EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古揮毫石碑紀行 51 久万高原町の碑

2016年02月29日 | 伊予松山歴史散策


三社神社の「注連石(しめいし)」に刻まれた好古揮毫の文字
写真左の石柱=昭和3年11月建之 陸軍大将秋山好古謹書
右の石柱=御大典記念

1、碑   文 :  御大典記念(昭和天皇の即位記念)
2、所 在 地:  上浮穴郡久万高原町中組  三社神社 「注連石」
3、揮 毫 者:  陸軍大将 秋山好古
4、建 立 者:  不明
5、建立年月日:  昭和3年11月
6、石碑大きさ:  高さ 3m 70cm  表幅 42cm  横幅 36cm
7、石碑の由来:  不明
8、石碑の材質:  コンリート

全国で始めて原稿が発見された。

揮毫原稿について:秋山好古が揮毫した石碑は現在、全国に52基が発見されているが、その直筆の原稿は1枚も残っていなかった。
此の度、上浮穴郡久万高原町中組の三社神社で、全国初となる直筆原稿が発見された。
好古に揮毫を依頼した同神社先々代の小野義直宮司が、直筆原稿を軸物にして保管していたのを、
現宮司・小野哲也さんが発見された。
発見の知らせを受けて、小野宮司さんのお宅を訪れて直筆原稿の軸物をお借りして、許可を得て複製し、平成28年1月11日開催の「秋山好古生誕157年祭」で披露し、公開された。
その後秋山兄弟生誕地に掲載し多くの秋山好古の愛好者に見て頂いている。
原稿をよく見ますと、石工が石に刻印する作業に必要とされる鉛筆でなぞった個所があります。


昭和3年11月建立された「御大典記念」と揮毫された三社神社右側の注連石。




昭和3年11月建立された三社神社左側の注連石に揮毫者である「秋山好古の名前が刻まれている。


全国で始めて発見された原稿で、好古謹書:注連石「御大典記念」と揮毫者の「陸軍大将 秋山好古謹書」で三社神社の先々代の小野宮司さんが大切に軸物として表装し保管されていた。




三社神社沿革:平成27年7月16日(月)午前11時30分、上浮穴郡久万高原町中組(旧面河村大味川)に鎮座する三社神社へ取材に行って来ました。
三社神社の沿革は、愛媛県神社誌によると、延暦23年(804-平安時代)6月、詔によって安芸国厳島明神を勧請したという。
天正18年(1590-豊臣秀吉時代)11月、三社大明神と号した。元禄3年(1690-第5代将軍徳川綱吉時代)と安永7年(1778-第10代将軍徳川家治時代)に社殿を改築。
明治12年(1879)、三社神社と改称された。・・愛媛県神社誌より


三社神社の拝殿で、正面に「三社神社」の社号額があり、多くの絵馬が奉納されていた。


その絵馬である。


境内には大きなご神木があった。


平成28年1月11日開催された秋山好古生誕157年祭に式典会場の舞台に掲示し御大典記念の原稿(小野宮司さんの許可を得て複製)を公開した。


1月31日から複製した原稿を秋山兄弟生誕地に一般公開を始めた。(小野宮司さんの許可を得て複製した原稿を展示)


地元、愛媛新聞に記事として掲載、新聞を見た人達が「全国で始めて発見された原稿」を見聞に秋山邸に来られています。 
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私の散歩道にも春の気配

2016年02月27日 | 伊予松山歴史散策


私の一番好きな季節到来である。
2月下旬から3月に掛けて、先ず日差しが冬期から春季に変化、吹き抜ける風も、陽光も温もりを肌で感じ、何よりも日照時間が長くなり気分も爽快になる。川縁には色んな花が咲き、川辺には水鳥が戯れいい季節到来である。
秋は一日毎に日が短くなり、気温も下がり、黄昏となり気分が灰色になるから嫌いである。
では、私の散歩道を見て下さい。
画像は、川附川で、堤防には菜の花が咲き誇っていて春が来たなと感じながらこの道を付近の住民たちは散歩をする。
愛犬を連れて、ジョギングする人、様々な人が散歩する気持ちのいい道である。


我が家から見た天山で、散歩は天山を一周、約40分掛けて。


天山神社の入口で、時々長い石段を上りお参りをする。
天山は、奈良県の天野香具山と姉妹の山であると言われており、神話の山である。


天山から見た伊予松山城。
加藤嘉明が松山城築城に際し第1番候補地として徳川家康に許可申請をした地が天山で、第2番候補地として勝山を(現在の松山城)第3番候補地が御幸寺山で、当時家康は第2番候補地に許可が下りていたと言われ、嘉明は勝山に城を築城したかったので第2番候補地として申請したと言い伝えがある。


天山の南側から見た中世の古戦場「鎌倉時代、伊予の宮方と幕府方が戦った」があった星岡山(別名・五ツヶ森)で、伊予4山「天山・東山・星岡山・土亀山」の一つである。・
星岡山には、陸軍の三太郎(宇都宮太郎・桂太郎・仙波太郎)と言われた一人、陸軍中将・仙波太郎(陸軍大学校、一期生)が建立した石碑がある。(岡薬師如来の裏に)
土亀山には、陸軍中将・仙波太郎の墓があり、正岡子規が詠んだ「凩にはひつくばるや 土亀山」明治25年 終わりの冬の句がある。


少し足を延ばし星岡山に行くと菅原道真公が座ったと言い伝えの有る「御石」がある。星岡山は五つの丘が繋がっていて、一番北の端の山に「辰岡天満宮」があるが、社殿の後ろにある。


天山の北側から南に来ると、川附川が小野川に合流する所に出る。
国道33号線天山橋東側に「伊丹十三記念館」があり館長は奥さんの、宮本信子さんで、時々おいでになる。そして「宮本信子のジャズライブ」も開催される。
また近くには、中世の城跡、縦渕城跡があり、小野川は中世縦渕川と言っていた。
縦渕城は、鎌倉時代蒙古襲来の時(弘安の役)博多湾で河野の後築地として呼ばれ伊予水軍を率いて活躍した河野道有の居城であった。


川附川の堤には、菜の花も何時の間にか春を感じたのか咲き誇っていた。


道筋には水仙も咲いていた。


小野川では、親子の鳥が楽しそうに水遊びをしている。


多くの鳥たちが水遊びをしていた。


私は散歩する時は必ずカメラ持参で、しかし鳥の写真は撮ったことが無く、従って鳥の種類も知らない。


珍しい光景を見たのでシャッターを押した。


川の水も春の温もりを感ずる。


今年の冬期は温暖であると、ある気象予報士は言っていたが自然現象はそうは行かないもので寒暖の差が激しく結構寒い日がある。
しかし菜の花や、鳥たちは春の気配を感じ、花を咲かせ、鳥は水遊びをしていた。
昨日の松山は、氷点下0,5度まで下がったが昼間は暖かな日差しがあり、散歩道も春の気配を感じながら歩いた。もうすぐ3月が来るから。

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秋山好古揮毫石碑紀行 50 大洲市長浜町の碑

2016年02月26日 | 伊予松山歴史散策


大洲市長浜町戒川甲245番地1の三嶋神社にある社号碑「三嶋神社・御大典紀念」で今までの石碑調査で一番苦労を要した。・・特に道が隘路で、多くの分岐点が有りガードレールも無い普通車一台しか通れない細い道であった。・・カーナビゲーションにも該当しない地点なので。
三嶋神社には宮司居なく、他の数社を兼任しており、宮司自身経路は知らなかった。何時も地元宮総代の車に同乗して行くから分からないと言った。

1.碑   文 :  三嶋神社
2.所 在 地:  大洲市長浜町戒川甲245番地1
3.揮 毫 者:  陸軍大将 秋山好古
4.建立年月日:  昭和3年御大典紀念
5.石碑大きさ:  高さ2m39cm 横幅64cm 厚さ43 ㎝
6.石碑の由来:昭和3年11月10日、昭和天皇の即位の礼が行われた。
好古が揮毫した石碑は、現在全国に52基発見されているが御大典記念に合わせて建立された石碑が10基ある。
三嶋神社もその一つである。


ガードレールも設置されてない隘路を難儀して登るとやっと三嶋神社に着いた。
すると画像の様に若い女性二人が三嶋神社の社号碑を見聞していた。
少し伺ってみた・・誰が書いたか知っておられますか?・・失礼な質問をすると、秋山好古さんが書かれましたと返答が返って来た。
驚きであった!!貴女達よく知っておりますねと尋ねると、以前松山の秋山兄弟生誕地の近くで生活をしていて、生誕地の好古さんの石碑の写真を見ておりましたので・・だけど、三嶋神社の石碑は無かったですね。
現在は、神社近くにある実家に帰っております。・・でした。そんな会話をして、後ろ姿の写真を撮らせて頂いた。(顔を写さない条件で)
女性に帰り道を伺うと、JR白滝駅方向に下りる方が分かりやすいからと教わり其方に下りた。
しかし分岐する地点が結構あった。・・迷路の神社であった。


今回の石碑所在情報を頂いた方は、伊予市三秋在住の私の知人、日山貞治氏からである。
日山氏から道は分かりにくいからくれぐれもお間違えの無いように注意して行かれて下さいと助言を頂いた。
三嶋神社には、JR八多喜駅、又は、JR白滝から登る道があるが、私はJR八多喜駅近くの綿六旅館の方に経路を教えて頂き神社に向かったが、道路は狭隘なうえ分岐点が多く辿り着くのに大変苦労した。
今まで一番の難所の取材であった。


社号碑の裏面に御大典紀念建立とあり、「記」が「紀」であったのも今回初めてである。
記と紀の違いは・・
『大漢和辞典』が「紀念は俗用」と書いたのが原因であるのか、『広辞苑』が「紀念は誤用」と書いたのが原因であるのか、等がはっきりしないと、分かりません・・ある。
紀念、という言葉を時々目にしながら、記念との違いは何だろうかとはあまり意識せずに居たのですが、辞書で調べてみるとどうも意味に違いはなくて、中国の表記では「記念」ではなく「紀念」を用いる場合が多いらしい。
日本でも大正期の文学では紀念が一般的だったように思うし、紀には「記憶に留める」、念には「懐かしく思う」という意味がそれぞれあるようで、紀念には「物事、人物を長く記憶に留める」という名詞としての意味があるという事が分かると、言葉の美しいのを感じるのと同時に、日本でも紀念という表記で居て欲しかったように思います。・・とある記述があった。


社号碑正面左側に揮毫した秋山好古の名前が刻まれていた。
何故か名前が良く見える様にふき取った形跡があった。


社号碑斜め後ろから見た。


三嶋神社の鳥居を潜り境内に入ると社は広々としていた。
注連石があり揮毫は、陸軍中将正四位勲二等功五級 烏谷 章であった。
烏谷 章は秋山好古の後輩で、一時期松山同郷会の役員を歴任したことが有る。


三嶋神社に辿り着くには苦労したが、神社境内は広々としていた。
標高は、400m位あり好古揮毫石碑の中で一番高い所にある。
画像は、三嶋神社社殿。
三嶋神社の沿革は、保元2年8月15日に越智通次が大山祗神社の御分霊を、喜多郡横松村長尾に鎮祭したのが創始であると言われ、神紋も大山祗神社と同じ「折敷に三文字」である。
三嶋大明神と称し、地方総鎮守の大神と崇敬された。
元和2年、加藤公が大洲藩主に移封とともに祈願所となる。
天正の頃まで川下18ヶ村と伊予郡上灘、下灘まで産土神として尊崇を集め、天明年間8ヶ村の総鎮守となり、境外末社50社を有していた。
明治以降三嶋神社と改称、明治44年天満宮を合祀した。
現本殿は、天保4年、拝殿は、寛延元年の再建である。・・愛媛県神社誌より引用。


拝殿内で、沢山の絵馬が奉納されており、何故か力士の絵馬が沢山あった。


拝殿には、二つの社号額が掲げて在り、右側に「三嶋大明神」左に「三島宮」があった。


本殿で、造りは手の込んだものであり、腕のいい宮大工が造ったのであろう。
立派な本殿であった。


境内には、御大典記念の石碑が建立されており、建立者は、白滝村分會と昭和3年11月建立と記されていた。
揮毫者名は記名されてなかった。

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秋山好古揮毫石碑紀行 49 愛媛県護国神社の碑

2016年02月24日 | 伊予松山歴史散策


松山市御幸一丁目476番地 愛媛県護國神社に再建立された天壌無窮の石碑。


1.碑   文 :  天壤無窮(てんじょうむきゅう) 昭和3年御大典・清水小学校開校記念碑
2.所 在 地:  松山市御幸一丁目476番地
3.揮 毫 者:  陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者:  裏面に建立者20数名の先生記載殆ど判読困難
5.建立年月日:  昭和3年 
6.碑石大きさ:  縦・1m35cm  横・ 1m10cm  厚み・  35 ㎝
参考資料 : 昭和3年11月3日、清水小学校が開校され、同年11月10日、昭和天皇即位
の礼が行われたことに記念して20数名の先生方が醵金し建立した。
天壌無窮とは:天地と共に窮まりの無い事。永遠に続く事。
天壌は、天と地の意で、無窮とは、きわまりないこと。終わりがないこと。
     
 昭和20年10月2日、連合国軍最高総司令部が設置され、司令部の命令通達の一つとして教育施設に軍人が揮毫した石碑、扁額等々の撤去命令があった。(軍国主義教育の廃止・天皇・皇室の神聖性の除去、国家神道の廃止)
この事により「天壌無窮」の碑石を撤去して清水小学校の用具室に保管してあったのを、平成7年10月、渡部校長の許可を得て愛媛県護國神社、波爾 荘(はにさかえ)宮司の努力で境内に再建立された。
再建立の経緯は私が直接、波爾 荘宮司に伺った。
碑石が割れているのは、撤去作業時に破損したものである。
秋山好古は、当時北豫中学校長在任中であり清水小学校から揮毫を依頼したものである。
なお、醵金で建立した先生方の名前が碑石裏面に刻印してあったが、風化して消えて見えない。

参考事項:昭和16年3月、国民学校が公布され教育の目的は、「皇国(こうこく)ノ道ニ則(のっと)りテ初等普通教育ヲ施(ほどこ)し国民ノ基礎的練成ヲ為(な)スヲ以(もつ)テ目的トス」(第一条)とあって、「皇国(こうこく)ノ道」とは「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スル道」と意味づけされたと言う。・・天壌無窮の語句が教育勅語の中にある。
その、天壤無窮の碑が校庭にありそれも揮毫が陸軍大将である事が進駐軍の遺憾とするところであった。
現在天壤無窮の意味を、広辞苑・大辞林で見てみると、天地とともに永遠に続くこと。
恵まれた天地が終焉なく永続される様をいう。・・とある。


石碑が割れているのは、撤去作業時に破損したもので、二つに割れた石碑は、平成7年10月まで、松山市立清水小学校の用具室に保管されていた。
愛媛県護國神社、波爾 荘宮司はこの石碑を発見されいろんな努力をされ、県護國神社境内で最高の場所に再建立された。そして全国の護国神社に秋山好古揮毫の石碑が建立されているのは、愛媛県護國神社が唯一である。
これは、波爾 荘宮司の努力である。



天壌無窮の石碑裏面で、建立に携わった先生方の名前が刻まれていたそうだが、今は風化して見えない。
  下部二行で、右に・・奉祝 昭和??
        左に・・御大典並開校記念と書かれているのが僅かに判読出来る。
昭和天皇の即位の礼は、昭和3年11月10日、京都御所で行われた。
御大典記念の石碑は、即位の礼を記念して建立されたもので、好古揮毫の石碑も4基ある。


愛媛縣護國神社正面で神社の由緒は:
愛媛縣護國神社は、明治32年4月16日、招魂社として道後村持田に創建、(現松山東署付近)され、大正2年10月3日、愛媛県立農業学校創設のため、松山市新立町多賀神社に移遷、昭和13年3月15日、愛媛招魂社と改称した。
同14年4月26日、愛媛県護國神社となり、神饌幣帛料供進神社に指定され、同年10月9日、御幸に社殿竣功し奉遷した。
昭和20年7月26日、戦災により社殿炎上、同21年9月30日、連合軍占領下にて神道指令により社号を御幸神社と改称、同27年9月8日、サンフランシスコ講和条約締結により、愛媛県護國神社に腹称した。
昭和30年10月1日、社殿竣功遷座執行、同44年10月10日、創立70年祭御鎮座30年記念大祭を執行した。・・愛媛県神社誌より



昭和3年11月3日、第六尋常小学校と御幸尋常小学校を合併して創設され、校名を清水小学校とした。
画像は、清水小学校時代の天壌無窮の石碑。


好古が揮毫した石碑で撤去命により撤去され、他の地に再建立された石碑が3基ある。
一つが、愛媛県護国神社にある「天壌無窮」で元は松山市立清水小学校にあった。
二つ目は、宇和島市吉田町安楽寺にある「忠魂碑」で元は喜佐方小学校にあった。
三つ目が、西予市城川町の「忠魂碑」である。

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秋山好古揮毫石碑紀行 48 北宇和郡松野町の碑

2016年02月22日 | 伊予松山歴史散策


北宇和郡松野町蕨生(わらびお)甲1番地・天満神社にある「忠魂碑」。

好古揮毫石碑の中で、愛媛県最南端にあり、この神社を探すのに一苦労した。
度々道を間違え、地元の方から所在を聞きながらたどり着いた。
地名も難しい呼び名である。


1.碑  文 :  忠魂碑
2.所 在 地: 北宇和郡松野町蕨生(わらびお)甲1番地  天満神社  
3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者: 吉野生村在郷軍人分會
5.建立年月日: 大正14年 4月
6.石碑大きさ: 高さ1m60㎝  横幅35㎝ 

忠魂碑建立は、大正14年4月、秋山好古が北豫中学校校長に就任した年の揮毫である。
日本の歴史の時代区分は通常、飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町・安土桃山・江戸と政権の中核を呼称するもので、大正時代は(年数が大正元年〜大正15年で、期間は14年間)日本史で一番短い時代区分である。
大正時代は、文明開化から日清、日露の戦いを経て近代国家構築の真っ最中、大正12年関東大震災が発生し、世界的にも国内的にも波乱万丈の激動の時代、明治時代まで呉服屋だった三越や白木屋、大丸、高島屋といった老舗(しにせ)が、次々に「百貨店」に変身を遂げ、明治神宮外苑に「神宮外苑野球場」ができたのが大正15年。
その前の年には「東京六大学野球」がスタートしている。
短い大正時代にいろんな大きな出来事があった時代に建立された忠魂碑である。


石碑左側に「吉野生村在郷軍人之分會」と刻んである。
吉野生村(よしのぶむら)は、昭和30年まで愛媛県北宇和郡にあった村であり、現在の松野町の東半分を占める農山村、昭和の合併で松野町となり、現在に至っている。平成の合併はしていない。
愛媛県内で平成の大合併をしてない自治体は、この松野町と、伊予郡松前町のみである。
藩政時代、宇和島藩であったが明暦3年伊予吉田藩となり、維新以降、明治22年 12月15日、 町村制・市制施行時の吉野(よしの)、蕨生(わらびお)、奥野川(おくのかわ)の3ヵ村の合併により吉野生村となる。昭和30年 3月31日 、 松丸町との1町1村の合併により松野町となり現在に至っている。


忠魂碑向かって右側で、大正14年4月建立とある。
秋山好古が北豫中学校校長に赴任した時である。
誰が好古に揮毫依頼したのか詮索してみたい。・・もしかして山下亀三郎の紹介かも?


石碑「忠魂碑は」天満神社拝殿前にひっそりと建っていた。
大東亜戦争前は、多分石碑辺りは草一つなく整然と手入れが行き届いていたでしょうが、現在は余りにも平和な時代になり、当時祖国の為に尊い命を亡くした英霊に対して何も感じなくなったのか?御霊が可哀相な気がした。・・この忠魂碑には当時の村民の思いが籠められていたと思うのに。
これに比べて新潟市の忠魂碑は、現在でも毎年忠魂碑の前で慰霊祭が行われている。素晴らしい心配りである。その行為が新潟市民文化遺産に認定されたのだと私は感じる。

註:新潟市の「忠魂碑」の所在地は、新潟市江南区沢海二丁目15番30号(旧新潟県中蒲原郡横越村大字沢海)の、北方文化博物館に隣接している日枝神社にあります。


北宇和郡松野町蕨生甲1番地にある 天満神社正面。
忠魂碑は、入口の右側に樹が見えるが、その後方に建っている
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