EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古揮毫石碑を訪ねて 8、陸上自衛隊習志野駐屯地の石碑

2018年12月14日 | 伊予松山歴史散策

陸上自衛隊習志野駐屯地の正門右側の標柱で、自衛隊広報官の許可を得て撮影した。
撮影条件は中の様子が写らないことであった。
この駐屯地に第1空挺団が駐屯しており、陸自最強と言われている部隊である。
そして駐屯地の一角に秋山好古の絶筆となった「軍馬慰霊之碑」が建立されている。

精鋭無比、陸上自衛隊習志野駐屯地に第1空挺団は最強と言われている部隊の表示は正面左の標柱に掲げてあった。

軍馬慰霊之碑の写真取材には申請書を提出した。
申請内容は、取材目的に添付として私の経歴と父親の軍歴を付記した。

申請書には、

1、     取材目的
2、     取材者&取材者の経歴
3、     付記として:私の親父の軍歴を添付した。
4、     昭和4年3月、秋山好古が校長をしていた北豫中学の卒業生であること。
旧関東軍、歩兵第80連隊第30大隊附、昭和19年3月15日、海上機動部隊が編成され、第2旅団機動第3大隊、第1中隊附、昭和20年4月28日、ニューギニアのサラワテイ島にて斥侯隊長として敵情報収集中、敵兵と遭遇戦闘中戦死と明記して提出した。
註として、斥侯隊員は無事全員生還、隊長であった親父のみが戦死と記した。
取材当日は、広報官の手厚い扱いを受け良き取材が出来た。
そして、広報担当官の案内で「軍馬慰霊之碑」の建立地に行き石碑を見た。
今まで見てきた石碑とは違った立派な大きな碑で騎兵学校跡に、そして学校長を務めた地に、親父が教わった恩師が揮毫した石碑を見て感無量であった。

この石碑の揮毫は、昭和5年10月5日の筆で秋山好古の絶筆となった「軍馬慰霊之碑」である。

 1    文 軍馬慰霊之碑忠魂碑

2.所 在 地:  千葉県船橋市薬円台3-20-1 陸上自衛隊習志野駐屯地・第一空挺団内

3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古

4.建 立 者: 記載無し

5.建立年月日: 昭和5年11月 

6.石碑大きさ: 高さ 3m17㎝  横幅 91cm 

7.その他   : 石碑の建立場所は、当初の場所とは違い、駐屯地整備の関係で現在の場所に変更したと説明を受けた。

 軍馬慰霊之碑の経緯

陸軍騎兵学校の前身である陸軍乗馬学校は、明治21年東京市麹町区元衛町に創立、同24年に東京府荏原郡目黒村上目黒(現在の目黒区大橋二丁目)に移転、明治31年陸軍騎兵実施学校となり大正5年12月千葉県千葉郡二宮町(現在地)に移転、翌6年9月陸軍騎兵学校と改称された。
習志野は、日本騎兵の中枢だったため軍馬慰霊碑が騎兵学校に建立された。
日本騎兵の父と言われた秋山好古は、第2代目騎兵学校長を務めその関係で、秋山好古に軍馬慰霊之碑の揮毫依頼があり昭和5年10月5日揮毫した。
同年11月4日、体調を崩し東京の陸軍軍医学校病院にて逝去、72歳であった。
建立されたのは、昭和5年11月で好古は逝去した後でこの軍馬慰霊之碑を見ることは出来なかった。
昭和11年11月1日秋山好古大将伝記刊行会発行の「秋山好古」の背文字は、その署名を写したものである。

各時代の秋山好古

秋山好古は、伊予松山藩徒目付の家系に安政7年1月7日、秋山久敬の3男として誕生、幼名は信三郎で元服し好古と改名した。正式には秋山信三郎好古で、弟に秋山眞之海軍中将がいる。
好古の命名は、父久敬が論語の、子(し)日(のたま)わく、述(の)べて作(つく)らず、信(しん)じて古(いにしえ)を好(この)む。竊(ひそ)に我(わ)が老彭(ろうほう)に比(ひ)す。により父久敬が命名した。

好古は、御歳16歳の時福沢諭吉の学問のすすめを読み、これからの日本は青少年の教育が必置であることを考え学校の教師になることを志した。
大阪師範学校(現大阪教育大学)に入学し、卒業後愛知県師範学校附属小学校(現在の愛知教育大学付属名古屋小学校)の教師として赴任した。
名古屋には、伊予松山藩出身の、山本忠彰名古屋鎮台法務官と、師範学校付属小学校主事(校長代理)の和久正辰がいた。

この二人の強い勧めで軍人になることになる。
学校の勤務が終わると毎晩のように呼び出され、教師もいいが此れからは軍人の世界、軍人になるように勧められ、その席に何時も酒が出た。それ以後酒をたしなむようになった。
そして学校を依願退職し、月給30円の愛知県訓導を免じ、新たに東京予備教員を命じられ月給8円を給せられ、これは陸軍士官学校の試験に応ずるための特別な取り扱いであった。(和久正辰校長代理が仕掛けた。)

東京には山本忠彰名古屋鎮台法務官が引率し、陸軍士官学校3期生として入学した秋山好古は軍人の世界に入った。
時正に激動の時、明治10年西南戦争が勃発した年だった。

画像は、和久正辰・・好古を軍人に仕立てた人。

伊予松山藩は親藩で、朝敵とされた土地柄で伊予松山藩最初の軍人である。
松山出身の、山本忠彰名古屋鎮台法務官、そして愛知県師範学校附属小学校主事(校長代理)の和久正辰、この二人の強い勧めで陸軍士官学校第3期生として入学、騎兵科を専攻したのは、担当官であった寺内正毅の(後の内閣総理大臣)勧めで騎兵を専攻した。
勧めた理由は、背が高く、足が長く馬上に適した体つきであったから!!
その後、近衛師団長、教育総監を歴任、大正12年元帥に推薦されるもこれを辞退、大元帥(大正天皇)は驚いた。
未だかって元帥を辞退した者はいなかったからだ。

大元帥は元帥を辞退した秋山好古大将に、特旨として官位従二位を与え好古は、官位従二位を拝命し大正13年郷里の伊豫松山から強い要望に答え北豫中学校長(現、愛媛県立松山北高校)として昭和5年3月まで本来の教育者として勤務し、故郷の青少年の教育に尽くし同年3月北豫中学校長を辞任、11月4日東京・陸軍軍医学校で永眠(享年72歳)現在東京青山霊園に眠っている。

松山市の鷺谷墓地にある秋山好古の墓。
松山市の墓は、好古は軍人となっても教育者として故郷の青少年の育英に尽くされた功績に対して未来永劫を期して、東京の宗家の許可を得て、青山霊園から分骨をして松山にも墓を作った。(松山の人々は永遠に秋山好古校長先生の事は忘れません)の意味がある墓である。

東京青山霊園にある秋山家の墓所。

秋山好古は生前、墓は要らぬ、家も要らない、銅像など作るで出ないと言って逝去した。
家族は、肩書の入った仰々しい墓石(陸軍大将従二位勲一等功二級)は作らず秋山家の墓に家族と一緒に眠っている。
秋山好古の信条、「簡単、明瞭、質素、倹約、そして人は心穏やかで豊かであり、元気な間は働くべき、仕事はその気で探せば幾らでもある。」

座右の銘は「独立自尊」であった。

好古は、父の教え守り、勉強すれば貧しい人間にはならない、そして大きくなった暁には、私利私欲を捨て、世の為・人の為・故郷の為に役に立つ人間になりなさい。・・母の教え貫き72歳を全うした。
元帥を辞退したのも、母の教えの一つ「私利私欲を捨てて」が何時も脳裏に有ったのではないかと私は思うのである。!!

秋山家の墓誌。

秋山好古の墓所は、東京都青山霊園「西17通り右へ1種イ19号2側1番」にある。
北里柴三郎の右隣にある。
現在の墓石は、昭和62年6月に秋山宗家第10代秋山哲兒氏が作り替えた。
その時秋山眞之の墓は鎌倉霊園に移った。

東京都青山霊園案内図。

秋山好古の戒名。

(秋山宗家、第10代秋山哲兒氏提供)

戒名は、藩政時代であれば大名クラスとある人は言った。
大正13年3月、東京では大きな話題となり馬鹿呼ばわりする人も出た。
それは、元帥を辞退し、大将が田舎の私立の中学校の校長になるとは馬鹿な男よ!!だった。
しかし好古は、馬鹿呼ばわりを聞く耳持たず、単身で松山に帰って来た。
元帥を捨て、錦をも捨ててであった。
戒名は道元が興した曹洞宗大本山永平寺の院号が凄い。
永平寺禅の世界「より無我になり、欲や執着がなくなり、教えてあげるのではなく、教えさせていただく」の気持ち「どちらにも傾かぬ心、差別しない心」好古の心境は道元禅師の教えを会得し松山に帰ったのではないか。

好古は秋山家を相続、その時の地券である。

好古は、長男則久が早くして隠居した。次男は他家に養子に行ったため3男好古が家督相続した。
秋山家は代々長男の名前には久の字が付く。
秋山家始祖は秋山宗清、第3代将軍徳川家光の時今治藩、藤堂高吉(高虎の養子)家臣であった。
藤堂高吉は今治藩城代から、伊賀名張藩2万石の城主となり、始祖秋山宗清は高吉の家臣として伊賀名張行ったが、再び今治藩に帰り、その後伊予松山藩徒目付として明治維新を迎えるのである。
秋山宗清は何らかの理由で伊予松山藩藩士となったが詳細は分からない。
初代秋山家は、信久・久良・久軌・軌久・久微・久敬(好古の父)・則久・好古・信好・現当主第10代秋山哲兒氏である。
好古の代から久の文字がなくなった。

画像は陸上競技大会で優勝した時の記念写真である。 

大正13年3月から昭和5年3月まで秋山好古は郷里の伊予松山で、北豫中学の校長を務め、教育の中に体育を取り入れ中等教育を推進した。
ある時期、県立に移管の話があったが、好古は私立でやっていくほうがいいとの一言で県立移管は中止になった。
その後北豫中学に行き勉学したいとの希望する者が増し、施設を増築した。
現在の松山北高等学校の第2体育館は、好古校長時代に建築されたものである。
元帥を固辞し、錦を捨てて田舎の伊予松山の北豫中学校長として6年3ヵ月、郷里松山に対する最後のご奉公であった。
昭和5年7月10日、松山を発ち少年時代の親友、新田長次郎が居る大阪に立ち寄り一泊し、翌日東京渋谷の長男信好の自宅に着いた。
同年8月赤坂区丹後町に移転、同年10月15日、陸軍医学病院入院、同年11月4日、72歳で逝去した。

大正13年3月北豫中学校長に就任した年の卒業証書。

秋山好古は大正13年元帥に推薦されるもこれを辞退し、子供と奥さんを東京に残し単身で松山の実家に帰り好古校長は、毎日生徒よりも早く登校して、今日もしっかりと勉学しようよと直接生徒に声をかけ、教員が欠勤、遅刻すると授業ができなくなることを避け自ら教団に立ち授業をした。その後教員の欠勤、遅刻も無くなったとある。
好古校長は、出張以外は大正13年3月から昭和5年3月迄の6年間、一人で生活をし、一日の休暇も取らず校長職を貫いた。

愛知県師範学校附属小学校時代から酒を嗜み、それが原因で晩年糖尿病になり、北豫中学校長の晩年合併症で左足の動脈が閉塞し始めた。
好古は、昭和4年校長を退職しようと考え、東京から奥さんの多美さんを呼び寄せ実家(現在の秋山兄弟生誕地)の整理とお世話になった人たちに夫婦で挨拶をして東京に帰る様準備、辞表を北豫中学校井上要理事長に提出するも受理されなかった。
受理されたのは昭和5年3月であった。
画像は、昭和4年、最後になるだろうとの思いで奥さんと北条の鹿島に出かけて時の写真である。前列左が秋山校長・子供を挟んで左が奥さんの多美さん。

昭和4年7月15日撮影。

画像の書籍が
昭和11年11月1日、東京市麹町区丸ノ内二丁目18番地、秋山好古大将伝記刊行会、代表桜井眞清から発行された「秋山好古」である。
この秋山好古の背文字は、陸上自衛隊習志野駐屯地に建立された「軍馬慰霊之碑」に書かれている「秋山好古」を写したものである。

秋山好古大将伝記刊行会、代表桜井眞清から発行された「秋山好古」は「軍馬慰霊之碑」に書かれている「秋山好古」の署名写したものである。

秋山兄弟生誕地で奉仕活動している研究員たちが陸上自衛隊習志野駐屯地に建立された「軍馬慰霊之碑」を見学に行った時のものである。

陸上自衛隊習志野駐屯地に建立された「軍馬慰霊之碑」の前に空挺館があり中を広報官の案内で見学した。
空挺館の前身は、騎兵連隊御馬見所で目黒にあったが大正5年に現在地に移転された。
大東亜戦争終戦後、GHQに接収され内装が一部変更されたと説明を受けた。

空挺館(旧御馬見所)の説明版。

明治44年に明治天皇が陸軍騎兵実施学校へ行幸する際、専用の御馬見所として創建されたのが空挺館の起源であると書かれている。

空挺館(旧御馬見所)の2階の部屋で、明治天皇はこの個所から騎兵学校の卒業式後行われる記念練成の演目すべてを観閲されたと言われている。

空挺館(旧御馬見所)の2階の部屋に置かれている皇族が利用された貴賓椅子が展示され、説明版もあった。

空挺館(旧御馬見所)に掲示してある、陸軍騎兵学校歴代校長の写真。
秋山好古は第2代目校長として写真があった。

前項、秋山好古揮毫石碑を訪ねて7静岡市の石碑で紹介した、秋山好古が一番信頼をした副官「豊邉新作」は陸軍騎兵学校歴代校長の中に第5代目校長として写真があった。

秋山好古の父久敬は、明治23年12月19日、松山で逝去、68歳であった。
その後好古は母、貞を松山から習志野薬円台に招く。
画像は、秋山好古が、母貞と生活していた官舎があった跡で、現在は画像の様になっている。

 

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秋山好古揮毫石碑を訪ねて 7、静岡県静岡市葵区の石碑「軍馬追悼碑」

2018年12月06日 | 伊予松山歴史散策

 

愛媛県松山市出身で静岡市在住の宇都宮さんからの情報で、現地取材に車で行った。

松山市から車で行ったが、静岡県に入ってから幾ら走っても静岡県で嫌になるくらい静岡県も新潟と時同様道のりは長かった。
洞慶院での取材後は、富士山を一周、御殿場から、河口湖に出て田貫湖で富士山を取り帰路についた。
さて、石碑の所在地は、静岡県静岡市葵区羽鳥にある曹洞宗・洞慶院の参道に建立されている。
平成30年12月1日現在、秋山好古揮毫の石碑は全国に52基発見されているが、二人が揮毫した石碑はこの石碑のみである。
揮毫者は、秋山好古でもう一人は豊邉新作である。
篆 書「忠魂」を秋山好古が揮毫し、題書「愛馬追悼碑」を豊邉新作が揮毫している。
建立者は、陸軍騎兵大尉従六位勲五等功五級、三浦金蔵氏、静岡市の出身で実家は薬局を営み金蔵氏自身も自宅で馬を飼い可愛がっていたそうだ。
当時の軍人は、皇国から与えられた機器と自分の健康管理に気を付け、いざ有事に備えて日頃の訓練をしていれば良かったが、騎兵隊員は、その上に軍馬の飼育と管理が大変な役割であった。軍馬なくて騎兵隊員は陸に上がったカッパ同然である。
よって騎兵隊員は大変馬を可愛がったと言われている。
秋山好古も東京の自宅で馬を飼っていたが、当時東京市の一部では自宅で馬を飼ってはいけない条例が施行され、好古は馬を飼ってもいい地区に移転してまで馬を可愛がったそうだ。
大正13年松山の北豫中学校長として帰郷した時、松山の自宅でも馬を飼うのではないかと心配して、内緒で東京から馬蹄さんが松山に来て様子を見たが、流石に好古も松山では馬を飼わず馬蹄さんは東京に帰ったそうだ。
三浦金蔵氏も静岡の自宅で馬を飼い大変可愛がっていたと伝えられている。その為この石碑を建立した。

石碑の題書「愛馬追悼碑」の揮毫者は、豊邉新作で秋山好古が最も信頼をした副官であった。
好古が教育総監時代、騎兵監をしていた。豊邉新作は、新潟県長岡の出身で、有名な長岡藩筆頭家老の河井継之助の従兄弟の子供で、豊邊新作の父と長岡藩家老、河井継之助は従兄弟同士である。

静岡県静岡市葵区羽鳥にある洞慶院の参道に建立されている「愛馬追悼碑」

 

1.         文 :  愛馬追悼碑・忠魂

2.所 在 地 :  静岡県静岡市葵区羽島1840番地    洞慶院・参道入口

3.揮 毫 者:  陸軍大将正三位勲一等功二級  秋山 好古・・忠魂

                             陸軍中将従三位勲二等功三級  豊邊 新作・・愛馬追悼碑

4.建 立 者:  陸軍騎兵大尉従六位勲五等功五級 三浦 金蔵

5.建立年月日:   大正 8年 4月 3日

6.石碑大きさ:   高さ 1m 65㎝ 横幅 82㎝  厚み 13㎝

7.石碑裏面撰文:  別段の通り

建立者、陸軍騎兵大尉従六位勲五等功五級、三浦金蔵は、愛馬追悼碑建立に及び、直属の上官であった豊邊新作に揮毫依頼したが、私よりも、秋山好古大将に頼んでやろうと取り扱った。しかし好古は豊邉中将が揮毫するようにと言ったが、二人とも譲り合い、結局二人が揮毫する事になった。石碑上段に「忠魂」を秋山好古が揮毫、題書「愛馬追悼碑」を豊邊新作が揮毫した珍しい石碑が建立された。

また、戊辰戦争の争乱から大東亜戦争に至るまでその間、馬や犬や鳩も数多く犠牲になった。
その御霊を弔い顕彰するため「軍馬・軍犬・軍鳩之碑」が各所に建立されている。

石碑上部に篆書「忠魂」を秋山好古が揮毫。

石碑の題書を豊邊新作が揮毫した。
揮毫者は、
   陸軍大将正三位勲一等功二級  秋山 好古   篆書 
 陸軍中将従三位勲二等功三級  豊邊 新作 題書
好古揮毫の石碑は、現在52基発見されているが、二人が揮毫しての石碑は静岡市の石碑だけである。

石碑に揮毫した二人の氏名が表記されている。

石碑裏面で、刻印が浅く殆ど読めない。

後日、静岡市葵区教委から頂いた石碑裏面の撰文。

石碑裏面に書かれている撰文解釈。

石碑の写真を撮影しようと思い石碑にいってみると、なんと石碑の前に車が2台駐車してあり写真が撮れなく所有者を探し、車を移動してもらい撮影した。

洞慶院の境内は広く、駐車場も十分に確保してあり、梅の樹が沢山植栽されていた。花の時期には観光バスで大勢の人が訪れる梅の名所だそうだ。

曹洞宗久住山の寺院、洞慶院の本堂。

曹洞宗久住山の寺院・洞慶院の住職さん、秋山好古揮毫石碑建立についての詳細は住職の代が変わり、その経緯は分からないと言われた。

 

洞慶院の案内図。
秋山好古揮毫石碑所在地を案内図に表示をしますと住職は言われた。
現在の案内図には、秋山好古揮毫の石碑所在地を案内図に表示してあると思います。

秋山好古には優秀で信頼できる副官が3名いた。
3名共に越後国、新潟県出身者であった。
その3名は「豊邉新作・建川美次・山内保次」である。

(写真:秋山好古と新潟の人びとより) 

先ず、豊邉新作である。

日露戦争当時豊邉新作は、秋山好古率いる騎兵第1旅団で、豊邉支隊長(大佐)として激戦地である黒溝台合戦で、ロシアの主目標だった沈旦保を、最も信頼する豊邉新作に死守させ猛攻をしのいだ勇者である。
豊邉の父と、長岡藩筆頭家老の河井継之助は従弟同士で、明治41年4月少将・騎兵実施学校長に就任している。
日清戦争終結後、予備役になるのではと思っていたところ、日露戦争が勃発、秋山騎兵第1旅団長から、重要な任務与えられその職務を全うした。豊邉は人を押しのけ、踏み台にしてまで昇進しようとはしない人柄で、秋山旅団長はそんな控えめな人柄と真面目で実直な豊邉新作を信頼していた。

建川美次は:

画像の「残影敵中横断三百里」建川斥候長の生涯の書籍となり、その後映画化された人物である。
建川美次は、明治37年暮れに日露両軍が対峙した今の中国東北部の沙河にあって、秋山第1旅団長の命令を受け、ロシア軍の動静、陣地の構築状況を調査する挺身斥侯隊を編成し、ロシア軍の敵中突破を図りながら、敵の背後を回って敵情を詳しく探り、偵察を報告している斥侯隊長である。
明治38年1月9日から2月1日までの23日間、1200kmの斥侯活動で、建川中尉を隊長とする斥侯隊は計6騎であった。
秋山第1旅団長は、予定の日程を過ぎても帰還しない建川斥侯隊は全滅したと思っていた矢先、人も馬もやつれはてた騎兵6騎が凄い情報を持って帰って来たのであった。
その後、建川美次は大東亜戦争開戦時、駐ソ連大使として昭和16年4月13日、松岡洋右とともに、スターリンやモロトフとの間「日ソ中立条約」に調印している。

(写真:秋山好古と新潟の人びとより)

23日間、1200kmの斥侯活動で、建川中尉を隊長とする斥侯隊は計6騎であった。
 極寒の時期の斥侯は、大変厳しい任務で、温暖な地方で育った者には務まらない任務、よくぞ23日間耐え抜いた斥侯隊員である。
斥侯隊長を任命するのは、秋山旅団長が任命するが、斥侯隊員を選任するのは、斥侯隊長が選出し旅団長が許可する。
斥侯隊員は、日頃から斥侯隊長と気質や考え方気心の知れた上に、体力堅固で

1、     記憶録が優秀
2、     俊敏さがあり
3、     協調性必要
4、     忍耐力旺盛
5、     ロシア語が話せ理解できる
6、     基本的に偵察であるが、時には攻撃、追跡の大きな任務がる・・小心者には務まらない任務である。

(写真:秋山好古と新潟の人びとより)

 山内保次は:
3人目の副官は山内保次である。
山内保次は、新潟中学・陸軍士官学校共に建川美次の1年後輩で、新潟中学時代は會津八一と同級生である。昭和になり新潟地区の司令官であった山内は昭和20年7月から同年10月まで伊藤辰治郎邸(現北方文化博物館新潟分館)で暮らしていた。
昭和11年1月11日松山市道後公園に建立された秋山好古騎馬像制作にあたり、山内保次がモデルになった。
好古騎馬像制作を受けた彫刻家、東京の「横江嘉純」は、秋山好古騎馬の姿は見たことないので制作を断ったが、秋山好古将軍銅像建設委員長・井上要の強い要望により引き受けた。
彫刻家「横江嘉純」に秋山好古の騎馬姿を披露し好古のモデルなったのが山内保次である。
秋山旅団長は、斥侯隊を建川隊と、山内隊を編成し斥侯活動に送り出す。
前記の様に、建川隊は予定を過ぎても帰還せず、全滅したかと思っていたが23日目に、馬も隊員もやせほそりて帰還した。
山内隊は、予定通りの日程で重要な情報を持って帰還し、激戦地となった黒溝台会戦で、ロシア軍の猛攻を秋山騎兵団が守り抜き日本軍の壊滅の危機を救った。
そして奉天大会戦でも秋山騎兵旅団が大きく迂回し敵後方を撹乱、ロシア軍の撤退を誘発し、日本軍を優位に立つ事が出来、日露講和条約締結に繋がる事になったのは、元を正せば、建川斥侯隊、山内斥侯隊の情報を基にした作戦が立てられた事であった。

山内保次がモデルになり制作された秋山好古の銅像。
好古大将死後高徳を慕うあまり、井上要氏が銅像建委員長となり、昭和11年1月11日、道後公園(中世の城郭跡・湯築城)内に建立された好古の騎馬像である。
作は、富山県出身東京在住の彫刻家横江嘉純である。
銅像は、昭和18年、先の大戦中に金属供出で撤去された。

昭和11年1月11日、の除幕式には、秋山将軍と縁故深き北豫中学校職員生徒600名、陸軍松山歩兵22連隊将兵500名、陸軍大臣、第1師団長、愛媛県知事、松山市長、その他来賓多数が参列し銅像建設委員長井上要氏の式辞で盛大な除幕式が行われた。
銅像の台座には、秋山好古の後輩、伊予松山出身の川島義之陸軍大臣の筆による頌功文刻まれた。
最後に遺族代表、秋山好古の長男、秋山信好氏の答辞で除幕式は終えた。
(昭和11年11月1日発行、伝記秋山好古より引用)

秋山好古騎馬像のレプリカ、現在、秋山兄弟生誕地・愛媛県立松山北高等学校・千葉県習志野市大久保・習志野騎兵連隊史跡保存会の三カ所に大切に保存されている。
画像の秋山好古騎馬像のレプリカは秋山兄弟生誕地が保存している。

昭和11年1月11日、道後公園「中世の城郭跡・湯築城」内に騎馬像が建立された。
好古大将死後高徳を慕うあまり、井上要が銅像建委員長となり寄付を募り建設、製作は、富山県出身、東京在住の彫刻家横江嘉純である。
この銅像は、先の大戦中に金属供出で鋳つぶされ幸いそのレプリカの一つが愛媛県立松山北高等学校に保存されていたので其れを参考に原作者の子孫の監修も受けて、T社のコンピュウタ―を駆使して制作図面を作成し、当時と同じ大きさに復元された。
完成は、平成17年1月18日 財団法人常盤同郷会が、秋山兄弟生誕地整備事業の記念として富山県高岡市で制作復元さし秋山兄弟生誕地に建立した。

愛媛県立松山北高等学校(旧北豫中学校)の校長室に保存されている秋山好古の騎馬レプリカ。
その上に秋山好古揮毫の扁額「荒怠相誡」が掲げてある。
「荒怠相誡」とは、(荒んだ心や怠け心を互いに戒め合う)として掲げられ、現県立松山北高等学校校訓のひとつとなっている。

千葉県習志野市大久保・習志野騎兵連隊史跡保存会にある秋山好古騎馬像のレプリカ。

行ってみたかった白糸の滝、取材の帰り観光。

静岡の石碑取材の帰りに。
前日は降雨で富士山は雲の中であったが、翌日は画像の様な素晴らしい富士が見えた。
この時期は山頂からのダイヤモンド富士を見る事は出来ないが、年間2回山頂からのダイヤモンド富士を見る事が出来る。4月24日・8月20日前後7日間だそうで、時間は午前6時頃だそうだ。
撮影場所は、田貫湖である。
画像は、5月18日、午前5時16分撮影。

5月18日、午前4時55分撮影。

5月18日、午前4時37分撮影。

田貫湖では撮影者の為に階段状に造られた撮影用のデッキが作られていた。

 

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秋山好古揮毫石碑を訪ねて 6-1、千葉県鎌ヶ谷市石碑、上野・浅草界隈散策

2018年11月30日 | 伊予松山歴史散策

画像は、JR上野駅

上野駅は、東京駅や新宿駅と違った駅で、故郷を感じさせる哀愁を漂わせる雰囲気のある駅である。
千葉県鎌ヶ谷市の道野辺八幡神社を訪問し上野に戻って来た。
上野駅は超久しぶりである。
所用で秋田市に行く時、東北新幹線乗車の為上野駅に来たとき以来で、当時の東北新幹線は上野発であった。
長いエスカレーターで地下深く降りた覚えがある。
30年も前の事であるが。
鎌ヶ谷市から上野駅周辺を散策、構内で寝起きをしている吾人が数人おり、どんな事情があるのか都心の大きな構内不思議な光景であった。
その後浅草界隈散策に行った。

平成23年6月10日、新潟県魚沼市の石碑取材後、上越新幹線の浦佐駅まで車で送って頂き、浦佐駅発:東京行13時49分発のMXAとき326号に乗車、上野駅で下車宿泊、翌日千葉県鎌ヶ谷市道野辺神社に眠っている秋山好古揮毫の石碑の再建立依頼に伺った。
その時宿泊したホテルである。
ホテルの隣が東京地下鉄本社ビルであった。

ホテルから見たJR上野駅。

ホテルは、JR上野駅前で立地条件は最高に利便性の高いホテルであった。
しかし眠りについてからが大変であった。
ホテルの前に首都高速道路があり、深夜になるとパトカー🚔のサイレンの音、救急車のサイレンの音で安眠出来なく困った。

上野駅といえば・・これが頭に浮かぶ 

上野駅広小路口前のガード下に「あゝ上野駅」の歌碑が建立されていた。
当時無名の若手歌手だった井沢八郎が歌った。
本人も歌手を志して青森県から単身上京した井沢自身の人生も重なり空前の大ヒットとなった。
昭和55年カラオケ専用装置が置かれ歌集のトップに掲載されたのが「ああ上野駅」であった。
最近は「ああ・・」の付く曲が多くなり、ああ上野駅は後の方に掲載される様になった。

昭和35年代に集団就職列車に乗って上京した若者の応援歌「ああ上野駅」の歌碑が平成15年7月6日建てられた。
場所はもちろんJR上野駅前、多くの県人が歌碑の前で目頭を熱くするという。
私が写真を撮っている時も年配の人が感慨深そう、懐かしそうに銅像を眺めていた。
昭和29年4月5日、中学を卒業したばかりの少年少女622人を乗せた、8両編成の就職専用列車が青森駅から上野駅に向けて出発した。
集団就職列車の第一号であった。
戦後の日本の繁栄を支えた方々、ご苦労様でした。

歌碑の一番下に設置されている「ああ上野駅」の歌碑の由来。

若手歌手だった井沢八郎が歌い有名になった曲「あゝ上野駅」の歌詞。

上野駅広小路口前のガード下に「あゝ上野駅」の歌碑が建立されている。

1、どこかに故郷の 香りを乗せて 入る列車の なつかしさ
上野は おいらの 心の駅だ くじけちゃならない 人生が
あの日ここから 始まった

2、就職列車に 揺られて着いた 遠いあの夜を 思い出す
上野は おいらの 心の駅だ 配達帰りの 自転車を
止めて聞いてる 国なまり

3、ホームの時計を 見つめていたら 母の笑顔に なってきた
上野は おいらの 心の駅だ お店の仕事は 辛いけど
胸にゃでっかい 夢がある

上野から浅草に行き東京スカイツリーをカメラに収めた。
当時は未だ建設中で最後の作業真っ最中であった。
その後神奈川県平塚市の秋山好古揮毫の石碑調査に行った時が、東京スカイツリー開業した初日であった。

平成24年5月23日、開業2日目の東京スカイツリーで、神奈川県平塚市の秋山好古揮毫の石碑調査に行った時に撮った。

平成24年5月23日、開業2日目の東京スカイツリーで、神奈川県平塚市の秋山好古揮毫の石碑調査に行った時に、吾妻橋・浅草水上バス乗り場から撮った。
開業初日(5月22日)は降雨が酷く写真を撮れる状態ではなかった。

 

浅草の雷門、大勢の観光客が記念の写真を撮っていた。

浅草のシンボルマーク「大提灯・雷門」江戸文字匠の大家、橘 右之吉さんが揮毫された。

大提灯・雷門は、直径3.6m、高さ4.5m、重さ750kg、松下電器(現パナソニック)の創業者松下幸之助氏が昭和35年に大提灯を寄進したそうです。

浅草宝蔵門にも橘さん揮毫の提灯がある。
提灯は高さ約3.7メートル、幅約2.7メートル、重さ約400キロ。
製作費は約400万円といわれ、中央区の日本橋小舟町の有志が町内の個人や商店、企業約190件の寄付を集め実現した。

約340年前、同町の魚河岸商人の信徒らが提灯を奉納したのが切っ掛けで同町が受け継がれている。
現存の提灯は、江戸開府400年を期に新調奉納されたそうだ。
現在の宝蔵門は、昭和39年ホテルニューオータニの創業者、大谷米太郎氏の寄進により再建されたとある。
宝蔵門の建築様式は、鉄筋コンクリート造りで、屋根瓦はチタン製で造られている。

浅草宝蔵門にある「小舟町」の提灯の下部に彫刻されている彫り物。
彫り物は「龍」で一枚の板で彫られている。

浅草寺本堂正面に掲示されている大提灯、「志ん橋」も江戸文字の大家「橘 右之吉さん」が揮毫、この大提灯は東京新橋組合の有志が奉納したもので、提灯にはその東京新橋組合にちなんで、「志ん橋」と大きく書かれている。
平成22年12月本堂の大提灯が10年ぶりに新調されたそうだ。
提灯は、京都の「高橋提灯」が製作し、鳥取県の手すき和紙、京都・丹波産の竹が使われていて、直径3.5メートル、高さ4.5メートル、重さ約600キロあるそうです。

浅草寺本堂の屋根瓦もチタン製で葺かれている!!

浅草の大提灯「雷門・小舟町・志ん橋」を揮毫された江戸文字書家、橘 右之吉さん。(松山三越で撮影)

橘 右之吉(たちばな うのきち)さん来松・橘流寄席文字・江戸文字書家、三越松山店で撮影させて頂きました。

橘さんは、株式会社UNOS 代表、江戸趣味雑俳「つ花連」同人/投扇興「綾香連」にも属され、昭和25年東京台東区生まれ、橘流寄席文字家元・橘右近に師事し、昭和44年年に正式な一門継承者として認められ「橘右之吉」の筆名を認可される。
神社や寺などで見かけるミニ千社札は右之吉が考案したもので、柘植の板に漆で文字を書いた「消し札」と呼ばれる携帯ストラップが人気を得ている。・・と紹介している。・・私も愛用している。

現在は寄席等の伝統的な仕事に加え、浅草賀神社、柴又帝釈天、湯島天満神社等社寺、浅草観光連盟、京都市観光協会、東都のれん会等の開催ポスターのタイトル筆耕と企画デザインから、本やCDジャケットのタイトル、イベントタイトル、企業名や商品名等その作品は、お台場の人気温泉「大江戸温泉物語」、デニーズの和風店舗「七福・弁天庵」などロゴダイプとして、また女優山口智子氏のプロデュースのもと、江戸風俗や文化を語る「暦作成委員会by KAKITSUBATA」に参画し、江戸東京博物館をはじめ、トークイベントも各所で開かれている。


有名なのは、浅草寺本堂、浅草雷門・宝蔵門の大提灯の文字は橘さんの揮毫である。
私は、以前橘 右之吉さんの工房を訪れお茶をご馳走して頂いた。
毎年松山市の三越デパートで実技公開されている。
平成21年9月22日、には秋山兄弟生誕にお越し頂いき写真を撮らせて頂いた。
江戸文字書家の大家でありながら気さくで、礼儀正しいお人柄で近寄りやすい芸術家である。橘 右之吉さんに造ってもらった柘植の板に漆でコールサインを書いて頂き愛用している。
橘さん曰く、ローマ字の江戸文字を書くことがあまり無いので良く覚えています・・との由。
この年も松山市でお逢い出来てよかった。

松山市の三越デパートで江戸文字匠の技を披露する「橘 右之吉」さん。

画像は、松山三越で江戸文字匠の技を披露している多忙な時間をさいて秋山兄弟生誕地にお越し頂き撮らせて頂いた。
秋山眞之胸像の前で江戸文字書家・橘 右之吉さんです。

お忙しい時間をとって頂き秋山兄弟生誕地、秋山好古騎馬像の前で江戸文字書家・橘 右之吉さんです。

匠の街道を往く「江戸文字書家・橘 右之吉さんです」

工房「UNOS」代表橘 右之吉さん

江戸文字書家・橘 右之吉さんが私に記念にと揮毫して頂いた「濤」

 

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秋山好古揮毫石碑を訪ねて 6、千葉県鎌ヶ谷市道野辺神社境内に眠る石碑「記念碑」

2018年11月24日 | 伊予松山歴史散策

平成23年6月10日、新潟県魚沼市の石碑取材後、神田北方文化博物館館長さんが上越新幹線、浦佐駅まで車で送って頂き、浦佐駅発:東京行13時49分発のMXAとき326号に乗車、上野駅で下車宿泊、翌日千葉県鎌ヶ谷市道野辺神社に眠っている秋山好古揮毫の石碑の再建立依頼に伺った。 

千葉県鎌ヶ谷市は、全国ではあまり知名度の高い自治体ではなかったが、平成18年、夏の高校野球、早稲田実業の斎藤佑樹投手と3連覇を狙う駒大苫小牧の決勝は引き分け再試合に田中将大投手との投げ合いは壮絶であった。
斎藤佑樹投手が、北海道日本ハムファイターズにドラフト1位指名で入団した。
鎌ヶ谷市には、日ハム二軍球場があり、斎藤佑樹投手が入団し二軍練習の有様が、一時期毎日詳細にTV報道されてから一躍有名になった。
その後大谷選手が入団し、今年は秋田県立金足農業高等学校の吉田 輝星投手がドラフト1位指名で入団したから日ハム2軍球場直ぐ近くにある道野辺神社界隈は、再び賑やかになる事でしょう。

さて、
本題である秋山好古揮毫の石碑について。
秋山好古揮毫の石碑は、千葉県八千代市がある調査を道野辺八幡宮でしていた時偶然に発見したそうで、碑文の読み、意味、石碑発見と経緯は、八千代市立郷土博物館 主任学芸員さんから情報を頂きました。
道野辺八幡宮は、鎌ヶ谷市の総守護神、また千葉県の規範神社として多くの人々より崇敬されている神社で、八幡神社は、通称:道野辺八幡宮(みちのべはちまんぐう)と言われ、〒273-0113 千葉県鎌ヶ谷市道野辺中央五丁目6番10号にあり、御祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)です。

この神社の境内奥に、秋山好古が揮毫した石碑が三つに折れ18年間眠っています。
私が、道野辺八幡神社を訪れたのは、三つに折れた秋山好古が揮毫した石碑を早く再建立して頂きたく北山英彦宮司さんにお願いに伺い、なぜこの神社に好古揮毫の石碑が運ばれて来たのかその経緯を伺いました。
それは、千葉県習志野市の大規模農家の息子さんが日露戦争に騎兵隊として従軍し、戦死され、父親は後世にその戦役を何らかの形で残しておこうと考え、上官であった秋山好古に書をお願いした。
好古は本来教育者であり非常に部下思いの優しい心の持ち主で、大阪師範学校を卒業後名古屋師範学校付属小学校の教員をしていたが、伊予松山出身の和久教務官の強い勧めで軍人にさせられた。


好古の人生の中で軍人生活が長く、軍服という「甲冑」を着ていた時期が長かっただけで、身体の中身は教育者であった。
揮毫依頼を受けた兵士の名前は「織戸清太郎」で、明治38年4月28日戦争地「二道家子」で名誉の戦死をしたのである。
織戸清太郎騎兵隊員の当時の階級は、騎兵14連隊 騎兵伍長で、心身強靭・勇敢で優秀な騎兵隊員であったため好古は、凄い漢詩で揮毫し家族の願いを叶え書き贈った。

※    揮毫した漢詩は

「征馬振鬣 深入険土 一死鴻毛 躬冒弾雨 貞珉勒功 永抑其武」

意味、読みは、註3を参照して下さい。
揮毫当時の秋山好古の階級は、陸軍少将 正五位勲二等であった。
好古は、織戸騎兵伍長の勇士を讃え最高の意を漢詩で表現し書き上げた。
揮毫は、当初石碑にする予定でなかったが、後に家族の思いが募り石碑として屋敷に建立したそうだ。
18年前織戸家はある事情で石碑を撤去し道野辺八幡神社に預けた。

北山宮司は、石碑再建立をすべき石工さんに石碑に穴を開け鉄柱を入れ込む工法を相談するも石質がもろく適用できず、思案していたところステンレス製の枠を造りそれに入れ込む工法で再建立する事を考案、近い内に必ず再建立いたします・・とお約束を頂いた。
除幕式には連絡しますとも言って頂いた。・・その時は取材に伺いますのでご連絡下さいとお願いした。
北山宮司さんは、再建立時には除幕式もする予定ですので決定しましたら連絡いたしま。・・説明版も敷設いたしますとお約束頂いて帰った。
再建立した石碑の傍に説明版を設置して後世に伝えていきたいと宮司は付け加えられた。
なお、石碑の長さが約1,8mで厚さは薄く三分割されて境内奥深い場所に眠っていて碑文は下にしているため見えない。

出来るだけ早く日の目の当たる場所に再建立して頂きたく、出来ればNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲・第三部」が12月から放映される、それまでにお願いしたいものだ。
なお石は、宮城県仙台市産で石質は非常に柔らかいそうだ。
再建立時には除幕式もする予定ですので決定しましたら連絡いたします・・説明版も敷設しいたしますとお約束頂いて帰った。

私が道野辺八幡神社に伺い北山宮司さんに石碑の再建立をお願いしてから7年が経過したが何か重大な事が発覚し再建立が出来ない事情が起こったのでしょぅか未だ再建立されていないのである。
道野辺八幡神社の帰り浅草界隈を散策し帰路に着いた。

かつて習志野の織戸家にあった撤去前の石碑。
(写真提供:習志野騎兵連隊史跡保存会代表・三橋正文氏)

千葉県鎌ヶ谷市道野辺神社に眠る記念碑

 

1、碑    文:  征馬振鬣 深入険土 一死鴻毛 躬冒弾雨 貞珉勒功 永抑其武

2、所    在:  鎌ヶ谷市 道野辺神社

3、揮 毫 者: 陸軍少将 秋山好古

4.建 立 者: 織戸 家

5.建立年月日: 不明 

6.碑石大きさ:  高さ 計測不能   横幅 計測不能  厚さ 計測不能 

7.石碑の由来
揮毫した秋山好古の階級は、陸軍少将正五位勲二等で好古は、織戸清太郎騎兵伍長の勇士を讃え最高の意を漢詩で表現し書き上げた。(全国で2番目に古い揮毫)揮毫は、当初石碑にする予定でなかったが、後に遺族の思いが募り石碑として屋敷内に建立したそうだ。
18年前織戸家はある事情で石碑を撤去し道野辺八幡宮に預けた。
北山宮司は、石碑再建立をするために、石碑に穴を開け鉄柱を入れ込む工法を石工に相談したが、石質がもろく適用できず思案していたところに、ステンレス製の枠を造りそれに入れ込む工法で再建立する事を考案し、「必ず再建立いたします」とお約束を頂いた。また、除幕式には連絡しますとも言っていただき、石碑の傍に説明版を設置して後世に伝えていきたいと宮司は付け加えられた。
この石碑は長さが約1,8mで、厚さは薄く3分割されて境内に横たわり、碑文は下側になっているため見えない。
出来るだけ早く日の目の当たる場所に再建立して頂きたい。
12月からNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲 第三部」が放映されるが、その前までに建立できれば最高に喜ばしい。

註1:現在好古揮毫の石碑は全国に48基発見されているが、道野辺八幡神社の石碑は、2番目に古い石碑で個人的に揮毫した石碑は2基目である。
註2:この石碑の発見は、千葉県八千代市職員が偶然に発見したそうで、碑文の読み、意味、石碑発見とその経緯は、八千代市立郷土博物館主任学芸員さんにご教示いただいた。
註3:征馬振鬣 深入険土 一死鴻毛 躬冒弾雨 貞珉勒功 永抑其武

   読み:せいばたてがみをふるい、ふかくけんどにいる。

      いっしはこうもうたり、みづからだんうをおかす

      ていびんにこうをろくし、ながくそのぶをあおぐ。

   意味:軍馬はたてがみを振るわせて、敵のふところ深く進撃する。

      自分の命を鳥の羽よりも軽んじて、自ら弾雨の中を突き進んでいく。

      この石碑にこの功績を刻み、永遠にその武勲を仰ぐ。

   神社の駐車場の奥深くに三つに割れた石碑が寝むっています。

6月10日、新潟県魚沼市の帰りに鎌ヶ谷市の道野辺神社を訪れて北山宮司さんと面談した。
そして境内に眠っている好古揮毫石碑、早期の再建立をお願いした。
宮司さんは必ず建立いたします。再建立除幕式もする予定ですので決定しましたら連絡いたします・・説明版も敷設いたしますとお約束頂いて帰った。

かつて習志野の織戸家にあった石碑 
(写真提供:習志野騎兵連隊史跡保存会代表・三橋正文氏)

習志野の織戸家にあった石碑で、揮毫者秋山好古の名前が見える。
(写真提供:習志野騎兵連隊史跡保存会代表・三橋正文氏)

鎌ヶ谷市道野辺八幡神社の拝殿、伺った日は雨天であった。

道野辺八幡神社の御由緒

道野辺八幡神社の応接室、この部屋で北山宮司から石碑の再建立計画について伺った。
再建立の時期は、NHKスペシャルドラマ坂の上の雲第3部放映前にと伺う事が出来たがそのご7年が経過したが再建立はされてない。何か特別な事が起こったのか再建立はされてない。

道野辺八幡神社の参道

道野辺八幡神社の駐車場で、うっそうと茂った木々の中、奥深い所に石碑は眠っていた。

秋山好古が、織戸清太郎騎兵伍長のために揮毫した石碑で道野辺八幡神社の奥深い所に石碑は三分割され横たわっている。
北山宮司さんの許可を得て撮影した。

三分割された石碑は18年間この状態それから7年経過した。

早く再建立して頂きたい。

千葉県八千代市職員さんが偶然に発見したそうで、碑文の読み、意味、石碑発見とその経緯は、八千代市立郷土博物館主任学芸員さんから頂いた資料である。

 

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秋山好古揮毫石碑を訪ねて 5、新潟県魚沼市堀之内竜光の石碑「戦役記念碑」

2018年11月18日 | 伊予松山歴史散策

魚沼市堀之内竜光の石碑「戦役記念碑」取材の前日、現・北方文化博物館、神田館長が発行された「秋山好古と新潟の人びと」刊行お祝いの会が北方文化博物館で開催され、これに参列し、翌日魚沼市の石碑「戦役記念碑」取材に行った3回目の新潟の旅である。

平成23年6月8日、神田北方文化博物館館長が発行された書籍で、この書籍の本印刷に掛かろうとしていた矢先に、新潟県柏崎市在住の柴野亮氏から、新潟県魚沼市堀之内竜光にある天満神社境内に好古揮毫の石碑が存在すると写真を添えて書簡が秋山兄弟生誕地に届いた。

直ちに、神田勝郎氏に印刷中止と、魚沼市堀之内竜光の秋山好古揮毫の石碑の所在確認を依頼し確認ができ、書籍「秋山好古と新潟の人びと」に追加原稿としてP138~139に書き加えられ書籍が完成した。

書籍発行記念祝賀会が平成23年6月9日北方文化博物館で開催されこの宴に参加し、翌日魚沼市堀之内竜光の石碑「戦役記念碑」取材に行った。

魚沼市堀之内竜光の石碑「戦役記念碑」

1.  文 戦役記念

2.所 在 地: 新潟県魚沼市堀之内竜光・天満天神社

3.揮 毫 者: 陸軍中将 秋山好古

4.建 立 者: 日露戦線に従軍した23名の有志

5.建立年月日: 大正3年8月 

6.碑石大きさ: 高さ・1m55cm 横幅・70cm 厚さ・48cm  

7.石碑の由来:

明治37・38年、魚沼市堀之内竜光地区から日露戦線に出兵し従軍した23名の有志の方々が大正3年8月秋山好古に揮毫を依頼した。
揮毫は、従軍した記念として「戦役記念」とし碑を建立した。
平成21年11月6日、新潟県新潟市江南区沢海日枝神社境内に秋山好古揮毫石碑が発見され、日本海唯一の石碑発見でNHK松山放送局も新潟市に取材に行き放映し、平成22年5月19日、新潟日報新聞も大きく報じた。
この事については秋山好古揮毫石碑を訪ねて 4、新潟市の忠魂碑の通りである。


平成22年5月19日付の新潟日報新聞に新潟市江南区沢海の秋山好古揮毫石碑発見の新聞記事を読まれた新潟県柏崎市在住の柴野亮氏から、新潟県魚沼市堀之内竜光にある天満神社境内に好古揮毫の石碑が存在すると写真を添えて書簡が秋山兄弟生誕地に届いた。
奇しくも私が好古揮毫の石碑を専任で調査を始めた切っ掛けが、平成17年5月5日に起きた大きな出来事から6年目の同じ月日であった。
さて、魚沼市の石碑は柴野氏が平成16年9月11日に発見したそうだがが、同年10月23日震度7の新潟中越大地震が発生した。


もしかすると石碑は倒壊していると思いますので調査確認して下さいと付記されていた。
早速、新潟市の北方文化博物館佐藤統括室長(現 専務理事)と、元横越コミュニティ協議会会長、(現 北方文化博物館館長)神田勝郎氏に調査を依頼した。
神田氏は、直ちに魚沼市に赴き現地調査をして頂き確認が取れた。
その結果中越大地震で倒壊したが、平成20年8月に全国から頂いた義援金の一部で再建立して保存されていると速報が届いた。
平成23年6月10日、新潟市から神田勝郎氏の車で魚沼市の現地取材に行った。
現地では松山市から取材に来るということで、魚沼市役所職員さん、魚沼市ケーブルテレビさん、新潟日報新聞記者さん、地元の方々が集まって頂き大歓迎を受け感動した。
松山と新潟とは江戸時代から不思議なご縁がある。江戸時代越後沢海藩主が伊予松山初代藩主、加藤嘉明から4代目の明英(あきひで)の弟政親(まさちか)が沢海藩4代藩主として沢海の溝口家に養子入りしている。

そして秋山好古が大正2年、第13師団長として新潟県高田に駐屯、そしてこの時期に愛媛県知事、伊澤多喜男氏が新潟県知事に転任、好古は伊澤知事を愛媛県での実績を重く評価して新潟県民に紹介している。
また昭和5年信濃川の洪水を防ぎ住民の被害を助けた内務官僚(土木技師)宮本武之輔(松山市出身)、最近では松山市の歌「この街で」の作曲者、新井満氏も新潟市の方である。
取材が終わった後、魚沼市役所の職員さん曰く、この石碑がそんなに立派な石碑とは知らなかった。後日、説明版を設置しますと言われた。
秋山好古が中将時代の揮毫石碑は、新潟市、魚沼市にある2基の石碑だけである。

戦役記念碑の裏面には、旧新潟県北魚沼郡堀之内町大字竜光地区から日露戦争に戦役従軍された23名の氏名が刻まれている。

秋山好古揮毫の石碑「戦役記念」が建立されている、この地区の氏神様・天満神社。

秋山好古揮毫の石碑「戦役記念」の前で魚沼市ケーブルテレビ、瀧澤さんの取材を受ける神田勝郎氏(現・北方文化博物館館長)。

新潟日報新聞、鈴木記者と(左)魚沼市ケーブルテレビ瀧澤記者の取材を受ける神田勝郎氏(現・北方文化博物館館長)。

天満神社境内で、秋山好古揮毫の石碑「戦役記念」は、地震倒壊以前は写真後方(皆さんが並んでいる場所)に建立されていたが、境内が中越大地震堀之内地区復興の拠点となる資材置き場となり道路が建設され、現在の場所に再建立された。

平成23年6月10日、魚沼市現地取材の時集まって頂いた地元の方達、石碑取材を始めて現地の方々が現場に来て頂いたのは初めての出来事でビックリし感動した。
その中に松山市出身の一組のご夫婦が居られ、松山から取材に来られると聞き駆け付けましたと言われ嬉しく思った。
取材が終わり地元の方々から天満神社拝殿でお茶のお接待を受け、地元の皆様から色んなお話を伺う事が出来感慨を新たにし、帰りには地元名産の笹団子を頂いた。
取材後、神田氏が上越新幹線、浦佐駅まで車で送って頂き、浦佐駅発13時49分発のMXAとき326号に乗車、上野駅で下車し翌日千葉県鎌ヶ谷市道野辺神社境内に眠っている秋山好古揮毫の石碑の再建立依頼に伺った。その事については、秋山好古揮毫石碑を訪ねて 6、千葉県鎌ヶ谷市道野辺神社の石碑で紹介します。

平成20年8月建立「激震」中越地震復興祈念塔

石碑は柴野氏が平成16年9月11日に発見したそうだがが、同年10月23日新潟中越大地震が発生した。
震度7の中越大地震で一番被害の大きかった地区で、もしかすると石碑は倒壊していると思いますので、魚沼市教育委員会か観光協会に石碑の確認をして下さいと付記されていた所である。
復興祈念塔には、全国の皆様ご支援有難うございましたと書かれた「幟旗」が掲げてあった。

復興祈念塔には、全国の皆様ご支援有難うございましたと書かれた「幟旗」が掲げられていた。

平成23年6月10日、魚沼市現地取材時には、新潟日報新聞鈴木記者が取材に来て頂き、平成23年6月22日付の新潟日報新聞で大きく報道して頂いた。
その時の新潟日報新聞で、新聞記事が遅れたのは、神田勝郎氏が発行した「秋山好古と新潟の人びと」の記事を掲載する予定が、魚沼市石碑発見ありが急に飛び込んできたためその紙面確保に時間が遅れたそうだ。

取材後設置された秋山好古揮毫の石碑の説明版。

(平成23年9月25日、撮影者:新潟県柏崎市、柴野 亮氏)

戦役記念の揮毫は、秋山好古が第13師団長として大正2年に新潟県高田に赴任していたときに、魚沼市の関係者が新潟県知事、伊澤知事さんにお願いして、伊澤知事が好古に戦役記念の揮毫お願いしたのでしょう。
前項でも書きましたが、伊澤知事は、奇しくも前任地が愛媛県で知事をしており、好古は、伊澤知事を「旧知の仲、私の郷里愛媛県で財政を立て直した有能な知事であるので新潟県でもいい仕事をすると思いますと」新潟県民に紹介した。
伊澤知事はその後、東京市長を歴任後、東京警視庁総監になられております。

参考事項

秋山好古が最も信頼をしていた副官が3名いた。その3名とも新潟県出身者である。
豊邉新作、そして山之内保二、建川義次の皆さん方である。
3人の詳細は「秋山好古揮毫石碑を訪ねて 7、静岡県静岡市葵区同慶院の石碑」で述べる事にします。

 

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