現存12天守紀行 「高知城天守」5
画像は、高知城追手門右にある「山内一豊」の騎馬像である。
土佐は、戦国大名長宗我部元親が支配していた。(土佐だけでなく伊予にも勢力を伸ばしていた四国の雄)
部元は、土佐一国を統治していた一条家を滅ぼし土佐を統一すると四国全土の制覇に乗り出した。その直後織田信長が本能寺の変で亡くなり遺志を継いだ豊臣秀吉の四国制圧に秀吉に下り、関ヶ原の戦いでは西軍に組したため領国は没収された。
代わって土佐24万石の藩主として入国したのが山内一豊である。
一豊が慶長6年(1601年)に浦戸城入国に際し長宗我部の遺臣は浦戸城占領して抵抗した。これを排除した一豊は不満分子の遺臣達を弾圧し山内家臣と地侍の身分の格差をつけて支配と統治の体制を固めた。
これが維新まで続いた(下士・郷士)と上士の身分の差が、土佐藩士下級武士が勤王の志士として活動する事になったのではないのか??・・私の解釈の間違いがあるかも・・である。
伊予人としては土佐人羨ましく見える。新日本の夜明けの原動力となりまたいろんな凄い人物が出ている。
藩政時代親藩であった伊予松山藩は幕末賊軍となり維新を向え一時期土佐藩預かりとなる。
土佐藩の隊長、小笠原唯八の配慮で、長州征伐の恨みをはらそうと乗り込んできた長州藩をなだめて返し松山領内の混乱を回避する事が出来平民は難を逃れたのである。・・土佐には恩義がある。
画像は、高知城追手門右にある「山内一豊」の騎馬像である。
土佐は、戦国大名長宗我部元親が支配していた。(土佐だけでなく伊予にも勢力を伸ばしていた四国の雄)
部元は、土佐一国を統治していた一条家を滅ぼし土佐を統一すると四国全土の制覇に乗り出した。その直後織田信長が本能寺の変で亡くなり遺志を継いだ豊臣秀吉の四国制圧に秀吉に下り、関ヶ原の戦いでは西軍に組したため領国は没収された。
代わって土佐24万石の藩主として入国したのが山内一豊である。
一豊が慶長6年(1601年)に浦戸城入国に際し長宗我部の遺臣は浦戸城占領して抵抗した。これを排除した一豊は不満分子の遺臣達を弾圧し山内家臣と地侍の身分の格差をつけて支配と統治の体制を固めた。
これが維新まで続いた(下士・郷士)と上士の身分の差が、土佐藩士下級武士が勤王の志士として活動する事になったのではないのか??・・私の解釈の間違いがあるかも・・である。
伊予人としては土佐人羨ましく見える。新日本の夜明けの原動力となりまたいろんな凄い人物が出ている。
藩政時代親藩であった伊予松山藩は幕末賊軍となり維新を向え一時期土佐藩預かりとなる。
土佐藩の隊長、小笠原唯八の配慮で、長州征伐の恨みをはらそうと乗り込んできた長州藩をなだめて返し松山領内の混乱を回避する事が出来平民は難を逃れたのである。・・土佐には恩義がある。