EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古揮毫石碑を訪ねて 10、愛媛県松山市護國神社の石碑「天壌無窮」

2018年12月31日 | 伊予松山歴史散策

これまでは、愛媛県外に建立された石碑を訪ねてきたが、これからは秋山好古の故郷である愛媛県内の石碑を訪ねてみることにする。

訪ねる石碑「天壌無窮」は、GHQの命令で昭和20年11月に清水小学校校庭に建立してあった石碑は撤去され、平成7年10月に愛媛県護國神社、波(は)爾(に)荘(さかえ)宮司の努力で同神社境内に再建立された。
GHQ(連合国軍最高司令官総司令部・最高司令官・マッカーサー元帥)は、財閥解体、農地改革、普通法改正、日本国憲法制定、教育基本法等々の改革を実施した中、教育改革の一つに、教育施設内に軍人が揮毫した石碑、扁額等の撤去命令が発せられ、清水小学校開校と昭和天皇の御大典記念に建立された「天壌無窮」の石碑が撤去の対象となった。

 撤去された石碑は、平成7年10月まで、清水小学校の用具室に雑然と置かれていたのを愛媛県護國神社、波爾荘宮司が見つけ、学校の許可を得て愛媛県護國神社境内に再建立された曰くつきの石碑である。
秋山好古揮毫石碑を訪ねて、12愛媛県宇和島市吉田町の石碑「忠魂碑」もGHQの命令で撤去された石碑でこの後訪ねることにする。

扁額も撤去されたものが2面ある。
その1面「質実剛健」は、愛媛大学付属高等学校職員室にあった扁額で現在は、秋山兄弟生誕地武道場に掲示され一般に公開している。

あとの1面は、愛媛県立伊予農業高等学校職員室にある。
秋山好古が揮毫し、GHQの命令で対象となり撤去された石碑は2基であるが、全国には軍人が揮毫した多くの石碑が撤去され廃棄処分された碑が数多くあっただろうと推察される。

「天壌無窮」の石碑が再建立された松山市御幸一丁目476番地にある、愛媛県護國神社。

1.    文   天壤無窮  

2.所 在 地  : 松山市御幸一丁目476番地 愛媛県護國神社

3.揮 毫 者  : 陸軍大将 秋山好古

4.建 立 者  : 裏面に建立者20数名の先生の氏名が記載してあったが殆ど判読困難

   再 建 立 者 :愛媛県護國神社 波(は)爾(に) 荘(さかえ)宮司

5.建立年月日  : 昭和3年 御大典・松山市清水小学校開校記念

   再建立年月日:平成7年10月吉日

6.碑石大きさ  : 縦・1m35cm  横・1m10cm  厚み・35 ㎝

7.石碑の由来  :

昭和3年清水小学校開校及び昭和天皇即位の大礼を記念して20数名の先生方が醵金して建立した。
昭和20年11月米・英軍が松山に進駐し、GHQの命令により碑石を撤去して、同校の用具室に保管してあったのを、平成7年10月渡部校長の許可を得て愛媛県護國神社、波(は)爾(に)荘(さかえ)宮司の努力で同神社境内に再建立した。

 碑石が割れているのは、撤去作業時に破損したものである。
秋山好古は、当時北豫中学校長在任中であり、清水小学校はすぐ近くにあり、先生方が揮毫を依頼し好古が受けたものである。
なお、醵金をして建立した先生方の名前が碑石裏面に刻印してあったが、今は風化が激しく消えて殆ど見えない。 

昭和16年3月、国民学校が公布され教育の目的は、「皇国ノ道ニ則りテ初等普通教育ヲ施し国民ノ基礎的練成ヲ為スヲ以テ目的トス」(第一条)とあって、「皇国ノ道」とは「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スル道」と意味づけされたと言う。・・天壤無窮の碑文碑が校庭にある事、揮毫者が軍人である事も重なりGHQの遺憾とするところにより司令長官命令で撤去された。

愛媛県護國神社の鳥居をくぐり右に行くと東屋があり、その東側に石碑は再建立されている。

石碑「天壌無窮」を後ろから見たところ。
石碑にひびが見えるのは、撤去の時に割れた跡である。

愛媛県護國神社の由緒。

石碑「天壌無窮」の正面。
石碑にひびが見えるのは、撤去の時に割れた跡である。

撤去の時に割れた跡である。
裏面に建立をされた醵金をされた先生方の氏名が書かれていたが風化が激しく殆ど見えない。

ただ、奉祝昭和・・・御大典の文字が何とか読み取れる。

昭和3年 昭和天皇の御大典記念・松山市立清水小学校開校記念に建立された「天壌無窮」の石碑。
昭和20年11月撤去前、清水小学校校庭にあった時の写真。
(写真提供:福島泰弘氏)

愛媛県護國神社境内に建立されている「歩兵第22連隊記念碑」が建立されている。

歩兵第22連隊当時の歩哨舎が保存されている。

歩兵第22連隊当時の歩哨舎の説明版。

愛媛県護國神社からすぐ近くに、秋山好古が校長を務めていた北豫中学校がある。
現在は、愛媛県立松山北高等学校である。
画像は、大正時代の北豫中学校の全景。

北豫中学校は、現在、愛媛県立松山北高等学校となっている。
松山北高等学校の正門。

秋山好古校長時代の講堂(現、第2体育館)で現在も使用している。

秋山好古校長時代の講堂(現、第2体育館)で現在も使用している。

秋山好古校長時代の講堂内部(現、第2体育館)で現在も柔道、卓球場として使用している。
秋山好古校長が亡くなって、6日後の昭和5年11月10日、画像の講堂(現第2体育館)で職員生徒約1千名が集まり哀悼式が行われた。

昭和5年11月10日、秋山校長哀悼式が開催された。
その資料。

愛媛県立松山北高等学校の校門を入ると右手に80周年記念館があり、入口に秋山好古校長の胸像が建立されている。

愛媛県立松山北高等学校80周年記念館入口。

80周年記念館内部で、秋山好古校長時代の資料を案内する、山崎教諭(現在、公益財団法人常盤同郷会理事長)が説明をする。
その説明を聞く、新潟市にある北方文化博物館館長、神田勝郎氏。
神田勝郎氏は、書籍「秋山好古と新潟の人びとの」著者である。

80周年記念館内部で、貴重な秋山好古校長時代の資料がある。

80周年記念館内部で、貴重な秋山好古校長時代の資料がある。

80周年記念館内部で、貴重な秋山好古校長時代の資料がある。

80周年記念館入り口に掲示されている、校章。

右から「北豫中学校」「県立松山北高等学校」「県立城北高等女学校」の各校章。

          愛媛県立松山北高等学校沿革

明治33年4月1日 鉄砲町(現校地)に北予中学校を開校。
大正12年4月2日 松山城北高等女学校開校。
昭和13年4月1日 北予中学校県立に移管し、愛媛県立北予中学校となる。
昭和23年4月1日 学制改革により愛媛県立北予高等学校発足。


昭和24年 9月 1日 県下高等学校再編成により旧北予高等学校、旧松山城北高等女学校、旧松山農業高等学校の3高が統合されて、新たに愛媛県立松山北高等学校として発足。
松山城北高等女学校の校舎は、松山北高等学校普通科の校舎として使用された。
昭和26年2月23日、松山市立勝山中学校として引き継がれ現在に至っている。

平成22年、松山北高等学校でNHKのテレビドラマ『坂の上の雲』の撮影が行われる。

県立城北高等女学校の校門が永久保存されている。
現在も松山市立勝山中学校の正門の横に保存されている。

県立城北高等女学校の校門の説明版。

愛媛県立城北高等女学校の銘板。
現在も松山市立勝山中学校の正門の横に保存されている。

愛媛県立松山北高等学校の全体図。

愛媛県立松山北高等学校正門横にNHKテレビドラマ『坂の上の雲』が放映され画像の様な説明版が設置された。

平成30年12月1日現在発見されている秋山好古揮毫の石碑一覧。
現在52基の石碑が発見されている。

昭和20年GHQの命令で撤去された扁額で、愛媛大学付属高等学校の職員室にあった。
撤去された扁額「質実剛健」は額から外され、おおざっぱなたたみ方で段ボールに入れられ、平成17年まで資料室の片隅に置かれていた。
平成17年7月、愛媛大学付属高等学校からの寄託として現在は秋山兄弟生誕地の武道場に掲示してある。 

この扁額は、和紙でなく、絹の布地に好古は揮毫した。
学校での保存扱いが悪く、和紙であればこんなに綺麗に額に収まらなかったが、絹であったので額に入れる事が出来た。
表具師は、仕上げる作業が大変であったと言っていた。
好古は布だから揮毫するのは大変であったと思う。

昭和20年GHQの命令で撤去された扁額で、愛媛県立伊予農業高等学校の職員室にあった。

当時の校長先生が自宅に持ち帰り大切に保管した。
昭和27年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効され、日本の主権が回復した後に校長先生が自宅に持ち帰り大切に保管していたこの扁額を再び学校に持って行き職員室に掲示し現在に至っている。
貴重な扁額である。

愛媛県立松山北高等学校、校長室に掲示してある秋山好古揮毫の扁額で、GHQの指示で撤去されたはずだが、保管はどの様な状態にしてあったかは不明である。
一度調べてみたいと思う。

 

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秋山好古揮毫石碑を訪ねて 9、千葉県習志野市大久保商店街の石碑「秋山好古顕彰碑・天地無私」

2018年12月22日 | 伊予松山歴史散策

平成21年5月17日に建立された秋山好古顕彰碑「天地無私」

 秋山好古・眞之兄弟の名声は、作家司馬遼太郎の「坂の上の雲」が産経新聞夕刊で昭和43年4月から昭和47年8月にかけて連載された。
平成11年1月10日、文庫本8巻が刊行、平成16年4月10日、単行本6巻が刊行された。
この頃から秋山好古・眞之兄弟の事が伊予松山の出身者であることが知れ渡りだした。

もう一人の正岡子規は、近代俳句の父と言われ短詩系文学を嗜む人々の多い我が国にでは知らない人はいない有名人である。
スペシャルドラマ・坂の上の雲は、この3人が中心で展開される物語であっる。
平成15年1月、NHKは大河ドラマとは別枠で「21世紀スペシャル大河ドラマ」として平成18年から放送すると発表された。

これで秋山好古・秋山眞之兄弟に光が注がれる様になった。
それまでは、坂の上の雲を読んでいない人たちは二人を全く知らなかった。
地元松山の市民でも知る人は少なかった。
その後NHKは、正式名称を「スペシャルドラマ・坂の上の雲」と改め、平成18年11月29日から放映が始まった。

「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている・この壮大な物語は、伊予・松山から始まる。」・・であった。

建立された秋山好古顕彰碑の横に設置された「秋山好古と習志野」説明版。

森田千葉県知事を迎えて除幕式

平成21年5月、千葉県習志野市大久保商店街の一角に(真言宗豊山派、薬師寺入口)
秋山好古顕彰碑が建立された。
秋山好古と縁が深い、千葉県習志野市大久保には、習志野騎兵連隊史跡保存会があり保存会代表の三橋正文氏は、秋山好古騎兵第1旅団長が在籍したこの地に、NHK大河ドラマとは別枠で「21世紀スペシャル大河ドラマ」として平成18年に放送する予定が発表されたのをきに、大久保商店街に秋山好古顕彰碑を平成21年5月17日に建立した。

除幕式には関係者の手によって除幕された秋山好古顕彰碑。
互いにお祝いの言葉を掛けて挨拶をした。

除幕された秋山好古顕彰碑。

習志野騎兵連隊史跡保存会三橋正文代表から顕彰碑の建立経緯を伺ったその一つに、石碑に秋山好古の功績を称え、現代的に写真を織り込むことにしました。
私は、写真は金属に焼き付けて埋め込んであるものと思って観察すると、なんと直接石碑に彫刻してあった。現在は特殊な技法があることに驚いた。・・あっぱれである。

 秋山好古顕彰碑

1.碑     文:   天地無私
           (天地に「私」、すなはち、不公平は無い。人は皆平等だから
努力をすれば善い人生がおくれる)

2.所  在  地:  千葉県習志野市大久保一丁目17番14号、 学園大久保商店街 薬師寺前(三橋秀紀住職)

3.揮    毫:  秋山好古

4.書の出所  : 好古嫡孫・秋山哲兒氏

5.建  立  者:  習志野市大久保 学園大久保商店街(三橋正文理事長)・ 習志野騎兵連隊史跡保存会代表(三橋正文)

6.建立年月日: 平成21年5月17日

7.石碑大きさ: 高さ1m20cm  横幅1m20cm 厚さ12cm 

8.好古と習志野について:

騎兵第1旅団は明治34年12月、習志野に創設された。
好古は明治36年4月2日、陸軍少将(44歳)で第2代騎兵第1旅団長に就任。
同年6月、母・貞や家族とともに習志野の官舎に移転した。
明治37年2月、日露戦争が勃発すると好古は4月9日、同旅団長として習志野から出陣。満州(現在の中国東北部)各地で敵の情報収集や後方撹乱など騎兵の近代的戦法を駆使して戦った。

とくに、黒溝台では、当時世界最強といわれたロシア・コサック騎兵団が、数十倍の兵力で日本軍の好古騎兵団を襲撃。
これに対し、好古は騎兵同士の戦いは不利と判断し、陣地を急造して機関砲を用いて応戦。
この意外な反撃にコサック騎兵は戦死者を多数出して退却した。
この好古の柔軟な発想と、不利な条件の下で全滅を覚悟しながら戦線を持ちこたえた騎兵軍団の勇敢な戦いぶりが、日本軍の大きな危機を救った。

「日本騎兵に秋山あり」と世界的に名をとどろかせ、また「騎兵の町、習志野」も有名になる発端になった。
しかし、好古は戦後、この時の武勇談をせがまれても「機関砲があったからよ」とポツン答えるだけで質問者を困らせた。

戦争で多くの部下を失ったことに、もっとも心を痛めていた好古にとって、武勇談などは頭の片隅にもなかったのだろう。

明治38年9月、日露講和条約が締結されると翌39年2月、好古は歴戦の痕跡を残す連隊旗と共に習志野大久保に凱旋したのである。
しかし母は、前年の6月19日に亡くなっていた。
戦地で「母死す」の知らせを受けた好古は、めったに入らぬ風呂で身体を清め「母上は 散りにけり山桜」と詠んだ。
松山の知人には、「母上は、眞之の活躍を伝える電報を持って父上に会いに行かれた。
この面白さを知るのはあなた様くらいです。」と手紙を書いた。

平成の今、習志野大久保商店街の方々の熱意で好古の石碑が建てられ、毎日多くの大学生や地元の人が石碑の前を通っている。

この石碑を見て当時の歴史に触れ、より良い世の中を築いてくれればいいと思う。
石碑は、軍馬の形で赤色の花崗岩に秋山好古の写真を彫り込まれ、下部に好古揮毫の「天地無私」が彫られている。
好古揮毫「天地無私」の出所は秋山宗家第10代秋山哲兒氏からである。
平成21年5月17日、習志野市大久保商店街・除幕式時にて。

除幕された、秋山好古顕彰碑の前で祝辞を述べる千葉県知事、森田健作氏。
好古顕彰碑の所在地は、千葉県習志野市大久保一丁目、真言宗豊山派薬師寺入り口にある。

祝辞を述べる千葉県知事、森田健作氏で、千葉県知事初当選した時であった。

タレント時代の森田健作さん、サンミュージックに所属し、同所属タレント第1号時代の森田健作さん。
ヒット曲「さらば涙と言おう」を歌う若い時の森田健作千葉県知事。

除幕式には、陸上自衛隊習志野駐屯地の自衛官「ラッパ隊員」も参加、除幕時にラッパ吹奏して除幕された。
指揮者が除幕の頃合いを確認する様子が伺えられる。

除幕式には、大勢の市民も訪れて盛大に行われた。

除幕式後、秋山好古顕彰碑建立にお礼の言葉を述べられる、秋山宗家第10代秋山哲兒氏。

秋山好古顕彰碑建立に尽力された習志野騎兵連隊史跡保存会の方々。

習志野市大久保・学園大久保商店街を毎日、東邦大学・日本大学・東邦大学附属中高校生達約6000人がこの商店街を通る賑やかな街である。
三橋正文学園大久保商店街理事長は、秋山好古大将の顕彰碑を見てもらい当時を振り返り日本歴史の勉強の一助になればと秋山好古顕彰碑を建立したと言う。
また商店街には資料館の設備も完備している。

平成24年10月30日、秋山兄弟生誕地研究員達が、習志野騎兵連隊史跡保存会を訪れた時の、歓迎の様子・・大久保商店街の資料館前で。

秋山兄弟生誕地研究員達が、平成24年10月30日、習志野騎兵連隊史跡保存会を訪れた時の、歓迎の様子・・大久保商店街の秋山好古の顕彰碑前で。

習志野騎兵連隊史跡保存会を訪れ、保存会の皆さんの案内で習志野騎兵連隊司令部跡を見学した。
習志野騎兵旅団発祥の記念碑の前で。

習志野騎兵連隊史跡保存会を訪れて時・・大久保商店街の資料館。

習志野騎兵連隊史跡保存会を訪れて時・・大久保商店街の資料館内部。

習志野騎兵連隊史跡保存会を訪れて時・・大久保商店街の資料館。

習志野騎兵連隊史跡保存会を訪れて時・・大久保商店街の資料館資料の一部。

保存会の皆さんの案内で、騎兵第13連隊跡、現、東邦大学構内を見学。
騎兵第13連隊の記念碑。
騎兵第13連隊は最強・精鋭の部隊であった。

騎兵第13連隊の記念碑の傍に設置してある「騎兵第13連隊概史」。

東邦大学内にある、明治時代騎兵第13連隊が使用した兵舎で、東邦大学は永久保存を決定した貴重な建造物である。

明治43年当時の千葉県習志野大久保地区。

東邦大学構内(旧騎兵13連隊跡)に建立されている「司馬遼太郎記念碑」。

これからは、騎兵14連隊跡地(現、日本大学生産工学部)の記念碑。

騎兵14連隊跡地(現、日本大学生産工学部)の記念碑。

上空から見た明治時代の騎兵15連隊全体図。(現、東邦大学付属東邦中・高校学校)

日本騎兵の最強部隊が、騎兵13・14・15・16連隊で、平時の時は、近衛師団に属し、有事となると騎兵第1旅団に13連隊・14連隊、騎兵第2旅団に15連隊・16連隊として編成され機動した。

習志野騎兵旅団発祥の記念碑。

習志野騎兵第1旅団発祥の碑誌。

秋山好古が率いた騎兵第1旅団司令部跡の記念碑。

平成23年12月1日、山岸良二先生が監修され刊行された「秋山好古と習志野」の書籍。
山岸良二(やまぎしりょうじ)先生は、慶応義塾大学大学院修士課程修了。
千葉県習志野市文化財審議会会長。東邦大学付属中高等学校、昭和女子大学、放送大学講師、日本考古学会全国理事、現在千葉市在住です。「いっきに学び直す日本史」「秋山好古と習志野」他編著作品数56冊。
秋山好古と習志野については、第一人者である。

山岸良二先生が監修され、来年3月刊行予定で、雄山閣出版から『秋山好古と習志野騎兵旅団物語』が刊行されますのでご案内いたします。私も秋山好古揮毫石について短編で執筆します。

 習志野市大久保には、東京ヤクルトスワローズの監督「小川淳司監督」の実家も秋山好古の顕彰碑の近くです。
書籍「秋山好古と習志野」に出筆されています。

秋山宗家第10代秋山哲兒さんと。

平成29年10月18日、秋山兄弟生誕地武道場で「秋山好古と習志野」について記念講演をされた
講演をされる「山岸先生」。
山岸良二先生は、秋山好古と習志野騎兵隊の研究者としては第一人者で、特に習志野騎兵連隊について造詣の深い方です。平成29年10月18日、松山市歩行町にある、秋山兄弟生誕地で特別講演会が開催され、松山での講演演目は「秋山好古と習志野騎兵旅団」で好古を軸にその人物に迫る大変貴重な講話をされ、松山市民の知らない好古の凄さを改めて確信した思いで参加者は熱心に聴講した。

  

秋山兄弟生誕地武道場で「秋山好古と習志野」について記念講演パンフ。

講演の翌日松山城をご案内。坂の上の雲の主人公が立った場所です。
習志野騎兵連隊史跡保存会の方々。

習志野騎兵連隊史跡保存会の方々は柵の後ろに立って撮影したが、NHKが撮影した時は柵を取り払い撮った。
普段は危険防止の柵が施してある。

これからは、再放送に関するものです。
平成25年NHKに坂の上の雲・再放送請願する。

全国から秋山兄弟生誕地にお越しになる方々から、もう一度NHKスペシャルドラマ坂の上の雲のドラマを視聴したいとの声を聴き、再放送を願うNHKに請願をした。
全国から頂いた坂の上の雲再放送署名3万1千人の署名簿を持参し、NHK松山放送局経由で、日本放送協会に、NHKスペシャルドラマ坂の上の雲再放送の請願書を提出した関係者。
右から、竹田自民党県連幹事長・野志松山市長・中村愛媛県知事・NHK松山放送局副局長・平松公益財団常盤同郷理事長・宇都宮同常務理事。
その結果、BS3で、平成26年10月5日(日曜日)の正午から、全26回・放映時間各45分で半年間に渡り放映された。

NHKスペシャルドラマ坂の上の雲再放送の決定仕様のポスター。

平成14年には志願したスタッフを中心に製作チームが結成され、NHKが総力を挙げて11年掛かりで制作、平成21年から平成23年の3年間に渡って放送したスペシャルドラマ「坂の上の雲」をもう一度全てを短時間で見たいとの声が秋山兄弟生誕地を訪れる全国の皆さんからの声が多くあり、平成25年5月から「坂の上の雲再放送」をNHKにお願いする署名活動を秋山兄弟生誕地が中心で開始した。

NHKは、全国の多くの再放送請願に応えて再放送を決定した。
再放送開始は、BS3で、平成26年10月5日(日曜日)の正午から、全26回・各45分で半年間に渡り放映された。松山の商店街には再放送決定のポスターを掲示して皆さんに周知した。
画像は、再放送決定のポスター。

スペシャルドラマ登場人物紹介。

松山銀天街商店の再放送決定のポスター掲示。

松山市「銀天街商店」の各商店入口に掲示して皆さんにNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」再放送の決定の啓発するポスターが掲示された。

四国一の大型商店街「大街道」にはNHKスペシャルドラマ坂の上の雲再放送の決定の大きな掲示板が掲げられ周知された。

 

秋山兄弟生誕地に署名活動のお礼とNHKスペシャルドラマ坂の上の雲再放送の決定仕様のポスターの掲示とお礼状を提示。

NHKスペシャルドラマ坂の上の雲再放送の決定を報道した地元紙「愛媛新聞」。

平成22年11月25日、秋山好古生誕150年を記念して、千葉県習志野市・習志野騎兵連隊史跡保存会が秋山好古のカラー肖像画を作成し秋山兄弟生誕地に寄贈して頂いた。
贈呈者は(左)習志野騎兵連隊史跡保存会顧問、三橋秀紀氏。
秋山好古のカラー肖像画を受ける(右)秋山兄弟生誕地運営委員長、宇都宮良治氏。

習志野騎兵連隊史跡保存会より、秋山好古生誕150年を記念して秋山好古のカラー肖像画を寄贈、同時に、秋山眞之生誕142年を記念しカラー肖像画を秋山兄弟生誕地に寄贈された。
好古・眞之の白黒写真を基にして、丸山浩司画伯がカラー肖像画に制作された。
1月7日生まれの好古は、1月初めの日曜日に、3月21日生まれの眞之は、3月21日春分の日に生誕祭を秋山兄弟生誕地で開催している。
今年、好古は生誕160年祭を1月6日、眞之は生誕151年祭を3月21日に開催する。

二人のカラー肖像画は、秋山兄弟生誕地武道場に常設展示している。

平成22年11月25日、秋山兄弟カラー肖像画の贈呈についてマスコミの取材を受ける、習志野騎兵連隊史跡保存会顧問、三橋秀紀氏(真言宗豊山派薬師寺、住職)

平成22年11月25日、秋山兄弟カラー肖像画の贈呈後、秋山兄弟生誕地座敷にて。
真言宗豊山派薬師寺住職(習志野騎兵連隊史跡保存会顧問)三橋秀紀住職夫妻。
千葉県習志野市大久保商店街の石碑「秋山好古顕彰碑・天地無私」建立の地は、三橋秀紀住職が提供された土地に建っている。

 

千葉県習志野騎兵連隊から騎兵第1旅団長として出征した当時の秋山好古。

日露戦争最大の激戦地となった黒溝台の戦いの図面。

黒溝台の戦いの図面の横に、弟、秋山眞之連合艦隊専任作戦参謀の資料が掲示してあった。

 

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秋山好古揮毫石碑を訪ねて 8、陸上自衛隊習志野駐屯地の石碑

2018年12月14日 | 伊予松山歴史散策

陸上自衛隊習志野駐屯地の正門右側の標柱で、自衛隊広報官の許可を得て撮影した。
撮影条件は中の様子が写らないことであった。
この駐屯地に第1空挺団が駐屯しており、陸自最強と言われている部隊である。
そして駐屯地の一角に秋山好古の絶筆となった「軍馬慰霊之碑」が建立されている。

精鋭無比、陸上自衛隊習志野駐屯地に第1空挺団は最強と言われている部隊の表示は正面左の標柱に掲げてあった。

軍馬慰霊之碑の写真取材には申請書を提出した。
申請内容は、取材目的に添付として私の経歴と父親の軍歴を付記した。

申請書には、

1、     取材目的
2、     取材者&取材者の経歴
3、     付記として:私の親父の軍歴を添付した。
4、     昭和4年3月、秋山好古が校長をしていた北豫中学の卒業生であること。
旧関東軍、歩兵第80連隊第30大隊附、昭和19年3月15日、海上機動部隊が編成され、第2旅団機動第3大隊、第1中隊附、昭和20年4月28日、ニューギニアのサラワテイ島にて斥侯隊長として敵情報収集中、敵兵と遭遇戦闘中戦死と明記して提出した。
註として、斥侯隊員は無事全員生還、隊長であった親父のみが戦死と記した。
取材当日は、広報官の手厚い扱いを受け良き取材が出来た。
そして、広報担当官の案内で「軍馬慰霊之碑」の建立地に行き石碑を見た。
今まで見てきた石碑とは違った立派な大きな碑で騎兵学校跡に、そして学校長を務めた地に、親父が教わった恩師が揮毫した石碑を見て感無量であった。

この石碑の揮毫は、昭和5年10月5日の筆で秋山好古の絶筆となった「軍馬慰霊之碑」である。

 1    文 軍馬慰霊之碑忠魂碑

2.所 在 地:  千葉県船橋市薬円台3-20-1 陸上自衛隊習志野駐屯地・第一空挺団内

3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古

4.建 立 者: 記載無し

5.建立年月日: 昭和5年11月 

6.石碑大きさ: 高さ 3m17㎝  横幅 91cm 

7.その他   : 石碑の建立場所は、当初の場所とは違い、駐屯地整備の関係で現在の場所に変更したと説明を受けた。

 軍馬慰霊之碑の経緯

陸軍騎兵学校の前身である陸軍乗馬学校は、明治21年東京市麹町区元衛町に創立、同24年に東京府荏原郡目黒村上目黒(現在の目黒区大橋二丁目)に移転、明治31年陸軍騎兵実施学校となり大正5年12月千葉県千葉郡二宮町(現在地)に移転、翌6年9月陸軍騎兵学校と改称された。
習志野は、日本騎兵の中枢だったため軍馬慰霊碑が騎兵学校に建立された。
日本騎兵の父と言われた秋山好古は、第2代目騎兵学校長を務めその関係で、秋山好古に軍馬慰霊之碑の揮毫依頼があり昭和5年10月5日揮毫した。
同年11月4日、体調を崩し東京の陸軍軍医学校病院にて逝去、72歳であった。
建立されたのは、昭和5年11月で好古は逝去した後でこの軍馬慰霊之碑を見ることは出来なかった。
昭和11年11月1日秋山好古大将伝記刊行会発行の「秋山好古」の背文字は、その署名を写したものである。

各時代の秋山好古

秋山好古は、伊予松山藩徒目付の家系に安政7年1月7日、秋山久敬の3男として誕生、幼名は信三郎で元服し好古と改名した。正式には秋山信三郎好古で、弟に秋山眞之海軍中将がいる。
好古の命名は、父久敬が論語の、子(し)日(のたま)わく、述(の)べて作(つく)らず、信(しん)じて古(いにしえ)を好(この)む。竊(ひそ)に我(わ)が老彭(ろうほう)に比(ひ)す。により父久敬が命名した。

好古は、御歳16歳の時福沢諭吉の学問のすすめを読み、これからの日本は青少年の教育が必置であることを考え学校の教師になることを志した。
大阪師範学校(現大阪教育大学)に入学し、卒業後愛知県師範学校附属小学校(現在の愛知教育大学付属名古屋小学校)の教師として赴任した。
名古屋には、伊予松山藩出身の、山本忠彰名古屋鎮台法務官と、師範学校付属小学校主事(校長代理)の和久正辰がいた。

この二人の強い勧めで軍人になることになる。
学校の勤務が終わると毎晩のように呼び出され、教師もいいが此れからは軍人の世界、軍人になるように勧められ、その席に何時も酒が出た。それ以後酒をたしなむようになった。
そして学校を依願退職し、月給30円の愛知県訓導を免じ、新たに東京予備教員を命じられ月給8円を給せられ、これは陸軍士官学校の試験に応ずるための特別な取り扱いであった。(和久正辰校長代理が仕掛けた。)

東京には山本忠彰名古屋鎮台法務官が引率し、陸軍士官学校3期生として入学した秋山好古は軍人の世界に入った。
時正に激動の時、明治10年西南戦争が勃発した年だった。

画像は、和久正辰・・好古を軍人に仕立てた人。

伊予松山藩は親藩で、朝敵とされた土地柄で伊予松山藩最初の軍人である。
松山出身の、山本忠彰名古屋鎮台法務官、そして愛知県師範学校附属小学校主事(校長代理)の和久正辰、この二人の強い勧めで陸軍士官学校第3期生として入学、騎兵科を専攻したのは、担当官であった寺内正毅の(後の内閣総理大臣)勧めで騎兵を専攻した。
勧めた理由は、背が高く、足が長く馬上に適した体つきであったから!!
その後、近衛師団長、教育総監を歴任、大正12年元帥に推薦されるもこれを辞退、大元帥(大正天皇)は驚いた。
未だかって元帥を辞退した者はいなかったからだ。

大元帥は元帥を辞退した秋山好古大将に、特旨として官位従二位を与え好古は、官位従二位を拝命し大正13年郷里の伊豫松山から強い要望に答え北豫中学校長(現、愛媛県立松山北高校)として昭和5年3月まで本来の教育者として勤務し、故郷の青少年の教育に尽くし同年3月北豫中学校長を辞任、11月4日東京・陸軍軍医学校で永眠(享年72歳)現在東京青山霊園に眠っている。

松山市の鷺谷墓地にある秋山好古の墓。
松山市の墓は、好古は軍人となっても教育者として故郷の青少年の育英に尽くされた功績に対して未来永劫を期して、東京の宗家の許可を得て、青山霊園から分骨をして松山にも墓を作った。(松山の人々は永遠に秋山好古校長先生の事は忘れません)の意味がある墓である。

東京青山霊園にある秋山家の墓所。

秋山好古は生前、墓は要らぬ、家も要らない、銅像など作るで出ないと言って逝去した。
家族は、肩書の入った仰々しい墓石(陸軍大将従二位勲一等功二級)は作らず秋山家の墓に家族と一緒に眠っている。
秋山好古の信条、「簡単、明瞭、質素、倹約、そして人は心穏やかで豊かであり、元気な間は働くべき、仕事はその気で探せば幾らでもある。」

座右の銘は「独立自尊」であった。

好古は、父の教え守り、勉強すれば貧しい人間にはならない、そして大きくなった暁には、私利私欲を捨て、世の為・人の為・故郷の為に役に立つ人間になりなさい。・・母の教え貫き72歳を全うした。
元帥を辞退したのも、母の教えの一つ「私利私欲を捨てて」が何時も脳裏に有ったのではないかと私は思うのである。!!

秋山家の墓誌。

秋山好古の墓所は、東京都青山霊園「西17通り右へ1種イ19号2側1番」にある。
北里柴三郎の右隣にある。
現在の墓石は、昭和62年6月に秋山宗家第10代秋山哲兒氏が作り替えた。
その時秋山眞之の墓は鎌倉霊園に移った。

東京都青山霊園案内図。

秋山好古の戒名。

(秋山宗家、第10代秋山哲兒氏提供)

戒名は、藩政時代であれば大名クラスとある人は言った。
大正13年3月、東京では大きな話題となり馬鹿呼ばわりする人も出た。
それは、元帥を辞退し、大将が田舎の私立の中学校の校長になるとは馬鹿な男よ!!だった。
しかし好古は、馬鹿呼ばわりを聞く耳持たず、単身で松山に帰って来た。
元帥を捨て、錦をも捨ててであった。
戒名は道元が興した曹洞宗大本山永平寺の院号が凄い。
永平寺禅の世界「より無我になり、欲や執着がなくなり、教えてあげるのではなく、教えさせていただく」の気持ち「どちらにも傾かぬ心、差別しない心」好古の心境は道元禅師の教えを会得し松山に帰ったのではないか。

好古は秋山家を相続、その時の地券である。

好古は、長男則久が早くして隠居した。次男は他家に養子に行ったため3男好古が家督相続した。
秋山家は代々長男の名前には久の字が付く。
秋山家始祖は秋山宗清、第3代将軍徳川家光の時今治藩、藤堂高吉(高虎の養子)家臣であった。
藤堂高吉は今治藩城代から、伊賀名張藩2万石の城主となり、始祖秋山宗清は高吉の家臣として伊賀名張行ったが、再び今治藩に帰り、その後伊予松山藩徒目付として明治維新を迎えるのである。
秋山宗清は何らかの理由で伊予松山藩藩士となったが詳細は分からない。
初代秋山家は、信久・久良・久軌・軌久・久微・久敬(好古の父)・則久・好古・信好・現当主第10代秋山哲兒氏である。
好古の代から久の文字がなくなった。

画像は陸上競技大会で優勝した時の記念写真である。 

大正13年3月から昭和5年3月まで秋山好古は郷里の伊予松山で、北豫中学の校長を務め、教育の中に体育を取り入れ中等教育を推進した。
ある時期、県立に移管の話があったが、好古は私立でやっていくほうがいいとの一言で県立移管は中止になった。
その後北豫中学に行き勉学したいとの希望する者が増し、施設を増築した。
現在の松山北高等学校の第2体育館は、好古校長時代に建築されたものである。
元帥を固辞し、錦を捨てて田舎の伊予松山の北豫中学校長として6年3ヵ月、郷里松山に対する最後のご奉公であった。
昭和5年7月10日、松山を発ち少年時代の親友、新田長次郎が居る大阪に立ち寄り一泊し、翌日東京渋谷の長男信好の自宅に着いた。
同年8月赤坂区丹後町に移転、同年10月15日、陸軍医学病院入院、同年11月4日、72歳で逝去した。

大正13年3月北豫中学校長に就任した年の卒業証書。

秋山好古は大正13年元帥に推薦されるもこれを辞退し、子供と奥さんを東京に残し単身で松山の実家に帰り好古校長は、毎日生徒よりも早く登校して、今日もしっかりと勉学しようよと直接生徒に声をかけ、教員が欠勤、遅刻すると授業ができなくなることを避け自ら教団に立ち授業をした。その後教員の欠勤、遅刻も無くなったとある。
好古校長は、出張以外は大正13年3月から昭和5年3月迄の6年間、一人で生活をし、一日の休暇も取らず校長職を貫いた。

愛知県師範学校附属小学校時代から酒を嗜み、それが原因で晩年糖尿病になり、北豫中学校長の晩年合併症で左足の動脈が閉塞し始めた。
好古は、昭和4年校長を退職しようと考え、東京から奥さんの多美さんを呼び寄せ実家(現在の秋山兄弟生誕地)の整理とお世話になった人たちに夫婦で挨拶をして東京に帰る様準備、辞表を北豫中学校井上要理事長に提出するも受理されなかった。
受理されたのは昭和5年3月であった。
画像は、昭和4年、最後になるだろうとの思いで奥さんと北条の鹿島に出かけて時の写真である。前列左が秋山校長・子供を挟んで左が奥さんの多美さん。

昭和4年7月15日撮影。

画像の書籍が
昭和11年11月1日、東京市麹町区丸ノ内二丁目18番地、秋山好古大将伝記刊行会、代表桜井眞清から発行された「秋山好古」である。
この秋山好古の背文字は、陸上自衛隊習志野駐屯地に建立された「軍馬慰霊之碑」に書かれている「秋山好古」を写したものである。

秋山好古大将伝記刊行会、代表桜井眞清から発行された「秋山好古」は「軍馬慰霊之碑」に書かれている「秋山好古」の署名写したものである。

秋山兄弟生誕地で奉仕活動している研究員たちが陸上自衛隊習志野駐屯地に建立された「軍馬慰霊之碑」を見学に行った時のものである。

陸上自衛隊習志野駐屯地に建立された「軍馬慰霊之碑」の前に空挺館があり中を広報官の案内で見学した。
空挺館の前身は、騎兵連隊御馬見所で目黒にあったが大正5年に現在地に移転された。
大東亜戦争終戦後、GHQに接収され内装が一部変更されたと説明を受けた。

空挺館(旧御馬見所)の説明版。

明治44年に明治天皇が陸軍騎兵実施学校へ行幸する際、専用の御馬見所として創建されたのが空挺館の起源であると書かれている。

空挺館(旧御馬見所)の2階の部屋で、明治天皇はこの個所から騎兵学校の卒業式後行われる記念練成の演目すべてを観閲されたと言われている。

空挺館(旧御馬見所)の2階の部屋に置かれている皇族が利用された貴賓椅子が展示され、説明版もあった。

空挺館(旧御馬見所)に掲示してある、陸軍騎兵学校歴代校長の写真。
秋山好古は第2代目校長として写真があった。

前項、秋山好古揮毫石碑を訪ねて7静岡市の石碑で紹介した、秋山好古が一番信頼をした副官「豊邉新作」は陸軍騎兵学校歴代校長の中に第5代目校長として写真があった。

秋山好古の父久敬は、明治23年12月19日、松山で逝去、68歳であった。
その後好古は母、貞を松山から習志野薬円台に招く。
画像は、秋山好古が、母貞と生活していた官舎があった跡で、現在は画像の様になっている。

 

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秋山好古揮毫石碑を訪ねて 7、静岡県静岡市葵区の石碑「軍馬追悼碑」

2018年12月06日 | 伊予松山歴史散策

 

愛媛県松山市出身で静岡市在住の宇都宮さんからの情報で、現地取材に車で行った。

松山市から車で行ったが、静岡県に入ってから幾ら走っても静岡県で嫌になるくらい静岡県も新潟と時同様道のりは長かった。
洞慶院での取材後は、富士山を一周、御殿場から、河口湖に出て田貫湖で富士山を取り帰路についた。
さて、石碑の所在地は、静岡県静岡市葵区羽鳥にある曹洞宗・洞慶院の参道に建立されている。
平成30年12月1日現在、秋山好古揮毫の石碑は全国に52基発見されているが、二人が揮毫した石碑はこの石碑のみである。
揮毫者は、秋山好古でもう一人は豊邉新作である。
篆 書「忠魂」を秋山好古が揮毫し、題書「愛馬追悼碑」を豊邉新作が揮毫している。
建立者は、陸軍騎兵大尉従六位勲五等功五級、三浦金蔵氏、静岡市の出身で実家は薬局を営み金蔵氏自身も自宅で馬を飼い可愛がっていたそうだ。
当時の軍人は、皇国から与えられた機器と自分の健康管理に気を付け、いざ有事に備えて日頃の訓練をしていれば良かったが、騎兵隊員は、その上に軍馬の飼育と管理が大変な役割であった。軍馬なくて騎兵隊員は陸に上がったカッパ同然である。
よって騎兵隊員は大変馬を可愛がったと言われている。
秋山好古も東京の自宅で馬を飼っていたが、当時東京市の一部では自宅で馬を飼ってはいけない条例が施行され、好古は馬を飼ってもいい地区に移転してまで馬を可愛がったそうだ。
大正13年松山の北豫中学校長として帰郷した時、松山の自宅でも馬を飼うのではないかと心配して、内緒で東京から馬蹄さんが松山に来て様子を見たが、流石に好古も松山では馬を飼わず馬蹄さんは東京に帰ったそうだ。
三浦金蔵氏も静岡の自宅で馬を飼い大変可愛がっていたと伝えられている。その為この石碑を建立した。

石碑の題書「愛馬追悼碑」の揮毫者は、豊邉新作で秋山好古が最も信頼をした副官であった。
好古が教育総監時代、騎兵監をしていた。豊邉新作は、新潟県長岡の出身で、有名な長岡藩筆頭家老の河井継之助の従兄弟の子供で、豊邊新作の父と長岡藩家老、河井継之助は従兄弟同士である。

静岡県静岡市葵区羽鳥にある洞慶院の参道に建立されている「愛馬追悼碑」

 

1.         文 :  愛馬追悼碑・忠魂

2.所 在 地 :  静岡県静岡市葵区羽島1840番地    洞慶院・参道入口

3.揮 毫 者:  陸軍大将正三位勲一等功二級  秋山 好古・・忠魂

                             陸軍中将従三位勲二等功三級  豊邊 新作・・愛馬追悼碑

4.建 立 者:  陸軍騎兵大尉従六位勲五等功五級 三浦 金蔵

5.建立年月日:   大正 8年 4月 3日

6.石碑大きさ:   高さ 1m 65㎝ 横幅 82㎝  厚み 13㎝

7.石碑裏面撰文:  別段の通り

建立者、陸軍騎兵大尉従六位勲五等功五級、三浦金蔵は、愛馬追悼碑建立に及び、直属の上官であった豊邊新作に揮毫依頼したが、私よりも、秋山好古大将に頼んでやろうと取り扱った。しかし好古は豊邉中将が揮毫するようにと言ったが、二人とも譲り合い、結局二人が揮毫する事になった。石碑上段に「忠魂」を秋山好古が揮毫、題書「愛馬追悼碑」を豊邊新作が揮毫した珍しい石碑が建立された。

また、戊辰戦争の争乱から大東亜戦争に至るまでその間、馬や犬や鳩も数多く犠牲になった。
その御霊を弔い顕彰するため「軍馬・軍犬・軍鳩之碑」が各所に建立されている。

石碑上部に篆書「忠魂」を秋山好古が揮毫。

石碑の題書を豊邊新作が揮毫した。
揮毫者は、
   陸軍大将正三位勲一等功二級  秋山 好古   篆書 
 陸軍中将従三位勲二等功三級  豊邊 新作 題書
好古揮毫の石碑は、現在52基発見されているが、二人が揮毫しての石碑は静岡市の石碑だけである。

石碑に揮毫した二人の氏名が表記されている。

石碑裏面で、刻印が浅く殆ど読めない。

後日、静岡市葵区教委から頂いた石碑裏面の撰文。

石碑裏面に書かれている撰文解釈。

石碑の写真を撮影しようと思い石碑にいってみると、なんと石碑の前に車が2台駐車してあり写真が撮れなく所有者を探し、車を移動してもらい撮影した。

洞慶院の境内は広く、駐車場も十分に確保してあり、梅の樹が沢山植栽されていた。花の時期には観光バスで大勢の人が訪れる梅の名所だそうだ。

曹洞宗久住山の寺院、洞慶院の本堂。

曹洞宗久住山の寺院・洞慶院の住職さん、秋山好古揮毫石碑建立についての詳細は住職の代が変わり、その経緯は分からないと言われた。

 

洞慶院の案内図。
秋山好古揮毫石碑所在地を案内図に表示をしますと住職は言われた。
現在の案内図には、秋山好古揮毫の石碑所在地を案内図に表示してあると思います。

秋山好古には優秀で信頼できる副官が3名いた。
3名共に越後国、新潟県出身者であった。
その3名は「豊邉新作・建川美次・山内保次」である。

(写真:秋山好古と新潟の人びとより) 

先ず、豊邉新作である。

日露戦争当時豊邉新作は、秋山好古率いる騎兵第1旅団で、豊邉支隊長(大佐)として激戦地である黒溝台合戦で、ロシアの主目標だった沈旦保を、最も信頼する豊邉新作に死守させ猛攻をしのいだ勇者である。
豊邉の父と、長岡藩筆頭家老の河井継之助は従弟同士で、明治41年4月少将・騎兵実施学校長に就任している。
日清戦争終結後、予備役になるのではと思っていたところ、日露戦争が勃発、秋山騎兵第1旅団長から、重要な任務与えられその職務を全うした。豊邉は人を押しのけ、踏み台にしてまで昇進しようとはしない人柄で、秋山旅団長はそんな控えめな人柄と真面目で実直な豊邉新作を信頼していた。

建川美次は:

画像の「残影敵中横断三百里」建川斥候長の生涯の書籍となり、その後映画化された人物である。
建川美次は、明治37年暮れに日露両軍が対峙した今の中国東北部の沙河にあって、秋山第1旅団長の命令を受け、ロシア軍の動静、陣地の構築状況を調査する挺身斥侯隊を編成し、ロシア軍の敵中突破を図りながら、敵の背後を回って敵情を詳しく探り、偵察を報告している斥侯隊長である。
明治38年1月9日から2月1日までの23日間、1200kmの斥侯活動で、建川中尉を隊長とする斥侯隊は計6騎であった。
秋山第1旅団長は、予定の日程を過ぎても帰還しない建川斥侯隊は全滅したと思っていた矢先、人も馬もやつれはてた騎兵6騎が凄い情報を持って帰って来たのであった。
その後、建川美次は大東亜戦争開戦時、駐ソ連大使として昭和16年4月13日、松岡洋右とともに、スターリンやモロトフとの間「日ソ中立条約」に調印している。

(写真:秋山好古と新潟の人びとより)

23日間、1200kmの斥侯活動で、建川中尉を隊長とする斥侯隊は計6騎であった。
 極寒の時期の斥侯は、大変厳しい任務で、温暖な地方で育った者には務まらない任務、よくぞ23日間耐え抜いた斥侯隊員である。
斥侯隊長を任命するのは、秋山旅団長が任命するが、斥侯隊員を選任するのは、斥侯隊長が選出し旅団長が許可する。
斥侯隊員は、日頃から斥侯隊長と気質や考え方気心の知れた上に、体力堅固で

1、     記憶録が優秀
2、     俊敏さがあり
3、     協調性必要
4、     忍耐力旺盛
5、     ロシア語が話せ理解できる
6、     基本的に偵察であるが、時には攻撃、追跡の大きな任務がる・・小心者には務まらない任務である。

(写真:秋山好古と新潟の人びとより)

 山内保次は:
3人目の副官は山内保次である。
山内保次は、新潟中学・陸軍士官学校共に建川美次の1年後輩で、新潟中学時代は會津八一と同級生である。昭和になり新潟地区の司令官であった山内は昭和20年7月から同年10月まで伊藤辰治郎邸(現北方文化博物館新潟分館)で暮らしていた。
昭和11年1月11日松山市道後公園に建立された秋山好古騎馬像制作にあたり、山内保次がモデルになった。
好古騎馬像制作を受けた彫刻家、東京の「横江嘉純」は、秋山好古騎馬の姿は見たことないので制作を断ったが、秋山好古将軍銅像建設委員長・井上要の強い要望により引き受けた。
彫刻家「横江嘉純」に秋山好古の騎馬姿を披露し好古のモデルなったのが山内保次である。
秋山旅団長は、斥侯隊を建川隊と、山内隊を編成し斥侯活動に送り出す。
前記の様に、建川隊は予定を過ぎても帰還せず、全滅したかと思っていたが23日目に、馬も隊員もやせほそりて帰還した。
山内隊は、予定通りの日程で重要な情報を持って帰還し、激戦地となった黒溝台会戦で、ロシア軍の猛攻を秋山騎兵団が守り抜き日本軍の壊滅の危機を救った。
そして奉天大会戦でも秋山騎兵旅団が大きく迂回し敵後方を撹乱、ロシア軍の撤退を誘発し、日本軍を優位に立つ事が出来、日露講和条約締結に繋がる事になったのは、元を正せば、建川斥侯隊、山内斥侯隊の情報を基にした作戦が立てられた事であった。

山内保次がモデルになり制作された秋山好古の銅像。
好古大将死後高徳を慕うあまり、井上要氏が銅像建委員長となり、昭和11年1月11日、道後公園(中世の城郭跡・湯築城)内に建立された好古の騎馬像である。
作は、富山県出身東京在住の彫刻家横江嘉純である。
銅像は、昭和18年、先の大戦中に金属供出で撤去された。

昭和11年1月11日、の除幕式には、秋山将軍と縁故深き北豫中学校職員生徒600名、陸軍松山歩兵22連隊将兵500名、陸軍大臣、第1師団長、愛媛県知事、松山市長、その他来賓多数が参列し銅像建設委員長井上要氏の式辞で盛大な除幕式が行われた。
銅像の台座には、秋山好古の後輩、伊予松山出身の川島義之陸軍大臣の筆による頌功文刻まれた。
最後に遺族代表、秋山好古の長男、秋山信好氏の答辞で除幕式は終えた。
(昭和11年11月1日発行、伝記秋山好古より引用)

秋山好古騎馬像のレプリカ、現在、秋山兄弟生誕地・愛媛県立松山北高等学校・千葉県習志野市大久保・習志野騎兵連隊史跡保存会の三カ所に大切に保存されている。
画像の秋山好古騎馬像のレプリカは秋山兄弟生誕地が保存している。

昭和11年1月11日、道後公園「中世の城郭跡・湯築城」内に騎馬像が建立された。
好古大将死後高徳を慕うあまり、井上要が銅像建委員長となり寄付を募り建設、製作は、富山県出身、東京在住の彫刻家横江嘉純である。
この銅像は、先の大戦中に金属供出で鋳つぶされ幸いそのレプリカの一つが愛媛県立松山北高等学校に保存されていたので其れを参考に原作者の子孫の監修も受けて、T社のコンピュウタ―を駆使して制作図面を作成し、当時と同じ大きさに復元された。
完成は、平成17年1月18日 財団法人常盤同郷会が、秋山兄弟生誕地整備事業の記念として富山県高岡市で制作復元さし秋山兄弟生誕地に建立した。

愛媛県立松山北高等学校(旧北豫中学校)の校長室に保存されている秋山好古の騎馬レプリカ。
その上に秋山好古揮毫の扁額「荒怠相誡」が掲げてある。
「荒怠相誡」とは、(荒んだ心や怠け心を互いに戒め合う)として掲げられ、現県立松山北高等学校校訓のひとつとなっている。

千葉県習志野市大久保・習志野騎兵連隊史跡保存会にある秋山好古騎馬像のレプリカ。

行ってみたかった白糸の滝、取材の帰り観光。

静岡の石碑取材の帰りに。
前日は降雨で富士山は雲の中であったが、翌日は画像の様な素晴らしい富士が見えた。
この時期は山頂からのダイヤモンド富士を見る事は出来ないが、年間2回山頂からのダイヤモンド富士を見る事が出来る。4月24日・8月20日前後7日間だそうで、時間は午前6時頃だそうだ。
撮影場所は、田貫湖である。
画像は、5月18日、午前5時16分撮影。

5月18日、午前4時55分撮影。

5月18日、午前4時37分撮影。

田貫湖では撮影者の為に階段状に造られた撮影用のデッキが作られていた。

 

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