平成26年も師走を迎え残すところ2日となりました。
今年、私が一番感激した事は、秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」が新潟市民文化顕彰に認定された事であります。
平成17年1月19日、松山市歩行町に秋山兄弟生誕地が再建開館され、同年5月5日、大阪からお越しになった熱烈な秋山好古を尊敬する方が来られ、好古揮毫について尋ねられましたが、関係者は誰も知らなかったのです。
この事に付いて烈火のごとく激怒されました。これが切っ掛けとなり私は、好古揮毫の石碑調査を専任で開始しました。
来年5月が来ると10年になります。石碑の数は51基(内訳は、新潟県2基、東京都1基、千葉県1基、神奈川県1基、静岡県1基、愛媛県45基)であります。
私のブログのタイトルが「鍾馗さんと名城巡り&好古揮毫石碑紀行」と長たらしい件名です。
さて、好古揮毫石碑の中、平成22年3月17日新潟市江南区沢海(北方文化博物館隣の日枝神社)に建立されている事を北方文化博物館理事、神田勝郎氏から連絡を受け取材に行きました。私にとって初めての新潟訪問でした。何故好古揮毫の石碑が新潟市にあるのか大きな疑問でありましたが、調べてみるとその由来が判明した。・・由来は割愛します・・
一昨年、新潟市は、全国三番目となる、新潟市民文化顕彰が制定され、今年5月、秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」が新潟市民文化顕彰に認定され驚きました。そして嬉しく感激いたしました。
認定された大きな理由は、「忠魂碑」の前で今でも慰霊祭をしてお国の為に戦死された英霊をお祀りし、それを後継者に継承しているその行為に対しての顕彰に値すると選考員の先生方が判断されたのだと私個人的に考えとおります。
以前掲載しました画像と重複しますが初めて新潟市に伺った時から、地元紙等々を順番に掲載したいと思いますのでご覧下さい。
註:昭和20年11月、連合軍最高司令官、マッカーサー元帥通達が発令されました。その一つに、教育施設内に軍人が揮毫した石碑や扁額は撤去せよとの通達が出され多くの石碑が撤去されました。好古揮毫の石碑も撤去されましたが心ある人達、勇気ある人達は建立場所を変えて再建立され現在も存続しております。
その一つが、松山市立清水小学校にありました石碑「天壌無窮」は撤去され用具室にありましたが、愛媛県護国神社の宮司さんが、同境内に平成7年再建立されました。
もう一件は、愛媛県立某高校職員室にあった、好古揮毫の扁額「研精不倦」です。校長先生は自宅に保管し、昭和27年サンフランシスコ講和条約締結後再び職員室に掲示したそうです。現在も扁額は掲げてあります。
マッカーサー元帥通達に恐れ戦き撤去され廃棄された石碑は沢山あったと思います。
平成22年3月17日、初めて新潟市を訪れ秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」と対面、石碑の情報と建立の経緯を調べて頂いた、北方文化博物館理事の神田さんです。
揮毫は、秋山好古が第13師団長として大正2年に新潟県高田に赴任していたときに、横越村の村長さんが新潟県知事、伊澤知事さんに忠魂を揮毫して頂きたくお願いし、伊澤知事が好古さんにお願いしたそうです。伊澤知事は、奇しくも前任地が愛媛県で知事をしており、好古さんは、伊澤知事さんを「私の郷里愛媛県で財政を立て直した有能な知事であるので新潟県でもいい仕事をすると思いますと」新潟県民に紹介しております。
平成23年9月5日、二回目の新潟市訪問で、北方文化博物館理事の神田さんが、博物館で講演をされました。私は、車で松山から伺いましたその時撮りました。翌日は慰霊祭に参列させて頂きました
新潟市江南区横越地区の遺族会の皆さんは現在も忠魂碑の前で毎年慰霊祭をされております。私も平成22年9月6日の慰霊祭に参列させて頂きました。
平成23年9月5日、北方文化博物館理事の神田さんが、博物館で講演されました。演題は、「秋山好古と新潟の人々」でした。その時の司会進行をされました、北方文化博物館専務理事の佐藤さんです。
北方文化博物館は、連合軍極東最高司令官、マッカーサー元帥が、日本で戦後初めて許可して開館された私立の北方文化博物館で由緒ある博物館であります。司馬遼太郎さんも来館され絶賛されました。講演会には、私も参列させて頂きました。伊藤文吉館長さんが、愛媛県松山から車で来られましたと聴講者に紹介をして頂きました。
調査段階では、日本海側には好古揮毫の石碑は発見されてなかったので、新潟日報新聞は大きく記事として掲載してくれました。
北方文化博物館で講演された「秋山好古と新潟の人々」は好評で神田さんは書籍として刊行されました。
今年5月に、秋山好古揮毫石碑「忠魂碑」が新潟市民文化顕彰に認定され、新潟日報新聞は159認定された文化顕彰を代表として大きく写真入りで報道されました。
新潟市民文化顕彰に認定された、好古揮毫石碑「忠魂碑」深い雪の中に佇む。
写真は、北方文化博物館専務理事の佐藤さん提供。
新潟市民文化顕彰に認定された、好古揮毫石碑「忠魂碑」深い雪の中に佇む。
写真は、北方文化博物館専務理事の佐藤さん提供。
今年5月に、秋山好古揮毫石碑「忠魂碑」が新潟市民文化顕彰に認定され、新潟日報新聞は159認定された文化顕彰を代表として大きく写真入りで報道され新潟市民は承知されましたが、愛媛松山市民はこの事に付いては知る由もなく、愛媛新聞にお願いして記事にして頂きました。
私が平成17年5月から調査をして来ました集大成として、秋山好古生誕153年記念として「秋山好古揮毫の石碑写真集」を刊行いたしました。初版を平成21年1月7日に、改訂版として第2版を平成23年12月1日発行いたしました。なお、「秋山好古揮毫の石碑写真集」は、国立国会図書館、愛媛県立図書館、松山市立図書館、新潟県立図書館、新潟市立図書館、千葉県習志野市立図書館に納本させて頂きました。
平成23年6月8日、神田さんが刊行された「秋山好古と新潟の人々」出版お祝いを北方文化博物館で行われ私も参加いたしました。・・三回目の新潟市訪問です。挨拶をされる神田氏、その左は、北方文化博物館、伊藤館長さん。
出版お祝いの翌日(平成23年6月9日)早朝、忠魂碑を撮りました。
平成23年5月に新潟県警の職員さんから、秋山好古揮毫の石碑が魚沼市堀之内に建立されていますと連絡頂きました。但し見たのは中越地震前なので地震で倒壊していると思われます。・・とあった。直ぐ神田さんに調査依頼をしました。倒壊したが全国の皆様からの義援金の一部を充当して再建立しました。と連絡を頂いた。
神田さんが刊行された「秋山好古と新潟の人々」出版お祝いの翌日、魚沼市に取材に行きました。松山から取材に来ると言う事で、地元の方々が駆け付けてくれました。魚沼市役所の職員さん後日説明板を設置します。・・でした。
取材に新潟日報の記者さんが来てくれ新聞に掲載してくれました。
魚沼市役所の職員さん後日説明板を設置します・・約束通り説明板設置。
平成24年10月29日、四度目の新潟市訪問で、秋山兄弟生誕地の研究員研修目的で伺い、私が引率して行きました。秋山兄弟生誕地の研究員達が神田さんの説明を真剣に聞き入っていました。
秋山兄弟生誕地研究員研修の夜、北方文化博物館、伊藤館長を囲んでの懇親会。
翌日、平成24年10月30日、新発田城見学、記念に堀部安兵衛の銅像の前で。
10月30日午後3時北方文化博物館、好古揮毫石碑の見分を終え新潟市を後に、夕方上野に到着、東京スカイツリーをバックにして。10月31日は、次の研修の地習志野市を伺った。
昭和3年、松山市立清水小学校開校記念及び昭和天皇即位の御大典を記念して、先生方が醵金して石碑を建立した。揮毫は秋山好古陸軍大将がしました。好古は当時松山北豫中学校長をしておりました。昭和20年11月、連合軍最高司令官、マッカーサー元帥通達が発令されました。その一つに、教育施設内に軍人が揮毫した石碑や扁額は撤去せよとの通達が出され、石碑は撤去されました。石碑が割れているのは、撤去作業で割れました。暫く清水小学校用具室に保管されておりましたが、これを見た愛媛県護国神社、波爾宮司さんが神社境内に再建立されました。
この扁額もマッカーサー元帥通達により、撤去された扁額です。愛媛県立某高等学校職員室にあった、好古揮毫の扁額「研精而不倦」です。校長先生は自宅に保管し、昭和27年サンフランシスコ講和条約締結後、日本の主権が回復され、再び職員室に掲示、現在も掲げてあります。平成25年8月、許可を得て撮影しました。
今年、私が一番感激した事は、秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」が新潟市民文化顕彰に認定された事であります。
平成17年1月19日、松山市歩行町に秋山兄弟生誕地が再建開館され、同年5月5日、大阪からお越しになった熱烈な秋山好古を尊敬する方が来られ、好古揮毫について尋ねられましたが、関係者は誰も知らなかったのです。
この事に付いて烈火のごとく激怒されました。これが切っ掛けとなり私は、好古揮毫の石碑調査を専任で開始しました。
来年5月が来ると10年になります。石碑の数は51基(内訳は、新潟県2基、東京都1基、千葉県1基、神奈川県1基、静岡県1基、愛媛県45基)であります。
私のブログのタイトルが「鍾馗さんと名城巡り&好古揮毫石碑紀行」と長たらしい件名です。
さて、好古揮毫石碑の中、平成22年3月17日新潟市江南区沢海(北方文化博物館隣の日枝神社)に建立されている事を北方文化博物館理事、神田勝郎氏から連絡を受け取材に行きました。私にとって初めての新潟訪問でした。何故好古揮毫の石碑が新潟市にあるのか大きな疑問でありましたが、調べてみるとその由来が判明した。・・由来は割愛します・・
一昨年、新潟市は、全国三番目となる、新潟市民文化顕彰が制定され、今年5月、秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」が新潟市民文化顕彰に認定され驚きました。そして嬉しく感激いたしました。
認定された大きな理由は、「忠魂碑」の前で今でも慰霊祭をしてお国の為に戦死された英霊をお祀りし、それを後継者に継承しているその行為に対しての顕彰に値すると選考員の先生方が判断されたのだと私個人的に考えとおります。
以前掲載しました画像と重複しますが初めて新潟市に伺った時から、地元紙等々を順番に掲載したいと思いますのでご覧下さい。
註:昭和20年11月、連合軍最高司令官、マッカーサー元帥通達が発令されました。その一つに、教育施設内に軍人が揮毫した石碑や扁額は撤去せよとの通達が出され多くの石碑が撤去されました。好古揮毫の石碑も撤去されましたが心ある人達、勇気ある人達は建立場所を変えて再建立され現在も存続しております。
その一つが、松山市立清水小学校にありました石碑「天壌無窮」は撤去され用具室にありましたが、愛媛県護国神社の宮司さんが、同境内に平成7年再建立されました。
もう一件は、愛媛県立某高校職員室にあった、好古揮毫の扁額「研精不倦」です。校長先生は自宅に保管し、昭和27年サンフランシスコ講和条約締結後再び職員室に掲示したそうです。現在も扁額は掲げてあります。
マッカーサー元帥通達に恐れ戦き撤去され廃棄された石碑は沢山あったと思います。
平成22年3月17日、初めて新潟市を訪れ秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」と対面、石碑の情報と建立の経緯を調べて頂いた、北方文化博物館理事の神田さんです。
揮毫は、秋山好古が第13師団長として大正2年に新潟県高田に赴任していたときに、横越村の村長さんが新潟県知事、伊澤知事さんに忠魂を揮毫して頂きたくお願いし、伊澤知事が好古さんにお願いしたそうです。伊澤知事は、奇しくも前任地が愛媛県で知事をしており、好古さんは、伊澤知事さんを「私の郷里愛媛県で財政を立て直した有能な知事であるので新潟県でもいい仕事をすると思いますと」新潟県民に紹介しております。
平成23年9月5日、二回目の新潟市訪問で、北方文化博物館理事の神田さんが、博物館で講演をされました。私は、車で松山から伺いましたその時撮りました。翌日は慰霊祭に参列させて頂きました
新潟市江南区横越地区の遺族会の皆さんは現在も忠魂碑の前で毎年慰霊祭をされております。私も平成22年9月6日の慰霊祭に参列させて頂きました。
平成23年9月5日、北方文化博物館理事の神田さんが、博物館で講演されました。演題は、「秋山好古と新潟の人々」でした。その時の司会進行をされました、北方文化博物館専務理事の佐藤さんです。
北方文化博物館は、連合軍極東最高司令官、マッカーサー元帥が、日本で戦後初めて許可して開館された私立の北方文化博物館で由緒ある博物館であります。司馬遼太郎さんも来館され絶賛されました。講演会には、私も参列させて頂きました。伊藤文吉館長さんが、愛媛県松山から車で来られましたと聴講者に紹介をして頂きました。
調査段階では、日本海側には好古揮毫の石碑は発見されてなかったので、新潟日報新聞は大きく記事として掲載してくれました。
北方文化博物館で講演された「秋山好古と新潟の人々」は好評で神田さんは書籍として刊行されました。
今年5月に、秋山好古揮毫石碑「忠魂碑」が新潟市民文化顕彰に認定され、新潟日報新聞は159認定された文化顕彰を代表として大きく写真入りで報道されました。
新潟市民文化顕彰に認定された、好古揮毫石碑「忠魂碑」深い雪の中に佇む。
写真は、北方文化博物館専務理事の佐藤さん提供。
新潟市民文化顕彰に認定された、好古揮毫石碑「忠魂碑」深い雪の中に佇む。
写真は、北方文化博物館専務理事の佐藤さん提供。
今年5月に、秋山好古揮毫石碑「忠魂碑」が新潟市民文化顕彰に認定され、新潟日報新聞は159認定された文化顕彰を代表として大きく写真入りで報道され新潟市民は承知されましたが、愛媛松山市民はこの事に付いては知る由もなく、愛媛新聞にお願いして記事にして頂きました。
私が平成17年5月から調査をして来ました集大成として、秋山好古生誕153年記念として「秋山好古揮毫の石碑写真集」を刊行いたしました。初版を平成21年1月7日に、改訂版として第2版を平成23年12月1日発行いたしました。なお、「秋山好古揮毫の石碑写真集」は、国立国会図書館、愛媛県立図書館、松山市立図書館、新潟県立図書館、新潟市立図書館、千葉県習志野市立図書館に納本させて頂きました。
平成23年6月8日、神田さんが刊行された「秋山好古と新潟の人々」出版お祝いを北方文化博物館で行われ私も参加いたしました。・・三回目の新潟市訪問です。挨拶をされる神田氏、その左は、北方文化博物館、伊藤館長さん。
出版お祝いの翌日(平成23年6月9日)早朝、忠魂碑を撮りました。
平成23年5月に新潟県警の職員さんから、秋山好古揮毫の石碑が魚沼市堀之内に建立されていますと連絡頂きました。但し見たのは中越地震前なので地震で倒壊していると思われます。・・とあった。直ぐ神田さんに調査依頼をしました。倒壊したが全国の皆様からの義援金の一部を充当して再建立しました。と連絡を頂いた。
神田さんが刊行された「秋山好古と新潟の人々」出版お祝いの翌日、魚沼市に取材に行きました。松山から取材に来ると言う事で、地元の方々が駆け付けてくれました。魚沼市役所の職員さん後日説明板を設置します。・・でした。
取材に新潟日報の記者さんが来てくれ新聞に掲載してくれました。
魚沼市役所の職員さん後日説明板を設置します・・約束通り説明板設置。
平成24年10月29日、四度目の新潟市訪問で、秋山兄弟生誕地の研究員研修目的で伺い、私が引率して行きました。秋山兄弟生誕地の研究員達が神田さんの説明を真剣に聞き入っていました。
秋山兄弟生誕地研究員研修の夜、北方文化博物館、伊藤館長を囲んでの懇親会。
翌日、平成24年10月30日、新発田城見学、記念に堀部安兵衛の銅像の前で。
10月30日午後3時北方文化博物館、好古揮毫石碑の見分を終え新潟市を後に、夕方上野に到着、東京スカイツリーをバックにして。10月31日は、次の研修の地習志野市を伺った。
昭和3年、松山市立清水小学校開校記念及び昭和天皇即位の御大典を記念して、先生方が醵金して石碑を建立した。揮毫は秋山好古陸軍大将がしました。好古は当時松山北豫中学校長をしておりました。昭和20年11月、連合軍最高司令官、マッカーサー元帥通達が発令されました。その一つに、教育施設内に軍人が揮毫した石碑や扁額は撤去せよとの通達が出され、石碑は撤去されました。石碑が割れているのは、撤去作業で割れました。暫く清水小学校用具室に保管されておりましたが、これを見た愛媛県護国神社、波爾宮司さんが神社境内に再建立されました。
この扁額もマッカーサー元帥通達により、撤去された扁額です。愛媛県立某高等学校職員室にあった、好古揮毫の扁額「研精而不倦」です。校長先生は自宅に保管し、昭和27年サンフランシスコ講和条約締結後、日本の主権が回復され、再び職員室に掲示、現在も掲げてあります。平成25年8月、許可を得て撮影しました。