での殿堂入りであった。

 

剣道・柔道・スポーツチャンバラが行われる愛媛県武道場、名誉館長に山下泰裕さんが就任しています。

建物は、愛媛県産の木材を利用して出来た木造建築です。

会場内には、地元の中学生がデザインした各都道府県の歓迎「のぼり旗」が設置してあった。

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64年振り道後温泉に新しく「飛鳥乃湯泉」が誕生

2017年09月26日 | 伊予松山歴史散策

平成29年9月26日午前7時に開館した「飛鳥乃湯泉」の銘板で、揮毫は奈良法隆寺管長、大野玄妙さんです。

 64年前、昭和28年第8回国民体育大会を愛媛県単独開催として名乗りを挙げたが、四国四県の県議会正副議長会議で、四県共同で開催する四国開催となった。

その時、道後温泉本館の別館「椿の湯」が開かれた。

西暦596年、聖徳太子の来浴や661年斉明天皇の行幸等伝説があり、椿が生い茂っている当時の温泉郷の見事な光景を、まるで天寿国にいるようであると讃えた聖徳太子の言葉に起源をもち椿の湯とその名が付けられた。

それから64年経過した今年、第72回国民体育大会が愛媛国体として9月30日開会する。

そして、「飛鳥乃湯泉」が9月26日午前7時に開湯された。

飛鳥乃湯泉の命名は、聖徳太子の来浴の伝説が残る日本最古の温泉にふさわしく、聖徳太子といえば法隆寺、飛鳥時代の象徴である建築様式を取り入れ、飛鳥乃湯泉と名を付けることになったそうです。

飛鳥乃湯泉の内部に使われている作品は、愛媛県内の伝統工芸が各所にあしらわれており、本館が100年後の道後地区の発展の根源として創られたもので、まさにその通りとして発展してきている。今回の飛鳥乃湯泉は、此れから100年間輝き続ける松山の観光の基盤となる所にしたいという思惑である。

飛鳥乃湯泉の建設は、第72回国民体育大会・第17回全国障害者スポーツ大会終了後から本館耐震補強工事が行われますが、その代わりの道後温泉別館湯屋としての役割を果たすものです。

正面玄関には、奈良法隆寺の大野玄妙管長が揮毫した「飛鳥乃湯泉」の銘板が掲げてある。

外観は、歴史のある飛鳥時代の建築様式、内部は全国に誇る愛媛の伝統工芸士の作品展示といった博物館の中で入浴する感じの贅沢な温泉湯である。

画像は、開館した本日(9月26日)撮影しました。

入浴券を購入し中に入ると広い玄関になっている。

開館した初日に入浴を楽しもうと来ていた。

飛鳥乃湯泉の外回りは画像の様に未だ工事中で、完成は12月中旬との事。

右側の建屋が昭和28年開湯した「椿の湯」で、此れから3ヵ月休館して改装工事にかかるそうです。

昭和28年開湯した「椿の湯」で、飛鳥乃湯泉はその横にある。

湯屋は、飛鳥時代の建築様式を取り入れ、最上部には、道後温泉の象徴である振鷺閣を法隆寺の夢殿を模した八角形円塔とし、その上部には道後温泉シンボルの鷺を挙げ、瓦には、道後温泉もう一つのシンボル「湯玉」を書き入れてある。そして新しいシンボルとなる大棟の両端には「鴟尾」がつけられている。

飛鳥乃湯泉の新しいシンボル大棟の両端には「鴟尾」がつけられている。

飛鳥乃湯泉には、露天風呂場造られ、その一角に「菊間瓦で造られた、行灯」がある。

鴟尾と行灯を製作した、瓦職人鬼師・今治市菊間町の、菊銀製瓦の菊池春香さんで、菊銀製瓦第3代目鬼師、全国の女性鬼師は珍しく若い瓦職人鬼師である。

飛鳥乃湯泉のシンボル「白鷺と鴟尾と湯玉」新しいシンボルが大棟の両端には若い瓦職人鬼師、菊池春香さんが製作した「鴟尾」がある。

男性用浴槽で湯釜の後ろには、砥部焼の陶板で製作した愛媛の名峰「石鎚山」が設置してある。

女性用浴槽で湯釜の後ろには、砥部焼の陶板で製作した「瀬戸内海を描いた」壁画が設置してある。作者は、砥部焼の女性陶芸士である。

本館には無い、露天風呂が造られた。

本館にある皇室専用の浴室「又新殿」を模して造られた特別室の浴槽。

飛鳥乃湯泉の洗い場。

本館2階にある大広間同様に、飛鳥乃湯泉にも造られ60畳敷きの休憩大広間。

飛鳥乃湯泉に入浴され大広間で、お茶を頂きくつろぐ観光客、初日の入浴を計画され県外からも来られていた。

入浴後に持て成される、飛鳥乃湯泉特別のお菓子とお茶で、お菓子を乗せる「銘々皿」湯吞を乗せる「茶托」は、今治市桜井の名産、桜井漆器、湯吞は砥部町の名産、砥部焼の作品で作者は、浴槽に使われている砥部焼の陶板を製作した女性陶芸家、山田ひろみさんの作品です。

飛鳥乃湯泉の入浴料金表。

飛鳥乃湯泉が画像の様に広場が完成するのは、12月中旬頃だそうです。

 

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今年も咲きました秋の花・松山市窪野町北谷の彼岸花群生地

2017年09月21日 | 伊予松山歴史散策

四国で一番と噂のある、松山市窪野町北谷地区にある「彼岸花」の群生地で、今年も秋の花が咲きました。

この地は、官有地で許可を得て彼岸花の球根を移植し、その後地元住民たちが支援して大切に管理育成し、雑草も取り除き鑑賞する通路にはロープを張り環境を整えて管理している。

群生地には、28年前に染井吉野桜も植栽され56本あった。面積は、3ヘクタール位あるそうだ。

この地区には、四国88ヶ所第46番札所・浄瑠璃寺、第47番札所八坂寺があり、45番札所・岩屋寺(上浮穴郡久万高原町)から巡礼する遍路道がある。昨年は、逆打ちで空海弘法大師様に巡り会えたという伝説が残る60年に一度の丙申にもあたることから、お遍路さんにとって“特別の年”と言われ例年になく逆打ちお遍路さんが多かった。

 昨日、(9月20日)松山市窪野町北谷地区にある「彼岸花」群生地の撮影&鑑賞に行ってみると蕾が多く開花は8割であった。昨年は、9月26日、に行ったが花は既に散っていた。今年は、23日頃が見頃になると思う。

私は、今年で7年目になるが、毎年花が少なくなっている。手入れが追い付かないのか、気象条件のためか?です。

松山市内から鑑賞に来ていたご夫婦は、何時もこの時期に来ます。楽しみにしていますと言っておられた。

彼岸花群生地区は、非常に珍しく愛媛県ではこの地だけではないでしょうか、県外からも鑑賞に来られる有名な所となった。

「彼岸花」の群生地の上に一遍上人が修行をした窪寺跡の石碑がある。一遍上人は、時宗の開祖で鎌倉時代の僧侶である。

画像は、9月20日、撮った松山市窪野町北谷の彼岸花です。

窪野町北谷の彼岸花を撮りだしてから今年で7年目になりますが、毎年花が少なくなっています。

しかし、一面に広がる、赤のじゅうたんは壮大、最初に行った時は、此れは凄いなと驚いた。四国一と言っても過言でないと私は思います。

何といっても、地元の方々が皆さんに綺麗な彼岸花を鑑賞してもらおうと、管理育成に努力している事を忘れずに有難く鑑賞したいものです。四国88ヶ所第46番札所・浄瑠璃寺、第47番札所八坂寺のある地区、お接待お持て成しの心の表れでしょうか。ご苦労様です。

 先日、私のブログに松山市窪野町北谷の彼岸花群生地に行きたいのですが、道順を教えて下さいとありましたのでご案内します。

一級河川、重信川に掛かる橋「久谷大橋」を目標に、橋を渡り道は、県道207号線、三坂、松山線を、道なりに直進、途中右側に、松山市役所久谷支所がありますが、直進し約2km程走行すると、伊予鉄バスの「丹波バス停」がります。此処を左に折れると約2,5km先に群生地があります。バス停前に案内版があり、途中にも案内板があります。バスは、便数が少なく、バス停からなだらかな坂道を約3km歩きますので車で行ってください。アサヒ動物霊園の直ぐ下です。

駐車場は無く邪魔にならない様に路上駐車です。

 伊予鉄バス、丹波バス停前にある地元の方が掲げている案内板があります。

 県道207号線の表示板です。

 見頃は9月23日ころです。

群生地には、小さな川があり、先日の台風18号の豪雨で、山肌に保水された水が勢いよく流れていた。

花をアップにして撮ってみました。

松山市内から来たご婦人曰く・・来るのが少し早かったです。残念・・と会話をしながら周囲の花々を鑑賞していた。殆どの皆さんはカメラ持参での鑑賞です。

彼岸花の花言葉の一つに「また会う日を楽しみに」がありますが、また来年会いましょう、お元気にと言って群生地を後にする方も居られました。

 

松山に関係した俳人が彼岸花を詠んだ句があった。

曼珠沙華落暉も蘂をひろげけり  中村草田男

なかなか死ねない彼岸花咲く  種田山頭火  

群生地に「御霊木・一遍上人の欅」と揮毫された石碑が建立してあった。

夫婦で来られたご主人は真剣にアングルを定めシャッターを押していた。

松山市内の介護センターから彼岸花鑑賞に来ていました。

 窪野町彼岸花群生地区周辺の農地の畔には、彼岸花が沢山咲いている。

群生地手前1,5Km地点にあるヒガンバナ群生地の案内板。

一遍上人生誕750年・没後700年の記念事業として記念碑が群生地に建立されている。

一遍上人は、時宗の開祖で、延応元年(1239)伊予国の豪族、河野通広の第2子として生まれ、幼名は松寿丸。生まれたのは愛媛県松山市道後温泉の奥にある宝厳寺の一角といわれ、元弘4年(1334)に同族得能通綱によって「一遍上人御誕生舊跡」の石碑が建てられている。本家の河野氏は、承久3年(1221)の承久の乱で宮方について祖父の河野道信が陸奥国に配流されるなどして没落し、一遍が生まれた頃にはかつての勢いを失っていた。河野一族の極楽往生を願い全国遊行を行っていたが、父の死をきっかけに還俗して伊予に帰る。しかし一族の所領争いなどが原因で、文永8年(1271)32歳で再び出家、信濃の善光寺や伊予国の窪寺、同国の岩屋寺で修行する。窪寺は、一遍上人成道の地として極めて重要な所である。

道後温泉近くにある、湯築城が、伊予国守護、河野氏の城跡である。

昨日行ってみると工事をしていた。

9月17日、台風18号の影響で群生地にも画像の様な土砂崩れが起こっていた。

 

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伊予松山城本丸に咲く秋の花「ツルボ」

2017年09月19日 | 伊予松山歴史散策

大型台風18号は、水不足であった、伊予松山に恵みの雨をもたらせて、足早に駆け抜けた。

9月30日にから開幕する第72回国民体育大会は、64年振りに松山市を中心に開催されますが、水不足で悩んでいました。18号台風で解決、受け入れ態勢万全となりましたので是非松山にお越しください。

さて、秋のこの時期になると、伊予松山城本丸に咲きだす「ツルボ・蔓穂」の花があります。

松山城本丸には、現存する21棟の建造物「国指定重要文化財」を見ていると見落としてしまう「ひっそりと、控え目に」に咲く花です。

昨日(18日)台風一過松山は、快晴の天候となり、今年も写真を撮りに行って来ました。

シルバーウィーク最後の休日、県外からお城観光を楽しむ大勢の方がカメラ持参で、132m山頂にある本丸を、そして天守を取り巻く本壇天守群をカメラに収めていました。

歴女・城ガールもおられました。男性よりも女性の方が多かったです。

遠くは岩手県から来られ、いいカメラで撮られていた方に伊予松山城の撮影スポットを紹介させて頂きました。

さて、「ツルボ・蔓穂」の花ですが、余り目立たない花で何気なく咲き品の有る花です。

4年前にブログに掲載し、私は植物の知識がなくこの花の名前が分かりません。伊予松山城には打って付けの花だと思います。・・と書きましたら直ぐにブログを見て頂いた方から、この花は「ツルボ・蔓穂」ですよと教えて下さいました。

それ以来忘れることなく毎年9月この時期に写真を撮りに行っております。

現在松山城は、本壇の下、東から北側にかけて工事を行っており一周出来ませんので東・北側の、「ツルボ・蔓穂」の花を見る事が出来ません。

昨年は、ツルボと彼岸花が寄り添うように咲き、そこにアゲハ蝶が飛んで来た珍しい光景を撮る事が出来ましたが、今年はその場所にはツルボも彼岸花も咲いてなかったです。

 

ツルボの花を探していると、昨年は咲いてなかった彼岸花が咲いておりました。

場所は、乾櫓前です。

奥の塀は、乾門西塀で、紅白の彼岸花です。

松山城本丸に咲く彼岸花は、今年はここだけです。

白の彼岸花をアップで撮りました。

乾門を出ると素晴らしい松山城の風景が現れます。・・一昨年逝去された坂東三津五郎さんが一番お好きであった風景です。

本丸を屏風折れの石垣(横矢掛り)で構築、その上に乾門東続櫓から乾門東続櫓東折曲塀、その上に小天守を望む景観、石垣が描く扇状の曲線美と、その上にそびえる壮麗な城郭、これも松山城の魅力の一つです。また乾門は、本丸本壇の裏鬼門に当たる方位でもあります。

昨日、岩手県から来られた方と、若い歴女の城ガール二組に案内しました。此れは素晴らしい風景だと言われ沢山の画像をカメラに収められていました。皆さん一眼レフのいいカメラをお持ちでした。

素晴らしい松山城の風景の所に一輪のツルボが咲いておりました。

本壇天守群の建造物、南隅櫓と小天守です。

本壇天守群の建造物、南隅櫓と小天守の石垣にもツルボが咲いておりました。

石垣の間には、水分が少なく肥沃な土も少ない状態でよく咲く花だなと感心しながらシャッターを押しました。

此れから本壇に入ってみましょう。本丸広場までは自由に観光できますが、本壇に入るには入城料が必要となります。

伊予松山城の入城料は、大人510円、小人150円です。

伊予松山城、大天守・小天守の瓦には、徳川家の葵の御紋が付いています。

現存する天守では伊予松山城のみですので、松山城に来られて時にはご覧ください。

伊予松山城第3代藩主、松平定行が、徳川家康の甥にあたり、本姓は「久松」ですが、家康の指示で松平姓を使い葵の御紋を使えと指示された。明治維新以降は、新政府の指示で本姓である、久松に帰り家紋は星梅鉢に返した。久松家の祖先は、菅原道真公である。

久松家と菅原道真公との関係はまたの機会にブログに書きます。

本壇には、一カ所しか咲かない場所があります。

場所は、一ノ門東塀の前です。此処は毎年咲きます。

一ノ門東塀の前で、奥の白く四角に見えるのは、鉄砲狭間です。

昨日は、快晴で伊予松山の城下がよく見えましたので撮ってみました。

伊予松山15万石の城下です。現在松山市の人口は、516000人です。

昨日は、本丸で一番大きな城門「筒井門」の二人の甲冑を身に着けて武士が立ちはだかり、観光客を持て成していました。ようこそ松山城へ・・一緒に記念写真をどうぞ・・と。

筒井門を下ると、伊予松山城の「隘路」にさしかかります。

隘路から見る、高石垣と太鼓櫓、その奥に大天守が見えます。

俳優、鹿児島県出身の、榎木孝明が一番お好きな、伊予松山城の風景です。

ツルボはこの石垣の上に咲いておりました。

まさに、NHKドラマになった坂の上の雲です。

ドラマで、秋山眞之(淳さんと)正岡子規(升さん)が駆け上がってくる場面がありますが、その場所は画像左側の石垣の下で撮影されました。

榎木孝明が一番お好きな、伊予松山城の風景で、ツルボはこの石垣の上に咲いておりました。

隘路を左に折れると、秋山眞之が幼少時代、友達たちとよく遊んだ松山城、正岡子規も眞之とよく遊んだ友達の一人でした。眞之はガキ大将で、ある時眞之(当時は、淳五郎で、淳さんと呼ばれていた。)今日は松山城には近道をして行くぞと言った。すると淳さん道は一つしかないぞな?どんなにして行くんぞなと・・すると淳は、今日はこの石垣を登って行くぞと言って、登らすも子供達は、恐ろしく途中までは登るが登れない、わしらだけに登らせずに淳さんが登って見せてくれと言った。淳はよく見ておけと言いはなすと、懐から樫の棒2本を取り出し、此れを使い登り切ったそうです。画像はその石垣です。登りきると筒井門の前に出ます。

画像の櫓は、隠門続櫓です。

ガキ大将、眞之(当時は、淳五郎で、淳さんと呼ばれていた。)が登った石垣にもツルボが咲いていました。

ガキ大将、眞之(当時は、淳五郎で、淳さんと呼ばれていた。)が登った石垣にもツルボが咲いていました。

伊予松山城観光に来られた方々は、あまり気付かづに城を下りられますが、画像の様な電波塔があります。

この電波塔は、

昭和32年5月29日、NHK松山放送総合テレビジョン開局。

昭和33年12月1日、RNB南海放送標準テレビジョン放送開局。

昭和37年6月1日、NHK松山放送局教育テレビジョン開局。

昭和44年3月1日、NHK松山放送局FMラジオ放送開局に伴い文化庁の許可を得て国指定史跡公園内に電波塔を建設した。史跡公園内なので文化庁の指示に従い電波塔の色は周囲の景観に配慮し緑色に塗装されている。電波塔は、東京タワーよりも一年早く建設され、建設に従事した職人さんは、松山の電波塔を建設し東京タワー建設に従事した。

現在電波塔からは、NHK松山放送局FMラジオ放送と防災に関する電波が発信されている。

 

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EEK紀行・画像で回顧 現存12天守 4 国宝犬山城天守

2017年09月17日 | 伊予松山歴史散策

平成19年11月19日に伺った。

登城口には、国宝犬山城と揮毫された大きな記念碑が建立してあった。

記念碑の建立は、平成16年4月1日、財団法人犬山城白帝文庫が設立され、それを記念して建立され、揮毫は、成瀬淳子理事長さんです。

さて、犬山城天守は、松本城、彦根城、姫路城、松江城と並ぶ国宝5城の一つで、別名「白帝城」と言われている。天文6年(1537)に織田信康によって、木之下城から城郭を移築して作られたと伝えられ、元和3年(1617)に成瀬正成が入城して以降は、成瀬家が代々城主を務め、日本で唯一個人所有の城として保存されてきたが、平成16年、「財団法人犬山城白帝文庫」を設立その所有となり、平成25年4月1日付けで、公益財団法人犬山城白帝文庫に移行している。

天守は、初期望楼型3層4階地下2階の構造で、高欄(廻縁)がある。天守最上階からは、木曽川や濃尾平野が一望出来、丸岡城天守と共に最古の天守と言われている。

最近、歴史女子「歴女・城ガール」と呼ばれる女性は、登城記念の御朱印を受けながら名城巡りを楽しむ城ガールが増えて来た。伊予松山城でも女性の城愛好者が大勢やって来る。

但し、登城記念の御朱印が受けられる城は限られている。

犬山城天守は、昭和10年、国宝に指定されたが、昭和25年5月30日、重要文化財保護法が制定され、昭和27年3月29日、第44号目の国宝に再指定された。昭和40年、解体修理が行われ、全国唯一の個人所有の城として保存されてきたが、平成16年4月1日、財団法人犬山城白帝文庫が設立され、財団法人の所有となり、平成25年4月1日付けで公益財団法人犬山城白帝文庫へ移行、理事長は、成瀬淳子氏で現在に至っている。

公益財団法人犬山城白帝文庫の事務所前を通り登城すると、犬山城の大きな櫓門(鉄門)が見えて来る。

鉄門を潜ると犬山城の沿革説明版が掲示してある。

日本100名城のスタンプは、鉄門にある管理事務所に私が伺った時は置いてあった。

鉄門を潜ると、本丸広場に出る。伺った平成19年11月19日は、日本晴れの快晴で青空を背景に素晴らしい天守を撮る事が出来た。

天守の高さは約24mとか19mとか18mとか資料によると天守の高さが異なって表記されている。24mの場合は天守台5mを含み、19mと表記してあるものは、天守台は含まれてない数値か?。

天守の高さに付いてはいろんな書籍により数値がバラバラでどれが本当なのかはっきりしない。

本丸から見た天守で、構造は、複合型初期望楼3層4階地階2階、築城年は、文明元年(1469)、元和6年(1620)改築とある。

城は、織田信秀(信長の父)の弟である信康が天文6年(1537)に今の天守のある丘続きの三光寺山に築城したのが始まりで、信長の美濃攻略や小牧長久手の戦いの舞台となり、慶長5年(1600)に入城した石川光吉により今の犬山城の規模となった。

元和3年(1617)に尾張徳川家の付家老、成瀬正成が城主となり、名古屋城の支城となった。・・と資料にある。

天守付櫓の横にある築城当時からあると言われる杉の老木で、枯れる前は、天守と同じ位の高さがあり、落雷には天守の身代わりに、台風には風よけになり、自然災害から城を守る御神木として大切に崇められてきたが昭和40年その役目を果たし枯れてしまった。・・と説明版に記載されている。

犬山城天守の御神木「大杉様」の説明版。

犬山城の天守は、地下に出入口があり、1階部分、南東角に付櫓を持つ、複合式と呼ばれる造りで、付櫓とは天守とつながっている櫓のことで、敵兵が侵入しそうな時に側面から攻撃を加えるための、この付櫓は明治24年(1891)の濃尾地震で壊れたが、のちに復元されたとある。

 

地階天守入口。

天守の階段、現存12天守の階段はどれも急勾配である。

昭和27年3月29日、犬山城天守国宝指定書が天守内に掲示してある。

 

財団法人「白帝文庫」賛助会員芳名一覧が掲示してあった。

 

 

天守内部に掲示してある、藩政時代の各大名の配置とその石高一覧表。

犬山城天守「解体骨組み模型」。

犬山城天守の模型。

 

天守内には、上段の間がある。広さは12畳敷きで床の間と床棚が設けられていて、これは籠城戦の際、城主の居所となる場所だそうです。

天守最上階は、赤い絨毯が敷き詰めてあった。

天守から見た本丸広場。

天守最上階には、回廊(廻り縁)があり、木曽川上流を眺める。架かる橋は「犬山橋」。

石垣は全て野面積みであった。

木曽川南岸の崖にそびえる天守で、高さ88mの城山に現存最古と言われる天守が聳え、木曽川が天然の要塞となっている。

ライトアップされた犬山城天守で、別名白帝城と言い、中国の李白の詩になぞらえ、荻生徂徠が命名したそうです。

平成29年8月12日午後5時ごろ、国宝犬山城の、天守北側にある鯱の尾の部分などが落雷の衝撃で破損したとTVで放映された。

画像右側が北側の鯱である。天守棟等々に見える導線が避雷針で、避雷針が設置してあったので最小の被害で収まったのでは?

 

 

 

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