EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

雅子皇后陛下が流された感情の涙

2019年11月21日 | 伊予松山歴史散策

笑顔で手を振られる両陛下。

令和元年11月10日、快晴の下新調された御料車で「祝賀御列ノ儀」に皇居を出発される令和天皇陛下と皇后陛下。

私たちが身近に感じるようになった天皇は、平成天皇からでありますが、令和天皇皇后陛下になられてから一層身近になりました。

秋篠宮様が発言された「身の丈に合った儀式をすべき」とご発言されたことは華美にならない、いいかえれば国費の節約も含まれたお言葉であったと思われます。大嘗祭にかかる費用が27億円とか、11月14日、行幸通りで「天皇は要らない、そんなお金があれば他に使えと書いたプラカードを持参して一部の国民が反対運動をしていた団体があった事も事実の出来事であった。

「大嘗宮」は7月下旬から3か月余りかけて皇居・東御苑に設営され、令和元年11月14日に行われ、伊勢神宮に皇位継承・即位の儀等御大典が無事終了した事を報告され一連の儀が終わる事になる。

お住まいは、改修工事が完了次第、皇居御所にお移りになられる。
これからの画像は、平成17年1月25日、カメラ持参で私が一日かけて散策した皇居外苑と東御苑です。
それを振り返ってみたいと思います。

参考に

令和元年5月1日現在、宮家は、4家で、皇族は、17名、天皇は含まれず、天皇を含む場合は皇室と呼ぶ。

4家の宮家は、秋篠宮・常陸宮・三笠宮・高門宮である。

 

皇居宮殿から正門鉄橋を渡られる両陛下の御料車と皇宮警察の警備車列隊。

正門石橋をゆっくりと進まれた。

皇居正門石橋から皇居外苑に出て最初に国民から祝福の声を受けられた。

雅子皇后陛下が流された感情の涙


民間から皇室に入られ色んなご苦労があり上皇后陛下も一時期体調を崩されたが今上皇后陛下も慣れない皇室の生活の中で、特にお世継ぎの件で体調を崩されマスコミにも嫌な事を書かれ一層体調を悪くされた。

祝賀御列ノ儀に沿道でお迎えした国民は、皇后陛下が流された涙は誰一人知る由もなかったがTVを観ていた国民はこの事を知り受けた。

流された涙の中には、今までの辛い事、今後の皇后としての在り方、そして何よりも即位パレードに全国各地からお祝いに駆け付けてくれた国民からの「雅子様おめでとうございます。」・・の言葉が嬉しくて思わず涙が出たのではないでしょうか。これからは体調も良くなられ歴代最高の皇后陛下として天皇を支えられて行かれると思います。・・くれぐれもお体を大切にされて下さい。

新しく新調された御料車(オープンカー)、日本車としては2台目で最新な技術を取り入れて製作された7代目だそうです。

石橋と皇居正門、祝賀御列ノ儀はこの位置から最初に天皇皇后陛下の姿を国民が拝謁し祝福を受けられる地点。

正門石橋は、二重橋だと誤認されていることがあるが、厳密には奥にある正門鉄橋が「二重橋」である。

宮殿を出られて先ず皇居正面鉄橋を渡られた。

鉄橋は、石橋の奥にある橋が鉄橋で、二重橋と言われる橋である。

江戸時代壕が深かったことから途中に橋脚を立て橋桁を支える構造にするのが困難だったため、橋桁を上下2重にして強度を上げ架橋した木造橋であった。現在の鉄橋は二重ではないため二重橋とは呼ばない。
正式名称は、正門鉄橋と呼ぶ。

皇居正門で、門の形式は、渡り櫓門、正門石橋には鉄城門で普段は固く閉ざされている。

正門は、新年や天皇誕生日の皇居一般参賀時には正門が開放され渡ることができるが普段は渡る事は出来ない。

皇居正門石橋にあった飾電燈で東御苑に展示してある。

この門は、明治になってから建てられた薬医門形式の門で、御所がある旧西の丸の裏門にあたり、皇居の乾(いぬい)の方角にあるので、 この名がついた。

現在は、御所の表門で天皇に越権される時はこの門から出入りする。何時も皇宮警察が厳しい警固をしている。

高麗形式の門「半蔵門」

半蔵門で、この門の奥は、江戸時代吹上御庭と呼ばれ、隠居した先代将軍や、将軍継嗣などの住居とされていた。
現在は、吹上御苑と呼ばれ、宮中三殿、生物学御研究所、天皇が田植えをする水田などがある。
天皇や各皇族の皇居への日常の出入りには、主にこの門が用いられている。
一般人の通行は認められてなく、大東亜戦争で旧来の門は焼失し、現在の門は和田倉門の高麗形式の門を移築したもの。警護が特に厳しく写真撮影する時も警察官から注意されるほどである。

半蔵門から見た警視庁。このあたりの濠は石垣でなく土塁である。

平河門で徳川御三家・御三卿の登城される時この門から入城され、また大奥の女性達、商人達が江戸城に出入りする大名以外の人々はこの門から出入りをした。

また渡櫓門に付随して造られている高麗形式の門「不浄門」がある。枡形内に出入りとは逆方向の濠水に接するように開く高麗形式の門がある。城内で起こった犯罪人、死者等不浄なものを城内より水上輸送するための不浄門で、全国で唯一存在する。松の廊下で吉良に刃傷に及んだ浅野内匠頭名長矩はこの門から出された。

藤堂高虎が手掛けた独立式層塔型5層5階地下1階が創建されていた江戸城天守台で、現在見る石垣は第8代将軍吉宗が瀬戸内の花崗岩で積み替えたもの、正面黒っぽい石は伊豆石で、家光時代に積まれた石垣だそうです。

江戸時代最大の規模であった天守は、明暦3年明暦の大火により天守は焼失。保科正之の提案で町の復興を優先し、また経済的な理由から天守は再建されなかった・・と言われている。

巨石で築いた天守台で上部黒く見える石は、大奥が炎上した安政の大火で焼けたものだそうです。女子高生と比較すると如何に大きい天守台かがよくわかる。特に算木済みの石の大きいことが。

江戸城二之丸庭園跡で、現在も手入れされ一般に公開されている。
明治維新後東京宮城・皇居となり、以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として一般開放されている。
南側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。
但し休園日があるから調べて行かれる事。月曜日・金曜日が休園日ですが11月・12月は大嘗祭の関係で休園日が変則になっているので気を付けて。

徳川御三卿の一つ田安家の屋敷跡で、現在は日本武道館が建設されている。

千鳥ケ淵戦没者墓苑で、東京都千代田区三番町にある「無名戦没者のお墓」である。第二次世界大戦争の折に海外で死亡した日本の軍人・一般人のうち、身元が不明の遺骨を安置するため、昭和34年に創られた。

警視庁から見た桜田門、開国か攘夷かで大きな問題が浮上、井伊直弼大老が暗殺された所で有名である。

警視庁から見た桜田門。祝賀御列ノ儀はこの前を通られた。

高麗形式の桜田門から見た警視庁舎。

坂下門前で、この奥に宮内庁があり宮内庁ご用達の関係者はこの門から出入りする。この門も乾門・半蔵門に次いで警固が厳しい。

天皇が列車で地方に行幸される時には東京駅から発たれる。
画像は平成26年10月29日、復原された東京駅で、お披露目された時に行幸通りから撮影しました。

皇居一周も終わり日を改めて靖国神社に参拝に行きました。
最敬礼で参拝をされる若い方が居られました。

明治元年から明治2年に天皇政府側と徳川幕府側が戦った戊辰戦争で亡くなった天皇政府側の人々をお祀りするために明治天皇が創建された当時の東京招魂社。

この画像は、平成15年7月24日新潟市江南区にある北方文化博物館を拝観に行かれた当時の皇太子殿下と雅子妃殿下で説明される方は、第八代伊藤文吉北方文化博物館館長。

北方文化博物館は、戦後日本国内で初めてGHQが許可して開設された私立の博物館で、イギリスの陶芸家「バーナード・リーチ」日本民藝館初代館長「柳宗悦」人間国宝「浜田庄司」作家「司馬遼太郎」さん達も絶賛した博物館で、最近では歌手「加藤登紀子」さんもよく訪れるそうです。

画像は、令和元年5月1日発行「ヒストリア・北方文化博物舘」より引用


平成26年10月30日、秋山兄弟生誕地研究委員を引率して新潟市江南区にある北方文化博物館清水苑(旧新発田藩屋敷跡)を見学した時拝見しました、雅子皇后陛下のご父上が誕生された表示板です。

これからの画像は、初代天皇神武天皇をお祀りしている橿原神宮です。

近鉄橿原神宮駅で立派な神宮造りの駅舎です。

平成28年6月1日、私がお参りした時の画像です。

畝傍山(うねびやま)の北東の麓に鎮座する場所に橿原神宮があり、神宮に北接する場所に神武天皇陵がある。

令和元年11月22・23日天皇即位の報告を天照大神にされるため伊勢神宮に行幸され、11月27日、神武天皇陵をお参りされるご予定なので掲示してみました。

初代天皇であると伝えられる神武天皇が、橿原宮で即位したという日本書紀の記述に基づき、明治23年4月2日、明治天皇が創建された橿原神宮表参道入口である。

画像は、平成28年6月1日、私がお参りした時の画像です。

橿原神宮の表参道で、奥に南神門がある。

橿原神宮の表参道入口に「橿原神宮の大綱が掲示してある。」

南神門をくぐると、大和三山のひとつである畝傍山を背に外拝殿が建つ。

外拝殿から本殿のお姿で、本殿は安政2年建立の京都御所賢所(内侍所)を創建に際して移建したもので重要文化財である。

外拝殿より更に奥に位置する内拝殿は、橿原神宮の祭典が執り行われる非常に聖なる聖域で、その奥に幣殿と本殿がある。

 外拝殿の右側にさざれ石とその説明版が設置してある。

さざれ石は全国に16カ所に整備設置されているそうでその内の一つである。

平成28年6月、橿原神宮に参拝に行った時撮りました。
「君が代は  千代に八千代に  さざれ石の  いわおとなりて  こけのむすまで」

さざれ石とは: 

君が代の歌詞に登場する石として有名でですが、言葉を知っていても実際に「さざれ石ってどんな石のこと」と聞かれたときに、答えられません。 

君が代に登場してくる「さざれ石」とは岐阜県春日村にある天然記念物の石であり、なんと実在するそうです。

なぜ「さざれ石」というかというと、これは平安朝の時代にかかれたお伽草子の中の登場人物のお姫様の名前に「さざれのきみ」という名があり、それがもとになっていると言われます。

さざれ石を漢字で書くと「細石」となるそうで、もともとは小さな石のことをさしています。

橿原神宮の「さざれ石」の説明版。

ラグビー日本代表は、令和元年7月17日、宮崎市での強化合宿を打ち上げた後、宮崎県日向市の大御神社を訪れ、日本最大級の「さざれ石」を見学した。「さざれ石」が歌われている君が代への理解を深め、海外出身選手も多いチームの結束強化を図る目的で、リーチ・マイケル主将(東芝)らリーダー陣が発案し唄われワンチームの強固な気持ちを堅持したと言われている。 

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令和元年11月2日・岡山県倉敷の旅 2復路

2019年11月11日 | 伊予松山歴史散策

午後3時35分倉敷市、次男宅を出発帰路に着く。

画像は、倉敷の旅・復路の画像です。

なお倉敷美観地区の画像は昨年観光した画像を掲載してますのでご承知おき下さい。

倉敷は:

江戸時代、天領の地であったので領民は優遇されていたのではないでしょうか??

今回倉敷で感じたことは県道・市道の幅員が広く、歩道も広く整備してあった。歩道で車椅子競技者が練習をしていた風景を見た。長い一直線の歩道で、片側一車線センターラインがあり松山にはなく、まるで車道の規模であった。

倉敷市は、西日本最大級の水島臨海工業地帯を有しており裕福な自治体、人口47万人を有する街で、その証拠に倉敷市庁舎は、欧州のお城の様な、またホテルの様な立派な庁舎である。

建設当時は、ホテルと間違へられ、今夜はこのホテルに宿泊したいと言った観光客がいたそうです。

倉敷にはもう一つ観光資源があり、倉敷美観地区で、「伝統的建造物群保存地区」・「伝統美観保存地区」・「倉敷川畔伝統的建造物群保存地区」の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定され整備されている。

 

倉敷市庁舎。

建設当時は観光客にホテルと間違えられた立派な欧州調の庁舎、新築した当時、市長室の絨毯の豪華さに市民から批判があり敷き替えたそうです。

倉敷美観地区の代名詞である夜の倉敷川畔伝統的建造物群保存地区。

昨年10月7日撮影の画像です。

倉敷川の観光川船「天領丸」で川下り、川面から伝統的建造物群保存地区を遊覧する観光客。

昨年10月7日の画像です。

倉敷川から一つ通りを過ぎると伝統的建造物群保存地区の建物があり江戸情緒にタイムスリップする。

昨年10月7日の画像です。

白人系外国人が珍しそうに倉敷川畔伝統的建造物群保存地区を鑑賞していました。

昨年10月7日の画像です。

次男の居宅から直ぐに立派な広い歩道が整備された道路に出ました。

広い歩道で車椅子競技者が練習をしていました。

車道も広いが歩道も広々と整備されていて、長い一直線だからいい練習コースです。

そして瀬戸中央自動車道水島ICから高速道に乗り暫く走ると鷲羽山トンネルが見えて来ました。

瀬戸中央自動車道で、備讃瀬戸を岡山県側から10本の橋を渡り香川県坂出市を通り高松自動車道下り線に出ます。そして松山市に続いています。

瀬戸中央自動車道、北備讃瀬戸大橋補修のための大きな橋桁が取り付けてありました。

北備讃瀬戸大橋から見た備讃瀬戸香川県側の風景です。

瀬戸中央自動車道最大の大橋「南備讃瀬戸大橋」です。

南備讃瀬戸大橋の北側主塔、194mから香川県坂出市方向です。

画像は、平成25年5月26撮影しました。

昭和63年4月3日(日)瀬戸大橋開業記念「瀬戸大橋ウオーク」が開催され応募するも外れ、友人の通行手形で、坂出北ICから児島ICまで徒歩で通行しました。所用時間は5時間かかりました。

復路の当初の予定は、児島ICからバスでJR倉敷駅に移動し、JR岡山駅から宇野みなと線で宇野港に移動、宇高連絡船で高松経由して予讃線で松山に帰る計画でしたが、瀬戸大橋ウオーク出発時にお楽しみ抽選会があり帰りは、営業前の「瀬戸大橋線・特別電車」の乗車券が当たり宇多津駅まで瀬戸大橋線で帰り予讃線で松山に帰りました。
その時まさか主塔体験など考えもしなかったです。

それから25年の年月が流れ平成25年5月26日、25年前に歩いた瀬戸中央道を主塔の上から見ることが出来ました。

JR四国と本四道路公団が企画している主塔体験ツアーは毎年春と秋に開催されているそうだが応募倍率は7倍だそうです。

主塔付近が風速10mを超えると危険防止の為、主塔には上がれず中止するそうです。

平成25年5月26日は、風速8m無事体験出来ました。

それから6年後の令和元年11月2日、久しぶりに車で通行、それも後部座席からカメラ持参で写真を撮りながらの旅でした。

もう今後こんな旅をする事はないと思います。

坂出市にある川崎重工業のドックです。

坂出JCT手前に出て来る各四国管内の高速道案内板です。

四国に上陸、瀬戸中央自動車道の階下はJR瀬戸大橋線が走行しており、四国新幹線が走行できるよう整備企画されています。

四国四県の各知事、各経済界から四国新幹線整備の要望が出ていますが何時整備されるのか?本州・北海道・九州から見ると鉄道整備は大きく立ち遅れています。

瀬戸中央自動車道坂出料金所を通過します。

高松自動車道下り車線に入ります。

高松自動車道下り「さぬき豊中」2km手前に、アマチュア無線局のANTがありました。

クリエートの自立タワーで7・21MHz帯のANTとGP(144MNz・430MHz帯か?)のANTが上がっていました。

倉敷の旅往路の時も小休止した豊浜SAで、画像は高松自動車道下り線豊浜SAです。

時間は、午後4時47分で倉敷の次男宅を出てから1時間11分経過後です。

高松自動車道下り車線豊浜SAにあるガソリンスタンドの価格です。

高速のガソリンスタンド価格は高く、松山の私が何時も給油しているGSはレギュラーガソリン@136円です。

高松自動車道下り車線豊浜SAを出ると「ようこそ・愛媛」の看板が目に付く此処から、愛媛県となり松山自動車道下り車線となります。

愛媛県の鳥「コマドリ」樹は「マツ」花は「ミカンの花」でその案内板でお出迎えです。

松山自動車道下り車線川之江JCT9km手前に、松山・高知・徳島各自動車道の案内板が出て来ます。

そして直ぐ川之江JCTとなり、高知・徳島の大きい案内板が出て来きます。
高知自動車道・徳島自動車の分岐点で、うっかりすると直進してしまいます。

川之江JCTを過ぎると一気に日が暮れて来ました。

瀬戸内海の燧灘に沈む大きな真っ赤な夕日が一瞬見えたがシャッターを押せなかったです。

雲は、銅色(アカガネイロ)となった。雲の下は別子銅山のある新居浜です。

松山自動車道下り車線のトンネルでシャッターを押してみました。

この後、石鎚SAで夕食をとりました。

松山自動車道ICを降り国道33号線に出ました。   

午後6時38分我が家に無事現着しました。

往路は、2時間24分で

復路は、3時間03分の車の旅でした。

 

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令和元年11月2日・岡山県倉敷の旅 1往路

2019年11月05日 | 伊予松山歴史散策

瀬戸大橋開業25周年記念・瀬戸大橋塔頂体験事業・瀬戸大橋南備讃瀬戸大橋北側主塔・194mから平成25年5月26撮影・・岡山県倉敷市方向

昨年10月6日、台風25号の影響の中、岡山県倉敷市に次男が新居新築、そのお祝いに行った。
 ルートは、松山観光港からスーパージエット(高速艇)で広島港に渡り、新幹線で岡山、そしてJR在来線(山陽本線)で倉敷のコースで、帰りはJR山陽本線倉敷から岡山発特急しおかぜ(新車両・8600系)で松山に帰る1泊2日の妻との旅であった。

今回は、次男に第二子が誕生したのでそのお祝いに家内と長男の三人で車で行った。

行程は、松山自動車道・高松自動車道・瀬戸中央自動車道(瀬戸大橋)・早島ICで降り国道2号線の経路で目的地に到着、距離は約177,7Km(2時間24分)の車の旅であった。

イオンモール倉敷で昼食をとり、13時10分次男の家に伺った。

昨年7月に発生した「平成30年7月西日本豪雨」の時には、次男の家の入口まで水が来たそうだ。

画像は、松山市・倉敷市往復車の旅、車内後部から撮った画像です。
天候は快晴でした。

8時16分我が家近くの国道33号線で松山自動車道松山ICに向かう。

国道33号線松山ICの案内表示板。

8時26分松山自動車道松山IC料金所入口ゲートを通過、松山自動車道上り線に入る。

この日は、松山自動車道松山IC付近は霧がかかったような天候でした。

もしかしたら黄砂の影響か?

松山自動車道川内ICを通過し上下線とも順調に流れていた。

松山自動車道松山ICから20分走行すると、しまなみ海道入口の、いよ小松JCTが現れる。

いよ小松JCTを過ぎると緩やかな上りカーブになる。

西条IC・新居浜IC・土居IC・三島川之江ICを過ぎると左手に大王製紙工場が見えて来る。

9時16分川之江JCTになる。徳島自動車道・高知自動車道の分岐点の案内板である。

川之江JCTの徳島自動車道・高知自動車道の分岐点である。

豊浜SA手前で松山自動車道から高松自動車となり、豊浜(香川県)SAで小休し再び倉敷に向かう。

香川県に入ると山の形が変わってくる。
何故かまるびを帯びた山が多い。

画像の山は、飯野山(讃岐富士)422mである。

高松自動車から瀬戸中央道の案内板が見えて来る。

10時00分、坂出JSTから瀬戸中央道ゲートが見えて来る。

ようこそ瀬戸中央道へ・・と歓迎の表示板。

いよいよ瀬戸中央道の瀬戸大橋である。

本州四国連絡橋の1つ。岡山県の児島と香川県の坂出を結び,昭和63年4月開通。
香川県側坂出と岡山県側児島の備讃瀬戸を10本の繋ぎ、海峡部の全長約 13kmで、道路と鉄道の併用橋,瀬戸中央自動車道とJR瀬戸大橋線が通り、将来は四国新幹線が走れるよう整備されている。
 昭和53年の着工から9年6カ月を経て昭和63年4月10日供用開始され、総事業費は1兆1,338億円である。

南備讃瀬戸大橋の主塔194m。

備讃瀬戸、岡山県側。

瀬戸中央道大橋も終わり、奥に見えるトンネルは、鷲羽山トンネルである。

10時23分、瀬戸中央道早島料金所を通過。

倉敷JCTを山陽自動車道下り線に入る。

山陽自動車道下り線。

山陽自動車道下り線倉敷ICゲートを出て国道2号線に乗る。

10時28分、山陽自動車道倉敷ICを降り国道2号線でイオンモール倉敷に向かう。

8時16分松山を出発し、10時40分、イオンモール倉敷に現着。

イオンモール倉敷の規模は大きくまるでデパートのようでした。

ここで昼食をとった。

 

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