EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋の花・松山市窪野町北谷の彼岸花群生地区、今年の開花は遅咲きです!!

2020年09月28日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

松山市窪野町北谷地区にある「彼岸花」の群生地を3年振りに行ってきました。
今年の夏は猛暑の連続で全国の彼岸花の開花が遅れているそうです。
窪野町の彼岸花群生地の開花も例年よりも一週間程遅れての開花、気温が20度から25度にならないと開花しないそうです。

7年連続して、窪野町北谷の彼岸花群を撮ってきましたが、最近花が少なくなりました。
平成23年から写真を撮りに行っていますが、平成29年から行っておらず今年3年振りにカメラ持参で行ってきました。

お彼岸の最終日、昨日(9月26日)某TV局が天気予報コーナーの全国放送で珍しい彼岸花の群生地域があります・・と紹介した関係か岡山県から大型バイク(900cc)で鑑賞に来ていました。

平成23年に行った時は、彼岸花が3ヘクタールほどある地に真っ赤な花が咲き誇っていたが何故か最近少なくなってきている。手入れが追い付かないのか、気象条件のためか不明です。

「彼岸花」の群生地の上に一遍上人が修行をした窪寺跡の石碑があります。
一遍上人は、時宗の開祖で鎌倉時代の僧侶、初代内閣総理大臣、伊藤博文と血縁のある人物で、伊予の守護・河野通信の孫、出家して僧侶となった。生誕地は、道後温泉近くにある「宝厳寺」で時宗の総本山は神奈川県藤沢市にある遊行寺である。

画像は、9月26日、撮った松山市窪野町北谷の彼岸花群生です。

花は、今が見頃です。

窪野町北谷の彼岸花を撮りだしてから今年で8年目になり、ここ2年ばかり撮影に行っておらず今年3年振りに居てみましたが、毎年花が少なくなっています。

しかし、約3ヘクタール一面に広がる、赤のじゅうたんは壮大、今年で8年目となりますが、最初に行った時は、此れは凄いなと驚いた。四国一と言っても過言でない。

何といっても、地元の方々の皆さんが綺麗な彼岸花を鑑賞してもらおうと、管理育成に努力している事を忘れないことです。
四国88ヶ所第46番札所・浄瑠璃寺、第47番札所八坂寺のある地区、お接待お持て成しの心の表れでしょう。ご苦労様です。

一山南側には、歩き遍路さんが必ず通る遍路道(旧土佐街道)が有り、有名な遍路宿「坂本屋」がある。現在宿は中止してお遍路さんの休憩処となっている。

仲良しのご婦人達、心いくまで曼殊沙華の花を鑑賞していた。

群生地は、中に入り鑑賞出来るよう小道を作り管理をしてある。

仕切りのロープは新しかったので今年張り替えたのでしょう。管理をされている地元の方々ご苦労様です。

こんな方が居られました。年齢は60代のサイクリストでお元気な姿でした。

曼殊沙華を背景に記念写真をパチリ。

岡山県から大型バイク(900cc)で鑑賞に来られていました。30代の男性で、バイクは新車のようにホコリ一つなくピカピカに手入れが行き届いていた。

話を伺うとバイクは3年乗っているそうです。新車同様よく手入れが出来ていました。

私もメグロの500ccに乗っていましたので、暫しバイク談義をしました。当時愛媛県警の白バイは、メグロ・キャブトン・陸王の自動二輪車で、ホンダやヤマハスズキはまだなかった。

ストロボを装着し本格的で真剣に撮影する中年のご婦人も居られた。

仲良し熟女さん達。

彼岸花群生地にある樹木は、31年前に植栽された「染井吉野桜」で56本あった。

彼岸花群生地には小さな谷川が有り、山の湧水が流れ、湧水と彼岸花をスローシャッターで撮るため三脚を使用しての撮影するご婦人も居られた。

湧水と彼岸花をスローシャッターで撮る。

アゲハチョウが蜜を摂りに来た。

 

「彼岸花」の群生地の上に一遍上人が修行をした窪寺跡の石碑があり、この地で若き頃の一遍上人が修行した場所だそうです。

窪寺跡の石碑の傍には「御霊木・一遍上人の欅」の石柱があった。石柱の左には伐採された切り株がある。成長途中枯れたのでしょうか?

彼岸花群生地には駐車場がなく、すぐ上に動物霊園がある。画像の案内版が設置されていました。

彼岸花は、別名「曼珠沙華」とも呼び異名が多く、約1000名程呼び名があるそうです。

死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨子花(すてごばな)、はっかけばばあと呼んで、日本では不吉であると忌み嫌われることもあったが最近は趣が変わり活花として観賞するようになった。・・世も変わったものである!!

季  語⇒花言葉 ・秋の季語。

花言葉は⇒情熱・独立・再会・あきらめ。

「悲しい思い出」「想うはあなた一人」「また会う日を楽しみに」。

迷  信⇒花の形が燃え盛る炎のように見えることから、家に持って帰ると火事になると言われている。

都道府県では画像のような呼び名があるそうです。山口百恵さんが歌った「曼殊沙華」も呼び名の一つで名曲ですね。

以前、私のブログに松山市窪野町北谷の彼岸花群生地に行きたいのですが、道順を教えて下さいとありましたので再度ご案内します。

松山市街方面からご案内しますと、一級河川、重信川に掛かる橋「久谷大橋」を目標に、橋を渡り道は県道207号線、三坂、松山線を、道なりに直進、途中右側に、松山市役所久谷支所がありますが、直進し約2km程走行すると、伊予鉄バスの「丹波バス停」がります。此処を左に折れると約3km先に群生地があります。バス停前に案内版があり、途中にも案内板があります。バスは、便数が少なく、バス停からもなだらかな坂道を約3km歩きますので車で行ってください。アサヒ動物霊園の直ぐ下です。

バス停「丹波」の掲示板。

便数は、午前7時から午後6時迄で1時間に1便です。

バスは便数が少なく、歩きは坂道となるので車で行かれるのが良いかと思います。

「旧遍路宿、現遍路休憩所・坂本屋」

丹波バス停から左折すると彼岸花群生地に行きますが、遍路休憩所・坂本屋はバス停を直進して下さい。約1km先にあります。

所在地は、

松山市窪野町桜2146番地(旧、愛媛県温泉郡坂本村大字窪野字桜)にお遍路さんの休憩所「坂本屋」がある。老朽化に伴い平成29年11月から修復工事がされ完了した。

坂本屋は、国道33号線にある三坂峠北側の山間部にあり自然豊かな場所で、四国88ヶ所霊場 第45番札所 岩屋寺から、第46番札所 浄瑠璃寺に向かう途中にある。岩屋寺と浄瑠璃寺の間約30km、徒歩で約8時間かかりその道は険しく、その途中にある坂本屋はお遍路さんにとって「ほっと」一息つく休憩所となっている。

四国88ヶ所霊場の内、愛媛県内には25の霊場がる。その遍路休憩所のシンボル的存在が「坂本屋」である。

坂本屋の家屋が老朽化し平成29年11月から修復工事を行っていたが完了し、平成30年6月8日修復完了式が行われた。その様子が地元TVで放映された。

画像は、修復工事が完了された遍路休憩所「坂本屋」で、平成30年6月9日、伺った。この日は、お接待役として、地元坂本小学校の男性の先生が居られ、「どうぞおあがりください」と言って冷たい麦茶を出して頂きました。一時間程滞在しましたが歩きお遍路さんとはお会いする事が出来なかったが岡山県から車で来れたご婦人二人に出会いました。

遍路休憩所・坂本屋前の道路で旧土佐街道である。

慶応4年1月11日、伊予松山藩は朝敵となり、朝廷は土佐藩に対して松山藩の討伐の令が発せられた。土佐藩主山内豊範は、伊予松山藩とは縁がある間柄出来れば戦火を交えず修めたい。松山藩の占領には長州がやってくる、その前に松山に行ってやらねばと考え同年1月23日、土佐を出発、1月25日、四国88ヶ所44番札所、大宝寺で宿泊した土佐隊兵士915名、荷駄夫を含むと総勢2000名の大部隊が坂本屋の前の道を歩いて松山藩に入城した歴史のある街道である。その当時坂本屋は未だ建築されてなかった。

遍路休憩所・坂本屋前には「お遍路さん、休んでいって下さい。善根宿」と書かれた表示版が置いてある。

私が伺った時にお話を聞きました一つに、平成29年6月中年の女性が倒れ込むように坂本屋に辿り着いた。直ぐに奥の部屋に床を敷き横にさせてあげ、暫く休んでいただきました。元気になられ第46番札所・浄瑠璃寺に向かわれました。

翌年その女性お遍路さんは、お礼に見えたそうです。・・こんなお話を伺いました。

同行二人「お遍路さんの巡礼において、常に自分には弘法大師さんがついていてくれる、と言う気持ちを持って、特に歩き遍路さんには強い気持ちを持って居られる。疲れてもお大師様のお導きで大事に至る事なく回復されたのでしょう。

土日祝のみ開き、お接待は地元の方や、地元の小学校の先生や、保育園の保育士さんもお接待をして居られます。

遍路休憩所「坂本屋」の二階部屋です。許しを得て撮影させて頂いた。

女優である、柴田理恵さんが平成29年11月、松山に来られた時にお越しになり、瓦に揮毫をされたそうです。
修復した屋根瓦に全てに醵金をされた方の名前が記載してあるそうです。
修復する時に使われた同じ瓦に、女優・柴田理恵さんが訪れ、揮毫された瓦。

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伊豫松山城・日本夜景遺産に認定された

2020年09月20日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

一般社団法人夜景観光コンベンション・ビューロー内、日本夜景遺産事務局が主催する、第16回『日本夜景遺産』新規認定地の募集に応募していた「伊予松山城」が、認定を受けた。
認定日は、令和2年7月22日付である。

認定理由

全国で一番整っている「連立式天守」の建築様式の景観的な特徴や、環状に連結した天守や櫓の白壁に光が映え、城を真下から見上げる近景や市街地からの遠景など、どこから眺めても城郭のインパクトを発揮している点、さまざまなライトアップイベントの実績が評価されました。
また、市街地を一望できる夜景の名所で高い人気があります。

伊予松山城は、現存12天守の一つで、江戸時代最後に再建された天守である。本丸にある国指定の重要文化財指定の建造物は21棟あり姫路城に次ぐ城郭である。

また日本三代連立式天守(姫路城、和歌山城、伊予松山城)の一つで、また、日本三代平山城(姫路城、津山城、伊予松山城)の一つでもある。

参考に

伊予松山城は、現存12天守の一つで、江戸時代最後(安政元年2月8日再建)、伊予松山城と表記するのは、各地の松山城と区別するために伊予を付記する。

特に岡山県高梁市にある備中松山城と区別するためである。

普段松山城と表記すると、伊予松山城を指す。

全国で一番整っている「連立式天守」

これ以降は、松山城と表記します。

松山城天守は、日本三代連立式天守の一つであり、日本三代平山城の一つである。

松山城は標高132mの勝山に本丸があり天守があるが何故山城でないのかと尋ねられるが松山城は三之丸が平地にあるので平山城である。

標高132m勝山山頂にある松山城本丸、その本壇に三層の天守があり、天守最上階は高さ約160mになる。

松山城城郭全体の画像で、三之丸の施設は殆ど移転しその跡地は、埋蔵文化財発掘調査が行われ、現在三之丸は、「城山公園」となっている。

三之丸に残した施設は、NHK松山放送局舎・市民会館・愛媛県立図書館・愛媛県立美術館のみでスポーツ施設は全て城外に移設した。

参考までに

三之丸、NHK松山放送局舎付近が標高19,6mで、二之丸御殿跡が標高39,9m、本丸広場が132mである。

さて、これからが

日本夜景遺産に、新規認定された「松山城天守」ライトアップの画像です。

松山城天守のライトアップ開始は、昭和24年4月16日からで投光器は水銀灯であった。

水銀灯は消費電力が高く、電力経費節減のため平成22年12月16日~平成23年3月22日

にかけてフルカラーのLED照明に切り替え現在に至っている。

光源がLED化されたライトアップは、白色光で天守を美しく照らし上げ、その雄大な姿を闇に浮かび上がらせ文字通り夜の松山のシンボルとなっている。
ライトアップの色は「白色」,「橙色」,「電球色」,「青色」,「桃色」,「緑色」,「水色」,「青紫色」
などのカラーで照明することが出来る。

橙色でライトアップされた天守で、松山に本拠地を置くサッカー・J2リーグ「愛媛FC」が松山市で試合を行う時は、愛媛のカラー「オレンジ」にちなみ橙色でライトアップされる。

時より夜間天守鑑賞特別行事では、天守が開放され高さ160mからの天守最上階から見る城下町松山(人口、51万人)の夜景は素晴らしい。

松山城は普段は白色にライトアップされていますが、特別なイベントなどのある日や期間によってその色が変わるんです!
イベントや日ごとに青や赤、緑に紫などの色でライトアップされる松山城はいつ訪れても飽きのこない光景です。

日本夜景遺産

日本各地に埋もれている美夜景の再発見や発掘、価値を付与して紹介することで、観光資源として夜景をアピールします。「日本夜景遺産」の「遺産」は、優れた夜景とそれを鑑賞できる場所「夜景観賞地」の関係を後世まで残していく意味を込め、名が付けられています。

 日本夜景遺産は、民間の組織である日本夜景遺産事務局が選定する日本の夜景地のことである。

平成16年7月に第1回として101か所を選定。以降も随時選定が行われ、平成30年8月時点で認定追加・解除を含めた夜景遺産地の合計数は全国236か所となっている。

日本夜景遺産認定記念 ⇒10月3日(土)・4日(日)天守とロープウェイが夜間営業開催される。

※ 天守夜間営業は、午後8時30分まで(札止め午後8時)

※ ロープウェイ夜間営業時間は、午後9時まで

※ 日本夜景遺産認定記念の10月3日・4日はどんなカラーでライトアップされるのでしょうか?

松山城のライトアップは現在、
「白色」,「橙色」,「電球色」,「青色」,「桃色」,「緑色」,「水色」,「青紫色」
などの様々なカラーパターンが用意されている。

もしも、新型コロナが大蔓延したら、松山城天守は真っ赤な照明で映し出されるかもしれません。?

松山城本丸大手門跡、隘路からライトアップの様子で、普段は、ライトアップはされなく、特別行事として「光のおもてなし」の時に特別にライトアップされる。

「光のおもてなし」の時に特別にライトアップされた様子です。

松山城「隘路」に仕掛けられた照明・・奥に天守、手前の石垣は、戸無門に接続する石垣です。

平成27年7月に初開催された城内イベント「光のおもてなしin松山城」以来、様々なライトアップイベントを開催する松山市内の勝山にそびえ立つ街のシンボル。
毎日日没から23時までフルカラーLED照明によってライトアップされている。

天守点灯時間は、⇒ 日没から23時までです。

「光のおもてなし」の時に特別にライトアップされる。

松山城、揚木戸門跡に仕掛けられた照明で石垣上部の櫓は「隠門続櫓」です。

「光のおもてなし」の時に特別に本丸広場に仕掛けられる光の装置。

道後温泉裏手の高台にある「瀬戸風峠」標高212mからの伊予松山15万石の夜景です。

伊予松山15万石の城下町にも夜の帳が

春や昔十五万石の城下かな  子規

参考1:
15万石とは石高のことで、一石は当時の大人1人が1年間に食べる米の量のこと。
約150kgと言われており、土地の生産力(収益性)を表す単位。「文化年間(1810年頃)の米の物価を現代に当てはめた場合、一石は約4万5千円である」という。説によれば当時、松山藩は年間に67億5千万円の収益性を持っていたことになります(実際には天候等自然条件に大きく左右されました)。

松山藩は、初代藩主・加藤嘉明の時代は20万石で、二代目藩主・蒲生忠(ただ)知(ちか)の時24万石となり三代目藩主・松平定行(徳川家康の甥)の時に15万石となり親藩となる。伊予松山藩は親藩、15万石で明治維新を迎え、明治新政府の指示で松平姓を返上し、旧姓久松姓に戻す。久松家は菅原道真との経緯を持つ家柄である。

参考2:
藩政時代、松山藩と呼ばれる藩が5藩あった。

松   山   藩

1,山形県飽海(あくみ)郡(ぐん)松山町に存した藩・・:出羽松山藩

2,埼玉県比企郡(ひきぐん)吉見町に存した藩 ・・・:武蔵松山藩

3,奈良県宇陀郡(うだぐん)大宇町に存した藩 ・・・:宇陀(うだ)松山藩

4,岡山県高梁市(たかはしし)に存した藩・・・・・:備中松山藩

5,愛媛県松山市に存した藩・・・・・・・・・・・:伊予松山藩

伊予松山藩は、四国の親藩としての役割を担ったと言われている。また長州征伐に参戦、藩主松平定昭に対し京都から動かぬよう指示があったにも関わらず徳川慶喜に同行し大阪城に移動等々で朝敵とされ明治新政府から15万両の莫大な制裁の献金を要求され、当時疲弊していた松山藩は15万両調達することに大変苦労したそうです。

平成27年7月18日から8月9日まで開催された「光のおもてなし・in松山城」のポスターです。

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愛媛マラソン回顧 2 報道を支える人々

2020年09月10日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

第53回(平成27年2月8日)開催の愛媛マラソンポスターです。

愛媛マラソンは、付随して写真コンテストが開催されている。始まったのは何時からかは定かでないが、私は第50回大会(平成23年2月7日)から写真コンテストに参加応募している。

参加資格は、プロ・アマを問わず誰でも参加でき、作品内容は開催時の関連行事全般を対象に、ランナーの表情・応援の表情・ボランテアの方の表情・会場沿道等撮影者の思いを写真で表現した作品に限り、一人2点まで、写真サイズは、四つ切または四つ切以上、カラー、モノクロ自由、メールで画像データーでの応募もOKで、画像データーフアイルサイズは、10メガバイト以内でJPEG形式のみ、入選は40点とし、入賞作品は、金賞1点・銀賞2点・銅賞3点を選考し記念品が授与される。

そして伊予銀行本店ロービーで入賞・入選作品は展示会が開催されその後、宇和島市・八幡浜市・今治市・西条市・新居浜市の伊豫銀行各支店で展示会が開催される。

第53回大会のポスターは、第52回大会(平成26年2月9日)の入選作品のうち数名の作品を寄せ集めて1枚のポスターに仕上げたもので、私の作品も採用された。

事務局から第53回大会のポスターに貴方の写真を使用させて下さいと申請があり、喜んで許諾した。
記念保持したいのでポスターを事務局から頂き額に入れ私の部屋に飾っている。

愛媛マラソン写真コンテストに入選すると「お知らせ」が送られて来る。

第48回大会(平成22年)からコースは現在の愛媛県庁舎前スタート・城山三之丸公園ゴールに変更され、同時に見るマラソンから自ら参加して楽しむ市民マラソンに変身した。

画像は、愛媛県庁舎と集まるランナー達。

愛媛県庁舎は歴史ある建物で

全国の都道府県庁舎のうち、三番目に歴史(古い)ある庁舎である。国会議事堂よりも古い。

1、 大阪府庁舎  大正15年(1926年)
2、 神奈川県庁舎 昭和 3年(1928年)
3、 愛媛県庁舎  昭和  4年(1929年)2月9日竣工

愛媛県庁舎内の駐車場で移動中継車の準備をする技術者達。

愛媛県庁舎内の駐車場で移動中継車の準備をする技術者、バイクで中継するバイク隊も準備する。

バイク中継隊も最小限の必要機材をコンパクトにまとめ車載準備完了。

バイクは、ハーレーダビットソンである。

コンパクトにまとめたが結構な機材が必要である。

バイク隊いざ出陣。

雨天時は、バイク中継隊は大変苦労する。

5km地点トップ争いを中継するメイン中継車で、この中継車にアナと解説者が同乗している。

折返し35km地点を通過する放送車。

現在は、放送中継車から一度上空のヘリコプターに映像電波を送り、ヘリから本社局舎に送り、伊予市の行道山電波塔から家庭用の受信周波数に変換して送信され各家庭でTVを見ることが出来る。

中継に使われる電波周波数帯は5,6GHz(SHF帯)で家庭に送られる周波数帯はUHF帯である。家庭電子レンジは、2,4GHzで、無線LANも2,4GHz帯、高速道路料金所ゲートのETC電波は5,8GHz帯を使用している。殆どがSHF帯の電波である。

地上デジタルテレビジョン放送(地デジ)はUHF帯の周波数470MHzから770MHz間の帯域で送信されるので、視聴するにはUHF帯の八木アンテナを設置する必要があり、BSデジタルテレビジョン放送は12GHz帯の衛星からの電波を受信する必要がありパラボラアンテナの設置が必要である。

注:八木(ヤギ)アンテナとは

宇田新太郎と八木秀次との共同で発明された指向性の強いアンテナで、主にテレビ放送、FM放送の受信用やアマチュア無線、業務無線に使用されている。VHF帯とUHF帯がある。

八木秀次の名前をとって「ヤギアンテナ」と呼ばれている。

有名なアマチュア無線局に、元総理大臣・小渕恵三さんがおられ、コールサインは・JI1KITであった。

スタートして1時間09分31秒のゴール地点で、ゴールを中継する準備が始まる。

ゴールするランナーを中継するメインカメラ。

トップランナーがゴールするのは2時間10分台そろそろ中継準備体制、カメラの調整をしている。

こちらのカメラマンは、3台のカメラを駆使してベストショット撮影する。

各社報道カメラマンもスタンバイ。

ゴールで実況放送をする名物フリーアナウンサー、トップでゴールするのが2時間10分台だから規定の6時間まで、約4時間喋りっぱなし声がよく続くものだと感心する。

35km地点の計測係員、最近は電子化が進み作業が楽になったが、第47回大会までは手作業が多かった。

IT化が進歩した35km地点の計測機器。

第47回大会(平成21年)までは中継手段は手作業であった。

第47回大会(平成21年)までは中継手段は移動中継車が画像の様な手段で行っていた。

移動中継車のパラボラアンテナは松山城にある電波塔に向けて電波を出していた。

松山城の電波塔は、東京タワーよりも1年早く建設され、東京タワーの建設に携わった高所で作業を専門とする職人が建設した。

平成23年7月24日、アナログTV放送は終了し、地上デジタル放送になってからは伊予市の行道山にある電波塔から送信されている。

松山城の電波塔は、現在NHKFM放送と緊急放送の送信のみである。

なお、松山城電波塔の色は、国指定の史跡公園内にあるため景観に配慮して文化庁の指示で全体が緑色に塗装されている。NHK松山放送局舎屋上にある電波塔も史跡公園内であるため緑色に塗装されている。

塗装は10年に一度塗装されているが、高所鉄塔の塗装をする会社は神奈川県川崎市にあり全国の鉄塔塗装をしており、冬期は温暖な地方を、北海道・東北寒冷地方は気候のいい時期に作業をするそうだ。何よりも慎重にすることは、天気予報を検討し雨天日を考慮するそうです。

電波を送信する局には、必ずコールサインがある。

NHK松山放送局は、JOZKでTVは⇒JOZK-DTV・ FM放送は⇒JOZK-FM・ラジオ第1放送⇒JOZK・ラジオ第2放送⇒JOZBで、NHKラジオの送信所は、松山市針田町に置かれ、NHK松山放送局ラジオ第1及び第2放送の電波が送信されている。

南海放送ラジオは、松山市井門町(南海放送サンパーク内)から送信されておりコールサインは⇒JOAFである。南海放送TVは⇒JOAF-DTVである。

有名なアマチュア無線局は、元総理大臣・小渕恵三さんで、コールサインは⇒JI1KITであった。

松山城山頂ロープウェイ駅舎横に建設されている旧TV電波塔で、国指定の史跡公園内にあるため景観に配慮して文化庁の指示で全体が緑色に塗装されている。

電波塔の高さは、59,73mで松山城史跡公園内、標高100、5m地点にあり、160,23mとなる。天守の高さが160mなのでほぼ同じ高さである。

現在地上テレビの電波は、伊予市行道山にある電波塔から家庭向けの周波数に変換して送信されている。
画像の電波塔からはNHKFM放送と緊急時の電波が送信されている。

現在の地上デジタルテレビの家庭向け電波は、伊予市行道山にある各社(松山には5社の放送局がある)の電波塔から送信されている。行道山の標高は、373mである。

NHKFMの電波は松山城の電波塔から送信されているが、FM愛媛の送信は行道山の電波塔から送信されている。

参加したランナーは記録証書を発行してもらうためピーク時になると発行所は大忙しである。

愛媛マラソンは、8箇所に関門が設けられ、設定時間を過ぎるとその時点で前には進めない。

第7関門は、14時59分までに通過する必要あり。

時折ゴールに救急車が侵入して来る。

自己ベストを更新、その記念に喜びを披露、カメラシャッターボランテアが手伝う。

完走したあるランナーは、記録証書をスマホに収め、友人知人家族に結果報告の準備。

地元愛媛新聞社からは、号外が発行されそれを見て一喜一憂 する。

 

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