EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

新潟市江南区沢海・北方文化博物館 創立70周年記念誌刊行される

2018年05月31日 | 伊予松山歴史散策

私が尊敬する、新潟県新潟市江南区沢海にある、北方文化博物館・神田勝郎館長がこの度、北方文化博物館創立70周年記念誌「北方文化博物館と澤海の風景・伊藤家八代の二百六十年」が平成30年4月30日付で刊行された。早速、私に贈って頂いた。

北方文化博物館は、江戸時代中期から初代が身を起こし、代を重ね富を築き越後随一の豪農の伊藤家である。明治に入り全盛期には1市4郡64ヶ町村に1370町歩あり昭和に入り新潟県下一の3万俵の収穫があった。

大東亜戦争終了後、GHQ(連合国最高司令官総司令部・最高司令官、マッカーサー元帥)により農地は解放され伊藤家の家屋も解体の命令が出た。GHQの新潟担当の司令官、ライト中尉が伊藤家の調査に訪れた。(この調査にはもう一つの意味があった。それは、旧陸軍の隠匿物資があると言う情報でその調査も兼ねていた。)

ライト中尉は、通訳を介して調査の説明をしたとき、素晴らしい綺麗な発音の英語で返答があった。・・中略・・ライト中尉の事は後で説明します。

ライト中尉は、伊藤文吉七代当主が母校ペンシルバニア大学の先輩とわかり交流を深めることになる。

ライト中尉は、伊藤家を価値ある文化遺産と位置付け、以降、北方文化博物館開設に絶大な支援を与えることとなる。北方文化博物館は、戦後、アメリカと日本の友情による絆が芽吹いた場所となる。

柳宗悦、バーナード・リーチ、浜田庄司、司馬遼太郎も建物は勿論、所蔵している美術品の素晴らしさに絶賛している。司馬遼太郎は、博物館でなく、美術館と評している。

素晴らしい内容のこの書籍を、神田勝郎北方文化博物館館長さんにお願いして2冊寄贈して頂くようお願いしています。届き次第、愛媛県立図書館、松山市立図書館に納本しますので是非ご講読下さい。貸出準備が出来るのは6月中旬頃だと思います。

なお、この書籍は非売品で243Pの構成です。

表紙を開けると、標題紙「北方文化博物館と澤海の風景・伊藤家八代の二百六十年」が出て来る。

北方文化博物館の全体で、好古揮毫石碑とある場所に、秋山好古揮毫の「忠魂碑」の石碑がある。

北方文化博物館の正門と空撮の全景。

北方文化博物館の正門。

撮影は、平成23年6月10日、北方文化博物館に伺った時に撮影。

北方文化博物館の中門。

撮影は、平成23年6月10日、北方文化博物館に伺った時に撮影。

北方文化博物館の西門。

撮影は、平成23年6月10日、北方文化博物館に伺った時に撮影。

北方文化博物館大門。

北方文化博物館の大玄関と大屋敷の外観。

北方文化博物館の大広間と大広間からの庭園の眺望。

 庭匠泰阿弥築庭の日本庭園。

書籍の目次ですが、第六章に秋山好古に関する記述がある。

目次ですが、第九章に北方文化博物館開設に多大な尽力をしたライト中尉の記述がある。

 目次、第6章P90前後に北方文化博物館と愛媛県松山市の関りも記述されている。

 北方文化博物館と隣接してある、日枝神社境内に、秋山好古が揮毫した大きな立派な忠魂碑が建立されている。

 平成22年3月17日、この忠魂碑を介して、神田勝郎北方文化博物館館長さんとの厚情が始まった。

 忠魂碑は、平成26年3月13日、新潟市が制定した市民文化遺産に認定された。

 市民文化遺産制度を制定している自治体は、京都市・岩手県遠野市・新潟市のみである。

平成26年3月13日、市民文化遺産に認定された「秋山好古揮毫石碑」の認定書である。

秋山好古揮毫の「忠魂碑」が市民文化遺産に認定された新潟日報の記事。

新潟市が制定した市民文化遺産に認定された「秋山好古揮毫石碑」に関する愛媛新聞の記事。

上の画像はGHQ、新潟担当の、ラルフ・ライト中尉と伊藤家第七代、伊藤文吉初代北方文化博物館館長。

下の画像は、36年振りに北方文化博物館で再開したライトさんと第八代伊藤文吉北方文化博物館長。

昭和20年8月28日、連合軍は日本本土に進駐を始めた。ラルフ・ライト中尉は、当初GHQ本部から青森県担当としての指示があったが、此れを辞退、次は、埼玉県担当、此れも辞退、そして新潟県担当は了承したそうだ。新潟に赴任したライト中尉は、米陸軍第8軍第27師団新潟軍政部、民間情報教育部長としての任務で、新潟県下の文化や教育改革が主な任務であった。

昭和20年10月、ライト中尉は伊藤家を調査に訪れた。(伊藤家の調査にはもう一つの意味があった。それは、旧陸軍の隠匿物資があると言う情報でその調査も兼ねていた。)

ライト中尉は、通訳を介して調査の説明をしたとき、素晴らしい綺麗な発音の英語で文吉から返答があった。ライト中尉は、ミスター伊藤その英語は何処でマスターされましたかと問うと、文吉は、私は、アメリカ合衆国のペンシルバニア大学に留学しその卒業生で、そこで英語を身に付けたことを説明した。(ドナルド・ジョン・トランプ、現米国大統領もペンシルバニア大学卒である。ペンシルバニア大学は米国第4位にランクされる名門大学。)

するとライト中尉もペンシルバニア大学卒業生で、伊藤文吉は、ライト中尉の先輩にあたる事になり、それからライト中尉と伊藤文吉の友情が育まれ交友が始まった。第八代となる伊藤文吉は17歳中学生の時であった。

ペンシルバニア大学の校風は、先輩後輩を互いに尊敬しあうことを大切にする大学であったのでライト中尉は、先輩文吉を敬い建物を文化財としての価値あるもの、そして所蔵している美術品等々を、新潟引いては日本の文化財として残す努力を考え、新潟県知事から、マッカーサー総司令長官に伊藤家を博物館として存続させる請願書を提出した。その事務手続き全てライト中尉が行ったのである。マッカーサー総司令官は、伊藤家の博物館開設を許可した。

マッカーサーは、公立にすると運営にはいろいろと支障を来す事があるから、私立として開館し自由に運用出来る方が良いとアドバイスがあった。

昭和20年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した。荒んだ中で、昭和21年、史蹟文化振興会として博物館が開設された。今年が70周年である。

昭和24年8月10日、GHQより史蹟文化振興会の、振興が軍国主義を振興する恐れありとして名称変更を求められ、親交のあった、柳宗悦・イギリス人の陶芸家のバーナード・リーチ・陶芸家の浜田庄司、の助言を受けて、スウーデン・ストックホルムにある、ノルデスカ・ムゼー北方博物館に由来するもので、この名称に文化を入れて「北方文化博物館」と改名した。

昭和24年ライト中尉が日本を去る時、第七代伊藤文吉、初代北方文化博物館長は、ライト中尉を館に招き送別会の宴を行い、中庭に記念の碑を建設する用意をしたが、ライト中尉は、私一人の力でなく多くの人々の支援があり、北方文化博物館は開設出来たのでその様な特別な行為はしない様にと言われ帰国した。

昭和33年、第七代伊藤文吉先代が亡くなり、第八代伊藤文吉・北方文化博物館長は、美術品所蔵倉庫からライト中尉の記念碑を建立する銅板が見つかり、それからライト中尉探しが始まった。しかしライト中尉の消息を行うも困難を来した。ある時、マンスフイールド駐日大使が来館した時ライト中尉探しを依頼。その後ミネソタ州ロチェスターの高校校長さんをされている事が判明、第八代伊藤文吉館長はミネソタ州に飛び、36年振りに再開をした。

美術品所蔵倉庫からライト中尉の記念碑を建立する予定であった銅板を基に記念碑の設立委員会を発足、ライトさんと第七代伊藤文吉館長さんのリレーフ制作、リレーフは東京芸術大学名誉教授、千野茂先生の作だそうです。

除幕式は、昭和63年10月22日に行われ、主賓にライトさんご夫妻とお嬢さん、ライトさんを探しだしたパリッシュ夫妻が米国から来館して盛大に挙行された。翌日の新潟日報に大見出しで報道されたとある。

ライト中尉が担当する都道府県が、新潟県以外に赴任していたならば、北方文化博物館は開設されてなく、伊藤家は解体されていたのではないか?人との出会いは不思議なご縁がある。

ライト中尉の本来の務めは教育改革であったそうだが何故か伊藤家を博物館とし位置づけ解体を免れたのは、軍服を着た教育者ライト中尉であたからなしえた事であったと私は思う。

戦後全国初の、マッカーサー総司令長官お墨付けの私立博物館第1号「北方文化博物館」の誕生であった。

画像が、昭和63年10月22日、除幕式が行われた、ライトさんと第七代伊藤文吉館長さんの記念のリレーフとその下部に記念碑の経緯が書かれている。

記念碑は、北方文化博物館の中庭に建立されている。

撮影は、平成23年6月10日、北方文化博物館に伺った時に撮影した。

記念碑の経緯が書かれている説明版。

撮影は、平成23年6月10日、北方文化博物館に伺った時に撮影した。

ライトさんを追悼する碑が記念碑の傍に建立されている。

撮影は、平成23年6月10日、北方文化博物館に伺った時に撮影した。

北方文化博物館にはそうそうたる人物が来館している。

先ずは、日本民藝運動の創設者である柳宗悦・イギリス人の陶芸家のバーナード・リーチ・人間国宝の陶芸家、浜田庄司、坂の上の雲の作者、司馬遼太郎、その様子である。

バーナード・リーチが来館時に第七代文吉館長を描いた素顔絵。

 

坂の上の雲の作家「司馬遼太郎」は、八代北方文化博物館長を、現代版の陸(くが)羯南(かつなん)と呼んだ。

陸羯南は、正岡子規の叔父さん、加藤恒忠(拓川)の親友で、加藤恒忠から子規をよろしくお願いしますと頼まれた。陸羯南は、新聞「日本」の社主、東京大学を中退した正岡子規を記者として入社させた。当時日清戦争が勃発、幼馴染の秋山眞之は、命を掛けて護国の為に戦っている、子規も護国の為に仕事をしたい強い思いでいた。近衛師団付きの従軍記者となり、病弱な身であるので陸羯南猛反対をした。その反対を押し切り従軍記者として清国に渡り、帰国の途中船中で喀血する。子規、母、妹律親子の住まいとなる、現・子規庵も陸羯南が手配した屋敷である。

司馬遼太郎の「風塵抄」で書かれている「日本文化を守っている第八代伊藤文吉北方文化博物館長」の事項で「明治の陸羯南は、今の時代でこのような思想的実行者として存在してもいるのかと思った。と記述している。

司馬遼太郎の「風塵抄」で書かれている「日本文化を守っている第八代伊藤文吉北方文化博物館長」の事項で「明治の陸羯南は、今の時代でこのような思想的実行者として存在してもいるのかと思った。と記述している。

北方文化博物館創立70周年記念誌「北方文化博物館と澤海の風景・伊藤家八代の二百六十年」の奥付で、写真の人物が北方文化博物館、神田勝郎館長である。

番外編

画像の文言は、トーマスD・ドレーク陸軍大佐から住田監守宛てに書いたお礼の文書である。

 昭和20年10月22日、米国軍第10軍団第24歩兵師団将兵1万2,000人が、松山に進駐した。

24師団司令官、トーマスD・ドレーク陸軍大佐は、昭和20年11月21日、松山を去る時、松山城住田監守に対し、土産に持ち帰りたいから松山城天守に展示してある甲冑をよこすように指示した。住田監守は、松山城天守にある甲冑は松山市民から寄託として展示しており松山市の所有物でないので差し上げる事は出来ないと断るも、それでも是非との事で、監守は自宅の家宝としていた甲冑を差し出した。(住田監守の家計は、旧伊予松山藩士の家系なので甲冑があった。)

画像の文言は、トーマスD・ドレーク陸軍大佐から住田監守宛てに書いたお礼の文書である。

また、道後温泉の浴室を進駐軍専用の浴場として一時期接収した経緯がある。

新潟のライト中尉は北方文化博物館開設に努力し、お別れの宴の招待も辞退して帰国した将校と、甲冑を土産にして帰国した松山駐在の将校は、天と地の差がある行為である。

なお、当初四国占領の司令部は松山市にあり、師団司令部は、松山市の旧県立図書館、師団長宿舎は久松邸の萬翠荘とし、道後の「鮒屋」・「虎屋」旅館などは将校宿舎に、旧歩兵22連隊、旧松山海軍航空隊、旧松山赤十字病院跡、旧愛媛県師範学校、旧城北練兵場、新田中学校などは幕営地として接収され進駐軍のテント村が設営された。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子規庵・大龍寺・羽二重団子・愚陀仏庵 その4 愚陀仏庵

2018年05月23日 | 伊予松山歴史散策

子規庵・大龍寺・羽二重団子・愚陀仏庵・回顧の最後となる、愚陀仏庵である。

 画像は、昭和20年7月26日、松山大空襲で焼失する前の上野義方邸の離れ屋敷、漱石の下宿先(愚陀仏庵)である。

愚陀仏庵は、明治28年4月9日、松山中学の英語教師として赴任した時の下宿先で、名称は夏目漱石の俳号「愚陀仏」に由来するものである。

夏目漱石の本名は、夏目金之助と言い、漱石は、子規の数ある俳号の一つで非常に気に入り、子規から譲り受けた雅号である。

明治28年4月9日、松山に着いた漱石は、三番町の城戸屋旅館に数日間泊まった後、一番町の愛松亭に下宿、さらに上野義方邸の離れ屋敷、現在の二番町三丁目に身を落ち着けた。

愚陀仏庵とは、上野義方邸の離れ屋敷のことである。

 子規は、日清戦争時、近衛師団付の記者として従軍、その帰路船中で喀血、神戸の須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷したのが、明治28年8月27日であった。そして10月17日までの52日間身を寄せた先が夏目漱石の下宿先である愚陀仏庵であった。漱石は二階に、子規は一階で共同生活をした。

一階の部屋では、毎晩子規が指導する「松山松風会」の会員らと俳句に熱中、漱石もこの句会に参加する事になり、此れが文豪夏目漱石の出発となった。

明治29年4月、漱石は熊本第五高等学校に転任する。

子規の松山中学の同級生、柳原極堂が明治30年、俳誌「ホトトギス」を創刊、高浜虚子の勧めで、ホトトギスに小説「吾輩は猫である」「坊っちゃん」を連載、漱石の作家生活が始まった。

漱石が松山に来ていなかったら、文豪夏目漱石は誕生しておらず、平凡な英語教師として人生を過ごしていただろう。

愚陀仏庵での子規との52日間の生活は、漱石の人生を変革に導いた大切な日々であった。

そして子規の訃報が届くのは、明治35年漱石が英国から帰国直前であった。

昭和20年7月26日、松山大空襲で焼失する前の城戸屋旅館(きどや旅館)で夏目漱石は、明治28年4月9日、午後2時頃松山中学英語教師として赴任し、松山で最初に泊まった旅館である。

同年4月11日付の地元、海南新聞(現、愛媛新聞)の公報欄に以下のような記事が掲載された。

愛媛県尋常中学校教員ヲ嘱託ス 夏目金之助
  月俸金八拾円給与

80円の月給は当時としては破格のもの(同中学校長の月給が60円)。高給取りの偉い先生がお泊まりだということで、きどや旅館は待遇を改め部屋も一番いい部屋にしたそうだ。

画像は、松山大空襲で焼失し経営者の努力で昭和28年に総桧造りで再建、漱石が泊まった「坊っちゃんの間」(漱石の間)と呼ばれる部屋も忠実に復元されていたが、昭和53年に旅館を廃業。その後も建物は残っていたが、平成24年に取り壊され、今はビルが建設された。

註:城戸屋旅館は、北海道大学名誉教授、北海道教育大学学長を務めた城戸幡太郎(きど まんたろう)の生家である。

城戸 幡太郎、明治26年7月1日生まれ、昭和60年11月18日逝去、92歳。日本の心理学者、教育学者である。

現在の城戸屋旅館(きどや旅館)跡は、ビルとなっている。

松山市が設置したきどや旅館の説明版。

現在はビルの前にこの説明版があるだけで往時の面影は何もない。

愛松亭跡の記念碑。

漱石は、きどや旅館から、愛松亭の離れ屋敷を下宿先とした。

漱石が下宿した愛松亭で、大正11年この地に萬翠荘が建設される。

愛松亭は、津田保吉の「愛松亭・小料理屋」で藩政時代伊予松山藩の家老菅氏の屋敷跡である。

建物は平屋建てで、一部2階建であった。この2階建て部分が料亭・愛松亭だったそうで、その離れ屋敷を漱石は下宿先とした。その後、大正11年完成した伊予松山藩主、久松家当主久松定謨が建設した萬翠荘・久松定謨の別邸となる。

 

萬翠荘の前に説明版と、漱石が恩師、神田乃武に送った書簡の説明文と、書簡を記念碑とした碑が建立してある。

明治28年4月16日、漱石が恩師、神田乃武に送った書簡を揮毫し記念石碑として建立している。(萬翠荘まえにある)

漱石は、愛松亭から更に下宿先を変更したのが、昭和20年7月26日、松山大空襲で焼失する前の上野義方邸の離れ屋敷(愚陀仏庵)である。

画像は、昭和57年、萬翠荘裏手に再建された愚陀仏庵で、平成22年7月12日、豪雨により土砂崩れが発生し、愚陀仏庵は倒壊した。

 

平成22年7月12日、豪雨による土砂崩れが発生し、愚陀仏庵は倒壊し早速再建について検討が始まり、候補地は昭和57年再建された萬翠荘裏地、戦前あった二番町三丁目の地、道後温泉上人町(寶厳寺前)に再建してはとの意見が出た。

しかし何故か未だに再建されてない。・・何故か?

現在、愚陀仏庵跡は、画像の様に更地になっている。画像上部に見える部分が萬翠荘である。

土砂崩れが発生した場所は、松山城東雲口の登城道で県庁口の登城道と交わる少し手前が崩壊した。松山城築城以来、初めて起きた出来事であった。

画像は、萬翠荘で、大正11年、旧伊予松山藩主、久松家当主第16代久松定謨が愛媛県で最初に建設された鉄筋コンクリート造りのフランス風の建物で、大正11年11月15日 陸海軍の大演習が松山高浜沖合で行われ、その時観閲にお越しになった摂政宮(昭和天皇が皇太子時代)さまが同年11月22日から24日迄滞在された建物である。大正11年以前愛松亭のあった場所である。

昭和57年再建された愚陀仏庵は、萬翠荘の裏地にあった。

萬翠荘を広角で撮影、背景の山は、全体が松山城史跡公園で、上部一部見えるのが、松山城本丸の隠門続櫓である。倒壊した愚陀仏庵は、萬翠荘直ぐ裏手にあった。一時期は外観だけ観光資源として使われていたが、平成21年7月からは句会、お茶会等々を開催し、内部も一層の観光の為に寄与し開放していただけに残念な出来事であった。

再建地は、この地が一番いい場所だと私は思う。

なお、萬翠荘は平成23年11月29日、国指定の重要文化財となった。

松山市二番町三丁目7番地にある元祖愚陀仏庵があった上野義方邸の離れ屋敷跡で、現在は駐車場となっている。

愚陀仏庵再建地の一つとして取り上げられているが、一方通行の市道で、交通量が多く歩行者には安全性に問題がある。

 愚陀仏庵があった上野義方邸の離れ屋敷跡で、現在は駐車場となっている。

愚陀仏庵再建の候補地の一つである。

松山市二番町三丁目7番地にある、愚陀仏庵跡に松山市が設置している説明版。

説明文言に「愚陀仏庵」は昭和20年7月26日、松山大空襲のため焼失し、現在は、萬翠荘裏に復元されていると告示しているが、この画像は、平成22年7月12日、豪雨による土砂崩れが発生し、倒壊する前に私が撮影したものであり誤解のないようにお願いします。

松山中学の跡地には、説明版等々が設置してある。

松山中学の跡は、NTT西日本四国事業本部愛媛支社のビルが建ち、西側歩道に面して画像の説明版が設置してある。

きどや旅館から徒歩約3分、愚陀仏庵から徒歩約5分の場所で、愛媛県庁舎の前である。

夏目漱石時代の松山中学で、大正5年に松山市持田二丁目の現在地に移転する。

明治時代の松山中学、後方の山は松山城で山頂には本丸天守他城郭が見える。

現在の画像で、NTT西日本四国事業本部愛媛支社の西側風景、市電軌道敷きも松山中学の敷地であった。

正面の建物は、愛媛県庁舎である。

NTT西日本四国事業本部愛媛支社のビル前で、歩道側に松山中学の説明版が設置してある。

明治29年4月11日、夏目漱石は熊本の第五高等学校教授となり松山を去るに際し、松風会会員近藤我観に書き送った別離の句がる。

わかるゝや一鳥啼て雲に入る・・この句が松山中学の説明版の横に設置してある。

松山中学の跡地には、大きなユーカリの木がある。これは同校に植栽されていたもので、中学校の歴史を見続けてきた証の木として残してある。

松山中学の説明版。

松山中学は現在、愛媛県立松山東高校となっており、校庭に夏目漱石と、正岡子規二人の記念の句碑が建立されている。

明治28年10月18日、子規が東京に旅立つ送別句会において漱石は「御立ちやる可御立ちやれ新酒菊の花」と励ました。

子規は「行く我にとどまる汝に秋二つ」と答えた。

子規は、その後松山の土を踏む事は無く、漱石は、その翌年熊本に去り松山に来る事は無かった。

画像、右が「御立ちやる可御立ちやれ新酒菊の花」 漱石

   左が「行く我にとどまる汝に秋二つ」 子規

の句碑である。

子規は、東京に帰る途中10月26日〜29日の4日間、奈良に滞在し、その時詠まれた句が有名な「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」である。

明治28年10月26日から子規が滞在した奈良の宿「對山樓」で、現在は画像の様に「日本料理天平倶楽部」となっている。庭は整備された子規の庭があり見学は自由に出来る。この宿を詠んだ「秋暮るゝ 奈良の旅籠や柿の味」の句を始め、柿の木も現存している。

平成28年6月2日伺った時の画像である。

子規が滞在した奈良の老舗旅館であった「對山樓」現在は、日本料理天平倶楽部となり、日本庭園は「子規の庭」として整備され一般公開しており自由に鑑賞できる。

平成28年6月2日伺った時の画像である。

子規の庭には、子規も見たであろう古い柿の木があり、對山樓の女性が柿を召し上がれと子規に差し出した。對山樓は東大寺のすぐ近くにあり、鐘の音もよく聞こえただろう。そして法隆寺に行き「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」と詠われた句が創作された。その柿の木が今も健在である。奈良県は柿の産地、柿の木の寿命は長く樹齢300年から400年のもあるそうだ。

柿の木の下部に見える建物が、東大寺の大仏殿である。

平成28年6月2日伺った時の画像である。

子規が滞在した「對山樓」この宿を詠んだ「秋暮るゝ 奈良の旅籠や 柿の味」の句碑があり、碑の石は、子規の故郷「伊予の青石」を使っている。

對山樓(日本料理天平倶楽部)は素晴らしい心配りで、子規の故郷「伊予の青石」を句碑とし、柿の姿の中に句が揮毫されている。

平成28年6月2日伺った時の画像である。

こんな事がありました。

法隆寺を観光に行った時「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の句碑を私は見ているが、もう42年も前の事で姿形も印象に残っていない。只その時ガイドさんが、正岡子規が詠んだ有名な句で「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」ですと説明した。ガイドさんに、「正岡子規の出身地は何処ですかと」質問しましたら、すみません・・そこまでは勉強しておりません。・・の答えがあったことは鮮明に覚えている。意地悪な質問をしてすみませんでした。

今年9月下旬に、再度法隆寺に伺う予定です。句碑をよく見て来ます。

昨年、9月26日、道後温泉に新しい湯屋が完成した。名称は、飛鳥乃湯で、道後温泉は聖徳太子との関係があり、湯屋を飛鳥乃湯と命名した。湯屋の棟に法隆寺の夢殿を模した建造物を造った。夢殿も見て来ます。

そして、俳都松山俳句ポストが、愛媛県外に14ヶ所設置してある内、奈良県斑鳩町に3ヶ所「法隆寺センター、JR法隆寺駅観光案内、いかるがホール」に設置してあるのでこの写真も撮って来ます。

昨年、子規・漱石・極堂生誕150年の年であり松山では色んな行事が開催された。

画像は、松山市立子規記念博物館玄関にある「正岡子規・柳原極堂・夏目漱石」で、俳誌「ほとゝぎす」は柳原極堂が創刊した。

俳句雑誌「ほとゝぎす」(後のホトトギス)創刊の地、松山市北立花8番地(井手神社北側)に記念碑が建立されている。

柳原極堂は、「ほとゝぎす」を創刊し、子規を懸命に支援し続けた人であった。それ故にその生涯はまさに子規の後ろ姿を追いかけるものであったと言われている。

夏目漱石は、松山には一年しか居なかったが、その一年は中身の濃いい日々であった。

湯之町道後商店街に明治16年創業の和菓子屋「つぼや菓子舗」がる。店頭には、「道後名物 夏目漱石の 坊ちゃん団子」と書かれた敷紙の前に団子が置かれている。

坊ちゃん団子は以前「湯晒団子」と呼ばれていた。漱石が通った道後温泉入浴の帰りに食べた団子は、「湯晒団子」小説坊ちゃんが発行されてから「坊ちゃん団子」と呼ぶようになった。

つぼや菓子舗には、漱石が食べた湯晒団子と坊ちゃん団子とは少し形が違うようで、店頭には、夏目漱石が食べたのはこちらと表記している。

漱石が食べた団子は、画像の様に表記している。

漱石は東京と比べると何もいいものはないが、道後温泉だけは東京にない素晴らしい・・と言って坊ちゃん列車に乗り入浴に通ったと言われている。

画像の列車は、漱石が乗った坊ちゃん列車で、伊予鉄道が明治21年ドイツ・クラウス社から輸入した第1号車機関車と客車を、平成14年9月2日から復元した列車を市内電車の軌道を走っている。

もう一編成14号列車が運行しており、明治41年ドイツ・クラウス社から最後に輸入した14台目の機関車なのでその意味で1号車と14号車が走っている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子規庵・大龍寺・羽二重団子・愚陀仏庵 その3 羽二重団子

2018年05月17日 | 伊予松山歴史散策

ある資料によると!!

この羽二重団子の横に丁度芋坂があり、慶応4年5月15日、戊辰戦争の戦いの一つ、上野戦争で敗れた彰義隊数百人が北東方向に逃げるため、この芋坂を駆け下りてきて、その際に数名が羽二重団子の店に侵入、刀、槍を縁の下に投げ込み、野良着に変装したとある。

その中に伊予松山藩を脱藩して、新選組に入隊し第10番隊組長となった原田左之助も居たと言われている。左之助は生き延びて新潟から大陸に渡り、馬賊の旗頭になった。

日清・日露戦争時、馬賊の支援を受けた日本の騎兵隊、伊予弁を話す初老の馬賊が居た。・・これが原田左之助であったのではとの逸話がある。

正岡子規の日記である「仰臥漫録」にも出て来る羽二重団子は、平べったい4粒のだんごで、こしあんと、生醤油の2種類。

特に、甘さ控えめのこしあんは、キメが細かいのに粉っぽくなくて絶品、二つ食べると丁度よい感じになるとある。

 

子規の日記である「仰臥漫録」にも出て来る有名な芋坂にある文政2年創業の羽二重団子。

現在改装工事中の様です。

店内は、ミニ博物館の感じであった。現在は、改装中だそうで、改装後はどんな店内に様変わりするのか?

店内の一部には画像の様な羽二重団子の歴史を感じさせる物が雑然と置かれていた。

立派な庭園が造作されており、都会とは思えない雰囲気で、店内から庭園を見ると別世界であった。

風格のある和式の庭園があり、庭を眺めながら食べる団子は格別であった。

羽二重団子店の横に画像の説明版が設置してあった。

表題は、正岡子規・泉鏡花と当店

こゝに石橋ありて芋坂團子の店あり。繁昌いつに變わらず。店の内には十人ばかり腰掛けて喰ひ居り、店の外には女二人彳みて團子の出來るを待つ。根岸に琴の鳴らぬ日はありとも、此店に人の待たぬ時はあらじ、戯れに俚歌を作る。
根岸名物芋坂團子賣りきれ申候の笹の雪

明治三十二年十月二日発行新聞「日本」掲載、紀行文「道潅」より

正岡子規

 「團子が貰いたいね。餡のばかり、」と、根岸の芋坂の團子屋の屋臺に立った。・・・・(中略)

眞昼間の幕を衝と落とした、舞臺横手のような、つらりと店つきの長い、廣い平屋が名代の團子屋。

明治四十三一月一日発行 雑誌「女子文壇」掲載、短編小説「松の野」より

泉 鏡花

荒川区教育委員会設置の「芋坂」の説明版もあった。

荒川の史跡・文化財を区民の方、また区民以外の人々にも知ってもらおうと色んな史跡の説明版が設置してある。荒川区以外の23区の教委も由緒ある場所には説明版が設置してある。これは観光に来た旅行者には大変有意義である。

芋坂下には文政二年(1819)に開かれたという藤の木茶屋(今の「羽二重団子」)がある。
 芋坂も団子も月のゆかりかな   子規

荒川区教育委員会

正岡子規も、夏目漱石も、秋山眞之も好んで食べた羽二重団子を私も美味しく食した。

秋山眞之は根岸の子規を見舞いに行った時、朝飯の代わりに団子を食べたとか?・・

 司馬遼太郎の坂の上の雲にも下記のように書かれている。

「坂の上の雲」6巻より
子規の家にその母と妹をたずねるつもりだったのだが、朝食をとって来なかったためにこの茶店に立ち寄ったのである。眞之は粗末な和服に小倉の袴をはき、鳥打帽をかぶっている。一見、神田あたりの夜間塾の教師のようであった。
この茶店は「藤の木茶屋」とよばれて江戸のころからの老舗なのである。団子を売る茶店で、その団子のきめのこまかさから羽二重団子とよばれて往還を通るひとびとから親しまれている。・・とある。

文京区教育員委員会が、文京区本郷四丁目に掲示してある常盤会跡の説明版。

常盤会の初めは、浜町にあった伊予松山藩、久松家の屋敷を寄宿舎として提供したのが始まりで、正式には、明治20年に創設された。本郷の坪内邸を旧伊予松山藩主・久松家が買い取り、建設し松山藩士弟が東京で勉強するための学生寮「常盤会寄宿舎」で、正岡子規など著名人がこの寮から輩出している。

秋山好古も、中将時代の明治43年6月、多忙な身の中、常盤会寄宿舎の監督を務めた。

秋山眞之が、薩摩の郷中教育を参考にして松山中学の同級生と共に明治21年、松山の青少年育英を目的に結成した「松山同郷会」と常盤会を統合して、昭和28年財団法人常盤同郷会が誕生した。

常盤会寄宿舎は「常盤学舎」と改名し、昭和30年に東京都東久留米市に移転して現在に至っている。

平成22年4月1日、愛媛県から公益財団法人移行第1号の認定を頂いた「青少年育英を目的とする団体である。」

公益財団法人常盤同郷会の本部(事務局)は、松山市歩行町二丁目3番地6、秋山兄弟生誕地内にある。

参考までに

旧伊予松山藩主、第16代久松定謨は青少年の教育には非常に理解のある人物であった。

東京都中央区久松町にある、中央区立久松小学校の創建には、「明治六年七月創建ス華族久松定謨ノ献金ヲ資本賭トシテ新築セシカハ其姓ヲ取ツテ校名トセリ」の表記が平成5年に、同校校友会の渡辺会長さんが調査したところ、古い文書に記載されている事を発見、久松伯爵の寄付金を筆頭として学校が設立されたとの事実が明らかになった。この事で、校名は、旧伊予松山藩当主久松家の名をとり、久松小学校と命名した。但し、町名の久松は、久松家とは関係ない。

平成15年5月、愛媛県松山市より久松家第18代当主・久松定成氏ご夫妻をお招きし校友会、松友会共催で久松小学校において「久松家に感謝する会」が開催された。 

  

伊予松山久松家第16代当主久松定謨が多額な建設費を寄付して創建された久松小学校。

校名は、伊予松山久松家からの多額の寄付があり、その姓久松を校名とした。しかし町名の日本橋久松町は、久松家とは関係ない事も判明した。

久松家の屋敷は、明治5年(1872)日本橋浜町に出来た。久松町はその前からあり、久松家とは関係なく誠に紛らわしい事である。

平成15年5月、愛媛県松山市より久松家第18代当主・久松定成氏ご夫妻をお招きし校友会、松友会共催で久松小学校において「久松家に感謝する会」が開催された。 

平成15年5月26日付の愛媛新聞記事。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子規庵・大龍寺・羽二重団子・愚陀仏庵 その2 大龍寺(鎌倉霊園・青山霊園・鷺谷墓地含む)

2018年05月11日 | 伊予松山歴史散策

東京都北区田端四丁目にある眞言律宗の寺「大龍寺」で、正岡子規の墓碑があるので別名子規寺と呼ばれている。画像は、大龍寺山門。

 正岡子規は、慶応3年10月14日、伊予国温泉郡藤原町、現、愛媛県松山市花園町で、伊予松山15万石の藩士、馬廻り役の正岡隼太常尚と八重の長男として出生した。母八重は、松山藩の儒学者大原観山有恒の長女である。

慶応3年と言えば坂本龍馬が11月15日、近江屋事件で襲撃され亡くなった年で、昨年が、正岡子規生誕150年の年であった。

明治23年、帝国大学哲学科、現東京大学に入学、しかし文学に興味を持ち同年24年国文科に編入、この頃から子規と号して俳作に熱中する事になる。

明治25年10月、大学を退学、同年12月叔父の加藤恒忠(拓川)の友人、新聞日本の社主、陸(くが)羯(かつ)南(なん)を頼り新聞日本に入社、記者となり俳句の革新運動を開始する。

明治27年日清戦争が始まり、幼馴染の秋山眞之が御国の為に命を掛けて従軍している様を見て、わが身に出来る事は従軍記者として他になしの思いを抱き羯(かつ)南(なん)に願い出る。

体の弱い子規を案じた新聞日本社長、陸 羯南は猛反対するもそれを押し切り、近衛師団付の従軍記者として清国遼東半島に渡った。

この時子規は、清国に渡る前広島から故郷松山に帰り父の墓参りをしている。そしてこの時詠んだ句が

「春や昔15万石の城下哉」である。もしかして故郷に帰れないかもの思いがあったのか? これが今生の松山の見納めになるのではとの思いでこの句を詠んだのか?

広島から近衛師団付の記者として従軍、その帰路船中で喀血、神戸の須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷したのが、明治28年8月27日で、そして10月17日までの52日間身を寄せた先が、夏目漱石の下宿先である愚陀仏庵であった。

松山から東京に帰るため、漱石から10円を借りその途中、同年10月26日から29日の4日間、奈良に滞在した。この時詠んだ有名な句が「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」である。

そして奈良から東京に帰る途中、この頃から腰に痛みが生じ病魔が始まったのである。

子規庵で病を押しての壮烈な近代俳句活動が始まり子規は、近代俳句の祖と呼ばれる事になる。

愚陀仏庵で夏目漱石と別れて、明治35年9月19日死去するまでの7年間が子規の一番充実した日々であった。

海軍艦隊勤務で多忙の身であった幼馴染の秋山眞之が子規庵に子規を見舞いに行っている。

子規は、幼少時代からの親友である秋山眞之に「淳さん忙しいのによう来てくれた(だんだん)わしは家の外にはよう出れんけんど、床で俳句と頑張るぞな。・・と言った。すると眞之は升(のぼさん)そんな弱音を言ったらいかんぞなと言い返したそうだ。

そしてやがて9月19日がやって来た。

子規は生前、「静かな寺に葬って欲しい」と言っていたとされており、それで大龍寺に埋葬した。秋山眞之は艦隊勤務であったため、子規の葬儀には参列できず、大龍寺に眠る子規を訪ねている。

その眞之も大正7年2月4日、享年49歳の若さで逝去、東京予備門時代の同級生夏目漱石も、大正5年12月9日、享年49歳の若さで世を去った。

秋山眞之の辞世の句に「不生不滅 明けて鴉の 三羽かな」がある。三羽かなは、大きな志を抱き、朝敵とされた伊予松山から帝国大学(東京大学)を目指し共に東京大学予備門に通った清水則遠、正岡子規、秋山眞之の事だと言われている。

清水則遠は、明治19年4月、東京大学予備門時代に脚気がもとで逝去する。墓所は何処にあるのか不明である。

秋山眞之の墓所は、昭和62年まで、兄の好古と共に東京青山霊園にあったが、昭和62年6月、鎌倉霊園に移転する。

夏目漱石の墓碑は、雑司ヶ谷霊園にある。

漱石が子規に送った手紙に書かれた句に「鳴くならば 満月になけ ほととぎす」がる。

註:淳さんとは、秋山眞之の幼少期の名前で、秋山淳五郎、元服して眞之となる。

正式には、秋山淳五郎眞之である。

 だんだんとは、伊予松山の方言で「ありがとう」の意味。

 子規と眞之は、大人になっても「淳(じゅん)さん、升(のぼ)さん」と呼び合った。

 なお、書籍その他の資料には、秋山眞之を「真之」と記載されているが、「眞之」と書くのが本当である。戸籍、秋山兄弟生誕地には、全て「眞之」と記載されている。

 秋山眞之は今年が、生誕150年である。

大龍寺山門の左に正岡子規の墓碑が建立されている。

大龍寺は別名、子規寺と言われるが、それだけ子規の存在の大きさが分かる。

大龍寺本堂裏手に墓地があり、その一角に正岡子規、母八重、妹律の墓碑があり子規碑がある。

正岡子規の墓碑を中心に、右側に母、八重の墓碑、左に正岡家の墓碑があり妹律が眠っている。

正岡家の墓石の左に、平成19年1月、新しい子規碑が建立された。

子規碑は、昭和9年9月、33回忌に子規碑が建立された当時の子規碑を写真で製版して新しい子規碑の右側に掲示されている。

大龍寺の案内板で、徳川家との関係は説明されてない。

大龍寺の本殿でご本尊は大日如来。

大龍寺の本殿の扉には徳川家の三つ葉葵の家紋が配されている。

本殿の軒瓦にも徳川家の三つ葉葵の家紋が配されている。

大龍寺と徳川家とはどんな関係があるのでしょうか?、東京都北区観光課と北区図書館参考業務係に照会した。

大龍寺と徳川家に付いて、東京都北区観光課に照会しましたところ、地域振興部産業振興課から下記の回答がありました。

回答文、「慶長年間(1596~1615)の創建。もと新義真言宗に属し、不動院浄仙寺と称したが、天明年間(1781~89)光顕律師が中興して霊雲寺派に帰属せしめ、そのとき大龍寺と改称した。

本山霊雲寺は、元禄4年(1691)柳沢吉保を通じ、5代将軍綱吉の命により国家安寧・将軍家の武運長久の祈願寺として創建された。」・・でした。

5月12日、北区立中央図書館長名で照会に付いて回答がありました。

結果は、いろんな資料で検索しても確実なところは不明とありました。

『北区史 民俗編2』では少し詳しく触れられており、江戸時代の五代将軍徳川綱吉の命によって創建された将軍家の祈願寺で、関八州の真言律宗の総本山です。こうしたことを考えると、この霊雲寺が関係しているのかも知れませんが、確実なところはわかりません。
ただ、昭和28年(1953)に撮影された大龍寺の本堂の写真を見ますと、現在あるような三つ葉葵の紋は確認できません。と北区図書館からの回答でした。

鎌倉霊園にある秋山眞之の墓碑で、昭和62年6月、東京青山霊園から鎌倉霊園に移した。

秋山眞之が尊敬する兄、好古は生前、簡単明瞭質素倹約が信条で、家は要らぬ、仰々しい墓は建陸軍大将従二位勲一等功二級 秋山好古と言った仰々しい墓碑を建立するなと言い残したのだろう。

弟、眞之も秋山家の墓碑を建立し家族と一緒に眠っている。

墓碑の裏面に墓誌として氏名と没年が揮毫されていが、生前の功績など一切書かれていない。

墓碑の正面だけでは、海軍中将、従四位勲二等功三級、秋山眞之の墓とは分からない。

神奈川県鎌倉市十二所にある鎌倉霊園で、画像の様に広大な霊園なので、目指す墓を訪ねるには前もって番号を調べて訪れないと探すのは大変である。

昭和62年6月まで青山霊園にあった秋山眞之と妻季子の墓碑。

画像は、秋山兄弟生誕地所蔵。

雑司ヶ谷霊園にある夏目漱石の墓碑で、形は安楽椅子を模った墓碑となっている。

清水則遠、正岡子規、秋山眞之の3名が大きな志を抱き目指した帝国大学(東京大学)の赤門。

赤門は、文政10年(1827)加賀藩第13代藩主前田斉泰に嫁いだ第11代将軍徳川家斉の息女溶姫のために建てられた朱塗りの御守殿門で、門は、薬医門形式で、切妻造本瓦葺、昭和45年国指定の重要文化財に指定されている。

東京大学の通称「赤門」。

赤門を潜ると正面に安田講堂記念館が見えて来る。

東大は、いま東京大学中央食堂にあった有名人の絵画の廃棄処分で騒がれている。

東大キャンパス内にある「三四郎池」。

夏目漱石の名作三四郎は、ここを舞台としたため、三四郎池と呼ばれるようになった。

三四郎池の説明版。

ここからは参考までに、

画像の石碑・墓碑は、昭和7年、秋山好古没後3回忌に鷺谷墓地に有志が建立した。

秋山好古の墓碑は、東京都港区の青山霊園にあるが、松山市祝谷東町にある松山市営鷺谷墓地にもある。この墓地には秋山家の祖先の墓地があり、好古、眞之の両親の墓碑もある。

秋山好古は、簡単明瞭質素倹約を信条に、母の教えである「大人になったら世の為、人の為、故郷の為に尽くせる人となるように」と教えられて育った。

最後の仕事が残っていた。

それは、朝敵となった故郷伊予松山から有能な人物を育てて、御国のため郷里のために尽くせる事が出来る人づくりであった。秋山好古の最後の御奉公は、北豫中学校の校長としての教育者であった。

大阪師範学校を卒業、名古屋師範学校付属小学校の教員となったが、故郷の先輩、和久正辰教務官の強い勧めで明治10年、陸軍士官学校に入学、後に陸軍大学校第1期生として卒業、日本の騎兵隊を創設、陸軍の組織に身を置き大将まで上り詰め、大正12年、元帥に推薦されるもこれを辞退する。

この事に驚かれた大元帥(大正天皇)は特旨として、官位従二位を与え、此れは辞退するなよと言われたとある。

大正13年4月、故郷伊予松山から北豫中学校の校長にと強く要請され、妻子を東京に残して単身で松山の実家に6年間一日も休まず登校し、生徒を見守る姿は街中に知れ渡り、何時も正確な時間に教師よりも早く登校した。そして教師たちにも無言の教訓を与えた。

昭和5年11月4日、陸軍軍医学校病院にて逝去享年72歳であった。

秋山好古の絶筆となった書が千葉県船橋市薬円台三丁目、陸上自衛隊習志野駐屯地構内に「軍馬慰霊之碑」と揮毫された大きな記念碑がある。

好古は、昭和5年3月に北豫中学校長を辞任し、7月に東京に帰る途中大阪の新田長次郎氏を訪問している。東京に帰ると体調を崩し、同年10月15日、陸軍軍医学校病院に入院、昭和5年11月4日、陸軍軍医学校病院にて逝去享年72歳であった。

絶筆となった書「軍馬慰霊之碑」は、入院直前の昭和5年10月5日の筆で絶筆となった。

鷺谷墓地に建立された「永仰遺光(えいごういこう)」の石碑は、昭和7年、秋山好古没後3回忌に松山在郷有志達が設立したもので、その時、東京の秋山宗家の了承を得て青山霊園から分骨して墓碑も建立した。

墓所は、地元の人によって何時もきれいに清掃がされている。

註:永仰遺光(えいごういこう)の石碑は、秋山好古を永遠に敬意と尊敬の念を示し、その功績を未来に伝えたいとの思いで建立した。

秋山好古の絶筆となった書が千葉県船橋市薬円台三丁目、陸上自衛隊習志野駐屯地構内に「軍馬慰霊之碑」と揮毫された大きな記念碑がある。

好古は、昭和5年3月に北豫中学校長を辞任し、7月に東京に帰る途中大阪の新田長次郎氏を訪問している。東京に帰ると体調を崩し、同年10月15日、陸軍軍医学校病院に入院、同年11月4日、陸軍軍医学校病院にて逝去享年72歳であった。

「軍馬慰霊之碑」は、入院直前の昭和5年10月5日の筆で絶筆となった。

「軍馬慰霊之碑」の建立は、昭和5年11月で好古が逝去以降に除幕された。

昭和11年、秋山好古大将伝記刊行会、代表者、櫻井眞清から「秋山好古」が発行された。その背文字「秋山好古」は、昭和5年10月5日揮毫した軍馬慰霊之碑の肩書の秋山好古を使ったものである。

 

東京都港区の青山霊園にある秋山家宗家の墓所で、医学博士、男爵北里柴三郎の直ぐ西隣にある。

秋山好古は、秋山宗家第8代目で、第7代目までは青山霊園にあり、第6代目から以前の墓碑は松山市の鷺谷墓地にある。

青山霊園にある秋山宗家の墓所にある墓誌。

偉人の墓碑には、墓誌としてその経歴が書かれているが、好古の経歴など一切書かれていない。

只、氏名と逝去された年月日のみである。そして墓碑は小さく墓碑銘は、秋山家とだけ揮毫されている。

好古は生前、家は要らぬ、墓は作るな、銅像も記念になる石碑も作るなと言って逝去した。家は、大将になっても借家住まいであった。

秋山兄弟生誕地にある騎馬像・石碑も、昭和12年に、そろそろ建立しても好古さんは許してくれるだろうとの勝手な考えで井上要氏が中心になって建立したものである。

当時の騎馬像は、湯築城跡(現道後公園)にあったが、大東亜戦争時の金属供出により潰された。

秋山兄弟生誕地にある騎馬像は、平成17年1月18日、復元した銅像である。

昭和62年6月秋山宗家第10代秋山哲兒氏は、墓碑を新しく改装され、その時名刺受を作られた。

画像は、伊予松山15万石の城下町の夜景で、現在は、人口51万4千人の城下町おして発展した。

明治27年日清戦争が始まり、幼馴染の秋山眞之が御国の為に命を掛けて従軍している様を見て、わが身に出来る事は記者として他になしの思いで事を起こすが、体の弱い子規を案じた新聞日本社長、陸 羯南は猛反対するもそれを押し切り、近衛師団付の従軍記者として清国遼東半島に渡った。

この時子規は、清国に渡る前広島から故郷松山に帰り父の墓参りをしている。そしてこの時詠んだ句が

「春や昔15万石の城下哉」である。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

子規庵・太龍寺・羽二重団子・愚陀仏庵 その1 子規庵

2018年05月03日 | 伊予松山歴史散策

これは松山市末広町にある子規堂の入り口にある子規旅立ちの像である。

旅立ちの同じ銅像が、幼少期学んだ勝山学校(現、松山市立番町小学校・昭和61年、番町小学校創立百周年に建立)正門に建立されている。

子規堂の入り口にある旅立ちの像で、明治16年松山中学を中退して、親友の秋山眞之、清水則遠と共に東京へ旅立ちする。子規が松山を発ち東京に向ったのは明治16年6月の事で、この時子規は17歳、この像はその旅立ちの日の朝に、草鞋を結ぶ子規の姿とされている。この像の元になった写真があり、後年箱根を旅した時の姿をモデルにしている。

幼少期学んだ勝山学校(現、松山市立番町小学校・昭和61年、番町小学校創立百周年に建立)。

親友の秋山眞之、清水則遠と共に学び舎、松山市立番町小学校正門に建立されている旅立ちの像。

 

画像は、子規記念博物館にある正岡子規の旅支度で、当時は画像の様な出で立ちで旅をし、吟行したのでしょう。

 昨年、正岡子規生誕150年記念であり、子規縁の地でいろんな行事が行われた。

東京根岸の子規庵でも記念行事が開催されたのではないでしょうか。

子規は、明治27年2月から明治35年9月19日病で没するまで8年間根岸で居住、故郷松山から母と妹を呼び寄せ、病室兼書斎と句会歌会の場として友人や門弟らとともに俳句や短歌の革新に邁進したとある。

夏目漱石も句会に参加し、秋山眞之は病床の子規を見舞に行っている。

此れから掲載する画像は、平成18年10月4日、世田谷区池尻四丁目にある秋山好古揮毫石碑調査に行った時伺ったもので、太龍寺にある子規のお墓参りもし、子規が良く通った羽二重団子の店にも伺ったその回顧である。

子規庵内部の写真撮影は禁止されていましたが、特別に庭は許可を得て撮らせて頂いた。

病床の子規のため、寒くなると障子戸を閉めると、床に臥せっている子規は外の景色が見えなくなる。そこで高浜虚子は、外の風景が見えるようにと雪見障子にしたと言われている。一説には、雪見障子は虚子が考案したと言われている。

子規は、亡くなる前日の9月18日、絶筆三句を詠んだ。

 糸瓜咲て 痰のつまりし 佛かな
 痰一斗 糸瓜の水も 間に合はず
 をとゝひの へちまの水も 取らざりき

伊予松山から「末は博士か大臣か」を目指して、秋山眞之、清水則遠、正岡子規達の三人は東京大学を目指して上京、清水則遠は東京大学入学目前にして脚気を患い病死する。

秋山眞之は、大正7年2月4日、山県有朋に面談のため小田原に滞在中盲腸を患い、悪化して腹膜炎を併発し、山下汽船の創業者、山下亀三郎氏の別邸で死去享年49歳。死去直前に詠んだ句がある。

「不生不滅明けて鴉の三羽かな」

句の三羽かなは、大きな志を抱き、朝敵とされた伊予松山から東京大学を目指し共に東京大学予備門に通った清水則遠、正岡子規、秋山眞之の事だと言われている。東京大学予備門時代の同級生に、夏目漱石がいた。

漱石は、明治28年4月、松山中学の英語教師として赴任、給料は校長よりも高い80円だったそうだ。そして下宿先を「愚陀仏庵」と称し、毎日坊ちゃん列車で道後温泉入浴に通った。

子規は、明治28年8月27日、松山に帰省した時に居候として愚陀仏庵で10月17日までの52日間身を寄せた。漱石から10円を借りて東京に帰る途中、同年10月26日から29日の4日間奈良に滞在した。この時詠んだ有名な句が「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」である。そして奈良から東京に帰る途中この頃から腰の病が始まったのである。

これからの画像は、平成18年10月4日に撮影した子規庵の外観と庭の写真で、室内は撮影禁止でしたのでありません。

子規は明治26年3月東京大学を退学し、同年11月に母八重と妹律を東京に呼び寄せ、12月には日本新聞に入社、家族3人の生活は、社長である陸(くが)羯南(かつなん)宅の西隣で生活を始める。その後明治27年2月陸羯南宅の東隣に越したのが子規庵である。

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲の」で子規の名演技をされた香川照之さんを思い浮かべます。

子規は、明治27年2月から明治35年9月19日病で没するまで8年間根岸で居住、故郷松山から母と妹を呼び寄せ、病室兼書斎と句会歌会の場として友人や門弟らとともに俳句や短歌の革新に邁進したとある。夏目漱石も句会に参加し、秋山眞之は病床の子規を見舞に行っている。

子規亡き後は、門弟寒川鼠骨が庵を守りつづけた。

註:寒川鼠骨は、明治8年11月3日、旧伊予松山藩士寒川朝(とも)陽(あき)の三男、第三高等学校(現京都大学)中隊。大阪朝日新聞入社、子規の勧めで新聞「日本」に入社。子規の高弟として子規庵保存に生涯を捧げた。昭和29年8月18日、子規庵で永眠享年78歳。

昭和20年4月14日、東京大空襲戦災により家屋は焼失したが、昭和25年寒川鼠骨らにより旧規の通り復元され現在に至っている。史跡に指定されている土地の面積は約123坪である。

子規は、明治19年から明治23年頃まで野球に熱中する。故郷伊予松山に帰郷すると子供たちを集めて野球を指導した。場所は、歩兵第22連隊城北練兵場(北豫中学・現、愛媛県立松山北高校の近く)の片隅で行った。そんな関係で松山は野球が盛んになった。東京上野恩賜公園に正岡子規記念球場があるが、故郷伊予松山にも国際規格の野球場がある。

平成14年7月13日、四国で初めてのプロ野球オールスター戦が、松山市の坊っちゃんスタジアムで開催された。

第2戦、5回終了後に特別な行事が行われた。

正岡子規の野球殿堂入りの式典である。試合開始前なら理解できるが、試合途中である。子規はそれだけ大きな功績を果たした結果の証であった。

この年は、松山城築城400年・正岡子規没後100年・四国で初めてのプロ野球オールスター戦、色んな特別な行事が行われた年での殿堂入りであった。

子規は、明治29年に新聞「日本」に連載された随筆の中では野球のルール、用具、方法などについて詳しく解説している。子規の訳した野球用語で今日なお残る訳語には「打者」「走者」「死球」などがあり、日本の野球の創世記に、彼が与えた影響は大きくこの事等々が考慮しての殿堂入りといえるでしょう。

東京都指定史跡 子規庵

所在地 台東区根岸二丁目5番11号

指 定 昭和三十五年四月一日

東京都教育委員会    文化財を大切に

平成十二年三月 設置

子規は、亡くなる前日の9月18日、絶筆三句を詠んだ。

 糸瓜咲て 痰のつまりし 佛かな
 痰一斗 糸瓜の水も 間に合はず
 をとゝひの へちまの水も 取らざりき

そして静かに息を引き取った。享年34歳。

昭和25年、子規の高弟である寒川鼠骨らにより旧規の通り復元された子規庵の庭。

 

子規文庫(土蔵)の説明版。子規文庫も寒川鼠骨を中心にして出来たものである。

説明版に記載されている土蔵。

これからの画像は伊予松山の画像である。

平成27年3月20日、松山市道後温泉駅前にある放生園に「当時の野球ユニホーム」姿の青年正岡子規の銅像が建立された。

建立したのは、松山中央ライオンズクラブが結成50周年記念として建立し、松山市に寄贈した。

正岡子規の野球姿像は、高さ3mで、子規が22歳、明治23年春の写真を元に再現、右手にバット、左手にボールを握り腰かけている。

銅像の左には、「まり投げて 見たき広場や 春の草」の俳句を掲示してある。明治23年春に詠んだ句。

愚陀仏庵で、松山市二番町三丁目7番地に現存したが、昭和20年7月26日、松山大空襲戦災で焼失し、昭和57年9月、松山城南面山麓にある萬翠荘裏手に移転復元された。画像はその時の愚陀仏庵である。

平成22年7月12日、豪雨により松山城南面山腹の土砂崩れが発生し愚陀仏庵は倒壊した。

子規は、漱石の下宿先であった愚陀仏庵で、明治28年8月27日から10月17日までの52日間身を寄せ居候したところである。

明治28年4月松山中学の英語教師として赴任した漱石は、校長よりも高い給料を貰い、坊ちゃん列車で毎日道後温泉入浴に通った。画像は復元された坊ちゃん列車で、伊予鉄道が観光列車として運行している。

夏目漱石曰く、伊予松山は何もいいものはないが、道後温泉だけは素晴らしいと褒めている。

浴槽で泳いだ漱石に対して、「坊ちゃん泳ぐべからず」の木札が掲示された。

浴室に掲示された「坊ちゃん泳ぐべからず」で現在も掲示されている。

道後温泉本館3階にある漱石が使った部屋、現在は「漱石の部屋」として入浴客に開放されている。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする