EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

今年私が一番感動したこと

2014年12月29日 | 伊予松山歴史散策
平成26年も師走を迎え残すところ2日となりました。
今年、私が一番感激した事は、秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」が新潟市民文化顕彰に認定された事であります。
平成17年1月19日、松山市歩行町に秋山兄弟生誕地が再建開館され、同年5月5日、大阪からお越しになった熱烈な秋山好古を尊敬する方が来られ、好古揮毫について尋ねられましたが、関係者は誰も知らなかったのです。
この事に付いて烈火のごとく激怒されました。これが切っ掛けとなり私は、好古揮毫の石碑調査を専任で開始しました。
来年5月が来ると10年になります。石碑の数は51基(内訳は、新潟県2基、東京都1基、千葉県1基、神奈川県1基、静岡県1基、愛媛県45基)であります。
私のブログのタイトルが「鍾馗さんと名城巡り&好古揮毫石碑紀行」と長たらしい件名です。
さて、好古揮毫石碑の中、平成22年3月17日新潟市江南区沢海(北方文化博物館隣の日枝神社)に建立されている事を北方文化博物館理事、神田勝郎氏から連絡を受け取材に行きました。私にとって初めての新潟訪問でした。何故好古揮毫の石碑が新潟市にあるのか大きな疑問でありましたが、調べてみるとその由来が判明した。・・由来は割愛します・・
一昨年、新潟市は、全国三番目となる、新潟市民文化顕彰が制定され、今年5月、秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」が新潟市民文化顕彰に認定され驚きました。そして嬉しく感激いたしました。
認定された大きな理由は、「忠魂碑」の前で今でも慰霊祭をしてお国の為に戦死された英霊をお祀りし、それを後継者に継承しているその行為に対しての顕彰に値すると選考員の先生方が判断されたのだと私個人的に考えとおります。
以前掲載しました画像と重複しますが初めて新潟市に伺った時から、地元紙等々を順番に掲載したいと思いますのでご覧下さい。

註:昭和20年11月、連合軍最高司令官、マッカーサー元帥通達が発令されました。その一つに、教育施設内に軍人が揮毫した石碑や扁額は撤去せよとの通達が出され多くの石碑が撤去されました。好古揮毫の石碑も撤去されましたが心ある人達、勇気ある人達は建立場所を変えて再建立され現在も存続しております。
その一つが、松山市立清水小学校にありました石碑「天壌無窮」は撤去され用具室にありましたが、愛媛県護国神社の宮司さんが、同境内に平成7年再建立されました。
もう一件は、愛媛県立某高校職員室にあった、好古揮毫の扁額「研精不倦」です。校長先生は自宅に保管し、昭和27年サンフランシスコ講和条約締結後再び職員室に掲示したそうです。現在も扁額は掲げてあります。
マッカーサー元帥通達に恐れ戦き撤去され廃棄された石碑は沢山あったと思います。


平成22年3月17日、初めて新潟市を訪れ秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」と対面、石碑の情報と建立の経緯を調べて頂いた、北方文化博物館理事の神田さんです。


揮毫は、秋山好古が第13師団長として大正2年に新潟県高田に赴任していたときに、横越村の村長さんが新潟県知事、伊澤知事さんに忠魂を揮毫して頂きたくお願いし、伊澤知事が好古さんにお願いしたそうです。伊澤知事は、奇しくも前任地が愛媛県で知事をしており、好古さんは、伊澤知事さんを「私の郷里愛媛県で財政を立て直した有能な知事であるので新潟県でもいい仕事をすると思いますと」新潟県民に紹介しております。


平成23年9月5日、二回目の新潟市訪問で、北方文化博物館理事の神田さんが、博物館で講演をされました。私は、車で松山から伺いましたその時撮りました。翌日は慰霊祭に参列させて頂きました


新潟市江南区横越地区の遺族会の皆さんは現在も忠魂碑の前で毎年慰霊祭をされております。私も平成22年9月6日の慰霊祭に参列させて頂きました。


平成23年9月5日、北方文化博物館理事の神田さんが、博物館で講演されました。演題は、「秋山好古と新潟の人々」でした。その時の司会進行をされました、北方文化博物館専務理事の佐藤さんです。
北方文化博物館は、連合軍極東最高司令官、マッカーサー元帥が、日本で戦後初めて許可して開館された私立の北方文化博物館で由緒ある博物館であります。司馬遼太郎さんも来館され絶賛されました。講演会には、私も参列させて頂きました。伊藤文吉館長さんが、愛媛県松山から車で来られましたと聴講者に紹介をして頂きました。


調査段階では、日本海側には好古揮毫の石碑は発見されてなかったので、新潟日報新聞は大きく記事として掲載してくれました。


北方文化博物館で講演された「秋山好古と新潟の人々」は好評で神田さんは書籍として刊行されました。


今年5月に、秋山好古揮毫石碑「忠魂碑」が新潟市民文化顕彰に認定され、新潟日報新聞は159認定された文化顕彰を代表として大きく写真入りで報道されました。


新潟市民文化顕彰に認定された、好古揮毫石碑「忠魂碑」深い雪の中に佇む。
写真は、北方文化博物館専務理事の佐藤さん提供。


新潟市民文化顕彰に認定された、好古揮毫石碑「忠魂碑」深い雪の中に佇む。
写真は、北方文化博物館専務理事の佐藤さん提供。


今年5月に、秋山好古揮毫石碑「忠魂碑」が新潟市民文化顕彰に認定され、新潟日報新聞は159認定された文化顕彰を代表として大きく写真入りで報道され新潟市民は承知されましたが、愛媛松山市民はこの事に付いては知る由もなく、愛媛新聞にお願いして記事にして頂きました。


私が平成17年5月から調査をして来ました集大成として、秋山好古生誕153年記念として「秋山好古揮毫の石碑写真集」を刊行いたしました。初版を平成21年1月7日に、改訂版として第2版を平成23年12月1日発行いたしました。なお、「秋山好古揮毫の石碑写真集」は、国立国会図書館、愛媛県立図書館、松山市立図書館、新潟県立図書館、新潟市立図書館、千葉県習志野市立図書館に納本させて頂きました。


平成23年6月8日、神田さんが刊行された「秋山好古と新潟の人々」出版お祝いを北方文化博物館で行われ私も参加いたしました。・・三回目の新潟市訪問です。挨拶をされる神田氏、その左は、北方文化博物館、伊藤館長さん。


出版お祝いの翌日(平成23年6月9日)早朝、忠魂碑を撮りました。


平成23年5月に新潟県警の職員さんから、秋山好古揮毫の石碑が魚沼市堀之内に建立されていますと連絡頂きました。但し見たのは中越地震前なので地震で倒壊していると思われます。・・とあった。直ぐ神田さんに調査依頼をしました。倒壊したが全国の皆様からの義援金の一部を充当して再建立しました。と連絡を頂いた。


神田さんが刊行された「秋山好古と新潟の人々」出版お祝いの翌日、魚沼市に取材に行きました。松山から取材に来ると言う事で、地元の方々が駆け付けてくれました。魚沼市役所の職員さん後日説明板を設置します。・・でした。


取材に新潟日報の記者さんが来てくれ新聞に掲載してくれました。


魚沼市役所の職員さん後日説明板を設置します・・約束通り説明板設置。


平成24年10月29日、四度目の新潟市訪問で、秋山兄弟生誕地の研究員研修目的で伺い、私が引率して行きました。秋山兄弟生誕地の研究員達が神田さんの説明を真剣に聞き入っていました。


秋山兄弟生誕地研究員研修の夜、北方文化博物館、伊藤館長を囲んでの懇親会。


翌日、平成24年10月30日、新発田城見学、記念に堀部安兵衛の銅像の前で。


10月30日午後3時北方文化博物館、好古揮毫石碑の見分を終え新潟市を後に、夕方上野に到着、東京スカイツリーをバックにして。10月31日は、次の研修の地習志野市を伺った。


昭和3年、松山市立清水小学校開校記念及び昭和天皇即位の御大典を記念して、先生方が醵金して石碑を建立した。揮毫は秋山好古陸軍大将がしました。好古は当時松山北豫中学校長をしておりました。昭和20年11月、連合軍最高司令官、マッカーサー元帥通達が発令されました。その一つに、教育施設内に軍人が揮毫した石碑や扁額は撤去せよとの通達が出され、石碑は撤去されました。石碑が割れているのは、撤去作業で割れました。暫く清水小学校用具室に保管されておりましたが、これを見た愛媛県護国神社、波爾宮司さんが神社境内に再建立されました。


この扁額もマッカーサー元帥通達により、撤去された扁額です。愛媛県立某高等学校職員室にあった、好古揮毫の扁額「研精而不倦」です。校長先生は自宅に保管し、昭和27年サンフランシスコ講和条約締結後、日本の主権が回復され、再び職員室に掲示、現在も掲げてあります。平成25年8月、許可を得て撮影しました。

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飛行機雲の乱舞

2014年12月27日 | 伊予松山歴史散策
今日の松山は、今季最低の気温で0,4度であった。猛烈な寒気団が松山上空まで南下して来た。地上は一面大霜で、午後から気温11度まで上がり過ごしやすい年の瀬であった。
ふと空を見上げると快晴の青空を沢山の航空機が飛んでいる。松山空港から離陸した羽田、成田、関空、伊丹、中部行からその反対から飛んでくる飛行機が何と多い事、田舎の松山の空を多くの飛行機が飛んでいる事を始めて知った。
時間は、午前9時40分から10時30分頃が一番多い。上空高く飛んでいる飛行機は、九州の大分、熊本、長崎間を飛ぶ航空機であろう。
今日飛行機が良く見えたのは、快晴でその上冷え込んでいたため飛行機のゼットエンジンから噴出される熱い噴射されるガスが冷たい空気に触れて出来る飛行機雲の乱舞であった。
年末故郷に帰る皆さん沢山の御土産を持っての帰郷であろうと、地上からカメラ片手に行きかう飛行機を暫し見ていた。















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道後温泉本館改築120周年本館ライトアップ

2014年12月24日 | 伊予松山歴史散策
道後温泉本館改築120年周年記念祭「道後オンセナート2014」の最後を飾る行事が12月5日から始まった。本館や周辺に発行ダイオード(LED)照明が冬の温泉街を鮮やかに彩り観光客たちを楽しませている。
ライトアップは午後5時から10時まで実施。8日から25日間は、夜のオンセナート作品群を鑑賞するガイドツアーを案内所「振鷺亭」で、日~木曜日は午後7時から、金・土曜日と祝日は午後8時15分から受け付けて、行ってきたがいよいよ明日で終了する。
今年訪れた道後温泉入浴客は過去最大で、道後温泉本館改築120年周年記念行事と、四国霊場88ヶ所開祖1200年記念とが重なり観光客が増えたのではないか。
画像は、23日気温も高かったので撮影に行った。祝日でもあり多くの鑑賞者
が道後温泉北側をLED照明で5色によるお色直し、次々と色を変える道後温泉本館を楽しんでいた。また本館を霧で包む「霧の彫刻」には変身する姿に大喝采。これも明日で終了する。
今回の画像には説明を付けないので、七変化する道後温泉本館を見てみて下さい。
なお本館改築は明治27年完成で、翌28年に夏目漱石が、松山中学の教師として赴任、毎日通ったこの道後温泉である。
そして、道後温泉本館を建築した大工さんは、松山城(現在の天守・安政元年完成)天守を建築した、坂本文次郎宮大工が手掛けたので現在まで持ちこたえているのである。


ライトアップされる前の道後温泉本館。


午後5時にLEDによる照明でライトアップ開始。




道後温泉本館の「霧の彫刻」。




LED照明で、七変化する道後温泉本館。


















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一遍上人生誕地 宝厳寺 再建鍬入れ式 工事始まる

2014年12月23日 | 伊予松山歴史散策
昨年8月10日、午後2時過ぎ不審火で全焼した時宗の開祖、一遍上人誕生の寺、宝厳寺本堂、庫裏等々が焼失した。
昨日(22日)、松山市道後湯之町の時宗の開祖一遍上人誕生の地縁の宝厳寺で再建「宝厳寺造営」の鍬入れ式が関係者一同集い、地元選出の国会議員、塩崎労働大臣も多忙の中時間を割いて式に参列され厳かに行われ再建工事が始まった。
焼失した国指定重要文化財「木造一遍上人立像」の復元像等、一遍上人に関する資料展示をする、顕彰施設「一遍上堂」も併設される。完成は、平成28年3月予定。
宝厳寺(ほうごんじ)は愛媛県松山市道後湯月町にある時宗の寺院で、時宗開祖一遍の生誕地。山号は豊国山。寺号は詳しくは豊国山遍照院宝厳寺と称する。愛媛県指定史跡である。
寺伝では天智天皇4年(665年)、越智守興が誓願院として創建したという。平安時代中期、天台宗寺院となる。往時は松ヶ枝町一帯に12の支院があったという。
正応5年(1292年)、寺は時宗の祖・一遍の弟にあたる仙阿によって再興され、時宗に改宗し、時宗十二派のうちの奥谷派本山となった。一遍は延応元年(1239年)、この寺の一角で誕生したとされている。一遍は、伊予の守護、河野通信の第3子で、河野通広として誕生、その生涯は国宝『一遍聖絵』(一遍上人絵伝)があますところなく伝えられている。時宗の総本山は、神奈川県藤沢市の遊行寺(清浄光寺)である。寺紋は、河野氏の家紋と同じ、折敷に三文字である。


宝厳寺で再建「宝厳寺造営」の鍬入れ式表示板。


鍬入れ式式次第。


昨年10月亡くなった長岡前住職の後継者として、川崎玄倫・新住職、広島県尾道市の海徳寺住職(宝厳寺住職を兼務)が読経を上げ工事の安全を祈った。


川崎玄倫・新住職、広島県尾道市の海徳寺住職(宝厳寺住職を兼務)が読経上げる。


鍬入れ式の祭壇。


工事の安全を祈願して関係者による鍬入れの儀。


塩崎労働大臣の挨拶。


此れからの再建工事を地元報道関係者に説明する宝厳寺檀家代表者。


焼失した歴史ある宝厳寺を再建するポスター。


再建される宝厳寺の完成予定図。


焼失前の宝厳寺の本堂。


平成25年8月10日、私が松山城観光ガイドの途中天守最上階(160m)から撮った宝厳寺の火災の煙。
宝厳寺は、道後温泉本館の直ぐ近くにある。


平成25年8月10日、私が松山城観光ガイドの途中撮った宝厳寺の火災、この時既に本堂の屋根は焼け落ちていた。本堂にあった国指定重要文化財・一遍上人立像が焼失した。


平成25年8月11日付けの地元紙「愛媛新聞一面の記事」


平成25年8月11日付けの地元紙「愛媛新聞の記事」


神奈川県藤沢市にある、一遍上人が開いた、時宗の総本山、清浄光寺(しょうじょうこうじ)で、藤沢山無量光院清浄光寺と号す。近世になって法主(ほっす)・藤沢上人と遊行上人が同一上人であるため遊行寺(ゆぎょうじ)の通称の方が知られている。藤沢道場ともいう。


寺の東側にある県道30号の坂は道場坂(遊行寺坂)と呼ばれ、箱根駅伝では8区後半の難所として知られる。


以上3枚の画像は、時宗の総本山、清浄光寺(遊行寺)で、近知人から頂いたので掲載した。境内には大きな樹があるそうだ。


平成27年1月3日、箱根駅伝TV画像より引用しました・・遊行寺。
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松山義士祭 9 終 伊予松山藩江戸中屋敷のいま

2014年12月22日 | 伊予松山歴史散策
松山義士祭の関係について書いて来たが、最後は、伊予松山藩江戸中屋敷の現在はどうなっているのかを見て終わりにする。
その前に、江戸末期伊予松山藩は親藩であったため、幕府の命により長州征伐の先鋒隊として攻め込み、第二次長州征伐も参戦、その為、維新後新政府から朝敵とされ、制裁金15万両を課せられた。松山藩は15万両の大金を調達するに大変な苦労をした。その為江戸屋敷を手放したとか?
元禄16年2月4日、大石主税以下10名の赤穂義士が伊予松山藩江戸中屋敷で切腹した。
現在、伊予松山藩江戸中屋敷は、イタリア大使館となっており、大使館内に赤穂義士が切腹した事件の記念の石碑が建立されている。
私も是非とも石碑を見たいが、特別の要人でないと大使館に入れない。
それが一度だけNHKのカメラが入り放映された。それはブラタモリの番組であった。ここに掲示する画像は、その時放映されたTV画像を撮ったものである。


江戸時代の伊予松山藩江戸中屋敷で、松平隠岐守と記載されている所である。伊予松山藩主、松平定直の時代で、松平松山藩第4代目の時代の出来事であった。松平定直(万治3年・1660~享保5年・1720)61歳没 、定直42歳の時の大きな出来事であった。


イタリア大使館の表札。


イタリア大使館の庭に立派な大きな記念石碑があるそうだ。


石碑に書かれている文字、大石主税の文字と介錯人の名前まで刻まれている。
大石主税の介錯人は、羽賀清太夫で、禄は15石3人扶持、身分は、寄合大小姓とある。
ともあれ、石碑の建立は、流石にイタリア大使館で、何時の時代の大使が建立したのか立派な事をされた。
一時期、三国同盟をした国家だけの事はあり、アッパレである。一度見れるものなら見てみたい。

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